僕の旅と彼方の友と

旅が好きアマチュア無線が好き、そんな僕の呑気な日々を綴ります。

「三方よし」の心得・近江商人の街『五個荘』

2008年08月16日 09時57分34秒 | 旅の思い出

 近江八幡より遅れ江戸後期になって五個荘・愛知川・能登側・高宮などの愛知川流域を中心とする地域から湖東商人が登場しました。てんびんを担いだ行商から身を立て大店を築いた人々・・・。明治の世となっても営業の本拠を東京・大阪・京都などへ移し、さらに活動を活発化させました。『伊藤忠商事』や『丸紅』の創始者である伊藤忠兵衛もこの地域から身を起こした人です。




 五個荘は町全体に旧商家が散在しています。船板塀の蔵屋敷。履物屋さんの屋号が『ゲタ音』ってのがいいですねぇ。




♪眩く白い長い壁  堀のせせらぎが暑さを少し癒してくれます。




 画像右側は神社ですが、その前の堀には錦鯉が泳いでいました。優雅です!




 白と黒のコントラストが美しいです。唐突ですがフランス人はこの手の表現を好むようです。



 懐かしいですねぇ。昔はガチャコンポンプと呼んでいました。汲み出すとき、少し水を入れてからでないと水を出すことが出来ません。

 このポンプ、今は使われていないようです。





 合ってます、ピッタリですねぇ。これが今風の四角いポストだったらと思うとゾッとします。




 訪れた日は月曜日ですべての飲食店・博物館などはお休みでした。残念無念。



 「暑いよお~っ、喉が渇いたよお~っ、お腹空いたよ~っ、何処かで休みたいよお~っ!」と言ってもどうしようもありません。

  ※この向日葵ゆうに2mはありました。こんなデカイやつを見たのは久しぶりでした。






 『中江準五郎邸』このお屋敷も休館です。




 個人的には関西のうどんは大好きで是非食べてみたかったんですが・・・お休みでした。



 どこか一軒くらいと探しましたが。






 蔵屋敷が静かにたたずんでいるだけでした。皆さんがお尋ねの際は月曜日は避けた方が良いかもしれません。




 結局のところ観光客用の無料駐車場の車の中でエアコンをかけて一休み。昼食についてはこの日ありつけられませんでした。

おわりに・・・
「三方よし」とは近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼得ることが何より大切でした。そのための心得として説かれたのが売り手よし買い手よし世間よしの「三方よし」です。取引は、当事者間だけでなく、世間の為にもなるものでなければならいと説いた言葉です。
            ※「近江商人ゆかりの町連合会」パンフレットより


           ◎「近江の旅」シリーズまだ続きます。
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旧陸軍八日市飛行場・『掩体壕』

2008年08月15日 08時08分15秒 | 旅の思い出

 滋賀県東近江市は農地・工業地・住宅地等が広がっていますが、かつてここに広大な陸軍の飛行場がありました。



 その飛行場の施設の一つが今も残っています。軍用機の掩体壕(えんたいごう)です。掩体とは敵弾から射手を守るための諸設備のことですが、これは軍用機を敵の攻撃から守る設備です。航空機を格納するのですから、やはりそれなりの大きさです。身長165Cmの僕と比較しすれば、大体の大きさを想像していていただけると思います。

 この掩体壕は、地籍としては滋賀県東近江市柴原南町にあります。車でお越しの際はカーナビで「名神八日市カントリークラブ」を検索していただき、その後手動で上記goo地図で表示されている部分あたりまでポイント移動して頂ければ簡単に来る事ができます。僕はこの方法で来ました。
 カーナビをお持ちでない方は、滋賀県道45号石原八日市線(大凧通り)を市役所方面から南下して、名神高速のガードをくぐって少し先のT字路を左折します。さらに少し行くと名神高速の側道になります。
すると右手方向にサイクリング道路の案内板が見えます。この『掩体壕』はこのサイクリング道路沿いにあるので、適当なところに車を停めて見学してください。





