聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

スサノオ Ⅰ. 京都【八坂神社】素戔嗚尊

2022-05-28 | スサノオ

ブログの後半に『古代ミステリーロマン』風の話しをまた加筆致しましたので、再投稿します🙏

後半は、聖地・パワースポットというブログの趣旨から外れ【古代ミステリーロマン】な話しを長々と書いてますが、興味のある方は御覧下さい。(※とても長いので期間限定で公開🙃)

スサノオ様を祭る神社⛩️

『氷川神社』『熊野大社』『八坂神社』三社を巡りました。

祇園祭で有名な八坂神社をUPします。全国の八坂神社の総社。

【八坂神社】京都市東山区祇園町北側625

ご祭神 素戔嗚尊(=牛頭天王)

(※素戔嗚尊→スサノオって読めないすね😅)

西楼門

創建 656年

高句麗の渡来人イリシが、新羅の牛頭山に坐していた「素戔嗚尊」を

京都・山城の国の八坂に祭ったのが起源という。

日本書紀に一書曰く

「スサノオは新羅に天下った」とあるので、高句麗人イリシの手によって、新羅からスサノオ様のご神霊が戻ってきたということだろうか。

日本書紀の編纂を命じた天武天皇も、その事を知っていたのだろう。

八坂神社は、神仏習合の時代の代表的な存在で、明治の神仏分離まで、

感神院というお寺だった。

(※神仏習合=「日本の神は本来は仏教の神で、仏が神の姿で現れたもの」とされ神社が寺院の傘下となっていた時代。日本古来の神々は仏教の神に習合された)

本殿


スサノオ様と習合(コラボ)された牛頭天王は、インド仏教の聖地の寺院

【祇園精舎】の守護神で疫病の神様

スサノオ様がインドの牛頭天王と習合された影響で、八坂神社は

日本神話の高天ヶ原や出雲などよりもインド系の祭色が色濃い。

祇園祭りも海神のスサノオでなく、

疫神を祭ってる。

西楼門から入ると屋台が並び賑わっていた。

『太田社』ご祭神 猿田彦命・天鈿女命

本殿の周囲にはいくつか由緒のある摂社が祭られている。

『大国主社』

スサノオの跡継ぎとして国造りを行った大国主と、共に協力した少彦名、大国主の子・事代主が祭られている。

『美御前社』うつくし ごぜんしゃ

東北門の方にある「美容の神社」

宗像三女神 

多紀理姫、湍津姫命、市杵島姫を祭る

社前に湧きでてる神水の美容水がある。

三女神の美しさにちなみ

美しくなる神社で、女性の参拝客は美容水を手にとってお顔にはたいていた😌

南門 鳥居

拝殿

インドのラタヤートラというお祭りでは、山車を引っ張りヒンズー教の神々を祭るという。

祇園が日本に伝来したのは7世紀頃だろうか、、🤔

しかし、インドより今や日本の祇園祭の方が本場になっている様だ。

何よりインドはヒンズー教徒の国、仏教徒は殆どいない。

日本人なら『祇園』を知らない人はいないが、世界的にも日本の祇園は有名で

無形世界遺産だ。

八坂神社は延暦寺の末寺だったのが、

織田信長の延暦寺焼き討ち以降、延暦寺から離れ、祇園祭は独自の形を歩んできたという。

伝来した伝統を取り込み、

スサノオ=牛頭天王という形で伝え続けてきたおかげで、

どちらも完全に排除することはなく、世紀を超えて大切に保存されてきている。

これが所謂、外国人からみた


『日本人が気づいていない日本の良さ』なのだろう。

どちらかを根絶やしにする様な完全排除はしない。たとえ針の穴ほどでも後世に残す。

スサノオ様よりも、

牛頭天王さまの由緒を、より感じる聖地✨


同じスサノオを祭る神社でも
スサノオが牛頭天王と習合されたことにより、それぞれ色彩が違う。

⛩️八坂神社の様な、
インド祇園系(牛頭天王)

⛩️熊野大社の様な、
仏教修験道系(熊野権現)

そして、
⛩️氷川神社の様な、
日本神話出雲系(須佐之男命)

スサノオ様を祀る神社にはそれとなく、三つの側面がある。

次は熊野大社を。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

素戔嗚尊と『祇園精舎」と牛頭天王

古代ミステリーロマン的なお話しです😌

=祇園はインドの舎衛城の長者スタッダが、仏陀に提供した教えの場所で、インド仏教の聖地。精舎とは仏教寺院のこと。

その祇園精舎の守護神である「牛頭天王」の名の語源は、南インドにある牛頭山(マラヤ山)に群生する薬樹「牛頭栴檀」(白檀)が由来らしく、医薬として用いられたという。

韓国(新羅)の牛頭山はソウルの東方、京畿道にある標高480mの山。

驚いた事に南インド~韓国まで5000㌔以上離れていても、同じ牛頭山という山が存在しているが、祇園精舎があったコーサラ国からもかなり遠い。

中国の温州の浙江省武義県、日本の広島県にもそれぞれ牛頭山がある。

何故、牛頭天王が祇園精舎の守護神になったのだろうか…? やはり疫病から守る為に?🤔

そもそも、仏教の聖地・祇園を守護する牛頭天王の奥さんは、守るどころか仏教を衰退に追いやったヒンズー教の女神(ハリサイジョ)。対立関係の政略結婚の様なものだろうか?

祇園は日本に伝わり既に1000年以上が過ぎ、

「祇園」さんとして長い間、日本人に親しまれ日本人と共に歩んできた。

イワシの頭とヒイラギを玄関に飾り、疫病神を追い払らったりなどの牛頭天王への信仰も今に残る。

(※ユダヤ起源の説あり☝️出エジプト記では羊の血を玄関に塗ると災厄から助かるという。ヒイラギとイワシで羊の血の臭いを再現したか?🤔)

明治の神仏分離で神社と仏教は別れたが、牛頭天王や祇園祭はもはや

神道、仏教、どちらでもない独自の伝統文化と言えるかもしれない。

『牛頭天王』様が仏教の教えの聖地・祇園精舎の守護となって久しい。


牛頭山の薬樹の霊薬で人々を病魔疫病から守ってきた存在なのだろうが、インドの祇園精舎は長らく埋もれたままの遺跡となってしまった。

ヒンズー教の台頭により仏教は衰退した。

7世紀に三蔵法師が訪ねた時には祇園精舎は既に荒廃していて、1200年後の19世紀~20世紀に遺跡の発掘が行われ現在はインドの歴史公園となっている。

もっと早い時期にヒンズー教の前進であるバラモン教に圧され、衰退していたのかもしれない。

インド仏教は、

バラモン教、ジャイナ教徒、ヒンズー教、イスラム教など、他宗派に押され弱体化してきた歴史がある。

ブッタ入滅後、
500年くらい経った頃から権威主義が暴走し力が失われてきた『仏教』に対抗して、

『大乗仏教』マハー・ヤーナが台頭してきた。

一部の出家者しか救われないとする権威的になり過ぎた『仏教』に対し、
多くの民衆を救う『大乗仏教』は力をつけ、バラモン教国を仏教国へ改宗させるほどになった。

法華経などの経典でブッタに纏わる様々な説話が説かれる様になり

ここで力強い神々【仏教の守護神】たちが誕生した。

蛇神ナーガ、夜叉、羅刹、等々、、

「牛頭天王」もこの頃からの存在だと思われる。

『大乗仏教』はナーガ・ルジュナ(龍樹)によって完成されるが、

中国にその大乗仏教が伝わると、
中国人は蛇神ナーガを全て龍神に変えてしまい、日本には蛇神でなく八大龍王や善女龍王として伝わってきた。

牛頭天王さまも、中国人のアレンジによるものなのか、または日本に伝来してからのものかは分からないが、変移してきてる可能性はある。

後に、インドの大乗仏教もヒンズー教に押され、密教化し大日如来など力強い神々をまた創りだし対抗したが、密教化が暴走し結局は力を失った。

当のインドでは、紆余曲折、波乱万丈な変遷を歴て衰退していったにも関わらず、日本に伝わった『祇園』さんは日本の伝統として今も残り、牛頭天王は京都の『祇園祭』や全国の『天王祭』というお祭りで存在している。

これは、西洋人からみた日本の良さという事だけでなく、

インド人から観ても
伝統を残す日本の良さとして映るのだろうか、、🤔

インドから発祥し、2000年経った今もずっと続いてる祇園さん。

蘇民将来の疫神のスサノオ様と、
祇園精舎の守護神・牛頭天王様、
そして人々との関係は、深く長い信仰で繋がってきたのだ。

中世の疫神信仰は、伝染病の流行は祟りによりもたらされると信じられていた為、無念にこの世を去った存在を神として祀り、祟りや災いを出さぬようにと願いをこめ祭り奉る。

都を追われた菅原道真公の天満宮などがそうだが、京都の祇園信仰の疫神『牛頭天王』は実在の人物という訳ではなく、また宗旨が違うのかもしれない。

話しが牛頭天王様で仏教化すぎたので😂少しスサノオ様に触れます、、😌

日本神話のスサノオ様は、天照大神の兄妹神で、スサノオ様と月読命は、天照大神と共に『三貴子』と称されながらも信仰は最初は細々としたものだった。

今は、月読命だけが影が薄いが、

スサノオ命は、

神仏習合で牛頭天王と習合された事で

牛頭天王信仰によって全国に一気に広がっていった。

京都の八坂神社系2300社
愛知の津島神社系3000社(天王社)
など、

月読神社の100倍近くの広がり様である。

(月読神社😅少なすぎ)

牛頭天王系の神社は、須佐之男ではなく素戔嗚命と表記しているところが多いという。

本州の文字文化にはない表記らしく、本州で素戔嗚命と祭るのは独特の系統を示す象徴らしい🤔

祇園精舎と牛頭天王

牛頭天王とスサノオ、

何故に結びついたのかは本当のところよく分かりません。

一説に、

スサノオが祭られていた播磨国の祇園本社「広峰神社」に、牛頭天王が垂迹してきて、9世紀後半に八坂神社に遷り、

また広峰山からスサノオ様の御神霊が、やはり9世紀後半にの八坂に遷ったとあり、『広峰』に謎を解く鍵があるかもしれません🤔(広峰も行ってみよう、)

スサノオ様は少彦名命、菊理姫・神功皇后の様に新羅系の神様として語られていることも多いですが、これ程まで南国の神、牛頭天王と合致したのは、もしかするとスサノオ様も

南方からやってきた神様だからかもしれません。

そして、インドから新羅まで、牛頭山を祭る渡来部族が

大海原を渡ってきたのだろうか?

、、、核心に進んでいきます🙃

『牛頭天王とスサノオが結びついた説』

諸説ある中で有力説は、茅の輪くぐりの由緒であり

疫病退散のエピソードの「蘇民将来」という兄弟の話しがある。

『北海に住むという武塔天神が、嫁を探しにきた。

一晩宿を借りようと、長者・巨旦将来に頼んだが断わられ
兄の蘇民将来は貧しいながらも武塔天神を暖かく迎えいれた。

嫁を娶った後に、武塔天神は『八王子』を連れ、  

(八王子=男神五神、女神三神)

蘇民将来のもとに顕われ感謝し

蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。そして「吾はハヤスサノオの神である」と、

武塔天神は本性を明かした。』


このスサノオ(=武塔天神)の疫病の話しが、インドの疫神である牛頭天王と結びついてスサノオの別名とされたという説だ。

とすれば、武塔天神牛頭天王ということになる。

この話しに対してもっと

暗示的な読み取りをするならば、

「武塔天神は北海に住む」、北海に住むといえば

高句麗人のことであり、

八坂にスサノオを祭った高句麗の渡来人イリシという人物を想起させる。

では、武塔天神は誰か?という事だが

これは天武天皇を暗示しているのかもしれない。

大海原を治めたというスサノオと、天武天皇の元の名、

大海人皇子という名乗りも一脈相通じる。

新羅の牛頭山から、イリシが京都の八坂にスサノオを祭ったという656年頃は、

大化の改新後、考徳天皇が廃位され難波朝から大和朝へ代わり
中大兄皇子や大海人皇子へ天下の趨勢が移った頃だ。

後に、壬申の乱で大海人皇子は天智天皇系に勝利し天武天皇となるが、8世紀後半にはまた天智天皇系へと戻り現代まで続いてきて、天武は歴史の彼方に置き去りにされたままでいる。

天智天皇系の世となり、表向き天武を祭ることが出来なかったために、
その縁者や崇敬する人々達は、

新羅の牛頭山のスサノオを八坂に祭ったというエピソードと共に

疫神・牛頭天王、武塔天神=スサノオのエピソードになぞって

その隠された存在を

密かに祭っていたのかもしれません。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

もう少し天武天皇について、、

【追記】

古代日本で最も封印された天皇

『天武の謎』

大海人皇子(天武天皇)ほど、歴史の闇に隠された存在はない。

😅歴史ヲタクな私は、『和国大戦記』という天武天皇を主人公にした小説を投稿サイトで連載しているのですが、天武ファンとして😍こちらのブログでも少し触れてみます。長文です🙏

この投稿では、

スサノオと牛頭天王を結ぶ

「北海に住んだ武塔天神がやってきた、」という蘇民将来の疫病エピソードと

八坂神社の由緒の

「高句麗人イリシが京都の八坂にスサノオを祭った」

という創建のエピソードから

天武天皇(大海人皇子)の存在を想像してみた。

「北海に住んだ」=高句麗人であり、何故「武塔天神」=天武天皇なのかは別にして

(ていうか神って😂☝️しっかり天武の二文字が配されてますやん)

まず、

表向きのご祭神とは別に、ご尊名をつまびらかにせず、

その名をあげて祭れない存在を陰祀している神社について触れてみたい。

有名なところでは、石川県金沢の

『尾山神社』がある。

豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康へと天下が移りゆく時代のこと。

秀吉側の宿老・前田利家が病死し、

跡を継いだ前田利長は亡父を神として祭りたいと考えていた。

しかし、天下は徳川に傾き徳川家康は前田家の征伐も検討していたほど。

おおっぴらに『利家公』を神として祭ることは出来なかった為、

前田家が守護としていた物部八幡宮を遷祀するという名目で、

表向きは八幡様を祭る神社を建立し、

そこに合祀するという形で密かに故『利家公』を祭った。

加賀百万石の前田家は明治4年の廃藩置県まで続いたが、その様に

歴史が新しくない古代の場合では、密かに合祀したことが確認できずにそのままになっている事もある。

何時の時代も、その首長の元で生きた人々、恩恵を受け敬愛していた人々、残された一族にとっては、例え天下の蒼生が移り変わっても、

初代当主を祖神として祭りたいという崇敬の気持ちは当然ある。

しかし、堂々と祭ることが出来ない場合、仕方なくご尊名を隠して祭るしかない。例えば、

平安時代、
平将門の乱で、側近・興世王が討たれた時、里の人がその遺品である馬の衣を拾い『熊野神』として祭ったという。


古墳時代、
ヤマトタケルはクマソタケルを征伐した。征伐された側のクマソタケルの氏族達は、クマソタケルを堂々と祭ることを憚り

その奥さんを姫神様として姫神社を祭り、相神としてクマソタケルを密かに祭った。

前田利家と違いあまりにも時代が古いためこれを確認する術などなく、

時代が変わっても古代から変わらない祭祀が続いているのかもしれない。

例え、その様な伝承があったとしても「あくまでも伝承で、史実無根」とされるので、古代ミステリー好きには、逆に好奇心やロマンを掻き立てられる。

そんな、ミステリーロマン視点から綴っていきます。

天武天皇も、どこかで陰祀されていて当然だと思いますが、あるとすれば

八坂神社ほどの社数があっても不思議ではない。

八坂神社は、明治の神仏分離の時に、

『神道の神様スサノオと、仏教の神様牛頭天王を分けるべき』と、

真っ先に槍玉に上がるほどの存在感があった。

そして天武天皇も、

古代日本において、最も存在感のある天皇だった。

正史となる『日本書紀』の編纂を命じ、伊勢神宮内宮の造営、天照大神を最高神とし伊勢神宮の社格を日本一に高め、現代の大嘗祭にも続く壇場即位の儀を日本で初めて行ない、「天皇」の号を採用、現人神の思想、 日本という国号、律令化、肉食の禁止など日本の基底文化となる数々の影響を与え、偉業を成し遂げ、そして恐れられた人物だ。

(この時代で既に『和国書紀』でなく『日本書紀』)

元々、部族連合国でしかなかった和国に現人神の思想を持ち込み、公地公民化を進め、専制君主的な王権を強化しようとした王たる王。

冠位を拡大し、東北・北陸の蝦夷族を従わせ、日本海狭しと列島から半島を海を跨いで奔走し続けた海の皇。

和国が消滅し、強い日本国が生まれた🌅律令化の時代の英雄✨です。

持統天皇(妻)や文武天皇(息子)は、天武天皇の偉業を継ぎ、

遂には『日本国』の名で遣唐使(周)を送り、時の皇帝・即天武皇に

『もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。皆、日本国と呼ぶように』

と、言わしめた『日本建国の時代』

その立役者たちの筆頭です。

それだけ偉業を成しながら、天武天皇を祭った神社というのは殆どありません。(寺院はある)

神武天皇、崇神天皇、ヤマトタケル、神功皇后、応神天皇、欽明天皇、聖徳太子、柿本人麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真、平清盛まで 

古代の偉人を祭る神社はいくつもありますが、まるでその『律令国家・日本建国の時代』だけすっぽり抜け落ちているかの様に、、、

ひっそりとしています。

 

高句麗人でもありますが、先祖の出自は漢の霊帝の子孫と云われる渡来人。

闇という言葉はあまり使いたくないですが、闇の王にスポットを当ててみます。


【古代ミステリーロマン】というジャンルの中では、

『中大兄皇子(天智天皇)は百済のキョギ皇子だった』

という事はもはや定説となっていますが、

「天武天皇は、高句麗人のヨン・ゲソムンという宰相だった」

ということも巷説の世界では、実しやかに語られていますので、

北海に住んだという武塔天神とは、

北海=高句麗にいた天武天皇を指しているのではないか。

「高句麗人イリシが八坂にスサノオを祭った」という由緒だけで、

高句麗人イリを思い浮かべる方は少ないかもしれません。

大海人皇子(天武天皇)は高句麗人のイリだった

とは、荒唐無稽すぎてなかなか理解するのが複雑です。

高句麗・新羅・和国と三国に渡る影の実力者で、大陸を奔走した英雄です。

和国の発音でイリ・ガスミ

高句麗では、ヨン・ゲソムンと発音する

高句麗の宰相でした。

その後、和国に渡り天武天皇となります。

(※大海人皇子/天武天皇/イリ(淵)/ヨンゲソムン/任武/など、各国で呼び名が多数ありますが「イリ』という名で綴っていきます、、)

7世紀、唐国の勢いが強大となり高句麗は滅亡の危機をむかえますが、高句麗の大臣だったイリはクーデターを起こし親唐派の高句麗王を除き、反唐派政権を樹立させ唐と戦いつづけた。

そして高句麗王族の姫を娶り王の入婿になり、宰相となり…反唐派政権を操っていた。

高句麗の前は新羅にいた事があり、637年に金一族の姫との間に「法敏」という男子をもうけていた。

やがてその子は新羅の王族・金春秋の養子となり、長じると金一族が政権をとって

新羅の文武王に即位し、後に列島に渡り和国の文武天皇となる。


(全国の白髭神社に、白鬚様として祭られているという風説があります)


イリは何度も和国と高句麗を行き来し、反唐の為に奔走した。

和国でも王族の入婿となり、大海人皇子と和国名乗りを上げ、義兄の中大兄皇子と共に斉明天皇を擁立し実権を握り、百済を唐賊から救う為に和国から援軍を派兵した。

高句麗にあっては、

高句麗王の養子・第二皇子の任武=宰相ヨン・ゲソムンとなり

新羅にあっては文武王の実父

和国にあっては大海人皇子として、

三国を裏から操る、闇の政府となり

唐国と戦い続けました。


背面服従で、表向きは親唐であっても

三国の反唐派たちは

イリを中心に裏で結びつき協力しながら、唐賊を攘夷した。

百済が唐に滅ぼされてしまうと、百済復興軍に対して和国にいた百済王子・扶余豊章を送ります。

そして、

白村江の戦いで、和国からの反唐軍を遠征させるも敗北。

大国唐が建国されて以来、西アジアにはアフリカ、アジア、ヨーロッパ、三大陸にまたがるアラブ【大イスラム帝国】が誕生し、アジア大陸は史上かつてないほどの大膨張の時代に入っていた。

(※赤は唐の同盟国、属国、親唐国など唐の勢力圏、緑のアラブ(イスラム帝国)は実効支配下)



東アジアの果て「和国」も海を渡った別天地ではいられなかった。



唐は中国を支配すると、サマルカンド、クチャ、突厥など、中央アジア・北アジアの国々を次々と下し、チベットには唐の王女を降嫁し、インドには王玄策を派遣して内乱に乗じて政治干渉をし、親唐国に収めていた。

天下三方を平定した唐は、残る東方へ兵力を向けることとなる。

東西からの挟撃を怖れ、唐は西アジアの強国アラブとの接触を警戒、西側にペルシア都督府を設置し元ペルシア王子を都督として防備させ、

そして東アジアの強国・高句麗を滅ぼすことに全力を注いだ。

高句麗、新羅、百済、和国の王や部族達は保身のために国を売り、

東アジアの国々が唐に臣属していく中で、

反唐の志を強く貫いた壮士達が最後まで大国唐と戦い続けた戦乱の時代だ。


そして和国という国は消滅し、日本国が生まれる。

日本国はこの大戦期を生き延び、

唐、新羅、高句麗、百済が滅んだ後の、千年、千五百年先の

未来まで続いていく強い国になった。

大戦期の新羅は、唐の臣国となり、百済は滅ぼされ、

この状況から高句麗までもが滅ほろされてしまい

極東アジア全体が唐賊の支配の驚異に曝されていく中でも、

和国で反唐政権を維持し、

唐軍の進撃から極東を守り抜こうとした英雄が、

高句麗人イリ(=大海人皇子・天武天皇)であり、

新羅で反唐の旗を掲げたのが、イリの実子文武王だった。

イリは、当時の風習で、実子を手元に置かず信頼できる者の元へ託し、

隠し子として育てさせる事をしていた。

イリから実子を預けられた者は、動乱の時代の中で、

イリの子を自分の子として見事に育てあげた。

高句麗では、テ・ジュンサン将軍に預けその子は「テ・ジョヨン」という名で育ちます。

和国では、中臣鎌足に預けその子は「史」という名で育ちます。

新羅では、金ユシンの元で育った金法敏が文武王になった。

皆、反唐の志が強く、心の奥底で繋がっていた。

イリ(天武天皇)が亡くなった後も、イリの子供らは反唐を貫き

テ・ジョヨンは高句麗の地に『渤海国』を建国し、

新羅の文武王は、唐賊を半島から駆逐します。

和国の中臣史は、やがて

日本国の藤原不比等となり、藤原氏の貴族時代を築きます。

一時期、イリの子供達がこうして半島から列島の列強国として居並んだこの頃に、唐国との戦争の時代が終焉します。


『渤海国とは兄弟の如く仲が良い』と史書にありますが、文字どおり兄弟でした。

(※藤原姓=「○原」は、安原王、平原王、陽原王など高句麗王号に使われる為、高句麗王名が由来との説あり。【原】自体は「中心地」「主要」といった意味がある。フジは、上古の昔に徐福が『不死』の霊薬を日本列島に探しにやってきて富士山にそれを求めた。不死は=富士山の語源であるといい、『フジ』はそのまま日本列島をさす呼び名となったという。これを引用すれば、フジ・ワラとは、「日本の中枢」という意味になる)


八坂にスサノオを祭った高句麗人イリシと、高句麗人イリ(天武天皇)が同一人物かはわかりませんが、その語韻からはどうしても

この高句麗人イリ(天武天皇)という存在を想起せずにはいられませんでした


天武天皇は多動多彩で、一つや二つのエピソードでは全くつかめませんが、

本当にいくつものエピソードが重なって、重なって、

初めておぼろげに見えてくるような方です。

一応、

牛頭天王=高句麗人イリ(大海人皇子・天武天皇)もなぞってみました。

牛頭天王は、

「牛」の「頭」と書いて、容貌魁偉であるという外見を表す。

中国側の史書でイリは、同様の意味で、

「風貌が猛々しく体躯は逞しい魁塁の士」と、その立姿が評されていた。

容貌魁偉な仏像=イリがモデルとも

仏教の守護神である牛頭天王は、仏教と対立する

ヒンズー教の女神ハリサイ女を妻にしたという。

(※ハリサイ女=南の竜宮に住むという竜王の娘三女のうち末妹。諸説あり)

仏教は台頭してきたヒンズー教に押されて衰退した。

イリは、

対立する天智系の姫を娶り妻にした

皇統は、天智天皇系に移っていき天武天皇系は衰退した。

容姿だけでなくエピソードが同様であることも、重なっている🤔

イリは、

極東アジアにあっては唐賊を攘夷した英雄かもしれませんが、

和国にあっては天智天皇系の王権の簒奪者だった様で、

ありのままでは知られない存在。

天皇家の菩提は天智天皇系を弔い、天武は存在しません。


しかし、例えどのような事情があったとしてもこれほど強力な存在を全く

祭らないというのは考えられません。

天武天皇を倒した側が、高松塚古墳に呪術的に祀ったと云われていますが、

天武天皇側に関わりのあった人々が祭った神社も、きっとあるはずです。

金沢の加賀百万石・前田家の『尾山神社』神社の時の様に、

名前を伏せたまま、ひっそりどこかで祭られているかもしれません。

✨✨✨✨✨

長い話しを読んで下さってありがとうございました🙏✨


終わりに~

神社や遺跡を巡っていると、

凛として心が澄まされる様な場所、

何故か、ほっとする心休まる場所、

懐かしさを感じる場所に、時々出会います。

何故か嵐や雷⚡地震に遭遇したり、

何かが共鳴しているとしか思えない様な不思議な出来事もあります。


例え有名な観光地でなくとも、ひっそりとした場所でも

そこに立っただけで涙が溢れてくる様な、、

自分だけの聖地と呼べる、スポットです。

古い先祖がいない人はいませんので、

誰にでも、始祖さま、祖神さまが、

必ずいて日本のどこかに祭られています。

聖なる国日本✨へ、出かけてみて下さい。


気になる神社や

気になる場所はその目印になってくれるかもしれません⛩️

神社の後ろの杜

小さな祠や石段の途中、何かしらを感じるかもしれません✨

仏教で祭られる様になる、以前、

もっともっと古い昔から

魂の故郷の様なその場所で、

やって来るのを待ち続けている

祖神様が優しくあたたかく迎えてくれる、

そういう場所は、誰にでも必ずあると思います✨

~聖なる国 日本✨


日本に残るもう一つの【秦】Ⅱ.京都太秦

2022-05-14 | 古代ミステリー

秦の始皇帝を祭る【大酒神社】と三角鳥居の【木島坐天照魂神社】京都太秦のスポットです。

大酒神社

木島坐天照魂神社 三角鳥居

【大酒神社】京都市右京区太秦蜂岡町30

広隆寺から東映太秦映画村に向かう途中、曲がり角付近にひっそりと祭られている。

ご祭神 『秦始皇帝』『弓月王』『秦酒公』

中国には【秦】という国が二つありました。

一つは有名な始皇帝の秦。紀元前3世紀「不老不死の霊薬」を探すため徐福を日本列島に送った。

もう一つは3世紀頃、中国戦乱の時代に建国された【秦】。五胡16国という王朝乱立の時代で、

3世紀末に滅んでしまいました。

調度この頃、秦氏が日本に亡命してきて、秦氏は秦始皇帝の子孫という話しですが、

後から建国された方の【秦】の国の末裔ではとも云われてます。

中国の北西『弓月国』という国の王が戦渦を逃れ日本に亡命してきました。

王は、始皇帝の十四世孫だそうです。

その時に王が率いてきた秦氏が祭る神社で最後の王の孫・秦酒公が祭られています。

拝殿

秦氏は朝廷より京都太秦の地とその名を賜り、

養蚕、中国の機織り、「漢服」と「呉服」をこの地に伝えました。

今でも「和服」のことを「呉服」と言ったりしますが、私達日本人には北中国の漢服より、

南中国の呉服の方が馴染み深いです。

「うずまさ」の語源は、絹や布がうず高く積まれてる様を言うらしいですが、

「太秦」と書いてうずまさと発音するのは、独特の読み方で寡聞にして他に例を知りません。

始皇帝と弓月王、秦氏、そして

中国渡来の機織りを静かに祭る神社。

【木嶋坐天照魂神社】京都市左京区太秦森ヶ東町

大酒神社より徒歩10分ほど。中国渡来の養蚕を祭る神社。

三角鳥居が有名です。

綺麗に手入れされた庭園の様な参道

道路に面した鳥居は、

伊勢神宮など皇祖神を祭る様な神明型(下の棒が横に突き出てないタイプ)の普通の鳥居。

ご祭神

天御中主、大国魂神、穂々出見命、ウガヤフキアエズ、

そして養蚕の祖神を祭っています。

1500年前、秦氏がウズマサの地名を賜り養蚕と機織りを伝えましたが、

その100年後推古天皇の時代になり秦氏が養蚕の祖神を祭ったことが由緒。

社殿に向かって右が東本殿で蚕の神を祭っていて

社殿の左に降りると、日本で唯一の三角鳥居を拝むことができます。

三角鳥居 中央の石組みは、本殿ご祭神の神坐で宇宙の中心を表す。

現在の鳥居は約300年前に修復されたもの。

※静岡県藤枝市にある神神社(三輪神社)は、かつては三輪鳥居という『三角鳥居』から後方の三輪山を拝するという、社殿を造らないタイプの神社だったらしいので、現存する三角鳥居では日本で唯一ということだと思われます、🤔

