MoiMoi。のココデハナイ ドコカ。               

「この世界には私が撮らなければ誰も見たことがないものがあるのだと信じています」by ダイアン・アーバス。   

報道人と法律家の血が流れている。

2014-10-17 | コラム

ボクの名前を付けてくれたのは検事だった祖父。

守人(もりと)は人を守ると言う意味もあるかもしれないが法律を守ると言う意味の方が強いかも。

前にも書いたが曾じいさんは検事総長から司法大臣(現法務大臣)になり貴族院議員になった後、法政大学総長、独協中学校長をやった人。(ウィキペディアより抜粋)

母方は、がちがちの法律家の家系である。

父親は毎日新聞記者から日本テレビ開局時、最初出向だったが、すぐに社員に。

報道局長、編成局長経て常務取締役。

毎日新聞出身の人間が読売新聞系の日本テレビで取締役になるのは異例の事だったらしく、新聞にも記事が掲載された記憶がある。

そんな家系に育ったボクは、こー見えても嘘つき、偽善者、デタラメな人間大嫌い。

特にお金に汚い奴は許さない。

人を騙すなんてもってのほか。

小学生の時、Hと言う奴が生徒会長だった。

こいつ、口からでまかせばかり言いやがって、言った事など何1つ実行しなかったが、ガキ大将だったので、みんな怖くて一票入れた。

ある日、教室で選挙演説みたいな事をやった時、

「H君は言った事を何もやってない」と、みんなの前で批難した。

担任の雨宮先生(女性)が通信簿に「正義感が強い子」だと書いてくれたが、Hの仲間は当然ボクの事が気に食わなかった。(他に生徒会長になろうと思う奴がいなかったのでHが再選されたと思う)

Sと言う体格がいい奴が、嫌がらせをしてきたので首だか腰だか締めてやったら降参した。

見かけより腕力が強かった。

中学の時もYと言うバカグループに嫌がらせをされた。

こいつら、ぶっとばしたら死んじゃうだろーなと思っていたので、こちとら手を出さなかった。

ある日、体育の時間に鉄棒で懸垂したら、先生に

「磯田だったら100回ぐらい軽いかな」みたいな事言われた。

それを聞いた、Yは、それ以後、ボクに手を出さなくなった。

今でもこいつら、1度ぐらい締めてやれば良かったと思っているが。

曲がった事が大嫌い、人を騙す奴は許さない。偽善者などもってのほか。

 ボクはチャラチャラしていて、いい加減に見えるかもしれないが、報道人と法律家の血が流れている。

それを誇りに思っている。

なので、デタラメな事を書いたり言ったりする奴は許さない。

それが身内でも。


 


 


今回で三カ所目

2014-10-16 | コラム

初めての眼科で目の検査。

眼圧は日本人にしては高いと言われたが特に問題無し。(外国人は眼圧高いのか?)

眼圧が高いと目に栄養が行かなくなり緑内障になるよーな事を以前聞いた。

とりあえず緑内障の疑いもない。

しかし父親がなっているのでなりやすい体質ではあるみたいなので1年に1度は検査した方がいいらしい。

右目に少し違和感があるのは白内障の手術をした時に縫った糸が、ちとはみ出しているらしい。(そー言えば、けいゆう病院でも似たような事言われた)

取る事出来るが、別にそのままでも問題無しとの事。

とりあえず来月ハンフリー視野検査予約。

これは見えてない所がないかどーか調べる検査。

最後にやったのが去年の11月なのでちょうど1年ぶり。

画面の真ん中を見つめていると回りに小さな点が一瞬光る。

それが見えたらボタンを押す。

光っても見えないと言う事は、その部分の視野が欠けていると言う事。

一点をじーっと見つめているので結構しんどい。

目を動かすと意味が無いので警告が出たりするけど、ボクの場合1度ぐらいしか警告出た事ないので検査早く終わる方らしい。

眼科は今回で三カ所目。

けいゆう病院のU先生が慶応病院に戻ると言うので、けいゆう終了。

今回の眼科は、けいゆうと提携しているのでU先生に書いてもらったボクの目の検査資料を持って行った。

最初の眼科は最悪だった。

眼鏡を売りつけよーとするよーな眼科は止めた方がいい。

最初に行った眼科、予約しないと受けられないよーになったみたい。

患者来ないんじゃないかな。

ヤブ医者だったから。

不信感を持ったら、さっさと医者は変えた方がいい。

そのうち、無くなっちゃうんじゃないかな?。







 