とりあえず、その全体像を動画で掲載してみました。保存状態が悪く、かなり痛んでいます。



 向かって右側にある付帯施設です。



 向かって左側にある付帯施設です。



 前方の張り出し部分は人為的に破壊されたようにも見えます。



 コンクリートの材料として、その辺の川原から適当に集めてきた砂利を使用したような感じです。実際近くで見ると砂利の間に空隙がある個所もあります。たぶん、風雪による侵食ではなく建設当時からのもで、敵の攻撃が激しくなり練りを十分かける暇も無く急遽建造されたものと想像しています。
 実際にこの飛行場に勤務していた人の話ですが、敵の艦載機から20㎜の攻撃を受けここへ駆け込んで難を逃れたという話を聞いたことがあります。さすがに爆弾には耐えられなかったかもしれませんが、艦載機による銃撃程度には耐えたようです。



 中にはスズメバチ?が巣を作っていました。



 戦争が終わって60年以上経ちました。かつての軍用飛行場も今では長閑な風景に変わっています。

おわりに・・・
 近い将来、この飛行場に勤務していた人の手記『我 予定高度二 到達セリ』を掲載する予定です。どうぞお楽しみに。

         ◎「近江の旅」シリーズまだまだ続きます。
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木曾街道『愛知川宿』

2008年08月14日 21時07分44秒 | 旅の思い出

 名神高速道路を彦根インターで降り、旧中仙道を京都方面に向けて車を走らせます。しばらく行くと、かつての賑わいを今も残す町並み・常夜灯・松並木の道を随所に見ることが出来ます。

 そんな風情を残す街々の奥にかつての宿場町『愛知川宿』があります。


 かなり古い建物でも残されています。この家は前から見ると小さいのですが、奥は広く大きくなっています。引き戸を開けると土間があり奥に向かって右側に座敷がある造りになっています。



 大正浪漫田舎風?といった感じでショーウィンドウがある家です。眺めているだけで何かホッとします。



 古い家屋が続く通りもあります。

 訪れた日は35度を越す猛暑日でした。僕はうだってましたが、蝉は元気に鳴いていました。



 最近はコンクリート製のスリット側溝が使われだしているようですが、このような石造りの側溝も随所に残されています。


 農業用水と下水を分けているんでしょうか、僕は初めて見ました。




 街の中に大きな石造りの灯がありました。かなり古そうですが電気のコードが残念です。



 近江鉄道「ゑちがわ駅」です。こじんまりとした綺麗な駅でした。




 こんな電車が走っています。単線で単車両なのが何となく魅力です。

 

 駅舎の中では、町の伝承工芸の『びん細工手まり』が展示されていました。その名のとおり瓶の中に手まりが入っています。


 作っているところは見てないのですが、瓶の中にピンセットで模型の船を組み立てるのと同じ方法と思われます。だって3次元空間では他に方法が有りません。



 と言う訳で、駅のポストもこんな容でした。お土産にとも思ったのですが一番安い物で20,000円です、僕には手が出せませんでした。「私なら買う!」というブルジョアな方は→現地へ行って買うかまたはびんてまり細工購入ガイドが参考になります。



 街には造り酒屋さんもあります。『藤居本家』さんです。かなり大きな建屋でレンガ造りの煙突も魅力です。



 店売りもしています。一斗樽と比較してみても判ると思いますが、かなり大きな建屋です。
 僕はこちらをお土産にしたかったのですが、朝早く行った為開いてませんでした。ネットで買います。

おわりに・・・ 
 かつて織田信長は稲葉山城(現 岐阜城)を落した後ここ愛知川で布陣、対岸にある「和田山城」・「観音寺城」・「箕作城」を攻め落とした記録があるそうです。今回の旅ではこの街にその戦跡を見つけることは出来ませんでした。



◎「近江の旅」シリーズまだまだ続きます。
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伊豆紀行・二日目です。

2008年04月14日 23時58分40秒 | 旅の思い出
 今、会社から帰って伊豆旅行の写真をプリントアウトしながら、DVDに焼きながらの、ながらながらでこのブログを書いています。どちらも今日中には無理だろうなあなどと思いながら・・・。

