聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

【蛇神・徹底理解】Ⅳ.ミシャグチの蛇

2025-02-25 | 古代ミステリー

巳年🐍古代ミステリーシリーズ

今回は、蛇神そのものの信仰ではなく蛇を使って行なわれていた不思議な神事のお話です。

マニアックな投稿ですが、大和王朝より以前の古代信仰に興味のある方はご覧下さい。

 

【ミシャグチ】
長野県の諏訪に、『ミシャグチ』と言う信仰が残されている。

諏訪を中心に、東日本に三千カ所くらい広がっていて、依り代となる神木の前に
石や祠、又は『石棒を納めた祠』などが祭られている。沖縄の聖地、御嶽と同様だ。

古くからある不思議な信仰で、古神道あるいは縄文から続く様な古代の様相が色濃く残されている。

 

「御左口神社」(ミシャグチ神社)

ミシャグチは、御社宮司、御社宮神など当て字が200種類ほどあり、地域によって様々だ。

漢字文化が渡来する以前から、既に「ミシャグチ」と言う名の信仰が

各地に広がっていた為と思われる。

 

今では失われてしまったが、

諏訪大社前宮の『楓の宮』(かえでの宮)で行われていた神事では

「蛇」が使われていた。


※「前宮」=前の信仰のあった場所の事。元宮や奥宮の様に、元々あった神社の起源の場所と言う意味ではなく、もっと以前からの信仰が存在していた聖地をさす。


諏訪では、大王の事を大祝と言い、

ミシャグチ降ろしと言う不思議な即位儀式が行なわれていた。

 

 

【ミシャグチ降ろし】
大王(大祝)の直系の長子である

7〜8歳ぐらいの少年に対し、

神長の守谷氏(洩矢氏)によって行なわれる儀式。

 

①少年は、精進屋と言う宮に閉じ込められ、長くて厳しい斎戒期間を過ごし、スピリットが憑き易い状態に浄化される。

 

「精進屋」(長野県茅野市)

 

②カエデの木の下の岩座に、この斎戒が終わった少年に白装束を着せて座らせる。

 

③神長が、サナギ※と言う神代矛を縦に持って上下に上げ下げを繰り返してミシャグチ降ろしを行う。

※サナギ=天照大神の 天岩戸隠れの時に、天鈿女命が使った神具

 

④上げ下げ※を繰り返していると、木に「ミシャグチ」と言われるスピリットが降りてきて、木の下にある岩座の少年に依りつかせる。

 

※この上げ下げは映画「となりのトトロ」で大地に生命力を降ろす為、トトロが傘を持って上げ下げした動作と同じだ。

 

⑤ミシャグチと言う神霊を宿した少年は、この儀式により「現人神」となる。

そして、御神託を頂く。

 

これは、

天皇家の大嘗祭においても同様であり、

新天皇の肉体を魂の容れ物として、

天皇霊を依りつかせ、

即位した時に体に入れ高御座から神言(ミコト)を伝えると言う神事と似ていると言う。

 

 

【冬ごもりの神事】
ミシャグチ信仰では、年75回の神事があり、冬には「かえで宮」と言う、

竪穴住居の様な冬ごもりをする穴倉を作り、長い間籠もって行う神事があった。

地面を深く掘下げて、屋根で覆い
地中に埋もれさせる様な形で、
土室を作る。

 

御室(みむろ)と呼ばれていて、

そして、この御室には、

御神体のミシャグチ(石棒)と、

綱で作った蛇のレプリカを三体入れておく。

元々はレプリカではなく、冬眠中の蛇が入れられてたらしい。

蛇のレプリカも、トグロを巻いた冬眠のポーズで作られていた。

 

冬になると、

12月22日から3月13日まで、

ずっとこの土室に神長

ミシャグチを降ろした少年が篭もって祭祀と宣託を受ける神事を行う。

 

神の使いとして、各地を廻らせる少年達もここで選ばれる。

ミシャグチの御神体とされる石棒は、

縄文中期から、この地方を中心に石皿とセットで残され、

諏訪を中心に方々の神社で祭られていた。

 

 

日本で唯一、

縄文人の残したの遺物を祭っているのは、

ミシャグチ信仰の神社だけかもしれない🤔

 

 

【闇の半年】

この土中の冬ごもりの神事は、

古代縄文人や古代ケルト人に繋がる様な、独特な習慣の様だ。


何故、1万キロも離れたイギリスと日本、
古代縄文人と古代ケルト人が同じ文化を持っていたかは不明だが、

約7000年~3000年前、

同じ様にストーンサークルを作っていた民族だ。

 

イギリス🇬🇧

 

日本🇯🇵

 

イギリス🇬🇧

 

日本🇯🇵

 

イギリス🇬🇧

 

日本🇯🇵


イギリスにはビーカー人が、


日本列島には弥生人が渡来してきて、

縄文人もケルト人もどちらも同じような時代に姿を消してしまった。


ケルト人は、1年を半年ごとに区切り

5月から10月の終わりまでを

光の1年、

11月から4月の終わりまでを

闇の1年、

としていた。

 

私たちの、半年が
ケルト人にとっての1年だ。

古代諏訪でも同様に、半年を一年としていたと言う。


10月の終わりに行なわれるハロウィンはケルト人の大晦日にあたり、もともと

光の1年の終わりの祭りが起源であり、

4月の終わりに行なわれる諏訪の「どぶろく祭」は、

闇の1年の大晦日に当たるお祭りだ。


しかし何故、闇の1年の冬ごもり

御室では神事に蛇が使われていたのか?