買わなくてよかった。

2014-10-15 | コラム

毎年この時期になると来年のスケジュール帳の事を書いているかもしれない。

12月になったら買うつもりだが、来年は「ほぼ日手帳」に戻すつもり。

2年EDIT手帳を使ってきたけど少しかさばる。

ほぼ日手帳は小さすぎると以前書いたかもしれないが、なんだかんだでバッグに色々入れ持ち歩く日々。

だんだんEDIT重荷になってきた。

バッグで思い出したが、この前大和駅前で生中継した時、出店で売ってた500円のタイ製バッグ。

色が気に入り買おーかどーか迷ったが、やはり小さ過ぎて物が入らない。

それとジッパーがヤワでチャチだった。

よーく見ると壊れていた。

出店者は顔見知りだったので壊れているよと言うと、縫製はいいんだけど、こーゆー所が弱いと言っていた。

これ買わなくてよかった。

この日、主催者から600円分のチケットもらったので、それでカレー(300円)と発泡酒(100円)買った。

200円残ったので、どーしよーかと思っていたら、食べ物以外にも使える事が分り会場2周。

100円の小皿があったので2種類ゲット。

素人が作った物だと出店の人が言っていたけど、結構よかった。

下手に発泡酒など買わなくてよかった!。

 






 



 



 


何度か選挙に関与した。

2014-10-13 | コラム

先週、千葉県松戸に出没。

おそらく初めて出没した街。

駅出た所に広場がありなんか戸塚みたいな感じ。

来月松戸で市議会議員選挙がある。

それに出馬する新人候補の選挙用ポスター撮影。

「戸定邸」と「21世紀の森と広場」と言う所で撮影。

  

初めて選挙の仕事をしたのは、だいぶ前。

阿部知子さんが田英夫さんの平和・市民から出馬した時が初めてかな。

資料用の顔写真撮影。

開票日、銀座の会場で一緒に選挙速報見守った。

現世田谷区長の保坂氏もいた。

この時、突然話しかけて来たのが三木武夫元首相の孫、三木立(ミキタツ)

彼と仲良くなり代々木公園辺りで花火大会やったり彼主催の花見パーティなどにも遊びに行った。

慶応大学からコロンビア大学に留学した三木立

1度、選挙に出馬。

お爺さんの地盤から出なかったのは偉かったが、残念ながら落選。

ネット検索して分ったが、現在藍染めデザイナーらしい。

選挙ポスターは、埼玉(確か)の市議会議員選挙(確か)2度撮影。

撮った候補者当選。

区長が自殺したので急遽行なわれた目黒区長選挙に出馬した女性候補のポスターも撮影。(調べてみたら2004年)

このおばちゃん、無理矢理出馬させられたよーで,やだやだ言っていたので、落選して良かった。

去年の参議院選挙にも関与したけど、これはビデオ撮影。

阿部知子さんにも再会出来たし、選挙の仕事を色々持って来てくれた大久保にも久々に再会出来たし、福島原発20キロ圏内でビデオ撮影出来たし、なかなか充実した日々だったかな。

さて、今回撮影した折笠あきよしさんは当選するだろーか!。



 




 


 