 さて二日目の最初は堂ヶ島の洞窟めぐり、遊覧船でのクルージングです。なにはともあれ動画をどうぞ。


 画質が良くないですね。ソースはそうでもないんですけど、アップロードするのにどうしても大きめに圧縮するので荒くなってしまいます。



 松島もいいけど堂ヶ島もいいです。とくに「天窓洞」は是非にも勧めます。この動画よりやっぱりLiveで観る感動は言葉がありません。


さて、「天窓洞」を満喫した後は『加山雄三ミュージアム』の見学です。
 入り口近くに「光進丸」の模型が展示されてありました、こちらは初代です。

 こちらは二代目「光進丸」です。普通の人は一艘でも無理なのに・・・。

 今の「光進丸」です。僕は船の免許も持っていないし、別に羨ましいとは思わないけど・・・。


 これは未来の「光進丸」?金持ちはどこまでも贅沢です。

 往年の加山雄三の写真がパネル展示してありました、懐かしいです。

 氏は鉄道模型も趣味なんだそうな。良く出来ています。動かせられないのが残念ですけど。
 他にもいっぱいの展示がありました。船の操舵室からギター・ゴールドディスク等等、そこそこ楽しめます。

 昼食の時間になりました。三年長生きの「ウルトラ生ジュース」で有名な『伊豆オレンジセンター』で戴きます。

 品は「金目鯛の煮付け定食」です。なかなか美味しかったです。お土産に買って帰りました。

 今回の旅の最後の見学地は『大室山さくらの里』です。さすがにまだ咲いてる木が幾つもありました。奥の「大室山」は山菜が獲れるので立ち入り禁止だとか・・・。んまぁ、分かるような気もします。
 何はともあれ今回の旅はこれで終わり。また旅の日を楽しみにしています。
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伊豆紀行 一日目です。

2008年04月13日 19時45分45秒 | 旅の思い出

 4月11・12日の両日、会社の旅行で伊豆へ行ってきました。天気は晴れてはいなかったのですが、雨に降られること無くまずまずでした。

 都内某所に集合した一行は伊豆は向かいます。バスの中で早速PCをいじくってる人がいました。何しに行くのか分かってるんでしょうか、慰安ですよぉ!い・あ・ん!


 バスは少し走って一先ず東名高速の「海老名サービスエリア」にて休憩。有名な『ぽるとがる』のメロンパンを頂きました。う~んやっぱり美味しかったです。この後「足柄サービスエリア」にて再休息しましたがそこについては割愛させていただきました。

 まだお昼前ですが『沼津ぐるめ街道の駅』にて昼食です。


 メニューは「桜海老の釜飯」です。少なめの桜海老でしたが美味しかったです。さてこの後、一路『三島大社』へ向かいます。


 『三島大社』に着きました。桜がまだ少しだけ残っていました。



 祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)大山祇神(おおやまつみのかみ)だそうな。神話はむか~し、「古事記」を読んだだけです。どんな言われのある神様かは知りません。ここで買ったお土産の名前は忘れましたが餡子のお菓子を、バスの中で皆で分けて食べました。この後はホテルへ向かいます。

 ホテルに着いて驚いたのは、なんと日本で唯一ナンバー無しで公道を走れる車が、まさに出立しようとしていたところです。もちろん嘘で、この画像はこのホテルに両陛下がご滞在された時のものです。

 ホテルの部屋からの眺めはなかなかのものでした。今夜の宴会までまだかなり時間があるので、風呂に入ってその後海岸を散策してみることにしました。


 日の入りの時刻になってきましたが、残念ながら曇っていて良い映像が撮れませんでした。波の音だけでもお楽しみください。


 S氏が波打ち際でなにか考え事でも・・・。あと少しで宴会が始まりますが、このブログでは割愛させて頂くことにしました。明日は洞窟めぐりの遊覧船に乗ります。 
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暑かったあの夏!

2008年02月26日 23時04分58秒 | 旅の思い出
 携帯電話のメモリーを整理しようとしたら、昨年の夏に撮影した動画がでてきました。車のダッシュボードに取り付けて撮影したものです。一応記録として「ClipLife」にアップロードしたものをブログに載せました。あんまり面白くありませんが個人的記録として載せた事をご理解下さい。


 この映像はたしか昨年の夏、郡上八幡から高山市へ向かおうと高速道路へ乗ろうとしているところだと思います。カーナビの音声が良く聞き取れません。



 高速道路を走行しているところです。一人でハンドルを握っていると何を喋っているのか自分でも分からなくなります。後でこの様に見てみると自分で自分の事を「アホちゃうやろかコイツは・・・。」なんて思ってしまいます。
                          暑い夏の思い出でした。
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飛騨高山の夏・白川郷編