ついでに神神社の狛兎😆☝️


太秦の三角鳥居は、

もともとは、1300年前に日本に伝わった『景教』(=キリスト教ネストリウス派)の遺物ではないかと伝わっている。

応神天皇の時代に秦氏を率いやってきた融通王の『弓月国』も景教徒の国であり、やはり何か関係はありそうだ、、🤔


本殿で祭られる『天御中主』はこの世界の創造主で、八百万の神々とは別柱の神様。

ユダヤ教・キリスト教でいう創造主=ヤハウェ(エホバ)のことで、

天御中主を

「天の御中にましますわれらが主よ、、」と、唱えると

そのままユダヤ教・キリスト教の礼拝になりそうなお名前です。

宣教師たちも最初は「天御中主を崇めなさい」と言ったほど。ユダヤ教・キリスト教の創造主の様な響きがあります。

三角鳥居の起源や、この太秦の地を本拠地とした秦氏の起源の謎も深い。

しかし、中国渡来の機織りと養蚕は確かにあり

大酒神社と木嶋坐天照魂神社に祭られている。

謎という言葉とは無縁なほど、とても心地よい空間で、

ある種の神聖さを感じました。

とても、落ち着かせてくれる、、

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

4世紀末、仲哀天皇・応神天皇は、親子二代に渡って

弓月国の王親子を日本に亡命させました。

秦始皇帝

始皇帝十四世孫・功満王

※仲哀天皇の元へ弓月国から亡命

功満王の子・融通王(弓月君)

※応神天皇の助けで弓月国から日本へ亡命。

途中、百済で百二十七県の民18000人を率いその後、新羅に足止めされていたが、応神天皇は精鋭部隊を朝鮮半島に送り新羅を威圧。

航海の大族・壱岐氏の協力で、融通王こと弓月君らは無事に対馬海峡を渡り

秦氏は古代日本最大の渡来氏族となった。

渡来後は、大分県の国東半島で『秦王国』を造り拠点としていた。

7世紀の遣隋使の時代になると通訳として活躍し、隋からの初めての使者は
『秦王国』に立ち寄るなど日中を結ぶ貴重な存在となり、その後、京都に拠点を移していった。

秦氏は始皇帝と同様、ユダヤ系とされ

古代神々の謎「壱岐の島」月読神社の投稿でも詳しく書きましたが、

秦氏の秦河勝は、始皇帝14世孫の功満王から9世代孫にあたります。

開拓事業を続け亡くなられた後は『大避神社』(大酒神社)に大避大神として祭られました。

大避神社の【大避】=(大酒)とは、簡略化される前の元々の漢字は避→闢で、

【大闢】は中国語で=ダビテのことらしい、、(😮ダビテ神社か)

闢→避→酒、、と表記が簡略化されていきますが、

これは封印というより、表向き「酒の神社」として何かをユダヤ系の何かしらを暗示している様にも感じます。

(だいたいお酒、祭ってないし、、機織りだし)

次は、秦氏の拠点・太秦寺(広隆寺)と松尾大社に向かいます✨⛩️

🚐🚐🚐🚐

そもそも今回の旅は、

中華街の媽祖廟から始まりました😌

中国の海の女神『媽祖神』は、

女体神社や弟橘媛神社など日本の女神の神社に習合されたらしく、

(弟橘☝️水戸光圀公による合祀)

埼玉県、武蔵国一宮『女体神社』へ行ってみました。そして、

同じく武蔵国一宮『男体社』として祭られている『氷川神社』へ行き、

ここから、

氷川神社のご祭神である『スサノオ様』を巡ってみようかと、

スサノオ様が祭られる

和歌山県の『熊野本宮大社』と
京都の『八坂神社』を目指しました。

こちらは神仏習合の時代の影響が色濃いです。

(中世=『神は本来は仏が姿を現したものだから、日本神話の神でなくインドの仏教神として崇めよ、、』と、日本神話の神々が、インド神話の神々、仏教の守護神に代えられて、神社全体が仏教の傘下に置かれた時代)

スサノオ様は、インドの寺院祇園精舎の守護神である『牛頭天王』様にかえられました。

まだこちらにスサノオ様はいらっしゃるのだろうか?と、

想いを馳せつつ、いざ
和歌山と京都に到着すると

つい思いつきでなんとなく、

和歌山の徐福の墓と

京都で始皇帝を祭る大酒神社へ
寄りました。

秦氏、秦始皇帝、徐福は、
ユダヤ系と言われてますが、
(始皇帝=母方がユダヤ系)

とうとう秦氏の拠点、太秦の松尾大社まで足を伸ばすことが出来。

結局、中国由来のルートを巡ってる😳

スサノオ=徐福説

も、あるそうですが、

或いは、それも有りかもしれない🤔

だとすれば、寧ろこちらの方がスサノオ様を巡る旅?!😳


空気感というか、落ち着く感じは、

和歌山の
徐福の墓、徐福の宮、

京都の
大酒神社、木島坐天照魂神社、

は似ています✨💖

島根の熊野大社も、、

私は、部屋の中であれこれ考えてみるのも好きですが、

実際にその場に行って感じてみるのも好きです✨😌

何周回ってみても

聖なる国 日本✨✨✨


日本の中の『秦』Ⅰ.和歌山県【徐福伝説】

2022-05-08 | 古代ミステリー

【徐福公園】和歌山県新宮市

Jr新宮駅近くの「徐福公園」の中に

【徐福の墓】がある

徐福は秦の始皇帝が不老不死の霊薬を探し求めて、東方の海に向かわせた方士。霊薬を求め徐福は日本中をくまなく探し周った様で、全国に徐福の伝承が残る。

 

徐福の墓は17世紀、紀州藩主・徳川頼宣の命によって建立された。

 

徐福廟

 

徐福像

 

道教(方術)の大切な教え『和』、仁、慈、勇、財、調、壮、7つの字が並ぶ。

徐福と共に来た7人の重臣に模している。

かつては、7人の塚が北斗七星の形に配されていたという。

 

駐日大使による植樹。中国各地から来訪があり中国人からの寄付も多い様だ。

 

金色に輝く鯉が出迎えてくれた。縁起が良さそう✨

 

何よりも、ここは穏やかな場所。

 

 

 

 

小さな公園の中に静かに鎮座されている。

 

中華街にありそうなお弁当屋さん

 

 

 

