モーツァルトの親友、シカネーダー役は、バリトンの古澤利人さんでした。
実在のシカネーダーは台本作家で、「魔笛」の台本を書き、且つパパゲーノ役の初演を務めた人で、ザルツブルク時代からのモーツァルトの友人でした。
役者、歌手、演出家に、台本作家で、劇場支配人、と何でも器用にこなす人だったのですが、どうしても私は気になってた事があって。
実際のシカネーダーが、実はどんな人だったんだろう、という事です。
あて書きの天才でもあったモーツァルトは、曲を見ればその初演の歌手の、なんとなくの、人となりも見えてきます。
でもだからこそ、シカネーダーの性格がよくわからなくて。
劇場の支配人で、且つ役者、歌手、台本作家として色々出来る人ならば、すごく器用な人で、才気が見えそうなもの。
なのにパパゲーノのアリアは、とても素朴でシンプル。そして自然体。
…逆の人に見える…
パパゲーノという人物を演じるのに、ある種の器用さは必要だとは思いますが、けれどあの旋律は、才気が見え、器用な人間にあて書きされたものにはどうしても思えなかった。
何でも出来て器用だけど、それが鼻につかず、むしろ素朴なものを自然体で表現できる人。そんな真反対のものを持ってる人なんて、いるの…?
どんな人なんだろう…とずっと思っていましたが、利人さんが演じているシカネーダーを見ていると納得できました。
利人さんは、ミュージカル「レミゼラブル」にも出演されている方ですから、素晴らしく演技が上手く、あらゆる事を器用にこなす。
パンフルート、鳥の扱い、お客様へのアピールもお手の物。なのに、その器用さが嫌味にならずに自然体で素朴なものをお客様に見せつつ、そこに存在してくれる。
この作品のシカネーダーは天才ではありませんが、人を愛する事を知っていて、そしてそれに信念を持っていて、自然な形のまま、喋り、そのまま歌う。まるで鼻歌を歌うように構えずにアリアを歌う。
ああ、実在のシカネーダーはこういう人だったんじゃないかな、とごく自然に納得できました。
もちろん、利人さんはそういうシカネーダーという人物を演じているのだと、理屈では分かっています。
プライベートの利人さんの性格は知りませんし、あくまで私の台本の通りに動いて下さっているだけ。
でも、その自然体なまま、「愛」だの「許し」だの、ともすると陳腐になってしまう台詞を肩の力を抜いたまま話すから、モーツァルトを演じているはずの自分にも、演じる事を忘れさせて、すとんと心に落としてしまう。
台詞の説得力がすごい。
だからモーツァルトがシカネダーと歌った「魔笛」の二重唱、「愛を感じる人ならば」のところでは、私はモーツァルトというよりも、自分の気持ちで歌っていました。
それは利人さんが、あまりに普通に、何よりも大切な事を語ってくれたから、私を納得させてくれたんだと思います。
本当にすごいです。
シカネーダー役の一番の特徴は、ただモーツァルトのそばにいるだけ。そばにいる事で、多くを語らず、寄り添い、見守ってくれる親友を表現してくれました。
この演技はおそらく、とても難しいのではないかな…何もしないで、しかしその役として存在し続けなくてはならない、という演技は…。
いつも優しくて、それでいてどこか寂しげにも見える利人さんの雰囲気は、長調の明るい曲を、明るく歌えば歌うほど、寂しく聞こえてくる。
モーツァルトの音楽の不思議な所はそこですね。逆の精神を入れれば入れるほど、ひしひしと逆の何かが伝わってくる。
お稽古の時に、パパゲーノのアリア「可愛い恋人か女房が」を歌っている利人さんを見ていたら、ああ、僕(モーツァルト)はこの人のための曲を書いたんだな、という感覚がごく自然に胸に落ちた瞬間がありました。
自分の台本で申し訳ないですが、傲慢だとも思いますが、でも私がモーツァルトになったと、自分でしっくりきた瞬間はその時でした。
たぶん、モーツァルトは肩の力を抜いてパパゲーノのアリアを書いたんじゃないかな。何かをしているシカネーダーを見て、ああ、こんな感じかな・・・と微笑みながら書いたような。
だから、「パパゲーノ」という役を書いたというよりも、やはりシカネーダーという人を投影して書いたようにしか思えません。