2007年08月31日 22時12分03秒 | 旅の思い出

 昭和42年(1967)の“加須良集落”集団離村を機に、白川村は“民家保存モデル”として「村立白川郷合掌村」(現・・合掌造り民家園)を設立しました。
白川村の保存運動の原点となりました。
               合掌造り民家園パンフレットより。

 野外博物館『合掌造り民家園』の入園料は大人500円・子供(小中高)300円です。


 青い空と雲、山の端と合掌の屋根、蝉の声とせせらぎ。真夏の白川郷です。



 沢山の観光客がいて、人が写らないようにするのに工夫が必要でした。
 

 建屋100坪くらいはあるんじゃないかと思うくらいの大きな住宅が幾つもあります。


 勿論家の中も十分な広さです。囲炉裏も広間の中に複数ありました。昔は大家族だったのでこれくらいは普通だったのでしょう。
 

 一つの囲炉裏の大きさも若干大き目のような気もしました。



 大八車の存在に違和感を感じません。まるで江戸時代にタイムスリップしたようです。ここでは時間がゆっくりと流れているようです。



 「ふう~っ」と息を吐きたくなる風景。村全体がそんな中にあります。



 昔は実際に使用されていました。



 こちらは民家園に隣接する住宅です。
 


 今でも集落は存在しています。昔とは異なり今ではかなり財政は豊からしいです。良かったですね!

深山も古里なれば
これ地上の楽園
ともし火細くとも睦みて
太古永遠を語る
この里に老いを養うて
青年は去らず

 海野金一郎
 『飛騨の夜明け』“孤村のともし火”より
 
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飛騨高山の夏・高山古い町並み編

2007年08月25日 13時59分19秒 | 旅の思い出

 岐阜県高山市内を流れる宮川の川端で朝市が開かれていました。夏の時期は観光用でしょうか何時もやっているようです。

 河川敷はよく整備されていて、見学に疲れたから一休み、というのに良いようです。


 朝市では地元の夏野菜や民芸品等が売られていました。飛騨牛の串焼きも売っていてとても美味しかったです。値段は忘れましたが2本位食べました。




 朝市の近く、観光名所となっている古い町並みです。暑かったですがたっぷり散策しました。

 コントラストが良くありませんが、かなり大きな家です。住んでみたいです。


 軒下を流れているのは下水ではありません。雨水排水はあるようですが、多分昔は生活用水と利用されていたと思います。




 そんな施設を利用して、からくり人形が展示されていました。撮影者の技術不足で良く分からないと思いますが、箱の中の物は一回毎に変わっています。「水流からくり人形」を御覧ください。

 とにかく暑かったんですが沢山の観光客が訪れていました。



 こちらは造り酒屋さんです。軒下に吊るされている物は「杉玉」と呼ばれるもので、新酒が出来ると新しく仕立てたものを軒下に飾るんだそうな。材質は杉の葉で、これを束ねて直径40cmほどの球形にまとめます。初めは緑色をしている物が時間が経つに連れて枯れて茶色く変色する様子から、新酒の熟成時期を知らせるとか言われているそうな。

 美味しそうなお酒も沢山売られていました。買おうかと思ったのですが、暑い中に持ち歩くのが面倒なのでやめてしまいました。今思うと惜しい事をしました。


 町では観光用に人力車が走っています。車夫の方は、カメラを向けられているのを知ると、何故か後ろを向いてしまいます。


 正面から撮れた貴重な画像です。ちなみにこの人力車はただ移動するのではなく、観光的な説明も丁寧に行ってくれるようです。




 一瞬ですが動画もどうぞ。
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飛騨高山の夏・郡上八幡編

2007年08月23日 22時28分36秒 | 旅の思い出

 永禄二年(1559)遠藤盛数が東殿山の東家を滅ぼし、八幡城を築いたのがこの城の始まりです。秀吉が天下を統一し、領地二万石を没収せられて加茂郡小原に転封され稲葉右京亮貞通が城主となり城郭を修築して天守台等を設けました。やがて関が原の合戦が起こると遠藤康隆は家康に味方し、慶長五年(1600)再び遠藤氏が城主となりました。
 時は流れて明治維新、城は廃城となりましたが、昭和八年に再築されました。