ローアングル好きではあるけど

2014-10-09 | コラム

ドガに興味持ったのは「PHOTO JAPON」(昔あった写真雑誌)に出ていた小さな記事。

いきなり話が飛ぶけど「PHOTO JAPON」はフランスの「PHOTO」の日本版。

パリに行った時、サンミッシェルにある本屋の店先に「ZOOM」と一緒にディスカウントで売っていたので、両方何冊か買った。

この時、初めて「PHOTO」「ZOOM」と言う写真雑誌があるのを知った。

話をドガに戻すと、「PHOTO JAPON」にドガの絵は写真的と書いてあったんじゃないかな。

その時、紹介されていたのは、確かこの絵。

空を大胆に空けた構図が新鮮だった。

そして、この絵に興味持った

手前をドカンと空けてある。

まるで隠し撮り(盗み撮り)したよーな絵。

この絵に一番影響受けた。

構図、撮り方、ドガの影響大きい。

相手に気づかれずにさっと撮っちゃう。

撮っている自分の姿を強調したくない。

自分が照れ屋と言うのも影響しているけど。

今思い出したけど、まだカメラマンになってなかったかもしれない時代に1人で横浜に撮影しに来た事がある。

その時、神奈川県民ホールの傍で、おじーさんが座って本を読んでいた。

それを隠し撮り。

シャッター音に気づいて、こっちを見ると思ったので、最初、違う物撮っている振りして、シャッター押した。

思った通り、こっちを見たけど2度目にシャッター押した時、こちらを見なかった。

考えてみたら、この時代(20代?)から、隠し撮り的撮影が好きだったって事かな。

この前自分撮りしたこの写真。

どーんと手前を空けて撮ってみた。

100円ショップで買った小型三脚使用し、ローアングルで撮影。

普段三脚使わないが自分撮りには必要なので、バッグに1本忍ばせてある。

新しいデジカメ一眼、シャッター音がする。

今まで使っていたコンデジ、シャッター音しない。

シャッター音が無い方が、ボクの撮り方だとホントはいいんだけどしょうがない。

別に隠し撮り、盗み撮り的撮影と言ったって、怪しい撮り方している訳じゃない。(ローアングル好きではあるけど)

たんに自然な仕草、表情が撮りたいだけなのであります。


 

 

 


当たっていたので大笑い!。

2014-09-28 | コラム

まだコンデジ気分でデジイチ使っているのに気がついた。

昨日、市場で買って来た魚を撮ったが最初に撮った写真がコレ。

以前はこんな程度の写真撮って、まっいいかとFBにupしていた。(この前まで使っていたコンデジは写真撮るというよりビデオ映像撮りたかったので買った)

単なる記録写真。

なんの変哲も無い退屈な写真。

これじゃ面白くないので、デジイチ特性考え撮ったのが、この写真。

ココでは大きく出来ないので、よく分らないと思うが、ピントは目。バックはボケてる。

質感も違う。(FBにUPした写真見るとよく分る)

やはりコンデジとは違う。

どんどん写真撮りたくなってきた。

昨日、横浜中央卸売市場の坪倉商店に坪倉ママがいたので、しばらく話す。

坪さん、高校時代、こーだったんじゃないかな?と話すと思った通り当たっていたので大笑い。

他にも色々分析した事、話す。

坪倉ママから珍しく坪さん事務所で仕事しているので、邪魔しないでちょーだいねと半分冗談で言われたが、事務所に顔出す。

確かに一生懸命仕事していたので、あまり話さず写真撮る。

これもコンデジ感覚で撮影している。

今度はもっといい写真撮ってあげましょ。




一番気楽かも。

2014-09-26 | コラム

小中高大学時代の写真、たぶん1枚も持ってないんじゃないかな。

小学卒業アルバムは紛失して無いかも。(5回引っ越ししているので)

ほとんど撮ってないから無いのかも。

基本撮られるのが嫌いだったから。

自分の写真が無いのに気がつき最近撮るもん無いときself-portrait撮ってる。

なのでミニ三脚持参。

ミニは二本持っているが、100円で買った奴の方が使い勝手がいい。(軽い)

ただ安定が良くないので、倒れないように気を付けながら撮影。

撮ったらFBにUP。

背景の処理、ポーズの勉強になっているかも。

自分撮りが一番気楽かも。

女の子を撮っている時も楽しいけど。

好きな娘だったら、もっと楽しい。


 








願いは必ず叶う

2014-09-20 | コラム

ボクはどっちかと言うとついている方だと思う。

カメラマンになった時もレコード会社時代に知り合った音楽業界の友人達が助けてくれた。

カメラの事など何にも知らないボクに仕事をくれた。

失敗だけはするなと2ヶ月アシスタントさせてもらったMカメラマンに言われていたので、色んな方法試しながら撮影していた。(露出の計り方、ストロボの使い方などなど)

スタジオやりたかったが大型ストロボの使い方なんて分らない。

外で撮影する方が好きなんて言っていたけど、そんなのウソ。

最初のスタジオ撮影はバウワウのアルバムジャケット撮影。

マネージャーから撮ってと言われ、はいはいやりますと無謀にも引き受けた。

この時は、アシスタント時代の先輩についてもらって撮影。

ストロボではなくタングステンのでかいライト使用。

何キロだったか忘れちゃったが、とにかくでかい奴だった。

確か2度目もジャケット撮影。

これは仲良かった北川カメラマンにライティング手伝ってもらった。

それ以降は1人で撮影していたが最初はヒヤヒヤもんだった。

隣のスタジオで先輩カメラマンが撮影していたので、こっちが時間が空いた時、覗きに行き、どんなライティングで撮っているのか観察。後で真似してみた事もある。(本人に盗みましたと報告したけど)

スタジオマンが感じのよかった六本木のアートセンターがやりやすかった。(六本木スタジオもよかったが)

