聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

諏訪Ⅷ.謎の先住部族【狩猟民族の諏訪守矢氏とユダヤ神話】

2022-10-30 | 古代ミステリー

🌾🌾🌾前回までの諏訪の投稿は

約2000年〜1500年前の諏訪大社⛩️に建御名方命が祭られた時代を中心に書いてきたが、ここからは更に時代を下っていき古代諏訪の謎について投稿したいと思う✨😌


◇古代ユダヤと守矢氏
◇ケルト民族と蝦夷
◇銅鐸と鉄鐸
◇ミシャグジの起源
◇縄文王国の諏訪
◇生きている諏訪

(タイトル仮)

どこまで書けるか分かりませんが😅🙏何回かに分けて投稿します。

(書ききれなかった分は、書籍の方の聖なる国日本に加筆予定😌)

興味のある方はご覧下さい。(R15)

長文です。🙏✨

 


古代ユダヤ神話と守矢氏

元々の諏訪の先住民で狩猟民族である
『洩矢氏』その起源はどこか?

諸説ありますが古代ユダヤ人説から☝️


海神族の王族と共に諏訪に流入して来た弥生人が『建御名方命』一族で、

それ以前にいた、先住民の洩矢氏はどこから来たのか?

縄文人の血を引くアイヌ人同様の狩猟民族なので、縄文から続く民族だと考えられている。

本当にそうだろうか?


先住民の狩猟民族の祭祀は、諏訪大社に同化された後も諏訪大社『前宮』(=前の祭祀場)として残り、続けられてきた。

農耕民族が祭るのは諏訪大社下社の方らしい。

諏訪大社「前宮」や洩矢氏の守矢資料館がある茅野市には『鬼場』という地名があり、中心には御座石神社が祭られている。

鬼場の語源はもと「御贄場」との説があり、猟(漁)の獲物が贄に捧げられていたという。

今でも御座石神社には建御名方命への供物を再現した「どぶろく祭り」があり肉魚濁酒が振舞われる。

(※鹿肉を火切り臼火切杵を使い焼く=農耕文化と狩猟文化の習合したお祭り)

仏教と神道が習合した祭りはあるが、農耕民族の祭祀『神道』と狩猟民族の祭祀が習合したお祭りは全国で唯一こちらだけかもしれない😳☝️

 

 

(御座石神社)御祭神 渟名川姫命


守矢氏(洩矢氏)の祭祀は、冬季にヘビやカエルなど冬眠している動物を見つけて捧げるなど、冬眠中のクマを捧ぐアイヌと同じ様な祭り方をする。

諏訪大社『前宮』では、75頭の鹿の頭を捧げる神事も残ってきた。

現代では生贄の習慣は無いが、古代では珍しくは無い。

ただその残酷さに私達は目を背けたくなるなるが、無かったことにすれば犠牲になった命も浮かばれない。蓋をせずそれは確かに有ったものとしてオーセンティックに投稿したい。

 

 

(守矢資料館)捧物


動物を生贄に捧げるのは狩猟民族の特徴だが、農耕民族は寧ろ人を生贄とし、今では「人身御供」という言葉だけが残されている。

諏訪にはその両方の伝承が残る。


出きれば、これが野蛮だとは考えたくは無い。(気持ちは別として)

現代人の感覚では古代人の感覚を伺い知ることは出来ないので、直ぐにそうした評価を与えてしまう事でかえって物事を歪めてしまう恐れがあるからだ。😔


太古の昔より、民族や種族に関わらず人間には共通した

『死生観』(サナトロジー)

というものが存在していた。

約3千年頃前〜

『宗教観』が発生すると消滅していったが、一部では微かに残り続けた。


長くなるのでまた別に詳しく書くが、死生観=生贄という事ではなく、

ただ

死ぬことと、生きることの世界観に意識的な大きな違いがあったことだけは確かだ。

 

私はベジタリアンという訳ではないが肉を食べないが、

狩猟民族にとって肉を食べるということは、

命を頂くことと命を贄に捧げること、

魂が生まれ変わることと同じ世界観があった様だ。


前置き長くなりましたが、🙏✨


洩矢氏について、、書きます😌

守矢氏とも言い、守矢氏は諏訪大社の神事の神長を努める一族だ。

 

 

 

【ミシャグジと守矢氏】
諏訪大社本宮と前宮の中間辺り、茅野市宮川に守矢資料館があり、後ろの斜面には諏訪の古代信仰ミシャグジの総社が祭られている。

ミシャグジは、

石神、御裂地、御尺神、御佐口神、御社宮神、御佐軍神など200種類以上の当て字がある為、起源には様々な憶測が生まれ民俗学では「石神問答」なる論説バトルもあった。

二千年以上前〜伝わった漢字文化よりも古くから「ミシャグジ」という信仰が広がっていた為だろうか、

諏訪から東日本を中心に3000社ほど広がったと云われ、本場の諏訪盆地では山の斜面に祭られていることが多い。


農耕民族にとっては田畑を見下ろす場所であり、または古代の牧場の適地だ。


守矢氏は狩猟民族の代表であるかの様に語られているが、鹿を飼育する牧場を持っていた可能性がある。

諏訪にいた狩猟民族らの多くは、建御名方の諏訪入り後に関東や信越に去っていって、守矢氏だけが祭祀のために諏訪に残った。

守矢氏の神長が住んだ場所はかつて武居の里と呼ばれ、『武居エミシ』という諏訪の国神様がいて諏訪神に仕えていたという。そもそもの諏訪先住の狩猟民族は守谷氏でなく武居氏なのだ。

 

東へ移動していった狩猟民族は「武居」「エミシ」などそのまま東国に残る呼び名の起源となっていったと思われる。

(※武居エミシの嫡孫は諏訪大社下社の祝りとなり祭祀者だけはやはり残った🤔)

もしかすると守矢氏は元々の狩猟民族ではなく、動物を育てる遊牧民族にも近く狩猟民族とも農耕民族とも違う古代祭祀を司る部族で、

国津神の『武居エミシ』こそが諏訪先住民族の首長だったのかもしれない。


遊牧民といえば羊飼いで有名なユダヤ民族だが、

諏訪大社の御神体は守屋山であり、これが旧約聖書に登場する「モリヤ山」と関係があるのではという説がある。

モリヤ山は、ユダヤ教では「神の見ている山」と言う意味の聖地だ。

(※以前はモリ山と呼んだらしく、モリヤマとは稲魂を授かる儀式が行われる山のことだが、農耕民族起源説は置いてユダヤ説で書き進めます😌)

 

 

【ミシャグチと古代ユダヤ説】

諏訪大社本宮からは御神体の守屋山は見えないが、遥拝所がある。

山を御神体としながらも山が見えない所に神社が祭られていることは多く、男体山をご神体とする日光二荒山神社なども直接見ることは出来ないので、境内に再現した山を遥拝する。

富士講と呼ばれる神社の遥拝も皆そうだが、しかし諏訪大社本宮は遥拝所自体が立入禁止になっている。😳

しかも、拝殿は守屋山の方ではなく南東の方角を拝ませる様になっていて、その方角に「安国寺」があり守屋山でなく寺院の方角を拝ませる配置になっている。これは、神仏習合の時代に神社が寺院の支配下に置かれると、その様にされたという事らしい。

(安国寺)諏訪霊場百番所

 

諏訪人は御祈祷をお願いする時は守矢山側でとお願いされる方も多いという。

 

駐車場側から入った神楽殿脇の小さな参道は、元々の守屋山の方角に向ていて遥拝所があるので本当はこちらが?と思うが、🤔

天流水社の横の石段から勅使門の方へ上がることは出来てもそれ以上は進めなくなっている。

 


「本当に大切なものは知らせず公開せずそっとしておいた方が良い」と、

通りすがりの宮司さんが言っていたことがあるが、或いはそんなところかもしれない。


御神体とされながらも封印されている様なこの「守屋山」が謎を呼び、
ユダヤと結びつけられたのは、諏訪の古代信仰『ミシャグジ』の解釈による。


ミシャグジは「御〇〇神」という説で、御は敬語で最後のジは神であり、中に何を当てはめるかで意味を持つ。

サゴは鹿の胎児のことなので御サゴ神という狩猟民族の祭祀であるとか、

サクとは土地を裂く開墾のことなので御サク神という農耕民族の祭祀だ…という具合で様々な憶測を呼んだ。


古代ユダヤ民族説では旧約聖書の


「イサク」であると云われる。

御イサク神=ミシャグジとなる。

「イサク」はユダヤ人の始祖アブラハムの子で、旧約聖書の創世記に登場する。燔祭という、モリヤ山の生贄となるエピソードだ。

 

ユダヤ人の始祖エイブラハムは100歳になっても妻サラとの間に子供が生まれなかった。

神はサラとの子を跡取りせよと知らせたが、90歳の妻から子供が生まれるはずは無いと思い笑った。笑ったので、

神は子が生まれたら「笑う=イサク」と名付けよと言い、その通りにイサクは生まれてきた。

ある時、神はエイブラハムの信仰心を試そうと、「イサクを生贄に捧げよ」と命じた。神の見ている山「モリヤ山」へ息子イサクと共に登ったが、生贄の羊がいなかった事にイサクは自分の運命を悟り、縛られて祭壇にあげられるのに抵抗はしなかった。


いよいよ、イサクに刃物がふり上げられた瞬間、天使が止めに入った。そして、近くの茂みで角を絡めて動けなくなっていた羊を代わりに捧げた。

 

 

