MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1039 サヨナラだけが人生だ

2018年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム



 時間つぶしに立ち寄った新橋駅の書店の店頭で、平積みにされていた伊集院静氏の近著「いろいろあった人へ」(講談社)を何気に手に取りました。

 伊集院氏と言えば、1985年に27歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった女優の夏目雅子さんの夫(その後、女優の篠ひろ子さんと再々婚)で、数多くのヒット曲の作詞も手掛けた直木賞作家として知られています。

 そうしたことからも、彼のこれまでの人生には(この本のタイトルのとおり)たぶん「いろいろ」な事があって、そうした大人の(ある意味)切ない事情の積み重ねが、優れた文芸作品を世に出してきた土壌となっていることは容易に想像できます。

 言葉にしにくい「いろいろな」こと。誰の心の中にも、そっとしまい込まれているそうした諸々の痛みがあって、時々それが(変な形で)顔を出しそうになるのを「ぐっと」こらえながら、またある時はそれを糧として人は生きているのでしょう。

 大人になるというのは、概してそういくことなのかもしれません。客観的に見ればそこに大きい小さいはあるのでしょうが、人が傷つくのにはその人なりの「理由」というものがあって、それはその人にしか(もしかしたらその人にも)分かりません。

 様々な矛盾ややるせなさを飲み込みながら、大人たちは普通な顔をして満員電車に揺られたり、子供を学校に送り出したり、病人の世話をしたりしているということでしょう。

 伊集院氏はこの著書の中で、特に「別れ」というものについて、章を割いて記しています。

 思えば人生の「いろいろ」と、「別れ」は切っても切れない関係にあると言えるでしょう。通じあっていた人と気持ちが離れたり、様々な制約から会うことが叶わなくなったり、死が二人の関係を割いたりすることもあるかもしれません。

 そこに生まれた切なさが、失意や絶望、諦念や(さらには)自暴自棄などへ人を駆り立てるのでしょうが、時間の力を借りてこれを乗り越えることが人を強くし、また別れた人への「贐」(はなむけ)や亡くなった人への「レクイエム」(鎮魂歌)となるのもまた事実のようです。

 さて、伊集院氏のこの著書の中で、昭和を代表する作家のひとりである井伏鱒二の手による、「厄除け詩集」と題する漢詩の訳詩書について触れられています。

 晩唐の詩人、于武陵(810年 - ?)に「勧酒」(酒を勧む)と題する五言絶句があるそうです。

  勸君金屈卮(君に勧む金屈卮)
  滿酌不須辭(満酌辞するを須(もち)いず)
  花發多風雨(花発(ひら)けば風雨多し)
  人生足別離(人生 別離足る)

 井伏はこれをこう訳しました。

  コノサカズキヲ 受ケテオクレ
  ドウゾナミナミト ツガシテオクレ
  ハナニアラシノ タトエモアルサ
  サヨナラダケガ 人生ダ

 今も日本人の心をとらえて離さない無頼の作家太宰治は、酔うといつもこの井伏の手になる訳詩を口ずさんでいたとされています。

 見事というほかしかない。花に嵐はつきもので、前途ある若者に哀切な「別れ」が訪れるのは(悲しいかな)必ずある人生の条理だと、この著書で伊集院氏は指摘しています。

 取り残された方はたまらない。残酷な現実ではあるが、それでも「サヨナラ」だけが人生なのは今も昔も変わらないまぎれもない真実だというのが、(いろいろあった)伊集院氏の得心するところです。

 ハードボイルドの格好悪さや格好良さは、恐らくそうした無常観の中にこそ息衝いているものなのかもしれません。

 「まあ飲んでくれ、去り行く君に手向ける一杯の酒。」

 思えば、春の日差しに一気にほころんだ今年の桜も、先日の風雨であっという間に散り去ってしまいました。

 また来年も花は咲く(だろう)けれど、君は恐らく戻ってこない。だからこそ今宵は心ゆくまで飲み明かそうという(あくまで)「さらり」とした心持こそ、辛い別れに相対するための時代を超えた叡知であることを、私も伊集院氏の指摘から改めて感じ取ったところです。




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