だからこの「モーツァルトの旅」という作品では、シカネーダー役にはテーマ曲がないんですよね。
何故なら、パパゲーノの曲全部がシカネーダーの曲だから。だって、これは実在のシカネーダーがそうだから・・・
そして、モーツァルトのオペラ三部作「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の台本を書いた、台本作家ダポンテ役はその対比となる人物でした。
二人の台本作家であるシカネーダーとダポンテの二人を、私は同じ行動をとる人たちとして書きました。モーツァルトに対して、同じように人の弱さを語り、許しを語り、オペラを書くよう勧める。
ちなみに個人的に台本でうまく書けたなーと思ってるのは、このダポンテです(笑)
しかし濃いキャラなだけあって、作品の中では、悪役(という言い方は正しくないけれど)に近い存在で。
なので、目に何かを宿している人でいて欲しかったのですが。
ダポンテ役の吉田伸昭先生の目はすごかったです・・・
お稽古で、モーツァルトがダポンテに追い詰められていく場面で、本当に怖くて、稽古なのを忘れてひたすら飲まれてしまったことも一度ではありませんでした。
キャラクターテノールの狂気って怖すぎる・・・
それでですね。
ダポンテという役のイメージは、「不思議の国のアリス」(原作ね)の、きちがい帽子屋のキャラとか、「パイレーツオブカリビアン」のジョニーデップの初登場の場面の、あの目がダポンテのイメージなんです。
そこさえズレなければ、あとはどんな役作りでも構わなくて。
で、その事を吉田先生にお話ししたら、
「僕、オペラの『不思議の国のアリス』の帽子屋、初演から三回もやったわ…」と言われ、爆笑してしまいました 笑
やはりそういうイメージなのか…笑
さて、実在のダポンテは、モーツァルトの人生において結構重要な人だったはずだと私は思うのですが、これまでのモーツァルトの舞台作品や映画においては、ほぼ語られることがありませんでした。オペラの人間としては、どうもそこが残念で。
まあダポンテを語ると、オペラについて言及することになるから、時間がかかるし難しいんでしょうけれど。
それで、台本を書くときに少し調べたら、実在のダポンテの破天荒ぶりはモーツァルトに負けてないので、何か書きやすそうな人だなー、と思いました。
まあ、そもそもああいったオペラの台本を書く時点で、普通のひとじゃないよね…と思い、だからダポンテ役はテノール(笑)
そんなわけで、今回私は「フィガロの結婚」のドン・バジリオをモデルにして、ダポンテを作りましたが、あくまでモデルはモデル。
書きあがったらもう別の感じになってましたねえ。
ただ、ダポンテが歌うバジリオのアリアの歌詞にあるように、その才気ゆえにそのまま生きることができず、本音を語らず、世の中を斜めに見てて、自嘲気味な所はそのままで。
そう、そのダポンテのテーマ曲となっているドン・バジリオのアリア「私も若いころは」は、とにかく名曲です。
「フィガロの結婚」を上演する時には通常はカットされますが、あまりにそれは勿体なさすぎる。
悲しくて仕方がない・・・
この曲は絶対にメインを張れる曲だと、私はずっと思っていたので、ダポンテが歌唱する時は、この曲を一番目立つところに配置しました。
あの明るくてコミカルに聞こえるあのアリアの裏にある、ある種の緊張感。歌詞に隠された悲劇、不条理、怒り。
それをコミカルな曲調にのせているのは何故なのか。ドン・バジリオがそう生きなければいけなかった理由は何だったのか。
その思いを、役柄に投影させて、ダポンテというキャラクターを作りました。
だから、ダポンテがアリアを歌い終えて後奏で退場する時の、客席のすごい拍手の大きさには、役を忘れて私がガッツポーズをしそうになりました(笑)
しかも、ダポンテが退場する時の吉田先生のあの目と、動きと言ったらもう、ええ、もう(興奮)
台本を書いた私の想像をはるかに超えて下さいました・・・もう絶対、吉田先生、私よりダポンテの事わかってるよなーと思います。
吉田先生、ありがとうございました・・・!
