週頭の街頭活動。
月曜日の朝は、雨が降った上に、9時半から3161人の署名(有効分)によって請求のあった、
宇和島市における伊達博物館改築事業について天赦公園(通称キリン公園を含む)への移転改築をすることの賛否を問う住民投票条例の制定の議案に関係する説明が市長からありまして、火曜日の朝になりました。
ちょうど火曜日は、6月議会の招集日でして、その議案について、質疑の通告をしておりましたのでそのあたりをお話ししました。
【通告内容】
伊達博物館改築事業についての住民投票条例について
1.市民の声を聞くべきではないか
2.三千百六十一名の意志は、どう活かすつもりか
そもそも、住民投票条例の制定を求めるなどする請求権は、法律によって認められた権利です。その権利行使を受け、市長は、下記のような意見を付けて、議会へ条例案(請求のまま提案する義務がある)を提案されました。
民間委員も含めたメンバー(市長・副市長・教育長の三役が入って)で建て替え検討委員会が設置されプランが作られました。市民説明会やパブリックコメント等々の手続を経て、議会でも設計(建築設計・展示設計・CM業務の発注)や賃貸借で使用していた一部用地の購入の予算までは承認されて動いています。
外形上は、手続に瑕疵があるとまでは言えないのかも知れません。
(私は、立て替える場所を決める専門部会に提示された現在地と天赦公園の建設場所を比較する表や周辺用地図のほとんどがガソリンスタンド跡地を利用可能としないものであったことは重大な問題だと指摘しています。)
しかし、建て替え移転案の可否について市民の声を聞いて欲しいという意見の方3161名の署名が集まったことからして、少なくともこの計画を不安に感じられている方が市民の中に多く居られるのではないかということを。やはり。そうだよね。と思いながら、
市は(市長も議会も)そのことを重く受け止めなければ成らないと強く思っています。
市は、手続はきちんと経たと主張します。
しかし、今回の伊達博物館改築事業についてもまた、思い浮かぶ言葉は、
「アリバイ民主主義」
「民は由らしむべし,知らしむべからず」という言葉です。
すなわちは、前時代的と言われたり、
あるいは、封建時代の政治原理を表すとする言葉です。
もう随分前から、
市民へ積極的に情報発信する時代なんです。
市民の求めに応じて、情報開示すればよいのではなくて、
情報を進んで発信することで、市民の皆さんに当事者意識、
政策決定は市民自らが行っていく、そういう意識を持って頂く、そんな時代であると私は考えているのです。
有識者を集めて計画をまとめていくことで時間短縮が図れるでしょう。
それも、ほとんど発言もしない、頷いたり拍手したりするだけのメンバーが多ければ、計画の仕上がりはともかく、事務局の思うとうりの結論を導くには最高です。
本会がそうであったかどうかは、概要版の議事録だけでは判りませんが、少なくとも、議会へも市民へも計画がほぼ仕上がった後に資料を持ち込んで説明の上、
「ご理解いただきたい」では、
市民の声を聞いたことには成らないのではないかと思うのです。
議員の立場で、建替委員会の傍聴を求めて以降(希望する市民も議員も傍聴は認められませんでした)、
説明がある度に、原案について異論を唱えてきた私としては、説明をするだけで、議員を含めて市民の声を聞く気など毛頭無く、
市民とは、委員会に招集された一部の皆さんであり、その声を聞けば市民の声を聞いたことになり、あとは、市民説明会などで説明して理解を求めることが、民主主義的な手続として間違いの無いものと考えているように思えるのです。
歴史は、多数意見が常に正しいとは言えないことを示してくれています。
ですから、私達は単純な多数意見の採用を戒め、
少数意見を大切にした上で(尊重して)作られた多数意見を選択する自由主義的な民主主義を標榜しているわけです。
また、大きな声で発せられる意見を採用するのではなく、小さくともたくさんの声を集め、多くの同意を得られるプランを採用すべきなのです。
それが、岡原さんの提唱する「声を力に」ではないのでしょうか。
であるならば、今回、自分として充分と思える説明や意見聴取であっても、それで不安を持つ市民がおられることが判ったわけですから、
進んで住民投票を受け入れ、この機会にさらに市民に説明を重ね、より良い計画に磨き上げることが必要だと思います。
そう言う意味で、私は、条例案に添えられた市長の意見にも違和感を持っています。と。ご一読ください。
