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ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

【蛇神・完全理解】Ⅴ.人頭蛇身の金運の神「宇賀神」さま

2025-03-07 | 古代ミステリー

巳年🐍古代ミステリーシリーズ

 

中世の福の神✨約600年前の室町時代

金運財運の『蛇神』の起源、白蛇弁財天についてなど、

シリーズⅢの投稿で書いたが、

 

今回も同じく中世の財運の神で、

『宇賀神』(ウガ神)と言う、

体は蛇で顔が人間と言う、一見変わった神さまについてのエピソード

 

【宇賀神とは】

人頭蛇身のウガ神様

 

白蛇弁財天と同様に、弁財天と合わせ

宇賀弁財天として祭られる。財運の神様

(上野不忍池の弁天堂の宇賀神)

 

稲荷神社などに祭られる豊穣の神さま

宇迦之御魂神(ウカノミタマ)と同じと考えられているらしいが、

 

Wikipediaでは、

「両者に名前以外の共通性は乏しく出自は不明」とされる。

(私もそう思う😅珍しくwikiと同意見)

ウカノミタマと、

ウガ神は

名前は似ているが、直接的な由縁はない。

(秦氏などを通じ間接的にはあるかもしれない🤔)

 

ウガ神の由来は、

梵語(サンスクリット語)の

「ウガヤ」

或いは中国の創造神

「ジョカ」

のいずれかだ。

 

 

古代インド語であるサンスクリット語の

「ウガヤ」とは白蛇の事であり、

 

ウガヤ弁財天だと、そのまま

白蛇弁財天と言う意味になる。

(ウガヤ→ウガ説)

 

【宇賀神と弁財天】

宇賀神さまは、

古来の神道でもなく

伝来の仏教でもなく、

中世の『白蛇弁財天』に対抗して作られた和製仏教神なのだ。

天台宗の総本山である比叡山延暦寺が教化した。

 

何故?天台宗比叡山の延暦寺は

室町時代の福の神信仰である

白蛇弁財天に対抗して

仏教の財運の神・ウガ神を作りだしたのか? 

(ちょっと窮屈そうな宇賀神さま)

 

金運財運の神さまに対する信仰は、

 

実はそう古くはなく、

600年前〜の室町時代から広がった。

 

それまでの庶民はまだ物々交換をしていて、お金そのものの使用がなかった為、

金運への信仰もなかった。

 

流通経済が発展した室町時代になり、

人々はお金を使いだし

経済の発展と共に

同業者組合『座』(ギルド)が生まれ

人々に金運財運に対する信仰が生まれ、

 

仏教の神で、水の女神・才能の神

 

『弁才天』は、→ 金運財運の神

『弁財天』へと変えられ、

福の神『七福神』と言う信仰対象になった。

 

社会的な分業と小売業の発達による

室町時代の独特な信仰だ。

 

奈良時代・平安時代と、弁才天は仏教の守護神だったが、仏教は庶民からほど遠い存在であり、室町時代の弁財天も仏教側が『福の神』として崇めさせた訳ではなく、幕府側が庶民的に発生させた信仰だった。

 

【時代遅れ平安仏教の福の神】

中世最大の武装勢力だった天台宗の総本山の延暦寺は、

貴族や天皇家による朝廷の時代の象徴であり、

 

大名と商人による幕府の繁栄の時代の信仰には関わりがなかった。

 

室町幕府三代目・足利義満将軍が天皇方(南朝)を倒し、

中国から「日本国王」の承認を受けると、

 

朝廷側の力は弱まり、最強の武装勢力だった延暦寺の影響力も今までどおりとはゆかず、時代に取り残され始める。

 

そして、新たに天下に広まった

武家階級や庶民階級の人々は、『七福神』や『鎌倉仏教』を信仰した。

 

足利義満が君臨していた頃は、延暦寺は幕府のコントロール下にあったが、

次の将軍の代になると延暦寺は真っ向から幕府と対立する。

 

こうした新旧の対立を歴て、七福神の金運財運の神に対抗して

延暦寺が新たに登場させたのが 

天台宗延暦寺の宇賀神さまではないだろうか?

 

仏教の『福の神』の誕生だ。

 

【仏教の福の神・宇賀神】

『七福神』では唯一の女神、金運財運の神である『弁財天』

日本には最初、仏教の神として伝わったが、仏教よりも古いインドの女神様だ。

その使いが蛇であり、

弁財天同様に蛇も金運財運の象徴とされた。

しかし、

仏教の福の神は『弁財天』とセットになっているのは蛇ではなく、

なんと人頭蛇体の宇賀神と言う神様だった。

蛇体に人の頭と言うのは、

中国の創造神である「女媧」と「伏羲」だ。

二人は、土を捏ねて人間を創造した神として伝わるが、

2体の蛇が体を絡ませてる姿で表現される。

中国の創造神(人頭蛇体)

 

女神が女媧(ジョカ)で、

男神の伏羲(フッギ)は、老人の顔で描かれている事が多い。

 

宇賀神さまは、

中国の創造主「伏羲」そのものなのだ。

 

仏教側が対抗して創作した蛇神であり

更にバージョンアップされ

普通の蛇より、白蛇、

そして只の白蛇よりも

『蛇体の創造神』と言ったところだろうか?

 

日本でなく南方であれば、ただの蛇ではなく

蛇の王・キングコブラが

間違いなくその対象になっていただろう。

しかし、弁財天の使いである蛇に、中国の創造神を持ってきてしまうあたり、

当時の天台宗延暦寺の強気なマウンティング姿勢が伺える。

 

中国との貿易で、巨万の富を築いた足利幕府と

中国から輸入された神々で造られた七福神信仰に対する、、

パワーゲームの様にも感じる。

 

かつて、専制政治を行なった白河法皇でさえ「サイコロの目と、山法師(延暦寺の僧兵)はどうにもならぬ」と嘆いた事があったが、

延暦寺は僧兵をもって、朝廷にも幕府にも引くことをしない独立王国の様にあり続けてきた最恐の武装集団だったのだ。

 

織田信長が延暦寺を焼き討ちしたのは

1回だけだが、

延暦寺が襲撃や焼き討ちを行ったのは、

50回を超える。

仏教徒なのに、仏教寺院を燃やすとはちょっと理解し難いが、延暦寺とはそういう武装集団なのだ。

 

延暦寺は戦国時代になっても武闘派であり反信長派と共闘し、信長からの講和を蹴ったことで焼き討ちに合ったが、この辺りの強気さはやはり最凶の武装集団だったと言わざるを得ない。

 

七福神の弁財天が生み出された当時も、室町幕府の足利義満の下では支配を受けたが、

権威的になりすぎた延暦寺としては、プライドが許さなかったのだろう。

 

白蛇弁財天に対抗し、

ウガヤ(=白蛇)と言う神名を使いつつ

蛇ではなく、わざわざ中国の蛇体の創造神をもってくるなど考えられない事だが、

最狂の武装集団「延暦寺」ならば、あり得なくはない。

 

それにしても、『女媧と伏羲』

中国版のイザナギ・イザナミは、何故蛇体なのか?

 

 

【女媧と伏羲】

室町時代は明の「封神演義」と言う女媧が登場する小説により、中国の創造神が再び脚光を浴びる様になった時代だ。

中国人の始祖である神は何故、蛇体なのだろうか?

 

中国4千年の歴史というが、北の黄河文明より南の長江文明の方が数千年も古い。

水稲作が、長江の中流域で8000年以上前から行われていた農耕文明だ。

 

稲作は6000年前にインドに伝わる。

水田の害虫を食べるカエルが稲の生育を助けていたが、カエルを狙って水蛇がやってくる。

蛇とは南の稲作民族にとって、稲を守るカエルを食べてしまう害獣だった。

そして、

稲を守るカエルを蛇から守っていたのが、「蛇の王者」
他の蛇を好んで食べる習性がある

キングコブラだった。

 

南国の稲作民族にとって、害獣の蛇は信仰の対象ではなく、蛇を食べる

「キングコブラ」こそが、

水田の守り神的存在だったのだ。

 

人々は蛇の王キングコブラを崇め、

王族や宗教家たちは、積極的に人々のコブラへの畏敬を信仰に取り入れた。

「王家の始祖は蛇(コブラ)である」

「蛇(コブラ)は王家の象徴」

「王族は咬まれても死なない」

などとして、人々のキングコブラへの畏怖をそのまま王族への畏敬に転化していったのだ。

 

なので、キングコブラの国では神や王は蛇体で描かれていることが多い。

 

インド・タイ=7匹のキングコブラ「蛇神ナーガ」

 

エジプトの王家の紋章も蛇(コブラ)にしているが、

コブラの国=コブラの棲息する南の農耕民族にはこれらは共通してみられる特徴だ。

 

エジプトでは、身体が人間で頭部が蛇で描かれる事が多いので、蛇神とはコブラだと言う事が一目瞭然だ。

エジプト=頭に王家の紋章コブラ

 

稲作は、雲南省の森林地帯で始まったと言われているが、雲南省もまたキングコブラの棲息域であり、

他のキングコブラの国と同じ様に、

始祖を蛇とする信仰があり、やはり中国の創造神も蛇体で描かれているのだろう。

 

蛇体の神「伏羲」は、中国雲南省、タイ、ベトナム、ミャンマーに住むミャオ族(モロ族)が崇めている神で、

北の黄河文明に負けた、南の長江文明の人々だ。

 

(中国雲南省の水田風景)

もともと稲は熱帯性の植物であり、

古代の稲作文化とキングコブラへの信仰は共に存在してきた。

南方の人々にとって、

蛇の王キングコブラだけが、唯一の蛇神として信仰の対象となる蛇なのだ。

 

今回もまた蛇神(宇賀神)の起源はキングコブラになった様だが、

 

しかし、キングコブラが普通にいる水田風景が想像できない私達は、

 

(その辺に普通にいる最強のコブラ)

南方の農耕民族にその様な畏怖すべき🐍信仰の存在があったことなど知らず、

 

「脱皮をする蛇の死と再生のイメージ」「蛇行する蛇と河の蛇行と重ねあわされた」という、

普通の蛇のとってつけた様な信仰イメージを、信じ続けている。

 

弁天堂の前の「宇賀神」さまも、

なんとなく窮屈されている様に感じた。

✨✨✨✨✨✨✨✨

 

長い話しを最後までお読み頂きありがとうございました🐍


【蛇神・徹底理解】Ⅳ.ミシャグチの蛇

2025-02-25 | 古代ミステリー

巳年🐍古代ミステリーシリーズ

今回は、蛇神そのものの信仰ではなく蛇を使って行なわれていた不思議な神事のお話です。

マニアックな投稿ですが、大和王朝より以前の古代信仰に興味のある方はご覧下さい。

 

【ミシャグチ】
長野県の諏訪に、『ミシャグチ』と言う信仰が残されている。

諏訪を中心に、東日本に三千カ所くらい広がっていて、依り代となる神木の前に
石や祠、又は『石棒を納めた祠』などが祭られている。沖縄の聖地、御嶽と同様だ。

古くからある不思議な信仰で、古神道あるいは縄文から続く様な古代の様相が色濃く残されている。

 

「御左口神社」(ミシャグチ神社)

ミシャグチは、御社宮司、御社宮神など当て字が200種類ほどあり、地域によって様々だ。

漢字文化が渡来する以前から、既に「ミシャグチ」と言う名の信仰が

各地に広がっていた為と思われる。

 

今では失われてしまったが、

諏訪大社前宮の『楓の宮』(かえでの宮)で行われていた神事では

「蛇」が使われていた。


※「前宮」=前の信仰のあった場所の事。元宮や奥宮の様に、元々あった神社の起源の場所と言う意味ではなく、もっと以前からの信仰が存在していた聖地をさす。


諏訪では、大王の事を大祝と言い、

ミシャグチ降ろしと言う不思議な即位儀式が行なわれていた。

 