このモリヤ山とイサクの旧約聖書の記述を由縁とした、


モリヤ氏とモリヤ山、ミイサクジが、

洩矢氏、守屋山、ミシャグジの起源でないかという。

 

ユダヤ渡来説は、今更というほど珍しいことでもなく注意してみていると

方々に足跡が見られるので、歴史の古い諏訪にあっても不思議はない。

但し、日本人でも縄文人・弥生人と歴史的文化の違いがある様に、同じユダヤ人でも、秦氏やフリーメイソンなどと違い、

始祖のユダヤ人(ヘブライ人)は

『羊飼いの民』という牧歌的なイメージがある。

そして反面、生贄の民であるイメージも強い。

人身御供は、民俗学的な伝承では童女や女性が捧げられるイメージがあるが、諏訪では何故か少年(または小僧)のみに限られていたのも、イサク少年に由来しているのかもしれない。🤔

「か〜ごめかごめ〜後ろの少年、、」と

因童の童唄が聴こえてきそうだ。

 

イサクの子はヤコフと言い神と合い

「イスラエル」の名を与えられ、12人の子をもうけイスラエル12支族の祖となった。

2700年前にアッシリアに滅ぼされ、イスラエルの10支族は世界に散ったとされる。この頃の古いイスラエル人はまだ一神教ではなく、その末裔ならばユダヤの神「ヤハウェ」でなくイサクを祭っても不思議はない。

(2600年前にバビロニアに滅ぼされたユダ国のユダヤ人は捕囚として連行された為、ヤハウェを民族の拠りどころとして一神教化した。)


諏訪大社に残されていた鹿の生贄の習慣も、もしかすると日本列島には羊がいなかった為に、渡来してきたユダヤ人は羊の生贄を捧げることができず、鹿で代用されたのかもしれない。

ユダヤ民族は、狩猟は禁じられていて、羊や鹿は食べても良いが人の手で育てたものでなければならない。

遊牧民族とは異なるが、狩猟民族にも生贄は自ら育てるという習慣はあった。


アイヌの熊祭りイオマンテでは狩猟で殺した後の熊は、耳と耳の間にカムイが宿るとされ特別に奉納され、あとは人々が小熊から飼育した熊を捧げたらしい。

(守矢資料館) 耳を裂いた鹿

諏訪大社上社・前宮での御頭祭では、75頭の鹿のうち一頭だけ特別な矢で屠った耳を裂いた鹿が捧げられていたらしいが、他の鹿はみな飼育していた様でありアイヌの祭り方と似ているので、これはやはり狩猟民族の祭祀なのだろう。

(守矢資料館)


守矢資料館をみる限り明らかに農耕民族では無いが、

ユダヤの遊牧民は血を食べるのは禁じられていて

血抜きのできない動物は食せず羊と鹿くらいしか食べる事が許されない。

 

諏訪盆地の斜面に鹿や猪を飼う古代牧があったとしても遊牧民とは言えず、、

羊を育てて狩猟は禁じられていた遊牧民のユダヤ人とは違うのかもしれない

しかし、

馬の生産を日本で初めて行ったのも信州であり、遊牧民とは言えないが少なくとも牧場の経験値は日本随一だったのだろう。

 


✨🤔つづく・・・

 

あと少しだけ

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

【ケルトのドルメン】


ドルメン類似遺跡。このドルメン類似遺跡は約四千年前の遺跡だ。

 

考古学者の鳥居龍蔵の命名で、何故わざわざ『類似』と名付けられているのかは分からないが、この様なファジーな名の遺跡は他に知らない。

似て非なるものという事だろうか?

 

更なる謎は、石碑の裏側の文字が何故か意図的に削られている事だ。🤔

 

よくみると消された文字の下には
『アイヌ石』と書かれている。😮

アイヌ石とは何だろう、?

 

ドルメンとは、平らな石を水平に置いた供物台の様なもの。

よく山に祭られているのを見かける。

支石墓として朝鮮半島から渡来してきた様なので、私はドルメンとは朝鮮語源の
ドル(岩)ミョン(面)だと勘違いしていた。

しかし、こちらの説明にはケルト語と書かれていた(😅そうだったのか、)

4000年前、縄文中期まで

イギリスのケルト系先住民人と日本の縄文人は、同じストーンサークルをつくる文化を持っていたが、

イギリスには青銅器文化を持つビーカー人が、日本列島には弥生人が流入しストーンサークルの文化は姿を消していった。

ユーラシアの東と西の古代先住民の奇妙な符牒も不思議だ。


ケルト人とは、ローマ側からみた異民族の総称のことらしく、日本の大和朝廷が異民族に対し「蝦夷」と称していたのと同様だ。

ドルメン類似とは、

「ケルト人のドルメンに似てるが、アイヌ人(又は蝦夷)の遺跡である」という意味だろうか、🤔

 

11月1日はケルトの新年。

ケルト人は一年を二分していて、半年が一年だ。

明日、10月31日は大晦日であり

作物や動物をお供えしていたという。


今はハロウィンとして、

その名残りが残される。

🎃🎃🎃🎗️

そしてハロウィンの半年後、

次の新年の前には諏訪の御座石神社では
『どぶろく祭り』が行なわれる。😉

 

諏訪は、

様々な古代文化が習合している様子が面白い。なかなか推し測ることはできませんが、次は

守矢氏と物部守屋との関係を探ってみます。😌


✨✨✨

長い話しを読んで下さってありがとうございました。🙏

 


諏訪Ⅶ.卑弥呼と諏訪【農耕民族の物語】稲作と祭祀の謎

2022-10-22 | 古代ミステリー

🌾日本の稲作は縄文時代から行われていた。

紀元前1000年〜紀元300年頃、海の向こうから渡来してきた弥生人達によって新たに弥生式の高度な稲作が伝来し、共に巫女や季節神事などの農耕文化が広く日本に定着した。

  稲作と巫女、

この二つを語るには欠かすことの出来ない、日本を代表する謎の存在

『卑弥呼』と、諏訪に新たな稲作を伝えた

『建御名方命』大祝について

古代ミステリーロマン的に綴っています。

長文ですが、興味のある方はご覧下さい。😌🙏

▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

稲作を持ち込んだ弥生人の渡来ルートは南北諸説あったが、日本の稲ジャポニカ米はDNA解析で、中国の長江(南方)が起源であることが分かり、また日本人の祖先のDNAも最近の分子人類学では長江側からやってきたと解析されている。

(諸説百派あり「稲」だけで分けると弥生と縄文は判別しがたくなりますが、弥生式の新しい稲作という事で書いてます🤔)

約1000年の間、稲作文化と弥生人の渡来は、朝鮮半島や中国江南から段階的に続いてきて、長江下流の上海から海を越えてやってきた弥生時代の最後の一派が、卑弥呼の一族だと思われる。

そして卑弥呼の一族の渡来よりおそらく200年程前に、建御名方命が諏訪に稲作を持ち込んだ。

(同時代説もありますが😌)

諏訪とは、

『縄文民族、狩猟民族、農耕民族、そして古墳時代〜武士の時代〜現代まで、七千年の歴史がつまっているタイムカプセルの様な不思議な場所』だ。😳

諏訪は全ての時代と接し同化しながらも、何故か力強い独自性を保っている神域で謎が深い。

他国に攫われながらも独自性を保ち決して同化されないユダヤ人の様に、何か強い主体性が諏訪にはあるのかもしれない。🤔

まずは卑弥呼から、、女王、秘儀、鬼道まで、ざざっと全部書いていく。

中国人の当字(卑字)の卑弥呼でなくヒミコ又は、日巫女と表記します

🌾稲作文化とヒミコの謎〜🧿

【人々のために生まれてきた王と、権力のために生まれてきた王】

権力は王の特権で、身分の違う貴さを誇るのが『王』だが、実はこれは比較的新しく生まれてきた王道で、

遥か古代から続いてきた稲作共同体の長い『祭政一致』の時代が終わって、

祭と政が分離していき、軍事や統治が発達してはじめて私達が知る様な専制君主の『王』たる王が誕生した。

では祭政一致の時代の太古の王とは、?

