聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

【蛇神・完全理解】Ⅰ.出雲系の蛇神

2025-02-01 | 古代ミステリー

2025巳年🐍古代ミステリーシリーズ

神社の紹介ではなく蛇神様について綴っいます。そこそこ長文ですが、興味のある方はご覧下さい。😌🙏

 

【日本の蛇神信仰のいくつか】

蛇神さまとは?

 

日本では金運財運の神であり、

 

水神、龍神と同じにされたり、

 

縄文人の信仰だと思われていたり、

 

蛇は脱皮をして生まれ変わるので『死と再生』のイメージを信じた、、など西洋的なイメージで語られる事も多い。

 

マニアックなところでは、

蛇は地の神、池の神であり虹をかける。

虹が出ると、「蛇が出た」と言う地方もあり、開墾の為に土地を地の神から分けて貰う時は蛇神さまに声かけをした。

 

他にも農耕の神らしい信仰も残されているが、多くは水神や龍神におき換えられしまった様で、蛇神さま本来の姿が見えにくくなってしまった。

 

カカ、ハハ、ヘミ、ミズチ、ノヅチ、オロチ、など蛇に関わる古い言葉だけが残されている。

 

蛟蝄神社(こうもう神社)茨城県利根町立木882

=こうもうとは水辺にいる蛇が伝説化された存在。

神社の社名は蛇だが、ご祭神は水の女神「罔象女大神」ミツハノメが祭られる。

 

知っている様で知らない、神秘的な

蛇神さまの世界を探ってみたい。

まず今回は、出雲系を書いていくが、

出雲の蛇神とは、、?

 

【出雲の大物主の蛇神】

毎年、出雲では神在祭(神在月)の季節になると、南方の海から海神の使い『セグロウミヘビ』が流れつき、出雲大社などに奉納される。

 

旧暦の10月、現在の11〜12月頃にかけて、全国の神々は出雲に集まる為、その間は神無月となるが出雲では神在月となる。

 

調度この頃に、黒潮に乗って遥か南方の海から移動してきたセグロウミヘビが、荒波に揉まれ出雲の北の浦に打ち上げられるのだ。

 

黒潮とは=赤道付近フィリピンから日本列島まで流れてくる幅100キロ深さ1000m にも及ぶ 世界最大の海流で、九州で対馬海流として別れ日本海を抜ける。

 

出雲では、この季節は「お忌荒れ」という言葉があり、例年吹雪や嵐で天気が落ち着く時がないらしい。

(最近は気候変動で変わり始めたとか🤔)

 

打ち上げられたセグロウミヘビは龍蛇神🐍と呼ばれ

奉納する時は、トグロを巻いた形に綺麗に整えられて

 

出雲の

⛩️佐太神社、⛩️出雲大社、

そして日御崎神社に奉納される。

トグロを巻いた形のウミヘビ

 

実写版 奉納されるウミヘビ

 

ちなみに

⛩️佐太神社は悪縁切り

⛩️出雲大社は良縁結び

 

のご利益で知られるが、

まず先に悪縁を断ち切らなければ、

良縁は巡ってこれないので、

⛩️佐太神社→⛩️出雲大社と合わせて周ればご利益は絶大かもしれない。

 

それにしても、縁結びと蛇は関係あるのだろうか?

 

 

【セグロ海蛇の故郷】

1万年以上前から日本列島に住み縄文土器を作っていた縄文人と区別し、

新たに日本列島に渡来してきた土器文化の違う人々を弥生人と言う。

 

弥生時代になり、

 

彼らは北方や南方から段階的に日本列島に渡来し、水稲作や製鉄文化を持ち込んだ。

 

東南アジア・中国江南地方など南方から渡来してきた弥生人が出雲の『大物主』の部族であり、セグロウミヘビの辿る黒潮ルートが渡来ルートでもあったので、

 

日本列島までやって来る南海の象徴であるセグロウミヘビを、海神の使い『龍蛇神』🐍として祭っていたのだろう。

 

インドでは、キングコブラが蛇神ナーガとして信仰に取り入れられたが、

セグロウミヘビも強力な毒を持つ水棲のコブラで、強さゆえ元々信仰の対象だったのかもしれない。

 

また、

海のシルクロードと呼ばれた南海航路から半島・列島まで北上してくる船乗り達にとって、

黒潮に乗って海面近くを泳ぐセグロウミヘビの姿を見つける事は、

航路が黒潮に乗ってる事を示すまさに守り神の様な存在であり、

 