 

【ミシャグチ降ろし】
大王(大祝)の直系の長子である

7〜8歳ぐらいの少年に対し、

神長の守谷氏(洩矢氏)によって行なわれる儀式。

 

①少年は、精進屋と言う宮に閉じ込められ、長くて厳しい斎戒期間を過ごし、スピリットが憑き易い状態に浄化される。

 

「精進屋」(長野県茅野市)

 

②カエデの木の下の岩座に、この斎戒が終わった少年に白装束を着せて座らせる。

 

③神長が、サナギ※と言う神代矛を縦に持って上下に上げ下げを繰り返してミシャグチ降ろしを行う。

※サナギ=天照大神の 天岩戸隠れの時に、天鈿女命が使った神具

 

④上げ下げ※を繰り返していると、木に「ミシャグチ」と言われるスピリットが降りてきて、木の下にある岩座の少年に依りつかせる。

 

※この上げ下げは映画「となりのトトロ」で大地に生命力を降ろす為、トトロが傘を持って上げ下げした動作と同じだ。

 

⑤ミシャグチと言う神霊を宿した少年は、この儀式により「現人神」となる。

そして、御神託を頂く。

 

これは、

天皇家の大嘗祭においても同様であり、

新天皇の肉体を魂の容れ物として、

天皇霊を依りつかせ、

即位した時に体に入れ高御座から神言(ミコト)を伝えると言う神事と似ていると言う。

 

 

【冬ごもりの神事】
ミシャグチ信仰では、年75回の神事があり、冬には「かえで宮」と言う、

竪穴住居の様な冬ごもりをする穴倉を作り、長い間籠もって行う神事があった。

地面を深く掘下げて、屋根で覆い
地中に埋もれさせる様な形で、
土室を作る。

 

御室(みむろ)と呼ばれていて、

そして、この御室には、

御神体のミシャグチ(石棒)と、

綱で作った蛇のレプリカを三体入れておく。

元々はレプリカではなく、冬眠中の蛇が入れられてたらしい。

蛇のレプリカも、トグロを巻いた冬眠のポーズで作られていた。

 

冬になると、

12月22日から3月13日まで、

ずっとこの土室に神長

ミシャグチを降ろした少年が篭もって祭祀と宣託を受ける神事を行う。

 

神の使いとして、各地を廻らせる少年達もここで選ばれる。

ミシャグチの御神体とされる石棒は、

縄文中期から、この地方を中心に石皿とセットで残され、

諏訪を中心に方々の神社で祭られていた。

 

 

日本で唯一、

縄文人の残したの遺物を祭っているのは、

ミシャグチ信仰の神社だけかもしれない🤔

 

 

【闇の半年】

この土中の冬ごもりの神事は、

古代縄文人や古代ケルト人に繋がる様な、独特な習慣の様だ。


何故、1万キロも離れたイギリスと日本、
古代縄文人と古代ケルト人が同じ文化を持っていたかは不明だが、

約7000年~3000年前、

同じ様にストーンサークルを作っていた民族だ。

 

イギリス🇬🇧

 

日本🇯🇵

 

イギリス🇬🇧

 

日本🇯🇵

 

イギリス🇬🇧

 

日本🇯🇵


イギリスにはビーカー人が、


日本列島には弥生人が渡来してきて、

縄文人もケルト人もどちらも同じような時代に姿を消してしまった。


ケルト人は、1年を半年ごとに区切り

5月から10月の終わりまでを

光の1年、

11月から4月の終わりまでを

闇の1年、

としていた。

 

私たちの、半年が
ケルト人にとっての1年だ。

古代諏訪でも同様に、半年を一年としていたと言う。


10月の終わりに行なわれるハロウィンはケルト人の大晦日にあたり、もともと

光の1年の終わりの祭りが起源であり、

4月の終わりに行なわれる諏訪の「どぶろく祭」は、

闇の1年の大晦日に当たるお祭りだ。


しかし何故、闇の1年の冬ごもり

御室では神事に蛇が使われていたのか?

 

 

【冬眠】

冬ごもり神事で蛇が使われていたのは、

蛇の脱皮に対する再生イメージの信仰というより、

冬眠する動物に対する死と再生のイメージであり、

冬眠そのものに対する信仰からだ。

 

枯れ木も死んでる様に見えるが、春に開花するエネルギーを蓄えている。

冬眠中の蛇も、死んでる様に眠っていても春に目覚めるエネルギーを蓄えている。

 

光の1年で収穫された魂は還り、

闇の1年のうちにエネルギーを蓄え、

再び

生の世界に帰ってくると言う。

 

 

冬の間に、

魂はエネルギーを蓄えて再び生する。

 

農耕民族にとっても同様で、冬は
稲魂も、発芽のエネルギーを蓄える。

 

冬の過ごし方によって 翌年(半年)の実りや 収穫は豊かなものになる。


縄文人の影響を強く受け継いでいると言うアイヌにも、狩猟民族の独特な祭事に共通点があり、

アイヌでは冬眠しているクマが供物にされると言う。

冬眠する動物への信仰は、

カエルなどで代用されたりもしているので、

やはり古代人の

冬眠そのものに対する理解と、

信仰が古くからあったようだ。

 

御室は、冬篭もりが終わるととり壊され、

また作られては埋められる。


御室の前には供物や宴をする為にあった

『十間廊』と言う建物があるが、

(諏訪大社前宮・十間廊)

この様な建築物を作らずに、

千年~二千年もの間、

毎年毎年、わざわざ穴を掘り、

12月〜3月まで籠もり、

そしてこわすと言う事は、

それ自体が蛇の冬眠を模したイメージに他ならない。

 

闇の1年は、

春に生まれてくる魂の力を

蓄える大切な時期である。

 

冬ごもりの神事では、

 

冬眠し春に再生する蛇が、

その象徴として

供えられていた。

 

 

✨✨✨✨✨✨✨✨
最後までご覧いただきありがとうございました🙏

 

まだまだ、身も縮むような寒さが続きますが、縮こまって身にエネルギーを集め

春を迎えるエネルギーを蓄えましょう。


と、
あまりに寒くて布団から出れず
篭もりながら
このブログを書いてます。🙂‍↕️


【蛇神・完全理解】Ⅲ.金運財運の神・白蛇弁財天の登場

2025-02-16 | 古代ミステリー

巳年🐍古代ミステリーシリーズ

前回までは2000年前〜1700年前くらい、古代の蛇の信仰について書いた。

蛇をレガリアとする大物主の系譜を追い、蛇のエピソードを書こうとしましたが、あまりに長くなってしまい💦

ここで一旦古代から離れて、中世へ

 

更に1000年以上時代をくだった、

約600年前の室町時代の蛇神について書いてます。 

😌🙏長文でマニアックですが、

金運財運の蛇✨の起源に興味のある方はご覧下さい。

[目次]

・メイドイン・チャイナ

・福の神の輸入

・七福神の誕生

・金運財運の神・白蛇弁財天の起源

・水辺にいる蛇神の正体とは

 

 

【メイド・イン・チャイナ】

前回も書いたが、世界最大の毒蛇『キングコブラ』の国・インドでは、蛇は身近な脅威であり人々に恐れられていた。

王族や宗教家は「蛇を始祖とする」「蛇は王家の紋章」など

人々の蛇への畏怖を積極的に信仰に取り入れ、王族に対する畏怖へ転化していった。

そして毒蛇の最強の強さ故、インドなど強烈な毒蛇が身近にいる南方では、

蛇神はいても龍神はいなかった。

 

『龍神』は中国的な存在なのだ。そして

『蛇神』はキングコブラの国・インドならではの存在だった。

 

インドの仏教が中国に伝わると、仏教の守護神『蛇神ナーガ』を中国人は全て龍に変えてしまった。

そして八大龍王や九頭竜が誕生し、

中国仏教が日本に伝わると、日本古来の蛇神や水神などは、

仏教の法華経の守護神だった「龍神」に置き換えられていった。

 

この『インド→中国→日本』と言う

いわゆる北伝ルートは、

中世の日本の経済発展と信仰の発展

『福の神の信仰』にも重要な役割を果たした。

 

どんな、時代だったのか?

 

千年ほど前、

宋の頃からようやく中国は自国の造幣権を安定させ、鎌倉幕府は日宋貿易を行っていた。

 

 

【福の神の輸入】

鎌倉幕府が滅び室町幕府の時代になると、宋は滅び中国は『明』の時代となる。

室町幕府の第三代・足利義満将軍が天皇方(南朝)を討ち、明の皇帝より足利義満が

「日本国王」として認められ、貿易権を独占し、日明貿易で巨万の富を築き上げた。

 

これまでの日本では通貨の流通はほとんどなく、まだ物々交換をしていて、経済の流通と呼べるほどの発展がなかった。

 

お金そのものが使われてないので

したがって、人々には

金運や財運の信仰もない

黎明の時代が続いてきた。

 

室町幕府の日明貿易により、流通経済が爆発的に発展し、

ようやく人々は通貨を使うようになっていき、

同時に中国から輸入された神「福の神」の信仰が普及した。

日本人が崇める、金運・財運の神々が誕生した。

 

(室町バブル時代 金閣寺)

金運財運の神とされる「弁財天」は、

もとは仏教の守護神「弁才天」として、

奈良時代の仏教「金光明経」により日本に伝わっていた。

しかし、この頃はあくまで仏教の守護神であり、

七福神の財運の神、

「弁才天」から「弁財天」となって人々の崇敬を集める様になったのは、再輸入された

700年後、室町時代の経済発展の時だ。

 

そして、蛇はもともと「弁才天の使い」とされていた為、ここで

金運財運の神である蛇神様が誕生した。

 

 

【七福神の誕生】

「古来より蛇は神様の使いと考えられ、財運・金運の神として崇められてきた」

等と、巷間ではよく言われている。

 

古来〜「神の使いだった蛇」と言う信仰は、一体いつ頃から存在していたのだろう??