農耕『稲作文化』と共に共存していた。

祭政一致の時代は、

王とは優れた巫術者だった。巫女と同様に天文を読み種まきから収穫までを予想し『暦』をつくり皆、その暦に従って耕作を始める。

暦を制する者が国を制すると言われた時代で、人々は安全な収穫の為に王や巫女(女王)に従っていた。

権力による統治ではなく稲作(農耕)という共同体文化の中で、王や巫女は存在していた為、王も民も共同体のルールに従う。

祭政一致の時代の王や巫女は、雨が降らなければ雨乞いをし、もしも干魃にでもなれば柴を積まれて焼かれていた。

栄耀栄華を楽しむために生まれてきた王ではなく、人々のために生まれてきた王だっだ。

命を捧げるということにおいてはイエス・キリストの如く尊い存在だ。

中国の伝説の始祖『黄帝』も優れた巫術者だった。

三国志の時代の「黄巾族の乱」も、中国江南地方の稲作文化を基底に持つ巫術者の反乱だったので、黄帝にちなんでみな黄色い巾を用いていた。

稲作文化には、武力支配の王ではなく、暦で人々の農作業を司る王や巫女がいなければならなかったのだ。

王というより『大神官』の様な存在であり、農耕民族とって種まきの時期を決める暦は最も重要で、雨期を見誤ればその年の糧を失うこともある。

武力だけで王位についた支配者などは何も分からず、民に飢えをもたらすだけだった。したがって、女王ヒミコとは支配者的な王とは全く異質の存在だった。

王たる者は卜占や天星術・統計学の様になんらかの予測手段が必要だったが、それは

『巫術者が幻術で人々を惑わした』という怪し気なレベルの話しではない。

結果的に収穫予測が叶ったか?収穫出来なかったか?という事実だけが全てであり、マニフェストを実現出来なければ命を失う。

支配社会の王の様に貴いのでなく、

祭政社会の王は民のために尊い。

【日巫女の秘儀】

和国のヒミコの一族も、中国江南の巫術者である許氏の一族の出自と云われ、呉の孫堅に征伐され南西諸島づたいに九州まで逃れてきたという。

優れた巫術者だったヒミコは山々の間から覗く太陽の運行を見渡せる地で、日の暦を読んだ。

季節ごとに朝日がどこから上がるかを見るため、山々の連なりが天然のスケールになっている。

月や星で暦を読む方法もあるが、「暦」という字は木々の間から日を観測しているので、やはり日を読む暦の方が本来的だ。

夏至と冬至、春分秋分はもちろんのこと、優れた巫術者であったヒミコは太陽の黒点活動の様な状態までも予測し、梅雨の強弱などを占っていたと思われる。

(ロケ地糸島)

なので、農耕民族にとっては神の如き存在であり、後から来た渡来人にも関わらず皆、ヒミコの暦に従っていて最終的には諸国連合の女王に擁立された程だった。

寧ろ、古い渡来者達の技術は時代遅れになってしまった為、最新の技術を取り入れるには新しい渡来者に従う必要性があり、特に朝鮮半島から渡来した弥生人らは本場中国式のヒミコの在り様に一目置いていた。

直接太陽をみて観測することは出来ないので、鏡に映した光の状態を観測していた様で、特定の時に特定の向きに特別な鏡を置いて、映される陽の光の仕組みをみて占う。八咫鏡の様な大型の「内向花紋鏡」で意匠や飾りがなく、スケールの様に内側に定間隔で何本も線が引かれている鏡は観測用だった。

空梅雨ならば早蒔きか遅蒔きにすべきかどちらかを占う。一人だけではなくそれぞれの役を担う巫女がいた。そして観測用の鏡は、使用していた巫女や王が亡くなると同時に破壊される。

全ては口伝にし、書伝物伝は防ぐ。

これは、鏡を手に入れた者の乱用を防ぐためであり、しいては権力だけを求める様な「エセ巫術者」の発生を防止していた。所謂、サニワ(神審判)の様な予防対策だ。

(話しは飛ぶが縄文時代の祭具と云われる土偶が壊されて埋められるのも、案外同じ様な理由かもしれない、🤔)

ヒミコの一族はこうした中国千年以上の父祖伝来の統計学的な天文の知恵に加え、死者の弔い方まで知っていた。

【ヒミコの鬼道】

※鬼道=死者の道

古代中国がいう鬼とは日本の鬼とは意味が違う。

鬼とは亡くなった方の魂のことで仏教発生以前にも僧の様に「あの世に往生させる」橋渡しの役割があった。

『云』(クラウドサーバー=天上界)に

『鬼』と書いて魂だが、亡くなった方はきちんと弔われてこそ魂となる。

なので、古代では人を殺すことより、殺したあと弔わないことの方がもっと悪いこととされていた。戦さの後に、敵味方の区別なく死者を弔うのもその為である。

※中国では『魂魄』と言い、魂は上に上がるが『魄』は弔わなければ地に還らず地上を彷徨う鬼となる。

これは日本でいう『霊魂』の様なもので、弔われれば魂は成仏するが、弔わなければ霊は浮遊霊となって地上を彷徨う。

霊と魂、二つの状態がある。御香典袋には弔い後ではないので「御霊前」と書かれているのもその為で、中国の魂魄という考えにも似てると思うが、中国式の鬼論の幽冥道は難しく日本人には難解だった様である。

日本列島にも、稲作文化と共にこうした巫女や巫術が伝わっていた。

稲作は『鳥が稲穂を咥えてやってきた』という伝承が沖縄〜本州まで残るっているが、実際は稲が伝わるだけでは稲作は出来ない。🌾🌾🌾

縄文時代の陸耕稲作や効率の良くない水耕とは違い、父祖伝来の知識と技術、共同体的灌漑工事法、収穫技術・保管技術や農具が無ければ弥生式の水耕は難しく、稲作と共に渡来してきた弥生人達と、その生活様式と技術全てが定着した。

当初は、稲作文化と暦事、弔事、祭事は、一体だったが、やがて弥生時代が終わり、支配社会の発達により中国でも日本でも姿を消していき、暦法も元号も大国の根幹を成す礎となって統一されていった。

弔事も、仏教が担う15世紀頃までは神社の役割だったが、その意味は失われていき現代では、農耕文化の祭事だけが残されていて、今でも神社や天皇家に伝わる神事は全て、秋の収穫に向けて行なわれている。

ヒミコの一族に伝えられてきた中国の稲作文化の秘儀は、日本列島まで逃げてきたが失われてしまった。卑弥呼の最後は、諸説あるが定かではない。

それにしても、干魃になり王や大神官(巫女)を柴を積んで焼くというのは穏やかならざる事だ。

ヒミコの跡の男王は支配者の王だった為、巫術に失敗して殺されたとの説もある。

焼いた煙が上がっていき悲願は天へ届けられるものと信じられていた様で、メソアメリカの一部にもその様に大神官や子供を捧げる習慣はあった。

願い事を燃やして天に上げる。(関帝廟)

王という字は、三本の横棒が天・地・人を表していて、一本の線で繋いでいるのが王だが、「工」は降ろすという意味がある。

(巫女の「巫」も王という字に似てるがやはり天と地を繋ぐ存在か?)

天の恵みが得られ無かった時には命を賭して天に繋がり、それを降ろしにいく。

王は、人々への恵みを一身に背負っていた。

諏訪にも、王を捧げる習慣があった。


諏訪の狩猟民族と農耕民族~🌾

【諏訪の大祝とは】

諏訪では、大王のことを大祝という。

日本神話の『出雲の国譲り』の後、諏訪までやってきた大国主の子・建御名方は、諏訪の先住部族で狩猟民族の洩矢氏と戦いになり、そして一騎討ちで決着をつけ、建御名方命側が勝利して諏訪入りする。

建御名方は諏訪の『大祝』に即位して、洩矢氏は神事を司るの神長となり建御名方の第二子と洩矢氏の姫を婚姻させることで新旧勢力の祭政合併は決着した。

大祝となった建御名方命は妻や王子らと共に、諏訪盆地と佐久盆地に弥生式農業を拓いていき、新たな稲作文化を定着させていった。これに洩矢氏も共に協力し開拓にあたり害をのぞいた。(洩矢神社由緒)

建御名方が天孫族との間に「国境を越えない」=諏訪からは決して出ないという不可侵誓約をして以来、諏訪は半ば独立王国の様に存在し続けていた。日本書記にも「蝦夷は従っても信州は従わない」と苦言が記されていたほどだ。以来、

大祝は代々建御名方の子孫がなり、祭事を司る神長も洩矢氏が世襲した。

おおほふり=大祝は、

ほぐ、ほふり、のろう、と訓読みする。

屠ぐ、葬り・呪うと訓み全くが同じだが、意味合いが真逆だ😳

王屠り!?王葬り?と大祝の発音も同じになるのがこわい、

諏訪では大祝とは=大王と同じ意味合いだが、但し王といってもやはり祭政一致の時代の王の様に、栄耀栄華を極める為の王ではなく、人々のために生まれてきた存在である。

【諏訪大祝の即位式】

諏訪大社上社・前宮

前宮とは、奥宮・元宮とは違い以前の祭祀場があった場所の事で、かつてここは神原と呼ばれていた。

狩猟民族の洩矢氏の祭祀場で、75頭の鹿の頭が奉納される儀式があった。

大祝の即位式は、

①まず、ひとりの少年を永い潔斎期間をかけて浄化し、スピリットの憑き易い状態にする。

潔斎期間は『精進屋』という牢の様な小屋に入れ水や食料はあまり与えない。

②カエデの木の下の岩座に、この厳しい斎戒の終わった少年に白装束着せて座らせる。

③守矢氏(洩矢氏)の神長が、尖端に鉄鐸を幾つも付けたサナギ(矛鐸)を立てに持ち、上下に上げ降ろしを繰り返して、ミシャグジ降ろしの神事を行う。

サナギ

上げ下げを繰り返していると木にスピリット(ミシャグジと呼ばれてもの)が降りてきて、

スピリットを木の下にある岩に宿して少年に憑ける。

これでミシャグジ降ろしの神事は終わる。

このスピリットは諏訪では「外来魂」といわれ天皇家の祭祀の外来魂と同様に考えられているが、儀式の様式は沖縄の神降り(カンダーリ)とも相通ずるところもあると思うので、また後で天皇家の祭祀と共に詳しく書く。

ミシャグジが憑いた少年は大祝という生き神様(現人神)として即位したことになる。

またの呼び名を『神徒』という。前々回の投稿で上げた湛え神事で各地域を周る『神使』(おこうさま)達とは違い唯一一人だけで、この大祝になる少年は建御名方命の直系の子孫のみがなった。7〜8才になると大祝になる。