月曜日の朝は、雨が降った上に、9時半から3161人の署名(有効分)によって請求のあった、
宇和島市における伊達博物館改築事業について天赦公園(通称キリン公園を含む)への移転改築をすることの賛否を問う住民投票条例の制定の議案に関係する説明が市長からありまして、火曜日の朝になりました。
ちょうど火曜日は、6月議会の招集日でして、その議案について、質疑の通告をしておりましたのでそのあたりをお話ししました。
【通告内容】
伊達博物館改築事業についての住民投票条例について
1.市民の声を聞くべきではないか
2.三千百六十一名の意志は、どう活かすつもりか
そもそも、住民投票条例の制定を求めるなどする請求権は、法律によって認められた権利です。その権利行使を受け、市長は、下記のような意見を付けて、議会へ条例案(請求のまま提案する義務がある)を提案されました。
民間委員も含めたメンバー(市長・副市長・教育長の三役が入って)で建て替え検討委員会が設置されプランが作られました。市民説明会やパブリックコメント等々の手続を経て、議会でも設計(建築設計・展示設計・CM業務の発注)や賃貸借で使用していた一部用地の購入の予算までは承認されて動いています。
外形上は、手続に瑕疵があるとまでは言えないのかも知れません。
(私は、立て替える場所を決める専門部会に提示された現在地と天赦公園の建設場所を比較する表や周辺用地図のほとんどがガソリンスタンド跡地を利用可能としないものであったことは重大な問題だと指摘しています。)
しかし、建て替え移転案の可否について市民の声を聞いて欲しいという意見の方3161名の署名が集まったことからして、少なくともこの計画を不安に感じられている方が市民の中に多く居られるのではないかということを。やはり。そうだよね。と思いながら、
市は(市長も議会も)そのことを重く受け止めなければ成らないと強く思っています。
市は、手続はきちんと経たと主張します。
しかし、今回の伊達博物館改築事業についてもまた、思い浮かぶ言葉は、
「アリバイ民主主義」
「民は由らしむべし,知らしむべからず」という言葉です。
すなわちは、前時代的と言われたり、
あるいは、封建時代の政治原理を表すとする言葉です。
もう随分前から、
市民へ積極的に情報発信する時代なんです。
市民の求めに応じて、情報開示すればよいのではなくて、
情報を進んで発信することで、市民の皆さんに当事者意識、
政策決定は市民自らが行っていく、そういう意識を持って頂く、そんな時代であると私は考えているのです。
有識者を集めて計画をまとめていくことで時間短縮が図れるでしょう。
それも、ほとんど発言もしない、頷いたり拍手したりするだけのメンバーが多ければ、計画の仕上がりはともかく、事務局の思うとうりの結論を導くには最高です。
本会がそうであったかどうかは、概要版の議事録だけでは判りませんが、少なくとも、議会へも市民へも計画がほぼ仕上がった後に資料を持ち込んで説明の上、
「ご理解いただきたい」では、
市民の声を聞いたことには成らないのではないかと思うのです。
議員の立場で、建替委員会の傍聴を求めて以降(希望する市民も議員も傍聴は認められませんでした)、
説明がある度に、原案について異論を唱えてきた私としては、説明をするだけで、議員を含めて市民の声を聞く気など毛頭無く、
市民とは、委員会に招集された一部の皆さんであり、その声を聞けば市民の声を聞いたことになり、あとは、市民説明会などで説明して理解を求めることが、民主主義的な手続として間違いの無いものと考えているように思えるのです。
歴史は、多数意見が常に正しいとは言えないことを示してくれています。
ですから、私達は単純な多数意見の採用を戒め、
少数意見を大切にした上で(尊重して)作られた多数意見を選択する自由主義的な民主主義を標榜しているわけです。
また、大きな声で発せられる意見を採用するのではなく、小さくともたくさんの声を集め、多くの同意を得られるプランを採用すべきなのです。
それが、岡原さんの提唱する「声を力に」ではないのでしょうか。
であるならば、今回、自分として充分と思える説明や意見聴取であっても、それで不安を持つ市民がおられることが判ったわけですから、
進んで住民投票を受け入れ、この機会にさらに市民に説明を重ね、より良い計画に磨き上げることが必要だと思います。
そう言う意味で、私は、条例案に添えられた市長の意見にも違和感を持っています。と。ご一読ください。
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