ここのスタジオマンとはコミュニケーションがうまく取れたので、楽しく撮影。

嫌な感じの奴(女の子もいた)は1人もいなかったと思う。

なので気に入ったスタジオマンを次の撮影の時指名していた。

そのアートセンターもすでに無い。

このスタジオでは色々勉強させてもらったのでとても残念。

カーレースの仕事は音楽雑誌でバイトしていた奴が、レース雑誌の編集者になり、ある日「やりませんか?」と連絡してきた。

レースに関してまったく無知。

でもレーサー撮る仕事は楽しかった。(レースカメラマンではないのでレースは撮らなかったと言うか撮れなかった)

最初は何度か筑波サーキットで撮影していた。(サーキットでの撮影に慣れるには調度いいんじゃないかな)

鈴木亜久里さんを初めて撮ったのもココ。

確かグループAと言うカテゴリーで参戦していて、その様子を撮影。

最初、エンジン音とタイヤがスピンしながら飛び出して行くので、怖くてピットに入れなかった。

他のカメラマンがどーやって撮っているのかじーっと観察した後、ピットに入り撮影。

この時、亜久里さん、確か優勝。

ピットで撮った写真もレース後に撮った写真も、どんな写真か今でも覚えている。

ある日、編集者が鈴鹿のF-1のチケットあるので、行きませんかと連絡してきたので、突然行く事に。

みんなチケット取れなくて、大変だと言うのに二枚用意してくれ、当時の彼女を連れて車で向かう。

鈴鹿の近くのホテルが取れないので、長良川の都ホテルに泊まる。

編集者の友人に道に詳しい奴がいると言うので彼に運転してもらい、東京から出発。

フリー走行、予選、本戦、すべて見るが毎日早朝長良川から行くので疲れた。

サーキットでRCAレコード時代の先輩にバッタリ遭遇。

なんと従兄弟にも遭遇。

こんときスタンドからの観戦だったが、正面スタンドの入口で、

「次回はあっちで撮影する」とピットに向かって誓った。

新しいパスポートを受けとった日だったか、編集者から電話が

「ベルギー行きませんか?」

「F-1?」

「そーです」

と言う事で、鈴鹿のピットで撮影する前にベルギーでF-1レーサー撮る仕事が舞い込んで来たのでありました。

願いは必ず叶うとそんとき思ったのでありました。

やはりラッキーついてる!。




 

 

 




 







 







 

 


こんな顔だったっけ?。

2014-09-12 | コラム

ネットで写真見て、老けたなと思ったが実際に会ったら、昔と全然変わってなかったと言う事が結構ある。

写真はライティング(光線の具合)で,随分違って映る。

表情でもまったく違う。

撮られた時の体調にも左右される。

ある雑誌に載った昔からの知り合いの写真。

実際の年齢より10歳以上老けて見えたが会ったら、そんな事なかった。(あんな写真載せられ、可愛そー)

ある人のFBのトップページに載ってる写真。

自分でUPしているので気に入っているんだと思うがビックリ。

7年前、こんな顔だったっけ?。

以前はかなり若いと思われていたが、今は旦那と同等かな。

FBにこんな写真にタグ付けないでよと思う事が時々ある。

たぶんみんなそーなんじゃないかな。

ボクも写っている人が気に入らない写真にタグ付けているかもしれないけど。

この前買ったミラーレス一眼、フリーアングル液晶画面なので、自分撮りが楽に出来る。

自分撮りと言えば、エルスケンのこの写真が一番好き。

自分撮りする時、いつもこの写真の事を思い出す。

せっかくフリーアングル液晶付いているので、これから自分撮りにも挑戦してみましょ。





 




 

 


 







 


「私ももーすぐそっちに行くから」

2014-09-07 | コラム

金曜、鎌倉駅の傍にある会館でビデオ撮影していて少し時間が空いたので外に出たら、携帯が鳴っているのに気がついた。

母親の東洋英和時代からの仲良し、ミド(みどり)が亡くなった。

ミドに何かあったら、ボクに連絡する事になっていたので、声のトーンで、亡くなったのは、すぐ分った。(今年保つかどーか分らないと聞いていたので)

最初、電話は長女のフミ(漢字知らない)からだと思って話していたが、どーも話が食い違うので変だと思ったら次女の、里美(りみ)だった。

フミとは時々電話で話しているが、里美はおそらく27年ぐらい会ってない。

たぶん最後に会ったのは、久が原の家の近所にあったファミレスの入口。

数人一緒にいたので話もせず、別れた。(こっちも連れがいた)