特に、古い歴史が好きな私には興味深い。

 

室町時代、

中国との貿易で日本の商業の発達が始まると共に『福の神』が中国から輸入され、

経済的な御利益を求める商売繁盛や財運上昇の信仰が高まった。

 

当初の福の神は三福神 八福神など 紆余曲折があったが、七福神で「福の神」信仰がまとまり、傀儡師(人形使い)などを使い、西宮より全国へ広められた。

 

傀儡師とは、歌舞、曲芸などを行いながら全国各地を巡る芸能集団だが、当時は

寺社の布教をする興行メディアの役割を担っていた。

 

 

七福神は、恵比寿様(エビス)をのぞき全て外国の神で、日本古来の神々ではない輸入組だ。

(中 国)✨寿老人・福禄寿・布袋、

(インド)✨大黒天・毘沙門天・弁才天、

 

七福神のエビス様を筆頭とし、傀儡師(人形使い)による「エビスまわし」などの演目で、全国の港から港へ、流通と共に伝えられた。陸路より海路の広まりは早く、

 

経済的な発展と共に、

『大漁』『商売繁盛』など金運や財運を求める信仰が流通拠点に広がっていった。

 

ついには同業者組合「座」(ギルド)が誕生していき、そして

 

日本経済の活性化と共に、更に福の神への信仰は活発になっていった。

 

 

呪いや祟りなど呪術的な教化や地獄絵図が蔓延した前の平安時代を暗黒の中世と言うならば、

室町時代の「福の神」とは暗黒に新たな光が射したルネッサンス的な価値観だ。

 

日本の伝統芸能が花開いた時代でもある。

商売繁盛という御利益の教化と、経済成長が同時に進行したというのは、

日本の宗教政策史上、極めて稀な出来事だった。

 

✨✨✨✨✨✨✨

エビス様「商売繁盛・大漁」

大黒さま「五穀豊穣・開運」

弁財天様「金運・財運」

毘沙門天「勝負運・福徳」

福禄壽様「家門繁栄・子孫繁栄」

寿老人様「延命長寿・福徳施世」

布袋さま「夫婦円満・笑門来福」

✨✨✨✨✨✨💥

七福神には主なご利益があり、それぞれ繁栄や福徳、財運や繁盛などの御利益も兼ねている。

 

 

【金運財運の神・白蛇弁財天の起源】

もともと蛇は弁才天の使いとされていた為、室町時代の流通経済の発展により、

金運財運の神・弁財天と共に祭られる様になる。

 

白蛇は縁起がよく、弁財天の化身とまで言われ「白蛇弁財天」として祭られた。

 

 

弁才天は、インドの水神「サラスバティー」のことで、

音楽(芸術)の神でもあり、ヴィーナと言う琵琶に似た楽器を持つ姿で祭られている。中国での漢訳は、「辮才天女」

 

 

 

水の流れ

音楽の流れ

流れを司る女神がサラスバーティが、

中国から日本に伝わり七福神となり、

流通経済の発展と共に

流れを司る弁才天は

音楽の流れ、水の流れに、

「お金の流れ」が加えられ、弁才天から弁財天へと変わった。

 

奈良時代は、

仏教の守護神・弁才天だったものが、

室町時代になり、

経済発展により貨幣の使用が盛んになり、金運財運などご利益を求める信仰が広まり、

福の神「弁財天」へと変わり、同様に弁財天の使いである蛇も、金運財運の蛇神さまになった。

 

日本古来の信仰と言うより、

約600年前に生まれた、比較的新しい信仰だったようだ。

 

インドの水の女神サラスバティーとは

「水を持つもの」と言う意味で、

元はサラスバティー川という河の名前だったとも言う。

日本では、厳島神社に祭られる「市杵島姫」と同じ神であるとされ同様に祭られた。平家にとっての、海運の女神た。

 

ヒンズー教の女神として紹介される事も多いが、ヒンズー以前、仏教、バラモン教まで遡り、更にその起源は3千年以上前のアーリア人の水の女神

「アナーヒター」であると言われる。

 

インドのとても古い水の女神様なのだ。

 

そして、インドでは「蛇」は弁才天の使いとされていたが、

 

何故、水の女神「サラスバティー」は蛇を使わせたのか?

 

「蛇は蛇行するので、川の流れと同じだから」

「蛇も水辺にいるので、同じ水の神様だから」では、あまりに根拠が弱い。

 

土俗的な学者などは「同じ水神と考えられた」等と説明するだけで終わりにしがちな事だと思うが、

古代インドの世界に遡ってみて、

もう少し「蛇と水神」の具体的な関係について追ってみたい。

 

 

 

【水辺にいる「蛇神」の正体とは】

日本に水稲作が伝わったのは2000年以上前のことだが、インドの水稲作は早く、約6000年前から行われてきた。

日本古来の伝統的なソウルフードに思われがちだが、水稲はもともと熱帯植物であり、日本に伝わってから品種改良をして何世紀もかけて東北でも稲が作れる様になった。とても

インドの水稲作6000年の起源には及ぶものではない。

 

農業に水は不可欠であり、インドの農耕民族が水神を祭るのは、当然のことだ。

中国北方の黄河文明は、水稲を作ることができなかったが、粟、稗、小麦などの雑穀類を作っていて、

そして、農耕民族である以上、水の神はやはり同じ様に祭られていただろう。

 

しかし、小麦農業には蛇は登場しない。

 

黄河ほど蛇行する川は無いと思うが、それでも蛇の蛇行と同じに考えられ崇められていたと言うことは皆無な様だ。

何故だろう?

6000年前のインドの水田風景を思い浮かべてみたい。

 

 

すくすくと育つ稲を守ってくれているのは、

トンボやカエルなど害虫を食べてくれる生き物たちだ。

土器や銅鐸などの遺物にもトンボやカエルは時々描かれている。

水稲作の農耕民族にとってカエルは、水田の安全を象徴する心象風景なのだ。

(※クリーチャーマニア的な土俗的信仰ということではないです😅)

 

しかし、このカエルを狙って水蛇が現れる。

水蛇がカエルを食べてしまえば、稲を害虫から守ってもらえない。

カエルを食べる蛇は、水稲作の農耕民族にとって

神の使いどころか、害獣なのだ。

 

蛇行する川と同じに考えて、蛇を崇めている場合ではなかった。

 

では何故、蛇は「神の使い」とまで崇められたのだろうか?

 

前回の投稿でも詳しく書いたが、インド人にとって信仰の対象となり得る「蛇」とは、唯一の蛇の王

キングコブラのことなのだ。

 

そして、

キングコブラの好物は水蛇であり、キングコブラは好んで他の蛇を捕食する。

日本の動物園などではアオダイショウを餌として与えているという。

蛇を食べる蛇キングコブラが水田にやってきて、蛇を退治してくれる事は、

農民にとってはまさしく「神の使い」であった事だろう。害虫を食べるカエルを守ってくれる存在だ。

キングコブラは大人しい性質で、人が驚かせない限り自ら人を襲う事はない。

 

水田の守り神・水の女神が使わせた「蛇を食べる蛇」キングコブラであればこそ、人々の

信仰の対象となり得たのだ。

 

しかし、

黄河文明で小麦を作っていた中国人や、

キングコブラを知らない日本人にとっては、

水の女神と「蛇を食べる蛇」キングコブラの存在が、どれだけ収穫の助けになっていたかなど、全く想像が及ばない。

 

只、その「水神と蛇」という関係だけが伝わり、後付けで理由を考えて理解していた事が多いようで、蛇神の説は諸説あり決め手がないのだ。

日本の民俗学では、

蛇を水神としてのみ扱っている。

今でも水道の口を「蛇口」と呼ぶ様に、古来よりずっと蛇と水は重ね合わされてきた。

 

私達、日本人にはとても思いもよらない事だが、

「蛇と水神」の組み合わせの起源は、

6000年前のインドの水田から始まったのかもしれない。そして、

600年前の日本で、金運財運の神へとかわった。

 

インド、中国、日本へと伝わっても

蛇はサラスバティーのスピンオフ(眷族)でしかなかった為に、

龍神に換えられると言う事もなく、

 

水神の使いの

蛇として残り続けてきた。

 

✨✨✨✨✨✨✨

長い話を最後まで御覧頂き有難うございました。🙏


【蛇神・完全理解】Ⅱ.大物主その後「蛇の姫」とホムツワケ 

2025-02-09 | 古代ミステリー

2025巳年🐍古代ミステリーシリーズ

出雲連邦王国の盟主を「大国主」と言い、蛇をレガリア(象徴)とする王家だった。

天孫族の侵攻により出雲は国を譲ることになり、祭祀だけが残された。前・大国主であった大物主のその後の子孫を追っていく。

 

 

【毒蛇は南の王族の象徴】

中世、インド仏教が中国に伝わると、中国人は仏教の守護神である蛇神を全て龍神に変えてしまった。日本に伝わる時には、「八大龍王」「九頭龍」など私達が知る龍神さまへと置き換わっていた。龍に対する強烈な信仰の前では、蛇神が残る余地はない。

 

 タイ

(仏教の守護神・蛇神ナーガ。蛇体で顔が仏様で頭にもトグロ)

 

単純に、龍も蛇も同じとファジーに(曖昧に)考えてしまうのは、どうやら私達日本人独特の発想のようだ。 

 

そして、キングコブラなど強力な毒蛇が生息する南へ行けば行くほど、逆に龍はいなくなる。

 

蛇は毒蛇として日常的な極めて危険な現実であった為、

想像上のあやふやな存在である「龍」に置き換えられるファジーな現象は、南方では起きにくい。

キングコブラはインド~インドシナ半島、中国南部にかけての熱帯雨林や平原に生息し体長は3~5.5mの世界最大の毒ヘビで文字通り「ヘビの王」。

ひと咬みで、ゾウ一頭の致死量となる毒を注入する。

人間であれば咬まれた手足を即座に切断しなければ、毒がまわり生き延びることは難しい。

 

(その辺の草むらにいるキングコブラ)

 

中国南部、台湾、ネパール、インドシナ、ベトナム、フィリピン、インドなど南に行くほど、

キングコブラ、フィリピンコブラ、 クサリヘビ百歩蛇(噛まれると100歩くうちに命を落とすという)、ウミヘビなど、

人々は強烈な毒蛇の脅威にさらされ恐れながら生きていた。

 

そして同様に南に行くほど中国系の支配は薄くなり、龍神の入り込む余地はなくなる。

 

南方の人々にとって毒蛇は、身近な脅威の存在なのだ。

 

キングコブラの毒蛇最強の強さゆえ

「王族は蛇の子孫である」としたり、

蛇を王家のレガリア(象徴)として人々を畏怖させる為、支配者達は積極的に蛇の脅威を信仰に取り入れ利用していた。

 

例えば、

強烈な毒蛇がいないエリアでは太陽神が最高神とされ、王は日本でも日の御子であるが、

南の毒蛇地帯では、「王族は太陽と蛇の間に生まれた御子を始祖とする」といった感じになる。

 

そして、

「蛇は王族を咬まない」

「王は咬まれても死なない」等と人々の脅威をそのまま王族への畏怖に転化した。

インド仏教では、キングコブラを仏の守護として取り入れ蛇神ナーガが誕生した。

エジプトでも有名なツタンカーメンで知られるように、コブラは王家の紋章(レガリア)であり、王族の王冠にも蛇形が取り付けられる。

 

百獣の王ライオンでさえコブラにもしも咬まれれば、のた打ち回り動かなくなるのを知っていた人々は、ライオン以上にコブラを畏怖していて、

頭に巻くコブラのモチーフと女王が身に着ける蛇のアミュレットは、火を吹くと信じこませ人々を恐れさせていた。

(王家の紋章コブラをモチーフにしたツタンカーメン王)

 

 

【古事記を読み解く】

(ここから先は古代ミステリーらしく、万世一系と言うセオリーから外れて書き進めています。分かりにくいところもあると思いますが、ご容赦下さい。)

 

古事記が編纂されるはるか昔、弥生時代の先住部族と後からやって来た渡来部族たちとの間では、結び、同盟、国譲り、など離合和合が繰り返されてきた。

南方からの渡来部族は、犬戎、大物主、ニニギ、卑弥呼の一族などであり、北方からの渡来部族に比べると数が少ない。

中でも蛇をレガリアとしていたのは大物主で、古代日本では稀な『蛇』の王族だった。

 

北方系は、神武、扶余族、威徳天皇、ヤマトタケル、垂仁天皇、崇神天皇、秦氏、スサノオ、天武天皇、継体天皇、聖徳太子などの勢力で英雄キラ星の如く現れ圧倒的に 南からの渡来人は埋もれがちである。

 

 

彼らは縄文人の子孫ではなく、弥生時代以降に海の向こうの何処かから文化や、水稲作、製鉄、機織り、金の精製などを携えてやってきた渡来人だが、

古典の世界(古事記・日本書紀)では、神話化され記されている為、

「海を照らしてやって来た」とか、

「常世の国からきた」などとされ、

実際は何処の国から渡来してきたかという研究は、日本ではあまり進んでいない。

 

本当に天上界から空飛ぶ船に乗って降臨してきたという様な神話を、史実として信じている人はいないと思うが、

「では実際は海の向こうの何処の国からやってきたのか?」という事になると、

神話の世界を侵してしまう為、歴史の世界ではこのタブーにはなんとなく踏み込めないでいるのだ。

 