その姿にさぞかし安堵したはずだ。

ちなみに、ヒ長姫、手長姫、など長(ナガ)姫系の名を持つ姫神の「長」とは、インドの蛇神「ナーガ」が語源であると言う。

何れにせよ、

セグロウミヘビが、奉納するほどの価値がある存在だと言う事は、同様に南方からやってきた人々のみが持ち得る情報なのだ。

 

通説として蛇は脱皮をするので『死と再生のイメージが蛇の信仰の対象である』と言う実しやかな説が、広く巷間で信じられているが、実は日本の蛇に対する信仰は一様ではなく蛇神それぞれに由緒や起源がある。

日本の蛇の死と再生の信仰イメージは根拠の無いいわば迷信であり、蛇神の信仰を浮かび上がらせる為にこれは一度取り払って深堀りしてみたい。

 

 

【縄文人の子孫ではない、弥生人の故郷】

古事記では、大物主は「海を照らしてやってきた」等と神話として描かれているが、

縄文人が住んでいた日本列島に、海を超えてやってきたのが弥生人であり、彼らは

 

北方ルート=朝鮮半島・ロシア沿海州側からやってきたか、

 

南方ルート=中国江南・東南アジアからやってきたのか、

 

そのどちらかだ。

 

 

南海のウミヘビ

 

それにしても何故、

こんなにグロテスクなものが神様に奉納されるのかと思う。

 

セグロウミヘビは、ヘビの中で唯一の外洋性のヘビで何千キロを超える移動をする。フィリピンからハワイまで移動する事もあるらしい。

 

セグロウミヘビが、海を超え日本列島にまでやってきたと言う事に対する畏怖は、

実際に、千里万里の航海で南海を超えてやってきた人々だからこそ感じ得るものであり、

人々がセグロウミヘビを奉納してきたと言う事は、やはり大物主(オオクニヌシ)は、北方ではなく南方渡来であった事を示している。

 ※南方=中国の越、または南越、百越、(上海、香港、ベトナム、ネパール等)

 

「古事記に伝わる日本神話」

初代・大国主となったスサノオは、娘のスセリ姫の想い人を「葦原の醜い男」と呼び厳しい試練を与えた。しかし、葦原の醜男と呼ばれた「大己貴」(オオナムチ)は、大和で幾多の試練を乗り越えて、ついに十種の神宝を手に入れスセリ姫と結ばれた。

そして、「お前は出雲に行き、兄弟たちを退け大国主となれ」とスサノオから大国主の地位を継ぎ、出雲へいき出会ったスクナビコナと共に国造りを行った。

スクナビコナは国造りを終えると、常世の国(海の向こう)へと帰ってしまった。

大国主が途方に暮れていると、大物主という神が海を照らしてやってきた。

 

南方からやってきた大物主は、次世代の大国主となり出雲・大和を治める盟主となり、大和の三輪山に祭られた。

 

 

【黒潮文化圏の象徴セグロウミヘビ】

黒潮文化圏の移動は3万5000年前から続いてきた。

日本列島に文化、水稲作、製鉄をもたらした黒潮は、透明度が高く海面が黒っぽく見える事から「黒潮」と呼ばれるが、背中が黒いセグロウミヘビは、黒潮では保護色となる為、まるで黒潮に合わせて進化した蛇の様だ。

 

約2000年前、紀元前2世紀〜紀元頃に、

長崎県の壱岐の島に「一支国」と言う国が興り、

「原の辻󠄀」と言う都が置かれ大変栄えていた。日本最古の船着場も発見されている古い都だ。

 

 

壱岐の島は平地が少なく食料の自給ができず、海上貿易だけで成り立っていたというので、

二千年前から船の行き来は相当あったようだ。

 

熱帯にしかいないゴホウラ貝の装飾品も、

紀元前200~紀元300年頃まで各地の墳墓や遺跡から数多く見つかっている。

 

南シナ海から北上する黒潮の航路は「海のシルクロード」と呼ばれ、古代から交易が行なわれてきた。

 

当時は、

朝鮮半島南部にあった伽耶国が良質の鉄を産出し商人の垂涎の的となっていて、遠くインドからも鉄を求めて商人がやってきたという。

壱岐の島は、船乗り達にとっての海上のオアシスであり、出雲に向う神々も一度壱岐の島に集まってから向かったそうだ。

 

壱岐の島「龍蛇神神社」

 

南シナ海から「海のシルクロード」を超えてやってくる商人達も、壱岐の島に着き心を安らげた事だろう。

カツオをはじめ熱帯から日本を行き来する回遊魚は多いが、海面近くを泳ぐのはセグロウミヘビだけしかない。

南海から千キロ超える航海をする人々にとって、

黒潮に乗りユラユラと泳ぐセグロウミヘビに出会える事は、

航路を告げる吉兆であり神の如く崇めていたが、

スサノオの様に北方から渡来した人々にはその価値は分からない。

 

同様に、千キロ越えの古代航海も、かつて蛇をレガリアとする王族が南方から日本列島に渡来してきたことも、全て忘れ去ってしまっている私達は、その価値に気づく事がなく、

現代の私達がイメージする蛇の信仰に合わせて考えてしまっている。

 

セグロウミヘビは打ち上げられることはあっても自ら浜に上がる事はなく、

その脱皮さえ誰も見たことがない様な神秘的な存在だった。

 

出雲連邦王国の盟主の事を「大国主」と言い

初代・大国主のスサノオの時代には八岐のオロチ(オロチ=蛇)は退治された対象だったが、

南方の渡来人「大物主」が大国主の座についてからはセグロウミヘビは信仰の対象になった。

 

敢えて「蛇」とは言わずに「龍蛇神」と濁して呼んでいるのも、

そのあたりを憚っての事情もあるのかもしれない。

 

・・・パートⅡ「大物主のその後」に続く。

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨

最後までご覧頂きありがとうございました🙏


淡路国一宮【伊弉諾神宮】

2025-01-19 | 古代ミステリー

【伊弉諾神宮】

兵庫県淡路市多賀740

日本神話で国生みをしたイザナギ・イザナミを祭る。

淡路国一の宮

(エリアで一番の社格の神社)

 

神社の紹介ですが、今回は古代ミステリーでの投稿です😌🙏

 

 

伊弉諾神宮の創建は、

神世の時代とされる。

 

 

伊弉諾神宮が祭られている場所は兵庫県の淡路島にあり、レイライン・陽の道と言われていて同じ緯度に

⛩️東に伊勢神宮、

⛩️西端は対馬国一の宮「海神神社」(わだつみ神社)が祭られている。

 

 

春分・秋分の日には伊勢神宮の方から陽が登り、海神神社の方角に陽が沈んでいく。

 

 

夏至の日は、諏訪大社の方から陽が昇り、出雲大社へ陽が沈み

冬至の日に、熊野那智大社から陽が登り西の高千穂神社に向かって日が沈んでいく

 

伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行は、中心地であった事を物語っているかの様だ。

 

ゼロ磁場のパワースポットでもあり、参拝した後に不思議なことが起こるなど、ご利益は絶大らしい。

 

(ゼロ磁場・磁気のN極とS極が拮抗し打ち消しあい磁力が無い状態でプラスとマイナスの大きなエネルギーが均衡のとれた状態であるためパワースポットと呼ばれる。)

 

(天照大神・月読命を祭る左右神社)

 

古事記・日本書紀を創作した8世紀当時の日本人の歴史認識は三世紀までと言われ、それ以上前の弥生時代は「神世の時代」として神話化して記されている。

 

 

弥生時代、縄文人達がいた日本列島に渡来してきた弥生人のうち、イザナギ・イザナミ夫婦は初めて列島に国らしい国を生み出していった渡来部族の始祖神なのかもしれない。

 

伊弉諾神宮はイザナギが余生をすごしたと言う『幽宮』の跡地に祭られ、

現在の本殿は、イザナギの御陵を整地してその上に建てられたらしい、、

 

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△

古代ミステリー✨

【政治と宗教と信仰と】

 

本来、宗教と信仰は別物であり、

ここからは、宗教と政治のお話しですので興味のある方だけご覧下さい。🙏😌

 

こちらの伊弉諾神宮は、

宗教とは「政策的なものだった」と言う歴史的なリアルが最も感じられる神社だ。

平安時代より、力を持っていた類稀な神社であった様子が伺える。

 

中世の神仏習合の時代、神社は仏教の配下に置かれてしまい宮司を独自で決める事も出来なかった様な時代で、

私達のご先祖さまである始祖・神道の祖神さま達は、インド人が考えた仏教の神であると無理やり宗旨替えさせられていた中でも、

寺家側と対立する程の事が可能だった、極めて稀な、強い神社なのだ。しかも、寺家側に対して宗旨替えまで迫った事もあった。

領主は、坂上田村麻呂の子孫で、神社を再興させ宮司にもなった。

 

現在の伊弉諾神宮の宮司さんは、

安倍元総理とも親交があった方。

ロビー活動を行う政治団体

「神道政治連盟」の役員も務められていて、神道の精神性を国に反映させようと邁進されている様だ。

伊弉諾神宮で検索していると、『右翼』と出てきてしまうほど😅 

(政教分離って何だっけ?)

 

 

淡路国の地方神であった伊弉諾尊の神話が、大和朝廷の神話に組み込まれたのは7世紀中頃以降で(大化の改新〜古事記編纂の頃)、9世紀中ごろになって正式にイザナギが皇祖神の近親者とされたとする説もある。

 

魏志倭人伝に「和国百余国の大乱」と記されているとおり、弥生時代から古墳時代に渡来してきた部族は百を超え、八百万の部族達はそれぞれが始祖神を祭り、独自の元号と首長が存在していた。

7世紀の大和王朝はそれ以前から存在していた124部族らの神々を一系にまとめて、古事記・日本書紀の中に編纂する必要があり、イザナギの神話を組み込み神世の時代に編纂していったのだ。

 

古典(古事記・日本書紀)では、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、これが伊弉諾神宮の起源とされている。

 

禁足地であった御陵の前に本殿が置かれていたが、明治14年に御陵を整地してその上に移築された。

古来よりイザナギの終焉の地として信仰され禁足地にされてきたのが、突然そのイザナギの陵墓を削ってしまい上に本殿を建てるなど考えられない事だが、きっと何か格別の封印する為の理由があったのだろう。

伊弉諾神宮は官幣社であり、官幣社とは朝廷・国・宮内庁がお金を出す(物品を奉納する)国との関わりの深い神社で公設の影響を受ける神社のことだ。

 

伊弉諾神宮の近代〜

明治3年、県よりご祭神はイザナギのみとされた。

明治18年、 官幣大社に昇格

明治33年、宮内庁がイザナギの墓所を島根県松江に特定した。

昭和5年、 イザナギ・イザナミ両神を祭る許可を申請。

昭和7年、 内務大臣より許可があり正式に二神を祀る。

昭和29年、伊弉諾神社から現在の伊弉諾神宮に改称。

 

△▼△▼△▼△▼△

宗教とは元々、政策的なもので、

人々が自然にもっている死生観や信仰心など精神性を統括統治する為に発明された民族教育的なもので、人々の心を統べる政策的な手段だ。

強い神、根源的な神であるほどコントロールは強い。

そして、

宗教が政治に影響力をもってコントロールする存在である事は、

今も、古事記の時代もそう変わらない。

昨今の出来事をみても、もはや日本の伝統と言えるかもしれない💦

 

宮内庁はイザナギ・イザナミの墓陵を

岩坂陵墓参考地(島根県松江市八雲町日吉)に治定している。

治定とは「治める為に定める」行為で、ここを皇室ゆかりの墓として特定した根拠は考古学的な証拠がある訳ではなく権威的な決定であり、神話から遠く疑問が多い為にミステリーファンの注目を集めることになっている。

 

神話の世界でイザナミ・イザナギが国を生み・神々を産み出したので、イザナギとイザナミ始祖二神を祭る神社は全国に沢山ある。

ヤマトタケルも東日本を制覇しながら、イザナギ・イザナミを祀る神社を各地に建立して行った。国土開発をしながら国生みの神二神を祭るのはしごく当然のことだが、

埋葬は別である。

 

最終的にイザナギとイザナミは対立して別れたため終焉を共にしたことはなく、墓は別々に埋葬されているはずなのだ。そもそも宮内庁が両神を同じ場所に埋葬していると言う事には決め手がない。

イザナミの墓は広島県比婆山、イザナギの墓は兵庫県淡路島に、古事記に記されるとおり袂を分かち、神としての役割を終えた後それぞれ別々に眠られているのだろう。

 

次ぎは島根県の神納山(かんなやま)・比婆山久米神社(安来市比婆山)・岩坂陵墓参考地などの

宮内庁推奨ルートも辿ってみたい。

恐らくはイザナギの墓であった伊弉諾神宮の幽の宮地を削り、イザナミ・イザナギ夫婦を祭る普通の神社にしてしまったのは、その辺りに行けば事情も推察できるのかもしれない。 

 

 

✨✨✨✨✨

宗教政策的な一面は別にして

全くの無宗教である私は、

 

守給へ幸い給えと、

かしこき弥生時代の祖神さまを思う心で参拝します。⛩️🙏

心は宗教に非ず、祖神さまと共に。

神道は宗教に非ず、人々と共に。

なんてね😉✨

 

