聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

スサノオ・ファイナル2.【分筆】よもやま話し

2022-07-25 | スサノオ

前回の投稿があまりにも長かったので、後半をこちらに分筆し移しました。

 

それでも、長文です😅🙏 画像少なめ

 

最後に新羅から来たスサノオの謎を綴ってます。

 

今回、全国のスサノオを祭る神社を回ってみて、、

 

⛵新羅と行き来した渡来系スサノオ 

🌲植樹を行なったスサノオ

🗡️製鉄地を圧えたスサノオ

🏞️治水の川の神のスサノオ

🌾食べ物の神様としてのスサノオ

🔥火切りを伝えたスサノオ

🐮牛頭天王としての疫神スサノオ

⛩️地域密着型のスサノオ

様々な一面を知ることができた。

 

英雄はひとつのことをやり遂げるわけではなく、様々な足跡を残す。

スサノオ様の足跡を総じてみると、

『和国で数々の偉業・覇業を断行した、渡来人の開拓者であったスサノオ』

のストーリーが浮かび上がる。

 

そして、おそらくは中国〜近畿にかけて鎮座した建国者であったのかもしれない。

スサノオが別名「牛頭天王」として、中世の御霊信仰(=無念に亡くなられた方を神として祭る)で祭られる様になったので、

不遇にもスサノオは天照大神系の勢力に追われ無念のうちに亡くなられた?存在だった。


この天照大神とスサノオ兄弟関係は

まるで

鎌倉時代の頼朝と義経兄弟の様だ。

源氏が平家を討ち滅ぼすと、兄・源頼朝は、
弟の義経を追放し、義経は健気にも兄に潔白を認めてもらおうとするが、兄・頼朝は取り合わなず追撃する。

 

スサノオの最後は分からないが、

天照大神との関係では、出雲に行かなければならない事情があった事は確かだ。

日本神話では追放された事になっているが、伝承では居たく無いと言って自ら出たとされ、

巷説では、冤罪で一族の罪を全て背負って出たとも言われているので、

無念だったのかもしれない。

この様な覇権を争う出来事は歴史上、枚挙に暇がないほどある。

源頼朝と義経
足利尊氏と直義
織田信長と信行
徳川秀忠と兄弟達
伊達政宗と小次郎
大碓命と日本武尊
天智天皇と天武天皇
蘇我馬子と蘇我摩理勢、海幸彦と山幸彦、、

 

弥生時代の建国期~

まず、

渡来人としてのスサノオを祭り

スサノオの偉業・覇業が祭られ

天照大神系へ皇統が移る兄弟間の追放劇があった。

 

やがて古事記に神話として掲載される。

 

スサノオから1000年くらい時代が下った後、

不遇に去られたスサノオが(疫神・牛頭天王として)祭られた。

牛頭天王は元はインドの仏教神であり、インドの山車祭りを取り入れ、

中世~「祭り」として全国隅々まで広がり

地域に根を降ろし、~現代に続く。

 

スサノオ様を巡る旅で、

点と点だった信仰も一つになった気がする。


が、さらに謎は深まった。

深まったところでスサノオ様を追いかけるのはヒトマズこれで終わりにしようと思います。

 

奇しくも、7月下旬は全国的な『スサノオ』祭りのシーズン。

天王祭や御船祭りなどの夏祭りでスサノオ様を祭っていて、

夏祭りの象徴ともなったスサノオ(牛頭天王)🎐⛩️

スサノオを助け疫病から免れたという蘇民将来の茅の輪くぐりも

神社の拝殿前に設置され、

夏のスサノオは🌊神輿の海中渡御や、御船祭りなどもあり大海原を治めたスサノオの側面も感じます。

(※かつて日本海の制海権がなければ半島への行来だけでなく列島を治めることは出来なかった)

日本全国スサノオ様を周ってきて、
最後にこうして地元神奈川県のスサノオ様の御霊にまつろうことが出来た😌🙏

 

聖なる国 日本✨ とスサノオさま🐮

 

12回(+1回)の思わず長いシリーズになりましたが、、

お付き合い頂きありがとうございました🙏

 

 

😌↓ここからは、

スポット巡りのお話しではなく

古代ミステリーロマン的に 😮

【スサノオの謎】について、よもやま話しをだらだらと書いてます。

(まだ書くのか😅)


興味のある方はご覧下さいませ🙏長文です、

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 

北陸のスサノオ様 (富山県)

 

(スサノオ様参り終わったんじゃないんかい😂)

 

平安時代、

天皇家の「スサノオキャンペーン」とも言える歴代天皇による熊野詣が行われた。

そして、日本人ならお伊勢参りと「熊野詣」と言われるほど、お伊勢参りと並び日本人の記憶に残った。

 

何故、天皇家はこれ程までスサノオに注目したのだろうか?

 

平安初期、嵯峨天皇は『スサノオは皇国の本主』と詔りしたが、

天照大神を祖神とする天皇家が、なぜ皇国の本来の主はスサノオであると詔りしたのか?

 

八坂神社の祇園祭も世界遺産になるほど人々に知られるスサノオ(牛頭天王)となり、博多祇園山笠や全国の天王祭などスサノオへの祭りは止むことなく続いている。

 

天皇家から民衆のすみずみまで、これほど人々のスサノオとの関係が続くのは、

やはり【皇国の本主】だからこそなのかもしれない。🤔

 

スピリチュアル系では、じきに最高神がスサノオに変わると言われているようだが、

本当にスサノオの封印されていたことが解かれ、

本来のスサノオが顕れてくる時がきているのだろう。😳

 

過去、

スサノオ様の存在を忘れさせない為の歴史的な二つの仕掛けがあった。


一つは神社に伝わる大祓の詞に

『わが皇御孫の命は、豊葦原瑞穂の国を、、』とあるが

皇御孫の命-すめみまのみこと」とはスサノオ様のことだという。

 

「高天原に神つまります…」の大祓いにしても、

 

「一二三四五六七八、ひふみよ、いむなや…」のひふみ祝詞

(物部祝詞)にしても、

 

祝詞とは、建国の宣言文・勝利宣言文の様な内容が多い。

建国のあらまし、

敗者側の方への追悼、

今後の民のあるべき姿、

やってはいけない

罰則規定など を読み上げる、

祭政一致した樹立憲章の様なものだ。

それをスサノオが、「言よさし祭りき…」と宣言している。

 

古代ミステリーでも、オカルト系だと敗者側への哀悼の儀にだけ特に注目し、「祟りを恐れた」「呪いを封じた」等と中世の呪術的な取り上げ方をされている事が多いが、

全体としては大体こんなもん🙄

 

 

もう一つは『牛頭天王』

牛頭天王とスサノオは、疫神である牛頭天王と、蘇民将来という疫神の逸話で「疫神繋がり」で結びつけられた。

蘇民将来の逸話の中で疫神・武塔天神が『吾はスサノオである』と名乗ったことにより、

牛頭天王=疫神=武塔天神=スサノオという信仰が生みだされた。

(疫神同士というだけで無理やり繋げてないかい?🙄☝️)

(備後の国風土記では武塔天皇の子が牛頭天王🤔??)

 

神仏習合の時代へと移り変わり、神社は寺院の配下に置かれていき

神社の領地・領民(=神田、神人)はおさえられていく。

寺院は国家の権威的の象徴として存在し、まだ民衆の信仰とはかけ離れていたが、後に『遊行僧』という寺院に属さないストリート系の僧達が登場?

すると、やがて民間へと仏教の信仰が浸透した。

仏教政権によるこうした浮沈の時代も、スサノオは仏教の守護神『牛頭天王』となり、見事に隆盛していった。

 

牛頭天王はインド仏教寺院の守護神だが、このあたりも「和製仏教神」とまで云われる由縁ではないだろうか。

(※インドでの牛頭天王は薬木の生える牛頭山に由緒が考えられるが、仏教神としてはそれほどには目立たない存在😌創作神話や説話の創作では、目立たない存在がクローズアップされ、強力な神々に書き加えられリニューアルされていく事がある😑)

 

牛頭天王は「新羅から遣唐使(吉備真備)によって遷されてきた」という由縁があるが、

やはりスサノオは新羅で亡くなったのかもしれない。

そして約1000年近い年月を経て

新羅のスサノオの分霊は吉備真備の手によって日本列島に戻ってきた。

 

今も尚、スサノオさまの御霊は日本にいる。

大祓の払い言葉も今に残り、スサノオ様の存在は決して風化することがない。

 

これもある意味、伝統を大切にする日本の良さなのだろうか、、、🤔

 

そして、日本人と共にある神社。

と、一言で言ってしまえばそれだけだが、

神社にも二千年以上の歴史と伝統がある。

神社自体も仏教伝来~中世の神仏習合~GHQの政策統合まで

数々の宗教政策により変遷してきた。(信仰そのものの変化も多少はある)


時には仏教政権の配下となり、戦国時代の戦火にさらされ、民衆への緩和政策となり、皇国史観、政教一致、敗戦後は分離し、GHQ政策の神社統合があり、

幾多の時代の変化を抜け存在し続け

二千年を超える星霜を歴て今も尚、

私たちと共にあり続けている。

これには、他に類をみないほどの価値がある。

 

ただ一心不乱に崇拝してきたという訳ではない。

 

ただただ大切に受け継がれてきた神社。

これも、日本人が気づいてない日本の良さなのかもしれない。


『日本人と神社』という関係そのものが、無形の世界遺産以上の存在に感じる。

それだけに、、、

牛頭天王とスサノオの関係は、殊更

謎、、🤔に感じる。

 

インド仏教の守護神【牛頭天王】と

蘇民将来の話しに疫神として登場する【武塔天神】

そもそもスサノオと牛頭天王を結びつけているのは、この備後の国風土記に書かれている蘇民将来の話しだけだ。

当時の日本は創作神話の時代、

遣唐使などを通じて大陸の知識がもたらされ、ギリシャ神話や聖書などの様々な影響を意識し、

古事記、風土記、先代旧事記など

種々の『バイブル』が編纂された。

古事記・日本書紀も、

日本における旧約聖書・新約聖書と
なるよう編纂が命じられ、ギリシャ神話などの神話性も取り入れられていった。

古事記とギリシャ神話が似てると謂われる由縁です☝️

蘇民将来のエピソードには、
『ユダヤ起源説』もあり、
旧約聖書の出エジプト記の影響をも感じとれる。

しかし、日本には(或はインドも)西アジアの様に羊はいなかったので
羊の頭ではなく、牛の頭に置き換えられたのかもしれません、🤔

西アジアの羊
南アジアの牛

(どちらも神獣ではありますが、、)

西アジアでは、羊は神様への供物で
南アジアでは、牛は神様の乗り物。

特に羊は群れで生活する動物でこれを捧げることは集団意識を捧げます、という意味になる。また

羊や牛など巻き角の頭には霊力が宿るとされ、呪術的な表現として使われることもあったかもしれない、🥺

※ユダヤ起源説=
旧約聖書出エジプト記では羊の血を玄関に塗りユダヤ人は災厄から助かるという。
日本の牛頭天王信仰では災厄を受け無いようにヒイラギとイワシを玄関に飾る。まじスか😂
(ヒイラギとイワシで羊の血の臭いを再現したか?🤔)この類似点による。

  

蘇民将来の話しはかなり作り込まれていて、深堀りすると深みにはまる😮

『北海に住むという武塔天神が、嫁を探しにきた。一晩宿を借りようと、長者・巨旦将来に頼んだが断わられ、兄の蘇民将来は貧しいながらも武塔天神を暖かく迎えいれた。

嫁を娶った後に、武塔天神は『八王子』を連れ、蘇民将来のもとに顕われ感謝し、蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。
そして「吾はハヤスサノオの神である」と、武塔天神は本性を明かした。』

 

疫神の武塔天神が『吾はタケハヤスサノオである』と名乗ったこともそうだが、

八王子を連れてきたということ。

通常、八王子というと
スサノオと天照大神の誓約(ウケイ)で生まれた八柱の神さまたちのことを言う。

(八王子=男神五神、女神三神)

古事記では

誓約(ウケイ)により生まれた神々は

女神三神がスサノオの子とされ

男神五神は天照大神の子とされた。

しかし、備後の国風土記では

八王子、八柱の神々全てをスサノオが引き連れてきた😳

皇統となる男神らもスサノオに従ってきたことになる。

 

また「牛の頭と馬の頭」で

牛頭天王は、馬頭観音に対こうした存在であるという考え方があるが、

インドでの馬頭観音は『最高神ビシュヌ』の化身でもあり、これに対しての牛頭天王は

日本でいえば『最高神・天照大神』に対こうしたスサノオということになり、

そこかしこに奇妙な神話の符丁も感じる。

 

そして、蘇民将来の娘と子孫を守る約束をした

『娘とその子孫を助け、息子は助けないのは残酷じゃないか?巨旦将来と同じ様に疫病で命を奪うのか?本当に蘇民将来に感謝してるのか?』

という意見が当然あり、私も謎に思っていた。🤔

 

=女系を守るという意味だ。

 

古代は、現代ほどの男権主義は蔓延ってはなく、母系社会=女系を大切に守るクニの方が多かった。

西アジアのユダヤのレビラト婚など女系を守る結婚制度は、北アジアから東アジアまで広く分布し、卑弥呼の起源という南アジアの稲作文化でも女王系の成り立ちが存在していた。

強い男権主義は真ん中の中国だけで、『貞婦ニ夫にまみえず』等と、女性の貞操を強要し再婚を悪として、女性を隷属させていた。しかしながら中国人以外は、多くは女系を中心にまとまっていた。

日本でも戸主は女性がなり、母戸主、里戸主、などと言い首長は必ず女性がなるというまだ女王系の文化が残っていた時代だ。

(今年も日本は世界144カ国中最も男女格差社会が酷い国としてワースト1に😔💦現代の日本人男性の感性では理解が及ばないほど真逆の世界観がかつて存在していたのかもしれません・・・🥺)

 

千葉県の玉前神社の女神の由縁にも、女系集団が上陸してきたという伝承があり海の鳥居が祭られている。

推古女帝、斉明女帝、元明女帝、孝謙女帝など女性の天皇がレアケースとなってしまう前の、遥か昔むかしの時代。

 

蘇民将来の家では、女系血統を大切にしていたという事だろうか?

 

エピソードの一つ一つが興味深く、謎めいた長文になるだけなのでこの辺で止めておこう、、😑

 

読んでくださっている方もきっと疲れる🙏😔

 

スサノオの存在と、関係の謎については、

謎のまま未来に託すことにして😌

 

最後に、、
ちょっとだけ韓国の話しを😅🙏

(ホンマいくんかな😱)

①スサノオは五十猛命と共に新羅の『ソシモリ』に行った。

②スサノオは「ここには居たくない」といい出雲の鳥上に五十猛と共に神降りした。

この二つの史話から、『ソシモリ』は何処か?という議論が諸説あります。

(地名でなく人名かもしれませんが…)

 


①慶尚北道高霊にはその昔

「ソシモリ山」と呼ばれていた山があり(現・伽耶山)古代では牛の頭山という。

「牛の頭」は韓国語で「ソシモリ」。仏教が伝わってから伽耶山と呼ばれる様になった。そして麓の白雲里村にはナント!「高天原」という地名があるという。😳古事記に寄せている、

 

一方、

 

②「現・牛頭山」は、江原道春川にあり

旧・大日本帝国朝鮮総督府はこちらの方を比定地にして江原神社を祭っていた、、🤔

いずれは行くべきか、、😂

 

朝鮮半島に任那(日本府)があった時代にも、和国→百済→新羅と、
朝鮮半島の領有が移り変わる紆余曲折があった。

国家形成の起源は、多元的😌☝️


一様には語れない、聖なる国✨日本

 

長文を読んで頂き、ありがとうございました🙏✨


スサノオⅫ.御霊祭 末社の天王様【八坂神社】スサノオ・ファイナル

2022-07-24 | スサノオ

京都の八坂神社ではなく、今回はローカルな八坂神社のスサノオ様のお祭りで、長らくシリーズになっていた??スサノオの旅はこれで一旦終わります。😌

(一旦?😂)

神奈川県の相模川沿いに祭られる「八坂神社」の御霊祭。

(御霊信仰=中世、牛頭天王(スサノオ)の祇園祭・天王祭などで全国に広がった災厄除の祭り)

知人がお囃子をやっていて見学させて貰った。

相模川沿い蛇行するあたりの高台に鎮座されていて、やはり氾濫時における水防ハザードマップ場の安全地点に祭られている様だ。

上流にダムがありそう氾濫することも無いとは思うが、防災意識は今も共にある。

消防団

神輿の格納庫の隣に消防車の格納庫がある。

平安時代(貞観年間)、富士山史上最大の噴火を初め次々と火山が噴火し大地震が発生、東北地方を大津波が襲い、全国で疫病が大流行し未曾有の壊滅的な状況が日本列島を襲った。

陰陽師は、これを祟りと占った。

政争によって無念な死をとげた人が、(菅原道真公等)疫病などの災厄をもたらす存在とされ神様として祭ることで災厄を鎮めようとした。

いわゆる「御霊信仰」という中世独特の疫神信仰が広がった時代で、スサノオを祭る祇園祭りも貞観年間から盛んに行われる様になった。

(牛頭天王=スサノオも疫神であり無念な死を迎えた人だったのだろうか、、🤔)

『御霊式』

御霊式で、スサノオ様を神輿に降ろしてから、山車・山鉾で街中を巡行して地域一帯の災厄を除く。

地域の氏子さん達によって行われるお祭りで

これは、祇園祭り山笠祭りなどユネスコ無形文化遺産の様な日本を代表するお祭りや、ローカルな末社のお祭りであっても皆、同じ。

地域の人々の手によってその土地の災厄を除くお祭りだ。

お囃子も、獅子舞も、神輿も、全て氏子さん地域の方々の手によって行われる。

16世紀、八坂神社は神仏習合により比叡山延暦寺の末寺となっていた。

織田信長による比叡山焼き討ちがあった後、祇園祭は中止命令を受けたが

「神事これ無くとも山鉾渡したし」

と、氏子の方々によって祇園祭が行われた。

地域にしっかりと根ざした祭りであり、現代でもその伝統は全国隅々にまで根ざし続いている。

その土地を守っているのは神ではなくまず人々であり、

神威を開くからこそ神々と繋がりがある。

神輿連 囃子連 自治会 子供会 PTA 消防団 氏子会、 地域の総力が結集し祭が行われている。

しかしながら、街中の巡行はせず、倉庫から山車と神輿を出してお囃子を奏でるだけの縮小版。演目もコンパクトに。

それでも、お囃子は見事に尽きる。

相当練習を重ねてきたようで、スサノオ様の耳にも届こう✨

真ん中の太鼓が「親」。

囃子の要で、このリズムユニットを『調べ』という。

読んで字の如く、調べで和すと書いて調和で、

神輿に向けて調和のエネルギーを送っている。

『獅子舞』

演目『鎌倉』で、アクロバットな動きをする獅子舞。

「何もやらなければ記憶にも残らない」

と、氏子さんたちは規模を縮小し懸命に伝統を守ろうとしてきた。

八坂神社に限らず、無人の奉納をしたり、無人で花火だけ上げた神社もあった。

人々が伝え続けるからこそ伝統というが、

途中何度か途切れては復活し、今に続いてる。😮

(私は新興住宅地の育ちで、実は地域にはこうした神社やお祭りがなかったので、お参りだけでは分からない初めて知ることが多い😌)

神社には子供の遊び場があり、消防団の消防車があり、集会所があり、地域にとっては大切な拠点で、

今も、人々の集合意識と共にスサノオ様はいる。

社が傷めば修理し、

宮司さんはいないので、地域の総守護の神社などから来て頂き、

日々の掃除や管理、山車の購入の資金集めから例祭まで、全て氏子さん達の手によって支えられているのが地域の神社だ。


社務所もないし、あっても開けられないこともある。

今風に言えば『御朱印の貰えない神社』となるだろうか、、🤔

私は御朱印集めをしないので、

(その時その場所の感覚を味わう派)

よく分からないが、御朱印集めをしてる方は「神社なのになんで御朱印ないの?」と

思われるだろうか、、、

末社の神社、というより神社の殆どはこうした伝統的神社で、

むしろ御朱印を頂ける神社の方が全体の分母からすれば少なく珍しいのかもしれない、、

全国何千社の総社とか、総本宮などを周ることが

多かったが最後に、

何千の方の末社にも巡り合うことができて良かったと思う。

今回周ったスサノオ様全国ツアーでは、御朱印が頂ける神社は50ヵ所中

10カ所くらい。御朱印だけで周ると回れる神社がぐんと少なくなってしまう気がする、、、😔

須佐ノ男 2000年記念全国弾丸ツアー

(そういうタイトルだったのか🙄)

