明治維新を勝ち取る戦いとなった戊辰(ぼしん)戦争は、1868年(明治元年・戊辰の年)の鳥羽・伏見の戦いから、翌年の1869年(明治2年)の五稜郭(現在の函館市に)の戦いまで、旧幕府側と新政府側との一連の戦いである。終わりの時期には長岡藩や会津藩でも藩内が戦場となり、多くの死傷者を出し、防府の諸隊も出兵、最後は東北や北海道にまで向かう戦いだった。 . . . 本文を読む
1961年、第35代米国大統領ジョン・F・ケネディ、日本人記者団からこんな質問を、「あなたが日本で最も尊敬する政治家はだれですか」、ケネディは「上杉鷹山(ようざん)」と答えた。日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人はいなかったらしい。上杉鷹山は江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家であり、財政危機に瀕する現代日本にとっても学ぶべき所が多い。戦前は小学校の修身教科書にも登場し青少年に敬愛されてきた人物だ。なぜケネディは鷹山を尊敬していたのか。1900年(明治33年)をはさむ約5年ごとに明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれた。いずれも大きなセンセーションをもたらした。その3冊とは、内村鑑三の“Japan and The Japanese”(日本及び日本人)、新渡戸稲造の“Bushido“(武士道)、岡倉天心の”The Book of Tea”(茶の本)。内村の著書は日清戦争が始まったばかりの1894年で34歳のときに書いた。この時期の内村は英文を書きまくっていて、日本の英文自伝の白眉ともいうべき“How I Become a Christian”(余は如何にして基督教徒となりしか)も書いていた。新渡戸の『武士道』は1900年、漱石がロンドンに向かっていた年だ。新渡戸はここで日本の武士道がいかにキリスト教に似ているかを説きまくり、ただし「愛」だけが欠けているとも結論づけた。天心の『茶の本』は、天心がボストン美術館の東洋部の顧問をしてからの著書で、45歳の1906年にニューヨークで刊行された。日露戦争の最中だ。『東洋の理想』『日本の目覚め』につぐ3冊目の英文著書。いずれもさまざまな意味で、今日の誰も書きえない名著だった。書名を、内村自身は最初は『日本及び日本人』と訳していた。それがいろいろの変節をへて『代表的日本人』となった。ジョン・F・ケネディも読んでいて、この中にある上杉鷹山を尊敬していたと思われる。 . . . 本文を読む
5世紀から6世紀の初め頃にかけて、日本では大王(おおきみ・天皇)の跡継ぎ問題や、有力な豪族(大伴氏・物部氏・蘇我氏など)の権力争いなどで国内の政治が乱れる。このため当時大和政権が支配していた朝鮮半島の任那地方(加羅)の支配力が弱まり、任那地方と同じく朝鮮半島にある新羅・高句麗からの侵略が心配されるようになった。 そこで大和政権は朝鮮半島の任那地方へ対新羅の救援軍約6万を派遣するが、この救援軍が当時九州の北半分を統治していた筑紫の国造(くにのみやつこ・大和政権の地方官)磐井氏に進路を妨害され足止めをくらってしまう。これが「磐井の乱」( 527年)と言われるものだ。 . . . 本文を読む
最高裁が示す基本的原理の汎用性の事例として、かつて、当時の社会党(民主党の前身)鈴木茂三郎氏が昭和25年8月に創設された警察予備隊(自衛隊の前身)が憲法第9条に反するので違憲であると最高裁に訴えたが、最高裁大法廷は全員一致で却下したということがあった。その時の判決が示した基本原理は、「自国の存立のために必要な自衛措置は認められる」というものだった。
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「ベルリンの壁」が崩壊するに至った1989年という年、東ドイツから西ドイツに50万人を超える大量の亡命者が発生、その大部分が乳飲み子を抱えた若夫婦だった。「乳幼児死亡率」で東ドイツは西ドイツに比べて極端に高く、1000人当たり19人であった。西ドイツでは9人、当時の日本では6人だった。東ドイツの若夫婦は自分達の子供のためには西ドイツへ亡命するしかなかったのだ。東ドイツという国家は国民に見捨てられたのも同然だった。そして間もなくベルリンの壁は崩壊の時を迎えたと経済学者の斎藤精一郎氏は述べている。 . . . 本文を読む