本当に理想のダポンテでした。
さて、その才能ゆえにずっと孤独の中を生きてきたダポンテは、同じように才能を持つモーツァルトに、どこかで理解を求めます。
ただ結局2人は相容れることはなく、ダポンテは孤独のまま立ち去りますが、実は、シカネーダーにはそんなダポンテも救ってほしかった。
なので、この作品は表面的な主役はモーツァルトですが、もう一人の主役はシカネーダーなんですよね。ドラえもんとのび太くんみたいもんで。どちらも主役。選べない。
で、ダポンテとモーツァルト、天才と呼ばれる二人が行きつけなかったところに、シカネーダーは到達していてほしかった。
敢えていうなら、シカネーダーが持っていたのは、人を愛する才能でしょうか。
この世で一番大事なのは、どんな才能よりも人を愛する事なんだよ、と変な主張をするわけでもなく言ってほしかった。
実際、実在したモーツァルトは、作品の中でそう言っていたと思うので。
だから今回の「モーツァルトの旅」という作品では、シカネーダーが、真のモーツァルトの代弁者だったのかもしれないなあ、と今書いてて思いました。利人さん、ありがとう(笑)
さて、まだもう少しだけ、続きます。訳詞の事とかを書きますー。
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実在のシカネーダーは台本作家で、「魔笛」の台本を書き、且つパパゲーノ役の初演を務めた人で、ザルツブルク時代からのモーツァルトの友人でした。
役者、歌手、演出家に、台本作家で、劇場支配人、と何でも器用にこなす人だったのですが、どうしても私は気になってた事があって。
実際のシカネーダーが、実はどんな人だったんだろう、という事です。
あて書きの天才でもあったモーツァルトは、曲を見ればその初演の歌手の、なんとなくの、人となりも見えてきます。
でもだからこそ、シカネーダーの性格がよくわからなくて。
劇場の支配人で、且つ役者、歌手、台本作家として色々出来る人ならば、すごく器用な人で、才気が見えそうなもの。
なのにパパゲーノのアリアは、とても素朴でシンプル。そして自然体。
…逆の人に見える…
パパゲーノという人物を演じるのに、ある種の器用さは必要だとは思いますが、けれどあの旋律は、才気が見え、器用な人間にあて書きされたものにはどうしても思えなかった。
何でも出来て器用だけど、それが鼻につかず、むしろ素朴なものを自然体で表現できる人。そんな真反対のものを持ってる人なんて、いるの…?