【阿須賀神社】蓬莱山と徐福の宮

和歌山市新宮市阿須賀1-2 徐福公園からは徒歩5分ほど。

徐福公園から熊野速玉大社へ向う道で、右にそれていく。

『蓬莱山』の前に抱かれる様に静かに鎮座されている世界遺産の神社。

阿須賀神社は熊野速玉大社の摂社とも。(阿須加→飛鳥の語源)

 

ここから西へ20分程歩くと「熊野速玉大社」があり、本殿と同じ神様が祭られている。

ご祭神

【事解男命】

【熊野三神】速玉男命、不須美の命(イザナミ)、家津美御子(スサノオ)

日本神話、

妻のイザナミが亡くなられた後、夫のイザナギは黄泉の国にまでイザナミに合いにいった。二人はそこで諍いになり別れた。その時、吐いたつばが『速玉男』であり、『事解男』がそれを掃った神であるといい、

速玉男はイザナミ、事解男はイザナギとして祭られている。

 

 

【徐福の宮】

境内右奥の摂社にひっそり『徐福の宮』が小さな祠に祭られていた。

 

「月夜に遠くを見るようなもの」

(あるのは確かなのだけどぼんやりとしてよく形は見えない、

ただあることだけは確かだという例え)

和歌山県新宮の徐福の足跡は、ただあることだけは確かに感じる。

 

 

【徐福公園】と【阿須賀神社】はとても穏やかで優しい、

心をくつろげ解放できる様なスポットでした。😌✨✨✨

 

遠い秦の国からやってきた徐福達も、

ここに上陸し心を開放しホっとしたのかもしれません。

 

 

 

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『徐福伝説』

中国を統一した始皇帝は権力を手に入れると、『不老不死』を望み、宮中の司祭に命じ仙薬を集めさせて、仙人(方士)や道士たちが集められた。

 

斉国(現在の山東省)の方士徐福が、

「東方海に三神山あり、蓬莱(=日本)で、不老不死の仙人がその霊薬を練っているそうです」と奏上すると、

始皇帝は喜び、徐福を東方へ行かせることにした。

秦の始皇帝は体が弱く「毎日のように冬虫夏草を食したい」と徐福に頼んでいた程。信頼を得ていた。

 

紀元前219年に出航、

しかし、霊薬は見つけられず9年後に帰国し、始皇帝は、

「徐福ら費やすこと巨万を以って計るも、終に薬を得ず!」と大いに怒った。

徐福は『私は、海中に大神をみました』と言い、

「海中の大神は始皇帝の礼が薄いといい薬を取ることを許さないのです。選りすぐりの童男童女と技術者を連れていけば叶います』と奏上すると、

始皇帝は喜び、不老不死の霊薬を得る為、

良家の童男童女三千人と五穀(麻・黍・稷・麦・豆)の種子と技術者や学者を徐福に託し出航させた。

始皇帝が亡くなった紀元前210年のこと、

徐福は再び出航したが今度は帰らなかった。

徐福は広い平野と湿地を得て、そこで王となったとも。

 

 

もう少し新宮市と『徐福伝説』深掘り

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ここから長文です。興味のある方はご覧下さい🙏✨

 

熊野川の河口沿いにある新宮市。海に向かい神倉山がそびえている。

熊野川は奈良県の大峰山から発し、天河大弁財天がある「天川」や
玉置神社がある十津川村の「十津川」は熊野川の上流で、秘境のスポットが点々と続く。

 

奈良から和歌山、三重を縫う様に流れて新宮へいたり太平洋へそそがれる。

熊野川沿いの道、168号線を抜けていくドライブは、古代の静寂と紀伊半島ならではの山河の続く自然を堪能できるコースだ。

(立ち寄りスポットは何処も混んでて😌大人気ですが)

下流の新宮市の神倉山から空と海が開け、景観が変わる。

神倉山は古代より神聖な場所で、登頂には世界遺産の【熊野速玉大社】のご神体という「ゴトビキ岩」があり、神倉神社が祭られている。こちらの火祭りはハンパなく勇壮で「死者が出ないのが奇跡」というしか無いほど神がかっている。

熊野速玉大社

 

新宮市は、三重県との県境、熊野古道の中辺路にあり、伊勢神宮からの伊勢路にも繋がっている。

 

中辺路:大雲取 名合石

新宮市は、熊野古道だけでなく、

⛩️熊野川
⛩️神倉神社
⛩️熊野速玉大社
⛩️阿須賀神社 、、全てが世界遺産で小さな街だが神話と伝説の故郷だ。

神武天皇も徐福同様、九州から来てこちらに上陸した。(神武=徐福説も😳)

日本書紀に依ればゴトビキ岩のある神倉山へは、神武天皇が東征の時にのぼったといい、神武天皇を助けた高倉下が神倉神社に祭られている。

神倉山の神倉神社ゴトビキ岩※銅鐸が多数出土した。

石段は源頼朝の寄進という。古くからの熊野信仰の原点。

 

神倉山の手前の小さな山「蓬莱山」では古代から祭祀が行われていた。

高さ48m、東西南北100mほどのピラミッド型の小さな丘で、古墳くらいの大きさしかない。

ピラミッド伝説が無いのが不思議なくらいの霊山だが、もともとは岩山で

徐福が上陸した紀元前2世紀頃、この辺り一帯はまだ海だったらしく神倉山の手前、上陸の目印となる海上の大きな岩山が「蓬莱山」だったという。

蓬莱山

 

海を越えてきて上陸した一行には、まずここが第一の神聖な島(山)となった。

麓からは種々の神具が出土していて、阿須加神社の隣の歴史民俗資料館に展示されている。

 

(未踏の探検をする徐福達。当然ですが、行く先々で上陸する為の港が整備されてた訳ではありません。最近まで陸路の行き来が難しく移動に船を利用していた奄美大島などでは、今でもそれぞれの地域の方々は目印となる岩山を誇っています。港が無い場所へ上陸する船の一行にとって、海沿いの小さな岩山は上陸には欠かせない大切な象徴でした。)

 

古代中国の神仙思想(東方神起=東方に神が起きる。K-popではないです😌)で「蓬莱山」は、東方の海上にあり不老不死の仙人が住むと云われた山で、徐福が探し求めた山だ。

私達が、「いつか南の島でのんびりしたいな」🏖️などと、

行ったこともない楽園ライフに憧れる様に😍

当時、中国道教の業界人にとって

「いつか東の島でのんびり」は憧れの楽園ライフだったのかもしれない😂☝️

 

徐福伝説には諸説あって限りがない。

中国や日本の徐福会によって研究が進められている様だが、月夜に遠くを見る様にまだ薄ぼんやりとしている。

 

始皇帝が主人公の漫画【キングダム】などを見てると、

「遠い昔の遠い国の出来事。日本と関係があるはずが無い、、」と思ってしまいますが、

早ければ上海(かつての楚の国)から10日ほどの船旅で日本に着きます。

 

中国全土を統一した秦からは、思ったほどそう遠くはないのかもしれません。

 

徐福は江蘇省徐福村の人。

1982年に江蘇省に過去「徐福村」と呼ばれた地名が発見され、秦~漢の造船所跡遺跡も見つかった。

 

『蓬莱』と言う古来の呼び名は、富士、熱田、ここ和歌山新宮にあり、中国では日本を指して言う言葉となった。

富士と呼ばれる様になったのは不老不死の『不死』が語源。

 