そして、この儀式の後はこの世を去るという。

ちなみに

王の長子というのは、西アジアの

モレク信仰と諏訪の

モレヤ氏が司るこの儀式だけだ。

普通は、王の長男はそのまま王の位を継ぎこの世を去るということはない。


ほふりは弥生式の稲作文化では

「穂振り」といい

出雲の国風土記の国引き神話で、国土が狭いため新羅や北陸の国を引き寄せ国土としたエピソードに

「はたすすき穂振り別けて」という吉祥な祝詞として登場する。

しかし、諏訪の大祝は発音は同じ

『ほふり』でも異質なものに感じる。

神徒を座らせるのに、座面に稲穂を敷き上から鹿の皮を被せるらしいが、農耕民族にとって神聖な稲穂は、高々と積み上げて捧げるものであり、上から鹿の皮を被せるとはやはり、農耕民族らしからぬ、狩猟民族の祭祀の様に感じる。

穂高や穂積の語源のとおり高々と積み上げるべき稲穂に鹿の皮を被せる行為はマウンテングそのものではないだろうか。

(ただのクッションじゃないの?🙄)


【平安京より諏訪大祝へ有員が派遣される】

朝廷が諏訪に介入しだしたのは、ヤマト朝廷の時代が終わり都が大和から京都の『平安京』に移され平安時代になった後だ。

諏訪では、今でも外来神、外来種という言葉が根強く残るが、朝廷による仏教政策化の下でも、容易に浸食を受つけない様な諏訪の伝統は続いていて、まつろわせることができなかった。「朝廷は諏訪の神威をおそれた」と記される。

それまでの大和では平城京に根付いてしまった仏教勢力が権力を握っていて、天皇を脅かすほどになっていた。天皇側は執拗な抵抗や妨害を受けながらも長岡京、平安京へと遷都を敢行し、桓武天皇は旧仏教政権から離脱した新政権をついに打ち立てた。

桓武天皇とその跡を継いだ嵯峨天皇は日本の新時代を築いていき、朝廷はようやく諏訪にも桓武天皇の王子の有員を派遣してきて、宗教政策的な人心の取り込みを図った。

『我に別体なし、祝を持って御体とすべし。我を拝みたくば、須らく祝をみるべし』

これは、朝廷から派遣されてきた大祝の有員(ありかず)の詞だ。

朝廷側は諏訪のミシャクジ信仰を理解した上で、依り代となる大祝を派遣してきたと思われ、諏訪の大祝は代々、建御名方直系の子孫・ミワ氏(神氏)に世襲され続けてきたが、これより有員が大祝の祖となった。

大祝の神事により即位した時は、桓武天皇の子孫の有員ではなく肉体を持たない降ろされた存在「ミシャグジ」であり、拝みたければ有員を拝めということである。

天皇家の大嘗祭においても同様に、新天皇の肉体を魂の容れものとして天皇霊を依りつかせ、即位した時(或いは毎年)に体に入れ、人々に高御座から神言(ミコト)を伝えるということと似ている。(折口信夫説)

先程の沖縄の話しだが、沖縄の離島ではちょっと違うが、人が亡くなるとユタ(巫女)を呼び親族から女性を選びだして亡くなった方の魂を依りつかせる。そして、その女性を斎戒させ清めることによって亡くなった方の魂は清められ、私達が知っている仏教でいうところの成仏といった状態になるらしい。古代からの儀礼として共通しているのは、「依り代になり大切な存在を降ろす」ということだ。降ろしたり上げたりする存在が必ずある。

そして、女性が登場する。天皇家の神事にも天皇に奉仕する女性がいた。

しかし、諏訪にだけは何故か女性が一切登場せず、

少年と神官だけで完結している。

(話しはそれるが漫画『進撃の巨人』で、始祖を体の中に取り込み代々継承されてきたという設定もこれらの神事に似ているかもしれない、、🤔皆ユミルの民)

平安期は別として、諏訪の武士達は有員とその子孫というより、諏訪大社に祭られる建御名方命を崇めていた様子がうかがえる。

日本神話では「建御名方命は武甕槌神との戦いに敗れた」とされ殊さら敗者の様に喧伝されているが、その様に喧伝しているのは古事記・日本書紀だけであり、実際は「勝利の武神」 として崇められていて、敗者の神であるはずの建御名方命に戦う男達は必勝祈願をしていた。

古くは初代征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷との戦いの戦勝祈願をし、武士の時代を切り開いた坂東武者達も建御名方命を武神・勝利の神として崇拝していた。

そして、武士の世が下ると共に、大祝への虐待の記録が史書に登場する様になる。室町~江戸時代、藤の蔓で縛り云々・・・と続く。

約千年続いてきた大祝の存在は、朝廷側の介入や武家の時代の変化の前に変遷していったのかもしれない。

諏訪の信仰で特に異質に感じるのは、狩猟民族時代からの伝統がやはり残っていて、農耕民族に対して完全な習合はせず独自の文化を根強く残していると思われることだ。

季節神事にしても農耕民族らしく春夏秋冬と謳っているが、諏訪大社上社・前宮の御室での神事は、冬の始まりを秋の終わり、冬の終わりを春の始まりと言い換えているだけで、冬の始まりから終わりにかけて行う狩猟民族的な神事そのもの様だ。

そして「冬は魂を増やし、次の季節には獲物となって戻ってくる。」この狩猟祭祀の獲物を、稲魂と置き換えている様にも感じる。😅

勿論、春秋の皇霊祭など通常神社が行う祭事も行なわれているが、年間75回という神事の多さは、先住の狩猟民族と外来😑の農耕民族どちらの伝統も残していると思わざるを得ない。

しかし一方で、諏訪大社下社は農耕民族の祭祀の様で、

造りや例祭はまた一味違う。

諏訪大社下社・秋宮

普通に神社っぽい、、😌何故かホッとする✨

伊勢神宮の遥拝所もある⛩️😌

古い祭祀が失われることなく、新しい祭祀と融合し諏訪大社上社・下社の四社が同じ一つの諏訪大社として残っているのが凄い。

もうひとつ、驚かされたのが「稲荷神社」があまりにも無いことだ。農耕民族の象徴である「稲」を冠し、秦氏が祭り全国の神社の半数以上を占めている「稲荷神社」が諏訪ではあまり見かけない。

どの郷や里にも、稲作があれば必ず一つはある。代わって目立つのは、小さな祠とミシャグジ降ろしの木と、四本の御柱だ。キツネではなく、千鹿頭神社など鹿に関係する社はあるが、農耕神を祭る神社はさびれている。

何故、これほどまでに狩猟民族の時代からとも思える威容が残っているのか、

謎は深まるばかりだ

長くなりましのでまた次回に

つづく、、、

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇✨✨

もう少しヒミコについて・・・

【中国にとってのヒミコのお話し】

ヒミコは、日本の歴史では謎の女王の如く語られているが、中国側の史書「魏志倭人伝」にはしっかりと記され、当時の三国志時代の中国人にとってはよく知られている人物で重要な存在だった。

二大河川で生まれた古代中国の二つの勢力、北の黄河文明と南の長江文明の戦いは北が南を征してきた。文化も言葉も違う南の稲作文化の民衆は度々、独立戦を挑んだが、ヒミコの一族は、南で最後まで抵抗していた実力者だった為、三国志の時代の魏と呉は戦略上、自軍の勢力に取り入れ様とした。

曹操が黄巾賊の残党を取り入れ勢力を拡大したのと同様に、魏国は信仰勢力の影響力を取り入れ、外縁の友軍勢力として配置し海の向こうの呉に対する布石とした。

かつて越に滅ぼされた呉の王が、日本列島に亡命してきたことがあるが、日本列島側に布石を置くことは呉の退路を断つための戦略的な常套手段だ。

だからこそ、魏は金印や魏軍の軍旗を和国のヒミコに与えたり、対する

呉は一万の兵を海を越え送り出したりした。

呉の一万の兵は辿り着かなかったとされているが、もしかするとヒミコと敵対する狗奴国との戦争とは、魏と呉の代理戦争だった可能性もある。

ヒミコの死後も、中国側には次の男王やその次の女王トヨの記録まで残されているので、日本列島の情勢は中国とは無関係の遠国の出来事ではなかったと思われる。和国は再び乱れ群雄割拠の古墳時代に向かい、魏は蜀と呉を滅ぼし三国志の時代は終わり、日本列島側への布石は捨て石の如く消滅した。

3世紀に建国されヒミコに金印を授けた『魏』も3世紀半ばに滅び、ヒミコもその頃には亡くなっていた。


【ヒミコは天照大神ではない🤔】

ヒミコと天照大神を同一人物とする説があるが、3世紀の人物であるヒミコと、天照大神を重ねてしまうとおかしな事になってしまう😅

天照大神の五代目の子孫が大和王朝を開いた初代・神武天皇であり、一代を25年としても3世紀から125年後に大和王朝が開かれた事になる。

だいたい紀元300〜400年頃、神功皇后が活躍した時代で、日本書紀では初代天皇どころか第15代目の応神天皇が記されている。

(三国志の魏と同時代に天照大神が存在していたとなると皇紀2600年というのも『皇紀1600年』に短縮される😅)