そして、私たちが知っている歴史とはこのタブーを侵さない日本という国の国史であり、日本列島が抱いてきた日本列島史とはまた趣きが違う。

段階的に大陸側から、亡命者や移民らが日本列島に辿り着き、国土と殖産を開いてきたのが日本列島が抱いてきた歴史だ。

 

しかし、それでも古典上では(古事記・日本書紀)それぞれ来日した王たちが一つの系譜にまとめられるのは、

渡来部族と先住部族、お互いの王子と王女・嫡系同士を婚姻させ両氏の王統を継ぐ王子を生み出したからに他ならない。

聖徳太子やヤマトタケルなどは王とならず、その次の世代から王統が始まっていくのはその様に外来部族と先住部族の王統の統合が行われた特徴を示している。

 

 

【蛇の姫とホムツワケ】

垂仁天皇(慕容垂)

 

4世紀ごろ北方の燕の国からやってきた、

第11代・垂仁天皇の御子の神話。

ホムツワケ王子は大人になっても言葉を話せなかった。

夢のお告げで「出雲の神の宮を天皇の宮と同じに綺麗に建て直せば話せる様になるだろう」と、

出雲の大神より知らされ、ホムツワケは出雲に行った。

そして、声を発するようになり、出雲の肥長姫と結ばれたた。

しかし、姫の正体は蛇だったため

ホムツワケは恐ろしくなって大和(奈良)へ逃げ帰った。

 

「大人になっても話すことができなかった」という天皇や王子が古典(古事記・日本書紀)の中には幾度か出てくるが、

実際に失語症の王族が多かったという訳ではない。

古事記という神話から歴史を読み解こうとする基本的な解釈では、

母国語が日本語でない渡来人だったため話せなかったという場合に使われる表記として考えられている。

 

「赤子の様に泣いてばかりいた。」と言うのも、意味の通じない声ばかり出していた表記と解釈される。

スサノオやアジスキタカヒコネらがそれにあたる。

 

大和王朝などより歴史が古い出雲王朝では、和国語も朝鮮・中国語も話せる言語に精通したものも居て、ホムツワケは出雲に行って和国語が話せるようになったのだろう。

 

(それにしても昔の日本人は変な名前ばかり。渡来人らしい名残りが生々しい。)

 

この神話は、近世で例えて言うならば

—京都の御所は徳川幕府に対し、『将軍のお世継ぎの世話をするので、建物を立派に直してほしい』と、お願いした程度のエピソードかと思われる。

 

祭祀権を継承している出雲に対し、奈良の大和朝廷は接近しすぎに警戒したのだろう。

神話に登場する出雲大神とは、大物主(大国主)と思われるが、

垂仁天皇の王子と、

出雲の姫の嫡系の統合は、

蛇をレガリアとする大物主系の姫

=『蛇の姫』である事を恐れたホムツワケが逃げた為、

叶わずに終わっている。

 

言語留学はしてもそのまま、出雲との関係は深められなかった訳だ。

そしてやはり、ホムツワケは終始「御子」と呼ばれて王子の扱いが続いていた。

 

(古事記を編纂した人はつくづく見事だと思う)

蛇をレガリアとする古部族の扱いや交渉の歴史を、「夢のお告げ」「正体は蛇だった」などと神話化して書きとめている。ファンタスティック。

 

南方渡来の大物主(大国主)からは、

少し脱線するが、

蛇のレガリアのエピソードを一つ、

 

🐍古代中国では蛇をレガリア(王家の象徴)とする国に対し明確なイメージが存在していた。

通常、周辺諸国に金印を授ける場合、南方の諸侯に贈る金印は取っ手が蛇になっているのだ。

中国江南の許氏の一族の出自である「卑弥呼」に中国が贈った金印は、取っ手がヘビになっていると言う。

 

(出雲大社に奉納されると言うトグロを巻いたセグロウミヘビのシルエットに似てる)

 

倭国で、南方渡来の大物主が大和で勢力を伸ばしていた時代にも、やはり蛇の金印が漢委奴国王へ贈られた。

 

他に取っ手は、「ラクダ」「龍」「亀」などがあり、それぞれの方面の象徴が意味付けがされている様だが、和国の扱いはまだ「蛇」だった様だ。

 

古代はこうした蛇を王家のレガリア(象徴)とする南の部族が多く、中国の認識も日本でもそのようだったに違いないが、

やがて時代が下ると、大物主勢力は落ちぶれ南方渡来の王族であったことさえも忘れられ、

古事記の時代になると毒蛇コブラの強烈な強さも知らぬまま、

ただの蛇を象徴する氏族として扱われていた。

勿論、

現代の私達もキングコブラの脅威のある暮しも分からず、脱皮による死と再生のイメージなど、ただの蛇に対する信仰だと思っている。

南方の人々が雪国の暮しが想像できないのと同じで、私達も南方の人々の暮し(特に古代の)が分からないのだ。

 

垂仁天皇の王子ホムツワケが逃げた

「蛇の姫」こと肥長姫は、「海原を照らしながら追いかけてきた」と記されるが、海原を照らしながらやってきたのは大物主の事でもあるので、やはり大物主との繋がりを示している。

前回の投稿でも書いたが肥長姫、手長姫など、「長」姫系の姫は、インド仏教の守護神・蛇神「ナーガ」が起源であると言われている。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

そして最後に、

この時代の日本列島ではまだ「蛇神は龍神と同じ」として容易に龍神に換えられていくことはなかった。

 

勿論、インド仏教が中国に伝わるよりずっと以前のことで、

仏教守護神「法華経」の八大龍王も九頭龍も、まだ日本には登場していない。

 

列島が統一され完全な日本国となる以前は小国が乱立していて、

渡来してきた大部族たちは、

先住の異民族を指して「土蜘蛛」「鬼」「蛇」などとその特徴に対する呼び名で呼んでいた。

正体は蛇だったというのは神話上の比喩でしかなく、蛇をレガリアとする氏族だったという意味であり、

神話化して描かれているが、実際に蛇の姿をした人間がいたという訳ではない(笑)

鬼、蜘蛛人間、蛇人間はいなくて、只の特徴として呼んでいたのだ。どちらかと言うと悪い意味合いで、、なので、

「土蜘蛛」「鬼」など異民族への呼称が、鳳凰や麒麟にバージョンアップされ変化すること等ない様に、

前王朝の「蛇」もまた龍と呼ばれることなどなく、

蛇は蛇のままであり続けた。

 

✨✨✨✨✨✨✨長い話を最後まで御覧頂きありがとうございました。

パートⅢ.大物主のその後「蛇の王子」に続く。


【蛇神・完全理解】Ⅰ.出雲系の蛇神

2025-02-01 | 古代ミステリー

2025巳年🐍古代ミステリーシリーズ

神社の紹介ではなく蛇神様について綴っいます。そこそこ長文ですが、興味のある方はご覧下さい。😌🙏

 

【日本の蛇神信仰のいくつか】

蛇神さまとは?

 

日本では金運財運の神であり、

 

水神、龍神と同じにされたり、

 

縄文人の信仰だと思われていたり、

 

蛇は脱皮をして生まれ変わるので『死と再生』のイメージを信じた、、など西洋的なイメージで語られる事も多い。

 

マニアックなところでは、

蛇は地の神、池の神であり虹をかける。

虹が出ると、「蛇が出た」と言う地方もあり、開墾の為に土地を地の神から分けて貰う時は蛇神さまに声かけをした。

 

他にも農耕の神らしい信仰も残されているが、多くは水神や龍神におき換えられしまった様で、蛇神さま本来の姿が見えにくくなってしまった。

 

カカ、ハハ、ヘミ、ミズチ、ノヅチ、オロチ、など蛇に関わる古い言葉だけが残されている。

 

蛟蝄神社(こうもう神社)茨城県利根町立木882

=こうもうとは水辺にいる蛇が伝説化された存在。

神社の社名は蛇だが、ご祭神は水の女神「罔象女大神」ミツハノメが祭られる。

 

知っている様で知らない、神秘的な

蛇神さまの世界を探ってみたい。

まず今回は、出雲系を書いていくが、

出雲の蛇神とは、、?

 

【出雲の大物主の蛇神】

毎年、出雲では神在祭(神在月)の季節になると、南方の海から海神の使い『セグロウミヘビ』が流れつき、出雲大社などに奉納される。

 

旧暦の10月、現在の11〜12月頃にかけて、全国の神々は出雲に集まる為、その間は神無月となるが出雲では神在月となる。

 

調度この頃に、黒潮に乗って遥か南方の海から移動してきたセグロウミヘビが、荒波に揉まれ出雲の北の浦に打ち上げられるのだ。

 

黒潮とは=赤道付近フィリピンから日本列島まで流れてくる幅100キロ深さ1000m にも及ぶ 世界最大の海流で、九州で対馬海流として別れ日本海を抜ける。

 

出雲では、この季節は「お忌荒れ」という言葉があり、例年吹雪や嵐で天気が落ち着く時がないらしい。

(最近は気候変動で変わり始めたとか🤔)

 

打ち上げられたセグロウミヘビは龍蛇神🐍と呼ばれ

奉納する時は、トグロを巻いた形に綺麗に整えられて

 

出雲の

⛩️佐太神社、⛩️出雲大社、

そして日御崎神社に奉納される。

トグロを巻いた形のウミヘビ

 

実写版 奉納されるウミヘビ

 

ちなみに

⛩️佐太神社は悪縁切り

⛩️出雲大社は良縁結び

 

のご利益で知られるが、

まず先に悪縁を断ち切らなければ、

良縁は巡ってこれないので、

⛩️佐太神社→⛩️出雲大社と合わせて周ればご利益は絶大かもしれない。

 

それにしても、縁結びと蛇は関係あるのだろうか?

 

 

【セグロ海蛇の故郷】

1万年以上前から日本列島に住み縄文土器を作っていた縄文人と区別し、

新たに日本列島に渡来してきた土器文化の違う人々を弥生人と言う。

 

弥生時代になり、

 

彼らは北方や南方から段階的に日本列島に渡来し、水稲作や製鉄文化を持ち込んだ。

 

東南アジア・中国江南地方など南方から渡来してきた弥生人が出雲の『大物主』の部族であり、セグロウミヘビの辿る黒潮ルートが渡来ルートでもあったので、

 

日本列島までやって来る南海の象徴であるセグロウミヘビは、古来より海神の使いと考えられ『龍蛇神』として祭られていた。

 

インドでは、キングコブラが蛇神ナーガとして信仰に取り入れられたが、

セグロウミヘビも強力な毒を持つ水棲のコブラで、強さゆえ元々信仰の対象だったのかもしれない。

 

また、

海のシルクロードと呼ばれた南海航路から半島・列島まで北上してくる船乗り達にとって、

黒潮に乗って海面近くを泳ぐセグロウミヘビの姿を見つける事は、

航路が黒潮に乗ってる事を示すまさに守り神の様な存在であり、

 

その姿にさぞかし安堵したはずだ。

ちなみに、ヒ長姫、手長姫、など長(ナガ)姫系の名を持つ姫神の「長」とは、インドの蛇神「ナーガ」が語源であると言う。

何れにせよ、

セグロウミヘビが、奉納するほどの価値がある存在だと言う事は、同様に南方からやってきた人々のみが持ち得る情報なのだ。

 

通説として蛇は脱皮をするので『死と再生のイメージが蛇の信仰の対象である』と言う実しやかな説が、広く巷間で信じられているが、実は日本の蛇に対する信仰は一様ではなく蛇神それぞれに由緒や起源がある。

日本の蛇の死と再生の信仰イメージは根拠の無いいわば迷信であり、蛇神の信仰を浮かび上がらせる為にこれは一度取り払って深堀りしてみたい。

 