 

 

【冬眠】

冬ごもり神事で蛇が使われていたのは、

蛇の脱皮に対する再生イメージの信仰というより、

冬眠する動物に対する死と再生のイメージであり、

冬眠そのものに対する信仰からだ。

 

枯れ木も死んでる様に見えるが、春に開花するエネルギーを蓄えている。

冬眠中の蛇も、死んでる様に眠っていても春に目覚めるエネルギーを蓄えている。

 

光の1年で収穫された魂は還り、

闇の1年のうちにエネルギーを蓄え、

再び

生の世界に帰ってくると言う。

 

 

冬の間に、

魂はエネルギーを蓄えて再び生する。

 

農耕民族にとっても同様で、冬は
稲魂も、発芽のエネルギーを蓄える。

 

冬の過ごし方によって 翌年(半年)の実りや 収穫は豊かなものになる。


縄文人の影響を強く受け継いでいると言うアイヌにも、狩猟民族の独特な祭事に共通点があり、

アイヌでは冬眠しているクマが供物にされると言う。

冬眠する動物への信仰は、

カエルなどで代用されたりもしているので、

やはり古代人の

冬眠そのものに対する理解と、

信仰が古くからあったようだ。

 

御室は、冬篭もりが終わるととり壊され、

また作られては埋められる。


御室の前には供物や宴をする為にあった

『十間廊』と言う建物があるが、

(諏訪大社前宮・十間廊)

この様な建築物を作らずに、

千年~二千年もの間、

毎年毎年、わざわざ穴を掘り、

12月〜3月まで籠もり、

そしてこわすと言う事は、

それ自体が蛇の冬眠を模したイメージに他ならない。

 

闇の1年は、

春に生まれてくる魂の力を

蓄える大切な時期である。

 

冬ごもりの神事では、

 

冬眠し春に再生する蛇が、

その象徴として

供えられていた。

 

 

✨✨✨✨✨✨✨✨
最後までご覧いただきありがとうございました🙏

 

まだまだ、身も縮むような寒さが続きますが、縮こまって身にエネルギーを集め

春を迎えるエネルギーを蓄えましょう。


と、
あまりに寒くて布団から出れず
篭もりながら
このブログを書いてます。🙂‍↕️


【蛇神・完全理解】Ⅲ.金運財運の神・白蛇弁財天の登場

2025-02-16 | 古代ミステリー

巳年🐍古代ミステリーシリーズ

前回までは2000年前〜1700年前くらい、古代の蛇の信仰について書いた。

蛇をレガリアとする大物主の系譜を追い、蛇のエピソードを書こうとしましたが、あまりに長くなってしまい💦

ここで一旦古代から離れて、中世へ

 

更に1000年以上時代をくだった、

約600年前の室町時代の蛇神について書いてます。 

😌🙏長文でマニアックですが、

金運財運の蛇✨の起源に興味のある方はご覧下さい。

[目次]

・メイドイン・チャイナ

・福の神の輸入

・七福神の誕生

・金運財運の神・白蛇弁財天の起源

・水辺にいる蛇神の正体とは

 

 

【メイド・イン・チャイナ】

前回も書いたが、世界最大の毒蛇『キングコブラ』の国・インドでは、蛇は身近な脅威であり人々に恐れられていた。

王族や宗教家は「蛇を始祖とする」「蛇は王家の紋章」など

人々の蛇への畏怖を積極的に信仰に取り入れ、王族に対する畏怖へ転化していった。

そして毒蛇の最強の強さ故、インドなど強烈な毒蛇が身近にいる南方では、

蛇神はいても龍神はいなかった。

 

『龍神』は中国的な存在なのだ。そして

『蛇神』はキングコブラの国・インドならではの存在だった。

 

インドの仏教が中国に伝わると、仏教の守護神『蛇神ナーガ』を中国人は全て龍に変えてしまった。

そして八大龍王や九頭竜が誕生し、

中国仏教が日本に伝わると、日本古来の蛇神や水神などは、

仏教の法華経の守護神だった「龍神」に置き換えられていった。

 

この『インド→中国→日本』と言う

いわゆる北伝ルートは、

中世の日本の経済発展と信仰の発展

『福の神の信仰』にも重要な役割を果たした。

 

どんな、時代だったのか?

