僕の旅と彼方の友と

旅が好きアマチュア無線が好き、そんな僕の呑気な日々を綴ります。

姫路城 その2 

2007年04月20日 00時10分50秒 | 旅の思い出

 姫路城は播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333年)ここに砦を築き、その子貞則が正平元年(1346年)城を構えたことに始まったそうです。その後、羽柴秀吉が天正9年(1580年)西国攻略の根拠地として3層の天守閣を完成させました。
 その後、羽柴秀長・木下家定と続き、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の娘婿池田輝政(52万石)が入封し、慶長6年(1601年)から8年の歳月を費やして南の外堀を現在のJR山陽本線付近とする程の大きな規模の城域に拡張し、姫山に5層7階の天守閣を築きました。

 さて、姫路城天守閣までには幾つもの門を潜らねばなりません。それぞれの門には「いの門」「はの門」「ろの門」等等名前が付けられています。

 春の日差しをあびてのんびりと登閣すのはいいもんです。桜もまた綺麗です。

 二の丸界隈だったでしょうか急に狭くなる所がありました。馬では通れないと思います。やはり戦を意識されています。

 紋瓦も展示?がありました。何故こんな所にあるのかは分かりません。一つ一つじっくり観てみたかったです。
 姫路城の屋根の鬼瓦や軒丸瓦には、築城した城主や修理をした城主の家紋を彫った瓦が使われれているそうな。

 本丸直前の折り廻り櫓(やぐら)付近です。

 本丸跡地です。本丸は「明治時代に消失した」との案内板があったような気が・・・。とにかく今はちょっとした広場になっています。展望がよいので有志の方はアマチュア無線でもいかがでしょう。
 次回はいよいよ天守閣の内部に迫ります。
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姫路城 その1

2007年04月15日 17時33分41秒 | 旅の思い出

 姫路城は法隆寺地域の仏教建造物とともに1993年12月、日本で初めて世界文化遺産に登録されました。この城は、日本の築城技術が昂揚期を迎えた江戸時代初期に造営された最も完成された城郭建築であり、壮麗な連立式の天守閣群をはじめ数多くの建物が築城当時のまま残されています。これは多くの人々の努力と熱意によるものだと脱帽します。僕は姫路城は世界で最も美しい城だと思っています。これから僕の観た姫路城をご案内致します。



 関東ではとうに散った桜もここ兵庫県姫路市ではまだ咲いていました。これはラッキーでした。



 姫路駅から歩いても来られそうですが、僕達は観光バスの乗って来ました。お堀の近くには大きな駐車場があってそこから直のところにこの「さくらもんはし」はあります。



 門を潜ると広い公園があり、その先に「姫路城天守閣」がその全景を現します。公園内には沢山の桜があり、シートを敷いて花見をしている人達の多くいました。



 こちらは正面登閣口です。平日だと言うのに沢山人がいました。有料だと思うのですが、添乗員さんにチケットを渡されそのまま入りました。料金は幾らかは分かりません。



 登閣口からなかに入ると、壁に空けられた鉄砲狭間や矢狭間が、此方を睨んでいるようでした。美しさのなかにも「戦闘」を考慮されています。



 すぐに「菱の門」が見えます。ここから西の丸方向へ行って天守閣を撮影したかったのですが、添乗員さんに「此方で~す」と言われて断念しました。向かったのは「いの門」です。



 登閣にはこのような門を幾つも潜ります。航空機もミサイルも無かった時代、攻めるにはかなり難しい造りです。

                                            続く。
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遺構を訪ねて・・『大平山城・2』

2007年01月05日 18時00分10秒 | 旅の思い出
 さて朽ち果てかけた祠とは此方です。お札には『根本山神社』とありました。山頂から大平山神社まで3分の2程戻ったところにあります。自立出来ないようで、後ろにつっかえ棒で支えられていました。それでも中の陶器製のお賽銭受けには、小銭がそこそこ奉納されていました。僕も気持ちだけ納めておきました。

 さて、お参りを済ませてふと横を見ると、なんと石垣があるではありませんか。祠を無視して通り過ぎていれば分かりませんでした。此処にはかつて城の様な物があったに違いない、そう思うと興味がわき辺りを調べてみることにしました。