 

【縄文人の子孫ではない、弥生人の故郷】

古事記では、大物主は「海を照らしてやってきた」等と神話として描かれているが、

縄文人が住んでいた日本列島に、海を超えてやってきたのが弥生人であり、彼らは

 

北方ルート=朝鮮半島・ロシア沿海州側からやってきたか、

 

南方ルート=中国江南・東南アジアからやってきたのか、

 

そのどちらかだ。

 

 

南海のウミヘビ

 

それにしても何故、

こんなにグロテスクなものが神様に奉納されるのかと思う。

 

セグロウミヘビは、ヘビの中で唯一の外洋性のヘビで何千キロを超える移動をする。フィリピンからハワイまで移動する事もあるらしい。

 

セグロウミヘビが、海を超え日本列島にまでやってきたと言う事に対する畏怖は、

実際に、千里万里の航海で南海を超えてやってきた人々だからこそ感じ得るものであり、

人々がセグロウミヘビを奉納してきたと言う事は、やはり大物主(オオクニヌシ)は、北方ではなく南方渡来であった事を示している。

 ※南方=中国の越、または南越、百越、(上海、香港、ベトナム、ネパール等)

 

「古事記に伝わる日本神話」

初代・大国主となったスサノオは、娘のスセリ姫の想い人を「葦原の醜い男」と呼び厳しい試練を与えた。しかし、葦原の醜男と呼ばれた「大己貴」(オオナムチ)は、大和で幾多の試練を乗り越えて、ついに十種の神宝を手に入れスセリ姫と結ばれた。

そして、「お前は出雲に行き、兄弟たちを退け大国主となれ」とスサノオから大国主の地位を継ぎ、出雲へいき出会ったスクナビコナと共に国造りを行った。

スクナビコナは国造りを終えると、常世の国(海の向こう)へと帰ってしまった。

大国主が途方に暮れていると、大物主という神が海を照らしてやってきた。

 

南方からやってきた大物主は、次世代の大国主となり出雲・大和を治める盟主となり、大和の三輪山に祭られた。

 

 

【黒潮文化圏の象徴セグロウミヘビ】

黒潮文化圏の移動は3万5000年前から続いてきた。

日本列島に文化、水稲作、製鉄をもたらした黒潮は、透明度が高く海面が黒っぽく見える事から「黒潮」と呼ばれるが、背中が黒いセグロウミヘビは、黒潮では保護色となる為、まるで黒潮に合わせて進化した蛇の様だ。

 

約2000年前、紀元前2世紀〜紀元頃に、

長崎県の壱岐の島に「一支国」と言う国が興り、

「原の辻󠄀」と言う都が置かれ大変栄えていた。日本最古の船着場も発見されている古い都だ。

 

 

壱岐の島は平地が少なく食料の自給ができず、海上貿易だけで成り立っていたというので、

二千年前から船の行き来は相当あったようだ。

 

熱帯にしかいないゴホウラ貝の装飾品も、

紀元前200~紀元300年頃まで各地の墳墓や遺跡から数多く見つかっている。

 

南シナ海から北上する黒潮の航路は「海のシルクロード」と呼ばれ、古代から交易が行なわれてきた。

 

当時は、

朝鮮半島南部にあった伽耶国が良質の鉄を産出し商人の垂涎の的となっていて、遠くインドからも鉄を求めて商人がやってきたという。

壱岐の島は、船乗り達にとっての海上のオアシスであり、出雲に向う神々も一度壱岐の島に集まってから向かったそうだ。

 

壱岐の島「龍蛇神神社」

 

南シナ海から「海のシルクロード」を超えてやってくる商人達も、壱岐の島に着き心を安らげた事だろう。

カツオをはじめ熱帯から日本を行き来する回遊魚は多いが、海面近くを泳ぐのはセグロウミヘビだけしかない。

南海から千キロ超える航海をする人々にとって、

黒潮に乗りユラユラと泳ぐセグロウミヘビに出会える事は、

航路を告げる吉兆であり神の如く崇めていたが、

スサノオの様に北方から渡来した人々にはその価値は分からない。

 

同様に、千キロ越えの古代航海も、かつて蛇をレガリアとする王族が南方から日本列島に渡来してきたことも、全て忘れ去ってしまっている私達は、その価値に気づく事がなく、

現代の私達がイメージする蛇の信仰に合わせて考えてしまっている。

 

セグロウミヘビは打ち上げられることはあっても自ら浜に上がる事はなく、

その脱皮さえ誰も見たことがない様な神秘的な存在だった。

 

出雲連邦王国の盟主の事を「大国主」と言い

初代・大国主のスサノオの時代には八岐のオロチ(オロチ=蛇)は退治された対象だったが、

南方の渡来人「大物主」が大国主の座についてからはセグロウミヘビは信仰の対象になった。

 

敢えて「蛇」とは言わずに「龍蛇神」と濁して呼んでいるのも、

そのあたりを憚っての事情もあるのかもしれない。

 

・・・パートⅡ「その後の大物主」に続く。

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨

最後までご覧頂きありがとうございました🙏


淡路国一宮【伊弉諾神宮】

2025-01-19 | 古代ミステリー

【伊弉諾神宮】

兵庫県淡路市多賀740

日本神話で国生みをしたイザナギ・イザナミを祭る。

淡路国一の宮

(エリアで一番の社格の神社)

 

神社の紹介ですが、今回は古代ミステリーでの投稿です😌🙏

 

 

伊弉諾神宮の創建は、

神世の時代とされる。

 

 

伊弉諾神宮が祭られている場所は兵庫県の淡路島にあり、レイライン・陽の道と言われていて同じ緯度に

⛩️東に伊勢神宮、

⛩️西端は対馬国一の宮「海神神社」(わだつみ神社)が祭られている。

 

 

春分・秋分の日には伊勢神宮の方から陽が登り、海神神社の方角に陽が沈んでいく。

 

 

夏至の日は、諏訪大社の方から陽が昇り、出雲大社へ陽が沈み

冬至の日に、熊野那智大社から陽が登り西の高千穂神社に向かって日が沈んでいく

 

伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行は、中心地であった事を物語っているかの様だ。

 

ゼロ磁場のパワースポットでもあり、参拝した後に不思議なことが起こるなど、ご利益は絶大らしい。

 

(ゼロ磁場・磁気のN極とS極が拮抗し打ち消しあい磁力が無い状態でプラスとマイナスの大きなエネルギーが均衡のとれた状態であるためパワースポットと呼ばれる。)

 

(天照大神・月読命を祭る左右神社)

 

古事記・日本書紀を創作した8世紀当時の日本人の歴史認識は三世紀までと言われ、それ以上前の弥生時代は「神世の時代」として神話化して記されている。

 

 

弥生時代、縄文人達がいた日本列島に渡来してきた弥生人のうち、イザナギ・イザナミ夫婦は初めて列島に国らしい国を生み出していった渡来部族の始祖神なのかもしれない。

 

伊弉諾神宮はイザナギが余生をすごしたと言う『幽宮』の跡地に祭られ、

現在の本殿は、イザナギの御陵を整地してその上に建てられたらしい、、

 

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△

古代ミステリー✨

【政治と宗教と信仰と】

 

本来、宗教と信仰は別物であり、

ここからは、宗教と政治のお話しですので興味のある方だけご覧下さい。🙏😌

 

こちらの伊弉諾神宮は、

宗教とは「政策的なものだった」と言う歴史的なリアルが最も感じられる神社だ。

平安時代より、力を持っていた類稀な神社であった様子が伺える。

 

中世の神仏習合の時代、神社は仏教の配下に置かれてしまい宮司を独自で決める事も出来なかった様な時代で、

私達のご先祖さまである始祖・神道の祖神さま達は、インド人が考えた仏教の神であると無理やり宗旨替えさせられていた中でも、

寺家側と対立する程の事が可能だった、極めて稀な、強い神社なのだ。しかも、寺家側に対して宗旨替えまで迫った事もあった。

領主は、坂上田村麻呂の子孫で、神社を再興させ宮司にもなった。

 

現在の伊弉諾神宮の宮司さんは、

安倍元総理とも親交があった方。

ロビー活動を行う政治団体

「神道政治連盟」の役員も務められていて、神道の精神性を国に反映させようと邁進されている様だ。

伊弉諾神宮で検索していると、『右翼』と出てきてしまうほど😅 

(政教分離って何だっけ?)

 

 

淡路国の地方神であった伊弉諾尊の神話が、大和朝廷の神話に組み込まれたのは7世紀中頃以降で(大化の改新〜古事記編纂の頃)、9世紀中ごろになって正式にイザナギが皇祖神の近親者とされたとする説もある。

 

魏志倭人伝に「和国百余国の大乱」と記されているとおり、弥生時代から古墳時代に渡来してきた部族は百を超え、八百万の部族達はそれぞれが始祖神を祭り、独自の元号と首長が存在していた。

7世紀の大和王朝はそれ以前から存在していた124部族らの神々を一系にまとめて、古事記・日本書紀の中に編纂する必要があり、イザナギの神話を組み込み神世の時代に編纂していったのだ。

 

古典(古事記・日本書紀)では、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、これが伊弉諾神宮の起源とされている。

 

禁足地であった御陵の前に本殿が置かれていたが、明治14年に御陵を整地してその上に移築された。

古来よりイザナギの終焉の地として信仰され禁足地にされてきたのが、突然そのイザナギの陵墓を削ってしまい上に本殿を建てるなど考えられない事だが、きっと何か格別の封印する為の理由があったのだろう。

伊弉諾神宮は官幣社であり、官幣社とは朝廷・国・宮内庁がお金を出す(物品を奉納する)国との関わりの深い神社で公設の影響を受ける神社のことだ。

 

伊弉諾神宮の近代〜

明治3年、県よりご祭神はイザナギのみとされた。

明治18年、 官幣大社に昇格

明治33年、宮内庁がイザナギの墓所を島根県松江に特定した。

昭和5年、 イザナギ・イザナミ両神を祭る許可を申請。

昭和7年、 内務大臣より許可があり正式に二神を祀る。

昭和29年、伊弉諾神社から現在の伊弉諾神宮に改称。

 

△▼△▼△▼△▼△

宗教とは元々、政策的なもので、

人々が自然にもっている死生観や信仰心など精神性を統括統治する為に発明された民族教育的なもので、人々の心を統べる政策的な手段だ。

強い神、根源的な神であるほどコントロールは強い。

そして、

宗教が政治に影響力をもってコントロールする存在である事は、

今も、古事記の時代もそう変わらない。

昨今の出来事をみても、もはや日本の伝統と言えるかもしれない💦

 

宮内庁はイザナギ・イザナミの墓陵を

岩坂陵墓参考地(島根県松江市八雲町日吉)に治定している。

治定とは「治める為に定める」行為で、ここを皇室ゆかりの墓として特定した根拠は考古学的な証拠がある訳ではなく権威的な決定であり、神話から遠く疑問が多い為にミステリーファンの注目を集めることになっている。

 

神話の世界でイザナミ・イザナギが国を生み・神々を産み出したので、イザナギとイザナミ始祖二神を祭る神社は全国に沢山ある。

ヤマトタケルも東日本を制覇しながら、イザナギ・イザナミを祀る神社を各地に建立して行った。国土開発をしながら国生みの神二神を祭るのはしごく当然のことだが、

埋葬は別である。

 

最終的にイザナギとイザナミは対立して別れたため終焉を共にしたことはなく、墓は別々に埋葬されているはずなのだ。そもそも宮内庁が両神を同じ場所に埋葬していると言う事には決め手がない。