 天守閣から見た町並です。交通の便は良く無さそうです。どうして此処に城を築いたのでしょうか、良く分かりません。



 この地は山之内一豊の妻千代の出身地だそうで、このような銅像がありました。さすがはスーパーファーストレディです、死後数百年経った今でも活躍されています。



 街まで降りて来るとそこには吉田川の清流がありました。鮎釣りをしている人がいましたが釣果は芳しくなかったようです。



 「いがわ小径」です。水路には、周辺の有志の人たちよって、自主的に管理されている鯉・岩魚・サツキマス・鮎などが泳いでいて、目を楽しませてくれました。




 川が交差して流れていました。ちょっと珍しいかなと思い写真を撮りました。



 古い町並みです、趣があります。



 涼しそうですが水はあまり冷たくありませんでした。



 石で出来た「水舟」です、とっても趣きがあります。今でも使われているのでしょうか。




 「常盤電気地蔵尊」です。アマチュア無線家の僕は何故かお参りをしてしまいました。



 最後に登場した彼の名誉の為に書き加えます。彼はこの後、見事に飛び込みに成功して拍手喝采を受けました。



 「大滝鍾乳洞」へはケーブルカーを利用して入ります。但し帰りは歩きです。


 「大滝」の名にふさわしい場所があったのですが良く写ってませんでした。アップしても多分何やら分からないと思い、代わりにこちらを載せました。



 鍾乳洞出口です。ここから歩いて下ります。まあ大した事ありませんが・・・。

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飛騨高山の夏・岐阜城編

2007年08月19日 23時46分49秒 | 旅の思い出

 鎌倉時代建仁元年(1201)、幕府の執事二階堂山城守行政が軍事目的のためにここに初めて砦を築いたと伝えられているが、稲葉山城として日本史に大きく登場してくるのは斉藤道三以後のことです。
 斉藤道三は天文八年(1539)二月に稲葉山城を修築して入城し、続いて子の義龍、孫の竜興が城主となりました。



 永禄十年(1567)織田信長は斉藤竜興と戦って稲葉山城を落とし、九月新城主として入城しました。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、楽市場を保護し「天下布武」の朱印を用いる等、天下統一の本拠地としました。


 天守閣へはロープウェイを利用して行く事が出来ます。利用料は忘れました、少し高かったような気がします。ちなみに岐阜城の入館料は200円です。




 天主閣は博物館になっていて、鎧や兜などが展示されています。この天主閣は昭和三十一年に再建されたものです。

 昔の地球儀が展示されていました。信長も見たものでしょうか。




 天守閣から眺めた濃尾平野です。山脈の向こうは滋賀県で、その向こうに京があります。天正三年(1575)、信長は岐阜城を長男の信忠に譲り、翌四年に安土城を築いてここに移りました。



 信長居館の発掘調査が行われていました。昔の陶器が沢山発掘されていました。
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飛騨高山の夏・「手力の火祭り 夏」編

2007年08月18日 15時16分52秒 | 旅の思い出


 『手力の火祭り』は毎年8月の第2日曜日に、岐阜県岐阜市の長良橋北詰にある長良川公園で行われます。岐阜城のある金華山の長良川を挟んだ反対側です。


 電装された御輿のパレードです。某テーマパークも似た事をやっていますがこれから先がかなり違います。


 「ClipLife」はURの際のデーターは100MBまでですので、この動画は少し圧縮をかけましたそれで若干画質が落ちてます。


 観光ガイド等に載っている写真はこのあたりの様子のものだと思います。



 それにしても派手です。もし機会があれば是非にも生で御覧になって頂ければと思います。


 上に同じです。 


 事故ではありません。意図的に地上で花火を炸裂させています。地上ということは間近で炸裂しているので迫力満点でした。


 手筒花火を大量に点火してます。


 もう硝煙の臭いが身体に染みついてしまいそうなくらいの煙でした。


 締めの花火はまあ極普通に・・・。お疲れ様でした!
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飛騨高山の夏・明治村編

2007年08月18日 00時21分11秒 | 旅の思い出

 『明治村』は愛知県犬山市にある文化財保護施設です。猛暑の続く2007年8月12日の朝に北口より入村しました。ちなみに、駐車料は普通車1台800円、入村料大人一人1,600円でした。


 北口から入村して最初に眼に飛び込んでくるのは「帝國ホテル」です。今の建築とは異なり趣があります。こちらのホテルにはチャールズ・チャップリンやマリリン・モンローも泊まったことがあるそうな。


 ちなみに、ロビーはこんな感じです。雰囲気は今と変わらないようです。


 レトロ風なバスが走っていました。昔は当たり前だったボンネットバス。ウィンカーが「アポロ」製の羽出しタイプだったらもっと良かった!


