笑顔抱きしめ

小さな幸せの元を探して
身の回りのこと・大好きな木村拓哉さんのこと

自分の目でマジに見なくちゃ

2016-04-13 | ざまをみろ!と開放区
VOL.19 『視線』(Myojo 1996年12月号)

写真は、

開放区では『撮る』で使われています。

視線というのは、テーマ下のコメントにもあるように、
自分の側から見ることと、相手が自分を見ていることもあるよね。
文章を見ていると、2.0の視力と鋭い観察力の拓哉君の視線を語ってるところもあるけれど・・・・・。

「木村拓哉」として、この世界にいるから仕方が無いことだとは言いながらも
“目線的にモノつぽく見られたりする”って、すごく辛いよね。、
一人の人として考えてもらえないと言うことだもの。
感情があり、心がある、また、プライベートが存在しないと言うことだもの、
決して仕方ないことではないよ。

確かに、拓哉君が目の前にいたら見ていたくなるのは判るけれど
その視線、接し方なんでしょうね。
「いいじゃん、今見なくても・:」って思わせたり、
その視線が「ちょっと苦しいんです」つていう意思表示をしないといけないような状態にはさせたくない。

「認識のされ方っていうのが、あるイメージみたいなものができて、そういうものがもとになることが多い。」
っていうこと、この1996年から、20年間、今もずっと続いている部分がある。
実際会って、一緒に仕事している人からの言葉と、
勝手に持ったイメージだけでさも判ったような口ぶりの人とでは、全然違ってることを言ってる。
もちろん、実際合って、直接接している人の方が正しいにもかかわらず。

間接的な情報でイメージ持たれて、そういう観念で見られたら、話になんない。
人間として評価されるんなら、やっぱり直接見てからにしてほしいとは思う。
見なくちゃわかんないことって、いっぱいあるんだよね。

相手からの視線に対しての“心の叫び”が伝わってきます。
゛見る″ことと“見られる″こと。どちらも、きちっと真剣勝負の拓哉君だからこその叫び。

「自分の目でマジに見なくちや、何にもわかんないよ」・・・です。

色紙は、
で、改めてこの色紙を見て持ったんだけど、この色紙の書き方は、Vol 3の『演じる快楽』~14の『顔』までのパターンで
Vol15からは、変わってる・・・ということは、もしかしたら、この『視線』の文章は、Vol 14の頃書かれたものかも。


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