 

千年ほど前、

宋の頃からようやく中国は自国の造幣権を安定させ、鎌倉幕府は日宋貿易を行っていた。

 

 

【福の神の輸入】

鎌倉幕府が滅び室町幕府の時代になると、宋は滅び中国は『明』の時代となる。

室町幕府の第三代・足利義満将軍が天皇方(南朝)を討ち、明の皇帝より足利義満が

「日本国王」として認められ、貿易権を独占し、日明貿易で巨万の富を築き上げた。

 

これまでの日本では通貨の流通はほとんどなく、まだ物々交換をしていて、経済の流通と呼べるほどの発展がなかった。

 

お金そのものが使われてないので

したがって、人々には

金運や財運の信仰もない

黎明の時代が続いてきた。

 

室町幕府の日明貿易により、流通経済が爆発的に発展し、

ようやく人々は通貨を使うようになっていき、

同時に中国から輸入された神「福の神」の信仰が普及した。

日本人が崇める、金運・財運の神々が誕生した。

 

(室町バブル時代 金閣寺)

金運財運の神とされる「弁財天」は、

もとは仏教の守護神「弁才天」として、

奈良時代の仏教「金光明経」により日本に伝わっていた。

しかし、この頃はあくまで仏教の守護神であり、

七福神の財運の神、

「弁才天」から「弁財天」となって人々の崇敬を集める様になったのは、再輸入された

700年後、室町時代の経済発展の時だ。

 

そして、蛇はもともと「弁才天の使い」とされていた為、ここで

金運財運の神である蛇神様が誕生した。

 

 

【七福神の誕生】

「古来より蛇は神様の使いと考えられ、財運・金運の神として崇められてきた」

等と、巷間ではよく言われている。

 

古来〜「神の使いだった蛇」と言う信仰は、一体いつ頃から存在していたのだろう??

特に、古い歴史が好きな私には興味深い。

 

室町時代、

中国との貿易で日本の商業の発達が始まると共に『福の神』が中国から輸入され、

経済的な御利益を求める商売繁盛や財運上昇の信仰が高まった。

 

当初の福の神は三福神 八福神など 紆余曲折があったが、七福神で「福の神」信仰がまとまり、傀儡師(人形使い)などを使い、西宮より全国へ広められた。

 

傀儡師とは、歌舞、曲芸などを行いながら全国各地を巡る芸能集団だが、当時は

寺社の布教をする興行メディアの役割を担っていた。

 

 

七福神は、恵比寿様(エビス)をのぞき全て外国の神で、日本古来の神々ではない輸入組だ。

(中 国)✨寿老人・福禄寿・布袋、

(インド)✨大黒天・毘沙門天・弁才天、

 

七福神のエビス様を筆頭とし、傀儡師(人形使い)による「エビスまわし」などの演目で、全国の港から港へ、流通と共に伝えられた。陸路より海路の広まりは早く、

 

経済的な発展と共に、

『大漁』『商売繁盛』など金運や財運を求める信仰が流通拠点に広がっていった。

 

ついには同業者組合「座」(ギルド)が誕生していき、そして

 

日本経済の活性化と共に、更に福の神への信仰は活発になっていった。

 

 

呪いや祟りなど呪術的な教化や地獄絵図が蔓延した前の平安時代を暗黒の中世と言うならば、

室町時代の「福の神」とは暗黒に新たな光が射したルネッサンス的な価値観だ。

 

日本の伝統芸能が花開いた時代でもある。

商売繁盛という御利益の教化と、経済成長が同時に進行したというのは、

日本の宗教政策史上、極めて稀な出来事だった。

 

✨✨✨✨✨✨✨

エビス様「商売繁盛・大漁」

大黒さま「五穀豊穣・開運」

弁財天様「金運・財運」

毘沙門天「勝負運・福徳」

福禄壽様「家門繁栄・子孫繁栄」

寿老人様「延命長寿・福徳施世」

布袋さま「夫婦円満・笑門来福」

✨✨✨✨✨✨💥

七福神には主なご利益があり、それぞれ繁栄や福徳、財運や繁盛などの御利益も兼ねている。

 

 

【金運財運の神・白蛇弁財天の起源】

もともと蛇は弁才天の使いとされていた為、室町時代の流通経済の発展により、

金運財運の神・弁財天と共に祭られる様になる。

 

白蛇は縁起がよく、弁財天の化身とまで言われ「白蛇弁財天」として祭られた。

 

 

弁才天は、インドの水神「サラスバティー」のことで、

音楽(芸術)の神でもあり、ヴィーナと言う琵琶に似た楽器を持つ姿で祭られている。中国での漢訳は、「辮才天女」

 

 

 

水の流れ

音楽の流れ

流れを司る女神がサラスバーティが、

中国から日本に伝わり七福神となり、

流通経済の発展と共に

流れを司る弁才天は

音楽の流れ、水の流れに、

「お金の流れ」が加えられ、弁才天から弁財天へと変わった。

 

奈良時代は、

仏教の守護神・弁才天だったものが、

室町時代になり、

経済発展により貨幣の使用が盛んになり、金運財運などご利益を求める信仰が広まり、

福の神「弁財天」へと変わり、同様に弁財天の使いである蛇も、金運財運の蛇神さまになった。

 

日本古来の信仰と言うより、

約600年前に生まれた、比較的新しい信仰だったようだ。

 

インドの水の女神サラスバティーとは

「水を持つもの」と言う意味で、

元はサラスバティー川という河の名前だったとも言う。

日本では、厳島神社に祭られる「市杵島姫」と同じ神であるとされ同様に祭られた。平家にとっての、海運の女神た。

 

ヒンズー教の女神として紹介される事も多いが、ヒンズー以前、仏教、バラモン教まで遡り、更にその起源は3千年以上前のアーリア人の水の女神

「アナーヒター」であると言われる。

 

インドのとても古い水の女神様なのだ。

 

そして、インドでは「蛇」は弁才天の使いとされていたが、

 

何故、水の女神「サラスバティー」は蛇を使わせたのか?

