kakaaの徒然な日記

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日航機事故の日に思い起こす僕の「他人の痛みに無頓着な報道」

2021-08-14 19:52:06 | 記事銘々・現代の世相

フリーでご活躍の相澤冬樹氏のブログより転載です。

日航機事故の日に思い起こす僕の「他人の痛みに無頓着な報道」

 8月12日、日航機墜落事故から36年。今年も多くの報道がありました。私はこの日、初めて墜落現場の御巣鷹の尾根に登り、そこで思わぬ出会いをしました。そして自分の22年前の「他人の痛みに無頓着な報道」について思い起こしました。
相澤冬樹
2021.08.14
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それでは、僕の不思議なめぐり合わせの出来事をご紹介します。 

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 8月12日、群馬県上野村、御巣鷹の尾根。36年前のこの日、日航ジャンボ機が墜落、520人が亡くなる大惨事が起きた。僕は知人の誘いで今年初めて、御巣鷹の尾根に登った。墜落現場の「招魂の碑」に到着すると、ご遺族で作る「8・12連絡会」の事務局長、美谷島邦子さん(74)が語り掛けてきた。今年の3・11の日に東日本大震災の被災地でご挨拶したことがあったのだ。

柳田先生がもうすぐいらっしゃいますよ。ご紹介しましょうか?」

 柳田先生とは、有名な航空評論家でノンフィクション作家の柳田邦男さんのこと。1960年NHK入局だから僕の27年上の先輩だ。1985年日航機事故の時はもうNHKを辞めて評論家や作家として活躍していたが、NHKに呼ばれて報道特別番組に出演している。だから墜落現場を訪れるのは自然なことではあるが、もう85歳になる。僕はびっくりして尋ねた。

「えっ、もう80歳を超えていますよね。ご自分で登ってくるんですか?」

「ええ、毎年登ってこられますよ

日航機が墜落した御巣鷹の尾根の「昇魂の碑」前で追悼の風船を吹く人々(筆者撮影)
日航機が墜落した御巣鷹の尾根の「昇魂の碑」前で追悼の風船を吹く人々(筆者撮影)

 登山口から墜落現場まで30分ほど、かなりの坂を登ることになる。それでも柳田邦男さんは、ゆっくりと、でもしっかりした足取りで、現場の尾根まで登ってきた。柳田さんが姿を見せると、ご遺族や関係者がすぐに周りを囲んで次々に話しかける。それに気さくに答える姿を見て、僕は22年前の出来事を思い出した。これまで34年間の記者人生の中で痛恨の出来事を。それを大先輩に厳しく指摘されたことを。

***

 1999年、僕は東京のNHK報道局社会部で、当時の厚生省(合併後は厚生労働省)を担当していた。その頃の厚生省担当記者にとって重要なミッション、それは法に基づく初の脳死臓器移植に備えることだった。

 前年に臓器移植法が施行され、脳死からの臓器移植が可能になった。しかし手続きが厳格だったこともあって提供者がなかなか現れず、脳死からの移植がいつどのような形で行われるのかが、大きな社会的関心事になっていた。

 1999年2月、法の施行から1年半を経てついにその日が訪れた。

高知赤十字病院で脳死とみられる患者が現れた。これから脳死判定に入る模様」

 この情報をNHKのある記者がキャッチした。しかし情報は裏付けなしには報道できない。厚生省の担当部局である臓器移植対策室から裏取りをする。それが僕のミッションだった。

 しかし、法に基づく初の脳死判定に入るかどうかの瀬戸際だ。対策室の職員はみなピリピリしている。入り口には「部外者立入禁止」の表示が掲げられた。それ自体、緊急事態が起きていることを物語る。そのうち他社の記者も情報を得たのか、ちらほら姿を見せるようになった。

 女性職員が部屋から出てきた。ぶら下がろうとするが女子トイレに入っていく。もちろん僕は追跡できないが、後輩の女性記者が後を追った。敏腕で数々の特ダネを物していた記者だ。しかし出てきて一言、「ダメです。普段と違ってまるで堅い

 別の職員が1枚の紙を手に対策室から出てきた。これはきっと脳死判定に関する文書を回覧するためコピーをとりに行くに違いない。そう思った僕は、あえて途中で話しかけず、コピー室までついていった。職員が中に入ると僕も迷わず入り込む。彼がコピー機に文書を置こうとした瞬間、僕は「すみません、ちょっと」と言いながら、彼が持っている文書をのぞき込んだ。もしかしたら手を伸ばして少し引き寄せたかもしれない。職員は困惑した表情を浮かべたが、僕の行動を阻止しようとはしなかった。かねてから親しく話をする関係だった。文書には、ほんの数行の文面にはっきり「脳死判定に入る」という文字が見て取れた。「失礼しました」と言いながらコピー室を出て局内のデスクに連絡した。

「脳死判定に入ります。臓器移植対策室で確認できました」

 それからものの数分だったと思う。NHKの夜7時のニュースで「初の脳死判定へ」の速報が流れた。直後、臓器移植対策室の室長は怒り狂った。

「あなたたち、やってくれたね。うまくいかなかったらどう責任を取ってくれるんだ!」

「自分たちでしたことですから、自分たちで責任を取ります

 そう答えたものの、その時の僕に「これでいいんだ」という確信はなかった。当時NHKでは、初の脳死移植に向けた報道は「脳死判定に入るのが間違いないと厚生省で確認できた時点で放送に踏み切る」と方針を決めていた。だから僕が確認した直後にニュースが流れたのだが、肝心の僕自身はこの方針をよく理解していなかった。だからニュース速報が流れて自分自身が驚いた。脳死判定前という、このタイミング。脳死判定は本人の意志に加え家族の同意も必要とされていた。家族が同意を覆せば判定は行われない。脳死移植も行われない。臓器移植対策室長が怒り狂ったのは、そういう事態になることを怖れたからだろう。そんなタイミングで速報を出すなんて、本当にいいのか?