イザナミの墓は広島県比婆山、イザナギの墓は兵庫県淡路島に、古事記に記されるとおり袂を分かち、神としての役割を終えた後それぞれ別々に眠られているのだろう。

 

次ぎは島根県の神納山(かんなやま)・比婆山久米神社(安来市比婆山)・岩坂陵墓参考地などの

宮内庁推奨ルートも辿ってみたい。

恐らくはイザナギの墓であった伊弉諾神宮の幽の宮地を削り、イザナミ・イザナギ夫婦を祭る普通の神社にしてしまったのは、その辺りに行けば事情も推察できるのかもしれない。 

 

 

✨✨✨✨✨

宗教政策的な一面は別にして

全くの無宗教である私は、

 

守給へ幸い給えと、

かしこき弥生時代の祖神さまを思う心で参拝します。⛩️🙏

心は宗教に非ず、祖神さまと共に。

神道は宗教に非ず、人々と共に。

なんてね😉✨

 

神道は、宗教の三大条件

・教祖様がいる

・ご本尊がある

・教義経典がある

を満たしてないので、宗教よりも、信仰に近いもだと思いますが、

政治的なパワーバランスの中で、紆余曲折を経てきた現在の伊弉諾神宮のあり様にも、無類の畏敬を感じます。

 

最後までご覧下さりありがとうございました。✨✨✨✨✨


今日いち-2024年12月30日善徳女王

2024-12-30 | 古代ミステリー
画像はAIに一筆加えたもの。拙作『和国大戦記』に登場する新羅の善徳女王。新羅27第目の王にして初の女王。新羅仏教国化と龍王の時代にアジア世界を模した「九重塔」を建立した、慈悲の女王。

謎の【天武天皇】Ⅱ.スサノオ御霊祭と文武天皇

2024-12-07 | 古代ミステリー

【清見原神社】

大阪府大阪市生野区小路2丁目24−35

ご祭神『天武天皇』

スサノオ他

 

参拝した日は秋の大祭の季節であり、

夜山車が出るらしく、夜もう一度

行ってみたら調度、神社を出発するところだった。

 

スサノオ(牛頭天王)を祭る神社では、

御霊式でスサノオを山車に降ろし市内を巡る祭りが、全国的に行われている。

 

 

今回も、パワースポットスポットの紹介でなく、

古代ミステリーの投稿です。

 

 

曳き方『大友清友会』

 

山車とは神様が降りてくる「山」であり、

山に神様を招き、

車に乗っているお囃子が賑やかに神様を饗す。

 

山笠、曳山などと同様、神輿の様に担ぐのではなく、引き車を人々が引いて市内を周る。

 

 

山車の上は、神様が降りる所である為

普通は人は上がらないものだが、

 

この御仁は、堂々と上がっていた。

 

この素破とした勇ましさは、

 

スサノオ様の如く力強くもあり、

 

神がかりしてるかの様だ。

 

 

或いは、スサノオ様(牛頭天王)だけでなく、

壬申の乱に勝利し日本国を征した天武天皇の猛々しさなのかもしれない。

 

カメハメ波のポーズは別として、

とてもパワフルだった。

 


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ここから先は、巷説の世界です。

古典(古事記・日本書紀)の世界観には無い歴史の裏側、古代ミステリーとしてお読みください。

 

✨✨✨

前回、【謎の天武天皇Ⅰ】の投稿の最後に、

世上をはばかり御神名を明かさず、表向きは別の神様として密かに祭る、影祀りについて書せて頂いた。

平将門の乱で、平将門に味方し落命した興世王を堂々と祀ることをひかえ、表向きは熊野の神様として祀ったり、

徳川家の手前、豊臣方だった前田利家を表向きは八幡宮の造営とし、密かに合祀して祭ったりなど、

往々にして御名を明かさぬまま密かに祭る事がある。

 

天武天皇を祭る神社は全国で5社とあまりに少なく、やはり御名を伏せたまま表向きは別の御神名で密かに祀ってる神社があるのではないだろうか、、

今回は、天武天皇の息子・文武天皇について触れてみる。

 

【文武天皇】
滋賀の白髭神社に祭られる猿田彦は、日本神話では天孫降臨の時に道案内をかって出た神様で、

八衢の神=境界の神でもある。


滋賀の白髭神社は、

天武天皇より『比良明神』を賜っているが、比良とは=境界の事で当時は、

滋賀の琵琶湖は日本海に通じていて、海の向こうの朝鮮半島との境界として重要視されていた。

【白髭神社】滋賀県高島市鵜川215


全国の白髭神社の総社が滋賀の白髭神社であり、

風説では白髭神社は天武天皇の子・文武天皇を祭っていると言われる。


ご祭神は「古事記」「日本書記」に登場する猿田彦さまだが、白髭の由来は「白髭をたっぷりと蓄えていたから」だと言う。

しかし、普通は猿田彦神社などで祭られている猿田彦さまは、その様な容貌ではない。


天狗の様な大きな鼻が特徴で、妻神のアメノウズメと共に夫婦相神で道々に祭られていることが多い。

日本書紀では「猿田彦は鼻が長く背が高く目が大きく輝き…」等と事細かに容姿が記されているが、

「白髭神社」では違う容貌で祭られているらしい。

 

この白い髭をたくわえたという容姿が、

実は、文武天皇なのだそうだ。

 

文武天皇は、

巷説の世界では新羅の文武王であり、文武王が

日本に渡来した683年が生まれた年とされていて、即位した697年には既に白髭をたくわえた老人だったと言う。

 

白髭神社では猿田彦を祭っているが、

又の名を比良明神、白髭明神、

と言い、

「白髭さま」と言う別の呼び名で文武天皇を密かに祭っていた様だ。

 

全国に300社あると言う白髭神社だが、

天武天皇の子・文武天皇がこの様に祭られているならば、

天武天皇も御名を明かさずぬまま全国に祭られている可能性がある。

だとすれば、それは何処の神社なのか?

 

、、、続く🐤

 

 

🙄

以前スサノオⅠの投稿でガッツリ書かせて貰ってますが😅次はコンパクトにまとめたいと思います、、


謎の【天武天皇】Ⅰ.祭る神社は何故少ないのか

2024-10-27 | 古代ミステリー

【清見原神社】

大阪府大阪市生野区小路2丁目24−35

 


今回はパワースポットの紹介でなく、古代ミステリーの投稿です。

YouTube版『聖なる国 日本』のショート動画(古事記と日本誕生)でも天武天皇を投稿していますが、

興味のある方はご覧下さい。


浄御原の幻想✨

「浄御原=きよみはら」 飛鳥時代

近江(滋賀県)の大津宮から遷都し、

飛鳥(奈良県)の浄御原に都を戻した
天武天皇の事を、

『飛鳥浄御原』と呼ぶ。


あえて幻想と書いてみたのは、(長岡風)天武天皇を祭る神社が、極めて少ないからだ。

 

天武天皇(飛鳥浄御原様)を祭る神社は

⛩️三栖神社(京都)、

⛩️天武天皇社(三重)、

⛩️桜木神社(奈良)、

⛩️浄見原神社(奈良)

⛩️清見原神社(大阪)、

など全国で五社ほどしかない。そのうち、

後から合祀した神社以外で、最初から天武天皇を祀っている神社は


⛩️清見原神社(大阪)と、

⛩️浄見原神社(奈良)


ニ社のみ。


「天武天皇を祭る清見原神社」


奈良の浄見原神社は、天武天皇の吉野入りで国栖が協力したと言う伝承を由緒とし、


こちら大阪の『清見原神社』は、
天武天皇が、難波宮へ向かう時の行宮跡地に祭られたと言う。

天武天皇の崩御の後、大伴氏が
『天武天皇宮』として建立した。



 

明治時代の宗教政策により

天武天皇宮から『清見原神社』に改称され、スサノオ様など近隣で祭られていた神々が合祀された。

官社(官幣社)となり、

⛩️『清見原神宮』になっていた可能性もあったと言う。

 

何故、天武天皇を祭る神社が少ない事が謎(ミステリー)なのか?

それは、天武天皇こそが日本国の建国者だからだ。


和国時代の部族連合国を終わらせて

天皇を頂点とした日本国建国へと導いた天皇が、崩御後

二社しか祭られなかったのは何故だったのか?

 

 

【天武天皇の日本建国】

日本建国前夜


「天武天皇」

建国と、日本の基底文化に影響を与えた天武天皇は、律令と軍事だけでは国は治められず、宗教政策が必要であることを知っていた。


天武天皇(大海人皇子)は「壬申の乱」で、まだあまり知られていなかった天照大神や神武天皇の東征神話を持ち出して、自軍を鼓舞し勝利した。

そして、

政権に着くと、

一時は仏教の布教を禁じ、

伊勢神宮の社格を日本一に押し上げて、

天照大神を天皇家の始祖神とし

『古事記』『日本書紀』の編纂を命じた。

 

 

律令政策では、

『天皇』という王号と『日本』という国号を使い、天皇を頂点とし、

従来の「臣」「連」等の官位の上に、
新たに朝臣、真人など上級位階を作り、

元有力部族(氏族)らを律令官人制に導入する為の身分を明らかにした。


私有地・私有民化を阻止して、

公地公民制を盤石にし、

東日本の蝦夷族の酋長200人を来朝させ
朝廷に帰属させて、

統一国家への礎を築き上げた。そして、

道教・陰陽道、肉食の禁止など、日本の基底文化に影響を与える新たな
導入を次々と行った。

天武天皇の政策は、妻・持統天皇、子・文武天皇、に受け継がれ、

 

ついには『日本国』の国号で遣唐使を送り、


の中国皇帝に、

『もう 倭国という国はないのでその名での呼んではいけない。皆、日本国と呼ぶように』

と言わしめた。


そして、

大宝律令、和銅開珎、藤原京、

古事記、日本書紀が完成し、


通貨、法律、聖典、国記、首都、外交が整備された日本国は名実ともに建国された。

 

和国の部族連合国時代を終わらせた

日本国建国の立役者が、

何故これほど脚光を浴びることもなく、

ひっそりとしているのだろう??

天武天皇の功罪は、功より罪の方が深刻だったと言う事だろうか?