フミは母親と馬込の家に夕飯食べに行ったのが最後じゃないかな?。

馬込の鶏屋さんに七面鳥を取りにミドの車で行ったのを思い出した。

と言う事はクリスマス。

ミドは時々母親と演奏会などに行き久が原まで母親を車で送ってくれたので、その後も会っているかもしれない。

この前、アイルランドからジョイス(日本人)が一時帰国した時、ミドの家にジョイスがいたので、スカイプでテレビ電話したが、ミドはベッドに入っていたけど、結構元気そーだった。

化粧もしてないのにーとか言っていたのが、ミドらしかった。

それが動いているミドを見た、最後になった。

長男コタ(小太郎)はジャズピアニストで横須賀でジャズバーをやっているけど、彼に関して覚えているのは、ミド、里美達と彼がピアノを弾いている店(蒲田辺りだったかな?)に夜遊びに行った事。

ボクがまだ大学生の時だと思う。

その時、コタが、里美にコレ誰が演奏しているか分るかとゲーリーバートンとチックコリアの「クリスタルサイレンス」をかけたのを覚えている。

これ以来コタとは会ってないと思うが、沖縄宮古島にウインドサーフィンやりに行くと言うので東京から移住した知り合いのお店を紹介した。

昨日、フミ、里美、コタ、三人一緒に会うのは初めてかも。

ミドが安置してある部屋に入ると、里美が「あっ」と言う顔してボクを見た。

ボクは里美とデートした事がある。

コタの車を借り何処かに遊びに行ったが、五反田の交差点でエンジンが止まり焦ったのを覚えている。(すぐにエンジンかかったが)

里美は芸大中退してベオグラード(当時ユーゴスラビア)の大学にバイオリン留学。

ボクはテープに好きな音楽入れて、里美にあげた。

帰国してからはクラシックではなくロックバイオリンを始める。

日比谷野音で誰かのライブ(CHARだったかな?)の前座(確か)で出たので、せっかくだからと撮影していたら、気がつき、ビックリした顔して、ボクを見たのを覚えている。

それ以降、バイオリンをやっているのか不明。

彼女達のおとーさんは早く亡くなったが、クラシックの指揮者だった。(一度だけ馬込の家で見かけた)

ミドもチェロリスト。

ミドの妹は井上二葉と言う有名なピアニスト。

よーするに音楽ファミリーであります。

ボクがRCAレコードでバイトしていた時、フルート奏者のランパルと共演したレコードが発売され、

「井上二葉って母親の友達の妹」とクラシック担当の高橋さんに言ったら、ビックリしていた。

ボクはランパルも双葉ちゃん(と母親は呼んでいる)も、そんなに有名な人だとは知らなかった。

昨日、ミドに、もっと話しかければよかった。

でもたぶん、出来なかったと思う。

キリスト教でやると思っていたが、仏教風なので、やりかた分らずフミに聞き、間違えないよーにしなきゃとそればかり気にしていたので。

でも母親からミドへの伝言は、ちゃんと心の中で伝えた。

「私ももーすぐそっちに行くから」

ミドに会いに行ったら色々思い出した!。

落ち着いたら、またみんなと会いたい。


 


 

 



 



方向音痴は困ったもんだ。

2014-09-04 | コラム

鎌倉行くのは横須賀線なのか。(東海道線だと思っていた)

東海道線と横須賀線が何処を走っているのか分ってない。

横浜引っ越して来た当初、有楽町方面行くのに京浜東北線で行ったが、東海道線使えば途中駅停まらず早く行けるのに気がついた。

池上線は各駅停車しかないので急行などと縁がなかった。

大田区からだと、普通、利用するJRは山手線と京浜東北線ぐらいなので混乱しても当たり前(そんな事ないか!)

夜、有楽町方面から帰る時、東海道線がやたら混んでいるのを京浜東北線から見ていたので、東海道線のイメージはいつも混んでる電車。

なので、この前、朝、有楽町の国際フォーラム行くので、初日京急乗ったら、やたら混んでて閉口したので2日目、東海道線利用。

ガラガラだったので驚いた。

驚いたと言えば、以前は車移動だったので、久しぶりにJR乗ったらドアの上部に広告流れる画面があるのでビックリした事ある。(そのぐらい電車に乗らない時代が長かった)

 