全国各地に徐福が来たという伝承が多数あって、南は鹿児島、佐賀、北は青森県や秋田の男鹿半島にまで及び、

「不老不死の霊薬」を探すために徐福は日本列島を隈なくまわっていたと思われる。

もし数カ所しか痕跡が無ければ逆に「始皇帝の命令にも関わらず、全く探す気ねーな🙄徐福」と、感じてしまう。

しかし、「不老不死の霊薬」を探すと言うのは始皇帝を説得する表向きの理由で、実際は圧政に耐えかねて中国選りすぐりの子供男女1000人と、兵士と技術者や学者を含む専門家集団2000人を率いて亡命してきたとゆー感じな説が根強い。

中国で万世の模範となる『万世師表』とまで呼ばれた聖人『孔子』によれば、

「苛政が酷ければ筏を漕ぎ、海の向こうへ逃げよ」と海東を渡る様にとの教えがあり、当時は万里の長城の使役で民は大いに苦しんでいた為、徐福はこれを実行して「端から帰国する気はなかった」と思われていて、中国では皇帝を騙した「エセ方師」とされていた。

一方で、

始皇帝の特命を目的を果たすことが出来なかったために帰国できなかったとの説もある。

「不老不死の霊薬」を探す事もそうだが、

一説には、日本列島での殖産と植民という目的もあったという。

秦から徐福に率いられてきた技術者や学者たちは、日本列島にいた弥生人たちに殖産や文化を伝え、また中国から持ってきた果実や作物に適した土地を探し殖産を試みた開拓者だ。

そもそも殖産の見込みがたたなければ、植民地誘致もあり得無いが、、

歴史に『If』はないが、もしも秦の始皇帝が亡くなり秦が滅びず、徐福達の目的が殖産・植民が目的にあったとしたら、、第二波第三波が続き日本は秦の植民地になっていたかも?😅

🙄いずれにせよ、徐福と子孫達は殖産を伝えた只の帰化人になった。

 

紀州和歌山は、中国産の梅と温州みかんの特産地として有名であり、ひょっとすると?と想いを巡らせてみたくなる。🤔

温州ミカンは中国人が持込んだのでなく、紀元1世紀に日本から中国へ取りに行ったという。

古事記では、

「垂仁天皇が『不老長寿の妙薬』を求め、新羅帰化人の末裔「田道間守」という者を海の向こうの常世の国へと探しに行かせた。

田道間守は中国の温州(上海と台湾の中間辺り)に辿り着き、10年後に『橘』を持ち変えったが天皇は既に崩御していた。」と、、

なんとも😳まあ

秦の始皇帝と徐福のエピソードとそっくりです。

稗田阿礼(古事記作者)パクったか?😅

※ミカンの陳皮は、漢方や養命酒にも使われる生薬🍊

 

徐福が渡来した紀元前2世紀頃、すでに九州では鉄器が普及しつつあったが、近畿ではまだ石器時代並の文化での農作が続いていた様子だ。

徐福らはここに上陸し、中国の農作と機織り、そして捕鯨をこの地に伝えた

 

【徐福公園にある江戸時代の碑文(略)】

『広い世界に多くの国々が対立している。

幾千年後、また蓬莱の島を訪ねて来る人があれば、

ここへ来てこの碑文を読んで下さい。

秦の王様が人々を苦しめていた。

セミや小鳥は飛んで逃げ、徐福は船出する。

楽しき国 熊野。ここが本当の蓬莱だ。

人の情も温かく子々孫々栄えいく。

徐福の墓はいつきても、花や線香がたえることがない

遠い異国の人も来てみよ、

この美しい山や河』


関帝廟と媽祖廟【日本の中の二つの中国】横浜中華街

2022-05-05 | パワースポット

中国の神社といえば、関帝廟と媽祖廟。横浜中華街に祭られている神社を紹介します。

 

みなとみらい線『元町・中華街駅』~近く朝陽門辺りから入ると行きやすい。朝陽門付近は大きな駐車場も沢山あります。

中華街はいつも人々で溢れててエキサイティングです、

パワースポットというより、エネルギッシュなスポット。

 

【関帝廟

関帝廟は、3世紀の三国志時代の『魏・呉・蜀』のうち蜀を建国した劉備玄徳のもとで活躍した関羽将軍を祭っている。

中国の宗教というと道教や儒教、仏教だがそれぞれ習合(ミックス)されている様で、『関帝廟」や『媽祖廟』の様な民衆型の(ストーリート系の)宗教に依る合宗信仰が根に濃い。

 

 

関羽将軍は、中国文明の中心地、河東の人。(黄河文明、洛陽など中原)

 

 

お参りは、「三拝 合掌 ・・・ 一礼」 で。

 

 

お線香(500円)を献じる時は、本殿前の五つ祭壇の神様に一本づつあげてからお参りする。

 

本殿でのお参りは、

三拝 合掌 ・・・(名前住所お願いごとを唱える) 一礼

と、拝殿のスタッフが丁寧に教えてくれる。

 

 

狛犬も、日本の神社と同じ「子抱き」と「玉抱き」型

関帝様は商売の神としても祀られている為か、お金も抱かれている😮

 

金紙(千円)を燃やし、天へ願いを届けるのは圧巻でした。

紙がパラパラパラっと吸い込まれ、天へと上がっていった。

 

※ここで😌疑問です、何故に人々は魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備玄徳や漢の皇帝でもなく、劉備玄徳の義兄弟、関羽・張飛・劉備の三兄弟のうちの【関羽】だけを神として祀ったのか…?(三帝廟でなく関帝廟)☝️これについてはまたいずれ・・・

 

 

媽祖廟

媽祖神は11世紀頃、中国の江南地方で生まれた、航海の女神様だ。

天后、天妃とも言う。

東シナ海には、古くから続く航海ルートがあった。

アフリカ東岸から発生し、インド洋から太平洋岸へ吹き抜け日本へ梅雨をもたらす季節風のルートは、『海のシルクロード』と呼ばれる海上貿易の航路だ。

西アジア・南アジアを結ぶ貿易拠点インド、香港や上海など中国江南の貿易都市が栄え、航海の女神への信仰も盛んになる。

上海から船を出すと、種子島に着くらしく、

鹿児島県には中国の船乗り達の『航海の安全を祈る信仰』によってこの江南の女神様がもたらされた。(しかし明治以降は媽祖神は他の神様に置き換えられてしまい、現代では女体神社などになっているという説も)

社務所も御朱印もなく、宮司さんや巫女さんもいない。

お守りやお線香・金紙を売っているスタッフの声かけと、お参りも線香を買うとアトラクションの様に丁寧に手順作法を教えてくれる。

参拝者は観光客ばかりだが、

参拝もせず拝殿の下で写メを撮っていく人々が殆ど。

(もはやアトラクション 笑)

金紙(千円)

拝殿に捧げ、願いごとを祈願した後で、

拝殿の下で燃やして天に上げる

御朱印ではないが、お線香と金紙を頂くとカードが貰えた。

 

【頂いたカード】

媽祖さま

関帝さま

どちらも、「平安」という言葉が入っているのがいいです。

狛犬も社殿も、こうしてみるとやはり日本の建築様式はカラ国から伝来したんだな…と思う。カラーリングの絢爛さはさすが中華という感じだが、、

 

日本はもともと社殿を設けずに、岩上祭祀・露天祭祀の時代が何世紀か続き、その後、藁ぶき屋根の時代を経て、7世紀頃、聖徳太子の時代に私達が知るこの様な建築様式になっていった。

 

【関帝廟通り門】

電柱まで赤い、、😮

 

横浜市の公園の東屋😂?日本離れしている、、

 

 

媽祖廟の帰り際、スタッフさんに「お守りもどうですか?」と声をかけられたが、お金があまりなかったので「先に関帝廟を回ってからまたきます」と。お金をおろして関帝廟を周ってからまた媽祖廟に寄ってお守りを買ってきました。

「両方周ったらから今日は良いことあるよ」

とスタッフのおばちゃんが…

こういう、お土産屋さんのおばちゃんの様な気さくな感じは日本の神社にはない。

 

 

駐車場の近く、関帝通りの門の下で「苺飴」を売ってたにーちゃんが何度も声かけしてくるので、

「後で買うよと」、、帰り際に一本買ってみた。

となりで天津甘栗を売ってた母ちゃんらしきおばちゃんが、

まるで中国映画から飛び出してきたかの様な、あのけたたましさで、

「美味しいよ オマケするよ」「千円のに三つつけるどう?!」

「まだ足りないか。そしたら千五百円のに10個つけるどうか!?まだダメか?」

と、オマケしながら値段を上げてくのがあまりにも面白くて🤣、、

つい買ってしまった。

あなた、戻ってきた。いっぱい買ってくれた。あなたいい人。

「シェイシェイ」と親子二人で口を揃えて見送ってくれた。

これもまるで映画のワンシーンのような、、🤣☝️

 

なるほど、

「今日は、良いこと」あったかな。

オマケして貰ったし?🤣面白かった。

 

媽祖廟のおばちゃんの

「今日は良いことあるよ」の一言がなければ、

これを「良いこと」とは思わなかったかもしれない😂☝️

感謝だ✨✨

シェイシェイ🙏✨

 

(珍しくブログっぽいこと書いてる🙄)

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

もう少し媽祖さまについて書きます、、

 

媽祖様は中国では最上位の女神様だ✨👸

元は海の女神さまで10世紀、江南地方の「林家」に生まれた媽祖娘は、次々と奇瑞を顕し巫女となり、亡くなった後に後世の人々に神として祭られた。

その後、歴代の王朝と皇帝からの崇敬を集め、

『天妃』『天后』『聖母』と数々の称号を受けた。

中国交易船の船乗りたちは、海の女神である媽祖様に航海の安全を祈り、

鹿児島県南端にある笠沙の岬の山を娘媽山、天妃山(娘媽・天妃=媽祖のこと)と呼んで、この山が見えてくると、無事日本に着いたと酒を飲み祝賀したといいます。

娘媽山の山頂には媽祖廟が祭られました。

(現在は中腹に移され、野間神社になっている)

これは中世から江戸時代の長崎貿易まで続いていたようです。

かつての日本人は笠沙岬のこの山の事を、笠沙獄と呼んでいました。

 

天孫降臨の日本神話では天孫ニニギ命がこちらの笠沙の岬へ上陸し、国津神の大山祇神の娘・コノハナサクヤ姫に一目惚れをして結ばれ、『笠沙の宮』を建てて住みました。

 

今では、笠沙の岬でなく『野間の岬』と地名が変わっていますが、

 

この「野間」とは媽祖のことで、娘媽(=にょま?)が、語源と云われてます。

日本古来の地名が、中国人の呼称に変化した珍しい地名です。

中国交易船の船乗りたちが頻回に来るようになった中世よりずっと前、古代の時代に天孫族の子孫は東方に移っていき王朝が紀伊半島の大和になった為、日本神話の起源「笠沙の岬」はすでに寂れていて、後から来た中国人たちの信仰が根付いたのかもしれません。(今はもっと)😔

 

ちなみにニニギ命は、「ここ笠沙の岬は朝日夕陽がさし、韓の国も見える良きところ」

と言いました。この「韓の国」とは通説では韓国でなく中国のことという説があります

が、どちらも数百キロ離れていて肉眼では見えません。😅

 

秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて日本へ遣わした伝説の「徐福」が種子島にいたらしいですが(その後はやはり紀伊半島へ)、中国人の居る種子島であれば見えたかもしれません。

 

種子島も、いってこようかな…😂

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

『二つの中国』

広大で四千年以上の歴史のある中国。

黄河文明と長江文明、二つの文明が合わさったのが中国文明だ。

北の黄河と南の長江、この大河をはさみ、

河北の『漢の国』と江南の『呉の国』という二つの別々の国が合併した。

漢字にも漢音と呉音があるように、衣服も漢服と呉服があり、言葉や文化はまるで違っていた。 

、、今でいう合衆国・連邦国の様なものだろうか?

「川」という言葉も、北は「河」で南は「江」だ🙄

日本人には、呉音、呉服といった南方の文化の方が馴染み深い。

和服を呉服といったりするのも『呉』の織り方が起源らしい。

南方には刺青の文化がある。

 

今から約7000年以上前のこと、まず南の長江で文明が生まれた。

長江文明は、大規模な稲作と高床式住居、農具や縄紋のある陶器を使い、起源前5000年に地球が温暖であった頃に、長江の下流(上海方面)で繁栄した。


その後の気象変動や氾濫により長江を放棄し北の黄河に移り、黄河文明へと繋がったとの説もある。或は、上流の三星堆遺跡の方へ🤔

北の黄河文明は、長江に比べ当初は乏しかったが、龍山文化という時代を経て、以降は中国の中心であり続けた。

中国四千年の王朝の歴史は、北が中心となり、

南は、北からの圧迫や支配を受ける側となっていった。

概ね北が強く、南の文化は迫害されたり反乱を起こしたりして、また北側で追われた者達は南へ南へと逃げた。

 

かつては、漢王朝が滅亡してしまう三国志の時代への引き金となった

【黄巾賊の乱】の様に、支配者側と民衆側の宗教的対立があり、

南と北は幾度となく分かれては統合されてきた。

かの【卑弥呼】の一族も許氏という巫術師の一族で、中国江南地方『呉』の孫堅から迫害され日本へ逃げてきたたという。

やがて時代が下ると民衆型の宗教は、歴代の王や皇帝も民衆が崇め祀るそれらを支持し、習合された。

 

今も南京・北京と都が分かれてるが、北と南でそれほど濃淡は感じない。

河北の関帝、江南の媽祖、どちらも民衆が神として祭った存在で男性神と女王神でバランスがいい。

 

次は、媽祖様が習合されたという

女体神社に行ってみる。

 


埼玉県【出雲伊波斯神社】にいた狛猫、の画像

2022-05-01 | パワースポット

出雲伊波斯神社 埼玉県毛呂山町
【ご祭神】 大己貴命(=大国主命の別称)

こちらの神社、間違えて玉敷神社でUPしまいました。🙏😅

出雲伊波斯神社に訂正です☝️(同じく大己貴命を祭る神社)

埼玉県最古と云われる神社です。

そして、狛犬ならぬ狛猫。面白すぎて🤣

他に画像撮ってくるの忘れてしまいました。😂ブログ中最も短い投稿です

子抱きの狛犬の上に、狛猫がいる😳

当事者たちはこのシチュエーションが分かっているのだろうか、、?

狛犬さんは無論承知のこと

と言ってるような気がする🤔

時に向きを変えてこちらを窺う様子も、、狛猫も

守ってくれてるのかもしれない。



玉敷神社はまた改めてアップしようと思います😌🙏🙏

埼玉は古代東国の拠点。機会があれば深堀りしてみたいです。