【弥生】人として生きたスサノオ 長崎県対馬 ⛩️島大國魂神社

【古代】神話になったスサノオ様 島根県奥出雲 ⛩️八重垣神社

【中世】信仰となったスサノオ様 京都・愛知県 ⛩️八坂神社⛩️津島神社

【近世】祭りとなったスサノオ様 祇園祭・天王祭・御船祭

 ⛩️八坂神社⛩️津島神社⛩️氷川神社

【近代】伝統となったスサノオ様 全国

【現代】今も続く、スサノオ伝説 宮城県岩手県 ⛩️八重垣神社⛩️八坂神社

この一ヶ月ちょっとの間で、全国八千㌔を巡り、

2000年の歴史を薄っぺらく語ってしまわない様にと、

自分なりに調べて周ったが、実際行かないと分からないことの方が多かった。。

今や民俗伝統芸能と共に存在している

スサノオ様。

千年以上の歳月をかけて、スサノオ様と共に

宮廷音楽だった雅楽は、民衆の「猿楽」に

宮中神事は、民衆のお祭りに、

かたちを変えながら時代に広く浸透していった。

【素鵞神社】神奈川県湯河原市吉浜

海を見下ろす高台に鎮座するスサノオ様

最後に、月一ペースでよく行くスサノオ様を祭る神社の紹介を🙏

こちらには鹿島神宮(茨城県)では既に失われてしまった

「鹿島踊り」という伝統が残る。

こちらにお参りさせて頂き、目の前の海でサーフィン🏄をしてから、美味しいお魚を頂き、背後にそびえる箱根山を登って(🚙30分)芦ノ湖畔にある箱根神社にお参りして、温泉に入って帰るという、、😌海と山を堪能する1dayツアーが、毎月のルーティンになってる🌊🏕✨⛩️

これで、スサノオ様を巡る旅を終わります⛩️

お読み頂きありがとう御座いました。✨✨✨🙏


スサノオⅪ.裏出雲・古事記伝説【熊野大社と比婆山】イザナミの謎

2022-07-17 | スサノオ

【熊野大社】島根県松江市八雲町2451

出雲国一宮【熊野大社】 

別名【日本火之出初ノ社】 創建659年

ご祭神 熊野大神櫛御気野命(スサノオのミコト)

フルネームで、

伊射那岐日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命

という。

イザナギの子にして熊野の祖神でありミケ(=食べ物)の神様という意味だが、

冠ネームが長いので最初は別の神様かと思った…😅

スサノオという名を出さずに「ミケ」「ケツ」など食べ物の神様としての別称で祭っているのは、

和歌山県の熊野大社も同じで、スサノオ様のもうひとつの側面だ。

右の社殿は稲田神社で、ご妻神の櫛稲田姫を祭り

左の社殿は伊邪那美神社で、スサノオの母イザナミを祭る。

明治の一村一社制で、旧熊野村一帯の神社がこちらに合祀された。

熊野大社の元宮は熊野山(現在の天狗山)にあったようで、巨大な磐座が残る。

伊邪那美神社

荒神社

境内から左に出ると、「荒神社」で素戔嗚を祭っている。

荒神社で素戔嗚として祭っているのは中国地方に多い様だ、、

関東では、本殿が素戔嗚で側に「牛頭天王」というパターン😌

そして、その隣の稲荷社で『狛猫』発見🤩

お気に入りの場所な様だ😂☝️

別名、日本之出初ノ社ともいう熊野大社には、

『火キリの臼杵』が伝宝として残る。

スサノオがこの地に伝えたという。臼と杵の木の摩擦で、火を起こす道具だ。

「火」は「霊」を継ぐ事であり、火キリの臼と杵は代々、神器としてこちら熊野大社で祭られていて

「鑽火祭」では、出雲大社からここ熊野大社に参向し授けられる。

【熊野大社上宮跡地】

400mほど離れた場所にある。鳥居もなく案内の看板があるのみの跡地。😌

こちらも明治政府の合祀政策で、現在の熊野大社(元は下社)に遷され合祀された。

上宮の方は、中世「熊野信仰」が紀伊半島(紀ノ国)より全国に広がって、

逆輸入のような形で出雲の熊野に伝わってきて祭られた修験道系熊野大社で、

現在の熊野大社が下社で、元々の熊野大社だったという。

和歌山県(紀ノ国)にも熊野大社があり、紀伊半島には那智の滝やイザナミ陵など、出雲と名称を同じくする由縁の地が沢山あり、速玉男、事解男、など同じ神々が祭られている。

熊野信仰が広がったのは中世の紀ノ国からで、神仏習合による山岳修験や歴代天皇の熊野詣により、全国的に有名な霊場となった。

しかし、元は出雲であり出雲から紀ノ国へ行った方々が故地の名称をつけて熊野大社を祭ったようだ、、

出雲の伝承では、出雲から紀ノ国へ行ったのは「炭職人」であり、熊野大社の神主が同行し、紀伊半島に分霊を遷して熊野大社を祭ったという。

炭職人に神主がついていくというのは現代人の私達からすれば??🤔ピンとこないが、

熊野大社の神器『火鑽の臼杵』と同様に『炭』は弥生時代では重要で国家鎮護には必須なものだった。


特殊な【炭】は煙幕や爆炸剤など火計に用いられる炭職人相伝の秘術だ。
現代の炭火焼というような食事のためだけの炭ではなく、延焼剤としての火攻兵器の側面もある。

『剣職人』と同様に門外不出である

『炭職人』がわざわざ熊野大社の神主を伴って紀伊半島へ向かったという事は、

出雲と紀の国(紀伊半島)で、熊野大神を祭る氏族たちが同系の部族だったことを物語っている。

「出雲の熊野大社の神主が紀の国に行き、紀伊半島に熊野大社を祭った」というのは、もしかすると神主というよりスサノオ自身だった可能性もある。

紀の国=木の国の語源も、スサノオが木の植樹を行なった事が由来であり、

出雲から離れ、紀伊半島に国開きに行ったのだ。

そして、奈良でオオナムチ(大物主)とスサノオの娘スセリ姫が出会い結ばれて、スサノオは大国主の座をオオナムチに明け渡し奈良で生涯を終えた。

スサノオの墓は奈良にあり、奈良で書かれた古事記にスサノオが沢山登場するのに対し、同じ時代に出雲で書かれた「出雲の国風土記」にはスサノオは全く書かれておらず、スサノオの王子のみ登場するのも頷ける。

、、更に、奥へと進んで行きます。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

ここから、長文になります✨🙏

興味のある方はご覧下さい。

出雲の裏側、、

(🙄今までも長かったですが、😅

読んで頂いてありがとうございます🙏)

【熊野神社】広島県庄原市

奥出雲という地名はあるが「裏出雲」という地名は無い。しかしあえて

『裏出雲』と表題にしてみました。🙃

奥出雲より更に南の比婆山麓、広島県側にある出雲の裏側をみていきます。

スサノオの頃の出雲は、瀬戸内海側までが出雲だったので広島県は古代出雲とも言えるかもしれません。

山間の道に忽然と大鳥居が出現。「古事記の故郷」熊野神社

比婆山など今回は、スサノオの母イザナミの由緒を周ります。

【裏出雲ロード】

熊野神社 比婆山Ⅰ.千引岩 比婆山Ⅱ.火よけ穴 比婆山Ⅲ.イザナミ陵

神域の見事な巨杉群は県の天然記念物

参道の木々の下がる枝ぶりが独特で、山側から麓側にエネルギーを降ろす様な生え方をしている。

熊野神社は、

後ろの山に鎮座する比婆山に葬られたスサノオの母・イザナミを遥拝する為に祭られている神社。

古事記~

イザナミは出雲国(島根県)と伯伎国(鳥取県)の境、比婆山に埋葬した

とあり、イザナミ陵慕のある比婆山を奥の院として、

こちらから遥拝(=遠くから拝むこと)する。🙏

熊野神社 拝殿

拝殿左手に登山道があり、岩境、二宮、三宮と続きますが、

三宮の撮影は自粛しました。

岩境

金蔵神社

熊野神社のパワースポット✨

熊野神社の拝殿が建立される8世紀まで、

こちらの磐座で祭儀が行われていたという。

二宮

那智の滝へ、そして比婆山に続いてますが、、

一度山を下り西側の峰 比婆山立鳥帽子駐車場へ向かいます。

比婆山の南麓には三つの登山口があり、

東から熊野神社駐車場立鳥帽子駐車場比婆山古道入口、と、

西へいくほど頂上への距離が短くなる。

イザナミ陵墓は比婆山頂近くに埋葬されてるらしい。

熊野神社からだと朝早く出て夕方戻れるくらいだろうか?

間違いなく負傷レベルの筋肉痛になる、、😅ので

一番近い比婆山古道入口から登ることにする。3時間コース

【千引岩】と【火よけ穴】 広島県庄原市西城町熊野

比婆山立鳥帽子駐車場、、駐車場といっても突き当たりにジャリ道が開けてるだけのスペース。テントを張ってキャンプをしてる人達がいた。

千引岩と火よけ穴どちらも、駐車場から徒歩10分程度。

駐車場より右手にある細い山道をいくと千引岩がある。

古事記~

火の神を産みなくなった妻イザナミを追って、夫のイザナギが黄泉の国までやってきた。

イザナキは「葦原中国(アシハラナカツクニ)へ戻ってきて欲しい」と頼む。

しかし、イザナミはもう葦原中国に戻れない体になっていた。

それでも、、と頼むと、イザナミは黄泉の神に相談してみることになり

そして「相談が終わるまでは私をみてはいけない」と告げた。

しかし、イザナミと黄泉の神の相談は長時間に及び、

待ちきれなくなったイザナギは櫛に火を灯して進んでいった。

そこには焼けただれて醜い姿となったイザナミの姿があり、驚いたイザナギは黄泉の国から逃げ出した。

約束を破られ怒ったイザナミは八雷神・千五百の黄泉軍を差し向け追撃する。

イザナギがようやく黄泉平坂(境界)まで逃げてくるとイザナミが追いつき

最後にこの大岩を挟んで対峙し、イザナミとイザナギは言い合った。

「美しき吾妻、時周り来る時があれば、この千引の岩戸を共に開けよう」

「愛する夫よ、あなたの国の人を日に千人ころしましょう」

「愛する妻よ、ならば私は一日に千五百人生んでやろう」

このことから「千引岩」と名がついた。

駐車場に戻り左手奥の道をいくと、火よけ穴がある。

『火よけ穴』=隠れ穴ともいう

焼けただれて醜い姿となったイザナミは、この穴に隠れていた

一説に、火の神を生んだイザナミは、この穴の中で亡くなったと云われている。

また、イザナミがここを通りかかった時、天から火の雨が降ってきたので、

この穴に入って難を逃れたともいう。

火の雨が降ってきて火傷を負い、穴の中に隠れていたところ亡くなられたのだと思います、、😔

【比婆山御陵】比婆山古道入口より登山1時間半

車数台を停めるスペースがあるが、一台も停まってなかった。

例によって夕方、山に一人で入る…

結構な登山だったが水を持ってくるのを忘れてしまった。

原始的だが汗を飲みながら登った。

イザナミに追われ、驚いて逃げるイザナギはこの岩を飛び越えていった。

「飛越石」という。

イザナミが埋葬されたという陵は登頂近く(9合目)にあった。

埋葬地の看板

しかし蝦の大群に襲われ、ゆっくりお参りどころではなかった。

アウェー感というか、何か予感がして例によって御陵の撮影は自粛した。

、、無事に下山することができた。

パワースポット巡りで山深くに入ると、時に際どい体験をすることもある。

この「越原」と書いておっぱらと読む地名は、イザナギを「追払った」ことが由来だという。

イザナミの墓は

古事記説では、伯耆の国(鳥取県)の境い近くの比婆の山に埋葬したとあるが、

宮内庁説では、伯耆の国から30㌔くらい離れた島根県松江市に『岩坂陵墓参考地』というのがあり、

他にも紀伊半島の三重県熊野の『花の窟神社』など諸説あり、古事記説は否定されまくっている、、😑

まぎらわしいですが、今回は『古事記の故郷』ですので古事記説で周りました。

長い旅のお話しにお付き合い頂き、ありがとうございました。

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古事記〜


『スサノオの追放 エピソード1

スサノオは母の国に行きたいと何時までも泣いていて、乱行を行うようになった。父イザナキはこれに怒りスサノオを追放した。

『スサノオの追放 エピソード2

スサノオは高天原にやってきたが、天照大神は奪いに来たと警戒し完全武装で迎えた。スサノオは天照大神とウケイ(誓約)を行い潔白を証明した。しかしその後、乱行を行い事件を起こし罪を負わされ追放された。

スサノオは二回に渡って追放されていますが、「母の国に行きたい」というのが発端であり、母イザナミの国とは、父イザナギの葦原中国でなく、こちら「黄泉の国」なので

最終的には、二度の追放を経てスサノオは母の国に辿り着いた。

出雲には「夜見嶋」という場所があり、他にも神名火山、十神山・十神島など興味深い地名が残ります。

出雲は古事記同様に奥が深く、歩く古事記という感じがしました。

更にここからは、

古事記を古代ミステリーロマン的な視点で

とりとめもなく綴っていきます。

古事記を神話でなく、

ただの物語として読んでみるだけの試みですが、、

興味のある方はご覧ください。

(津田史観とか皇国史観とか極端にバイアスがかかったものは😵‍💫ちょっと分からないですが、普通に読んでみます。😌)

毎回、長文ですが今回も長いです、、🙏😌

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古代ミステリーロマン【スサノオの母イザナミの謎】

突然ですがこれは☝️ヤフオクで1万円でゲットした中国製のレプリカの鏡です。🤣

😅内向花紋鏡のつもりで買いましたが、どうやら『銘帯鏡』という、
もう1〜2世紀古い時代の鏡のようです(マニアック😂)

弥生時代の男達はこの様な鏡を腰にさげていた、、

裏側の鏡面が凹面になっていて、太陽の陽を一点に集めて発火させる為の鏡。天然のライターです。

しかし、夜や雨では使えないため

太陽がなくても使える臼杵式の摩擦発火装置が必要とされました。

(木と木を擦り合わせ発火させる、スサノオが熊野神社へ伝えたという発火装置)

また、火種として燃焼時間の長持ちする備長炭の様な特殊な炭も携帯上、重要でした。

後世の火打石もです。

時代が下るごとに発火装置は進歩しますが、弥生時代の臼杵式発火と炭は庶民の暮らしの為だけでなく


国家鎮護のための重要な神器でした。

古事記〜

イザナミとイザナキは沢山の神々を生み出し、最後に「火の神」を産んだことによって女陰を焼いてしまい、イザナミはなくなられた、、

と、記されてますが、

これは、にまつわるお話しです。

弥生時代の戦さというと、銅剣・鉄剣の白兵戦(チャンバラ)だけだったが、

一世紀前後になると新たな渡来部族らにより

火術・武術・兵術など戦術がもたらされていった。

特に火矢を用いた火術は、先住部族、先々住部族の銅剣と鉄剣の戦力差を埋めるほどの戦闘力があった。


八岐大蛇がスサノオに急襲されて、火を吐きながら逃げた、、つまり火矢を放ちながら、または火を放って退却出来たという事は、

急襲に対してただちに反撃できる発火技術を持っていたということだ。

既に、備長炭の様な堅炭による種火の保存技術か、スサノオが熊野神社に伝え残した様にすぐ摩擦発火する火ギリ発火装置があったのだ。

『スサノオの母イザナミは、火の神を産みなくなられた』

この古事記の話しは、その様な新たな発火技術の誕生によってなくなられたというエピソードだ。

比婆山に伝わる伝承では、
火の雨が降ってきてイザナミは穴に隠れたという。

黄泉の神との話し合いが長引き、

イザナキ側が夜になり、火矢による奇襲攻撃をしかけ黄泉の国の国境を超えてきた。

火矢による奇襲は、種火は目立たせてはならない、

(私の様な『銘帯鏡』ではなく😂、夜でも戦術に使えるほとの新たな技術があった)

火矢を受けてしまい驚いたイザナミは燃える頭から櫛を外し、その炎を頼りに火よけ穴まで辿り着き隠れた。

やがてイザナキに見つかってしまう。

焼け爛れたイザナミの姿をみたイザナキは驚いて逃げ出してしまった。

元夫の仕打ちに怒りイザナミ側も反撃の軍を出した。


しかし、イザナミは火傷を負いその上

既に葦原中国には戻れない体、、

つまり身重の体で、火の神の子を宿していた為に穴から動くことも出来ずに、火傷が原因でそのまま隠れ穴で亡くなられてしまった。

黄泉の国の兵士たちは悲しみ、亡き骸を比婆山に埋葬した、

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

古事記〜

『スサノオは、髭が胸に届くくらいになるまで、母の国に行きたいとずっと泣いていた』


『ずっと泣いていた』

『言葉を話さなかった』

という王子が時々登場するが、

これは常用言語を話せない状態であることを指していて、

言語の違う他国の渡来系王子であるという意味だ。

イザナキの国が、葦原中国(アシハラナカツクニ)ならば

母イザナミの国は、黄泉の国だという事になり、

イザナミ・イザナキ夫婦は
違う国同士の婚姻だった事になる。


女王イザナミと男王イザナミ

二つの王統の同化政策は、

二人の婚姻により血統を継ぐことで始まった。

古事記〜

『イザナキ・イザナミの二人は天御柱を左右からそれぞれ周り、美斗のまぐわいをする事になった』

最初は女王から言い寄ったために、うまくゆかず、生まれた子は流してしまった。

次は男王から言い寄ってみてうまくいき正式な神婚がなされた。

弥生時代はまだそれほど人口は多くなく、国の対立で相手を完全に武力破壊をするほどの兵力差はなく婚姻による和合政策が常だった。

女性が言いより入嫁になるか、
男性が言いより入婿になるか、 

男系の国と女系の国では、こうした試行錯誤があり、

しばし、イザナミ・イザナキの婚姻合併策は落ち着く。

しかしその後、

イザナギ側とイザナミの黄泉の国での戦いが起こった。


イザナミの子スサノオと、
イザナギの子(天照大御)高木神勢力との間でも諍いが起きた。


スサノオの2回に渡る追放劇は、

両国和合がひび割れしたエピソードだ。

『スサノオは多くの罪を負った』

というが、文字どおり

自分以外の氏族達の罪を全て被ったという説や、冤罪説もある。

スサノオは、長崎県対馬に新羅との往来の伝承が残る様に、新羅系であることは間違いない。

出雲も、新羅系の国造りをされた国であり、

出雲の始祖の八束水臣津野命は、
国土が狭かった為に、国を引き寄せた、と出雲国風土記に記されている。

国引きの後『オウ!』と言ったのが、今も残る意宇郡という地名の由来となっている。

この国引き神話は、新羅の一部を加えたエピソードという解釈がされていて

スサノオの後、

二代目大国主となった大己貴命らも新羅から来た少彦名命の助けを得て国造りを行い、

国造りを終えて少彦名命は常世の国(新羅)に帰ったというので、

数代に及び、出雲と新羅の往来は続いていた。

古事記の

新羅を常世の国といい
出雲を黄泉の国という言い方は

両国が裏表の関係であることを示している。

まるで和歌の返し歌の様なセットだ、😮

古事記では、

スサノオの娘・スセリ姫の入婿となった大己貴命に十種の神器が渡り

スサノオは「お前が大国主になり天をつくほどの宮を建てよ」

と、言ったのが最後の言葉で、

スサノオの自身の最後は分からない。

スサノオの墓は、最後の言葉に関わる伝承地が残る奈良説(笠山荒神社など)が

有力と思われるが、出雲説もある。或いは新羅(旧江原神社など)ということもあるかもしれない。

あまり追いかけると、いつか韓国にまで行くことになるかもしれないので、

この辺でやめておこう。😂💦

【稚児池神社】奥出雲 スサノオが産湯に浸かったという井戸を祭る

【新宮神社】奥出雲 ご祭神 イザナミ 速玉男 事解男

【櫛田神社】奥出雲 櫛稲田姫の生誕地

【稲佐の浜】ふつうの出雲 出雲大社の西岸

出雲大社も寄り、稲佐の浜へ。🌊波が少しだけあったので🏄もしてみた。

裏出雲の公式キャラクター?日本の祖神さまイザナミさまが、なみちゃんに😌

それにしても、、

😮

創作神話の時代とはいえ、当時の人々の表現と意味込めは見事に尽きる。😳

同じ時代に読まれた万葉集の和歌一つとっても、とても現代人が及ぶものではない。

ひとひらの言葉に二重三重の意味を込め

時に情感描写でそれを包み、

時に言外にそれを置く。


歌は、一言に3つの意味をこめる

人の心、特に恋心を謳い、
自然の美しきを纏い、
世上を表す。

短い言の葉に全てをこめて歌うほど、想いの深さが伝わった。

ストレートに言葉を読むのでなく、裏読みする語彙力がなければ返し歌もままならない。 

中国にも讖緯説という裏読みが必要な表現方法があるが、

とても古事記・日本書紀の時代のセンスに及ぶものではない。

現代人でも皮肉を言う時は、ダブルメッセージで逆の意味を含めて言うが、

皮肉以外で、トリプルメッセージの言語表現が出来るのはこの時代の特徴だろう。

古事記や万葉和歌は謎解きや理解よりも

現代人脳の私にとって

読む度に意味が変わるのが面白い。😌

それにしても、、

古事記を額面どおり読む現代人の朴念仁ぶりよ😅

blockhead🙃cold fish

(※紀元2世紀〜7世紀頃までは、世界的にも創作神話と宗教政策の時代だった)