皇統に女王が存在しなかった初期の大和王朝で唯一女王候補として考えられるのは神功皇后くらいかもしれないが、神功皇后の時代にも魏という国は既に無い。

、、やはり

中国の魏志倭人伝は九州の王朝の歴史を記し

日本の古事記・日本書紀は大和の王朝の歴史を記した

ので「卑弥呼は登場しない」と素直に考えた方が自然だろう。

卑弥呼と天照大神を同一人物とする説では、初代神武天皇が大和王朝を開いたのは紀元300年頃としている。

古事記・日本書紀は箔をつける為に、歴史を古くして盛っているので差し引きこのぐらいの時代になるという。

しかし、九州王朝の卑弥呼を大和王朝と結びつけるのも結局は『箔をつける』ハッタリに変わりない。

アジア天下広しとはいえ中国が金印を贈るのは

西アジア、東アジア、北・南でそれぞれ一カ国程度しかないので

箔を付けるに申し分ない。が、もうそろそろ

こうした張ったり盛ったりは時代遅れになりつつある😌🙏


✨✨✨✨✨✨✨✨

諏訪の事を書きつつも、

ヒミコや海神族の渟名川姫ことなども綴り横道にそれてばかりですが、

次回も大幅にそれるかもしれません。

海神族の渟名川姫に入墨はあったか?
など、気になる🤔

縄文人、ユダヤ人、弥生人、海神族から狩猟民族まで、様々な文化の違う人々の歴史を感じる諏訪を綴ってみます。

諏訪大社・上社下社の四社も、本当はそれぞれ違う部族や信仰を祭っていると云われているほど。

諏訪は太古からの歴史が語りかけてくる様な、

不思議なスポットです。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇✨✨

最後まで読んで下さってありがとうございました。

🙏✨✨


千葉県【国立歴史民俗博物館】伽耶展

2022-10-11 | 古代ミステリー

最近、諏訪の投稿が続いてたが、今回は千葉県佐倉市にある国立歴史民族学博物館の特別展

【伽耶】の話


伽耶は、朝鮮半島南端に6世紀前半まであった製鉄で栄えた国々。金環伽耶、大伽耶、高霊伽耶など伽耶と呼ばれる小国があった。

かつて「任那」と呼ばれた地域で、任那は和国、百済、新羅と領有する宗主国が変わり続けたが、最終的に新羅に滅ぼされて新羅の領土になった。

復刻品もあるが、彫金が素晴らしい。✨✨

韓国国立中央博物館と共同の国際企画で韓国の出土品や宝物が展示されている。

、、そのせいか?『任那』とか任那日本府というワードは一切ない😳?

展示品よりまずそこに驚いてしまいましたが、その辺はさておき

考古学とは関係なく古代ミステリーロマン的に綴っていきます。

 

【製鉄の民の海峡文化とは】

2世紀〜6世紀の韓国の出土品。

 

まだ百済、新羅、日本という国はなく小国ばかりだった頃、

日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境も無かった時代は、朝鮮半島南端から九州北部で栄えた海峡文化圏があった。

朝鮮半島側の国々は、
伽耶、クヤ、コジェ、クジェ、クジャ、
などが並び、

日本列島側には
九州、クジュ、クナ、クマ、

などあり、訓みだけなら馬蹄を表す様な連帯感が強く感じられる😅

縛り、、なのか🤔

 

(※かつて九つの州があったので九州という説があるが、古事記・日本書紀にはその様な記述はなくイザナキ・イザナミがお産みになられたのは筑紫の国 /  豊の国 /  肥の国 / 熊曾の国又は日向の国の4つの国々(州)であり、9の国々の起源は見当たらない😵‍💫大分県の『九重』が語源、、という方がまだ根拠感がある。しかし、我々日本人には何故か『九州』という言葉の響きが不思議としっくりくる。)

 

この辺りの国境が無かった時代の国々だけでなく

任那という言葉からして今はタブーらしく、、

博物館ではただ『倭との交流』という表記の展示になっていた。😮

金海伽耶は、金スロを始祖とする国で対馬からも近く和国との関わりは深い。

6世紀前半、新羅の真興王に伽耶諸国は滅ぼされ吸収された。

 

【日本列島側に拠点を移した製鉄の民】

熔鉱炉の製法などは鍛冶長相伝の知的財産で、基本図以外は口伝だったので、鍛冶長は決して失うことは出来ない存在であり、大切に守られていた。

精煉や研磨まで高度な技術を担っている特殊な技術者集団の国で、

その為に、何度も宗主国が代わりながらも完全に領有されることなく製鉄の民は独自性を何世紀も保つ事ができてきたと思われる。

しかし、かつての小国部族連合が無くなっていき百済、新羅など国家の形を整えた強国が生まれてくると、製鉄の民らは日本列島側にその中心を移したと思われ、5世紀頃〜は日本製の鎧や武器が朝鮮半島側で埋葬品に使用される様になった。

製鉄の民は、鉄鉱石やベンガラだけでなくその60倍もの薪を必要とするため、山の再生力を残して原料の取れる山へ移動する山の民でもあった。

朝鮮半島から九州側に渡った後は、山深く原料豊富な出雲や奈良へと東へ東へと拠点を移していった。

『サビてしまっているが鳳凰の紋がある環頭大刀』

 

伽耶が滅んだ頃の和国は欽明天皇の時代で、

大伴金村が、朝鮮半島南部の任那の四郡を百済に割譲してしまったりなどして失脚した後で、代わって蘇我氏の台頭が始まっていた。

秦氏は既に隠然たる力を持っていて、欽明天皇は「秦氏を味方につければ天下は治まる」との夢をみて秦氏を重用したが、蘇我氏が立てた次の敏達天皇より蘇我氏の専横が強くなった。

欽明天皇は、新羅の任那争奪戦の最中に薨去した。

大伴金村が和国側から朝鮮半島の百済へ任那を割譲したという記録があるので、国境は明確に誕生している時代に入っているが、領有に関しては朝鮮半島から日本列島に跨がる宗主権は存在していたと思われる。


日本では、韓国製の出土はなく
韓国では日本製の出土品があるという
偏りがある🤔ならば

日本側から進出した感はある。

しかし、朝鮮半島の南端で発見された前方後方墳でさえ「日本の墓制の影響を受けて造られた」とされているので、日本側から権力者が統治していたという考え方は忌避されている様だ。

(日本では古墳を造るほどの存在は=その地の王と考えるむきがありますが😅)


考古物の展示であっても、開催にあたっての両国の配慮が感じられた。

国内の他機関の間で一品出品するだけでも、相当な年月や手続きを要するが

こうした時代の展示が両国合同で開催されたのは、凄いことだと思う。

(2022年10/4~12/11まで開催)

儀器 勾玉剣?🤔

 

【製鉄の国出雲と東日本へのネットワークの歴史】

朝鮮半島と日本列島の交流を考える時、海神族の都『龍宮』があった対馬の存在は重要だ。

朝鮮と九州だけでなく、対馬海流の沿岸一帯、対馬、出雲、能登、越の国までのネットワークが存在したようで、越の国から内陸部へ入った信州は海神族の第二の拠点だった。

奇しくも、前々回までの諏訪の投稿では建御名方命と八坂刀売、渟名川姫ら海神族の姫が諏訪入りしてきたこのルートの投稿をしてきたので、

海神族の都があった対馬と近く関わりが深い『伽耶』の考古物を直接見ることが出来て良かった。当時の世界観が感じられる😌✨🗡️

韓国で出土した和国製の広形銅鉾

広鉾と言えば出雲のレガリアだ。

 

博物館のある千葉県佐倉市には、『日月神示』という書紀チャネリングが降ろされ事で知られる麻賀多神社がある。

 

(まだスマホが無いガラケー時代の画像🙄)

 

元々はマガタマ神社だったが、その名を憚られマガタに変更されたという。

勾玉は縄文時代から翡翠の産地の越の国(新潟県糸魚川市)で作られていた物で、その後は越の国の海神族が作っていたが、海神族の移動と共に勾玉の生産は無くなった。宝玉の一族を率い玊姫と呼ばれていた、渟名川姫は信州へ移動した。

その後、諏訪の釜無川の下流の富士川(または諏訪の天竜川の下流)へ降り太平洋岸の静岡へ出たと思われる。

そして、千葉は海神族の最後の拠点になった様で一宮の玉前神社や南宮神社をはじめとして海神族の由縁が各地に残る。

『龍宮』の潮光玉、越国の大珠、そして勾玉と宝玉を抱く海神族が

対馬、上越、長野、千葉まで、弥生時代の信州諏訪にも交差し

移動していった、超久な旅の終着点だ。

 

 

 

古墳時代に入り、神功皇后が壱岐・対馬から三韓征伐へ向かった時代には

神功皇后に使えた忠臣・武内宿禰(竹内文書の起源となる方で或いは忠臣ではなく王だったとの異説もある)が礼を尽くして、海神族の安曇磯良丸を自軍に迎え入れ、三韓を征圧したという。

6世紀、古墳時代の終わりになると海神族で祭祀を司った安曇氏をはじめ海神族らは九州の歴史から姿を消す。そして、

朝鮮半島南端にあった伽耶の国々も姿を消していった。

海神族の祖神・穂高見命も、古事記日本書紀には登場せず、その後の海神族らの辿った各地に残る軌跡は、古事記・日本書紀には記され無かったヤマト以外の歴史を繋いでいると思われる。

 

或いは伽耶にも、、と興味がひかれるが別の機会にし

今一度、また諏訪に立ち返り、

あと2回ほど

諏訪のコアな投稿を綴りたいと思います😌✨

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

最後に、更に脱線して海神族の事を😌🙏

(🙄伽耶どこいった?)