 画像では判り難いのですが、何かの建造物の基礎らしきものがありました。小さな小屋だったのかも知れません、4箇所ある筈ですが確認出来たのは3箇所でした。
 画像をクリックすると1箇所が拡大されます。

 うろうろしていたら尾根ずたいに道があるのを見つけたので、ここを下ることにしました。

 堀切がありました。何の為に造られたかは解りません。画像は道から外れて下から見上げた処です。

 この石の表面は、どう観ても人工的に削られた跡です。まるで機械で削ったようです。

 この辺りにも石垣が残されていました。参道を普通に歩いていては気が付きにくいと思います。

 此方は石垣が崩れてしまった跡でしょうか。

 かつては武者たちが、此処を駆けて行ったり来たりしていたのだと思うと、悠久の歴史の流れを感じます。

 登山道となる道の入り口は目立たない処にあります。遺構を訪ねるには此方から登った方が良いかもしれません。謙信平から神社へ向かい、「あずま屋」さんというお土産やさんの脇を通る参道を利用します。「天狗の投石」と言う岩のある階段を登った先の処です。
注!本当に此処から遺構を通って山頂に行けるか否かは、時間が無くて実際に確認していません。もしこのブログを見て行って見ようとされるなら、近くのお土産屋さんで確認されたほうが良いと思います。



 城跡には何故か何処もこのような竹林があります。もちろん此の竹林がいつ頃からあるのかは分かりません。最近植えられたのかもしれませんが・・・。
 謙信平の駐車場のなかにこのような池があります。此処へは何度も来ていますが、今まで気にも留めませんでした。こうして城跡を観てからだと「ひょっとして武者達の水飲み場?」などと考えてしまいました。
 ネットで大平山城について調べてみましたが、詳しく書かれてあるものは見つけられませんでした。地元の資料館ならあるかもしれません、機会があれば行ってみたいです。  
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遺構を訪ねて・・『大平山城・1』

2007年01月04日 11時34分00秒 | 旅の思い出

 アマチュア無線をやりに栃木県栃木市の謙信平に来たのですが、初詣が未だだったので近くにある「大平山神社」で済ませることにしました。お賽銭を捧げ、一応『二礼・二拍・一礼』。「今年も沢山の局と交信できますように・・・。」

 まだ少し時間が早いので大平山山頂まで行くことにしました。登山口は一寸分かりにくいのですが、本殿から少し外れて建っている祠と祠の間にあります。

 登山道というより、山頂にある「富士浅間神社」への参道になります。この時はまだ知らなかったのですが、この他に山頂に向かう「登山道」があったのです。


 登り始めて直ぐの参道からは町並みが良く見えます。山頂の「富士浅間神社」まで10分程で到着する筈です。

 途中で参道を横切るように七五三縄(しめなわ)が張ってありました。「是よりは神聖なる場所」ということでしょうか、帽子を脱いでいくことにしました。それにしても紙の四手(しで)がヨレヨレです。ピンと張っていた方が気持ち良いと思うのですけど・・・。

 山頂直下はこの参道の中では最も急登になります。

 おやおや。山頂まであと少しのところで左側に小さな祠が見えました。

 くろがね作りのいい男、と思いきや陶器製の「毘沙門天」でした。神社の境内に仏教の神様です。神仏混合ですが、僕は日本人のこうした融通無碍なところが好きです。
 お話のついでに、お正月ですので占いをしてみませんか。
    ↓   ↓
 「七福神占い」

 山頂に着きました。子供が遊べるくらいの広さはあります。
 さて、タイトルの「遺構をたずねて」の意味ですが、僕はまだこの時この山全体に城郭があったことを知りませんでした。下りの途中で参道から少し外れた場所に朽ち果てかけた祠があり、そこもお参りしようとしたところで見つけたのです。何を見つけたかは次回で・・・。 
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日光で移動運用です