とりとめのない長い話しを読んで下さって、

ありがとうございました。🙏✨

スサノオ二千年の旅、  

ファイルファンタジーなみのシリーズになってしまいましたが、

最後は、地元の神奈川県で終わりたいと思います。😌

(😂まだ続くんか)


スサノオⅩ.奥出雲・古事記伝説【八重垣神社】ロマンスロード

2022-07-15 | スサノオ

【八重垣神社】島根県松江市佐草町227

ご祭神 素戔嗚命 櫛稲田姫 大己貴命

縁結びの神社⛩️ 鏡の池では結びの占いができる。

 

日本神話の故郷『出雲』(島根県)はスサノオ降臨の地。

~古事記

「高天原を追われたスサノオは出雲に辿り着きます。ここで姫を八岐大蛇に差し出さなければならず苦しんでいた出雲族と出会いました。スサノオは八岐大蛇を退治し無事に姫を助け、二人は結ばれました。」

スサノオが櫛稲田姫と出会い八岐大蛇を退治した奥出雲と

櫛稲田姫と結ばれた❤️島根県の松江市を周ります。

 

 

スサノオは、斐の川上から七里離れたここ佐草の郷"佐久佐女の森(奥の院)"に、大杉を中心に

『八重垣』を造り、八岐大蛇から守る為に稲田姫を御隠しになられた。

境内の左から後ろに出ると、佐久佐女の森の奥院がある。

 

『鏡の池』奥院

社務所で紙を買い、紙を池に浮かべ10円か100円玉を真ん中にのせ、沈む早さで叶う早さを占う。

15分以内なら叶いやすく、30分以上かかると叶いづらいという、、😮

浮かべてみた、、

なんと!😳水につけると文字が浮かびあがってきた

「答えは己の中に」ですと。

(思い当たる😅)

隣で老夫婦がやっていたが

違う文字が浮かび上がっていた。ご宣託は人それぞれらしい、

1〜2分で沈んでいった😂☝️

先週、宮城県山元町の「八重垣神社」にお参りし一週間後にこうして

島根県の八重垣神社に参拝することができ、何だか不思議な気分になった。

 

八重垣神社の元宮は、奥出雲にあったという。

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに

 八重垣作る その八重垣を

スサノオが詠んだ我が国最初の和歌。

 

【元八重垣神社】

スサノオと櫛稲田姫が出会ったという場所💖

 

こちらに八重垣神社があったが、明治時代に1キロ先の伊賀武神社に遷され、

今は社殿も鳥居もなく、この石碑が残るのみ。

 

 

入口には元結の松といい、櫛稲田姫命が髪を結くときの紐を

こちらの松に掛けたという。

 

うっかりすると通り過ぎてしまいそうなほど、、というか一度通りすぎた😅

 

 

『八頭の峠』

 

この一帯は八頭(ヤト)といいこの周囲1 km くらいのエリアが、

スサノオと櫛稲田姫が出会い

八岐の大蛇が退治されたという「古事記」に登場する日本神話の発祥地だ。

 

 

 

『長者屋敷跡』

櫛稲田姫の両親、足名椎・手名椎(アシナズチ・テナズチ)の老夫婦が住んでいた屋敷跡地。

足名椎・手名椎は大山祇命の子で、国津神(天孫降臨以前からもともとこの国にいた神々)

 

道路脇の元八重垣神社前のジャリ道を進み奥まった所にひっそりとある。

 

老夫婦には八人の娘がいたが、八岐大蛇に年に一人づつ人身御供に奪われ、

櫛稲田姫がとうとう最後の一人になってしまった。

櫛稲田姫もやがて捧げねばならないと泣いていたところ、

高天原を追われて出雲の鳥髪に降ってきた須佐之男命(スサノオのミコト)が、上流から箸が流れてくるのを見つけ(上にも人がいる)と気づきやってきた。老夫婦と出会い

何故、泣いているのか?と尋ね事情を聴いた須佐之男命は、櫛稲田姫を八重垣に囲い隠し、

八岐大蛇を退治する為に、鏡池の水で醸した酒を八つ酒甕に入れ並べておいた。

八岐大蛇がやってきて、酒を飲みだし酔いがまわったところで

須佐之男命は急襲した。

 

鏡池

櫛稲田姫が鏡に使ったていた池。

八岐大蛇を酔わせる酒甕は、この泉の前に並べられた。

 

  

どんな旱魃でも水が絶えることがなかったという。澄んだ水面は、当に鏡。

 

須佐之男命に、八岐大蛇は討たれた。

八岐大蛇が火を吐いて逃げた「火の谷(樋の谷)」という地名が今も残る。

 

【伊賀武神社】島根県奥出雲町佐伯116

ご祭神 五十猛命(スサノオの御子)

八頭に鎮座していた八重垣神社をこちらに遷し、須佐之男命と櫛稲田姫を共に祭っている。

 

 

向かって左の小さな社が「八重垣神社」

 

社殿で待っていてくれた、モリアオガエル🐸

 

 

【須我神社】八雲立つ日本初の宮

 

須賀神社とも。

古事記〜

八岐大蛇を退治した後、スサノオはこの地にやって来て櫛稲田姫と共に住む宮を造ることにした。

そして『我が心、須賀須賀しい(清々しい)』とおっしゃられた為、

この地は『須賀』と呼ばれるようになった。

 

車で10分ほど離れたところに奥宮があり、二社参りがオススメ

 

 

八雲山登山口から400mほど登ったところに須佐之男命と櫛稲田姫の夫婦岩がある。

 

「登山口の看板」

 

 

 

 

 

ご神体の【夫婦岩】

御子岩と三つ並んでいた。

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

古事記では、


「スサノオは五十猛と肥(斐川)の河の上流、鳥髪に天降り、八岐大蛇を退治した」とあるが、

鳥髪峰(鳥上山)は、今は船通山といい、八岐大蛇の棲みかだった山。

頂上には八岐大蛇の『退治碑』がある。

 

 

【鳥髪の峰】島根県奥泉町竹崎

(亀石コース登山口より頂上まで1.5時間)

 標高1142m  船通山

 

登山口までは車で。私は、登山客が引ける夕方5時頃をねらって登山することが多い。急いで登る、、

船通山には須佐之男命が御子・五十猛と共に新羅より天降ったとの伝承があるらしい、、

夕方からの登山で雨も降り、幻想的な雰囲気。

 

 

亀石コースと鳥上滝コースがありどちらも所要時間は同じくらい、

楽だという亀石コースの方から登った。頂上100m手前で両コースは合流する。

なんというか、、霧とも雨ともつかない靄に包まれ、

このまま神隠しにあってしまうのではないか…というくらい幻想的。

異世界ゲート感たっぷりの登山だった👽

ちょと怖め😅

 

 

最初がきつかったがベンチがあり、途中は平坦な道が結構続き後半はなんとかもった。

 

登頂

当然、誰もいない。雨にけむる山に一人。

 

 

須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、発見した『天叢雲剣』のモニュメントが立っている。

 

船通山は島根県(出雲の国)と鳥取県(伯耆の国)にまたがる山で、

双方の観光協会が立てたものらしい。天叢雲剣に相応しく、雨に曇っていた。

 

『鳥髪宮』

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

八岐大蛇(ヤマタのオロチ)には諸説ある。

ここから先は、タイトルの♡ロマンスロードとはうって変わって

八岐大蛇との⚔️戦いのお話しです。

長くなってきましたが、興味のある方はご覧下さい。😌🙏

 

ヤマタのオロチの正体とは?

 

諸説あります。

アジア北東にいたオロチ族(オロチョン族)が南方経由で渡来してきて

出雲に盤踞していたが、須佐之男に討伐された。

或いは『ヤマトのオロチ』

ヤマト傘下の製鉄部族だったのかもしれないし、八頭の大蛇(ヤタのオロチ族)八頭にいたオロチ族なのかもしれない、

蛇をトーテムとする部族だったか、

八岐に別れる斐川の流れを八又の蛇に例えたのかもしれない、、等と言われています。

何れにしろ、

先住の製鉄部族が追い払われて新たな権力者が

『製鉄の地』出雲を征覇したという事は確かだ。

 

須佐之男が活躍したと思われる弥生時代。

 

紀元1世紀前後はまだ銅剣と鉄剣の混在が残り、

銅剣の部族達は製鉄技術を持つ鉄の部族には太刀打ち出来なかった。
(☝️文字通り鉄剣に折られる)

剣で戦うことが出来ない以上、

姫を差し出して隷属する部族となるか、

須佐之男が酒に酔わせて八岐大蛇を討った時の様な奇襲で、

一発逆転の勝利を狙うしかない。

(火計などの策略も重要🔥🔥)


須佐之男が出雲へやってきて、八岐大蛇を討って、
『八岐大蛇の尾』すなわち八岐大蛇が棲家にした鳥髪の斐川の源流地点から
『天叢雲剣』を発見した神話は、

こうした製鉄部族の覇権交代のエピソードだ。

 

長崎県の対馬が、人として生きた時代の須佐之男を感じる聖地だとしたら、

島根県の出雲は、人として生きた須佐之男が神話化された聖地といえるかもしれない。

 

須佐之男と八岐大蛇の戦いは、

天孫族と出雲族の戦いを暗示していて

或いは

天孫族系同士の覇権争いだったという説もある。

 

古事記の、須佐之男の襲撃で八岐大蛇は『火を吐きながら逃げた』というエピソードは、火計を使い、又は火矢を使い逃げたという事だ。

火は製鉄にも欠かせないが、戦いにも欠かせないもの。

後世、スサノオが発見した天叢雲剣は天皇家の神剣となり日本武尊(ヤマトタケル)が拝受したが、日本武尊が火難に遭った時ら脱出の迎火に使った『火打石』もやはり伯母の倭姫から授かった王家の神器だ。

 

次回の「スサノオⅪ」でまた詳しく書きますが「火」は出雲では重要で、

(🙄まだ続くんか)

出雲大社の鎮火祭では毎年、熊野大社にをきり出す臼杵を頂く。

火嗣の継承儀礼があるのが出雲の由緒だ。

話しは、中部地方の愛知県に飛ぶが愛知県尾張の国😅🙏

尾張氏の始祖『天明命』→『天香久山』→『天村雲命』

と、続いてるのも興味深い。天叢雲剣と同じ名を持つミコトが、火明のミコトの一族にいるというのも何か関係が有りそうだ、😮

出雲に話しを戻して、、🙏😅

古事記とほぼ同時期に出雲で編纂された【出雲国風土記】は、現存する唯一の完全本だが、他の風土記のように
『古事記』『日本書紀』に被る内容が全く書かれていなくて、スサノオに至っては登場すらしない😂☝️

スサノオの御子ツルシヒコが、、等名前だけが4カ所登場するのみ🤨

八岐大蛇も出雲国風土記には登場しない。

この辺りも何やら事情があるのかもしれない、、🤔

古事記では「肥の河の上流、鳥髪峰」

出雲国風土記では『斐川の源流、鳥上山』と、

斐川=肥の河 
鳥髪=鳥上山の地名だけは割と合致がみられるので、

全く別々の場所を記している訳ではない。

古事記はスサノオから天照大神へ皇統が移ったことを強調するために、スサノオの神話をつくり出したと思われる。

そして、出雲国風土記ではスサノオの御子を登場させスサノオの神話に一切触れていないのも、そこに対する無言の主張ともとれるかもしれない、、😑

対照的なのが備後国風土記だ。

次回の投稿『裏出雲』でも触れるが、奥出雲は備後国(広島県)と隣り合う。

備後の国風土記といえば『蘇民将来』のエピソードで、スサノオと八坂神社などに祀られている牛頭天王が結びつけられている唯一の出典だ。

備後国風土記〜

武塔天神(牛頭天皇)が嫁を探しにきた。宿を借りようと長者・巨旦将来に頼んだが断わられ、兄の蘇民将来は貧しいながらも暖かく迎えいれた。

嫁を娶った後に、武塔天神は蘇民将来のもとに顕われ感謝し、蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。そして「吾はハヤスサノオの神である」と、武塔天神は本性を明かした。』

 

出雲国ではスサノオを登場させず

山の反対側の

備後国ではスサノオを登場させツメ跡を残してる、、😳

この裏表の関係はなんなのだろう、🤔

 

鳥上山(=今の船通山)は砂鉄の産地で、

奥出雲では古くから製鉄が盛んだった。

考古学は苦手だが😅荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(銅剣・銅鐸)など、

弥生考古学最大級の遺跡があり、出雲へはいつかまた足を運んでみたい。

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

この一ヵ月、毎週末


関東、近畿、中部、九州、東北、中国地方と、

スサノオ様を祭る神社の列島巡りをしてきましたが、

図らずながら、


【人として生きたスサノオ】九州
  ↓
【神話になったスサノオ】中国
  ↓
【信仰になったスサノオ】近畿・中部
  ↓
【現代につづくスサノオ】東北

 

と、西から東へ

須佐之男命二千年の歴史を周る旅が出来たかと思います😌🙏

 

最後まで、長い文章にお付き合い頂きありがとうございました🙏

 

あと少し、スサノオ二千年の旅は続きます、、🛸✨✨


スサノオⅨ.兵庫県広峯神社『もう一つの牛頭天王』総本宮

2022-07-10 | スサノオ

【広峰神社】兵庫県姫路市広峰山52

 

牛頭天王総本宮

この週末、いよいよスサノオ降臨の日本神話の故郷、出雲へ。

ですが、その前に兵庫県の広峯神社へまずお立寄りさせて頂きました。

奈良時代に吉備真備が、備後の国(広島県福山市)の須佐能袁能神社(疫隈)から勧請してきたのが由緒。

 

吉備真備は、吉備の国(岡山県)の人。

713年に遣唐使となり学ぶこと18年、唐国において知識人として名を馳せ帰国し、大和朝廷で重用された。

吉備真備は岡山県にも数々スサノオを祭っている。

 

戦国時代の名軍師、黒田官兵衛も祭られている。

 

広峰山の山頂に祭られているが、大鳥居までは車で上がれる。

😑😑😑

Googleマップだと姫路城を背に左から

白幤山、広峰山、広峯山、廣峯山と、まさかの
同姓同名の山?が三つ連なり😅

左から2番目の広峰山の前に廣峯神社が祭られている。

そして住所は広嶺山52とあり

Wikipediaでは広峯神社となっている。


ややこしい過ぎ、、😂

『みね』って漢字4種類もあったんだ😮

鳥居からは、参道が長々続く、、。

吉備真備が最初に祭ったのは白幣山の山頂で、ここから八坂神社と廣峯神社に分かれたとの説がある。

最初は、ひろみね山という山の表記が違うだけかと思ったら、

それぞれ違う別の山だった?☝️まるで須佐之男と素戔嗚命と牛頭天王は違うと暗示しているようだ、、(してない😅)

 

 

中世から近世にかけて牛頭天王の信仰は爆発的に全国に広がった。

 

1717年製の神輿

 

八坂神社の牛頭天王総本社と並び、こちらの広峰神社は牛頭天王の総本宮を称している。総社と総本宮、どちらが起源かで対立はあるようだが、神祇界の事情はさておき、

牛頭天王の疫神としての逸話「蘇民将来」の話しも備後の国の話しで、備後より876年に八坂へ勧請されたらしく、起源は西からと考えていいのかもしれない。

更に西に遡れば韓国の牛頭・天王で、牛頭天王は「和製の仏教神」と云われるほどインドとは程遠いが、韓国とは近い。

 

ただ、元宮=総本社という事ではないかもしれないが、

かつて祇園本社「播磨国広峯社」といい、そこから祇園社(牛頭天王社)の元宮・総本社とも言われている。

 

広峯神社からの眺め

 

山の上だけあり、こちらはやはり奥宮、元宮といった感じが漂う。

 

社務所は、留守でした。

 

神社の裏手から、10分ほど山道を上がると

白幣山の頂上で、

吉備真備を祭る学問の神社と荒神社、

そして、その二つの社の間に

岩座が祭られている。

小さな岩座

 

ここがちょっと分かりにかった、、😅

地元の方に尋ねると、白幣山ではなくミツ山という呼び方をされていた。

社殿の裏へ周るといくつか社が祀られている。

 


そこから、なだらかな山道を10分ほど上ると頂上。

 

 

 

吉備神社とあら神社が祀られていてそのやしろとやしろの間にあるのが岩座で

=スサノオが最初に降ったという白幣山の頂上です。

 

 

吉備神社 

氣のいいところ、、

 

 

 

本殿の裏には、九星気学による生まれ年の穴に願いを入れることになってる、、

が、社務所が受付なので、皆さん諦めていた。

機会が、あれば願い事してみたい、、😌

 

これから、兵庫県岡山県、広島県、島根県へと抜けて

スサノオ様を周る。

広島ではスサノオの母、イザナミの神話の地

比婆山を周り、

 

1.兵庫県【広峰神社】スサノオ
2.広島県【熊野神社】イザナミ・スサノオ
3.広島県【千引岩】イザナミ
4.広島県【火よけ穴】イザナミ
5.広島県【比婆山御陵】イザナミ

島根県
奥出雲
6.【稚児池神社】スサノオの産湯
7.【櫛田神社】櫛稲田姫・スサノオ
(櫛稲田姫生誕の地)
8.【八重垣神社跡】
スサノオと櫛稲田姫が結ばれた地
9.出雲市【出雲大社】
10.松江市【八重垣神社】
11.松江市【熊野大社】
12.雲南市【須我神社】
13.雲南市【須我奥宮】

奥出雲
14.【伊賀多気】
15.【新宮神社】
16.【船通山登山】

 

出雲の後は、

日本海側から長野を抜けて中央道で東京方面に帰るので途中立寄りで

京都府
17.安井金毘羅宮、

石川県
18.尾山神社、
19.櫛田神社、
20.瀬織津姫神社、
21.白山姫神社

富山県
22.櫛田神社
23.射水神社
24.多気神社

新潟県
25.天津神社・奴奈川神社

長野県
26.仁科神明宮
27.穂高神社
28.四柱神社
29.大宮五十鈴神社
30.諏訪大社


全部で30社を巡る予定。

 

ちょっとした弾丸ツアーだが、土日だけでは周りきれないので2日休んで
4日間で巡る(🙄登山が二つ三つあるようですけど、、)

多分、周れるでしょう😂

 

😌いつもこんな感じで、もう日本を何周してるか分からないが、

長距離移動で🛸🛸🛸ルートインホテルが定番になってしまった。

私はお酒を飲まないので夜ホテルで、晩酌するということはなく

朝6時から日が傾く夕方6時ぐらいまでお参りし

6時から午前0時までは、次の目的地への移動時間に使っている。

😅案件という訳ではないですが、、

マストになっている利便性だけ綴ります😌

ルートインホテルは駐車場有りで全国にあり、

インターの近くそして24時チェックイン

大浴場は深夜2時まで入れるというのがありたい。

駅前のルートインは駐車場や大浴場が無いところがあり残念だが、

それでも朝食付サービスも含めて全国どこでも安定のサービスで

寝心地に当たり外れがないところが助かってる。🙏😌

 

それにしても、、もはや🙄海外旅行なみの移動距離かもしれない😅

 

今日はちょっと疲れた🫠🌌💤

午前0時30分チェックイン🌃

 


スサノオⅧ.「津波ライン」宮城県〜岩手県

2022-07-05 | スサノオ

今回の週末は、東北の津波ラインのスサノオさまを周ってきた。

東日本大震災の津波で、スサノオを祭る神社はみな被災を受けなかった事から、

災害時に安全な場所に祭られていたことが明らかになった。

宮城県から岩手県沿岸の『八坂神社』『八重垣神社』『八雲神社』『熊野神社』

などスサノオ様が祭られている沿岸部の神社を周る旅。

 

【八重垣神社】宮城県山元町高瀬


創建 807年
ご祭神 神速素戔嗚命

1409年に藤波尭雄が、伊勢神宮に詣て神祇官より素盞鳴尊の神璽を頂いてきたという由緒がある。

 

鳥居


11年前の津波では、スサノオさまを祭る神社は被災することが無かった。
一番多く被災したのは、天照大神を祭る神社だったという。

スサノオ様を祭る神社は、津波の到達しないギリギリの場所に祭られていて、
過去、貞観津波(約千二百年前)、慶長津波(約400年前)の巨大津波を体験した先祖の方々はそれを標すため、

後世へとスサノオさまを祭る神社を目印に残してくれていた。


ただひとつ、、


こちら亘理郡山元町は平地が広く海岸から高地までかなり距離があり、実はスサノオさまを祭る神社の中で唯一、津波被害を受けた神社だった。

海沿いに延々と田園風景が広がる。

高瀬という地名どおりこのエリアの中では高い場所だったようで、正面からの津波は免れた。

しかし、両側の低地から水が襲ってきて被害を受けてしまったという。

広い平野の中でも、水害を回避する可能性がある場所を選らんで祭られていた事が偲ばれる。

 

以前、山元町の知人が
名物の『はらこ飯』を食べながら後日譚を話してくれた事があった。


スサノオを祭る神社が、

全てぎりぎり津波が到達しない場所に祭られていた


「スサノオの津波ライン」が知られる中で、

唯一被災した神社があった山元町だが、

二年後に、

その時に流されてしまった神輿が流れつき戻ってきて、涙したという。

 

スサノオ様を祭ったご先祖さまと、

山元町との繋がりを感じずにはいられない神威に震えた。

 

復興した八重垣神社は、全国の方々の協力による植樹で大切に囲われていた。


※八重垣(=八重に囲い大切に守る)

スサノオ様が、詠んだ我国最初の和歌
『八雲立つ 出雲八重垣妻籠に
八重垣つくるその八重垣を』

社殿は6年半かけて再建された。

今年も、7月末に神輿を海の中まで担いでいく例祭が行なわれるという。



【八雲神社】亘理町逢隈牛袋天王

創建807年 坂上田村麻呂の創建

牛頭天王社といい、明治の神仏分離令で八雲神社となり『神速須佐之男命』を祭る。

 

他の、スサノオ様の津波ラインの神社も周ってみたが、

本当にここが?!と、、思うほど

平坦な場所、海岸線に近い場所に祀られていた。

津波の被災エリアに近い場所で、よく安全な場所があったなと驚かされる。

 

しかし、ぎりぎり被災を免れていた訳で、

避難場所としてのスサノオ様の神社の在り様にただただ、感心した。

 

山本町・亘理のこの二社に続き、宮城県・岩手県を周らせてもらった。

津波ラインの話題となった、東京工業大学大学院の論文

東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究

で挙げられていたスサノオ様を祭る神社を巡る旅。

 

①宮城県仙台市若林区今泉【八坂神社】

②岩手県大船渡市大船渡町猪頭【八坂神社、熊野神社、加茂神社】

⓷岩手県大船渡市赤崎町跡浜【八坂神社】

④岩手県大船渡市末崎町双六【八坂神社】

⑤岩手県陸前高田市気仙町【八坂神社】

 

 

【八坂神社】仙台市若林区今泉

住宅街の中にある小さな神社

 

 

 

隣にある観音堂と春日社

 

『八坂神社』だか、拝殿には「熊野神社」「八坂神社」とが掲げられていた。

今泉城跡とあり、かつては交通や地政的な要衝の地であったことが伺える。

それにしても、、ここが?と驚くほど平地に祭られていた。

 

【八坂神社、加茂神社、熊野神社】岩手県大船渡市大船渡町

中央の加茂神社の左右に、八坂神社と熊野神社が鎮座する。

 

 

加茂神社の向かって右に祭られている

『八坂神社』

 

『熊野神社』

 

熊野神社からの海

 

湾に近い高台に祭られていた。

 

岩手県は熊野神社が多い。

北の都『奥州平泉』の藤原氏によって熊野信仰は更に拓かれた。



 

 

【八坂神社】岩手県大船渡市赤崎町跡浜

 

 

 

狛犬さんが、、

黄色い布を使い表情が豊かでした。

 

地元の方のお話しでは、神社の石段の下まで水没してしまったという。内陸部でも湾岸部でも、本当に全て

「これより高いところへ」と言うギリギリのラインに祭られていた様子だ。

 

【八坂神社】岩手県陸前高田市気仙町双六

 

 

 

 

 

 

【八坂神社】岩手県陸前高田市気仙町

 

景勝地 『碁石海岸』の近く、海辺の高台に鎮座されている。

 

 

 

 

 

 

 

スサノオ様を祭る神社は

熊野神社(熊野系
八坂神社(祇園系

八雲神社、八重垣神社、須賀神社など出雲系の神社が

沿岸部に祭られていた。

 

河川流域に比較的多い、「氷川神社」は河に祭られるスサノオ様だけあってか全くなかった。

スサノオ様が鎮座する神社が津波の被災を免れたのは、

過去、津波を経験したご先祖さま達が、

回避しうる場所にあえて祭っていたからだが、

他には、八幡様も多くが津波の被災を免れた。

 

一方で、稲荷神社は被災が多かったという。

 

ご祭神は、稲倉魂命や豊受大御神など
稲作農業や殖産に関わる神様で、
生活に密接した存在だけに、生活の場であれば必ず何処にでも祭られていて
日本一多い神社だ。

 

生活の場の稲荷神社と

避難場所のスサノオと

神様のご神徳の特徴による空間的配置がされていたことがうかがえる。

最も、津波の被災を受けたのは天照大神を祭った神社だったという事だが、

国家祭祀の神様だけに、鎮座地も含めてこうした庶民生活とは離れた存在であったからという事もあるかもしれない。

が、

何故、天照大神を祭る神社が最も津波被災を受けてしまったかという、
空間配置や地域性のことよりも、、

何よりも、天照大神をお祭りする


【五十鈴神社】が多いことに驚かされた😳

宮城県石巻を中心に、岩手県陸前高田市まで沿岸部に集中して祭られている。

天照大神を祭るのは、

『神明社』や『神宮』が多く、

『神社』として祭っている五十鈴神社はどちらかというとマイノリティだ。

たまに見かけると珍しいと感じるが、

こんなに沢山まとまって鎮座されているのはびっくり珍しい、、😮

(もしかすると、五十鈴神社の密度日本一のエリアかもしれない🤔)

 

話しはそれますが、「標」という地名は津波がきたことを標す意味でつけられていた地名だが、その地名が変えられてしまったり原発が造られたりしてしまった事は残念という他ない。現代の私達が活かせなければ、先人たちの苦労も水の泡だ。

 

地域にとっての神社は、信仰の場・祭祀の場というだけではなく、

時代を超えてコミュニティに存在してきた無類の価値がある。

 

現代でも都市計画デザインに求められる様な

永続性、公共性、環境性、そして景観も全て兼ね備えている。

神社には杜があり、集会所があり、保育園や幼稚園があり、そして消防団があり、お祭りがあり、

地域の人々の交流や危機回避、生活や文化と密接した関係の中に存在している。

 

津波の被災は無かったものの、地震により倒壊した神社もあった。

 

論文では、

避難所として公共的役割を担っていた神社などが、政教分離の考えから公的支援を受けることができないという問題が指摘されていた。

 

1000年以上の長期的な時間軸から自然災害の歴史を伝え、

かつ地域の防災拠点として機能する、その神社空間を維持し

地域マネジメントを実施する上で

どのようにその意味を共有していくか、

『神社空間が大規模自然災害のリスクマネジメントにおいて重要な意味を持つのは、祭事などを通して地域の人々の意識と記憶に深く根ざす可能性があるからである。

今後は神社などの宗教空間をどのように位置付けていくかということを検討しなければならない。

伝統的にコミュニティの中心に位置し地域社会の精神的支柱となってきた神社空間を地域の重要な共有資源として捉え直すことが求められている』

と、結ばれていた。

 

学術的だが、丁寧に言葉を選らんで表現されている様で、

地域の神社の様子や歴史が浮かび上がり、偏見の無い

その抽出の見事さに敬服した。😮🙏

 

 

私は、被災地に行くと或いは画像を見ただけで、涙が止まらなくなることがある。悲しみが伝わってくる様で、、


(エンパスか😔)

福島に白鳥監督の『蘇生Ⅱ』を観にゆくというツアーに行った時は、上映中ずっと号泣していてスクリーンは殆ど見えなかった。


今回はそれほどに泣かずにいられた。

「以前とは、変わりました」

と言う、地元の方の言葉には

悲しみをこえてきた思いも

感じた。

また今度、

地域の人々と共にある


スサノオ様をお参りしてみたい。

その土地その土地の人々と、

スサノオ様の神話は続いている。

 

 


△▼△▼△▼△▼△▼△

こうして、ブログで神社巡りを沢山書いていますが全くの無宗教で😅🙏

特定の神道や仏教を信仰していることはありません。

しかし神社、或いは神様には、


教義や信仰以前に深い繋がりがある気がする。


私には、

祖父が二人いて(当たり前だ😅)

一人は、宮大工さん
一人は、的屋さん、、

往時あった事はないが、祖父どちらも
神社に関わりがある仕事をしていた様だ。

神社には、本当に多様な繋がりがある。

初詣やお祭りに行ったことの無い人はいないと思うが、その様に
当たり前すぎて逆に忘れてしまっている繋がりを思い出させて貰えた。

 

✨聖なる国 日本 と神社⛩️✨

来週は、いよいよ出雲のスサノオへ⛩️

 

行けるのか?!😂多動人の私は、よく動く、、🛸


スサノオⅦ.長崎県対馬【島大国魂神社】ジェネシス

2022-06-28 | スサノオ

長崎県対馬  スサノオ様【六社巡り】

1.島大國魂神社 (最北)
2.八幡神社【宇努刀神社】(中南部)
3.曽根崎神社(北部)
4.乙宮神社 (中南部)
5.岩楯神社 (北)
6.木根神社 (南)

その他、

⛩️島大國魂御子神社  ⛩️那須加美ノ金子神社

スサノオ様由縁の神社を周る。入り組んだ道が南北に延々と続く島・・・

 

【島大國魂神社】長崎県津島市上対馬豊409


  
前回投稿した『天王祭』で知られる愛知県の津島神社は、対馬からスサノオ様の来臨という由緒があると知り、長崎県対馬に来てみた。

江戸時代、長崎県【対馬】は、【津島】だったらしい。

 

ご祭神 須佐之男命 狭手依姫

狭手依姫は、イザナキ・イザナミの国生みで生まれた『津島』(対馬)の神。

上古では、対馬の最初の国司。

 

 

須佐之男さまは、出雲族の姫でご妻神の櫛稲田姫と共に祭られていることが多いですが、

対馬では須佐之男の御子・五十猛、大己貴、親子で祀られている。

(若宮神社 ご祭神 五十猛命)

 

スサノオと五十猛命・大己貴命が、韓国のソシモリに渡る為の拠点『行宮』の跡地に祭られている神社。

かつては神籬、磐境で、禁足地(立入り禁止)とされ、こちらがスサノオさまを祭った最初の祠だったとのこと。

 

 

【宇努刀神社】対馬市厳原町中村645-1

宇努刀神社(=うとな神社)と読む。(読めない😂
対馬國一之宮【八幡神社】の拝殿の並びにある。

向かって右の社殿が八幡神社

中央が宇努刀神社スサノオ様を祭り

向かって左の社殿が天神社で小西マリア(小西行長の姫)を合祀している。

神功皇后が新羅征伐の後、『島大国魂神社』のスサノオ様を分詞して、

自らこちらに祭ったという。

 

宇努刀神社 拝殿

隣にある八幡神社は、対馬ノ国一宮(一宮=そのエリアで一番の社格の神社)であり、かつては『八幡神社下社』といわれ、北に50 kmほど 行った『海神神社』が八幡神社上社であり、現在も両社ともに対馬ノ国一宮となっている。

 

駐車場のヤマネコならぬ、

シマネコのさくらちゃん。

対馬ヤマネコには滅多に出会えないので「シマネコ」と呼んで親しんでるらしい、、

 

参拝者の方は駐車場無料✨⛩️

 

 

【曽根崎神社】
ご祭神 須佐之男命

一見すると何処にでもある、島神社・海神社のようだが、こちらは海に続く鳥居の先に石塔が祭られている。

 

地域の方々が総出で一帯の草刈をしていた。

横浜からお参りにきたと話すと、海側の鳥居を出て右に行くと『石塔』があるよと親切に教えてくれた。

4つの塔、

スサノオ様とご妻神様、御子の五十猛命と大己貴命に見えてくる。

 

茂木浜ビーチ

 

 

【乙宮神社】対馬市厳原南室209

島の最北端のスサノオ様『島大国魂神社』からの分社。

 

『乙宮神社』は空港から一番近いスサノオ様⛩️✨


ご祭神 姫神さま(玉依姫)を祭る。

拝殿の脇の摂社にひっそりと島大國魂神社があり、小さな社に

分祀されたスサノオ様が祭られている。

かわいい、

 

 

【岩楯神社】
ご祭神 須佐之男命
五十猛命、蛭子(事代主)


創建 不明。スサノオが韓国から戻った際の寄港地だったのが由縁。

弥生時代後期の古墳に祭られてる神社。

 

朝鮮半島との繋がりを示す出土品と共に、スサノオの韓国からの寄港地という由来が、韓国に一番近い島である対馬らしい。

近くにある韓国展望台からは、空が済んだ日には韓国の夜景が見えるとのこと。

韓国の夜景🌌

『韓国展望台』

対馬から韓国まで49.5㌔ 博多港まで130㌔。😮

全長80㌔の島ですが、リアス式海岸の細かく入りくんだ海岸線は915㌔もあり、

まさに津(=入江・湾)の島だ。道路での移動は南北200Kmくらい?

全て一般道😅

 

 

【木根神社】対馬市厳原町安神545

更に南へいった所。小さな海水浴場の脇にある。カーナビだとトンネルに誘導されてしまうが、トンネルを出てクリーンセンターへ折り曲がらないと行けない😅海に向かう道、けっこう探してしまった、、

 

 

スサノオ様が韓国へ渡る時、御子・五十猛命、大己貴命とこちらへ立寄ったのが起源という。スサノオが船着き場に使ったプライベートビーチといった感じだ⛵🛶

 

 

 

もともとは『磐境』『神籬』で(神の依代となる岩や木)社殿の無い古代祭祀の神社。

スサノオ様の古社と云われ、上古の風を感じる。

 

 

和歌山県熊野のスサノオ様が「紀ノ国」=「木の国」で、木の植樹の由来がある様に

こちら長崎県対馬のスサノオ様にも木の植樹に関わる伝承が残る。

 

 

【那須加美ノ金子神社】


『ご祭神』 大屋彦(五十猛)、大己貴命


スサノオが韓国(からくに)のソシモリの所に、五十猛と共に八十種の種を持っていったが、植樹はせず、全てこちらに持ち帰ってきたという伝承があり、立ち寄らせて頂いた。


対馬の須佐之男様は、韓国との往来を由緒とする神社ばかりで、

海神スサノオ様らしいエピソードに触れられる。


全て漁港に祭られていて津(=港湾)の形を見るに上古より船着き場であったことが伺えた。

 

 

 

【島大國魂御子神社】対馬市上県町佐須奈乙170


若宮神社(邪祖師神社)でスサノオの御子・五十猛命を祭り、

こちらの島大國魂『御子神社』でスサノオの御子・大己貴命を祭る。

 

対馬では、素戔嗚でなく「須佐之男」の表記が多いが、須や佐がつく地名も多い。

すると

遂にサスナオ(佐須奈乙)という地名が登場。😂☝️

(単なる偶然ですが…😅スサノオ寄せている)

 

対馬のスサノオ様は、
御子・五十猛命大己貴命と祭られている神社ばかりで、

津島神社や八坂神社など本州の神社にみられる様な『牛頭天王』は祭られていない。😑

創建は、全て仏教伝来以前の古い神社で、まだ拝殿や本殿など『社』が築かれるより前の時代、

古代神道の、
磐境(岩くら)
神籬(ひもろ木)
神奈備山(ピラミッド型の三角山)など

木・岩・山を神の依り代として祭っていた露天祭祀の時代からの由緒がある古い神社が多い。

しかし『牛頭天王』さまはいないが、神仏習合の名残は残り、愛知県や岐阜県の神社にありがちな

お寺でなく神社なのに、寺院の様にロウソクを灯す燭台が本堂(本殿)の前に置かれている。🕯️😅

これだけ仏教色が強いのに仏教の神『牛頭天王』がいないのが不思議だった。🤔

 

そして、スサノオさまは全て漁港の近くに祭られていて、

それぞれスサノオが韓国との往来したことを証す由来があるのが興味深い。

 

まとめ

一通り対馬のスサノオ様を周ってみたが、愛知県の津島神社との繋がりはあまり感じられなかった。

韓国(からくに)=新羅のソシモリとの繋がりが多く、

 

ソシモリは高麗雅楽として残り、スサノオが五十猛と出雲の鳥上之峰に来たという話だが、

唯一、長崎県【対馬】と愛知県【津島】の繋がりを示すのが、この新羅のソシモリであり、

津島神社の居森社から熱田神宮に勧請された摂社が、ソシモリ神社ということだ。😌

(とび石づたいな繋がり😂)

 

※韓国のソシモリ(→ソウル、ソラボル等)

、、、

果たして🤔語源を何処に求めるか?ですが、

ソシモリ → ウシモリ(牛頭)

とゆー考え方では、

モリは韓国で、首長の意味であり

イモリ(居森社)だと首長が居る社な訳で

そこからソシモリを勧請したで

繋がると思いますが、、😵

😵結局、韓国の牛頭山由来てことに?😅

この際、韓国まで行ってみるべきか😂、、金スロー

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

しかし、、、それにしても

😅対馬の神社巡りは、場所探しに本当に苦労した。道のウネリもそうだが、

 

グーグルマップは電波入らず(ソフトバンク)、😅


カーナビは誤差があり山や海の中走ってたり(トヨタ車標準装備carrozzeria)、

着いたら神社の名前がマップと違うなのど、、💦

額ごとに違う社名が掲げられてる。

 

『島大國魂神社』なのに那祖師神社💦

正面鳥居⛩️横の看板には『若宮神社』の五十猛命の説明が、

鳥居の扁額は『那祖師神社』

拝殿の額は『那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社』とあり、

拝殿の中に入ると額に【島大國魂神社】と高々と掲げられていて、初めて

「あ」やはりここで良いのか😮と。

 

『島大國魂神社』ではなく、地元の方は元々の社名『那祖師神社』と呼んでるそうだ。

『島大國魂神社』の旧鎮座地は不通浜(とおらずの浜)という先にある白水山に祭られていたそうだが、禁足地で「入ると大風が吹く・災害が起こる・腹痛になる・命を落とす」などの伝承があり、

近づくことは許されず遥拝所から拝むことをしていた。

今は、那祖師神社に遷されていて「若宮神社」と共に三社が合祀されてます。

【島大國魂神社】
ご祭神 狹手依姫 スサノオ(東崎の白水山より)

【那祖師神社】
ご祭神 スサノオ 曽尸茂梨(ソシモリ)

【若宮神社】
ご祭神 五十猛命(東方1キロの海辺より)

 

全国各地を周っていて、いつもスマホのグーグルナビで目的地に向かい、

近づいたらカーナビを頼りに到着するということをしています。😌

と、いうのはグーグルのリアルタイム情報はカーナビより優れてますが、

目的地の精度が「神社巡り」に限っては極端に落ちるからです。

精度が落ちるというよりマニアック過ぎるというべきか、、

 

時々、古いGHQ(連合国日本占領司令部)の神社マップデータを使っているのでは?😅😅😅

と、思ってしまいます。マジか?!😂

 

※太平洋戦争後、GHQの政策で

「神社を沢山祭ってはいけない」とされ、

日本各地の地方の神社の多くが合祀され、一か所にまとめられた。

五所神社、十二所神社など、まとめた数を社名とするか、あるいは20社近い郷社を一まとめにして、その地方の地名をつけた○○神社などに、変えられていった。😔

こうした神社の合祀は、明治政府の一村一社制でも行なわれてきた。

廃仏、神仏習合、神仏分離からGHQの政策まで

私たちは、政治の歴史を信仰の歴史として知る機会が多い。

 

○○と信じられた、○○と考えられた、

等と思想や宗教現象の変化で語られることが多く

『信じさせた』『考えさせた』側の、

信仰を利用した政治的な宗教政策の意図を学ぶ機会は少ない。

Googleマップ上に、青ピンと赤ピンで表される同じ名称の神社からは

政治的な歴史だけでなく、民衆の信仰の変化も含めて

信仰の歴史が

不思議と感じとれる時がある。

 

 

今回も遷祀されていて、あるはずの無い場所に『島大國魂神社』がグーグルマップ上に出て、😳

うっかり禁足地だったとは知らずに不通浜を通って向かってしまった。

「見聞きしたことは話してはならない」というタブーがあるそうで、これ以上は書かない。

 

対馬では、禁足地など普段お参りしている神社とは明らかに違う場所があり、

もっと神経を研ぎ澄ましていけばよかったと、行き過ぎに後悔しました。

😔🙏⛩️

 

遥か古代、まだ日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった時代。

國クニは島単位で存在している小国が多かったが、朝鮮半島南端から九州北端には同一の製鉄文化圏が存在し、海峡文化を形成していた。

須佐之男の時代以降、ニニギや神武が登場し日本列島でヤマトが起こり、やがて国が成熟すると共に、日本列島と朝鮮半島の間の国境も成熟していった。

(新羅が任那日本府を領有して以降)

 

ヤマト・ジェネシス(創成期)

 

上古の昔、スサノオ様と、御子・五十猛命、大己貴命、親子三人の

新羅往来の伝承の残る島。

 

まだ日本神話で神話化される以前、原初の

人として生きた時代のスサノオ様を感じる聖地✨

 

日本の神々は、

ブッタ、空海、モーゼ、キリストのように、

元は人として生きた方が亡くなられた後、影響を受けた人々や子孫の方々によって神として祭られる存在です。

※新井白石談😌


(西洋人が考え出した「唯一全知全能の神ヲシンジナサーイ…アガメナサ〜イ」
とゆ〜神とは異なりますのでご注意下さい😅☝️)

時代が遡るほどに、神々は神話化されていきますが、

創作神話の時代よりもっと前のレガシーに出会えると


人として生きたジェネシスも微かに感じることができます😌🙏

 

対馬は、もっと足をはこんで感じてみたいです😌

 

※見出し画像と最後の画像は和多津美神社

豊玉姫を祭る✨⛩️日本神話の故郷


スサノオⅥ.愛知県『津島神社』建速須佐之男命

2022-06-23 | スサノオ

【津島神社】愛知県津島市神明町1

 

ご祭神 建速須佐之男命(タケハヤ スサノオのミコト)

ご相神 大穴牟遅命(オオアナムチ)

この日は、あいにく雨で画像にも白い筋が映ってしまいました。

 

 

全国3000社の津島神社の総社。もとは『日本の総社』とも。

天王さまの尊称で牛頭天王を祭る津島「天王祭」は、日本三大川祭りのひとつで、国の重要無形文化財・ユネスコ文化遺産に登録されている。

 

豊臣秀吉寄進の楼門(国重要文化財)

津島神社は創建1500年だけあって、在郷の神社の合祀や遷祀を幾重にも歴てきた歴史があり、それぞれを残し、スサノオ様は本殿とは別に境内・別宮に須佐之男命を沢山祭っていて、須佐之男六社巡りというのができる。

【本殿、荒御魂社、柏樹社、和御魂社、居森社、疹社】

私はなんとなくだが、須佐之男命という表記が、素戔嗚尊より読みやすくて好きだ。

漢字の意味付けが成熟する前の古代日本では、借字(当字)はありがちだが、「素戔嗚尊」だと一瞬

(誰??)、となっしまう😅『洲崎ノ王』=スサノオならば分かり易い。

須佐之男だと、助けを差し伸べた男の意味になるので

日本神話で出雲族の姫を助けたスサノオっぽい。

 

✨日本の神様には4つの神性『和魂、荒魂、奇魂、幸魂』があり、

スサノオ様のその4つの側面を祭られている。

和魂『平和な動き』 荒魂『勇猛な動き』

奇魂『不思議な動き』幸魂『幸せな動き』

 

 

スサノオ様がご来臨した【居森社】

 

別宮『大日霎貴命』

 

 

大日霎貴命は天照大神の別称とされていますが、こちらでは天照大神とは別にお祭りされてました。

 

 

 

【創建】西暦540年 対馬よりここ津島神社の居森社にスサノオ様が御来臨されたのが始まりという。

 

 

長崎県対馬は、江戸時代までは「津島」だったらしい。

1500年前のこと、朝鮮半島と日本列島の国境の島から遥か1000㌔近く離れたこの場所に、スサノオ様は

何故「ご来臨」されたのだろうか? 

 

興味津々、というよりこんな由緒を知ってしまったら、対馬のスサノオ様

『島大國魂神社』にも行きたくなるではないか・・・😅

対馬は、スサノオが朝鮮半島と日本列島を行き来した拠点で、スサノオが御子・大牟遅命と五十猛命を連れてやってたという伝承もあり、またスサノオ様の知られざる一面に出会えるかもしれない。

 

(行ってみたい😂⛩️☝️)

 

ここからまた、古代ミステリーロマンの天武ファン✨

として、長い文を加筆したいと思います。(また天武か😌)


ですが、その前に、

今回はスピリチュアル系っぽいエピソードを少し✨

 

今回、津島神社に行った時のこと、、


雨が降ってました⛩️☔

私は御朱印集はしていなくて、

『御札』(大麻)を買っている。

 

いつものように御札を買うつもりでいたのだけど、

お参りする前に、先に社務所に寄って御札を買えと言う(誰が?😂)

(いや、先にまずお参りなのでは?)

「先に御札を」と

(誰?🤣☝️)

 

ホンマかいな?と、お参りの前に手前の社務所で買うことにしたが、

「1400円のお納めです」👰

おろ?だいたい1000円くらいなので
ちょっと高かい😅

雨も降ってたし、財布からいちいちお賽銭出すのも面倒だったので、

この時は財布は持たずに

ポケットに御札代の1000円札だけ入れて、後は小銭をじゃらじゃらと持っていた。

「細かくてすいません」と、
なんとか1400円はあったが、

お賽銭する小銭はもうほとんど残らなかった💦

もし、先にお参りしてたら御札買えなかったかも、、😳

4時ギリギリだったので、車にお金取りにいったら多分社務所も閉まってたし、

😳なるほど~そゆこと?!

「教えてくれてありがとう!🙏」
(誰に?😂)

しかし境内にはたくさんスサノオ様が祀られてて、

これからその、スサノオ6社巡りというのをしなければならない😑残りの小銭で足りるのか?

とポケットに手を突っ込んだらナント

ちょうど60円あった😳

「さすがです!ありがとうございます!」(誰に?)

鳥居をくぐったところ

左側にひっそりと猿田彦様が祀られていた。

導きの神様✨⛩️

🙏ありがとうございました。

スサノオ様を無事に神棚にお迎えすることが出来ました🙏✨

 

 

と、いう訳で(どんな訳だ?)LCCのチケットが取れたので、

今週末は、長崎県対馬🚀へ行ってきます。😂☝️

なかなか出雲へ辿りつけませんが、

スサノオ様の旅は周るほどに情報や由緒がとびこんできて

謎が深まり(今日は牛島神社の話しが😮⛩️)

好奇心のあまり、次の目的地へいざなわれてしまいます。😌

 

長文ですが、興味のある方はお読みください↓↓

 古代ミステリーロマン・天武系の終焉

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

【津島神社】と平安京遷都の時代

(それにしても何故?スサノオ様を巡る旅なのに度々、天武天皇の存在に触れるのだろうか、😑)

 

津島神社は、9世紀初頭に嵯峨天皇が『日本総社』という社号を授け、

『スサノオはすなわち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いしなり』

と詔したという謎めいた神社だ。

 

どこが謎めいてるかといえば、、

 

天皇家といえばスサノオの兄・天照大御神を祖神とする皇統であるのに、

本主(=本来の主・所有者)はスサノオであると天皇自らが名言し詔していることと、

 

津島神社を『日本総社』にしたこと。

最高神を天照大神とし、天照大神を祭る伊勢神宮を日本一の社格としてる神祗界からも、他のスサノオを祭っている神社からもさして反対はなかったと言うことだ。

 

もっとも、嵯峨天皇は勢い盛んな天皇だったので逆える者はいなかったのかもしれない。

 

伊予国の石鎚山の名僧の生まれ変わりだという嵯峨天皇は、兄の平城京のクーデターを坂上田村麻呂を派兵し鎮圧、空海に東寺を与え、警察機構・機密機関を拡充し(検非違使)、源氏の創設、藤原北家の起用など、強力な親政を誇った天皇だ。

 

平安京に遷都した父・桓武天皇の様な平安時代の創建者と言っても過言でない。

 

嵯峨天王は、かの794年ウグイス平安京に遷都をした桓武天王の第二王子。

平安時代の始まりとなる平安京遷都だが、只の引越しではなく「平安維新」「平安革命」といっても良いほど、仏教政権の時代が大きく転換した重要な時期だ。

 

桓武天皇と嵯峨天皇親子の時代について書いてみたい。

 

八代続いた天武天皇系の皇統が途絶え、

天智天皇系の皇統の時代になったのが桓武天皇の父・光仁天皇から。

 

「壬申の乱」で天智系の弘文天皇(大友王子)が天武系との決戦に敗れてから実に100年が経ち、

天武系の奈良の都で権力を握っていた【法王】僧・道教ら仏教勢力を天智系が退けた時代だ。

 

桓武天皇は王子の頃から、高齢の父・光仁天皇に代わり内政外交に努めていた。

即位後は、秦氏など天武系の完全排除に動く勢力と共に、政治や社会を揺るがすほどになってしまった平城京の仏教勢力から離れ、新たに長岡京(京都府長岡京市・大阪との県境)への遷都に着手する。

 

桓武天皇は百済王氏・秦氏、坂上田村麻呂・菅原道真など渡来系氏族を重用して新政に臨んだ。

しかし、長岡京の工事責任者や王族が次々と急逝し、淀川の洪水も災いして10年の歳月を費やしても長岡京は完成せず、断念して平城京に戻るしかないという状況になってしまった。

 

ここで第三の選択肢として、平安京への遷都が発案され、実行された。そして、

 

桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍にし東征を敢行し、平安京を造営し、

内外の二大事業の幕を引いて70歳の生涯を閉じた。

 

桓武天皇の跡、兄の平城天皇が3年ほど在位したことがあったが、病気により弟の嵯峨天皇へ譲位した。しかし、病気が快復すると弟の嵯峨天皇と対立し、再び「平城京」遷都を宣言し二つの朝廷と称されるほどの事態になったが、嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派兵し鎮圧、

ようやく世の中が落ち着き、新たな時代へと日本を押し出したのが「嵯峨天皇」だ。

遂に平安時代が始まった。

 

壬申の乱から100年、天武系の天皇は血統が途絶えていき、やがては仏教勢力の傀儡のように細くなっていき遂に皇統は天智系へと遷ったが、しかし、皇統は絶えても既得権勢力として奈良・平城京に盤踞していた仏教勢力が残存し、嵯峨天皇は是を刷新して、天智天皇系の平安時代が始まったことを示さなければならない時だった。

「空海」に始まる平安仏教の創成期。

神道においてもかつて天武天皇が天照大神を最高神として伊勢神宮の社格を日本一に押し上げたように、嵯峨天皇はスサノオを『皇国の主』とし、スサノオを祭る津島神社を日本一の社格にしようとしたのかもしれないが、

それにしても何故、、?京都八坂でもなく熊野でもなく、氷川でもなく、、津島だったのだろう?

方位学的な空間配置も考えられるが

謎、今の私には謎すぎるので、、、もう少し別の面から深掘りしてみたい

 

伊予国の石鎚山の名僧の生まれ変わりという嵯峨天皇と、空海、物部氏と縁のある四国に鍵がありそうな気もしますが、、嵯峨天皇と四国はひとまず置いて 

時を戻そう😔☝️

⛩️津島神社の創始の年、

長崎県の対馬から愛知県の津島に

スサノオが来臨したという

『540年はどんな時代?』

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇✨

ここから先は日本書紀・古事記は無いものと思って、雄大なアジア世界の物語としてお読みください🙏😌

ギアを入れ換え、巷説の世界観でいう西暦540年頃の東アジアの出来ごととして綴っていきます。

 

538年、

百済の聖王は北方の高句麗に敗れ、
南方のサビ城に都を移していた。

和国名は『欽明天皇』

百済・和国の二ヵ国を支配していた王だ。

聖王(欽明天皇)は、中央アジアのエフタル族の末裔である。

中央アジアの雄『エフタル族』は南アジアのインドに迫り、西アジアのペルシアを臣属させていたほどの強国だったが、

北アジアの突厥(現トルコ)と西アジアのペルシアが同盟を結んでからは挟撃され中央アジアから掃討された。

西暦500年代初頭、

国を失ってしまったエフタル族は、北アジアのステップロード(草原地帯)を抜けて、東アジアまで民族の大移動を敢行した。

当時はまだ大国が少なく、国も連合国としてしか定まってなかった東アジアに亡命してくる王族や小部族は多かったが、これほど壮強な大部族が渡来してきたことはかつてなく、

西暦500年代の日本列島と朝鮮半島は混乱の時代を迎えた。

 

日本列島に上陸したエフタル族は、越・尾張(福井県、岐阜県、愛知県)に蟠踞し東和を抑え、欽明天皇の父・継体天皇の代になり新羅を降して朝鮮半島に進出。

継体天皇は嫡子の欽明と、百済の手白香姫と婚姻を進め任那四郡をつけて百済皇太子とし、新羅を養子の武烈にまかせ513年に和国へ戻った。

そして、大和の王権を継ぎ、西の九州勢力と東の大和勢力との最終決戦に勝利し、528年
日本列島の東西を統一した。
(東北をのぞく)

その後、継体天皇は味方の裏切りにより倒れてしまい、後継争いが起きる。

百済では523年に継体天皇の嫡子(欽明)が、聖王として即位していた。

 

聖王は、538年に南のサビ城に都を遷した後、北の高句麗からの圧力からまるで逃げる様に百済の大臣だった木氏(後の蘇我氏)に奉戴され和国にやってきた。

和国の玉座を奪ってた安閑、宣化らを退け、

父・継体天皇の跡を継ぎ和国王に即位した。


そして、蘇我氏は王の側近として和国で権力をふるい始める。

それが、540年代だ。

この時期に、

朝鮮半島と日本列島を行き来し、エフタル族の降臨地である尾張に『来臨』するほどの貴人は

百済・和国、二国に君臨する

欽明天皇=百済名・聖王をおいて他にいない。

スサノオよりも欽明天皇の存在が浮かびあがってしまう。

(スサノオ様が実在したと思われる時代は1〜2世紀頃ですし😌☝️)

スサノオと欽明天皇(聖王)

神武天皇や大国主命のエピソードは何人かの人物が重ね合わされていると、
巷説の世界でいわれているのと同様に

或るいはスサノオ様も😳?

と、感じてしまう。

欽明天皇は
「秦氏を味方につければ天下は治められる」と、

夢のお告げを受けて秦氏に協力を依頼し、共に和国の経営に臨んだ。

そして日本初の戸口調査を行った。

桓武天皇ー嵯峨天皇の平安時代も秦氏の協力のもとに進められた。

津島神社の創始540年と、
津島神社が『日本の総社』となった
9世紀を結びつけるのは、和国の有力渡来氏族である秦氏だ。

桓武天皇も空海自身も秦氏系とされる。

古事記・日本書紀は奥が深いといわれるが、深掘りすると
神武天皇には三代の人物のエピソードを重ね合わせているらしい。

大国主命も然りだが、

スサノオも何人かの人物、しかも渡来系の人物だけを重ね合わせているのかもしれない。

エフタル族の末裔の欽明天皇、
高句麗系の天武天皇、、
新羅の牛頭山から来たという
牛頭天王、

そして、スサノオ

「素戔嗚尊」だと蔑字っぽい響きがある。

※蔑字=中国人が他国・他国人を卑しみワザと蔑む漢字を使うこと

和国→倭国(萎える国)

日巫女→卑弥呼(卑さを広く吐く)

 

素=地のままで取るに足らなくて

戔=少なくて

嗚=嘆く・ため息

 

単なる言葉遊びでしかないが、先ほどスサノオを「州先の王」と当て字してみたが、

上陸地の王という意味にもなり、

海原を治めたスサノオらしい、制海権のある王の称号らしくなる。

 


スサノオ様にも

大海原を越えてきた王たちのエピソードが、

何代か重ね合わされているのかもしれない。

嵯峨天皇が、スサノオを皇国の本主として、津島神社の社格を日本の総社に詔したのは、

そうした渡来系氏族の崇敬を集めようとしたのだろうか、、

ある意味、同化政策にもとれる。

ようとして知れず、

更に深掘りしていきたい、、


明後日は、いよいよスサノオ様が来臨してきたという長崎県津島へ向かいます。

(勧請、分祀、遷宮でなく来臨🤔)

😂なかなか出雲には辿りつけませんが💦


荒唐無稽な文章になってしまいましたが長文を読んで下さってありがとうございました🙏⛩️✨

 

 

 

 


スサノオⅤ.愛知県【熱田神宮】神剣・草薙剣

2022-06-20 | スサノオ

【熱田神宮】
天皇家三種の神器のうち日本武尊の神剣『草薙の剣』を御神体として祀る。

『日本武尊』ヤマトタケル由縁の神社。

 

 

皇室と関係がある為、神社ではなく神宮と号している。

熱田神宮に祭られる神剣『草薙の剣』は、日本武尊が草を薙ぎ火中を脱した由縁の神剣だが、

元々は須佐之男命が出雲で八岐大蛇を退治した時に尾から発見した『天叢雲の剣』(あまのむらくもの剣)

天皇家の神器に奉じられた後、日本武尊(ヤマトタケル)が授かり『草薙の剣』と呼ばれるようになった。

相神として、天照大神と須佐之男命

そして

日本武尊と、日本武尊に伴した尾張国造の兄妹を祭る。

 

 

愛知県津島市の『津島神社』へ向かう途中、つい寄ってしまった😌✨⛩️🙏

出雲まではなかなか辿り着きません。

 

今回は、日本神話のスサノオ様に纏わる『神剣』の投稿です。

 

 

東門からの参道は、深い緑のトンネルを行く。

門前の駐車場はなんなく停められた。⛩️

 

 

 

南門

名古屋といえば鶏🐔 立派な二羽が放し飼いになっていた。

人懐こい方の一羽。

😂女性客が来ると、トコトコ後をついて行く。おっさんの方には来ない😅

 


創建は『宮簀媛命』 尾張国造の姫で、日本武尊の妃。

日本武尊は東征で、妻・弟橘姫を失った。

日本武尊は帰途、尾張にお立ち寄りになり尾張氏の姫『宮簀媛』を妃として神剣・草薙剣を預け西へ向かったが、伊勢の能褒野(三重県)でお亡くなりになった。

宮簀媛命は、日本武尊を偲び夫より預けられていた神剣『草薙剣』をここ尾張熱田(愛知県)に祀ったのが熱田神宮の創祀という。


剣の以前の所有者である
須佐之男命と

剣を封じられた天皇家の祖神である
天照大御神とが

ともに祀られている。

 

 

 

参道や本殿の周りに摂社や、皇祖所縁の社が祭られている。

 

こころの小みちの奥に鎮座してる宮は、荒魂として祭られていますが、

剣を祭っているせいか、なんだか荒々しい熱田神宮の中では、

優し気なオススメの場所。

 

 

【須佐之男命】

 

 


【天火明の命】


尾張氏の祖神でニニギ命の兄弟(または親子?)⛩️✨

※=ニギハヤヒとの説もアリ🐜

 

 

神剣をご安置していたという土用殿

 

南門の横に鎮座する別宮「八剱神社」の大国主命

 

 

熱田大神が楊貴妃になっという伝承があり、由縁の清水

 

 

 

 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

 

天皇家の三種の神器とは
八尺瓊勾玉・八咫鏡・草薙剣で

📿皇居に八尺瓊勾玉

 

🧿伊勢神宮に八咫鏡

 

🗡️熱田神宮に草薙剣が安置されている。

らしい、、🤔

草薙剣は、正式な継承者である天皇でさえも見ることが禁じられていて、
過去、草薙剣を見てしまった熱田神宮宮司やその他の者等は流罪になりまたは病になり亡くなったと言う。

熱田神宮は、相神として共に天照大神も祭り、須佐之男命を主祭神として祭っている訳ではないが、

今回のスサノオ様を巡る旅は、

😳気がつけば、計らずとも

神剣のルートを巡る旅にもなっていた為、参拝させて頂いた。


スサノオの神剣『天叢雲剣』

高天原の政争に敗れ追放されたスサノオは、さすらい出雲にたどり着いた。

ここで出雲族を助け、八岐大蛇を退治してその姫である櫛稲田姫命と結ばれる。そして

八岐大蛇の尻尾(=斐伊川の上流)から、神剣『天叢雲剣』を見つけた。

斐伊川の上流、奥出雲は古くからタタラ場がある製鉄の地。

熊野の語源は『隈野』といい、奥まった野という意味らしく、スサノオの降臨地・奥出雲の八川はその名のとおり山深くにある高原。

出雲に熊野神社が祭られ、やがて熊野信仰は紀伊半島に遷座していくが、神剣『天叢雲剣』は天照大神(又は天孫・天皇家)へと奉じられることになる。

高倉下より神剣を受けた神武は熊野川を遡上し、八咫烏の道案内で奈良奥地へと進撃していき奈良盆地を征圧。大和(奈良盆地)で初代・神武天皇として即位する。

 