万葉長歌でも「ワダツミの手に巻く玉の様に」と、越の国の事が謳われるほど、宝玉と海神(ワダツミ)と越の国は縁がある。

対馬から越の国までの海神族の移動は、一隊が沿岸航法で先発し、本隊は残って拠点づくりをして、先発隊が次の拠点を見つけると本隊がまた拠点づくりにやってくるという、一面航海・一面拠点の堅固な移動手段だったのかもしれない。

建速式とでも言うべきか、、

神々の名に、建スサノオ命、速スサノオ命といった感じで、先に到着して国造りをした様な呼称がついているのも興味深い。


沿岸航法で拠点づくりをしながらの移動であれば、海神族は東南アジアから、古くは西アジアからやってきたという長距離移動説も頷ける。

世界で唯一?海神族の海中三角鳥居など「ユダヤ渡来説」があっても不思議ではない。

 

海神族の安曇氏の子孫・安曇比羅夫は、七世紀の白村江の戦いの後にオホーツクからアリューシャン列島を渡りアラスカまで移動しその後、ネィティブアメリカンのズニ族の始祖となったという説もあり、海神族は地球🌏を半周したことになるが、コロンブスの帆船時代より千年以上前の事であり、やはり一面航海・一面拠点の沿岸航法で進んでいったのだろうか。


聖なる国 日本✨海神族のルートが凄い🚤

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。


諏訪Ⅵ.ミシャグジってなんだろう?失われた『湛え神事』と、ト

2022-10-08 | 諏訪の道

諏訪大社で、失われてしまったという
【湛え神事】についての投稿です。

『諏訪大社上社 前宮』

湛え神事の起源は、諏訪大社が祭られる以前からあるという「ミシャグジ信仰」に関わりがある。

諏訪には元々、日本神話の出雲の国譲りで建御名方命と八坂刀売が諏訪にやってくる以前から、先住民である狩猟民族の洩矢氏(守矢氏)がいて狩猟民族の信仰

【ミシャグジ神事】を司っていた。

ミシャグジ神事は、狩猟民族のアイヌの神事『イオマンテ』にも通じるものがあり、そして地域信仰の在り方は沖縄の御嶽とも同じ様だ。

諏訪に太古から存在する不思議な信仰で、石棒などミシャグジ独特のご神体の形は5000年前の縄文時代中期まで遡ることができる。


縄文民族→狩猟民族→農耕民族まで、ミシャグジは幾多な民族と宗教が融合しながらも、時代を越えて残り続けてきたジェラシック・リチュアルかと思われる。

かつて諏訪大社で行なわれていたという『湛え神事』も、建御名方命ら弥生式の農耕民族がやってきた後に、ミシャグジと融合した神事なのかもしれない。

前置き長くなりました、神事の話に😌🙏 

 

 

【湛え神事への流れ】
冬の始りから終わりに掛けて、準備が行なわれます☃️

祭祀場は、諏訪大社上社の前宮⛩️

①まず晩秋、冬の初まりに「御室」という竪穴式住居の様な地下土室を作り、中には蛇のレプリカなどを入れておく。

諏訪大社上社・前宮にある御室跡地の祠

鶏冠宮(かえで宮)という。

諏訪大社 前宮の本殿は、山裾から上がっていくが、

一度、道路に出て坂道を上がっていく。

坂の脇の巨木の後ろに祠があるだけで、竪穴式の再現住居もなく目立たずにひっそりとしている。

 

下に欅(けやき)と書いてある。リアル😅欅坂△

 

△前宮とは、元宮・奥宮ではなく、前のからの祭祀場があった宮のこと。

諏訪大社上社『前宮』はかつては神原と呼ばれ、このエリアに祭祀場と大祝の御所があった。

湛え神事とは違うが、諏訪大社前宮では75頭の鹿の頭をお供えしたりしてるので、農耕民族ではない前の先住民である狩猟民族「洩矢氏」の祭祀場だと思われるが、今は諏訪大社の前宮として融合し残存している。

 

こちらに75頭の鹿の頭を奉納していた。そのうちの一頭は、特別な矢で屠られて目印に耳を裂くという。

 

現代になり、75頭の鹿の頭でなく剥製が使われる様になったらしいが、、😳えぐい

鹿75頭という数は、年75回の神事に対応していると思われる。

その年75回の神事の中で湛えは最大の神事だった。

 

、、話しを湛え神事に戻して😑🙏

 


②正月になると、諏訪大社の大祝と洩矢族の神長が二人で「御室」に籠もって神事を行い、各地域にある「湛え」という祭祀場へ神の使いとしていかせる子供(7〜8歳の男の子)を出す村を選ぶ。(詳しくは別の投稿で書きます)

 


③3月の酉の日に、村々から選ばれてきた子供を、各地の湛え神事に出発させる儀式を行う。遠方にいく子供は初午の日に先発する。

 

 

【湛え神事ととなりのトトロ】

湛え神事出発の儀式①

(上部が平らな磐座)

神使い(おこうさま)といって正月の神事により村々から選ばれてきた子供らにミシャグジを降ろす神事で、

少年を祭壇=木の前の磐座の上に座らせ、
洩矢族の神長が、「サナギ」と云われる鉄鐸がついた鉾を垂直に持ち、上下させる動作を繰り返す。

 

サナギの形状


ミシャグジとはこの動作の繰り返しによって上空から降ろすスピリットのことで、スピリットを木に降ろし前の磐座の子供に依憑かせる。

終わると、神具が授けられ神の使いになった子供に介助役がつく。

 

実物のサナギ 

七年毎に和弊を一本づつ付けるので千年二千年と経つうちにドレッドヘアーの様になっている。現存する最古のサナギだと思われる。


湛え神事出発の儀式②

ミシャグジ降ろしが終わった子供らは、介助役にコマ(駒)に乗せられ勢ぞろいする。

雄叫びと共にコマに乗った子供たちが一斉に出発し、村々へ巡りそれぞれ村にある御裂地(開拓地)の木の下の祭祀場へ、湛え神事を行ないにいく。

 

ジブリ映画は、繰り返し観ているが、不思議と「となりのトトロ」だけは一度も観たことがなかった。🤔

諏訪に通うようになり湛え神事や諏訪の事を調べだしてから、宮崎駿監督が諏訪の考古学者の藤森栄一さんの影響を受けていたと知り、改めて監督の作品を観る様になり、

初めて「となりのトトロ」を観て、
衝撃を受けた😳💫🫨🫠

 

湛え神事で最初に神長が、サナギを垂直に持ち上下させ、スピリットを降ろす動作は、

傘とサナギの違いこそあれ、

トトロが畑の前でこうもり傘を垂直に持って上下に上げ下げながら、全身全霊を込めて畑に命のエネルギーを降ろしていくシーンと同じだ。

こうもり傘を上下させ命のエネルギーを吹き込んだ次のシーンでは
コマに乗って子供たちを村から村へ風の様に巡り、巨木に向かっていく。

駒をコマにかけているが、

雄叫びと共にコマに乗って出発する一連の流れは、湛え神事そのものだ😳


作りこみが凄すぎる😳

ちなみに「木に降ろして岩の上に依り憑く」というのは、

「依代は木か岩か」という石神論争に対するどちらもアリ説だが、私見では

一度、地中に降りてから岩へ上がるイメージだったので、

映画では上下させる度に、むくむくと植物が伸び上がっていった描写どおりで、これにもまた驚かかされた😳

諏訪に詳しいという監督の作品は、
本当に勉強になる。🙏✨

(😌あくまで個人の感想です)

感想と言うより妄想では?🙄

 


【湛え神事の場へ】
神使となった子供は、諏訪・上伊那の村々の開裂地にある「湛え」と呼ばれる神木のある祭祀場や、ミシャグジと呼ばれる祠を巡る。

各地の「湛え」っぽい所

 

各村々の古木、祠、石棒などの前で、
出発時の神長の様に神具を振る神事を行なって巡幸し、5日後に戻る。

 

 

 

 

「湛え」っぽい祠や古木

 

 

 

 

各地を神使いの子供らが巡行する神事。

これを湛え神事という。称えとも。

 

湛え神事は、元々は狩猟民族にあった冬のはじめから終わりの儀式のようで、冬籠もりの間に魂を増やし次の狩りの大猟を祈り、北海道では冬眠中の熊、諏訪では冬眠中の蛙を奉納する。

しかし、秋の終わりと春の始まりとも言えるので、

農耕民族の種まきの前と収穫の後の神事としても融合している様だ。

 

【七木の称え木】
神使さまの巡行地と思われる各地域にある七つの称え木。

桜タタエ
檀タタエ
峯タタエ
檜タタエ
松タタエ
栃タタエ
柳タタエ

タタエには諸説あり、

『水を湛えんとする農耕の祈願』

『民の祈願を叶えんとする祟え』


↑この場合、タタエを祟りとした民族学者の折口信夫さんの説では
祟り=災いをなすという意味ではなく、
祟えとは=出現する、権現する、示現する等、現れるという意味。

各地に点在するミシャグジを統べるのは、沖縄の御嶽と同様で、
沖縄独特の信仰である御嶽も、岩と木の祭祀であり、御嶽は司(ツカサ)と呼ばれる者が祭る。

ミシャグジと御嶽、呼び方が違うだけで同じ様なものに思えるが、

 

神社にお宮が築かれる様になる前の、古神道の社殿の無い磐上祭祀の様だ。

神職も宮司ではなく、宮は無いので司と呼ばれていたのかもしれない。

 

諏訪大社では、毎年3月の酉の日に行なわるる大御立座神事が、

この失われた湛え神事の名残りと云われている。

 

そして、諏訪大社下社の方がどうやら後代の農耕民族の祭祀であるらしい。⛏️

 