 こちらは明治時代の裁判所です。


 それでもってこちらは明治時代の刑務所です。


 独房はこんな感じ。ここでは実際になかに入る事も可能で、Jail Lifeを体験できます。



 さて、独房を脱獄するとすぐに「天童眼鏡橋」がみえます。昔の橋の創りは芸術的です。



 脱獄して捕まると今度は雑居房へ入れられました。「新入りじゃぁぁぁ!よろしくやでぇぇぇ!」



 さて、むさ苦しい所を後にしてこちらは小泉八雲の避暑宅で、駄菓子屋さんとして使われています。

 奥まで行くと箪笥等が展示してあり、触る事ができます。引き出しの中には小説「怪談」の執筆逸話などがありました。



 六郷川橋鉄橋の上に常時停車中の機関車があります。機関室の中は入る事が出来ました。


 村内の郵便局の前のポストです。昔は黒かったんですねぇ。嘘のような話ですが、「郵便」を「垂れ便(たれべん)」と読んで、この前で用を足した人もいたそうな。




 これは神戸にあった西洋人住宅です。立派な造りです。



 こちらは幸田露伴住宅「蝸牛庵(かぎゅうあん)」です。良く手入れされた庭と合っています。こんな家に住んでみたいです。



 さて、村内では鉄道も敷かれています。「めいじむらとうきょう」駅の様子です。
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久しぶりの道頓堀や。

2007年04月28日 11時31分24秒 | 旅の思い出

 「道頓堀」に来たん何年ぶりやろ。この前来てから30年以上経ってるんちゃうやろか。あんまり変わってへんみたいやけど、変わってるとこもあるんで、ちょっとだけ紹介します。ほんまはもっと紹介したかったんやけど、団体旅行やさかいあんまり時間無かったんで堪忍したってや。



 大阪らしい言うたらそれまでやけど、はみ出し看板だらけや。何かあって、人の頭の上に落ちたらどないする気やろ思う気もあるけど、活気があると取ったるしかしゃあないんやろなぁ。


 「包丁ぉ一本さらしに巻いてぇ」なんて歌もあるけど、この辺がその『法善寺横丁』やったと思うわ。



 ほんで『法善寺横丁』のすぐ近くに在るんがこの『水掛不動』や。前にもブログに書いたことある思うんやけど、その時はお地蔵さんや思てたんやけど、記憶違いやったなぁ。




 平日やったけど、けっこう人来てはってたわ。お不動さんに水掛けんの並ばんとあかんかったわ。僕と違うて信心深い人、仰山居てはんねんなぁ。




 これが『水掛不動』や。しゃあけど(しかし)何やこれ。面影はあるけど何か気色悪いなぁ。昔観た映画できのこの化けモンが出てくる『マタンゴ』ゆうんがあったけど、それ思い出してもたわ。前に来た時はもっと綺麗やったんやけど少しは苔取ったらんと、お不動さん気の毒やで。



 ちなみにやけど、お不動さんには柄杓でこうやって水掛けるんやけど、何で(理由)掛けるんかは知らん。




 ほんで、この『水掛不動』の前に在るんが『夫婦善哉(めおとぜんざい)』や。前来た時は黒っぽい木造の二階建てやったと思うんやけど、立派になりはったなぁ。


 善哉しか圧各扱うてへんところが、潔ぉてええなぁ。右端の人形は『お福人形』言うてけっこう歴史のあるもんらしいけど良お知らん。



 店の中はこじんまりとしてて、ええ雰囲気やった。僕とS氏の二人で入ったんやけど、客は他には女性が一人しか居らんかった。




 こらが「夫婦善哉」やけど、S氏が「旨いねぇ。」と唸っていました。あんまり甘うのうて確かに旨い!流石に老舗やでぇ。また、塩昆布がおまけに付いてるところもええ。善哉食べた後に塩昆布しゃぶりながら、茶しばいてんと気ぃ休まるわ(お茶を飲んでると落ち着きます)。
 店の女給さんに「今は同じ大きさのお椀が二つやけど、昔は大きいのと小さいの二つやったんやろ?」と聞ぃたったんやけど「ええっ!そうだったんですか。」なんて聞き返されてもた。今では死語の「夫唱婦随」の意味があったそうやけど、たぶんあんさんの生まれる前の話やさかい知らんわな。