 

「蛇は蛇行するので、川の流れと同じだから」

「蛇も水辺にいるので、同じ水の神様だから」では、あまりに根拠が弱い。

 

土俗的な学者などは「同じ水神と考えられた」等と説明するだけで終わりにしがちな事だと思うが、

古代インドの世界に遡ってみて、

もう少し「蛇と水神」の具体的な関係について追ってみたい。

 

 

 

【水辺にいる「蛇神」の正体とは】

日本に水稲作が伝わったのは2000年以上前のことだが、インドの水稲作は早く、約6000年前から行われてきた。

日本古来の伝統的なソウルフードに思われがちだが、水稲はもともと熱帯植物であり、日本に伝わってから品種改良をして何世紀もかけて東北でも稲が作れる様になった。とても

インドの水稲作6000年の起源には及ぶものではない。

 

農業に水は不可欠であり、インドの農耕民族が水神を祭るのは、当然のことだ。

中国北方の黄河文明は、水稲を作ることができなかったが、粟、稗、小麦などの雑穀類を作っていて、

そして、農耕民族である以上、水の神はやはり同じ様に祭られていただろう。

 

しかし、小麦農業には蛇は登場しない。

 

黄河ほど蛇行する川は無いと思うが、それでも蛇の蛇行と同じに考えられ崇められていたと言うことは皆無な様だ。

何故だろう?

6000年前のインドの水田風景を思い浮かべてみたい。

 

 

すくすくと育つ稲を守ってくれているのは、

トンボやカエルなど害虫を食べてくれる生き物たちだ。

土器や銅鐸などの遺物にもトンボやカエルは時々描かれている。

水稲作の農耕民族にとってカエルは、水田の安全を象徴する心象風景なのだ。

(※クリーチャーマニア的な土俗的信仰ということではないです😅)

 

しかし、このカエルを狙って水蛇が現れる。

水蛇がカエルを食べてしまえば、稲を害虫から守ってもらえない。

カエルを食べる蛇は、水稲作の農耕民族にとって

神の使いどころか、害獣なのだ。

 

蛇行する川と同じに考えて、蛇を崇めている場合ではなかった。

 

では何故、蛇は「神の使い」とまで崇められたのだろうか?

 

前回の投稿でも詳しく書いたが、インド人にとって信仰の対象となり得る「蛇」とは、唯一の蛇の王

キングコブラのことなのだ。

 

そして、

キングコブラの好物は水蛇であり、キングコブラは好んで他の蛇を捕食する。

日本の動物園などではアオダイショウを餌として与えているという。

蛇を食べる蛇キングコブラが水田にやってきて、蛇を退治してくれる事は、

農民にとってはまさしく「神の使い」であった事だろう。害虫を食べるカエルを守ってくれる存在だ。

キングコブラは大人しい性質で、人が驚かせない限り自ら人を襲う事はない。

 

水田の守り神・水の女神が使わせた「蛇を食べる蛇」キングコブラであればこそ、人々の

信仰の対象となり得たのだ。

 

しかし、

黄河文明で小麦を作っていた中国人や、

キングコブラを知らない日本人にとっては、

水の女神と「蛇を食べる蛇」キングコブラの存在が、どれだけ収穫の助けになっていたかなど、全く想像が及ばない。

 

只、その「水神と蛇」という関係だけが伝わり、後付けで理由を考えて理解していた事が多いようで、蛇神の説は諸説あり決め手がないのだ。

日本の民俗学では、

蛇を水神としてのみ扱っている。

今でも水道の口を「蛇口」と呼ぶ様に、古来よりずっと蛇と水は重ね合わされてきた。

 

私達、日本人にはとても思いもよらない事だが、

「蛇と水神」の組み合わせの起源は、

6000年前のインドの水田から始まったのかもしれない。そして、

600年前の日本で、金運財運の神へとかわった。

 

インド、中国、日本へと伝わっても

蛇はサラスバティーのスピンオフ(眷族)でしかなかった為に、

龍神に換えられると言う事もなく、

 

水神の使いの

蛇として残り続けてきた。

 

✨✨✨✨✨✨✨

長い話を最後まで御覧頂き有難うございました。🙏


【蛇神・完全理解】Ⅱ.大物主その後「蛇の姫」とホムツワケ 

2025-02-09 | 古代ミステリー

2025巳年🐍古代ミステリーシリーズ

出雲連邦王国の盟主を「大国主」と言い、蛇をレガリア(象徴)とする王家だった。

天孫族の侵攻により出雲は国を譲ることになり、祭祀だけが残された。前・大国主であった大物主のその後の子孫を追っていく。

 

 

【毒蛇は南の王族の象徴】

中世、インド仏教が中国に伝わると、中国人は仏教の守護神である蛇神を全て龍神に変えてしまった。日本に伝わる時には、「八大龍王」「九頭龍」など私達が知る龍神さまへと置き換わっていた。龍に対する強烈な信仰の前では、蛇神が残る余地はない。

 

 タイ

(仏教の守護神・蛇神ナーガ。蛇体で顔が仏様で頭にもトグロ)

 

単純に、龍も蛇も同じとファジーに(曖昧に)考えてしまうのは、どうやら私達日本人独特の発想のようだ。 

 

そして、キングコブラなど強力な毒蛇が生息する南へ行けば行くほど、逆に龍はいなくなる。

 

蛇は毒蛇として日常的な極めて危険な現実であった為、

想像上のあやふやな存在である「龍」に置き換えられるファジーな現象は、南方では起きにくい。

キングコブラはインド~インドシナ半島、中国南部にかけての熱帯雨林や平原に生息し体長は3~5.5mの世界最大の毒ヘビで文字通り「ヘビの王」。

ひと咬みで、ゾウ一頭の致死量となる毒を注入する。

人間であれば咬まれた手足を即座に切断しなければ、毒がまわり生き延びることは難しい。

 

(その辺の草むらにいるキングコブラ)

 

中国南部、台湾、ネパール、インドシナ、ベトナム、フィリピン、インドなど南に行くほど、

キングコブラ、フィリピンコブラ、 クサリヘビ百歩蛇(噛まれると100歩くうちに命を落とすという)、ウミヘビなど、

人々は強烈な毒蛇の脅威にさらされ恐れながら生きていた。

 

そして同様に南に行くほど中国系の支配は薄くなり、龍神の入り込む余地はなくなる。

 

南方の人々にとって毒蛇は、身近な脅威の存在なのだ。

 

キングコブラの毒蛇最強の強さゆえ

「王族は蛇の子孫である」としたり、

蛇を王家のレガリア(象徴)として人々を畏怖させる為、支配者達は積極的に蛇の脅威を信仰に取り入れ利用していた。

 

例えば、

強烈な毒蛇がいないエリアでは太陽神が最高神とされ、王は日本でも日の御子であるが、

南の毒蛇地帯では、「王族は太陽と蛇の間に生まれた御子を始祖とする」といった感じになる。

 

そして、

「蛇は王族を咬まない」

「王は咬まれても死なない」等と人々の脅威をそのまま王族への畏怖に転化した。

インド仏教では、キングコブラを仏の守護として取り入れ蛇神ナーガが誕生した。

エジプトでも有名なツタンカーメンで知られるように、コブラは王家の紋章(レガリア)であり、王族の王冠にも蛇形が取り付けられる。

 

百獣の王ライオンでさえコブラにもしも咬まれれば、のた打ち回り動かなくなるのを知っていた人々は、ライオン以上にコブラを畏怖していて、

頭に巻くコブラのモチーフと女王が身に着ける蛇のアミュレットは、火を吹くと信じこませ人々を恐れさせていた。

(王家の紋章コブラをモチーフにしたツタンカーメン王)

 

 

【古事記を読み解く】

(ここから先は古代ミステリーらしく、万世一系と言うセオリーから外れて書き進めています。分かりにくいところもあると思いますが、ご容赦下さい。)

 

古事記が編纂されるはるか昔、弥生時代の先住部族と後からやって来た渡来部族たちとの間では、結び、同盟、国譲り、など離合和合が繰り返されてきた。

南方からの渡来部族は、犬戎、大物主、ニニギ、卑弥呼の一族などであり、北方からの渡来部族に比べると数が少ない。

中でも蛇をレガリアとしていたのは大物主で、古代日本では稀な『蛇』の王族だった。

 

北方系は、神武、扶余族、威徳天皇、ヤマトタケル、垂仁天皇、崇神天皇、秦氏、スサノオ、天武天皇、継体天皇、聖徳太子などの勢力で英雄キラ星の如く現れ圧倒的に 南からの渡来人は埋もれがちである。

 

 

彼らは縄文人の子孫ではなく、弥生時代以降に海の向こうの何処かから文化や、水稲作、製鉄、機織り、金の精製などを携えてやってきた渡来人だが、

古典の世界(古事記・日本書紀)では、神話化され記されている為、

「海を照らしてやって来た」とか、

「常世の国からきた」などとされ、

実際は何処の国から渡来してきたかという研究は、日本ではあまり進んでいない。

 

本当に天上界から空飛ぶ船に乗って降臨してきたという様な神話を、史実として信じている人はいないと思うが、

「では実際は海の向こうの何処の国からやってきたのか?」という事になると、

神話の世界を侵してしまう為、歴史の世界ではこのタブーにはなんとなく踏み込めないでいるのだ。

 

そして、私たちが知っている歴史とはこのタブーを侵さない日本という国の国史であり、日本列島が抱いてきた日本列島史とはまた趣きが違う。

段階的に大陸側から、亡命者や移民らが日本列島に辿り着き、国土と殖産を開いてきたのが日本列島が抱いてきた歴史だ。

 

しかし、それでも古典上では(古事記・日本書紀)それぞれ来日した王たちが一つの系譜にまとめられるのは、

渡来部族と先住部族、お互いの王子と王女・嫡系同士を婚姻させ両氏の王統を継ぐ王子を生み出したからに他ならない。

聖徳太子やヤマトタケルなどは王とならず、その次の世代から王統が始まっていくのはその様に外来部族と先住部族の王統の統合が行われた特徴を示している。

 

 

【蛇の姫とホムツワケ】

垂仁天皇(慕容垂)

 