2006年08月16日 23時28分08秒 | 旅の思い出

 栃木県は日光へ行ってきました。戦場ヶ原から日光白根山(だと思う)を眺めたところですが、天気が晴れていたのはこの時までで、後は曇り時々雨の状態でした。少し残念。ここ戦場ヶ原は標高1395メートル、面積400ヘクタールの湿原。男体山(なんたいさん)の噴火で湯川(ゆかわ)がせき止められてできたといいます。

  名前の由来は、神戦伝説「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説からきています。神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山(なんたいさん)の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題で戦った。男体山(なんたいさん)の神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦った。赤城山の神は、男体山(なんたいさん)の神の助太刀の岩代国(群馬県)の弓の名手、猿丸の射た矢で右目を射抜かれ、戦いは男体山(なんたいさん)の神の勝利に終わりました。
この戦いがあったところが、戦場ヶ原。大百足の流した血がたまったのが、赤沼。勝負が付いたのが菖蒲ヶ浜。勝利を祝ったのが歌ヶ浜と呼ばれるようになったと言われています。また「赤城山」は敗れた大百足の血に染まった「赤き山」が訛ってその名が付いたそうです。

 戦場ヶ原の木道は少しだけ腐っていました。体格の良い方は歩くのに気をつけた方が良いかも知れません。


 さて、戦場ヶ原から少し北へ行くと「湯の湖」があります。この辺りは奥日光と呼ばれています。「湯の湖」は35㌶程の広さがあり、三ヶ岳の噴火による溶岩が川の流れをせき止めて出来ました。

 木道の先の山は何となく簡単に登れそうです。何時か登って山頂で無線をやるのも面白そうです。


 奥日光は硫黄の匂いがするところですが、ここ湯元は当然ですが最も強い所です。それぞれの小屋には権利者の名前の入った札が付けられています。ここから各温泉宿へ湯を引いているようです。

 熱そうですね。湯気がドンドン出ています。中はどうなっているのでしょうか。

 肉眼だと良く見えるのですが、カメラのレンズを通すと良く分かりません。そこそこですが湧き出ていました。実は硫黄でカメラが壊れないかと、ヒヤヒヤしています。

 小屋の外でも足元で湯がポコポコ湧き出ています。触ってみると、熱くはなく温かいという程度でした。

 かもの親子がのんびりと沼を泳いでいます。


 さて、奥日光から国道を今度は南下して中禅寺湖近くの半月山に向かいました。山頂直下の駐車場はアマチュア無線家には有名な好ロケーション(電波が良く飛ぶ事)の場所です。ここは標高約1,595mあります。地籍については、元は栃木県上都賀郡足尾町でしたが、2006年3月20日に日光市と合併されました。ここで、朝9時頃から昼過ぎ迄で40数局と交信させて頂きました。

 とにかくトンボが多いのには驚きました。車の中にまで入ってきます。

 トンボは秋津(あきつ)とも言って、それこそ秋の生き物と思っていましたが、夏にこれだけ居るのは、やはりこの辺りは涼しいからでしょうか。夏空にアンテナの先にとまっているトンボ。なんとなく、良いもんです。   
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「大江戸旅物語」 ホッと湯ったり編 

2006年04月13日 19時36分42秒 | 旅の思い出
 お台場に「大江戸温泉物語」という娯楽施設があります。駐車場にバスが停まると、左の画像のように昔の女学生風の人が色々案内してくれました。

 画像の通行手形はロッカーの鍵になっています。また、館内の飲食もこの通行手形で出来、最後にホテルのフロントの様な所で精算します。
 もっと色々な写真を撮りたかったのですが、場所が場所なだけにカメラの持ち込みには抵抗を感じて出来ませんでした。
 館内は昔流行した屋台村のようで楽しい雰囲気でした。宿泊も可能ですので、ハムフェアの帰りにでも寄って、泊まって帰るのも良いかもしれません。

                           完
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「大江戸旅物語」 春のうららの編

2006年04月12日 19時44分48秒 | 旅の思い出
 船に乗って浅草から日の出桟橋まで、隅田川及び東京湾クルーズを楽しみました。12橋や川岸の桜を眺めながらと言いたかったのですが、会社の人達と話に夢中になって、じっくり景色を堪能出来ませんでした。惜しい事をしました。