【天叢雲剣から草薙の剣へ🗡️】

大和王朝10代後、崇神天皇の時代〜

疫病が流行り世の中は荒廃していた。

『天皇家の神・天照大神と倭の神・大国魂を共に祭ったのが災い』

と、崇神天皇の娘・倭百襲姫に御神託があり、別々に祭ることになった。

 

やがて、大物主大神より子孫の大田根子に祭らせよとの宣託があり、その様にしたところ災いは治まった。

しかしその後も、天照大神を祭る為に崇神天皇の娘・豊鍬入姫が御杖となり

別の場所を探す旅に出て、各地を転々としていた。

 

丹後の国一之宮「元伊勢籠神社」など元伊勢と呼ばれる、神社が各所に残る。

 

豊鍬入姫命は、天照大神を祭る宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡っていたが、

天照大神を祭るに相応しい場所はついに見つからなかった。

 

豊鍬入姫命の代で鎮座する場所を定められなかったので、崇神天皇の孫、倭姫が跡を継ぎ遷座の旅を続け、26ヶ所を巡った果てに、

 

伊勢に天照大神を祭る遷座地を遇し、倭姫は伊勢神宮の初代斎宮となった。

神剣『天叢雲剣』も天照大神と共に旅をしてきたらしく、伊勢の倭姫の元にあった様だ。

倭姫の甥である日本武尊が東征に向かうことになった時、倭姫はこの神剣『天叢雲剣』を日本武尊に託した。

 

神剣『天叢雲剣』を振るい関東一円を降した帰途、日本武尊は焼津で火難に遭う。

その時に倭姫から授けられた

神剣『天叢雲剣』で草を薙ぎ払い、火打石で迎え火を起こし脱出した。勇者の剣は

この時より『天叢雲剣』から、草薙の剣と呼ばれるようになった。

そして、日本武尊の死後、草薙剣は熱田神宮に祀られ、

斯くして八岐大蛇を退治したスサノオの神剣は


長い長い悠久の旅を終え、現在まで鎮座されている。

 
 
 
が、、約四百年後に少し旅に出た様です🗡️
 
また古代ミステリーロマン的な視点から深堀りしてみたいと思います😌
長くなりますが、興味のある方はご覧下さい。🙏💦
 
 
 
△▼△▼△▼△▼△▼△
 
『古代日本、最大最後の動乱』と草薙剣🗡️
 
〜壬申の乱の時代 668-686年⚔️
 
社伝では日本武尊の妃・宮簀媛命が熱田神宮の創建となってるが、
 
日本書紀では、天武天皇の病が重くなり祟りを鎮めるために草薙剣を熱田に祭ったとされ、
 
二つのエピソードがあり、前者は古墳時代、後者は飛鳥時代、300年以上の隔たりがある。
 
これは、伝えるところでは
 
668年に外国の賊徒が境外に草薙剣を持ちだそうとした事件があり、暫く宮中にあったが、
 
686年、天武天皇が病になり熱田神宮へ戻ってきたという。
 
668年というと近江大津宮に天智天皇が遷った翌年のことで、
 
686年は飛鳥浄御原宮の天武天皇が亡くなった年だ。
 
686年に戻ったということは、その間は草薙の剣がどちらかの宮中にあったということだ。(668−686ばかりで目が😵)
 
672年、『壬申の乱』という天武系と天智系の決戦があった動乱の時代であり、
 
両天皇の間で、三種の神器の一つである草薙剣の争奪戦があったのかもしれない、、🤔
 
古代日本の最大最後の大戦である壬申の乱の時代とは、どういう時代か?
 
天智天皇系から天武天皇系へと皇統が変わる激動の時代、668〜686年について少し触れてみたい。
 
668年に朝鮮半島の大国・高句麗が唐に滅ぼされ、新羅や和国には高句麗からの亡命者が逃れてきた。
 
660年の百済滅亡時には大勢の百済人が亡命してきて、この頃の和国は政庁の3人に1人が百済人という状態であり、そこへ高句麗人の流入があった訳だ。
 
『草薙剣』を持ち出そうとした外国の賊徒とは、この亡命渡来人らを指しているのではないだろうか?
 
中大兄皇子と呼ばれた百済系の皇子が天智天皇に即位する前のこと
 
(大兄皇子とは=百済の皇太子の言い方☝️😌)
 
対立する大海人皇子(天武)に味方する新羅からは、中大兄皇子の天皇即位を阻止せんと27000人の兵が和国へ派兵され中大兄皇子側を威圧した。
 
一方、百済を滅ぼし支配していた唐の劉仁軌将軍は、高句麗系の大海人皇子に対抗し、朝鮮半島の唐軍からも兵を動かすそぶりを見せ和国に駐留する新羅軍を威圧した。
 
唐軍の劉仁軌は高句麗との決戦を控えていて、なんとしても和国の覇権を高句麗系の大海人皇子(天武)に渡すまいと奔走し、半島と列島の動乱勃発を抑え和解を行った。
 
唐の高宗皇帝でさえも、東アジア鎮定のため重要な国事である泰山の封禅の儀を延期した程だ。
 
斯くして、唐軍は高句麗との決戦ただ一点に集中し、668年に是を滅ぼした。
 
こうした国際的な東アジアの緊張の中で
中大兄皇子は、奈良から滋賀の
近江大津宮に遷都し、ようやく天智天皇として即位したのだ。
 
672年に天智天皇が崩御すると、後継を巡り天智系と天武系(大海人皇子)の決戦が勃発。=壬申の乱
 
大海人皇子側の勝利となり、大海人皇子は天武天皇に即位した。
 
 
草薙剣が、天智天皇の宮・滋賀の近江大津宮にあったとしたら
この後は、
奈良県、天武天皇の宮・飛鳥浄御原宮へ戻ったと思われる。
 
 
倭姫、日本武尊の時代は、神剣は奈良から三重県の伊勢へ遷り、日本武尊と共に東征を経て名古屋の熱田神宮に鎮座したが、
 
お遷りになる場所を探し初めた第10代崇神天皇から、第40代天武天皇まで
 
実に400年を歴て神剣が奈良へ戻ったことになる。
 
亡命地である和国においては
 
668年以降は、高句麗人も百済人同様に、唐に滅ぼされ国を持たない民族となっていた。
 
和国内でも高句麗系の天武天皇と、百済の天智系の遺臣の対立は続いていた。
 
天武天皇は病死とさているが、一説に天智天皇の姫を娶っていた為、その王子に暗殺されたという説もある。
 
(※毒殺暗殺は病死として伝えられることが多い😔)
 
伝えられるとおり、
 
686年「天武天皇の病が重くなり草薙神剣は熱田神宮に戻された」
 
という、事なかのかもしれない。

スサノオⅣ.東京・埼玉【武蔵三氷川】奥氷川神社と中氷川神社

2022-06-14 | スサノオ

【武蔵三氷川】

氷川神社・中氷川神社・奥氷川神社の三社を武蔵三氷川と言う。

スサノオⅢ.で上げた氷川神社に加筆する感じで、奥氷川神社と中氷川神社を少しだけUPしています。

『本宮』

氷川神社の総社、埼玉県さいたま市の氷川神社。

 

『奥宮』

約50キロ以上離れた、東京都奥多摩町氷川にある奥氷川神社。

 

『中宮』

二社の中間地点にある埼玉県所沢市の中氷川神社。

 

三社はほぼ直線に並び「神の通り道」と称される。

 

【奥氷川神社】奥多摩町氷川185

多摩川上流100㌔御岳山・雲取山の山間、奥多摩駅の近くに鎮座する。

 

ご祭神 須佐之男命・櫛名田姫

創建 ヤマトタケル

 

 

鎌倉時代の植樹ご神木「三本杉」

 

 

【中氷川神社】埼玉県所沢市三ケ島5丁目1691−1

創建 約二千年ほど前

ご祭神 素戔嗚命  

 

後にヤマトタケルが少彦名命・大己貴を共に祭った。

 

中氷川神社は二カ所あるが、古書に拠ればこちらが武蔵三氷川の中宮である中氷川神社らしい。

かつては中宮(長宮)等と呼ばれていたという。

 

しかし他の氷川神社と違い、こちらでは「須佐之男命」でなく「素戔嗚命」として祭っている。

たいして意味はないのかもしれないが、、🤔

 

 

しかも京都の八坂神社を勧請し、中氷川神社本殿と八坂神社のダブルで

素戔嗚命さまを祭っている。

境内に鎮座する八坂神社

 

アラハバキも祭っているのも興味深い。😳

 

 

【中氷川神社】埼玉県所沢市山口1849

 

もうひとつの中氷川神社から車で10分ほど。

こちらの中氷川神社は、奥宮・本宮と同様に須佐之男命さまと櫛名田姫さまを祭っている。

 

 

創建 ヤマトタケル

 

そしてこちらは、なんと😳

香川県の金刀比羅宮も祭っています。

 

仏教の神さまの神社ですが、

金刀比羅宮=インド象頭山のクンピーラ(金毘羅)さま=大国主命です。

 

それぞれ違いがあって、

二社ともに創建に関わっていたヤマトタケルの意図は分からないが

それぞれに祭る役割があったのだろうか…

 

下社・上社と分かれている訳でもなく、ひょっとすると中氷川神社も

二社とも同じ神社で差し渡し4キロの大きな宮だったのかもしれません。

😌⛩️☝️

 

 

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中氷川神社のある

所沢から足を延ばして寄ってみた【聖天宮】

埼玉県坂戸市にある中国の

道教の神様が祭られている台湾の神社

 

五千頭の龍が有名🐉圧巻です😮またいずれ✨

 

 

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奥氷川神社は多摩川と日原川、二つの川の合流地点を見下ろすように鎮座されていた。

氷川神社の氷川は、出雲の斐川(斐伊川)が由縁との伝承があるが、関東の氷川神社は多摩川流域や荒川流域など川沿いに祀られていることが多い。

 

川は蛇行して流れることから蛇に例えられ、支流・合流が多い川は氾濫が多く出雲の斐川は氾濫を繰り返した暴れ川で、西から東へ流れが変わるほど河川自体が大きく蛇行した。

斐川の上流の奥出雲はスサノオの降臨地で八川という地名があって、そのとおり支流が幾つか分かれている。

 

スサノオが退治した八岐大蛇とはこの川になぞられての事ではないかという説があり、八川は昔から製鉄が盛んでタタラ場があった事などからも、退治した後に「雨の村雲剣」を発見したという神話のストーリーとも重なる。

 

この説に依ればスサノオが八岐大蛇を退治したことは、八川を圧え斐川の荒れる流域を治める治水の神である側面も伺える。

氷川とは澄みやかな水という意味があるらしく、斐川から氷川になったのも荒れずに澄み渡る川であってとの願いがあったのかもしれない🤔

確かに川が大きく蛇行するあたりには氷川神社が多く祀られていたりする。

 

もう少し丁寧にスサノオ様への信仰の足跡を回ってみたくなった。

 

今週末は揖斐川・長良川と木曽川の流域沿いにある愛知県「津島神社」へ行ってきます。岐阜の八剣神社も、、😌⛩️

 

いつになったら出雲にたどり着くのだろうか・・・(*_*;

 


スサノオⅢ.埼玉県【氷川神社】須佐之男命と【女体神社】

2022-06-11 | スサノオ

【氷川神社】埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407

武蔵野国一之宮で、全国約280社の氷川神社の総社。

 

ご祭神 須佐之男命   創建 2000年前

出雲の国、杵築大社(出雲大社)を遷し、氷川神社の神号を賜ると伝わり、出雲の斐川が語源と云われる。

 

氷川神社より東南に8キロ、さいたま市緑区にある氷川女体神社に妻神の櫛稲田姫を祭っていて、氷川神社が【男体神社】であり、氷川女体神社と二社で武蔵野国一宮とのこと。

 

 

氷川神社と氷川女体神社の二社を結ぶライン上の真中にお二人の御子、大穴牟遅を祀る(大国主命)簸王子社の中山神社があり一直線に配置されている。

『氷川レイライン』と呼ばれるパワースポットだ。

 

夏至に氷川神社から陽が沈み、

冬至に氷川女躰神社に陽が登る。

 

拝殿

 

 

広い境内には、宗像神社、松尾神社、稲荷社など摂社が点在している。

 

【宗像神社】

天照大神とスサノオの誓約により生まれたという、スサノオの娘・宗像三女神を祭る。(多紀理姫、多岐都姫、市杵嶋姫)

 

 

 

 

【蛇の池】

日本神話

スサノオは高天原を追われ出雲に流れ着いた。そこで姫をヤマタノオロチに差し出さねばならず困っている出雲一族に出あう。スサノオは、ヤマタノオロチを酒に酔わせて討ちとり、出雲族の姫・櫛名田姫を無事に助け二人は結ばれた。

ヤマタノオロチ『八頭の蛇』の尻尾からは剣が出てきた。

『天の村曇の剣』といい、後に和国の天皇家に伝わり三種の神器のひとつなる神剣となる。ヤマトタケルが火難に遭った時、この神剣で前の草を薙ぎ払い生還してからは

『草薙の剣』と呼ばれる様になった。。

氷川神社の「蛇の池」は、スサノオが蛇(オロチ)を退治したという故事にちなみ名づけられたという。もともと水が沸き出ていたこの場所に神社を建立し、今でも水が沸いているという神聖なスポットだ。

(湧水地であり原始の氷川祭祀の対象で、霊験あらたかな泉を「氷川」と言うのでそれが社名となったという説もあり)

 

池の近くへは入れないが、拝所までも静謐さが漂う。

この辺りだけ異世界に入りこみ、切りはなされた別空間のように静かだ。

 

 

【氷川女体神社】さいたま市緑区宮本2-17-1

ご祭神 櫛稲田姫(スサノオの妻神)美穂津姫・大己貴命

 

氷川神社【男体神社】と氷川女体神社で、武蔵野国一之宮。

氷川女体神社の正面、参道側に進むと磐船祭祀遺跡があり、かつて御船祭りが行われていた頃は、4本の竹を立てその真ん中へ船で向かったという。

御船祭 → 磐船祭(江戸) → 祇園祭(昭和)→ 祇園磐船龍神祭(平成17年~)見沼の干拓後も、名や形を変えつつ祭祀は継承されてきたらしい。

 

氷川神女体社前の【宗像社】

こちらの先に、磐船祭りの遺跡がある。


氷川女体神社は武蔵国有数の古社で、見沼の谷にぽっこりとある古墳の様な小高い丘にあり、神社の所蔵品が多く「埼玉の正倉院」とも呼ばれているらしい。

中国道教の荒神信仰と結びついた。三寳荒神(仏、法、僧)と三宝荒神(火、土、水)のお札も売られていたので買ってきた。


『ひぬかん(火の神)』と言い台所に御安置して、沖縄では毎月15日になると祀っているお宅も多い。

 

 

氷川神社   主祭神 須佐之男命

氷川女体神社 御妻神 櫛稲田姫

二社で武蔵野国一之宮(一の宮=その地域で一番の社格の神社のこと)と云われている以上、夫婦相神をわざわざ別々の場所に祭っていたというよりも、もしかすると氷川レイラインはさいたま市大宮区という地名のとおり本当に、差し渡し8キロもある大きな宮だったのかもしれない。

古代でも九州の『伊都国』の様に25㌔区画の王都もあり、8㌔でも在りえなくはない…🤔

現在の氷川神社も参道の長さは日本一で、一の鳥居から2キロの参道が続いている長大なお宮だ。

 

平安末までは埼玉県あたりまで海が深く入り込み、沼や川も一帯に広がっていた。江戸時代に干拓もあり、現在は、加賀沼、印旛沼などが利根川周辺に残るのみ。

以前は上陸地に近い場所だったと思われ、見沼という沼があった場所に祭られている。

 

古代↓ 

まるで「関東が水没するとこうなります」というハザードマップの様だ😮

 

氷川神社系は、見沼への海(埼玉)
から多摩川の海(神奈川)の中継地点に鎮座されてる様です。

そして、香取海の方へ湾に沿って広く点在している。

現在の茨城と千葉、香取海は今は利根川という川になり、川の対岸には鹿島神宮と香取神宮が残り、かつては香取海を囲む州の崎であったと思われる場所には氷川神社が多くあり、日川という地名も残る。

 

氷川神社は海神・須佐之男命を祭る聖地✨

船魂様(女性神)との繋がりが色濃い。

 

次は、いよいよ出雲へ⛩️✨✨✨✨

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

多摩川沿いの川崎には女体神社があり、上流に馬絹神社(女体神社を合祀)があります。

女体神社は必ずしもスサノオ様の妻神「櫛稲田姫」を祭っている訳ではありません。しかし、船にかかわる女神様を祭っている様で、海神・スサノオとの繋がりも少し感じます。

 

【馬絹神社】

 

船魂様は女性神なので、女体神社が流域沿岸に祭られているのも頷ける。


今でも、東京湾を見守る様に千葉・神奈川沿岸にも観音さまが沢山祭られている。

荒波を超えていく船乗り達にとって、女神さまとは航海の安全を祈り感謝をする守護者だ。

季節と海流を知り、方角と夜空の運行を知り、どのような熟練者や大船や構造船であっても嵐と遭遇するかしないかの「運」だけが問題だった。

遥か水平線に目を凝らし、海と空の色の変化を発見した時には、既に台風回避は間に合わない。

僅かな風の匂い、湿気、温かさ、気圧など微妙な変化を五感で感じとり予測をし、どこかの小島を見つけてやり過ごすか、それでも安全とは言えず、

結局最後は祈るしかない。

船乗りの海の女神様への信仰は強い絆で結ばれている。

 

海の女神さまは、神功皇后や宗像三女神、月読、弟橘媛、媽祖、など様々で

海の氏族によって祭ってる神様は違いがありそうだが、系譜でいうと

女体神社が一番古いように思える。

 

船魂様

船魂様 猿田彦の化身と書かれているが漢服と両袖に両手を通した中国人の姿で描かれているのが印象的だ。

海の女神は、中国の海の女神・媽祖さまは弟橘媛と合祀されたり

弟橘媛さまは女体神社へ合祀されたりなど習合が繰り返されたようで、

今回のスサノオ様を巡る旅も、最初は中華街の媽祖さまと女体神社からがきっかけだっだ。

神社の習合の歴史は別として、大海原に命をかける男達は操船技術や船の性能がどんなに優れていても、結局は嵐に遭遇した時の【運】が全てを決める事を知っている。なので皆、洋の東西を問わず、どんな些細な縁起や祈りも、迷信せえも大切にする。遣唐使船の乗船者も、その返礼使の中国人も、どちらかの女神を排除するという事もなく、それぞれの女神に航海の安全の祈りを捧げていたのだろう。

 

川崎【女体神社】

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

日本神話の高天ヶ原で、スサノオは、天照大神とウケイを行ない宗像三女神を生み出した。しかしその後、乱行を行ない高天ヶ原を追放された。

スサノオは、さすらの身となり流浪し、やがて出雲に流れついた。

そこでヤマタノオロチに姫を差し出し隷属に悲しむ一族と出会い、これを退治し、姫である櫛名田姫と結ばれる。

やがて時が経ち、

大己貴命(大穴牟遅)がやってくると、絶対絶命の穴に追い込み試練を与えるが、スサノオの娘であるスセリ姫が裏でこれを助けた。

二人はスサノオから神器『十種宝』を盗み出し逃げる。スサノオはこれを追うが、諦め

『天をつく大きな社殿を造り、お前が大国主となれ!』

と、最後に言い放つ。

大穴牟遅は、その言葉どおり壮大な社殿を建立し、知恵者の少彦名命の協力を得て国造りを行ない【大国主】となった。


スサノオ様は数奇な運命を辿った人だ。

前半生が黒歴史で、後半生は別人の様な道を生きている。


(まるで波乱万丈な私の人生の様😅)

紀伊半島には、スサノオが来て木を植え『木の国』を開いたといった伝承が残る。この木の国=紀の国の誕生のエピソードは、紀元前に始皇帝の命令で徐福が日本列島にやってきて紀伊半島に上陸し、まだ日本にはなかった中国原産の梅や蜜柑などを植樹したという説と重なる。

スサノオが方方と関わりを持ったという伝承は幅広い。

スサノオの跡を継いで『大国主』となった大穴牟遅だが、最近は「大国主」とは固有の名称ではなく称号であり、
初代スサノオから、大国主の称号を受けた大穴牟遅や、大物主大神、何人かの存在の象徴であると見る向きが強い。