どんな人なんだろう…とずっと思っていましたが、利人さんが演じているシカネーダーを見ていると納得できました。
利人さんは、ミュージカル「レミゼラブル」にも出演されている方ですから、素晴らしく演技が上手く、あらゆる事を器用にこなす。
パンフルート、鳥の扱い、お客様へのアピールもお手の物。なのに、その器用さが嫌味にならずに自然体で素朴なものをお客様に見せつつ、そこに存在してくれる。
この作品のシカネーダーは天才ではありませんが、人を愛する事を知っていて、そしてそれに信念を持っていて、自然な形のまま、喋り、そのまま歌う。まるで鼻歌を歌うように構えずにアリアを歌う。
ああ、実在のシカネーダーはこういう人だったんじゃないかな、とごく自然に納得できました。
もちろん、利人さんはそういうシカネーダーという人物を演じているのだと、理屈では分かっています。
プライベートの利人さんの性格は知りませんし、あくまで私の台本の通りに動いて下さっているだけ。
でも、その自然体なまま、「愛」だの「許し」だの、ともすると陳腐になってしまう台詞を肩の力を抜いたまま話すから、モーツァルトを演じているはずの自分にも、演じる事を忘れさせて、すとんと心に落としてしまう。
台詞の説得力がすごい。
だからモーツァルトがシカネダーと歌った「魔笛」の二重唱、「愛を感じる人ならば」のところでは、私はモーツァルトというよりも、自分の気持ちで歌っていました。
それは利人さんが、あまりに普通に、何よりも大切な事を語ってくれたから、私を納得させてくれたんだと思います。
本当にすごいです。
シカネーダー役の一番の特徴は、ただモーツァルトのそばにいるだけ。そばにいる事で、多くを語らず、寄り添い、見守ってくれる親友を表現してくれました。
この演技はおそらく、とても難しいのではないかな…何もしないで、しかしその役として存在し続けなくてはならない、という演技は…。
いつも優しくて、それでいてどこか寂しげにも見える利人さんの雰囲気は、長調の明るい曲を、明るく歌えば歌うほど、寂しく聞こえてくる。
モーツァルトの音楽の不思議な所はそこですね。逆の精神を入れれば入れるほど、ひしひしと逆の何かが伝わってくる。
お稽古の時に、パパゲーノのアリア「可愛い恋人か女房が」を歌っている利人さんを見ていたら、ああ、僕(モーツァルト)はこの人のための曲を書いたんだな、という感覚がごく自然に胸に落ちた瞬間がありました。
自分の台本で申し訳ないですが、傲慢だとも思いますが、でも私がモーツァルトになったと、自分でしっくりきた瞬間はその時でした。
たぶん、モーツァルトは肩の力を抜いてパパゲーノのアリアを書いたんじゃないかな。何かをしているシカネーダーを見て、ああ、こんな感じかな・・・と微笑みながら書いたような。
だから、「パパゲーノ」という役を書いたというよりも、やはりシカネーダーという人を投影して書いたようにしか思えません。
だからこの「モーツァルトの旅」という作品では、シカネーダー役にはテーマ曲がないんですよね。
何故なら、パパゲーノの曲全部がシカネーダーの曲だから。だって、これは実在のシカネーダーがそうだから・・・
そして、モーツァルトのオペラ三部作「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の台本を書いた、台本作家ダポンテ役はその対比となる人物でした。
二人の台本作家であるシカネーダーとダポンテの二人を、私は同じ行動をとる人たちとして書きました。モーツァルトに対して、同じように人の弱さを語り、許しを語り、オペラを書くよう勧める。
ちなみに個人的に台本でうまく書けたなーと思ってるのは、このダポンテです(笑)
しかし濃いキャラなだけあって、作品の中では、悪役(という言い方は正しくないけれど)に近い存在で。
なので、目に何かを宿している人でいて欲しかったのですが。
ダポンテ役の吉田伸昭先生の目はすごかったです・・・
お稽古で、モーツァルトがダポンテに追い詰められていく場面で、本当に怖くて、稽古なのを忘れてひたすら飲まれてしまったことも一度ではありませんでした。
キャラクターテノールの狂気って怖すぎる・・・
それでですね。
ダポンテという役のイメージは、「不思議の国のアリス」(原作ね)の、きちがい帽子屋のキャラとか、「パイレーツオブカリビアン」のジョニーデップの初登場の場面の、あの目がダポンテのイメージなんです。