 船内は平日にも関らずそこそこの混雑ぶりでした。左の画像は2階席でお客さんはおとなしい人が多かったようです。

 こちらは1階席で、飲酒も喫煙も出来ます。お客さんは賑やかな人が多かったようです。


 浅草から40分程で日の出桟橋に着きました。  
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「大江戸旅物語」 唐獅子牡丹編2

2006年04月11日 19時25分07秒 | 旅の思い出

 推古天皇36(628)年3月18日未明のことでした。今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像がかかりました。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。これが浅草寺のはじまりだそうです。
 大化元(645)年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立、また夢告によりご本尊は秘仏と定められ武蔵国の観音信仰の中心地となりました。
 現在の本堂再建工事にあたって出土した数々の遺物から、金龍山浅草寺は少なくとも平安期には大寺の伽藍をここ武蔵野の一漁村に構えていたことが判りました。
 実際に観音様を見ることは出来ません。一寸八分の金無垢の観音様らしいのですが、秘仏ということで公開はされていないようです。像は金無垢では無いという話もあります。が、そもそも実存するかどうかも分りません。誰も見たことがないのですから。そもそも仏教では偶像の崇拝を否定していたこともあります。あると言えば有る、ないと言えば無い、別にそれで良いのかもしれません。

 お香が焚かれています、たぶん毎日。仏様の食べ物だから毎日焚くのです、とお坊さんが言っていました。煙を体の悪い部分に擦ると良くなる、という伝えがあります。僕は、否定も肯定もしません。

 五重塔は浅草寺本堂・雷門・宝蔵門と同じ天慶5年(942)武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)により建てられたと伝えられていますが、長久2年(1041)火災によって倒壊し、寛永12年(1635)再建、同19年炎上したという記録が残っているそうな。その後慶安元年(1648)三代将軍徳川家光公により再建され、寛永寺・増上寺・天王寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれ後の明治44年には国宝指定を受けていましたが、なんと昭和20年3月14日戦災により焼失。江戸の大地震・関東大震災にも強かった五重塔は人災には弱かったようです。昭和48年11月1日に鉄骨鉄筋コンクリート造りで回廊式"塔院"の上に五重塔を建てる「塔院造り」の方法で再建され、回廊式の塔院には霊牌殿があり百体の聖観音像と信徒の方々が納めた1万2千基の永代供養の位牌が安置されています。
五重塔の最上階にはスリランカのイスルムニヤ王立寺院から奉載した「聖仏舎利」(仏陀の遺骨)を納め、途中階には信徒奉納の「五輪宝塔」が奉安されています。五重塔は昭和20年戦災による焼失までは観音本堂に向かって右側に位置していましたが、昭和五重塔は左側に建造され、地上53.32m(塔のみ48.3m)を誇る高さは京都東寺に次いで高い五重塔です。
                 浅草槐の会HPより

 最近ではどこの観光地でも見かけるようになりました。一度乗ってみて話の種にするのも良いかもしれません。
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「大江戸旅物語」 唐獅子牡丹編

2006年04月10日 05時32分58秒 | 旅の思い出

 浅草といえばやはり「雷門」です。何度来てもこの堤燈は大きく感じます。942年に天下泰平と五穀豊穣の祈りをこめて造られたそうです。左右に風神と雷神が安置されているところから「風雷神門」と呼ばれていましたが、それがいつのまにか「雷門」といわれるようになりました。現在の雷門は昭和35年に再建されたものです。
 仲見世は平日だというのに込み合っています。ここは、300年近い歴史をもつ日本で最も古い商店街の一つです。徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいましたが、それにつれ、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられました。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688~1735)の頃といわれます。
江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していきました。       浅草仲見世商店街振興組合さんの広報より引用
 画像では仲見世の裏通りは閑散としていますが、こちらも老舗がありそこそこ人通りがあります。表通りでお祭り気分を味わった後、静かな裏通りのお店で食事するのも良いかもしれません。

 欧州やアジアなど色々な地域の人々が観光にいらしていました。「EDOKKO(江戸っ子)」が国際的言葉になる日も近いかもしれません。

 