横浜駅は色んな電車(JR、東横線、京急、相鉄、地下鉄)が飛び交っているので電車乗る時ネット検索しないと方向音痴は何処に行ってしまうか分らない。

4~5年前、横浜駅からブルーライン(地下鉄)乗りドアの上の行き先案内見たら逆方向だと分ってあわてて飛び降りた。(ほとんど知らない駅名だったのでどっち方面に乗ればいいのか分らなかった)

方向音痴は、この前、ライブ会場の楽屋から2階のベランダに出るドアが分らなくなり、うろうろ。(最初はみんなに付いて行ったので、すんなり行けたんだけど)

杉山さんに、こっちですよと言われ、よーやくベランダ出られた。

横浜には、ランドマークタワー(ノッポタワー)があるので、迷子にならずに済んでいるかも。

 



 



 



ガスと水道料金どーなるか実験。

2014-09-02 | コラム

夏は、ほとんどシャワー使用。

シャワーは最初水なので、熱くなるまでバスタブに入れ、溜まったらお風呂湧かした。(一週間で調度いい量)

シャワー出しっぱなしにせず、こまめに停止。

ガスと水道料金どーなるか実験結果は、水道料金ほとんど変わらなかったが、ガスは1000円ほど安くなった。

以前やった実験は、お風呂に入りシャワーも使用。

バスタブ水は三回入って交換。(毎日利用)

これで水道料金かなり安くなった。(ガス料金まで頭が回らなかった)

これから寒くなるので、シャワーだけでは寒いかな?。

バスに暖房付いているから、それ利用する手もあるけど、お風呂も暖房もガスだから、バスタブ入った方がいいかな。(暖房付けた事ない)

すぐにのぼせる体質だから長くバスタブ入っていられないけどね。

 

 

 


突然の事だった。

2014-08-27 | コラム

父親は心臓にトラブルかかえていたので、ニトロを必ず持っていた。

医者から、もー大丈夫だと言われ、友達と一緒に大好きな釣りに泊りがけで行き、釣りから戻って旅館の庭で倒れ、意識戻らず亡くなった。

最後の言葉は確か「大丈夫」

ボクは参考書を買いに本屋に行こうとしていたら、電話が。

母親が出て、父親の急死を知る事になる。

亡くなる少し前に毎日新聞の記者時代に出した朝鮮動乱の号外(毎日新聞のスクープ!)の話など聞かされた。

この号外に関してボクしか知らない話だった。(母親も知らなかった)

前にも書いたが、横浜日本大通りにある新聞博物館で朝鮮動乱展示会があったので、「新聞博物館 毎日新聞 号外」で検索したら、ブログに号外飾ってある事書いている人がいた。

ずーっと探していたけど見つからなかった号外。(横浜引っ越して来なけりゃ出会えなかったと思う)

よーやく本物見る事が出来た。(新聞博物館の好意でコピーをいただいた)

葬式は立教のチャペルでやりたいと死ぬ直前に母親に話していた。

なんか死を予感していたよーな感がある。

亡くなってから初めて父親が洗礼受けていたのを家族知る。(クリスチャンネームはマルコ)

なので葬式は池袋の立教大学チャペル(大学は早稲田だけど、中学?は立教)

ボクは喪服持ってなかったので、確か学生服で参列。(学生服、従兄弟に借りたよーな記憶が)

司会は日本テレビのアナウンサー、赤木さんだったと思う。

キリスト教なので献花。

大島渚監督も来てくれた。(日本テレビ時代の部下、牛山純一さんが連れてきてくれた)

早稲田の同級生、森繁久彌さんは自宅の方に来てくれたんじゃなかったかな。

とにかく突然の事だった。

日本テレビの社葬。

すべて日本テレビがやってくれたので、とても助かった。

今でも日本テレビには感謝している。(なので、あんまり日テレと略して書いたりしたくない)

最近言わなくなったが、昔はNTVとも言っていた。

日本テレビはJOAX TVなんて事も、子どもの頃から知っていた。

当時の社長の名前まで覚えている。(小林さん)

父親との思い出は、子どもの頃、中津(大分県)に一緒に行こうとしょっちゅう言っていたけど行けなかった。

よく馬賊の話をされた。

たぶん生まれが満州の大連だったからじゃないかな。

ボクがどちらかと言うと土着民族的思考ではなく遊牧民的なのは、この影響だと思う。

父親は免許など持ってなかったが大人になったらムスタング(今はマスタングと言うけど)を買ってあげると言っていた。(当時はアメ車が主流の時代でメルセデスなどヨーロッパ車ではなかった)

