織田信長が三年の歳月をかけて築城した安土城。その賢覧豪華な様は当時ヨーロッパまで伝えられました。
安土城は五層地下一階地上六階・高さ46mだったらしい。この模型はJR琵琶湖線「安土」駅近くの「安土町城郭資料館」のものです。
カメラの動画機能を使って、安土城の模型の周りを回ってみました。
この模型は2分割される構造になっていて、中の構造も見ることが出来ます。上で覘いているのは信長様?
安土山に登ってみました。一応拝観料というのがあって大人500円・小人(小・中学生)100円・幼児無料となっています。開山時間は午前9時から午後5時までです。
大手道を登り始めてすぐ左手に、豊臣秀吉邸跡があります。
秀吉邸跡の向かい大手道から右側には伝前田利家邸の跡があるのですが、なんと当時の上下水道の跡が見つかっていました。両側を石垣で挟まれ水路にはめられたこの施設は、上下二段からなるもので、上段の箱樋で水をいったん拾い、さらに下段の一本造りの樋を通して水を屋外に排水する構造であったそうな。
石仏が大手道の石材として使われていました。普通、城普請に使用する石材は、近郊の山々から採取するものですが、ここでは石仏や墓石等も含まれていたそうです。
うっそうとした石階段を登っていきます。階段は頂上の天主閣跡まで全部で405段あるそうな。まあ階段になってるだけ「岳人」にしてみれば楽で、おかげさまで息を切らすことはなかったです。
夏の安土山大手道の雰囲気をお楽しみください。
「黒金門」跡
何だか周りの石垣の造りがここだけ異なっているようです。かなり大きめの石が使われています。この画像右手には広い階段があり、撮影場所では狭くなっています。是より先は城内の中核部である本丸,伝二の丸,伝名坂邸(伝三の丸)への西側から入る要所です。ここはいわゆる折れ虎口の構造で、全体として2段構えでした。
※現地説明書きを要約。
「仏足石」(室町時代中期)
この仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に、築城当時単なる石材として集められ石垣に使われていたようで、昭和の初期登山道整備のときこの付近の崩れた石垣の中から発見されました。
仏足石はお釈迦さまの足跡を表現したもので、古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされて居ました。
我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代・国宝)のもとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。
※現地説明書きをそのままコピー
織田信長公の廟です。重臣羽柴秀吉は天正十一年一月三法師に年賀を表すべく登城し、翌二月信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬してここを本廟としたそうです。
天主閣へと続く階段です。
背丈ほどの高さの石垣に囲まれた東西・南北それぞれ約28mの台地。今は基礎石が1.2mおきに整然と並ぶだけであるが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていた。五層七階(地上6階地下1階)の天主はイエズス会の宣教師ルイス・フォロイスによればヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さであったといい、高さ33mの木造高層建築は当時、当時我が国で初めてのものであった。
※見寺パンフレットよりそのままコピー
天主閣跡から琵琶湖を眺めます。明治頃まではこの山直下まで湖であったようで、それが埋め立てられ農地となりました。個人的には残念です。
天主の石垣にこのような物が・・・。ひょっとして墓石?今更驚きませんけど。
安土城の石垣は、全体的には随分と荒っぽい積み方だなあ、という印象でした。
「三重塔」です。
山の中腹に見える三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺き。室町時代の建物で棟柱に、享徳三年(1454)建立、天文二十四年(1555)修理の墨書きがある。天正三年~四年に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移建したものとされている。
※見寺パンフレットよりそのままコピー
塔の近くの木の根の張り方が見事だったので、写真に撮りました。
「二王門(桜門)」です。
棟木に「元亀二年(1571)七月甲賀武士山中俊好建立」とある。屋根は入母屋造り、本瓦葺き。門内に安置されている金剛力士像も門同様国指定重要文化財で頭部の内側に応仁元年(1467)因幡院朝作の造像名が残っており、信長が天正年間に甲賀から移した。
※見寺パンフレットよりそのままコピー
壮大な城であったことを想像させる石垣群です。焼失してしまったのは返す返すも残念。現存していれば世界遺産クラスの建造物であったはずです。
説明書きによると信長に一番似ている「絵」だそうな。
|
思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
『敦盛』
|
おわりに・・・
織田信長が天下統一を目標に天正四年(1576)一月十七日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高199mの安土山に築城させた平山城。
岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所でした。
現在は四方とも干拓により陸地ですが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ南方のみが開けた地形でした。
そのわずか三年後天正七年五月、我が国で初めて天守閣(天主閣)をもつ安土城が一応の完成をみせました。
ところが天主完成から三年目の天正十年(1582)六月二日未明、中国毛利へ出陣途中の明智光秀の謀反により信長は京都・本能寺で自刃(四十九歳)。混乱の中六月十五日、天主などを焼失、一夜のうちに落城しました。
原因は織田信雄が誤って焼き払ったという説や敗走する明智光秀軍による放火という説があります。
|
◎「近江の旅」シリーズまだネタは有るけど一応終わります。