 
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「大江戸旅物語」 海行かば編2 

2006年04月09日 01時32分55秒 | 旅の思い出

 靖国神社の境内に「遊就館」という博物館があります。ここには、日本の戦争中の事物の展示がされています。画像はあまりに有名な海軍機「零戦」です。
 この「零戦」は昭和49(1974)年南洋、ラバウルの旧日本海軍航空基地で見つかった主翼胴体と昭和59(1984)年ミクロネシア、ヤップ島で発見された5機の零式艦上戦闘機を日本に持ち帰り、復元が昭和55(1980)年頃から始まりました。
 この機体は昭和18年11月25日ごろ三菱重工、名古屋大江工場で製作されましたが40年間も南洋の熱帯に放置されていた為に機体の殆どが朽ち果て、復元するのは不可能と思われました。しかしそれらの機体をすべて完全に分解して使用できる部品を調べたところ内部の部品はかなり使える事が分りました。
 主要機体はラバウルから里帰りした四二四○-一(4240-1)の主翼胴体の使用できる部品と、その他の使用できる部品を集め新しく作りましたが 、特に主翼の桁の製作は一番重要なものでした。
 機体を解体したところ、四二四○号機と四二四一号機の部品が使用されており、当時の工場がいかに混乱していて生産を急いでいたか想像できます。
 と・・・説明書きにありました。ちなみに飛行可能かどうかまでは記載されていませんでした。最後までお読み頂き、有難う御座いました。

 何故か汽車(C-56)の展示もありました。

 高射砲の展示もありました。説明書きを読まなかったので由来は分かりません。人物と比較していただくと、迫力がお分かり頂けると思います。夜間に航空機を撃ち落すにはサーチライト2基による三角測量で 高度を測り迎撃したそうな。
 モデルのお二人はTさんとMさんです。

 こちらは「回天」です。かなりの大きさでした。全長は14mで直径1.0m全重量は8.30トンあるそうです。これに、1.55トンの炸薬を積んで使用したそうです。中央にある垂直の筒は潜望鏡です。手前に写っているのはエンジンで燃料は酸素と灯油だそうです。シュノーケルは無くても大丈夫だったのでしょうか。これを潜水艦を母艦にして敵地に赴いたそうです。
 初めて使用されたのは昭和19年11月8日、ウルシー環礁、パラオのコッスル水道に在泊の艦船攻撃のためでした。

           
 「彗星」と「桜花」です。どちらも海軍機です。「彗星」は日本の航空機としては珍しい液冷エンジン(愛知「アツタ」32型)を搭載するも、整備の難しさや生産が追いつかず、稼働率が低すぎて戦力にならなかったそうな。画像をクリックするとエンジンを見ることができます。
 歴史上で実用された有人のロケット戦闘機はこの「桜花」とドイツのメッサーシュミット「Me-163」だったと思います。もっとも「桜花」は艦船攻撃で「Me-163」は爆撃機への迎撃と使用目的は異なりましたが・・・。いずれにせよ、音速を超える速さで攻撃されるということは、被害を受けた後に接近してくる音が聞こえてくる訳で、相手国の兵隊さんはさぞ恐怖したに違いありません。陸海軍の共同開発の「秋水」は実用化の前に終戦となりました。


   海ゆかばみずづくかばね 山ゆかば草むすかばね
            大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ
                            「万葉集」の内 大伴 家持 
 
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「大江戸旅物語」 海行かば編 

2006年04月08日 16時58分18秒 | 旅の思い出
 平成18年4月7日とある会社の旅行がありました。ここは靖国神社の神門前です。今日は平日と言う事もあって参拝している人も疎らです。
 拝殿前です。勿論「有難う御座います。」のお参りをしました。僕はどこかの国の首相ではないので、誰からも文句は言われません。

 境内ではまだ桜が咲いていました。靖国神社と桜の縁は古いらしく、明治3年に木戸孝允によって神苑内に染井吉野が植えられたのが始まりだそうです。現在境内には染井吉野をはじめ、山桜など800本を数えるそうです。

 東京における染井吉野の開花標本(基準)木が境内に3本あるそうです。その内の一本に数輪の花が咲くと開花が宣言されます。
 桜は染井吉野山桜の他にも、寒桜富士桜緋寒桜枝垂桜ウコン桜なども有るそうです。

 境内の白鳩です。個体数が大分減っているそうです。色が目立つので襲われ易いのが原因とか・・・。
  頑張れ、戦え、白鳩君!
 