家に迎えに来る日本テレビの車に一緒に乗せてもらい高校に時々行ったりしていた。

父親はいつも車内で新聞読んでいた。

クラスメートに見つかると、うるさいので正門から少し離れた所で降ろしてもらった。(車はアメ車のポンティアック)

やはりなにかと面倒な高校だったと言う事ね。

昨日はカメラマンになった話で終わったけれど、話が少し過去に戻った。

まー、昔の話はこの辺でおしまいかな。(分らないけど)




 

 

 

 

 

 

 

色々思い出す。

2014-08-26 | コラム

勉強嫌いは2浪経験。

今話題の代ゼミに通う。

1浪目は実力以上の大学受験。(こーゆー性格、子どもの頃から変わらない)

2浪の時、父親急死。

なので今回なんとしても合格しなきゃと思ったかどーか記憶にないけど、数カ所受けて1校合格。

前にも書いたが、試験終了時に受かったと確信。

英語は2カ所以外は正解。

それ以外の科目は国語だったかな。(易しかった)

受験科目は2科目だったよーな気がする。(なので、受験した)

学部はまったく興味ない経済学部。(文学部は受けさせてもらえなかった)

 今みたいに色んな学部があるのはいいなー。(国際なんとかとか)

 真面目に授業出たのは文化人類学と英語ぐらい。(経済まったく関係ない!)

英語の試験はクラスでトップ。

 落とした科目は体育ぐらい(オリンピック批判をしたので落とされた!)

1年の時、新宿pitinn(クラブの方)の前を通りかかったらバイト募集の貼り紙が。

すぐに飛び込み履歴書必要と言われ近所のアドホックで買って、その場で書き採用。

これが生まれて初めてのバイト。

時給があまりにも安かったのであんまり長くいなかったが、辞めてからもしょっちゅう顔出し無料でライブ鑑賞。(皿洗いの手伝いなどしたけど)

隣にイレブンと言う喫茶店(経営者同じ)があり、そこの新人バイトの、おねーちゃん(アコちゃんだったかな?)が、めちゃ可愛かった。

ボクが、もーすぐPITINN辞めると言ったら、せっかくお友達になれたのにと,寂しそーに言ってくれたのが淡い思い出か。

ある日、大学の授業で、後ろに座っていたクラスメートに、

「PITINNにいたでしょ」と突然言われた。

名前忘れたが、ジャズギターをやっている奴だった。

なのでギブソンの175を買ったが調子悪くて、渋谷のヤマハに返したとか言っていたのを思い出した。

この175は、YESのスティーブハウが使っていたので,ボクもこれが欲しかった。(ギター買う為、バイト初めた。)

しかし高価で買えずフェンダーのテレキャスターシンラインに変更。

今でも大事に持っているが、これ175と同じでボディーに穴があいているのでアンプがなくても音がする。

そこが気に入り、確か10万円で五反田のTOC(東京卸売りセンタ−)でゲット。

この時、「領収書、上様でいいですか?」と言われたが、当時まったく意味が分らなかった。

領収書に上様と書く事知った日でもありました。

PITINNのバイト後、やったバイトはめちゃ暑いビルの中で本の仕分けの仕事。(トーハンだったかな)

これすぐ辞める。(暑いので)

大学のクラスメートと一緒に彼の親戚がやっているタクシードライバー相手の麻布の食堂で皿洗いなどやるが、これも長続きせずすぐ辞める。(なんとなく場に慣れなかった)

NHKで小道具係。

スタジオまで小道具持って行く仕事で、これは泊まりでやっていたが、楽しかったので意外と続いた。

1度灰皿落として割ったが、別に怒られなかった。

当時、近藤正臣さんが大河ドラマに出ていて、スタジオで自分の演技をモニターでチェックしているのを隣で一緒に観ていたり、料理番組など見学。

埃っぽいスタジオで作った料理など食べられたもんじゃないなと当時思ったのを覚えている。

同級生らとみんなで高輪プリンスホテルの皿洗い。

これ担当する部署で仕事量が違ったが、これも意外と楽だった。

しかし1度だけ結婚式場で2人でやるはずが1人欠席。

式場の仲居のおばちゃん達が手伝ってくれたが、1人で皿洗うのめちゃ大変だった。(他の場所は皿洗い機を使ったが、結婚式場は手洗いだった)

一番楽だったのはトリアノンと言う高級フランスレストラン

ウェイターがとても感じ良く、時々コーヒーなど持ってきてくれた。

ガラスの灰皿のデザインがイカしていたので、1つ拝借。

ずーっと持っていたけど、いつのまにか紛失。

ほぼ3年で単位取得し4年の時にレコード会社でバイト。(これが最後のアルバイト)

