笑顔抱きしめ

小さな幸せの元を探して
身の回りのこと・大好きな木村拓哉さんのこと

役を生きる(1992年の衝撃)

2021-02-01 | 大好きな記録&記憶
木村拓哉という役者の凄味を最初に感じたのが、この「言葉の無い部屋」
1992年の世にも奇妙な物語の中の一作。
この時、拓哉は19歳。

『言葉の無い部屋』の放送が1992年の7月。
その頃の、雑誌を見ると、華やかでキュートな美少年がいる。
華やかに、キュートに、華麗に・・・・。



なのに、この言葉の部屋の保はそのすべてを消して、「保」を生きている。
同じ19歳ながら、2年前青森県の鰺ヶ沢から上京し、工場で働いている少年。
一瞬見たら、拓哉と判らない。

東北の訛り。
仕草。
おどおどした視線。
そのすべてが「保」。

2年働いていても、工場にも慣れず、友だちも出来ない、淋しい毎日。
保は、骨董品店の店先にあった古いオープンリールのデッキを買う。

丸いちゃぶ台と布団ぐらいしかないアパートの一室で
買ってきたデッキにむかって、語りかける保。

「ほんずつは、晴天なり」
私は東北の言葉がどんなだか詳しく判らないけれど、聞いていて、スゴイと思った。
青年のぼくとつさも、自分の声を初めて聞いたときの驚きと
「ほんずつは、晴天なり。」・・・『ほんずつは、晴天なり。』
歌も、「♪こんぬづはぁ、こんぬづはぁ、世界の〜国から〜・・・」
友だちが出来たように嬉しかったんだよね。

そして、デッキに向かって、
「毎日が楽しい。友だちもいっぱいできた。東京に来て良かった」
と、嘘の自分の姿を録音する。
小さな楽しみ。


でも、ある日、テープを聴くと、そこからは、
「友だちなんて一人も出来ない。
 東京なんか来るんじゃなかった・・・。田舎にかえりてぇ。・・・・」
と、彼の声が流れ始めた


この時の、切なさ、辛さ。
見ていて、涙が出てきて仕方が無かった。

そして、次の朝。
そこには、冷たくなった彼の姿が・・・。
その顔は、静かに微笑んでいるようにも見えた。


現場検証にきた刑事がデッキのボタンを押すと、彼の楽しいテープ日記が流れた。
「こんなに楽しい生活。未来ある青年が急死するなんて・・・・。」

管とかいろいろな動画サイトでもアップされています。
ごらんになっていない方は、是非、「保」に出会って下さい。
今から、27年前の、俳優「木村拓哉」を見てください。

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