 
 
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FT-817と山岳移動 #1

2006年03月02日 21時45分28秒 | 旅の思い出
「備前楯山」 
 僕がFT-817を持って初めて登った山は栃木県上都賀郡足尾町にある「備前楯山(1272m)」です。2m(144MHz帯)のSSBで運用しました。時は2000年の11月25日でした。駐車場から徒歩で20分位で登れる簡単な山で、山頂は鰻の寝床の様な細長い所でしたが、眼前に日光の男体山がそびえ立つ景色の良いところでした。
 12:58から14:58までの運用で交信して頂いた局のリストです。(交信順)
7M2INY/1, JF1XJK/1, JM4CNU/1, JH1ECN/1, JO1DOD, 7N4KCU, 7L3SZK, JA1HEB, 7N3VAL, JA6XAM/1, JK1USA, JM1NLW, JA1FKL, 7N2CQC, 7L1TTH, JJ1CPX, JR1CPW.
      以上17局でした。有難うございました。
                                   de 7M4NFW
                                      「日光 男体山」へ
 
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旅の思い出 彦根城と楽楽園 その6

2006年02月16日 21時14分03秒 | 旅の思い出


  前回の「彦根城と楽楽園」から随分日数が過ぎてしまいました。確か11月5日だったので、3ヶ月以上になります。前回の記事は下記文字列をクリックして下さい。
  「彦根城と楽楽園 その5」



本題です。「自分の名前で検索したことありますか。」
 僕の名前、まあ苗字の方ですが「珍しいお名前ですね。」とよく言われます。苗字の順位も多い順から33471位、世帯数も全国で23世帯だとか・・・。僕の知る限りでは近畿圏に集中していて、おそらく殆どが血縁者だと思われます。そんな折、北海道に同じ苗字のご家族がいらっしゃいました。

 彦根城から城下町を見下ろした時、僕の家に伝わる物語を思い出しました。それは時は明治、陸軍大学を卒業した若者と彦根藩の家老の娘との恋物語です。
 時代が時代です。陸軍大学出身者といえば新政府側の人間、彦根藩の人間といえばあの「安政の大獄」で有名な井伊直弼の家臣ということになります。互いに恨み辛みこの上なく、まさに犬猿の仲のはずです。そんな間柄の二人が恋に陥ってしまったのです。当然、両家は猛反対。「ロミオとジュリエット」状態でした。
 二人は思い悩みました。どうしても別れることは出来ません。そこで、互いの全ての経歴を捨てて北海道へ旅立つことにしたのです。

 さて、それから100年近く経ったでしょうか。今、北海道で僕と同じ苗字を持つ少年がスポーツの世界で頑張っているという記事が載っているサイトがありました。「ひょっとして・・・。」などと思ってしまうのでした。
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我我は猫である。1

2006年01月22日 08時57分06秒 | 旅の思い出
       「夢」




    「ああ、腹減ったなぁ。」 




  「でも動くのめんどくさいっ!」



   「あっ。フライドチキンが家に有ったっけ。」



 「違った!それって、さっき見た夢だよ。はぁ~あ。」
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城ヶ島を二周しました。終わりに・・

2006年01月20日 20時15分15秒 | 旅の思い出

 生い茂った雑草に隠れてしまっている看板がありました。「城ヶ島ユースホステル」の看板です。ユースホステルといえば、その昔「かに族」今で言うところの「バックパッカー」達がよく利用した施設です。此処はいまだに地図には載っているのですが、廃墟と化していて泊まることは出来ません。この島の他の(地理的には決して有利とはいえない)宿泊施設は営業しているのに、高台の一等地にあるこの施設が何故廃業したのか。考えさせられるものがあります。
 さて、「城ヶ島を二周しました。」はこれで終わりです。この島は毎年暮に訪れているのですが、今年はどうなりますやら・・・。もし訪れるようでしたら別の形でお伝えしたいと思います。


 城ヶ島を二周しました。 
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