仏教ではこの世を現世(げんせ)と呼びます。私たちは現世に今、生きているわけですがこの現世に生まれる前に、すでに魂があって生きていたと考えます。生まれる前の時間を過去世(かこぜ)と呼びます。過去世は長い長い、無限の時だったと考えます。
過去世から、私たちは選ばれて現世に生まれるわけですが、生まれたとたん、過去世の記憶は失っていますので、どんな暮らし方を過去世でしてきたか覚えていません。
現世で、八十年か百年生きたら、私たちは必ず死にます。死んでも、魂は生きつづけていきます。死んだ後の世界を来世(らいせ)と呼びます。来世は過去世と同じく、やはり無限のはるかな時間を持っています。
悠久の時にはさまれた現世
私たちの今生きている現世は、悠久(ゆうきゅう)の過去世と悠久の未来にはさまれたほんの短い時間です。せいぜい長くて百年ばかりです。
たとえていえば、サンドイッチのパンにはさまれてたハムよりも薄い短い時間です。
その短いこの世で、私たちは、あれこれと悩み、煩悩に苦しみ、病苦に責められ、死んでいくのです。
どんな金持ちになろうと、出世栄達しようと、死んであの世に行く時は、財物も名誉も何ひとつ持っていくことはできません。この現世だけがすべてだとしたら、なんとはかないむなしい人生でしょう。
私たちが、この世だけの生き物だとしたら、本当につまら
ない。人間はどこから来て、どこへ行くのか、あらゆる哲学
はここから生まれています、あらゆる芸術もそれを追求しつ
づけてきました。
仏教は過去世(かこせ)、現世(げんせ)、来世(らいせ)という三つの世を人間は行きつ
づけると考えたのです。これを三世(さんぜ)の思想といいます。
私たちはこの世での快楽だけに満足しようとしたり、この
世で苦労に不平不満を吐いたりしますが、悠久(ゆうきゅう)の三世(さんぜ)の時
間の中では、現世(げんせ)なんて、ほんの一つの点にすぎないものだ
と思えば、心にゆとりが生まれます。
この世の苦労は、来世でよりよい生活が出来るための修行
だと思えば耐えることができるでしょう。
私が出家して横川(よかわ)の行院(こういん)で行をしていた時三(さん)千仏(ぜんぶつ)礼拝(らいはい)という一番厳しい行がありました。
三千仏の名を称(とな)えながら一日に三千回五体(ごたい)投地礼(とうちらい)をするの
です。三千仏とは何かといえば、過去世(かこぜ)、現世(げんせ)、来世(らいせ)の三劫(さんごう)に出現する三千の仏陀(ぶつだ)だと教えられてきました。三千の仏名はとても覚えられず、教師から口移しに称えながら、無我夢中で五体投地礼をつづけたものです。
三千の仏名はすべて忘れましたが、あの苦しさと、終わったあとの爽快感(そうかいかん)だけは、三十年後の今も、なまなましく身にも心にもありありと残っています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます