縄文人と呼ばれた古代日本人は、
漁・農・猟とバランスのとれた食文化を持つ人々だった。
農耕は弥生人へ
狩猟はアイヌ人へと
彼らの文化と遺伝子は枝分かれしていき同化され、独立した種族としての存在もやがて撹拌され、それぞれの遺伝子プールの中へと埋没していった。
その失われた縄文人の世界について
前回は、農耕について書いたが
今回は、狩猟について🏹😌
スポットの紹介ではなく、
一万年前の縄文意識と現代物理学の視点で長々書いてます🙃
【アインシュタインの予言】
アインシュタインは半世紀以上前の物理学者で、
素粒子は波動、ゼロポイントエネルギー
相対性理論では三次元に時間軸を加え過去現在未来は同時に存在するという四次元モデルが有名だ。(ノーベル賞の光電効果はあまり有名でない🙃)
「科学と宗教はやがて同一のものとなるだろう」という予測をし
そして、人類が生き延びられない可能性も示唆した。😮
『人間は宇宙の一部である。しかし、他者と切り離された存在であるという一種の錯覚に陥っていて、魂の牢獄に閉じ込められている状態と言える。〜
魂の牢獄から自らを解放するためには共感の輪を自然全体に広げていき実質的に新しい思考の形を身につけなければ、
人類は生き延びることが出来ないだろう』
という予言を残した。
アインシュタインが錯覚と言う
「人間が、自然や宇宙と切り離されてしまった状態」とは?
そして、
「人間が魂の牢獄から解放され、自然や宇宙と切り離されていない状態」とは?
今回は説域を広げ、それらから
宇宙の根源と繋がる様な縄文人の
意識を考えてみる難しい試み。
長文ですが、興味のある方はご覧下さい🙏✨
【自然崇拝と言う噓】
『先祖崇拝と自然崇拝』の投稿でも詳しく書いたが、日本には本来自然崇拝という信仰は無かった。
そもそも「自然」という言葉さえ無かったのだ。
だが「日本人は自然崇拝」という刷り込まれてしまった既成概念は無くならないので、
自然という言葉を持っていなかった古代日本人を理解する為に
一度これを取り除きたい。
昔の日本人は、
先祖や祖神が宿る依り代の
木や岩、埋葬した山に祖霊(神)を祭っていただけで
何も『木や岩、自然全てに神が宿る』と信じていた訳ではない。
その様な信仰があったという迷信にすぎず、根拠も無いのだ。
自然を敬うのは当り前の事だが、
自然崇拝とはイギリス人のタイラーさんという学者が思いついた『アニミズム』という分離主義に基づく考え方で、私達日本人の先祖を敬うという信仰からはだいぶ外れてしまった。
西洋一神教では『先祖崇拝』が禁じられていて、特に敬虔なキリスト教徒は
死後の世界観も含めて2000年近く禁じられてきたので、
先祖崇拝が理解できず、
日本の八百万の神々も自然崇拝から生まれた宗教だと勘違いしたのかもしれない。
「全治全能の唯一神ヲシンジサーイ」的な一神教にとって、
人々が過去に実在したであろうご先祖様や始祖を崇めることは極めて危険で
祖先崇拝はあってはならなかった。
西洋の一神教と違い、先祖を大切にした日本人にとっての神とは、
人として生きていた部族の始祖を、子孫や影響を受けた後世の人々が神として祭った存在だ。
「神サマなのに人間っぽいじゃん?おかしくね?」と、西洋人が考えた神のイメージをそのまま信じている方もいるだろうが、元々は人間だ。
⛩️伊勢神宮の宮司の吉川滝美さんと言う方は、
「お参りはおばあちゃんに会いゆくつもりで」
と言ってますが、まさしく⛩️
「神様エライデスアガメナサーイ」的
な存在ではないので、
子供がプラスチックのなんとか剣で、叩く様なお参りでも
スーツを来て礼儀正しくご無沙汰してますというお参りでも
おばあちゃんは
「よく来たね」
と、温かい😢✨⛩️
(おじいちゃんはー厳しめ🤔)
亡くなった人を神葬し、後世の人々が神として祭ることによって神と言う存在になるのが日本の伝統であり
日本人ならば苗字や家紋から遡れば、必ず八百万の神々の何れかに辿りつく。
【西洋と東洋の信仰の違い】
タイラー氏の「日本人自然崇拝」説が提唱された半世紀前頃は、
折しも日本では『天照大神』を唯一の始祖として、他を日本の歴史から切り捨てていた明治時代の方針に回帰しようとする風潮があった為か、
「八百万の氏族から八百万の神が生まれた」というよりも
「自然全てに神が宿ると信じ八百万の神が生まれた」とした方が、都合良かったのかもしれない🤔。
日本でもこの説は歓迎され
「日本人は自然を敬い全てに神が宿ると信じた」と言う美々しい言葉の響きと共に広がり、今では枕言葉の様になってしまっている。😔
では、
太古の人々は自然崇拝でないのなら何を崇拝していたのか?
何も、崇拝していない。
死生観(サナトロジー)というパラダイムを持ち、
ただ森羅万象の中に生きていた。
死生観は太古の人々独自の
パラダイム(=ものの見方や考え)
であって
レリジョン(=宗教)
ではないので信仰や崇拝もない。
西洋人の学者によれば😔
「日本人の自然崇拝は木や岩に神が宿ると信じていて、これは子供が人形に話しかけるのと同じ幼稚な行為である」と言う事らしい😅
何も西洋人の自然説を受け入れる必要など無い。😑古代人は、
人も自然の一部である事が当たり前だった。日本人は森羅万象に生き、
わざわざ西洋人の様に
人と切り離した「自然」という対象を考えて、その上で崇拝するなどと言う発想は無かった。
英語文化が入ってきた時に、仕方なく仏教用語「法爾自然」から自然と言う字をとりネイチャーの対訳に当てた西洋言語だ。
西洋人が自然から切り離された存在になってしまったのは、宗教政策による影響もあると思われるが、
宗教観を持たない太古の人々の
『死生観』とはどの様なものだったのか?
【太古の世界観と現代量子物理学】
『この世界は粒子の波動で出来ていて、ひとつである』
なので何億光年離れているかに関わらず、量子のもつれ状態の粒子は同時に反応する。
そして、この世界の現象を決定づけるのは観測者の意識だ。
観測者も宇宙の一部であり、観測する意識の影響で結果が生成される。
物質とは固い物ではなく、細かくみていけば粒子や波動ととしてか存在していない。
物質とは、その位置にそれがあるという確率にすぎず、その場に固定されたものではなく、それを決定しているのはやはり観測者である人間の意識だ。
この摩訶不思議な性質は量子コンピューターの速さになっている様だが😅難し🤔
太古の人々は、こうした物理学の波動関数も光のスリット実験も知らなかったが
この世界が物質化の世界であるという事を知っていて、
非物質の世界に対して、人間の住む現象世界から物質化のコントロールをしていたのかもしれない。
宗教ではなく、今風に言うならば
「引き寄せの法則」だろうか?
アインシュタインが言っていた
「他者と切り離された存在ではなく自然の一部である」という
切り離されてない状態とは
どんな状態か?
縄文民族や狩猟民族など、古代人の世界観を知るにつれ
縄文人の宇宙の根源と繋がる様な、
生命の円環の中で存在していた様子が
朧げながら伺えてくる。
【二つの異世界を繋ぐ意識】
原始〜現代まで、世界観は全て
生=人間が知覚できる現象界
死=人間が知覚できない非物質世界
という二元論から成り立ってきた事に大差はない。
死生観とは宗教だけのものではなく、哲学・社会・医学にまたがる価値観で人間が生きることで持っている当たり前の感覚だ。
太古の人々の死生観は
「現象界」と
「非物質界」
この二つの異世界を繋ぐ意識によって生命は行き来するという、命の円環の中で生きているという感覚だった。
3000年ほど前、
この二元論の非物質界の世界観を封印した「宗教」というものが発明された。
宗教観が生まれた事によって
天国や地獄、全能全能の神が生まれ
西洋人は二元的だった世界を一元的なものにしてしまい、非物質界も含む世界との繋がりから外れてしまった。
魂という非物質界と行き来する存在も否定し、
まさに魂を牢獄に閉じ込めたといえる。
生も死後も『宗教』しかないという世界が全てで、
死んだら神の元へいくとだけ教えられて他の世界観を受け入れなくなった。
非物質界と物質の現象界を
「唯一の神」で一元化し、
生きては「神ヲシンジナサーイ」
死んだら「神ノモトヘイクノデス」
と、二元的な世界を唯一の神一色のヘンテコな世界へと変えてしまったのだ。
多くの人がこれを信じている。
ビフォア
↓↓
アフター
一神教にとって、死後の世界には
亡くなったご先祖様や始祖神さまが
そこにいて崇める等という事はあってはならない。
しかし、
唯一なのは
たぶん神ではなく、
本来はきっと
『意識』だけが一元的なのだ。
日本人が神として祭った八百万の祖神さまも、
そうした意識の中のひとつだ。
意識は非物質界と現象界、
二つの世界に存在するため
意識だけが影響を及ぼすことが出来、
意識の乗り物である魂は二つの異世界を行き来する。
この意識への回帰の事を
「一元意識への回帰」という。
現代物理学では、
通常の物質世界には時空が存在し、
時間は、過去・現在・未来に分けられ
空間は、距離によって分けられている
が、
素粒子の量子世界では時間と空間による分離がない事が確証されている。
そして、意識の世界も量子的であることから
意識は死生学(サナトロジー)的な対象としても研究される様になってきた。
全ては波動であると言う現代物理学風(青)に古代中国の死生観モデルを書き込んでみた。
全ての世界は波動からなる。そして
波動が塊になると、物質という固さや重さなどに制限される固定された形となる。
古代中国には、
「全ては『気』からなる。そして
気が塊になると生となり、死とは
気が散じていくすがたである」
という様や考え方があった。
氣と波動、物理学とら言葉は違えどモデルとしては通じるものがあり重なり易い。
2500年前の中国の孔子という人は、鬼の道に詳しかった。
日本の鬼とは異なり、中国の「鬼」とは亡くなった方の霊の事であり、魂魄と言って、人な亡くなると物質界の『魂』になり、『魄』は弔わなければ、地に還らず現象界にとどまる浮遊霊ともなる。この浮遊霊の事を鬼という。
中国人は五行論をベースに現象界から非物質界に送り出す死生学の研究をまじめに続けてきたが、二つの異世界のコヒーレント意識を大切にしていた。
なので人を殺すことよりも、人を殺して弔わないことの方がもっと悪いこととされていた。
物質を形づくる波動の塊の「塊」という字にも「鬼」と言う字があり土ヘンが着いてるのが奇妙な符丁に感じる😮
波動の塊(=mass、クラスター)が物質ならば
「鬼」はやはり意識の波動で、土塊となったものが物質という意味にもとれる、、🤔
人は死ぬと、
土塊(死体)、魄(現象界の霊)、魂(非物質界にいった不変の意識)
三つの相に分かれ転位する。
これを「鬼」の道という。
(※卑弥呼は鬼道に仕えたとはこの「弔い方」を知っていたという意味です😌🙏)
この中国人の死生観は亡くなった方を悼む意識を大切にする考え方だ。
日本ではこの塊魂魄という、鬼の幽冥道の考えは定着しなかったが、現代でも香典袋は亡くなったばかりは『御霊前』、
法事は『御仏前』と書かれてるとおり、
人は死後、遺骨、霊、仏と、三つの相に転位するというのは共通している。
しかし、コンビニで普通に売ってる香典袋を普通に使っているだけで、私達は何もそれを信じているとか信仰してる訳では無い。☝️
ただの、パラダイム(捉え方)や習慣として持っているだけで、
「日本人は節操がない」という人もいるが、
この日本人の非宗教性の感覚は、むしろ正常なバランス感覚をもたらしていく上で今後は重要になると思う。
『宗教を精神的な拠り所としなければなら無い。宗教を持たない日本人はおかしい』という謎の西洋人的な宗教優位主義もおかしいし、対して
「目に見えない世界を信じるなんて愚かな事だ」という宗教否定的な反発も極端だ。
宗教者・無神論者、どちらもの信者にもならず普通に死生観を持っている方がより人間的だし霊的に健康だと思う。
一神教宗教の影響が強い西洋人では、
こうした事が理解出来るのは物理学者だけなのかもしれない。
私達、日本人は学者でなくとも西洋人のバイアスがかった影響を取り払い、古代日本人の叡智を思い出し、非物質的な意識の世界を理解することは出来るだろうか、、🙃
【狩猟】
縄文人は狩猟も行なっていた。
氷河期の旧石器人の様に落とし穴を仕掛ける時代が終わり、狩り出かける様になって収穫エリアは広がった。
狩りに出る時は何日か出かけるが、その移動範囲は100㌔〜200㌔圏内で、
諏訪の八ヶ岳から山を越え、浅間山から群馬の榛名山まで行ってくるなど狩場は広い。
猟師という職業では無いので、狩りの為に移動するだけでなく、黒曜石や塩などの必需品も周辺の縄文コロニーに運ぶ。
現代の様に一次産業二次産業と階層分別されてるのでなく、一元産業体でありその方が効率が良かった。
狩猟は、獲物との遭遇を求めてやみくもに山の中を歩き回る訳ではない。
山から山への移動は同じ標高のトレイルを行く。
動物達にも同じ様に、テリトリー内を移動する「獣道」という独特のルートがある。
獣道は、親から子へ受け継がれずっと同じルートが使われ、変わるということが無い。エサを探索する時の基点となる大切なルートだ。
人間が侵入してきてリスクが生じても回避ルートをつくることは滅多になく、どんな動物でも先祖代々同じ獣道を使う。
例え高速道路が出来ても同じルートを通るので、「動物危険」の看板が立てられる。
氷河期の旧石器時代は、この獣道に落とし穴を仕掛けて獲物を獲っていたが、周辺に何世紀にも渡って落とし穴が作られた跡が発見されているので、落とし穴猟が行なわれても獣道ルート自体は変更される事はなく使われてた様子が伺える。
狩りとは、この獣道ルート上で待ち伏せをして矢を射る事だ。
獣道は変わらないので、やみくもに獣道を探す事もなく、やはり先祖代々より教えられてきた獣道の場所に出かけ待ち伏せをする。
問題はいつ獣がそこを通るかだけだ。
RPGで「○○へ行けば○○というモンスターが出る」という様に、遭遇が繰り返される設定になっている。
捕り過ぎれば遭遇が無くなり、また時間を空けていけば再生し出現する様になるというのもまるでゲームの様だ。
太古のモンスターハンター達は、
自分達のトレイル上にある小中規模コロニーを拠点としながら、獣道エリアにアクセスし、待ち伏せをした。
待ち伏せ地点に獣が現れ矢を射る時
「当たれ」と、
獣を射ようと狙うのでなく
『招待する』という意識で、
矢を放つ。結果、
放った場所に
獲物が召喚されて射られる。
獲物が与えられた後には感謝の儀式を行い、
人間の住む『現象界』で確かに受け取った事を『非物質の世界』の存在へと報告する。
すると非物質界からまた、現象世界へ命がおくられてくる。
この「現象界」と「異世界」の命の円環の法則の中で生きてきたのが彼らだ。
引き寄せの法則の様な話しだが、
一万年以上も続いたサステイナブルな方法であり
彼らの持つ法則性の原理は決して
不確かな迷信や宗教の類ではなく、
現実にこれで一万年以上生き延びてきたと言う実質的なエビデンスがある。
これは、非物質界からの獲物の召喚を、現象世界にいながら意識的に使いこなしていた証ではないだろうか。
(😅)
現代物理学では
意識そのものは量子的であり=
量子世界には時間や空間は無い。
しかし、
3次元で生きている私達の意識には
肉体的な制限を受ける意識状態と
量子的で時空の制限がない意識状態が有り、
意識を変える(トランスする)事で、
量子的で非物質界的な意識状態になると、
非物質界にもアクセスできる様になる。
人間と違い
動物は本能的な肉体意識と、
非物質界の集合意識との隙間が無く
エゴ(=自我意識)が強く存在している隙間がないので、
人間の様にトランスしなくても
非物質界の集合意識からの影響を受けやすい。
『招待』というポジティブな意識を非物質界に送ると
反応して召喚されてくる。
「当たれ!」は人間エゴの意識で殺意が乗っているので、
動物も本能的な肉体意識の方で反応してしまい反射的に逃げるが、
非物質界からの招待には無意識に招かれる。
物理学的な考え方では、地上界・天上界という上下はなく、
量子世界はこの様に宇宙の根源に
『包み込まれた秩序』であり
現象世界は『はじきだされた秩序』と言い
縄文人は理論も根拠もないが、
この包みこまれた秩序の世界に意識を繋げる事でこの
「招待」↔「召喚」という反応を利用し狩りしていたのではないだろうか🤔
(🙄むしろ理論などより実践の方が凄い💦)
そして、
命の恵みとなり量子的な非物質界にいった動物の意識に対しても、ポジティブな意識を送っていた。
貝塚も、縄文人達にとってはゴミ捨て場ではなく「ものおくり」の場で、
少なくとも神という窓口担当が存在して、祈りに応え命の転送業務を行なっていたという信仰は無かったと思う。
縄文人は
この命の円環の世界で自らを知り、
途切れることなく
一万年生き延びてきた。
現代人の私達も、今こそそれを思い出す時が来てる様だ。✨
大変長いお話しを最後まで読んで下さって、ありがとうございました🙏
✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