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「この世界には私が撮らなければ誰も見たことがないものがあるのだと信じています」by ダイアン・アーバス。   

突然の事だった。

2014-08-27 | コラム

父親は心臓にトラブルかかえていたので、ニトロを必ず持っていた。

医者から、もー大丈夫だと言われ、友達と一緒に大好きな釣りに泊りがけで行き、釣りから戻って旅館の庭で倒れ、意識戻らず亡くなった。

最後の言葉は確か「大丈夫」

ボクは参考書を買いに本屋に行こうとしていたら、電話が。

母親が出て、父親の急死を知る事になる。

亡くなる少し前に毎日新聞の記者時代に出した朝鮮動乱の号外(毎日新聞のスクープ!)の話など聞かされた。

この号外に関してボクしか知らない話だった。(母親も知らなかった)

前にも書いたが、横浜日本大通りにある新聞博物館で朝鮮動乱展示会があったので、「新聞博物館 毎日新聞 号外」で検索したら、ブログに号外飾ってある事書いている人がいた。

ずーっと探していたけど見つからなかった号外。(横浜引っ越して来なけりゃ出会えなかったと思う)

よーやく本物見る事が出来た。(新聞博物館の好意でコピーをいただいた)

葬式は立教のチャペルでやりたいと死ぬ直前に母親に話していた。

なんか死を予感していたよーな感がある。

亡くなってから初めて父親が洗礼受けていたのを家族知る。(クリスチャンネームはマルコ)

なので葬式は池袋の立教大学チャペル(大学は早稲田だけど、中学?は立教)

ボクは喪服持ってなかったので、確か学生服で参列。(学生服、従兄弟に借りたよーな記憶が)

司会は日本テレビのアナウンサー、赤木さんだったと思う。

キリスト教なので献花。

大島渚監督も来てくれた。(日本テレビ時代の部下、牛山純一さんが連れてきてくれた)

早稲田の同級生、森繁久彌さんは自宅の方に来てくれたんじゃなかったかな。

とにかく突然の事だった。

日本テレビの社葬。

すべて日本テレビがやってくれたので、とても助かった。

今でも日本テレビには感謝している。(なので、あんまり日テレと略して書いたりしたくない)

最近言わなくなったが、昔はNTVとも言っていた。

日本テレビはJOAX TVなんて事も、子どもの頃から知っていた。

当時の社長の名前まで覚えている。(小林さん)

父親との思い出は、子どもの頃、中津(大分県)に一緒に行こうとしょっちゅう言っていたけど行けなかった。

よく馬賊の話をされた。

たぶん生まれが満州の大連だったからじゃないかな。

ボクがどちらかと言うと土着民族的思考ではなく遊牧民的なのは、この影響だと思う。

父親は免許など持ってなかったが大人になったらムスタング(今はマスタングと言うけど)を買ってあげると言っていた。(当時はアメ車が主流の時代でメルセデスなどヨーロッパ車ではなかった)

家に迎えに来る日本テレビの車に一緒に乗せてもらい高校に時々行ったりしていた。

父親はいつも車内で新聞読んでいた。

クラスメートに見つかると、うるさいので正門から少し離れた所で降ろしてもらった。(車はアメ車のポンティアック)

やはりなにかと面倒な高校だったと言う事ね。

昨日はカメラマンになった話で終わったけれど、話が少し過去に戻った。

まー、昔の話はこの辺でおしまいかな。(分らないけど)




 

 

 

 

 

 

 

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