 

唐の都「中国大明宮遺跡」
日本政府からの援助(ユネスコ信託金)で修復された事もあってか、

『日本国』と言わしめた時の、遣唐使謁見の様子が展示されている。



【日本建国の後の衰退】
倭国の大王の時代は終わり

天武天皇系によって

天皇を頂点とした日本国が誕生したが、

建国後は残念な事に時代が下る毎に

仏教勢力  
貴族勢力
武家勢力、と天皇家の権力は
奪われていってしまう。

当時は、日本政府の最大派閥だった

亡命百済人勢力と仏教勢力の前に、
天皇側は追い詰められていき、

「天皇は仏教の下僕である」

とまで宣言させられ、仏教の法王は

神道の天皇より位が上とされた🥲


そして、遂には

「天皇の位を譲れ」と、仏教側から譲位を迫られる。


かつて蘇我氏が推古天皇に対し

「蘇我家の女と言え」
「天皇領をよこせ!」

と迫った事はあるが、天皇に対して

これほどまで堂々と、王権譲渡を迫った記録は無い。


とても、天武天皇を祀れるような世の中ではなかったのかもしれない。


奈良県葛城市當真にある

当麻寺(當真寺)は、天武天皇の時代

役行者が最初に修業した土地を、万蔵院に寄進した事によって建立された。         

その当麻寺にある仏像は、
天武天皇がモデルと言われている。

 


用明天皇の子孫である当麻公も天武天皇から最高位の『真人』の位を与えられ、
当麻真人となったが、
やはり当麻寺の建立には関わっていた様だ。

その後、当麻真人は
天武天皇、妻・持統天皇、子・文武天皇、と三代に渡り天皇家に仕えた。

 

飛鳥時代に山岳仏教を開いた

『役行者』が東国に追いやられ、

飛鳥仏教勢力は衰退していき、

百済系の奈良仏教勢力が席巻した時代


堂々と、天武天皇を祭ることはなくとも

当麻寺の仏像の様に、

御名を伏せ、別の御神名で影祀りして、

密かに祀った事はあったのかもしれない。


✨✨✨✨✨✨✨続く

 

△▼△▼△▼△▼△
影祀り※
世上を憚り御名を伏せ、表向き別の御神名で祀るケースは少なく無い。

新しい所では
加賀藩前田利家公とお松の方を祭っている石川県の尾山神社は、

当時、豊臣方だった前田利家を祭る神社を堂々と建立する事が徳川家の存在により憚られた為、
表向きは⛩️八幡宮を造営し、前田利家公を密かに合祀し祀った。

古くは
ヤマトタケルに成敗されたイソタケルの部族らは、表向きは⛩️姫神社としてイソタケルの妻を祭り、密かにイソタケルを祭っていた。

⛩️神社巡りをされてる方で、

「女神を祭っている神社のはずなのに、とても荒々しい雰囲気を感じた」と言う事は無いだろうか、、

本来、本殿の屋根を見ると祀られているのが女神か男神かが分かり、

基本的には

千木の形は 
垂直カット(男神)、水平カット(女神)

鰹木の数は
奇数(男神)偶数(女神)

と、されている。

しかし実際は、
女神の千木に、男神の鰹木など、
ちぐはぐな場合があり、

諸説あるが、一説にこれは

表向き女神を祀っているが
実は男神が主祭神である事を密かに表していると言う。

 

△御神名が詳らかな場合▼

天之水分神(男神)
水波能女神(女神)が祭られている社。

千木は垂直(男神)
鰹木は偶数(女神)の組み合わせだった。

 

✨✨✨✨✨✨✨✨✨🙏

最後までご覧下さりありがとうございました。


茨城県【御岩神社】と【薩都神社】と立速日命✨

2024-10-12 | 古代ミステリー

『清らかな山 かびれの高峰に、天つ神鎮まる』とされ、

御岩山には古くから神が坐されていた。

 

御岩神社は、国常立神、イザナギ、イザナミ、をはじめ188柱の神々を祭っていて

その奥にある『かびれ神宮』までは、

30分前後の山道。

多少汗をかくが、是非行ってみたい所だ。

 

茨城のパワースポット⛩️御岩神社の御岩山にまつわる

🙏古代ミステリーの投稿。そこそこ長文です。

 

 

【賀毘礼神宮】

かびれ神宮

 

タチハヤヒ(立速日男命)又の名を

ハヤフワケ(速経和氣命)が祭らている。

 

 

御岩神社の拝殿の左側(表参道)と右側(裏参道)から御岩山を上がっていく。

左は勾配がある分早く行ける。

 

この立速日が、

天つ神であると伝えられ、

御岩神社から車で15分程度の里宮

⛩️『薩都神社』にも祭られている。

 

【薩都神社】
茨城県常陸太田市里野宮町1052

ご祭神
立速日男命(速経和氣命)

奈良時代の終わり、常陸国風土記によると
厳格な神であり里(常陸太田市瑞龍町)の人々への祟りが多かった為、朝廷より片岡大連が使わされ人里離れた賀毘礼(かびれ)の峰=現在の御岩山に移されたと言う。

 

しかし参拝に困難であり再び里に移された。(現在の常陸太田市里野宮町)

 

平安時代になり、804年富士山の噴火、864富士山史上最大の噴火など、天変地異と地震が続いていて、日本は御霊信仰(災いを祟りとして呪いを封じる宗教政策)が盛んになった。

 


⛩️薩都神社は嵯峨上皇崩御(842年)の後、従五位、正五位、従四位と、急に位階の勅受が続いた。

立速日に突然の様に次々と神位が追贈されたのは、やはり祟りを封じる為なのだろうか?

 

 

御岩神社の後ろにそびえる御岩山(かびれ峰)には、

⛩️薩都神社中宮、⛩️賀毘礼神宮に、

立速日が祭られていて、

御岩神社で参拝し御岩山コースを周る方も多い、小一時間ほどで参拝できる。

『薩都神社中宮』

 

かびれの峰の頂きまで、登ると

かびれ神宮の奥宮、少し奥まった下の方に小さな祠と不思議な石柱が祭らていた。

 

 


ミステリアスな神・立速日を巡る巡礼ツアー✨✨✨🌿

 

 

【御岩神社】
188柱の神を祭るが、神道の神だけでなく仏教神も祭っている。

御岩神社は神道の聖地と言うより、神仏習合の時代の影響が色濃く残っている寺院でもあり、仏教が神道を支配していた時代観が偲ばれる。

 

出羽三山(密教)より、初代水戸徳川家が勧請した。

元は弥生時代を遡る古祭祀場があり、

天つ神である立速日様が坐される古来からの聖地だったが、千年以上経って仏教がマウンティングされた様だ。

 

【立速日男命】
天つ神とされる立速日(タチハヤヒ)は、常陸国風土記にのみ登場する神。
如何なる神様なのだろう?


かつてこの里は『国栖』と言い『土雲』がいて、「兎上命」に攻め滅ぼされた。

たくさん殺害したので佐都(サツ)と名付け、薩都と言う地名の語源でもある様だ。

 

その後、時代が下り立速日の祟りを鎮める為、片岡大連が朝廷より遣わされてきて、かびれ宮に祭った。

 

『国栖』『土雲』と言えば日本書紀で、

ヤマト王朝を開いた神武天皇の東征時、

奈良入りの時に登場した

『国栖』のイヒカ、
『葛城』の土蜘蛛(ツチグモ)など、

ヤマトの先住部族との関係が感じられる。

 

そして
『ニギハヤヒ』は、奈良の在地勢力の中ではヤマト朝廷側で有名な存在だが

『タチハヤヒ』と聞けば、

ミカハヤヒ、ヒハヤヒなどハヤヒ系の神々の中では、真っ先にこの

『ニギハヤヒ』を思い浮かべる人も多いかもしれない。

(🙄ハヤヒ多い💦)

 

 

【日本書紀・ハヤヒの物語】 
ニギハヤヒの

『ハヤ』とは、

ハヤスサノオ命
ハヤ経和氣命
ハヤ玉男命など

早くから日本列島に居た(着いた)
先住者を指している様だ、、 

『ニギ』とは、

和魂(ニギミタマ)の様に、柔らぐと言う意味の素語だ。

『タチ』とは、
旅にでる、立ち去る、と言う意味だが、

国常立の神の様に、国を立てると言う意味でもある。

タチハヤヒとは、立ち去った先住の神と言う意味にも取れる。

奈良にいた古い神は、茨城に移られ
国を建てられたのだろうか、、

そして、
ニギハヤヒと対を成す存在と言えば

『アラハバキ』(ナガスネヒコ)

である。※長い脛にハバキを巻いていた。

(出自はおそらくアラハバキは北方渡来の騎馬民族系でニギハヤヒは南方渡来の製鉄民族系)

 

△▼日本書紀△▼△

天つ神(天孫族)であるニギハヤヒは、
神武天皇に、先がけてヤマト(奈良)へ入った。

ニギハヤヒは、当時の奈良盆地の勢力・先住部族であったアラハバキ(ナガスネヒコ)の妹と婚姻し、天つ神の神宝を携えて結ぶ事で奈良を懐柔した。

ナガスネヒコは天つ神(天孫族)と、
婚姻合併し共同統治していたつもりでいたが、

神武天皇が侵攻してくると、事態は急変する。

ナガスネヒコは既に天孫族と合併している事を主張し証拠として神宝まで見せたが、

神武側は「確かに神宝だ」と認めながらもナガスネヒコを撃ち、

娘婿のニギハヤヒ(おそらく当時のヤマトの王)もナガスネヒコを裏切り、神武側についた。

アラハバキ(ナガスネヒコ)は、ニギハヤヒの裏切りにより討たれたとされているが、東日本に逃げたとの説もあり、東北にはアラハバキを祭る神社が多い。

 

アラハバキか、或いはアラハバキを盟主として仰いでいた奈良の残党らは、
(土蜘蛛や葛城氏も含む)

この里にやってきて、天つ神の神宝と共にアラハバキを祭ったのかもしれない。

 

御岩山(かびれの峰)には、十種の宝の様に多くの宝が納められた様だ。

 

 

明治時代の宗教政策の神仏分離では、

神道の神と、仏教の神が分けられ、
神々は厳しく選別されたがその時

アラハバキ(ナガスネヒコ)の様な東国の古い神々の多くは、国常立神などに変えられてしまったらしい。

かびれの峰に坐し、

神宝と共にある立速日様こそが、

アラハバキその人なのかもしれない。


紛れもない天つ神の神宝は、今も人知れず御岩山に眠っている。


封鎖され、行くことは出来ないが、

いつかまた悲運の天つ神を意識して御岩山(かびれの峰)を登ってみたい。


『賀毘礼の峰に登り給う、その社は石をもって垣とし、中に種属いと多し。種々の宝、弓、矛、釜、器物、皆、石となりて残れり。』


道祖神、月の夜に 石になりけり

✨✨✨✨✨✨✨✨
最後まで御覧頂きありがとうございました。

 

Other

私はなんだか山頂のこの岩が、

社に二人の神様が仲良く並んでらっしゃる様にみえてしまう✨😌

自然の道祖神の様🙏✨


月刊誌『厶ー』に載っていました。

2024-09-08 | 古代ミステリー

久しぶりの書籍版『聖なる国✨日本』の投稿です。

ナント!精神世界・ミステリーの老舗

月刊誌『厶ー』2024年2月号に、

 

『聖なる国 日本』が新刊書籍情報で掲載されていました。✨😳

 

WEB版のムーでも紹介されていて、それで初めて見つけたのですが

書籍版『聖なる国日本』は、パワースポットの紹介というより、ジャンルとしては古代ミステリーロマン風に書かれているので、

ミステリーの老舗である『ムー』に掲載されたことは筆者としては、嬉しい限りです。

しかも、1ページも使って頂き✨🙏

当ブログも紹介して頂きまして✨✨🙏

 

 

書評は、すごくよく書かれていて見事だなと感じました。表現や抽出も素晴らしいと思い一部抜粋させて頂きます↓↓↓

 

(引用)
https://web-mu.jp/column/33454/

日本古代史を自由に語るエッセイ集「聖なる国 日本」/ムー民のためのブックガイドコラム・インタビュー2024.01.14
文=星野太朗


「ムー」本誌の隠れ人気記事、ブックインフォメーションをウェブで公開。編集部が選定した新刊書籍情報をお届けします。

聖なる国 日本

ジェロニモ 著

教科書では教えない、ダイナミックかつ深遠な日本の歴史

 標題を一見すると、何やら右翼的な内容を想像するが、実際に本書に目を通してみると、右だ左だという政治的観点が、いかに狭小なものであるかが痛感される。

 本書において展開されるのは、教科書では教えない、ダイナミックかつ深遠な日本の歴史である。
 何しろ本書によれば、この日本という国は古代以来、西アジアから中国大陸に至る広大な領域の、さまざまな国の王族たちの、最後の亡命地であったのだ。
 そんなわけで、古代史の偉人たちは、本書によると、ほとんどが海外からの渡来組ということになる。たとえば、聖徳太子は元来は西突厥の大王だった人物だし、天智天皇は百済の王子キョギで、継体天皇はエフタル族の男大迹王であるという。また邪馬台国の卑弥呼の一族も、「中国江南の巫術者である許氏の一族の出自」であるらしい。