4世紀ごろ北方の燕の国からやってきた、

第11代・垂仁天皇の御子の神話。

ホムツワケ王子は大人になっても言葉を話せなかった。

夢のお告げで「出雲の神の宮を天皇の宮と同じに綺麗に建て直せば話せる様になるだろう」と、

出雲の大神より知らされ、ホムツワケは出雲に行った。

そして、声を発するようになり、出雲の肥長姫と結ばれたた。

しかし、姫の正体は蛇だったため

ホムツワケは恐ろしくなって大和(奈良)へ逃げ帰った。

 

「大人になっても話すことができなかった」という天皇や王子が古典(古事記・日本書紀)の中には幾度か出てくるが、

実際に失語症の王族が多かったという訳ではない。

古事記という神話から歴史を読み解こうとする基本的な解釈では、

母国語が日本語でない渡来人だったため話せなかったという場合に使われる表記として考えられている。

 

「赤子の様に泣いてばかりいた。」と言うのも、意味の通じない声ばかり出していた表記と解釈される。

スサノオやアジスキタカヒコネらがそれにあたる。

 

大和王朝などより歴史が古い出雲王朝では、和国語も朝鮮・中国語も話せる言語に精通したものも居て、ホムツワケは出雲に行って和国語が話せるようになったのだろう。

 

(それにしても昔の日本人は変な名前ばかり。渡来人らしい名残りが生々しい。)

 

この神話は、近世で例えて言うならば

—京都の御所は徳川幕府に対し、『将軍のお世継ぎの世話をするので、建物を立派に直してほしい』と、お願いした程度のエピソードかと思われる。

 

祭祀権を継承している出雲に対し、奈良の大和朝廷は接近しすぎに警戒したのだろう。

神話に登場する出雲大神とは、大物主(大国主)と思われるが、

垂仁天皇の王子と、

出雲の姫の嫡系の統合は、

蛇をレガリアとする大物主系の姫

=『蛇の姫』である事を恐れたホムツワケが逃げた為、

叶わずに終わっている。

 

言語留学はしてもそのまま、出雲との関係は深められなかった訳だ。

そしてやはり、ホムツワケは終始「御子」と呼ばれて王子の扱いが続いていた。

 

(古事記を編纂した人はつくづく見事だと思う)

蛇をレガリアとする古部族の扱いや交渉の歴史を、「夢のお告げ」「正体は蛇だった」などと神話化して書きとめている。ファンタスティック。

 

南方渡来の大物主(大国主)からは、

少し脱線するが、

蛇のレガリアのエピソードを一つ、

 

🐍古代中国では蛇をレガリア(王家の象徴)とする国に対し明確なイメージが存在していた。

通常、周辺諸国に金印を授ける場合、南方の諸侯に贈る金印は取っ手が蛇になっているのだ。

中国江南の許氏の一族の出自である「卑弥呼」に中国が贈った金印は、取っ手がヘビになっていると言う。

 

(出雲大社に奉納されると言うトグロを巻いたセグロウミヘビのシルエットに似てる)

 

倭国で、南方渡来の大物主が大和で勢力を伸ばしていた時代にも、やはり蛇の金印が漢委奴国王へ贈られた。

 

他に取っ手は、「ラクダ」「龍」「亀」などがあり、それぞれの方面の象徴が意味付けがされている様だが、和国の扱いはまだ「蛇」だった様だ。

 

古代はこうした蛇を王家のレガリア(象徴)とする南の部族が多く、中国の認識も日本でもそのようだったに違いないが、

やがて時代が下ると、大物主勢力は落ちぶれ南方渡来の王族であったことさえも忘れられ、

古事記の時代になると毒蛇コブラの強烈な強さも知らぬまま、

ただの蛇を象徴する氏族として扱われていた。

勿論、

現代の私達もキングコブラの脅威のある暮しも分からず、脱皮による死と再生のイメージなど、ただの蛇に対する信仰だと思っている。

南方の人々が雪国の暮しが想像できないのと同じで、私達も南方の人々の暮し(特に古代の)が分からないのだ。

 

垂仁天皇の王子ホムツワケが逃げた

「蛇の姫」こと肥長姫は、「海原を照らしながら追いかけてきた」と記されるが、海原を照らしながらやってきたのは大物主の事でもあるので、やはり大物主との繋がりを示している。

前回の投稿でも書いたが肥長姫、手長姫など、「長」姫系の姫は、インド仏教の守護神・蛇神「ナーガ」が起源であると言われている。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

そして最後に、

この時代の日本列島ではまだ「蛇神は龍神と同じ」として容易に龍神に換えられていくことはなかった。

 

勿論、インド仏教が中国に伝わるよりずっと以前のことで、

仏教守護神「法華経」の八大龍王も九頭龍も、まだ日本には登場していない。

 

列島が統一され完全な日本国となる以前は小国が乱立していて、

渡来してきた大部族たちは、

先住の異民族を指して「土蜘蛛」「鬼」「蛇」などとその特徴に対する呼び名で呼んでいた。

正体は蛇だったというのは神話上の比喩でしかなく、蛇をレガリアとする氏族だったという意味であり、

神話化して描かれているが、実際に蛇の姿をした人間がいたという訳ではない(笑)

鬼、蜘蛛人間、蛇人間はいなくて、只の特徴として呼んでいたのだ。どちらかと言うと悪い意味合いで、、なので、

「土蜘蛛」「鬼」など異民族への呼称が、鳳凰や麒麟にバージョンアップされ変化すること等ない様に、

前王朝の「蛇」もまた龍と呼ばれることなどなく、

蛇は蛇のままであり続けた。

 

✨✨✨✨✨✨✨長い話を最後まで御覧頂きありがとうございました。

パートⅢ.大物主のその後「蛇の王子」に続く。


【蛇神・完全理解】Ⅰ.出雲系の蛇神

2025-02-01 | 古代ミステリー

2025巳年🐍古代ミステリーシリーズ

神社の紹介ではなく蛇神様について綴っいます。そこそこ長文ですが、興味のある方はご覧下さい。😌🙏

 

【日本の蛇神信仰のいくつか】

蛇神さまとは?