大物主、八千矛、葦原シコオ、宇都志国魂など多くの名を持ち、多くの妻と

70人の兄弟がいて、150人の子がいたという事を考えれば充分あり得る話しだと思う。

何より、古事記の系譜を見た方は誰もが『謎』につまづくと思うが、

スサノオの娘、多紀理姫、多岐都姫、スセリ姫を、

スサノオの六代孫の大国主命が娶っている事だ。

スサノオ三女神の末妹、市杵島姫は、

スサノオを高天原から追いやった天照大神の孫(或いはその義父)天火明命と結婚しているので、年代的にはなんとか収まる。

 

須佐之男命様の一族は、広く、そして何やら複雑だ。😵‍💫

 

 

【石上神社】氷川女体神社境内 

小さな祠だが氷川女体神社の境内に石上神社があった。石上神社は物部氏の氏神。

ご祭神は

熊野で、高倉下が神武一行を助けたとき献上した「布津御魂の剣」の

布津御魂が祭られている。

布留御魂は十種宝。紀伊半島のスサノオとの繋がりを感じる。

 

布津斯御魂は、出雲でスサノオが、八岐大蛇を退治した時の剣。

 

物部氏の「物」とは、武器・鉄器のことで、古代日本で、武器を扱う部族だったのが物部氏だ。

もののふ・ものものしい・もののけ等の語源)

 

氷川女体神社拝殿裏 もののけ道😑

 

物部氏の始祖は、饒速日尊(ニギハヤヒ)だ。

ニギハヤヒは、熊野で神武一行と敵対したアラハバキの姫を娶っていた。

しかし、

ニギハヤヒ=天火明命という説があるが、天火明命はスサノオの娘・市杵嶋姫を娶っているので、スサノオの義理の息子という事になる。それだとまた世代が合わなくなってしまう、🤪アラハバキと戦った神武はスサノオの5世代後の存在だ。

何れに

せよ、神武が熊野で奉じたという『十種宝』は、もともとはスサノオ→大国主命の手元に王の神器としてあったものなのだろう、、

スサノオ様だけでなく、周囲の神々も何やら謎が多く

暗示的な存在だ、、理解するのに深掘りするのは

まだまだ時間がかかりそう😌🙏

 

世異なる国 日本✨


スサノオⅡ.和歌山【熊野大社】熊野権現

2022-06-04 | スサノオ

熊野速玉大社・摂社「八咫烏神社」

日本神話で、神武天皇が東征で熊野へ上陸した時、道案内役になったという八咫烏(ヤタガラス)を祭る神社。


世界遺産熊野 

スサノオ様を祭る【熊野三山】
⛩️熊野本宮大社
⛩️熊野速玉大社
⛩️熊野那智大社

そして、熊野詣に行くための『熊野古道』が広範囲に広がり、日本初となる三県にまたがる世界遺産として、エリア一体が登録された。

熊野速玉大社神倉神社熊野本宮大社熊野那智大社玉置神社
神話とともに、UPしてます😌☝️長め

 

【熊野速玉大社】和歌山県新宮市新宮1

御祭神 熊野速玉大神

御配神 家津美御子(=素戔嗚命) 夫須美大神

 

『日本神話』神武の東征

西からやってきた初代天皇・神武は、河内から上陸したが敵に撃退された。

神武一行は河内からの進撃は諦め、海路より紀伊半島を周り込みここ熊野に上陸した。最初に降臨した神倉山には神倉神社が鎮座する。

当時、熊野速玉大社があった場所は海だった様で、後に『熊野速玉大社』が新宮として祭られたらしい。

 



全国にある熊野神社の総本宮とのこと。

 

 

 

熊野速玉大社の元宮は神倉神社であると云う、、

『神倉神社・ゴトビキ岩』🐸

 

熊野速玉大社から神倉神社は徒歩10分くらいなのだが、

頂上の拝殿までは心臓破りの石段が続く・・・😵膝にくる、、

お年寄りの方は、ゆっくり時間をかけて登っていた、

神武天皇より先に早くから降臨し紀伊半島を治めていた神々(ニギハヤヒ・ナガスネヒコ等)のうち「高倉下」が、高倉神社に祭られている。

高倉下(タカクラジ)は、紀伊半島に上陸後、熊の毒気に当てられて身動き出来なくなっていた神武一行のもとに現れ、神武に霊剣「布都御魂の剣」を渡しこれを助けた。

 

 

【熊野本宮大社】和歌山県田辺市本宮町本宮1110

ご祭神 家都御子大神(=素戔嗚尊)

御配神 熊野速玉大神・熊野夫須美大神

 

熊野本宮大社の跡地にある大鳥居


熊野に上陸した神武天皇は、高倉下の助けで力を盛り返した後、内陸地へ向った。途中、道に迷ってしまい、高御産巣日に使わされたという八咫烏(ヤタガラス)という三本足のカラスに出会った。そして、ヤタガラス(三足烏)は道案内役となり神武をここへ導いた。

 

熊野本宮大社跡の参道

 

拝殿跡

元々、熊野本宮大社が祭られていたが台風で流されてしまった為に移され、本殿跡地には祠が祭られている。

 

とても氣の良いところ。

向かい側の熊野本宮大社ほど混んでないので、跡地の方はのんびりと参拝できる。

 

こちらがメイン。↓今の熊野本宮大社

いつ来ても賑わっている。GW中だったが、駐車場はなんとか停めれた。

参道入口の三足カラスの旗。

ここ熊野本宮大社は熊野三山の中で最も古く、ヤタガラス(三足カラス)を掲げている。熊野は日本サッカー発祥の由縁があり、三足カラスはサッカー協会のシンボルにもなっている。

 

参道

 

三足カラスは1300年前に滅んだ高句麗の国章でもあり、神武天皇の道案内役となったヤタガラスも三足カラスなので、もしかすると高句麗の渡来人だったという事なのかもしれない。

(天孫族の神々は高天原から、日本に降臨したと神話にありますが、実は、高天原とは=高句麗の事という説もあります☝️)

句麗

孫族の

(聖地・中心地)?😅

神武がヤタガラスに導かれ、この地で十種の神器を奉じたのが由緒という。

 

熊野には、京都の八坂神社の様に素戔嗚尊(スサノオ)・牛頭天王を主祭神として祭ってる神社はない。

スサノオの別名であるという

家都御子大神(家津美御子命)ケツミコを祭っている。

 

熊野に坐す神様、証誠菩薩と家津美御子命、

国常立命(イザナギ・イザナミの7代前の神)

 

熊野では、家津美御子 = スサノオのことで

家津美御子さまは、速玉大神と夫須美大神の御子。ここでは、

速玉大神をイザナギ、夫須美大神をイザナミとして祭っているという🙄

😅ややこい・・・何故「スサノオ・イザナギ・イザナミ」と、古事記のご神名とおりに素直に祭られていないのだろう??

別名で祭る理由は分からないが、

元々、この熊野の地に所縁のあった別の存在、

『家津美御子と両親の速玉男・夫須美』を

『スサノオとイザナギ・イザナミ親子』に重ね合わせて

お祭りしたという事かもしれない、、🤔

 

『拝殿』

 

神仏習合の時代を名残りを色濃く残し、仏教色は強い。

しかし神道としての歴史も古く、日本神話のふるさとでもある。

 

 

 

御祭神である家津美御子の別名スサノオの別名が、

「牛頭天王」であることから、熊野本宮大社では

『牛王誓紙』と言う、カラス文字で書かれた御神符がある。

(別名の別名の別名?🙄)

 

この牛王誓紙(熊野誓紙)の裏に誓いを書き、もしも書いた誓目を破れば、神の使いであるカラスが死に、本人も死に至るというもので、仏教よりも修験道や陰陽道の様な呪術的な意味合いが強い。

この由緒は天武天皇の白鳳時代にまで遡るという。

しかし、同じような時代に由緒があるとする

八坂神社の様な疫神様の牛頭天王ではなく、

誓いを立てる牛王であり、疫病退散の主神といった感じはあまりない。

 

 

ライトアップされた『熊野本宮大社跡』鳥居が幻想的

 

 

古代の日本神話のヤタガラスと神武天皇の伝承を残しつつも

中世の仏教・修験道の信仰も同じぐらいに色濃く残す牛王。

 

神・仏どちらかが霞むことなく、両方の信仰に触れられる神社だ。そして、

 

牛王誓紙のカラス文字と、道案内のヤタガラス、

どちらも何故か?カラスを由緒としているのが興味深い、、

結局のところ、神・仏に関わらず三足烏への信仰?😂☝️

 

八咫烏は、

京都の鴨神社の賀茂氏の祖神・鴨健ツノミ命の化身であるとも云う。

 

熊野本宮大社境内のポスト

こんなモニュメントも、しっかり三足に作られている。

三足烏こそが熊野のシンボルであり、日本サッカー協会は、熊野のシンボルを採用したという事なのだろう。

 

熊野本宮大社拝殿の右端、、人がまばらでなんとなくホッとするスポット✨

 

 

【熊野那智大社】
熊野三山のうち、最後に三山に称せられたのが熊野那智大社らしい。

天皇家の御幸があり、仏教化が進んだ歴代の神社だけあって

今でも鳥居や神門をくぐった先に青願渡寺というお寺が並んでいる。

 

 

こちらは、熊野三山の中で最も仏教色が強い。

 

 

『熊野別当』という僧侶の統括者が置かれ、熊野三社はその配下にあった。

熊野三山はそれぞれ別の展開をしてきたが、熊野別当が統括した9世紀頃から仏教の修験場の三山として統一されていき、神社の祭神も家都御子大神/熊野速玉男/熊野夫須美になった様だ。

宗旨が変わりその雰囲気もそれぞれだが、それでいて熊野はどこか一貫している。

 

 

 

【玉置神社】奈良県十津川村玉置川1

熊野本宮大社から車で一時間ほど、険峻な山道をいく。

 

こちらは熊野三山とはまた雰囲気が違う、修験道や山岳仏教など日本独特の修験場の様だ。


玉置神社は熊野三山の奥院寺院)であって奥宮ではない。

 

熊野三山」といい「熊野三社」とは言わない。

(山号=修験場、社号=祭祀場)

また違った側面の熊野信仰に触れることが出来る神社だ。

 

真言密教が説く大日如来の二つの世界「金剛界」と「胎蔵界」

9世紀に弘法大師が日本へ持ち帰った密教の世界観を顕す。

 

日本の仏教は世界的にも特異な仏教だという。

 

玉置神社は、そんな異世界的な雰囲気が漂う独特の霊域だ。

 

京都の八坂神社は、疫神の牛頭天王

和歌山の熊野は、道案内のヤタガラス

それぞれ海神スサノオとは違う、独特な存在と出会えます。

次は、埼玉の八坂神社へ✨✨⛩️

 

 

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『熊野ご祭神の謎』

熊野本宮大社ご祭神 家津美御子命。=ケツミコ(ミケツ神)

ケツミコは、古事記・日本書紀には登場しないがスサノオの別名として知られる。(いや😅あんまり知られてない)

 

家都御子大神または家津美御子と書き

ケツは=食べ物のことなので、

美御子で、=女性神・巫女のことさして言う

つまり、

『食べ物の女性神』

猛々しいスサノオ感があまりしない・・・不思議なご神名だ

男神というより、南方の食物の神・大ゲツ姫や大御ケツ姫などの女神に親しい感じがする。

※ケツが続きますが😅☝️『ケツ』(ミケ、ケ)は食べ物のことです。

 

熊野三山では、それぞれ祭る神様が違い

 

⛩️熊野本宮大社【主祭神】家都御子大神 

【ご配神】熊野速玉男/熊野夫須美

⛩️熊野速玉大社【主祭神】熊野速玉男  

【ご配神】家都御子大神/熊野夫須美


⛩️熊野那智大社【主祭神】熊野夫須美  

【ご配神】熊野速玉男/家都御子大神

バランス良く、ケツミコ(スサノオ)とその両親をそれぞれ祭っている。

 

玉置神社では、ミケツ神を三柱として祭り

天狐、地狐、人狐という熊野阿須賀神社を本拠とする神だが、

玉置神社では本元を極秘としているらしい。

 

(ミシャグチ🤔?)

 

熊野にまつわる由縁を、追いかけるほどスサノオ様からは遠ざかっていく気もしました。

熊野大社で祭らている神様も家津美御子で、ヤタガラスを掲げ、

スサノオ様が表向き祭られているという事もなく、

「スサノオの別名」と注釈が書かれているのみ。

スサノオ様の感じはやや薄い、、🤔

三足烏は古代中国では太陽の象徴であり紀元前、始皇帝により使わされた徐福など古代中国の渡来人とも関係があるのかもしれない。

古代中国の宮廷音楽だった雅楽は日本に伝わり、神社に伝統として残っていることは、古代から中国人の渡来があったことを意味している。

宝物や調度品等は、輸入品か中国人以外の渡来人が持ち込む可能性があるが、卓越した文化や技術は人そのものが来て伝えるしか出来ないからだ。

紀伊半島には、古代中国の足跡が薫り、

紀伊半島のスサノオ様も、私達が古事記や神話で知ってる以上の側面もあるかもしれない。

 

熊野は『日本神話以上の世界観』を感じさせてくれます。

 

唯一、

神倉神社のある新宮市の神倉山の麓に、出雲大社が寄り添うように摂していて、出雲の国を助けたという日本神話のスサノオ様と繋がります。

 

 

そして、それぞれに

日本神話の初代天皇・神武の東征のエピソードがあり、皆

大和朝廷に帰順していった訳ですが、

どの神社でも神武天皇以外の神々を祭っています。

 

これも、

前勢力の信仰を、完全に排除したり、暴力的に完全破壊したりせず

ひっそりとでも残すという

外国人からみた『日本人が気づいてない日本の良さ』なのかもしれません。

 

 

 

ゴトビキ岩の裏部にひっそりと祭られているスポット。

スピリチュアル系の方は、何か感じいることがあるかもしれません。

 

和歌山県 世界遺産熊野の周辺には、磐座を祭っていた古代祭祀場(跡)が多く残るという。いわゆる、

社殿の無い古神道の神社だ。

古い熊野信仰を知る原点になる。

 

古神道、日本神道、仏教、修験道、

後世の人々の神仏習合や神仏分離など、人為的な信仰の変化だけでは

信仰の本質までは覗い知れないほど、、熊野は奥が深い。

 

行く度に、変化してくる様な不思議なスポット✨だけど、

どこか懐かしくついつい何度も足を運んでしまいます。

お伊勢参りと同様、熊野詣で、古くから大勢の日本人が訪れて来たことも頷ける。

 

熊野は、日本神話を超える世界観を感じさせてくれる

聖地。

 

✨✨✨✨✨✨✨✨✨

 


スサノオ Ⅰ. 京都【八坂神社】素戔嗚尊

2022-05-28 | スサノオ

ブログの後半に『古代ミステリーロマン』風の話しをまた加筆致しましたので、再投稿します🙏

後半は、聖地・パワースポットというブログの趣旨から外れ【古代ミステリーロマン】な話しを長々と書いてますが、興味のある方は御覧下さい。(※とても長いので期間限定で公開🙃)

スサノオ様を祭る神社⛩️

『氷川神社』『熊野大社』『八坂神社』三社を巡りました。

祇園祭で有名な八坂神社をUPします。全国の八坂神社の総社。

【八坂神社】京都市東山区祇園町北側625

ご祭神 素戔嗚尊(=牛頭天王)

(※素戔嗚尊→スサノオって読めないすね😅)

西楼門

創建 656年

高句麗の渡来人イリシが、新羅の牛頭山に坐していた「素戔嗚尊」を

京都・山城の国の八坂に祭ったのが起源という。

日本書紀に一書曰く

「スサノオは新羅に天下った」とあるので、高句麗人イリシの手によって、新羅からスサノオ様のご神霊が戻ってきたということだろうか。

日本書紀の編纂を命じた天武天皇も、その事を知っていたのだろう。

八坂神社は、神仏習合の時代の代表的な存在で、明治の神仏分離まで、

感神院というお寺だった。

(※神仏習合=「日本の神は本来は仏教の神で、仏が神の姿で現れたもの」とされ神社が寺院の傘下となっていた時代。日本古来の神々は仏教の神に習合された)

本殿


スサノオ様と習合(コラボ)された牛頭天王は、インド仏教の聖地の寺院

【祇園精舎】の守護神で疫病の神様

スサノオ様がインドの牛頭天王と習合された影響で、八坂神社は

日本神話の高天ヶ原や出雲などよりもインド系の祭色が色濃い。

祇園祭りも海神のスサノオでなく、

疫神を祭ってる。

西楼門から入ると屋台が並び賑わっていた。

『太田社』ご祭神 猿田彦命・天鈿女命

本殿の周囲にはいくつか由緒のある摂社が祭られている。

『大国主社』

スサノオの跡継ぎとして国造りを行った大国主と、共に協力した少彦名、大国主の子・事代主が祭られている。

『美御前社』うつくし ごぜんしゃ

東北門の方にある「美容の神社」

宗像三女神 

多紀理姫、湍津姫命、市杵島姫を祭る

社前に湧きでてる神水の美容水がある。

三女神の美しさにちなみ

美しくなる神社で、女性の参拝客は美容水を手にとってお顔にはたいていた😌

南門 鳥居

拝殿

インドのラタヤートラというお祭りでは、山車を引っ張りヒンズー教の神々を祭るという。

祇園が日本に伝来したのは7世紀頃だろうか、、🤔

しかし、インドより今や日本の祇園祭の方が本場になっている様だ。

何よりインドはヒンズー教徒の国、仏教徒は殆どいない。

日本人なら『祇園』を知らない人はいないが、世界的にも日本の祇園は有名で

無形世界遺産だ。

八坂神社は延暦寺の末寺だったのが、

織田信長の延暦寺焼き討ち以降、延暦寺から離れ、祇園祭は独自の形を歩んできたという。

伝来した伝統を取り込み、

スサノオ=牛頭天王という形で伝え続けてきたおかげで、

どちらも完全に排除することはなく、世紀を超えて大切に保存されてきている。

これが所謂、外国人からみた


『日本人が気づいていない日本の良さ』なのだろう。

どちらかを根絶やしにする様な完全排除はしない。たとえ針の穴ほどでも後世に残す。

スサノオ様よりも、

牛頭天王さまの由緒を、より感じる聖地✨


同じスサノオを祭る神社でも
スサノオが牛頭天王と習合されたことにより、それぞれ色彩が違う。

⛩️八坂神社の様な、
インド祇園系(牛頭天王)

⛩️熊野大社の様な、
仏教修験道系(熊野権現)

そして、
⛩️氷川神社の様な、
日本神話出雲系(須佐之男命)

スサノオ様を祀る神社にはそれとなく、三つの側面がある。

次は熊野大社を。

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

素戔嗚尊と『祇園精舎」と牛頭天王

古代ミステリーロマン的なお話しです😌

=祇園はインドの舎衛城の長者スタッダが、仏陀に提供した教えの場所で、インド仏教の聖地。精舎とは仏教寺院のこと。

その祇園精舎の守護神である「牛頭天王」の名の語源は、南インドにある牛頭山(マラヤ山)に群生する薬樹「牛頭栴檀」(白檀)が由来らしく、医薬として用いられたという。

韓国(新羅)の牛頭山はソウルの東方、京畿道にある標高480mの山。

驚いた事に南インド~韓国まで5000㌔以上離れていても、同じ牛頭山という山が存在しているが、祇園精舎があったコーサラ国からもかなり遠い。

中国の温州の浙江省武義県、日本の広島県にもそれぞれ牛頭山がある。

何故、牛頭天王が祇園精舎の守護神になったのだろうか…? やはり疫病から守る為に?🤔

そもそも、仏教の聖地・祇園を守護する牛頭天王の奥さんは、守るどころか仏教を衰退に追いやったヒンズー教の女神(ハリサイジョ)。対立関係の政略結婚の様なものだろうか?

