正式には「たいけんもんいん たまこ」と読む。璋子は鳥羽天皇の中宮(皇后)になってからも、養父で鳥羽天皇の叔父に当たる白河上皇との間に関係があったといわれる。鳥羽天皇は、のちの崇徳天皇が白河上皇の子であることを疑い、かれを「叔父子」殿と呼んだ。その腹を痛めた7人の子供のうちのもうひとりが後白河天皇になった。ふたりはのち保元の乱で争う。
泰子が摂関家より皇后として送り込まれ、鳥羽天皇は美貌の得子に夢中で抱いてもくれない。公私共に璋子は悶々としていた。18歳年少の北面の武士、佐藤義清(西行)が母「みゆきの前」に似た璋子と叶わぬ恋に陥るのはこの頃である。肉体関係があったかどうかは定かではない。辻邦生もこの辺りは曖昧にしている。いずれにしても義清は激しい恋に身を焦がした。
当時独身であった古文の教諭が、この西行と璋子の恋について遠まわしな言い方で解説したことをぼんやりと思い出す。従姉憲康の急死や璋子との叶わぬ恋が出家の原因だと言われても、当時の社会的な背景や皇族の女性たちの生活環境、こういうものに関する理解もないのに、いきなり愛だ恋だ出家だ芸術家の孤独だじゃ、古文を嫌いにならないほうがおかしいと、今になって苦手科目の言い訳をしてみる。
璋子の生理について徹底的に調べあげて、のちの崇徳天皇が鳥羽天皇の子である可能性は全くないという結論を出した学者がいる。専門家と言うものは本当に怖い。