それもプロモーター。(音楽業界の事などなんも知らんのに)

新しい会社がいいと思ってビクターから独立したばかりのRCAレコードを選んだけれど体質古くて半年で退社。(他にも色々理由があるけど)

それから真面目に大学通って卒業しkittyに就職。

初年度、社長のアシスタント、2年目半年アーティストのマネージャー、その後、しばらく記憶無し。

次に宣伝プロモーター。

一応、サブチーフになったが、違う事やろうといつも辞める事考えていた。(この当時、ラジオのバイトをかるーくしていたのを思い出した)

4年目の時、私生活グチャグチャ、ウンザリする事に。

それがきっかけで、パリに遊びに行き帰ってきてすぐ辞表だし、とりあえずカメラマンのアシスタント2ヶ月やり、そこも追ん出され、kitty時代から知ってた雑誌が使ってくれたり、売り込みしたり、とにかくカメラマンとして再出発したのでありました。

色々思い出すなー。


 

 

 

 

 

退屈な日々だった。

2014-08-25 | コラム

とにかく肌が合わない私立高校だった。

当時、都立全盛時代。

この高校、滑り止めの為の男子校(今は男女共学で進学校らしいが)

当初7クラスの予定だったらしいけど、1クラス増えAからHクラス。

あわてて使ってなかった教室を整備して使用。(なんでこんな事になったのかは不明)

1クラス、5~60人はいただろーか。

なので1学年、400~500名弱。(3年間クラス変え無し。なのでクラスメートはずーっと同じ)

最初のテストで30番ぐらいの成績だったので、個人面接で大学どこ行きたい?と聞かれ、慶応と冗談言ったら、君ならがんばれば入れるだって。

慶応入れるぐらい勉強出来たら、こんな高校来てません!。

これ以後、まったく勉強する気にならず、2年の時に、先生が心配したほど成績落ちる。

同じ敷地内に大学もあり、キリスト教の学校なので女子大生が多かった。

なので高校の学食で早めのランチ(と言ってもたぶんカツ丼など)した後、大学と高校の境目あたりにあったベルシバ行っては、なんか買っていたよーな記憶が。(コカコーラを初めて飲んだのもここじゃないかな?)

※ べルシバはアイスクリームなど食べ物販売していたカフェみたいな所だったよーな記憶があるが、現在は無いそーです。

とにかく退屈な高校だったので、大学の屋上行っては、隣の結婚式場の庭見ていたり、大学の食堂覗きに行ったりしていた。

先生は意外といい人多かった。

確か倫理の先生だったと思うが授業中に、学校批判したのにはビックリ。

近所で殺人(これはのちに歴史に残る連続殺人事件になる)があり、警察から、普段素行の悪い生徒の名簿を提出して欲しいと要請が。

まともな学校だったら、そんなもん拒否すると思うが、あっさり出したと言っていた。

生徒を信じていない学校なんて、最悪!。

犯人つかまり、後に死刑。

しかし生徒はアホだった。

ある生徒(知らない連中)が大学紛争の真似して学校内でやってみた。

こいつら、朝日新聞(確か)に授業ボイコットした事、自ら連絡したって言うから、どこまでバカなの!。

すぐに撤去されたのか、ボクは現場を見てないが。

ボクにとってこの時期、最悪時代だったが、中学時代に好きだった女の子が、ここの大学に入学した事知った時はちとショック。(ボクはこの大学には行かなかった)

彼女は勉強出来たのになぜ?。(確か小山台高校に通っていたはず)

それも彼女と仲良かった、女の子(後で分った事だが大学のすぐ傍に住んでいた)も一緒に入学。

彼女達レベルだったら早稲田慶応上智でしょ!。

もしボクがすんなり付属から大学に行っていたら付き合っていたかもなーんて思ったりするが、後で中学の卒業アルバム見て、なんで彼女に魅かれたのかよく分らん。

めちゃスレンダー。

名字は覚えているけど名前覚えていない。(普通覚えているよね)

あとになって、この娘より、Uという娘の方が好きだったんじゃないかいなと思ったり。(フルネームで覚えている)

ちとセクシー系だったUは、転校生。

ボクのクラスメイトの女の子は、彼女の事を嫌っていたけど。(スカートが短いとかブツブツ言ってた)

まっいいか。

とにかく学校終わると、さっさと帰宅するか、試写会に行っていたのでありました。(この時期が一番映画を観ていたと思われる)

 



 





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