 

日本では金運財運の神であり、

 

水神、龍神と同じにされたり、

 

縄文人の信仰だと思われていたり、

 

蛇は脱皮をして生まれ変わるので『死と再生』のイメージを信じた、、など西洋的なイメージで語られる事も多い。

 

マニアックなところでは、

蛇は地の神、池の神であり虹をかける。

虹が出ると、「蛇が出た」と言う地方もあり、開墾の為に土地を地の神から分けて貰う時は蛇神さまに声かけをした。

 

他にも農耕の神らしい信仰も残されているが、多くは水神や龍神におき換えられしまった様で、蛇神さま本来の姿が見えにくくなってしまった。

 

カカ、ハハ、ヘミ、ミズチ、ノヅチ、オロチ、など蛇に関わる古い言葉だけが残されている。

 

蛟蝄神社(こうもう神社)茨城県利根町立木882

=こうもうとは水辺にいる蛇が伝説化された存在。

神社の社名は蛇だが、ご祭神は水の女神「罔象女大神」ミツハノメが祭られる。

 

知っている様で知らない、神秘的な

蛇神さまの世界を探ってみたい。

まず今回は、出雲系を書いていくが、

出雲の蛇神とは、、?

 

【出雲の大物主の蛇神】

毎年、出雲では神在祭(神在月)の季節になると、南方の海から海神の使い『セグロウミヘビ』が流れつき、出雲大社などに奉納される。

 

旧暦の10月、現在の11〜12月頃にかけて、全国の神々は出雲に集まる為、その間は神無月となるが出雲では神在月となる。

 

調度この頃に、黒潮に乗って遥か南方の海から移動してきたセグロウミヘビが、荒波に揉まれ出雲の北の浦に打ち上げられるのだ。

 

黒潮とは=赤道付近フィリピンから日本列島まで流れてくる幅100キロ深さ1000m にも及ぶ 世界最大の海流で、九州で対馬海流として別れ日本海を抜ける。

 

出雲では、この季節は「お忌荒れ」という言葉があり、例年吹雪や嵐で天気が落ち着く時がないらしい。

(最近は気候変動で変わり始めたとか🤔)

 

打ち上げられたセグロウミヘビは龍蛇神🐍と呼ばれ

奉納する時は、トグロを巻いた形に綺麗に整えられて

 

出雲の

⛩️佐太神社、⛩️出雲大社、

そして日御崎神社に奉納される。

トグロを巻いた形のウミヘビ

 

実写版 奉納されるウミヘビ

 

ちなみに

⛩️佐太神社は悪縁切り

⛩️出雲大社は良縁結び

 

のご利益で知られるが、

まず先に悪縁を断ち切らなければ、

良縁は巡ってこれないので、

⛩️佐太神社→⛩️出雲大社と合わせて周ればご利益は絶大かもしれない。

 

それにしても、縁結びと蛇は関係あるのだろうか?

 

 

【セグロ海蛇の故郷】

1万年以上前から日本列島に住み縄文土器を作っていた縄文人と区別し、

新たに日本列島に渡来してきた土器文化の違う人々を弥生人と言う。

 

弥生時代になり、

 

彼らは北方や南方から段階的に日本列島に渡来し、水稲作や製鉄文化を持ち込んだ。

 

東南アジア・中国江南地方など南方から渡来してきた弥生人が出雲の『大物主』の部族であり、セグロウミヘビの辿る黒潮ルートが渡来ルートでもあったので、

 

日本列島までやって来る南海の象徴であるセグロウミヘビは、古来より海神の使いと考えられ『龍蛇神』として祭られていた。

 

インドでは、キングコブラが蛇神ナーガとして信仰に取り入れられたが、

セグロウミヘビも強力な毒を持つ水棲のコブラで、強さゆえ元々信仰の対象だったのかもしれない。

 

また、

海のシルクロードと呼ばれた南海航路から半島・列島まで北上してくる船乗り達にとって、

黒潮に乗って海面近くを泳ぐセグロウミヘビの姿を見つける事は、

航路が黒潮に乗ってる事を示すまさに守り神の様な存在であり、

 

その姿にさぞかし安堵したはずだ。

ちなみに、ヒ長姫、手長姫、など長(ナガ)姫系の名を持つ姫神の「長」とは、インドの蛇神「ナーガ」が語源であると言う。

何れにせよ、

セグロウミヘビが、奉納するほどの価値がある存在だと言う事は、同様に南方からやってきた人々のみが持ち得る情報なのだ。

 

通説として蛇は脱皮をするので『死と再生のイメージが蛇の信仰の対象である』と言う実しやかな説が、広く巷間で信じられているが、実は日本の蛇に対する信仰は一様ではなく蛇神それぞれに由緒や起源がある。