 本書は、このようなまったく新しい観点から、日本の古代史にまつわる多彩な謎を、自由闊達に語るエッセイ集である。
 話は古代の母系社会から、宗教の本質、『古事記』成立の裏話、卑弥呼の正体から日猶同祖論、北方からの渡来人であるスサノオの真実、「出雲連邦王国」と諏訪学、徐福伝説から日本のピラミッドまで、実に広範囲に及び、最終的には縄文の「文化」に辿り着く。
 著者によれば「文明とは、繁栄と滅亡を繰り返すもので縄文文化の様に長く続いたものが無い」。ではなぜ、縄文文化は1万年以上にわたって持続し得たのか? その理由は、ぜひ本書で感得していただきたい。

 著者のジェロニモ氏は、精神保健福祉士/ヒプノセラピスト。古い歴史や神社が好きで、好奇心の赴くまま全国各地を巡りながら、「聖なる国 日本」というブログを書き綴ってきた。本書は、このブログの書籍化である。
 元はブログであったということで、各章はそれぞれ独立した内容になっており、順序など気にすることなく、どこからでも読める。

✨✨🙏✨✨✨✨✨✨

筆者も驚いた本書の姿😳その

読後感が伝わってくる様で、、響きました。

こちらの書評を以て完結された気がします

🙏ありがとうございました。

 


福井県⛩️【三國神社】古代と近代の顔

2024-07-07 | 古代ミステリー

⛩️三國神社

北陸地方、福井県と石川県の県境にある。

久しぶりの古代ミステリーの投稿です。
(画像は以前のもの😌)

九頭竜川沿い、下流に鎮座されてる神社。

 


江戸時代から明治時代、大阪から北海道まで日本海側のルートをいく廻船を
北前船と言い、北前船の寄港地の三国港の繁栄と共に三國神社も栄えてきた。



越前三大祭りのひとつ「三国祭り」

(三國祭り 巨大人形の山車)

 

 

しかし、創建の由緒は繁栄より古く1500年は遡ると思われる。


御祭神⛩️ 継体天皇 大山咋神

継体天皇は、大和王朝の王統が途絶えて王になるものが居なくなってしまい、大伴金村に請われて王権を継いだ天皇で直系ではない為、謎が深い。

1500年前の巷説の世界を少し覗いてみる。

興味のある方はご覧下さい😊

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

継体天皇は、

正史の世界では応神天皇の五世孫とされるが、五代も遡れば確かさは定かでなくこれは寧ろ別の王統である場合に用いられる表現と考えられている。

巷説の世界では、古代最大の渡来部族・エフタル族の王とされるが、
アカデミズムからも「別の王朝では?」との声があがる程、継体天皇は天皇の系譜の中では異質な存在だ。

 


蒙古鉢形甲
(この時代に突然大陸の兜が登場する)

 

渡来人王朝のせいか、日本を統一した王朝にしては継体天皇を祭る神社は少なく影が薄い。

 

継体天皇を祭る神社は、何かしら直接的な御由緒がある神社のみだ。

 

継体天皇の故郷、福井県坂井市高向神社の看板。

 

もう一人のご祭神大山咋の神は、天台宗の守護神や秦氏が祭る松尾大社に祭られる山の神様だが、

しばしば同じく山の神様である大山津神さまと混同される。

 

(大山咋をお酒の神様として祭る松尾大社)

 

マイノリティだが、継体天皇に王位継承を願った大伴金村の子に「大伴咋」と言う者がいて、どちらかと言えば

三国神社の大山咋=大伴咋説を支持してみたい。

 

大伴咋は、聖徳太子の命令で、
倭国、百済、高句麗による対新羅
「三国同盟」を結んだ使臣だ。

高句麗と百済が敵対していた為、同盟は困難であり、三国を結んだ功績は当に

三国神社と名乗るに相応しい。

 

 

エフタル族は、西アジアで勢力を誇った遊牧民族だが、ペルシア、突厥に挟撃され
民族の大移動を敢行し、まだ大国の少なかった東アジアへと逃亡してきた。

 

これほどの大部族がやってきた事はかつてなく、6世紀の朝鮮半島と日本列島は大混乱の時代を迎える。

 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

当時 ヤマトの王だった武烈天皇は驚き新羅に逃亡してしまい、
その後エフタルを恐れて王位を継ごうとするものが誰もいなかった為、

仕方なく大伴金村・物部麁鹿火が、ヤマトの王位を継いで下さる様にと頼んだ。

継体天皇(男大迹王)は河内で即位したが、朝鮮半島への進出をひかえ草深いヤマトに引っ込んでいる場合ではなかった。

河内から新羅に侵攻し王座を奪い、智証麻立カーンとして即位し国制を改革した。

百済へも圧力をかけ皇太子を廃嫡させ倭国に送り、自分の息子を百済皇太子にし任那四県を割譲して付けた。

そして新羅に逃げていた武烈天皇が帰順してきた為、継体天皇は朴妃を嫁して武烈に王位を譲り、自分はその上皇(葛文王)となって、倭国に戻った。

 

継体天皇はようやくヤマト入りして玉座に座った。

即位からヤマト入りまで20年も歳月が過ぎていて、正史の世界では
『 継体天皇はヤマトの豪族を恐れて、なかなか大和に入ることができなかった』とされている。

もしも本当にそうならば、ヤマトの豪族らは、恐れてヤマト入り出来ない王など敢えて擁立せず、他の王を立てていた事だろう。

何もせず 20年も大人しく待っていたことからも、恐れていたのはヤマトの豪族側だったと思われる。


継体天皇がヤマト入りし、ヤマトは九州勢力との頂上決戦で勝利して、東の蝦夷を残し関東から九州までほぼ日本列島を統一した。

朝鮮半島から日本列島にかけてエフタル族の支配政権は半世紀ほど続いたが、
戦乱の末、新羅を残してほぼ駆逐された。

そして朝鮮半島や 日本列島の歴史からはエフタルの名は封印され、それぞれ 新しい国へと生まれ変わていった。


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三国神社は、

かつて存在した短命王朝や三国同盟など、知られざる歴史を微かに密やかに偲ぶスポットでした✨

 

最後までご覧頂きありがとうございました✨✨✨✨✨✨

 

 

【追記】

新羅の武烈王と、倭国の武烈天皇

新羅の文武王と、日本の文武天皇

何故、同じ様な時代に同じ名の王がいるのか?(三国史記・日本書紀)

気になっている方も多いと思うが、

 

正史の世界では、「漢風諡号」と言って使って良い漢字が限定されている諡なので、同じ組み合わせになるのは珍しいことではないとされている。

 

しかし、新羅との戦争、任那領有権の争い、王族の暗殺や裏切り、大化の改新や白村江の戦いなど、最も半島と列島で往き来があった大乱の時代に、新羅王と同じ名の天皇が2人もいるのだ。

 

「単なる偶然」で済ませてしまうのは

探究心が無さすぎる。

 

現在の国境に合わせて歴史を考えるのでなく、任那が存在していた当時、

日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった時代に頭を切り替えて考えてみた方が、まだリアリティがあると感じる。


八百万の神々の起源

2024-06-10 | 古代ミステリー

最近、聖なる国 日本のYouTubeで、

ショート動画をあげるようになった。

古代ミステリー系の投稿はブログで書くと長くなりすぎるので、音声 画像 文字、3つのツールで表現できるYouTube の方が散らからずコンパクトに収まる。

ショート動画は1分間だから、さすがに再生回数も全然違う。

そうなるとイイネだけでなく、

初の🎉アンチコメントらしきものもちらほら😂

これはあまりいい気分はしないものかと思っていたが、訴求対象がイメージでき発信の絞り込みができるので、

かえって勉強になった。

 

ショート動画『八百万の神々の起源 』

https://youtube.com/shorts/ckfD1kGrcpY?si=j__HhIKlvfgJE543

 

画像は16世紀の哲学者デカルト。 

「我思う故に我あり」

人間と自然を分離した分離主義者で、

自然を、

崇拝したり

収奪したり

コントロールしたりする 

対象物にしてしまった。 

 

(自然と見なした対象にはデカルトは容赦がなく、奥さんの愛犬まで解剖してしまった事でも知られる)

 

日本人はもともと森羅万象に生き、こうした分離主義はなく、西洋人が考えるような自然崇拝もなかった。

自然と言う言葉さえなかったのだ。

その、漠茫然とした意識を表現するのは難しいが、

昨今の、

気候変動による危機で、

人間本位の分離主義は限界を超えてしまった為、YouTubeの投稿ではその古来日本人の感覚を発信してゆけたらと思う。

 

ジオエンジニアリングなど、無謀とも思える暴走の対岸にある意識だ。

 

ブログでは、聖地・パワースポットの紹介を続けていくが、

 

YouTubeでは、どんどん脱線して

『人新世の資本論』についても挙げてみたい。

日本人の太古の叡智は、世界を救う

✨✨🙃✨🙃🙃✨✨✨✨


奈良県【高鴨神社】⛩️出雲王朝の界隈

2024-03-24 | 古代ミステリー

【高鴨神社】

奈良県御所市鴨神1110



全国の賀茂氏(鴨一族)の神社の総社⛩️

(※御所市=「ごせ市」と読む)

⛩️御祭神
阿遅志貴高日子根命
(あぢしきたかひこね)
またの名を
迦毛之大御神(かものおおみかみ)

妹の👰下照姫も祭られている。

 


鉱脈の上にある神社で、多くの気が出ていることで知られる。

 

 

神社の案内によれば、
『夏場に参詣されますと、涼しく感じられるのはその為です。「気」は身体にたいへん良く、ぜひ神域を巡られて神様の「気」をお受けになられ、心身共によみがえられることをお祈り申し上げます。』

とのことだったが、確かに
リトリート感のある神社だった。✨✨

 

 

そして、境内にたくさんの神々が祭られていたことも心やすけた。

 

 

 

 

鴨一族の始祖『アジスキタカ彦根』は

大和に繋がる古い神様だが、

大和より古い出雲に繋がりあった神様で、

出雲の大国主命多紀理姫の子。

農業の神様として祭られている。

 

 

 

創建不明だがこちらへ祭られたのは、
出雲の国譲り後かもしれない。


上鴨社⛩️高鴨神社

中鴨社⛩️御歳神社

下鴨社⛩️鴨都波神社

と、三社を呼ぶように、この地域は古くから鴨一族が拓いた農地だった様だ。

 

 

大和王朝にも繋がりが浅からずとしても

それより古い、

葛城王朝とも繋がりがあったと思われる。

 

 

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古事記では、

高天原から「出雲を譲れ」と派遣されたアメノワカヒコにそっくりだったと言うエピソードが記されている。

 

✨✨✨📖

高天原より国譲りの為に派遣されたアメノワカヒコは、出雲にやって来ると

アジスキタカネ彦根の妹💖下照姫と結婚して出雲側についてしまい、高天原陣営から殺されてしまった。しかし、

アメノワカヒコの葬儀に、
アジシキタカ彦根が現れると、

そっくりだった為に「生きていた!」
と驚かれる。

アジシキタカ彦根は、

「自分はアメノワカヒコでは無い」

と怒り、

下照姫もアメノワカヒコではないと否定する歌を詠んだ。

アメノワカヒコは、高天原を捨て出雲に亡命し

出雲の神アジシキタカとなったことを物語る様なエピソードであり、

当時は高天原より出雲の方が勢いがあったであろう事が覗える。

この後、高天原からの

三回目の遠征で出雲はとうとう

高天原側に王権を譲り渡し消滅する。

 

『アジシキタカヒコネ』を始祖とする鴨一族は

王朝を超えて在り続けてきた由緒のある氏族だったのだろう。

 

最後までご覧頂き、ありがとうございました🙏

✨✨✨✨✨✨✨