MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2344 古いものを切り捨てられない国

2023年01月20日 | 社会・経済

  お天気もよく風も穏やかで、過ごしやすいお正月となった今年の三が日。私自身は決して信心深い方ではないのですが、(今年は珍しく)都内のあちらこちらに「初詣」に出かけることになりました。新型コロナの心配もあり、明治神宮や浅草寺近辺などは混みあうだろうということで、早稲田の穴八幡宮や白金の清正公様、多摩の御嶽山など、(友人に誘われるままに)結構マニアックなところにも足を運んだ次第です。

 そうした中、恥ずかしながらこの歳になって改めて気づいたのは、(この日本には)神社かお寺かがよくわからない場所があるということ。中を覗いてみて、この場所では手を叩いて神様にお願いしたらよいのか、仏様として合掌したらよいのかを(お賽銭箱の前に来て)戸惑ったりしている自分に笑ってしまいました。

 「神仏習合」というのでしょうか。朝鮮半島から伝来した仏教が日本で広がる過程でもともと存在した神道と融合し、神と仏が同一視されたとのこと。明治維新後に「神仏分離」が行われる以前は、お宮もお寺も混然一体としていたという話は学校の授業などで聞いてはいましたが、現在でもはっきり分かれているところばかりではない。中を覗いてもよくわからないので、周りの人の様子を見て(同じように振舞って)事なきを得た次第です。

 そうはいっても宗教なのですから、教義だとかドグマだとかもう少しこだわりがあってもよさそうなもの。こうして「神様、仏様」と一緒くたに語られてしまう状況に、やっぱり日本はゆるゆるだなと感じていた折、1月11日の「Newsweek日本版」にジャーナリストの冷泉彰彦(れいじ・あきひこ)氏が「新旧交替ではなく追加で成長してきた日本社会」と題する論考を掲載しているのを見かけたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 冷泉氏によれば、戦後を代表する知識人加藤周一氏は主著『日本文学史序説』の中で、日本文学の歴史は「新旧が交替するのではなく、新が旧に付け加えられる」という特徴があると指摘したということです。例えば、8世紀に生まれた短歌は、17世紀に俳句、19世紀には自由詩が登場しても消滅せず、今でもこの3つが併存している。文学だけでなく、能狂言に歌舞伎が加わり、明治以降は新劇や大衆演劇が生まれても、その全てが残っているということです。

 加藤氏は、「日本社会に極端な保守性(天皇制、神道の儀式、美的趣味、仲間意識など)」と「極端な新しもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の創造など)」が共存している背景に、「旧体系と新体系が激しく対立して一方が敗れる」のではなく、「旧に新を加える」ことで社会を変化させてきた伝統があることを挙げている。21世紀の現在でも同じ傾向は続いており、このように「古いものを廃止して、新しいものが取って代わる」のではなく、「古いものに新しいものを足す」という方法論は、文化や芸術だけでなく社会一般にも多く見られるというのが、冷泉氏の指摘するところです。

 例えば現在の大学入試では、多くの大学が推薦入試や帰国子女入試などが設けられ、一芸に秀でた人物を合格させるためのAO入試も拡大されている。しかしその一方で、昔ながらのペーパーでの一発勝負も廃止はされていないと氏は言います。電子化が進む預貯金でも、スマホ決済や法人向けのフィンテックが主流になってきているが、依然として通帳取引や印鑑は残っている。多くの小売店やレストランなどが完全なキャッシュレス店舗を目指していても、現金支払いや、対面でのサービスを希望する消費者がいる中で、なかなか進まないのが現実だということです。

 高齢者に人口が偏っているという問題もあるが、そもそも日本社会には「新旧が対決して一方が敗退する」という変革様式は少なく、「古いものに新しいものを足す」ということで社会を前に進めてきた歴史があると冷泉氏は話しています。それでは、もしも日本の社会にそのような「伝統」が根強いのであれば、結果、どのようなことが言えるのか。そのひとつに、社会の変革期において古い方法論を否定したり、破壊する」したりせず、(つまり)保守的な制度はそのままに「新しい方法論を付け加えればいい」という発想が生まれる可能性があると冷泉氏はしています。

 例えば、ジョブ型雇用を進めるのに必ずしもメンバーシップ型を否定する必要はなく、旧式の人事制度で低生産性にあえぐ伝統企業を横目に、「しれっと」ジョブ型を成功させる事例なども増えるかもしれない。ブラック校則や部活にしても、(保守的な制度と戦うのではなく)全く新しい考え方で作られた教育機関がどんどん実績を伸ばして、気がついたら自由で開放的な学校が多くの生徒を集めていたというような流れで改革が進む可能性もあるということです。

 しかし、そこで注意しなくてはならないことに、「古い制度を残して、新しい制度を加える」という方法は、余りに非効率でコストがかかることがあると氏は指摘しています。日本社会には「どうしても旧に新を加える」クセがあり、放っておくとどんどん生産性が落ちていく。いかに(守旧的な)反対勢力が強くても、時にはあえて旧式をバッサリ捨てるのが「最適解」となる場合もあるということです。

 例えば、多くの企業や官庁で行われている紙とハンコを使った「事務作業」などは、バッサリ捨てる英断が必要だろうと氏は話しています。仮にこの後、円高の時期が来るとしたら、特に多国籍企業の場合、日本本社の事務部門の生産性は厳しく問われることになる。その辺りが、一気に環境を変えるタイミングになるのでないかというのが氏の予想するところです。

 いずれにしても、放っておくと「旧きを改める」のではなく「旧に新を加えて」しまうという日本文化の伝統については(もう少し)自覚的であるべきだというのが、この問題に対する氏の見解です。

 神社でも寺院でも(またその両方でも)、年の初めに幸せで平和な1年を願う気持ちは変わらりません。しかし、(同じ平和を願うにしても)例えば人権や民主主義、平和と安全保障の問題などは、「曖昧」「なあなあ」で済まされない場合も多いことを、私たちは心しておく必要があるということでしょう。

 



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