古くからの歴史が続く、

聖なる国 日本✨

 

また別の投稿で、諏訪七千年の歴史を深堀りしてみる😌

ミシャグジもコアな部分に。


諏訪Ⅴ.綿津見最後の女王【八坂刀売】日本大昔ばなし② 

2022-10-01 | 諏訪の道

越の国の『八坂刀売』


遥か遠い昔むかし、

世界の果てのお話し。

長い話しです。(😌千年紀)

ユーラシア大陸の東方三千里に

世界の地の果てがあった。

地の果てから、更に東の海を越えてゆくと『越洲』(えつしま)という大きな島があり

『翡翠の女王の国』があった。

その国は、海神(ワダツミ)族の国で

「越の国」と呼ばれ、

女王の名は、「八坂刀売」といった。


【ワダツミの都】

大昔しに、遠い海を渡ってきた海神族は、最初は九州、筑紫洲・対馬に辿り着き和多津見の都『龍宮』を築いた。

長崎県対馬 和多津見神社

真珠浜に鎮座し、この宮の奥に海神族の都が築かれていた。

海神(ワダツミ)は、
綿津見(わだつみ)ともいい
どちらを当て字しても

ワタ=海
ツ=の
ミ=神

という意味は変わらない。


海神一族の『龍宮』の女王は、潮をあやつる不思議な玉を使い、

豊葦原国の王子を助け、やがて結ばれた。

『豊玉姫』と呼ばれた。

和多津見神社 海の鳥居⛩️

ご祭神 豊玉姫 彦火火出見尊

摂社 豊玉彦(大綿津見神)

△安曇氏の珍しい三角鳥居

亀甲占いをした亀甲石を祭る。海神族の祭祀は安曇一族が司った。

 

△安曇磯良の神石を祭る海中鳥居

引潮になると神石を拝みみることが出来る。世界で一つだけの海中三角鳥居⛩️


豊玉姫の眠る場所。 また、この奥にはウガヤフキアエズをお産みになられた産所があり禁足地となっている。


豊玉姫には妹君さまがいて、

妹君は一族を率いて更に海をゆく旅に出た。

 


【越の国の女王】

龍宮を出航した妹君ら一行は、対馬海流に乗り北東へ向かっていった。

そして日本海の『越洲』に翡翠の取れる河を見つけ、国母となり国造りをされ

『渟名川』の女王となった。

=宝玉
=の
=河

の意味。(渟名川=現在の姫川)

翡翠ヒスイは貴石である上、非常に硬く加工は難しい。

石を砕き、石器を加工する為に使われていた石で、

宝玉に加工出来るような石ではなく、特殊な技術が必要だった。

石器だけで加工している途中の翡翠 【越の国】長者ケ原遺跡出土

縄文時代の勾玉 鉄器の無い時代に石器だけで加工している。

😳どうやって穴開けたんだろう?

(竹と研磨剤を使い開けたそうです)

宝玉の加工は伝承され、越の国の海神族達は勾玉をうまく作り、一族は渟名川(現在の姫川)を中心に栄えていった。


女王は渟名川姫と呼ばれていたが、

玉の加工をする一族を率いた玉姫とも呼ばれた。

 

次第に周りの国々が騒がしくなり、越の国へも婚姻合併が求められる様になり、渟名川姫は、

豊葦原の国の王子とも婚姻を結んだが、時勢が変われば出雲の国の王子とも婚姻を結び、

時に攻められ、時に和合し、

天孫族(豊葦原中津国の天津神たち)の騒動に巻きこまれながらも、なんとか女王の血統と国を保ち続けてきた。

 

新潟県糸魚川市 「奴奈川神社」 天津神社が合祀されている。

 


【天孫族ヤマトの時代】

やがて、

海神族の豊玉姫さまの妹君であった玉依姫さまが、

豊玉姫さまの王子ウガヤフキアエズと婚姻し王子を産んだ。

玉依姫の産んだ王子はヤマト朝廷の初代天皇となり、

その王子は『渟名川命』ヌナカワノミコトと言い二代目天皇となり、

二代目 渟名川の尊

三代目 磯城津彦 玉手看の尊

三代目の天皇は渟名底仲姫を娶り、渟名川姫の一族は初代ヤマト王朝と深い関わりを持っていた。

(🤔磯城とは=ヤマトではなく、対馬の真珠浜に築いた磯の城『海神族』の都のことかもしれない。二代目の渟名川の尊は、磯城県主(県主=首長)を妃としていた説があり、それだと、越の国(新潟県渟名川)の海神族からと、長崎県対馬の龍宮の海神族からと、交互に王と妃を輩出していたことになる。)

現代でも天皇家三種の神器のうち、

八尺瓊勾玉だけは天皇家が所持して、八咫鏡は伊勢神宮、草薙の剣は熱田神宮に保管され持ち主である天皇でさえ見ることが許されないという。

(😅誰が天皇に許認可を?)

八尺瓊勾玉だけが天皇家にある事は逆に越の国との深い関係を示している😌


神器・八坂邇勾玉の意味は

八坂=ィヤサカ=栄える
邇=に=麗しき宝玉の
勾玉=曲がった玉

であり、八尺瓊勾玉と当て字しても
ヤサカニノマガタマの意味は変わらない。

(実際に2m42cm=八尺の勾玉があったという訳ではないです😂多分☝️)


越の国で、硬い翡翠の加工が出来た渟名川姫の一族だけが造り得た宝珠だ。

硬い翡翠を勾玉の形に加工するのは、越の国の研磨技術の粋を集めた造形の証に他ならない。

時代が下り、

渟名川姫の一族が越の国を去って諏訪にいくと、翡翠の加工も産出することさえも忘れさられ、勾玉は柔らかく加工しやすい瑪瑙で作られる様になり出雲や奈良で代わって加工される様になった。


渟名川姫のあと、渟名川姫の王族である

『八坂刀売』が、その御位を受継いだ。

越国の綿津見、最後の女王となった。

(※ウガヤフキアエズ朝、天女の羽衣伝説は置いておき八坂刀売の辿った話しを進めます😌)

 


【出雲の国譲りから諏訪へ】

越の国の女王・渟名川姫は、出雲と越の国が合併することになり、出雲の国の大国主の妻となったので、渟名川姫の一族は八坂刀売を一族の女王として立てていた。

一族の女王のことを『族刀自』といい

ヤマト言葉で 刀自=戸主という意味で、

女系を重んじる国では首長は全て女性がなっていた。

家にあっては母戸主、
里にあっては里戸主、
一族にあっては族戸主となり

国にあっては女王となった。

なので『八坂刀売』は『八坂刀自』とも呼ばれていた。

今でも自分の国を母国というのも母系社会の名残りであり、

人間は皆、母から生まれてくるので女性は人々に尊ばれていた。

なので太古のアジア世界では、男権社会よりもこうした女系を敬う国々の方が沢山あった。

婚姻し相手の姓になる時は、必ず女性の姓を継ぐ。

そもそも「姓」とは、どの女性から生まれてきたかを示すものだ。

もしも王家に皇女がいなくなって、王子だけで子を産めなくなると

他の王家から、女性にきて貰って家を継いで貰い、子どもを産んで貰う。

これが『嫁』であり、当主を継いで貰い

女の家になるのであって

家の女になる訳ではない😮

婿養子に家を継いで貰う様な現代の価値観とは、全く正反対の性格を持っていた。(現代人の反発は予測される😅)

 

女王に求婚し結びをつくる渡来部族は多く、敵味方の両方と婚姻することもあった。

それほど迄に、女系軸は国造りに重要な存在だったので、皇女二人が、相手部族と婚姻を結ぶということは、相当強い繋がりがある証だ。

 

日本神話では、

天孫族と婚姻した姉妹
綿津見の豊玉姫・玉依姫、

大国主と婚姻した宗像氏の姉妹
多紀理姫と多岐都比売がそれで、

何れにせよ、女系社会から男権主義への系嫡混濁の時代を何世か経てヤマト朝廷は開かれた。

 

この様な古代からの女系社会の伝統を受継いでいる

八坂刀売は

越の国の一族の代表として、出雲の国の建御名方命と婚姻し、

先代の大国主と渟名川姫の婚姻に続いて、二代目の懸け橋となる存在だった。

しかし、

天孫族の男王は是を認めず、男系の王を立ててきて、出雲の連邦国であった越の国も『国譲り』する事態へとなってしまった。

出雲・越の国の婚姻合併はこれで途切れてしまい、天孫族の王が支配する国へと譲ると、

建御名方命と八坂刀売は、異民族が住む異国の地【諏訪】へと追放されてしまう。

『二度と天孫族の王地には足を踏み入れない』と誓うことで二人は追放処分となったので命まで狙われることは無かった。

一方、

突如として他民族に踏み込まれた諏訪の方では、諏訪の狩猟民族の「洩矢氏」が応戦した。しかし決着がつかず、建御名方命と一騎討ちの力比べで決着をつけることになり、建御名方命が勝利した。

 

洩矢神社 両陣営は天竜川を挟んで対峙し戦った。洩矢氏側には『洩矢神社』(守矢神社)、川を挟んで対岸に建御名方命側の『藤島神社』が今も祭られている。

 


【国土の神が諏訪を拓く】

諏訪盆地 長野県茅野市


かくして、諏訪入りした建御名方命は妻・八坂刀売や息子たちと共に、諏訪を開墾し、各地に弥生式の農耕を拓いていった。

建御名方命の諏訪入りを阻んで力比べに敗れた先住氏族である洩矢氏(守矢氏)は、建御名方命の第二子に姫を嫁がせて外戚となり、洩矢氏が神事の長となって建御名方命が大祝(大王)となることで、諏訪の新旧勢力の祭政合併は結着した。