 そしてNHKの速報をきっかけにマスコミ各社が病院に殺到し、集中豪雨のような取材報道が始まった。患者や家族のプライバシーが報道されて患者が特定される事態が生じた。脳死判定が終わる前から「臓器は大丈夫か?」という質問が会見で出るなど、あたかも人の死を待ち望むような報道がまかり通った。そのすべての始まりはあの時のNHKの速報で、それは僕の情報確認に基づいている。

社会部から異動する送別会での筆者(2000年)。横であいさつしているのが一緒に厚生省を担当した後輩記者
社会部から異動する送別会での筆者(2000年)。横であいさつしているのが一緒に厚生省を担当した後輩記者

 その年の5月、厚生省の臓器移植専門委員会が開かれ、高知での初の脳死判定と移植が検証課題となった。参考人の一人として意見を述べたのが、大先輩である柳田邦男さんだった。柳田さんは航空機事故報道のスペシャリストとしてだけではなく、ご子息を脳死状態の末に亡くした体験を出版するなど、人の死をめぐる倫理上の問題にも造詣が深い。脳死移植の検証にまさにぴったりだ。柳田さんはその席で次のように指摘した。

「高知での報道の実態というのは、まさに人間というのは他人の痛みにいかに無頓着でいられるかということ、そういうことに通じるのではないかと思うのです。それはどういうことかといいますと、NHKが19時のニュースで第一報を流して、それから騒然となったわけですが、一体なぜあの段階でニュースが流れたのか

「私はNHK出身でありますが、今回のNHK報道に対しては、大変に胸の痛い思いをするのです

 僕は担当記者としてこの委員会を取材していた。柳田さんの指摘が胸に刺さった。「ああ、やっぱり」という思い。正直言って動揺した。でも記者として反発する気持ちもあった。

「僕は事実確認にあたる役目だったのだ。あれは記者としてのミッションを果たしたのだ」

 会場からの帰り道、一緒に取材していた1年上の先輩記者に愚痴をこぼした。

「柳田さんもNHKの先輩記者なのに、あの言い方はないですよね」

「そうだよ。相澤の情報があったから一報のニュースが出せたんだから、気にするなよ」

 そんな風に慰めてもらいながら、歩いて厚生省内の記者クラブに戻った。そこから局内の担当デスクに電話で内容を報告すると、デスクが怒りだした。

「お前、何でそんな重要なことをすぐに会場から報告しない? 柳田さんの指摘にNHKとして準備しなきゃいけないだろう!

 …踏んだり蹴ったりだ。

 でも、あの時のことはずっと心に刺さっていた。今改めて振り返ってみると、やはり私の行動には問題があった。脳死判定に入る確認をしたあの時、判定を受ける患者やご家族に思いを致す気持ちが私の中にあったかといえば、それはなかった。ただ上司に言われたミッションとして「情報を確認する」作業を行っていた。当事者に配慮する気持ちがないまま取材していた責任を、あの時、柳田さんに指摘されたのだと思う。記者はそれではダメなのだ。

柳田邦男さん(御巣鷹の尾根で筆者撮影)
柳田邦男さん(御巣鷹の尾根で筆者撮影)

 あの日、厳しい指摘を受けた大先輩が今、目の前にいる。周りを囲んだ人々とのお話が一段落したところで、美谷島さんが柳田さんに紹介してくれた。

「先生、こちら相澤さんとおっしゃって、森友の事件や財務省の公文書改ざんや赤木雅子さんの取材をしている、先生の後輩です」

 柳田さんは優しく微笑みながら僕に語り掛けた。

「ほほう、あなたですか。記事を読んでいますよ。いろいろ書いていますね。これからもしっかりやってください」

 柳田さんが僕の仕事を知っていてくれた。そこで慌てて返事をした。

「22年前、初の脳死移植の後、柳田さんが検証委員会で意見を述べた時に、私はあの場にいました。ご指摘ありがとうございました」

 短時間のことで、それだけ言うのが精いっぱいだった。柳田さんにうまく伝わらなかったかもしれない。でも僕にとっては、あの時のことに自分の中で一つの整理をつけることができた。

 御巣鷹の尾根で柳田邦男さんに初めてお会いできるなんて、僕はツイている

御巣鷹の尾根での筆者
御巣鷹の尾根での筆者
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 初の脳死臓器移植をめぐる出来事については、拙著「真実をつかむ~調べて聞いて書く技術」(角川新書)の第4章「夢とは違った社会部の現実」で、さらに詳しく書いています。

 今回も記事をお読みいただき、どうもありがとうございます。もしも内容に共感していただけましたら、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどで投稿してください。読者の皆さまの反響が励みになります。よろしくお願い致します。

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