    一応「姫路と大阪」の旅の話はココまでです。えろう時間かかってスンマヘンでした。 

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姫路城 その4

2007年04月24日 22時22分56秒 | 旅の思い出

 この軸組構造模型は、大天守の解体修理工事にあたり実物の1/20でせいさくされました。史上初めての解体修理だったので、構造体のもつ技術的特長、あるいは構造上の欠陥や細部の処理方法をとらえた上で工事を行う必要がありました。また、建物を末永く維持できるように、破損・腐朽(ふきゅう)部分の取替えや、各部材の補強方法の検討も不可欠で、さまざまな問題を明らかにするための検討用に製作された模型です。




 二階へ上がる階段です。階段の上の部分は蓋が掛けられるようになっていて、その蓋が二階床と平面上に一体化となるようになっていました。敵が此処まで迫ってきた時に、殿様が腹をお召しになる時間を少しでも稼ぐ為でしょうか。何となくそんな気がしました。




 鎧が展示されていました。あんまり美術的に美しいとは感じませんが、実際に戦闘で使われていたかもしれないと思うと、重さを感じます。




 火縄銃も展示されていました。戦国時代の銃としては「国友鉄砲」が有名ですが、これもたぶんそうではないかと思います。

 

 二階からの眺望です。ここでも十分開けています。



 槍も展示してありました。柄の部分だけで刃はありませんでした。

 

 東大柱です。東西の大柱は地階から最上階の六階まで、全長24.6mあるそうです。解体修理の時に何ヶ所は補強したそうな。



 さらに上階へと進みます。



 ここが何階だったか忘れました。たぶん五階のような気がします。



 ここの部分はなんて言うのでしょうか、今風にいえば出窓かなぁ。ちなみにモデルの女性は見知らぬ方で長く外を眺めておいででした。「写真撮るのに邪魔だ!どけ!」と言いたかったのですが、怖くて言えませんでした。



 先ほどより僅かですが眺望が良くなった気もするし、変わらない気もするし・・・。




 さて最上階(六階)へと進みます。



 最上階には神社が祭られていました。「長壁神社」というんだそうです。この神社は、この天守の丘にあった地主神で築城の際城外へ移されたのが、神の祟りがあると城内の戻されたもので、宮本武蔵の妖怪退治の伝説も有名です。



 
 さて、最上階からの眺望です。二階からのに比べるとやっぱり少し良くなっています。

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姫路城 その3

2007年04月22日 14時31分11秒 | 旅の思い出

 現在姫路城は大天守と三つの小天主、これらを結ぶ渡櫓(以上国宝)をはじめ、化粧櫓など櫓二十七棟、門15棟、土塀役千m(以上「重要文化財」)の建造物と内濠・中濠の大部分が残っていて、中濠以内は特別史跡に指定されています。



 
 姫路城天守閣は地下1階・地上6階の構造になっています。登閣には地下1階からになります。



 城の内部なんてどこも似たようなもんさ。などと思いつつ、やっぱり入ってみたくなります。



 鉄筋コンクリート造りのお城と違って、こちらは正真正銘の戦国時代からのお城です。しかも『世界文化遺産』、土足厳禁です。それから当たり前ですが「落書き」も厳禁です。僕は国宝の彦根城に「落書き」をした人を知っています、とんでもない話です。今から70年以上前の話で書いた場所も正確に聞き出しました。幸い今、彦根城ではそれを確認できない状態になっていますが、くれぐれも真似しないでください。



 「武者溜」でしょうか。かつてここで甲冑を纏った武者達が「えいえいおー!」などと勝鬨を挙げていたかもしれません。



 この画像は1階分部だったと思う。ここからは観光客に媚を売っていていろいろな展示物があります。僕個人としては『城』というものは一触即発の臨戦態勢にある存在という認識を持っています。ですから形だけ保存するのではなく、侍た達のその気概も保存して欲しく思います。



 刀も展示されていました。画像だと良く分かりませんが、刀身が短くかなり身幅があります。実践的な刀だったのかもしれません。



 一階から観た本丸跡です。160mバンドのフルサイズのアンテナも張れそうです。

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