相変わらず左手首の養生をしてる。
バイクや自転車のハンドルも握れなく、手作業は思う様に出来ない。
何しようかなとあちこち見て歩いたら、写真を入れてるケースがあった。
普段は見ないから、つい見入ってしまった。
生まれてから中高生、そして社会人と色々な事をやって来たんだと思い出す。
そして今は大分活動も鈍っているが、最後の頑張りに突入している。
生まれてから一番可愛い時だったろうな。
小学校の入学も初々しい。
緊張感が溢れている。
社会人の最初は山ばかり行っていた。
高校の担任は休みの時は殆んど山に行ってる方でその影響を受けたかも知れない。
当時の日記を見れば、パン1個に水、それと電車代だけだ。
毎週のように道南の横津岳に登っていた。
その事もあって地元の七飯山岳会に誘われて入会。
登山道の草刈りを行く度に行っていた。
これは1000円頂けたので良いアルバイト代だった。
冬季国体予選山岳部門では駒ケ岳の雪山にテントを張ってルート工作をしていたし、山岳救助訓練も率先して参加していた。
横津岳の冬山遭難は2度あり、救助隊で参加した。
吹雪の中、スキーを担いで行ったが最後は強風で歩けず、這って当時有った山小屋まで辿り着いた。
遭難した開発局の人も北大の学生も亡くなった。
バンドも結成した。
ギターやドラムを担当した。
ギターは手から血の出るほど練習した。
当時はダンスパーティが大流行で、週に2~3度ステージで演奏していた。
当時はベンチャーズが大流行だった。
我々はボーカル、キーボード、トランペットも入っていた。
人気になりラジオも出演、プロ歌手の前座も勤めた。
古い人は知ってるだろうが、コロンビアローズ、島和夫の前座だ。
最後はナイトクラブのバンドにもなり、会社を終えてから3ステージ演奏し、終わるのは12時にもなった。
スーツもお揃いだが出演料で買えるまでになった。
スキーは小学校からやっており、昔有った裏山で滑っていた。
ワックスなどなくろうそくを塗っていた。
靴は勿論長靴でストックは竹だった。
中学校の女性担任が指導員でアルペンレーサーでもあった。
自分も指導者の道からアルペンレーサーになった。
下の写真はスキー部のメンバー。
アルペンレースは随分出場した。
北海道は勿論青森の大会にも出場した。
トロフィーは段ボールの中だ。
仲間と行く恒例の行事は8月の八甲田山滑降だった。
函館からフェリーで行くと、青森駅は海水浴の客で溢れていた。
そこをスキーを担いで、30から40kgのバックパックを担いで八甲田大岳に登りテントを張って一週間過ごした。
牛蛙の鳴き声が凄くて眠られぬ夜も多かった。
バイクの今まで知らなかった写真が出てきた。
バイクは高校時代から乗っていた。
免許は55ccのスーパーカブで取った。 同級生のお父さんのバイクだ。
当時の試験場はダートで、曲がるときは手を上げて合図する。
その操作をしてクラッチも握らないと駄目なので難しい。
スーパーカブはオートマチックで試験には最高だった。
お陰で今でも大型二輪の免許がある。
バイクは乗りたいが買えるわけが無い。
バイク好きな主人が経営している果物屋で夜だけのアルバイト。
スナックに高級果物を届けて歩いた。
冬も欠かさずだった。
当時は学校の先生でも2人くらいしかバイクに乗ってなかった。
規則も無く堂々と通学できた。
このバイクで静狩峠も走った。
ダートだから黒い学生服はグレーになった。
下の写真は社会人になってからで見たらホンダドリームだ。
最初に買ったのはスーパーカブだったのでその後に買ったんだろう。
札幌まではダートだった。
皮ジャンパーも着ている様だ。
当時から旅人要素が有ったんだ。
装備は簡単だな。
寝袋とテントしか無いようだ。
この後に車に転向した。
ヨットも作った。
ベッド4個を備えた本格的な物で5年かかった。
完成時には全国紙の1面に取り上げられた。
キャンピングカーも作った。
ポンコツのハイエースを購入し、床も全て張り直し、塗装もやった。
冬のニセコでも随分車中泊した。
一番印象に残るのは、箱館戦争で土方歳三の進行した道250kmを冬季野宿踏破した時だ。
ゴールの江差には檜山支庁長始め30人の方が迎えてくれた。
感動、感動だった。
高級ホテル「群来」の社長が宿を提供してくれた。
報道も大きくされたので、その後は講演依頼が随分舞い込んだ。
下は渡島桧山の教員研修会での講演。
250人が集まった。
冬のスキーのためのトレーニングとして自転車を始めた。
チーム日立を作った。
ユニホームはプロチームベルギー日立のユニホームだ。
これからどうなるかな。