祇園は日本に伝わり既に1000年以上が過ぎ、

「祇園」さんとして長い間、日本人に親しまれ日本人と共に歩んできた。

イワシの頭とヒイラギを玄関に飾り、疫病神を追い払らったりなどの牛頭天王への信仰も今に残る。

(※ユダヤ起源の説あり☝️出エジプト記では羊の血を玄関に塗ると災厄から助かるという。ヒイラギとイワシで羊の血の臭いを再現したか?🤔)

明治の神仏分離で神社と仏教は別れたが、牛頭天王や祇園祭はもはや

神道、仏教、どちらでもない独自の伝統文化と言えるかもしれない。

『牛頭天王』様が仏教の教えの聖地・祇園精舎の守護となって久しい。


牛頭山の薬樹の霊薬で人々を病魔疫病から守ってきた存在なのだろうが、インドの祇園精舎は長らく埋もれたままの遺跡となってしまった。

ヒンズー教の台頭により仏教は衰退した。

7世紀に三蔵法師が訪ねた時には祇園精舎は既に荒廃していて、1200年後の19世紀~20世紀に遺跡の発掘が行われ現在はインドの歴史公園となっている。

もっと早い時期にヒンズー教の前進であるバラモン教に圧され、衰退していたのかもしれない。

インド仏教は、

バラモン教、ジャイナ教徒、ヒンズー教、イスラム教など、他宗派に押され弱体化してきた歴史がある。

ブッタ入滅後、
500年くらい経った頃から権威主義が暴走し力が失われてきた『仏教』に対抗して、

『大乗仏教』マハー・ヤーナが台頭してきた。

一部の出家者しか救われないとする権威的になり過ぎた『仏教』に対し、
多くの民衆を救う『大乗仏教』は力をつけ、バラモン教国を仏教国へ改宗させるほどになった。

法華経などの経典でブッタに纏わる様々な説話が説かれる様になり

ここで力強い神々【仏教の守護神】たちが誕生した。

蛇神ナーガ、夜叉、羅刹、等々、、

「牛頭天王」もこの頃からの存在だと思われる。

『大乗仏教』はナーガ・ルジュナ(龍樹)によって完成されるが、

中国にその大乗仏教が伝わると、
中国人は蛇神ナーガを全て龍神に変えてしまい、日本には蛇神でなく八大龍王や善女龍王として伝わってきた。

牛頭天王さまも、中国人のアレンジによるものなのか、または日本に伝来してからのものかは分からないが、変移してきてる可能性はある。

後に、インドの大乗仏教もヒンズー教に押され、密教化し大日如来など力強い神々をまた創りだし対抗したが、密教化が暴走し結局は力を失った。

当のインドでは、紆余曲折、波乱万丈な変遷を歴て衰退していったにも関わらず、日本に伝わった『祇園』さんは日本の伝統として今も残り、牛頭天王は京都の『祇園祭』や全国の『天王祭』というお祭りで存在している。

これは、西洋人からみた日本の良さという事だけでなく、

インド人から観ても
伝統を残す日本の良さとして映るのだろうか、、🤔

インドから発祥し、2000年経った今もずっと続いてる祇園さん。

蘇民将来の疫神のスサノオ様と、
祇園精舎の守護神・牛頭天王様、
そして人々との関係は、深く長い信仰で繋がってきたのだ。

中世の疫神信仰は、伝染病の流行は祟りによりもたらされると信じられていた為、無念にこの世を去った存在を神として祀り、祟りや災いを出さぬようにと願いをこめ祭り奉る。

都を追われた菅原道真公の天満宮などがそうだが、京都の祇園信仰の疫神『牛頭天王』は実在の人物という訳ではなく、また宗旨が違うのかもしれない。

話しが牛頭天王様で仏教化すぎたので😂少しスサノオ様に触れます、、😌

日本神話のスサノオ様は、天照大神の兄妹神で、スサノオ様と月読命は、天照大神と共に『三貴子』と称されながらも信仰は最初は細々としたものだった。

今は、月読命だけが影が薄いが、

スサノオ命は、

神仏習合で牛頭天王と習合された事で

牛頭天王信仰によって全国に一気に広がっていった。

京都の八坂神社系2300社
愛知の津島神社系3000社(天王社)
など、

月読神社の100倍近くの広がり様である。

(月読神社😅少なすぎ)

牛頭天王系の神社は、須佐之男ではなく素戔嗚命と表記しているところが多いという。

本州の文字文化にはない表記らしく、本州で素戔嗚命と祭るのは独特の系統を示す象徴らしい🤔

祇園精舎と牛頭天王

牛頭天王とスサノオ、

何故に結びついたのかは本当のところよく分かりません。

一説に、

スサノオが祭られていた播磨国の祇園本社「広峰神社」に、牛頭天王が垂迹してきて、9世紀後半に八坂神社に遷り、

また広峰山からスサノオ様の御神霊が、やはり9世紀後半にの八坂に遷ったとあり、『広峰』に謎を解く鍵があるかもしれません🤔(広峰も行ってみよう、)

スサノオ様は少彦名命、菊理姫・神功皇后の様に新羅系の神様として語られていることも多いですが、これ程まで南国の神、牛頭天王と合致したのは、もしかするとスサノオ様も

南方からやってきた神様だからかもしれません。

そして、インドから新羅まで、牛頭山を祭る渡来部族が

大海原を渡ってきたのだろうか?

、、、核心に進んでいきます🙃

『牛頭天王とスサノオが結びついた説』

諸説ある中で有力説は、茅の輪くぐりの由緒であり

疫病退散のエピソードの「蘇民将来」という兄弟の話しがある。

『北海に住むという武塔天神が、嫁を探しにきた。

一晩宿を借りようと、長者・巨旦将来に頼んだが断わられ
兄の蘇民将来は貧しいながらも武塔天神を暖かく迎えいれた。

嫁を娶った後に、武塔天神は『八王子』を連れ、  

(八王子=男神五神、女神三神)

蘇民将来のもとに顕われ感謝し

蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。そして「吾はハヤスサノオの神である」と、

武塔天神は本性を明かした。』


このスサノオ(=武塔天神)の疫病の話しが、インドの疫神である牛頭天王と結びついてスサノオの別名とされたという説だ。

とすれば、武塔天神牛頭天王ということになる。

この話しに対してもっと

暗示的な読み取りをするならば、

「武塔天神は北海に住む」、北海に住むといえば

高句麗人のことであり、

八坂にスサノオを祭った高句麗の渡来人イリシという人物を想起させる。

では、武塔天神は誰か?という事だが

これは天武天皇を暗示しているのかもしれない。

大海原を治めたというスサノオと、天武天皇の元の名、

大海人皇子という名乗りも一脈相通じる。

新羅の牛頭山から、イリシが京都の八坂にスサノオを祭ったという656年頃は、

大化の改新後、考徳天皇が廃位され難波朝から大和朝へ代わり
中大兄皇子や大海人皇子へ天下の趨勢が移った頃だ。

後に、壬申の乱で大海人皇子は天智天皇系に勝利し天武天皇となるが、8世紀後半にはまた天智天皇系へと戻り現代まで続いてきて、天武は歴史の彼方に置き去りにされたままでいる。

天智天皇系の世となり、表向き天武を祭ることが出来なかったために、
その縁者や崇敬する人々達は、

新羅の牛頭山のスサノオを八坂に祭ったというエピソードと共に

疫神・牛頭天王、武塔天神=スサノオのエピソードになぞって

その隠された存在を

密かに祭っていたのかもしれません。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

もう少し天武天皇について、、

【追記】

古代日本で最も封印された天皇

『天武の謎』

大海人皇子(天武天皇)ほど、歴史の闇に隠された存在はない。

😅歴史ヲタクな私は、『和国大戦記』という天武天皇を主人公にした小説を投稿サイトで連載しているのですが、天武ファンとして😍こちらのブログでも少し触れてみます。長文です🙏

この投稿では、

スサノオと牛頭天王を結ぶ

「北海に住んだ武塔天神がやってきた、」という蘇民将来の疫病エピソードと

八坂神社の由緒の

「高句麗人イリシが京都の八坂にスサノオを祭った」

という創建のエピソードから

天武天皇(大海人皇子)の存在を想像してみた。

「北海に住んだ」=高句麗人であり、何故「武塔天神」=天武天皇なのかは別にして

(ていうか神って😂☝️しっかり天武の二文字が配されてますやん)

まず、

表向きのご祭神とは別に、ご尊名をつまびらかにせず、

その名をあげて祭れない存在を陰祀している神社について触れてみたい。

有名なところでは、石川県金沢の

『尾山神社』がある。

豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康へと天下が移りゆく時代のこと。

秀吉側の宿老・前田利家が病死し、

跡を継いだ前田利長は亡父を神として祭りたいと考えていた。

しかし、天下は徳川に傾き徳川家康は前田家の征伐も検討していたほど。

おおっぴらに『利家公』を神として祭ることは出来なかった為、

前田家が守護としていた物部八幡宮を遷祀するという名目で、

表向きは八幡様を祭る神社を建立し、

そこに合祀するという形で密かに故『利家公』を祭った。

加賀百万石の前田家は明治4年の廃藩置県まで続いたが、その様に

歴史が新しくない古代の場合では、密かに合祀したことが確認できずにそのままになっている事もある。

何時の時代も、その首長の元で生きた人々、恩恵を受け敬愛していた人々、残された一族にとっては、例え天下の蒼生が移り変わっても、

初代当主を祖神として祭りたいという崇敬の気持ちは当然ある。

しかし、堂々と祭ることが出来ない場合、仕方なくご尊名を隠して祭るしかない。例えば、

平安時代、
平将門の乱で、側近・興世王が討たれた時、里の人がその遺品である馬の衣を拾い『熊野神』として祭ったという。


古墳時代、
ヤマトタケルはクマソタケルを征伐した。征伐された側のクマソタケルの氏族達は、クマソタケルを堂々と祭ることを憚り

その奥さんを姫神様として姫神社を祭り、相神としてクマソタケルを密かに祭った。

前田利家と違いあまりにも時代が古いためこれを確認する術などなく、

時代が変わっても古代から変わらない祭祀が続いているのかもしれない。

例え、その様な伝承があったとしても「あくまでも伝承で、史実無根」とされるので、古代ミステリー好きには、逆に好奇心やロマンを掻き立てられる。

そんな、ミステリーロマン視点から綴っていきます。

天武天皇も、どこかで陰祀されていて当然だと思いますが、あるとすれば

八坂神社ほどの社数があっても不思議ではない。

八坂神社は、明治の神仏分離の時に、

『神道の神様スサノオと、仏教の神様牛頭天王を分けるべき』と、

真っ先に槍玉に上がるほどの存在感があった。

そして天武天皇も、

古代日本において、最も存在感のある天皇だった。

正史となる『日本書紀』の編纂を命じ、伊勢神宮内宮の造営、天照大神を最高神とし伊勢神宮の社格を日本一に高め、現代の大嘗祭にも続く壇場即位の儀を日本で初めて行ない、「天皇」の号を採用、現人神の思想、 日本という国号、律令化、肉食の禁止など日本の基底文化となる数々の影響を与え、偉業を成し遂げ、そして恐れられた人物だ。

(この時代で既に『和国書紀』でなく『日本書紀』)

元々、部族連合国でしかなかった和国に現人神の思想を持ち込み、公地公民化を進め、専制君主的な王権を強化しようとした王たる王。

冠位を拡大し、東北・北陸の蝦夷族を従わせ、日本海狭しと列島から半島を海を跨いで奔走し続けた海の皇。

和国が消滅し、強い日本国が生まれた🌅律令化の時代の英雄✨です。

持統天皇(妻)や文武天皇(息子)は、天武天皇の偉業を継ぎ、

遂には『日本国』の名で遣唐使(周)を送り、時の皇帝・即天武皇に

『もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。皆、日本国と呼ぶように』

と、言わしめた『日本建国の時代』

その立役者たちの筆頭です。

それだけ偉業を成しながら、天武天皇を祭った神社というのは殆どありません。(寺院はある)

神武天皇、崇神天皇、ヤマトタケル、神功皇后、応神天皇、欽明天皇、聖徳太子、柿本人麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真、平清盛まで 

古代の偉人を祭る神社はいくつもありますが、まるでその『律令国家・日本建国の時代』だけすっぽり抜け落ちているかの様に、、、

ひっそりとしています。

 

高句麗人でもありますが、先祖の出自は漢の霊帝の子孫と云われる渡来人。

闇という言葉はあまり使いたくないですが、闇の王にスポットを当ててみます。


【古代ミステリーロマン】というジャンルの中では、

『中大兄皇子(天智天皇)は百済のキョギ皇子だった』

という事はもはや定説となっていますが、

「天武天皇は、高句麗人のヨン・ゲソムンという宰相だった」

ということも巷説の世界では、実しやかに語られていますので、

北海に住んだという武塔天神とは、

北海=高句麗にいた天武天皇を指しているのではないか。

「高句麗人イリシが八坂にスサノオを祭った」という由緒だけで、

高句麗人イリを思い浮かべる方は少ないかもしれません。

大海人皇子(天武天皇)は高句麗人のイリだった

とは、荒唐無稽すぎてなかなか理解するのが複雑です。

高句麗・新羅・和国と三国に渡る影の実力者で、大陸を奔走した英雄です。

和国の発音でイリ・ガスミ

高句麗では、ヨン・ゲソムンと発音する

高句麗の宰相でした。

その後、和国に渡り天武天皇となります。

(※大海人皇子/天武天皇/イリ(淵)/ヨンゲソムン/任武/など、各国で呼び名が多数ありますが「イリ』という名で綴っていきます、、)

7世紀、唐国の勢いが強大となり高句麗は滅亡の危機をむかえますが、高句麗の大臣だったイリはクーデターを起こし親唐派の高句麗王を除き、反唐派政権を樹立させ唐と戦いつづけた。

そして高句麗王族の姫を娶り王の入婿になり、宰相となり…反唐派政権を操っていた。

高句麗の前は新羅にいた事があり、637年に金一族の姫との間に「法敏」という男子をもうけていた。

やがてその子は新羅の王族・金春秋の養子となり、長じると金一族が政権をとって

新羅の文武王に即位し、後に列島に渡り和国の文武天皇となる。


(全国の白髭神社に、白鬚様として祭られているという風説があります)


イリは何度も和国と高句麗を行き来し、反唐の為に奔走した。

和国でも王族の入婿となり、大海人皇子と和国名乗りを上げ、義兄の中大兄皇子と共に斉明天皇を擁立し実権を握り、百済を唐賊から救う為に和国から援軍を派兵した。

高句麗にあっては、

高句麗王の養子・第二皇子の任武=宰相ヨン・ゲソムンとなり

新羅にあっては文武王の実父

和国にあっては大海人皇子として、

三国を裏から操る、闇の政府となり

唐国と戦い続けました。


背面服従で、表向きは親唐であっても

三国の反唐派たちは

イリを中心に裏で結びつき協力しながら、唐賊を攘夷した。

百済が唐に滅ぼされてしまうと、百済復興軍に対して和国にいた百済王子・扶余豊章を送ります。

そして、

白村江の戦いで、和国からの反唐軍を遠征させるも敗北。

大国唐が建国されて以来、西アジアにはアフリカ、アジア、ヨーロッパ、三大陸にまたがるアラブ【大イスラム帝国】が誕生し、アジア大陸は史上かつてないほどの大膨張の時代に入っていた。

(※赤は唐の同盟国、属国、親唐国など唐の勢力圏、緑のアラブ(イスラム帝国)は実効支配下)



東アジアの果て「和国」も海を渡った別天地ではいられなかった。



唐は中国を支配すると、サマルカンド、クチャ、突厥など、中央アジア・北アジアの国々を次々と下し、チベットには唐の王女を降嫁し、インドには王玄策を派遣して内乱に乗じて政治干渉をし、親唐国に収めていた。

天下三方を平定した唐は、残る東方へ兵力を向けることとなる。

東西からの挟撃を怖れ、唐は西アジアの強国アラブとの接触を警戒、西側にペルシア都督府を設置し元ペルシア王子を都督として防備させ、

そして東アジアの強国・高句麗を滅ぼすことに全力を注いだ。

高句麗、新羅、百済、和国の王や部族達は保身のために国を売り、

東アジアの国々が唐に臣属していく中で、

反唐の志を強く貫いた壮士達が最後まで大国唐と戦い続けた戦乱の時代だ。


そして和国という国は消滅し、日本国が生まれる。

日本国はこの大戦期を生き延び、

唐、新羅、高句麗、百済が滅んだ後の、千年、千五百年先の

未来まで続いていく強い国になった。

大戦期の新羅は、唐の臣国となり、百済は滅ぼされ、

この状況から高句麗までもが滅ほろされてしまい

極東アジア全体が唐賊の支配の驚異に曝されていく中でも、

和国で反唐政権を維持し、

唐軍の進撃から極東を守り抜こうとした英雄が、

高句麗人イリ(=大海人皇子・天武天皇)であり、

新羅で反唐の旗を掲げたのが、イリの実子文武王だった。

イリは、当時の風習で、実子を手元に置かず信頼できる者の元へ託し、

隠し子として育てさせる事をしていた。

イリから実子を預けられた者は、動乱の時代の中で、

イリの子を自分の子として見事に育てあげた。

高句麗では、テ・ジュンサン将軍に預けその子は「テ・ジョヨン」という名で育ちます。

和国では、中臣鎌足に預けその子は「史」という名で育ちます。

新羅では、金ユシンの元で育った金法敏が文武王になった。

皆、反唐の志が強く、心の奥底で繋がっていた。

イリ(天武天皇)が亡くなった後も、イリの子供らは反唐を貫き

テ・ジョヨンは高句麗の地に『渤海国』を建国し、

新羅の文武王は、唐賊を半島から駆逐します。

和国の中臣史は、やがて

日本国の藤原不比等となり、藤原氏の貴族時代を築きます。

一時期、イリの子供達がこうして半島から列島の列強国として居並んだこの頃に、唐国との戦争の時代が終焉します。


『渤海国とは兄弟の如く仲が良い』と史書にありますが、文字どおり兄弟でした。

(※藤原姓=「○原」は、安原王、平原王、陽原王など高句麗王号に使われる為、高句麗王名が由来との説あり。【原】自体は「中心地」「主要」といった意味がある。フジは、上古の昔に徐福が『不死』の霊薬を日本列島に探しにやってきて富士山にそれを求めた。不死は=富士山の語源であるといい、『フジ』はそのまま日本列島をさす呼び名となったという。これを引用すれば、フジ・ワラとは、「日本の中枢」という意味になる)


八坂にスサノオを祭った高句麗人イリシと、高句麗人イリ(天武天皇)が同一人物かはわかりませんが、その語韻からはどうしても

この高句麗人イリ(天武天皇)という存在を想起せずにはいられませんでした


天武天皇は多動多彩で、一つや二つのエピソードでは全くつかめませんが、

本当にいくつものエピソードが重なって、重なって、

初めておぼろげに見えてくるような方です。

一応、

牛頭天王=高句麗人イリ(大海人皇子・天武天皇)もなぞってみました。

牛頭天王は、

「牛」の「頭」と書いて、容貌魁偉であるという外見を表す。

中国側の史書でイリは、同様の意味で、

「風貌が猛々しく体躯は逞しい魁塁の士」と、その立姿が評されていた。

容貌魁偉な仏像=イリがモデルとも

仏教の守護神である牛頭天王は、仏教と対立する

ヒンズー教の女神ハリサイ女を妻にしたという。

(※ハリサイ女=南の竜宮に住むという竜王の娘三女のうち末妹。諸説あり)

仏教は台頭してきたヒンズー教に押されて衰退した。

イリは、

対立する天智系の姫を娶り妻にした

皇統は、天智天皇系に移っていき天武天皇系は衰退した。

容姿だけでなくエピソードが同様であることも、重なっている🤔

イリは、

極東アジアにあっては唐賊を攘夷した英雄かもしれませんが、

和国にあっては天智天皇系の王権の簒奪者だった様で、

ありのままでは知られない存在。

天皇家の菩提は天智天皇系を弔い、天武は存在しません。


しかし、例えどのような事情があったとしてもこれほど強力な存在を全く

祭らないというのは考えられません。

天武天皇を倒した側が、高松塚古墳に呪術的に祀ったと云われていますが、

天武天皇側に関わりのあった人々が祭った神社も、きっとあるはずです。

金沢の加賀百万石・前田家の『尾山神社』神社の時の様に、

名前を伏せたまま、ひっそりどこかで祭られているかもしれません。

✨✨✨✨✨

長い話しを読んで下さってありがとうございました🙏✨


終わりに~

神社や遺跡を巡っていると、

凛として心が澄まされる様な場所、

何故か、ほっとする心休まる場所、

懐かしさを感じる場所に、時々出会います。

何故か嵐や雷⚡地震に遭遇したり、

何かが共鳴しているとしか思えない様な不思議な出来事もあります。


例え有名な観光地でなくとも、ひっそりとした場所でも

そこに立っただけで涙が溢れてくる様な、、

自分だけの聖地と呼べる、スポットです。

古い先祖がいない人はいませんので、

誰にでも、始祖さま、祖神さまが、

必ずいて日本のどこかに祭られています。

聖なる国日本✨へ、出かけてみて下さい。


気になる神社や

気になる場所はその目印になってくれるかもしれません⛩️

神社の後ろの杜

小さな祠や石段の途中、何かしらを感じるかもしれません✨

仏教で祭られる様になる、以前、

もっともっと古い昔から

魂の故郷の様なその場所で、

やって来るのを待ち続けている

祖神様が優しくあたたかく迎えてくれる、

そういう場所は、誰にでも必ずあると思います✨

~聖なる国 日本✨