ラピュタの裏番組で?映画の"八日目の蝉"をやっていたらしい。
先日せっかく小説も読んだので、映画の鑑賞メモも書いてみようと思う。
※アマプラで見た
「どうだった?」
個人的にはかなり好きでした。
小説との比較で言えば、母(希和子)側の逃避行が大幅カット&説明不足、小豆島での儚い幸せな生活が長く描かれている違いがあり、娘側の行路も小説とはかなり異なっているのが気にならないわけではない。
しかし、ラストの流れがおかしくなる訳ではないのでまぁいいかなと。
※小説では恵里菜は確か小豆島の地を踏む手前で終わるが、映画では小豆島にさっさと着いてしまい、薫という名で育てられた思い出の多くを島の光景を見て思い出している。
後、一応小説では恵里菜と希和子は最後にニアミスしていたが、映画では釈放後の希和子は出てこなかった。当然ニアミスもしていない。
・良かったと思った点:キャスティング、小豆島でのパートを長めにしたこと
個人的には希和子役の永作博美がとても良かった。
見た目と歌と演技がそれぞれ。
笑顔は可愛いが若くはなく、メイクや表情で可愛らしくも見え、
あるいはどうにも薄幸そうにも見えるというのも希和子という人物像に似つかわしかった。
劇中では大きな声を出せない状況で子守唄を歌うシーンがあるが、歌手出身なだけあって、歌声を聴いていたくなる程度には歌唱力を感じさせた。
夜空の星を眺めながらの子守唄は情趣深く、薫が歌ってほしいとせがむのも、
後に恵里菜が実親の平凡な歌に満足しないのも宜なるかなと思った。
※恵里菜が歌に満足していないのは、そもそもの曲が違うという前提はあるが、歌に込められた想いの重みが違いすぎたとも解釈したい。
もう一点。映画では、"希和子が薫に示す母性愛"に(尺的に)かなりの比重が置かれている。
誘拐犯が、攫ってきた子供を自分の子のように愛するということをどういう気持で見れば良いのかは悩ましいところ。しかし誘拐という行為は歪んでいたにせよ、子供に注ぐ愛情が歪んでいる描写はなく、小豆島での小さな幸せな生活が自分には尊く儚いものとして映った。
新聞から身バレしたシーンでは、あぁ、まもなくお別れなのだなぁと思い
とても切ない思いをさせられた。薫の子役が可愛かったのも辛かった。
恵里菜パートは希和子パートほど強烈な感想はない。小池栄子(薫の友達)が早口だったことと、井上真央(恵里菜)が可愛かったことはあるが…
ただ、恵里菜が自分が愛されていたことを小豆島の光景から思い出す、というのはわかりやすいストーリーだなと思った。
小豆島の風景の1カット、1カットが視聴者にとっても
劇中の登場人物(恵里菜)にとっても印象的で、映画の方が感情移入しやすかったかもしれない。
映画は、希和子が逮捕され裁判のシーンから始まる。
彼女の"子育ての喜びを味わえて感謝している"という言葉が、
映画の冒頭では頭がおかしくなった人の戯言のように聞こえていたが、
一通り事情を知ってからだと、嘘偽りのない純粋な気持ちをただ述べているようでもあり、ただただやるせない気分にさせられた。
◇
おまけ 文学のジェンダーの話
男性文学と女性文学では決定的に異なると思う点がある。
物語の構成、以下のような骨子の話を見るとそう思う。
これまで決して低くない確率で以下のような構成の小説に出会っている。
男性視点:やはり男性作家に多い構成
「自分の子孫をより広く残す」
→ 女が家に留まるように説いてくる
→ (女の言い分は無視して)旅に出る
女性視点:やはり女性作家に多い構成
「より優れた人の子を産み、育てる」
→ 優れた人に当たらない、
または男が(自分の都合で)子を堕ろせと言う
→ (男の都合は無視して)子を産み育てる
「」に書いた側が人間の根源的な欲であるが、
現代社会は根源的な欲に寛容にはできていない。
(たまに「」で書いた側で本当に小説を書く人がいて、それはそれであまり愉快な内容でないことが多い)
補償という形なのか、男女で上記のような異なった文章の基本構成があると僕は考えている。
今回の八日目の蝉も、まさに女性視点の典型的な構成ながら、
"八日目の蝉"すなわち"普通から外れてしまった人"という視点を加えることで
なんとも苦い物語となっている。
いや、小説も映画も面白かった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます