MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2345 「子どもに夢を語らせてはいけない」という話

2023年01月21日 | 教育

 今年は1月9日が「成人の日」。1999年までは1月15日に固定されていましたが、ハッピーマンデー制度により、以降1月の第2月曜日が充てられることとされています。

 「国民の祝日に関する法律」によれば、この日は「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としているとのこと。各市町村では新成人を招いて成人式が行われるため、(昭和20年代以降のことではありますが)お正月の風物詩としても知られてきました。

 一方、民法(および関連法)の改正により2022年4月1日から成人対象者が18歳に変更されたことで、今年は成人式の取扱いに悩んだ自治体も多かったようです。結果、18歳は高校3年生が中心で、就職や進学に忙しい対象者が多いことから、例年通り対象を20歳とし、「20歳の集い」として開催する自治体が殆どだったと報じられています。

 こうして、「成人」の定義が曖昧になる中、全国の中学校では、刑法の対象となる14歳を迎える2年生を対象に、日本で古くから行われていた「元服」にあたる「立志式」と呼ばれる行事を行う例が増えているという話を聞きました。

 聞けばこれは、一人の人として『志』を立て、人生の指針と強い意志を表明し、前向きに自己の将来を設計する力を培うための式典とのこと。栃木県、愛媛県、宮崎県、熊本県、石川県ではほとんどの中学校で開催され、東京都でも一部の中学校で実施。愛媛県や熊本県では「自覚・立志・健康」を深く考える日として、40年以上前から学校の重要な年間行事として実施されているということです。

 多くの中学校では、父母などの保護者に加え自治体の長や議員、地域の人たちなども参加し、生徒たちが親への感謝や自らの夢や希望を語る場を設けているとのこと。それはそれで節目となることなのでしょうが、生意気盛りの生徒たちにとっては多少「鬱陶しいな…」と感じるイベントなのではないかと思わないでもありません。

 そんなことを感じていた折、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年暮れ(12月29日)の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に『子どもに夢を語らせてはいけない』と題する一文を掲載しているのを見かけたので、参考までにその一部概要を残しておきたいと思います。

 人は何のために学ぶのか。勉強するのは自我を強化するためではなく、(逆に)自己解体・自己刷新のために勉強するのだと、内田氏はこの論考に綴っています。

 自分が知っていることを人に誇示することには全く意味がない。なぜかと言えば、それは自分がもう知っていることだから。そんなことをしても自分の成長には1ミリも資するところがないと氏は言います。

 そんな暇があったら、自分が知らないことについてもっと勉強して、自分を壊してゆきたい。自分を固めてしまったら、新しいことを学べなくなる。絶えず変化し、より複雑なものになってゆくというのは生物の本質だというのが氏の認識です。

 今の教育現場では、もう中等教育から自分のキャリアについて精密な「キャリアプラン」を子どもに作らせたりしている。将来どういうところに進学して、どういう資格を取って、どういうところに就職して・・・そんなことについての具体的な見通しを、できるだけ早い段階で決定させようとしているということです。

 しかし、「僕は(おとなが)そんなことをさせてはいけないと思う」と氏はこの論考に記しています。それは、中学生の子どもが知っている職業なんて本当にごくわずかのものだから。実際、世の中には子どもたちがその名前も知らないような無数の職業が存在していて、そして、かなり高い確率で、今の子どもたちがその名も知らない職業にいずれ就くことになるということです。

 アメリカの研究によると、今年小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業後には「今はまだ存在しない職業」に就くとのこと。今の子どもがなりたい職業の第1位は「ユーチューバー」とされているが、20年前にはそんな職業自体が存在しなかったのがよい例だというのが氏の感覚です。

 なので、子どもたちに「将来、何になりたいの?」というようなことをうかつに訊くものではないと氏は話しています。子どもに将来の夢をうっかり語らせてはいけない。あまり深い考えなしに「将来〇〇になりたい」というようなことを一度でも口にしてしまうと、それが子どもの呪縛となって、それ以外の可能性を視野から遠ざけてしまう可能性があるということです。

 それよりも、子どもたちにはできるだけ開放的な未来を保証してあげることの方が、ずっと大切ではないかと氏はしています。今の子どもたちが将来どんな仕事に就くことになるかなんて、誰にもわからない。だから、「しっかりした将来設計」なんか左折必要がないというのが氏の見解です。

 人が仕事に就くときは、だいたいは向こうから声がかかるもの。「ねえ、ちょっと手を貸してよ」と言われて、つい「いいよ」と返事をして、気がついたらその道の専門家になっていたということは、実際によくあることだと氏は言います。

 別にその仕事が「将来の夢」だったわけでもないし、自分にその適性や能力があるとは思ってもいなかった。でも、他にやる人もいないみたいだから、じゃあ自分がやるかというふうにして人は「天職」に出会うことが多いということです。

 自分が面白いと感じる方に進んでいって、気づいたら(そういうものに)なっていた。可能性は、そうした「想定」を超えた(ある意味「運命」のような)出会いの中にあるということでしょうか。

 自身が自ら『志』を建てることは、確かに人生のどこかで必要かもしれないけれど、子どもの限られた経験と視野から見える将来、景色はあくまで限定的なもの。(余計なお節介はせず)そこに囚われることのないよう見守るのも大人の大切な仕事なのではないかと考える氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



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