日本の蛇の死と再生の信仰イメージは根拠の無いいわば迷信であり、蛇神の信仰を浮かび上がらせる為にこれは一度取り払って深堀りしてみたい。

 

 

【縄文人の子孫ではない、弥生人の故郷】

古事記では、大物主は「海を照らしてやってきた」等と神話として描かれているが、

縄文人が住んでいた日本列島に、海を超えてやってきたのが弥生人であり、彼らは

 

北方ルート=朝鮮半島・ロシア沿海州側からやってきたか、

 

南方ルート=中国江南・東南アジアからやってきたのか、

 

そのどちらかだ。

 

 

南海のウミヘビ

 

それにしても何故、

こんなにグロテスクなものが神様に奉納されるのかと思う。

 

セグロウミヘビは、ヘビの中で唯一の外洋性のヘビで何千キロを超える移動をする。フィリピンからハワイまで移動する事もあるらしい。

 

セグロウミヘビが、海を超え日本列島にまでやってきたと言う事に対する畏怖は、

実際に、千里万里の航海で南海を超えてやってきた人々だからこそ感じ得るものであり、

人々がセグロウミヘビを奉納してきたと言う事は、やはり大物主(オオクニヌシ)は、北方ではなく南方渡来であった事を示している。

 ※南方=中国の越、または南越、百越、(上海、香港、ベトナム、ネパール等)

 

「古事記に伝わる日本神話」

初代・大国主となったスサノオは、娘のスセリ姫の想い人を「葦原の醜い男」と呼び厳しい試練を与えた。しかし、葦原の醜男と呼ばれた「大己貴」(オオナムチ)は、大和で幾多の試練を乗り越えて、ついに十種の神宝を手に入れスセリ姫と結ばれた。

そして、「お前は出雲に行き、兄弟たちを退け大国主となれ」とスサノオから大国主の地位を継ぎ、出雲へいき出会ったスクナビコナと共に国造りを行った。

スクナビコナは国造りを終えると、常世の国(海の向こう)へと帰ってしまった。

大国主が途方に暮れていると、大物主という神が海を照らしてやってきた。

 

南方からやってきた大物主は、次世代の大国主となり出雲・大和を治める盟主となり、大和の三輪山に祭られた。

 

 

【黒潮文化圏の象徴セグロウミヘビ】

黒潮文化圏の移動は3万5000年前から続いてきた。

日本列島に文化、水稲作、製鉄をもたらした黒潮は、透明度が高く海面が黒っぽく見える事から「黒潮」と呼ばれるが、背中が黒いセグロウミヘビは、黒潮では保護色となる為、まるで黒潮に合わせて進化した蛇の様だ。

 

約2000年前、紀元前2世紀〜紀元頃に、

長崎県の壱岐の島に「一支国」と言う国が興り、

「原の辻󠄀」と言う都が置かれ大変栄えていた。日本最古の船着場も発見されている古い都だ。

 

 

壱岐の島は平地が少なく食料の自給ができず、海上貿易だけで成り立っていたというので、

二千年前から船の行き来は相当あったようだ。

 

熱帯にしかいないゴホウラ貝の装飾品も、

紀元前200~紀元300年頃まで各地の墳墓や遺跡から数多く見つかっている。

 

南シナ海から北上する黒潮の航路は「海のシルクロード」と呼ばれ、古代から交易が行なわれてきた。

 

当時は、

朝鮮半島南部にあった伽耶国が良質の鉄を産出し商人の垂涎の的となっていて、遠くインドからも鉄を求めて商人がやってきたという。

壱岐の島は、船乗り達にとっての海上のオアシスであり、出雲に向う神々も一度壱岐の島に集まってから向かったそうだ。

 

壱岐の島「龍蛇神神社」

 

南シナ海から「海のシルクロード」を超えてやってくる商人達も、壱岐の島に着き心を安らげた事だろう。

カツオをはじめ熱帯から日本を行き来する回遊魚は多いが、海面近くを泳ぐのはセグロウミヘビだけしかない。

南海から千キロ超える航海をする人々にとって、

黒潮に乗りユラユラと泳ぐセグロウミヘビに出会える事は、

航路を告げる吉兆であり神の如く崇めていたが、

スサノオの様に北方から渡来した人々にはその価値は分からない。

 

同様に、千キロ越えの古代航海も、かつて蛇をレガリアとする王族が南方から日本列島に渡来してきたことも、全て忘れ去ってしまっている私達は、その価値に気づく事がなく、

現代の私達がイメージする蛇の信仰に合わせて考えてしまっている。

 

セグロウミヘビは打ち上げられることはあっても自ら浜に上がる事はなく、

その脱皮さえ誰も見たことがない様な神秘的な存在だった。

 

出雲連邦王国の盟主の事を「大国主」と言い

初代・大国主のスサノオの時代には八岐のオロチ(オロチ=蛇)は退治された対象だったが、

南方の渡来人「大物主」が大国主の座についてからはセグロウミヘビは信仰の対象になった。

 

敢えて「蛇」とは言わずに「龍蛇神」と濁して呼んでいるのも、

そのあたりを憚っての事情もあるのかもしれない。

 

・・・パートⅡ「その後の大物主」に続く。

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨

最後までご覧頂きありがとうございました🙏