そこさえズレなければ、あとはどんな役作りでも構わなくて。
で、その事を吉田先生にお話ししたら、
「僕、オペラの『不思議の国のアリス』の帽子屋、初演から三回もやったわ…」と言われ、爆笑してしまいました 笑
やはりそういうイメージなのか…笑
さて、実在のダポンテは、モーツァルトの人生において結構重要な人だったはずだと私は思うのですが、これまでのモーツァルトの舞台作品や映画においては、ほぼ語られることがありませんでした。オペラの人間としては、どうもそこが残念で。
まあダポンテを語ると、オペラについて言及することになるから、時間がかかるし難しいんでしょうけれど。
それで、台本を書くときに少し調べたら、実在のダポンテの破天荒ぶりはモーツァルトに負けてないので、何か書きやすそうな人だなー、と思いました。
まあ、そもそもああいったオペラの台本を書く時点で、普通のひとじゃないよね…と思い、だからダポンテ役はテノール(笑)
そんなわけで、今回私は「フィガロの結婚」のドン・バジリオをモデルにして、ダポンテを作りましたが、あくまでモデルはモデル。
書きあがったらもう別の感じになってましたねえ。
ただ、ダポンテが歌うバジリオのアリアの歌詞にあるように、その才気ゆえにそのまま生きることができず、本音を語らず、世の中を斜めに見てて、自嘲気味な所はそのままで。
そう、そのダポンテのテーマ曲となっているドン・バジリオのアリア「私も若いころは」は、とにかく名曲です。
「フィガロの結婚」を上演する時には通常はカットされますが、あまりにそれは勿体なさすぎる。
悲しくて仕方がない・・・
この曲は絶対にメインを張れる曲だと、私はずっと思っていたので、ダポンテが歌唱する時は、この曲を一番目立つところに配置しました。
あの明るくてコミカルに聞こえるあのアリアの裏にある、ある種の緊張感。歌詞に隠された悲劇、不条理、怒り。
それをコミカルな曲調にのせているのは何故なのか。ドン・バジリオがそう生きなければいけなかった理由は何だったのか。
その思いを、役柄に投影させて、ダポンテというキャラクターを作りました。
だから、ダポンテがアリアを歌い終えて後奏で退場する時の、客席のすごい拍手の大きさには、役を忘れて私がガッツポーズをしそうになりました(笑)
しかも、ダポンテが退場する時の吉田先生のあの目と、動きと言ったらもう、ええ、もう(興奮)
台本を書いた私の想像をはるかに超えて下さいました・・・もう絶対、吉田先生、私よりダポンテの事わかってるよなーと思います。
吉田先生、ありがとうございました・・・!
本当に理想のダポンテでした。
さて、その才能ゆえにずっと孤独の中を生きてきたダポンテは、同じように才能を持つモーツァルトに、どこかで理解を求めます。
ただ結局2人は相容れることはなく、ダポンテは孤独のまま立ち去りますが、実は、シカネーダーにはそんなダポンテも救ってほしかった。
なので、この作品は表面的な主役はモーツァルトですが、もう一人の主役はシカネーダーなんですよね。ドラえもんとのび太くんみたいもんで。どちらも主役。選べない。
で、ダポンテとモーツァルト、天才と呼ばれる二人が行きつけなかったところに、シカネーダーは到達していてほしかった。
敢えていうなら、シカネーダーが持っていたのは、人を愛する才能でしょうか。
この世で一番大事なのは、どんな才能よりも人を愛する事なんだよ、と変な主張をするわけでもなく言ってほしかった。
実際、実在したモーツァルトは、作品の中でそう言っていたと思うので。
だから今回の「モーツァルトの旅」という作品では、シカネーダーが、真のモーツァルトの代弁者だったのかもしれないなあ、と今書いてて思いました。利人さん、ありがとう(笑)
さて、まだもう少しだけ、続きます。訳詞の事とかを書きますー。
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これで、『モーツァルトの旅』への期待感が00倍膨らみました☺️
楽しみにしています⤴︎
台本書く時は、色々考えますね。
邦恵ちゃん演じるナンネル役&ナンシー役も、モーツァルトの最高傑作と言われるコンサートアリアを歌って頂くので、ご期待下さい!