八坂刀売は、建御名方命とその子らと共に諏訪・佐久平の国造りを行っていったが、新興の農耕文化の開拓はすくなからず土着の人々から「外来の神々のなせることなど」と、反発を生み定着には時がかかった。

 

出雲の国譲りの後、

天孫族にクニを譲った大国主命は妻・美穂津姫をともない静岡へ逃げていた。

静岡にはかつては海面下にあった場所に大きな平野が誕生していて、大国主らはここに稲作文化をもたらした。

建御名方命の父である大国主は、太平洋沿岸の静岡から山に囲まれた諏訪の国へ「塩」を送ることが可能となり、例え日本海側から「塩どめ」をされても備えが出来る様になった。

諏訪にとって塩は生命線だ。

狩猟民族であれば獲物の血から塩分を接種することも可能だが、農耕社会になっては致命的である。

信濃の国の上杉謙信が、海無き敵国の甲州・武田信玄に塩を送った人道的配慮は有名だが、多くの餓死者が出た江戸時代の天保の大飢饉でも諏訪の人々は餓死でなく塩不足で落命した。諏訪を支配した領主たちも、まず塩尻峠(長野県塩尻市)で塩を止めることで領民らを支配した。

三河・浜松からの辰野を抑えられれば、静岡の富士川から信濃堺へ塩を入れるしかない。

なので、父が太平洋岸の静岡にいる建御名方命の諏訪入りは、必ずしも諏訪にとって悪いことではなかなったと思われる。

合併後、諏訪の大祝となった建御名方命は諏訪の宮中にいたが、母・渟名川姫は鹿に乗り諏訪入りしてきて、御座石神社(茅野市)へと居を移していった。

その後は、ひょっとすると諏訪の釜無川から下流の富士川へ下って太平洋側にいったかもしれない、、🤔

 

建御名方命と八坂刀売は、宮中で夫婦仲睦まじく暮らしていた。

しかし、

あるとき諍いがあり、八坂刀売は宮を出て船で下諏訪にいったという。

何故か、出ていったきり八坂刀売は
二度と戻らなかった。

宮(=諏訪大社上社本宮)


諏訪大社は、四社で一つの神社で
御札も一つしかない

(上社本宮・前宮/下社春宮・秋宮)

にも関わらず、

本宮だけは

『建御名方命・八坂刀売』お二人

夫婦相神で祭らず

建御名方命だけが祭られている。


八坂刀売は何故、下諏訪へ去ったのか

 

ちなみに諏訪大社の御札は、御柱祭の柱から作られているそうです😌☝️

 

【八坂刀売その後の謎】

諏訪には「綿に化粧に使う温泉水を浸して持ち、八坂刀売は船で下諏訪へ出ていった」という伝承があるだけで、諍いについては詳らかではない。

 

諏訪温泉発祥の地

 

宮邸内での洩矢氏との内訌か、

洩矢氏の神事が原因か、

八坂刀売でなく、八坂刀自として
女王の独立性を維持しようとしたのか
、、?


毎年、冬になると諏訪湖が凍り、
諏訪の御神渡りという現象が起きる。

これは、居なくなった八坂刀売に合いに行こうと、建御名方命が凍って歩ける様になった諏訪湖を渡っていくのだという。

御神渡り


建御名方のことを「南方」さまと呼ぶ神社がある。

「南方神社」 ミナカタ御社宮司社

※南方神社は、九州鹿児島や宮崎にも多く祭られている。薩摩には神代三代=豊玉姫や玉依姫の時代の伝承が残り、三山陵という天孫ニニギの尊と、豊玉姫の夫・彦火火出見尊、豊玉姫が産んだウガヤフキアエズの陵墓があり海神族とも縁故が深い。

薩摩の南方神社は相神で

南方刀美=ミナカタ男王 八坂刀売=ィヤサカ女王と、夫婦で祭る。

これとは別に、鎌倉時代に源頼朝旗下で島津氏の始祖島津忠久が、信濃の地頭、薩摩の守護に任じられた事が薩摩の諏訪信仰の始りの様だ。

南方神社も武神としての建御名方命が代々薩摩藩主に崇敬されていて(ご神体は鎌)、諏訪大社からの勧請らしいが、諏訪神社でなく何故?南方神社なのが気になる。南方の王族系統という意味もあるのかもしれない🤔

、、しかし

諏訪湖の南方に、建御名方命の宮邸があったので(諏訪大社上社本宮)

『南方』と呼ばれていたとも考えられる。


すると諏訪湖の北側の下諏訪には『北方』さまもいらっしゃるのだろうか?


※🤔八坂刀売が出て行った「綿の湯」と建御名方命が合いに行く「御神渡り」のエピソードは有名な話しだが、八坂刀売の綿の湯の話しには謎が多い。

伝承の説話では

八坂刀売が綿に浸した温泉の湯が、ポタポタとたれた所から温泉が湧き、今でも諏訪湖の周りに下諏訪まで温泉が点々と湧いているのだという。

八坂刀売は船で逃げたのに周辺の地に湯の雫が落ちることはなく、そもそも「綿」が日本列島に伝えられたのはこの五百〜千年近く後のことで、後世の誰かが意図を含んで説話にしたと思われる。

綿津見ワダツミを

綿浸(わたしみ)にかけて、

かつて諏訪には、綿津見の女王・八坂刀自がいた事を示してくれたのかもしれない。🤔

✨⛩️🙏


「北方」=下諏訪には今でも八坂刀自の末裔の方達がひっそりと暮らしているのだろうか、、


二千年前に栄え、消え去った王族たち

三種の神器
📿八尺瓊勾玉、🗡️草薙剣、🧿八咫鏡も

かつての

石器時代
青銅器時代
鉄器渡来時代の過ぎ去った宝物であり

それらを代表する神器がヤマト朝廷の天皇家の神器となったという事は、

古代から連綿と続いてきた先住民・先先住民族の時代は終わり、天皇の新しい御代になったということに他ならない。


しかしすぎ去った今でも、

この時代を生きた出雲、越の国、天孫族らの三種の魂筋は

小さな川の様に

諏訪に

密やかに流れている気がする。

✨✨✨✨


『万葉集』

渟名河の底なる玉 

求めて 得まし玉かも  

拾ひて 得まし玉かも 

惜しき君が 老ゆらく惜しも

読み人知らず

 

諏訪大社上社 前宮 三の柱

 

この後ろに、八坂刀売さまが眠るという

 

 

もう一つの玉姫伝説

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

(😅まだあるのか)

弥生時代の次にやってきた古墳時代を経て、世の中は力強い「男権主義」にかわり男王の時代へと入った。

飛鳥・奈良時代の推古天皇、斉明天皇、中宮天皇(ナカツスメラミコト)、孝謙天皇ら女帝の時代が最後になる。

海神の血を引く女系の一族らは、
東方へ去っていった。

千葉県一宮には、
出雲大社とのレイラインで知られる
上総一宮『玉前神社』があり、
玉依姫さまが祭られている。

そして
玉前神社から30 ㌔ほど離れた海岸には


【東浪見の鳥居】が⛩️立てられ、

ここに女系集団が上陸したことが記されている。

東浪見の鳥居⛩️✨

毎年9月13日には、付近の十二の神社から出た神輿が

玉依姫さま由縁の神々を乗せこちらの浜に集まる

十二社祭りが千二百年前から続いている。

鳥居から500mほど陸へ進むと、神洗神社という

玉前神社の元宮がある。

 

女性を首長として海を渡る海神(ワダツミ)一族は、

黒潮文化圏の海洋民族に属する女系集団だ。

女系国家では、女王と婚姻したものが王となる。海神族は遥か西方の大陸より海を渡り、上陸地の氏族と婚姻し拠点を築き、別の一隊が次の上陸地を目指し、沿岸航法で飛び石づたいに新たな王と共に東へ東へと移動してきた。

黒潮は、フィリピン諸島から沖縄など南西諸島、鹿児島、四国、和歌山、伊豆諸島、千葉、茨城まで環太平洋ラインを流れている幅約80kmの巨大潮流で、九州で対馬海流という支流が生まれ日本海側への移動手段となる。

海神族の移動ルートにも、皇女の姉妹らによってそれぞれの流れがあったのかもしれない。

越の国は、沿岸沿いに長細く、確かに朝鮮半島より海を越えてきた国という説に適う様な形をしている。しかし、対馬から海流に乗り出雲、能登、越、と沿岸航法で飛び石づたいに拠点を築きながら進出してきた様にも思える。

 

何れにせよウガヤフキアエズ朝の存在を考えると、海神一族の謎もまだまだ深いが、

諏訪に残る八坂刀売の存在は確かに感じる。

、😳もしかすると千葉の事も

下総しもうさ
上総かみうさ

というのは、


下諏訪しもすわ
上諏訪かみすわ

が、語源では、、🤔

(違うと思いますが😂早口で言うと全く同じに聴こえます)

しかし、北側を下○○、南方を上○○と呼ぶのは

千葉と諏訪だけの様だ、、😮

 


諏訪は、

弥生からヤマトの世へ、

紀元前500年〜紀元500年の千年の時が刻まれている

遥か遠い昔を感じる聖地✨✨✨

🙏✨😌長い話しを最後まで読んで下さってありがとうございました。