埼玉県熊谷市で2015年、男女6人を殺害したとして強盗殺人などの罪に問われ、一審さいたま地裁の裁判員裁判で死刑判決を言い渡されたペルー人、ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン被告(33)の控訴審初公判が6月10日に東京高裁で開かれたとの報道がありました。
公判においてにおいて弁護側は、「被告は事件当時、心神喪失状態だった」と改めて無罪を主張。一方の検察側は(当然ですが)控訴棄却を求めています。
当日は弁護側の依頼で精神鑑定をした医師が出廷し、「(何かを命令されるような)幻聴を聞いていてもおかしくない」と述べ、「被告が事件前から統合失調症を発症していたのは間違いない」と一審同様に証言したと報じられています。
今後、裁判はもっぱら被告人の犯行当時の責任能力の有無を争点として進められる様相を呈していますが、6人もの人々を無差別に殺害したこと自体には争いがないこの裁判において、被告が免責されるべきとする理由は一体どこにあるのでしょうか。
改めて指摘するまでもありませんが、刑法の39条1項に「心神喪失者の行為は、罰しない」との規定があり、第2項は「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」としています。
「心神喪失」とは、精神の障害によって善悪の判断をする能力またはその判断にしたがって行動をする能力が失われている(喪失)状態を指し、この場合は刑を免れる。また、「心神耗弱(こうじゃく)」とはそうした能力が著しく障害されている状態をいい、減刑の対象になることを規定したものです。
被害者や被害者遺族の心情を思えば、こうした規定に違和感を覚える方も多いかもしれません。しかし、「結果責任」からの脱却を図っている近代刑法では、たとえ刑罰法令に触れる行為があっても(やむを得ない)一定の事由があれば責任を問わないという「責任主義」のもとで処罰体系が構成されているということです。
もっとも、事物の是非・善悪を弁別しかつそれに従って行動する能力のない者に対しては、その行為を非難することに意味がなく刑罰を科す意味に欠けるとする考え方については、奈良時代に定められた「養老律令」(718年)にまで遡るとの指摘もあります。
同律令では人々の身体や精神の障碍を軽い順から「残疾」、「癈疾」、「篤疾」の三段階に分け、「獄令 三九 年八十。十歳。及癈疾。懐孕。侏儒之類。雖犯死罪。亦散禁。」(獄令三九 80歳以上、10歳以下、癈疾の者、懐妊中の者、侏儒は死罪に当たる罪を犯しても拘禁されない)など、それぞれの状態に応じて税負担軽減や減刑処置が定められていたということです。
さて、(話は現行法に戻って)刑法上の責任能力の有無や程度の認定に際して裁判所が考慮する事項には、概ね次のようなものがあるということです。
(1) 動機が了解できるものか。
(2) 犯行は計画的なものか、あるいは突発的、偶発的、衝動的なものか。
(3) 本人が行為の意味や性質、反道徳性、違法性を認識していたか。
(4) 本人が精神障害によって免責される可能性を認識していたか。
(5) 元来ないし平素の人格と比較して犯行は異質なものか。
(6) 犯行に一貫性があったり、何らかの目的に合致しているか。
(7) 犯行後に自己防御や危険回避的な行動をとっているか。
これらは絶対的な基準ではなくあくまで「視点」にすぎませんが、検察や裁判所、鑑定医も、基本的にはこのようないくつかの視点に立って責任能力の状況を検討していると考えられています。
次に、刑事事件の加害者が裁判において心神喪失または心神耗弱と判断されたり、検察が状況を考慮して不起訴とした場合などの取り扱いについてです。
この場合、「心神喪失者等医療観察法」に基づいて検察官が裁判所に申立てをし最長3か月間の鑑定入院期間を経た後、裁判官と精神保健審判員(精神科医)の各1名からなる合議体で審判が行われ、「入院」や「通院」といった具体的な措置が決められることになります。
この審判において「入院」と決定された場合は、病状の改善のため、国公立の指定入院医療機関でおおむね18か月間ほど専門的な医療を受けることになります。裁判所の決定により継続されることも多く、(厚労省の資料によると)平均の入院処遇期間は951日だということです。
これは言い換えれば、殺人などの重大犯罪を起こした場合であっても、2年から3年程度の入院処遇期間を病院で過ごしたのち、社会に「復帰」している加害者が多いことを意味しています。
人権上の配慮からなどあまり注目されることはありませんが、被害者などに情報が伝えられないまま加害者が(保護観察からも外れ)、こうして日常の社会生活を送っている状況について疑問を投げかける向きもあるようです。
なお、このような事件の場合の遺族や被害者に対する民事上の損害や慰謝の措置に関しては、民法の規定の原則論により被告人が賠償責任を負う必要はないとされています。勿論、家族など被告人を監督する法定の義務を負う者が代わって賠償する必要が生じる場合もありますが、その義務の範囲はどうしても限定されるため免責される場合が多いようです。
遠い昭和の時代、分別のない人間や偶然の結果によって不利益を被った相手に対し、(早く忘れることが一番だという意味で)「犬にかまれたと思って諦めろ」というような言い回しをする人がしばしばいましたが、こうした事件の被害者にとっては「泣き寝入り」という言葉も決して過去のものではないのかもしれません。
相模原市のやまゆり園の事件や川崎市登戸のカリタス学園の事件など、加害者の責任能力の有無が焦点となる凄惨な事件が相次いでいます。
「責任」と「現実」、言い換えれば「論理」と「感情」の隔たりをどのように調整すべきか。制度の運用の在り方にもう一度整理された議論が必要なのかもしれません。
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