神道は、宗教の三大条件

・教祖様がいる

・ご本尊がある

・教義経典がある

を満たしてないので、宗教よりも、信仰に近いもだと思いますが、

政治的なパワーバランスの中で、紆余曲折を経てきた現在の伊弉諾神宮のあり様にも、無類の畏敬を感じます。

 

最後までご覧下さりありがとうございました。✨✨✨✨✨


今日いち-2024年12月30日善徳女王

2024-12-30 | 古代ミステリー
画像はAIに一筆加えたもの。拙作『和国大戦記』に登場する新羅の善徳女王。新羅27第目の王にして初の女王。新羅仏教国化と龍王の時代にアジア世界を模した「九重塔」を建立した、慈悲の女王。

謎の【天武天皇】Ⅱ.スサノオ御霊祭と文武天皇

2024-12-07 | 古代ミステリー

【清見原神社】

大阪府大阪市生野区小路2丁目24−35

ご祭神『天武天皇』

スサノオ他

 

参拝した日は秋の大祭の季節であり、

夜山車が出るらしく、夜もう一度

行ってみたら調度、神社を出発するところだった。

 

スサノオ(牛頭天王)を祭る神社では、

御霊式でスサノオを山車に降ろし市内を巡る祭りが、全国的に行われている。

 

 

今回も、パワースポットスポットの紹介でなく、

古代ミステリーの投稿です。

 

 

曳き方『大友清友会』

 

山車とは神様が降りてくる「山」であり、

山に神様を招き、

車に乗っているお囃子が賑やかに神様を饗す。

 

山笠、曳山などと同様、神輿の様に担ぐのではなく、引き車を人々が引いて市内を周る。

 

 

山車の上は、神様が降りる所である為

普通は人は上がらないものだが、

 

この御仁は、堂々と上がっていた。

 

この素破とした勇ましさは、

 

スサノオ様の如く力強くもあり、

 

神がかりしてるかの様だ。

 

 

或いは、スサノオ様(牛頭天王)だけでなく、

壬申の乱に勝利し日本国を征した天武天皇の猛々しさなのかもしれない。

 

カメハメ波のポーズは別として、

とてもパワフルだった。

 


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ここから先は、巷説の世界です。

古典(古事記・日本書紀)の世界観には無い歴史の裏側、古代ミステリーとしてお読みください。

 

✨✨✨

前回、【謎の天武天皇Ⅰ】の投稿の最後に、

世上をはばかり御神名を明かさず、表向きは別の神様として密かに祭る、影祀りについて書せて頂いた。

平将門の乱で、平将門に味方し落命した興世王を堂々と祀ることをひかえ、表向きは熊野の神様として祀ったり、

徳川家の手前、豊臣方だった前田利家を表向きは八幡宮の造営とし、密かに合祀して祭ったりなど、

往々にして御名を明かさぬまま密かに祭る事がある。

 

天武天皇を祭る神社は全国で5社とあまりに少なく、やはり御名を伏せたまま表向きは別の御神名で密かに祀ってる神社があるのではないだろうか、、

今回は、天武天皇の息子・文武天皇について触れてみる。

 

【文武天皇】
滋賀の白髭神社に祭られる猿田彦は、日本神話では天孫降臨の時に道案内をかって出た神様で、

八衢の神=境界の神でもある。


滋賀の白髭神社は、

天武天皇より『比良明神』を賜っているが、比良とは=境界の事で当時は、

滋賀の琵琶湖は日本海に通じていて、海の向こうの朝鮮半島との境界として重要視されていた。

【白髭神社】滋賀県高島市鵜川215


全国の白髭神社の総社が滋賀の白髭神社であり、

風説では白髭神社は天武天皇の子・文武天皇を祭っていると言われる。


ご祭神は「古事記」「日本書記」に登場する猿田彦さまだが、白髭の由来は「白髭をたっぷりと蓄えていたから」だと言う。

しかし、普通は猿田彦神社などで祭られている猿田彦さまは、その様な容貌ではない。


天狗の様な大きな鼻が特徴で、妻神のアメノウズメと共に夫婦相神で道々に祭られていることが多い。

日本書紀では「猿田彦は鼻が長く背が高く目が大きく輝き…」等と事細かに容姿が記されているが、

「白髭神社」では違う容貌で祭られているらしい。

 

この白い髭をたくわえたという容姿が、

実は、文武天皇なのだそうだ。

 

文武天皇は、

巷説の世界では新羅の文武王であり、文武王が

日本に渡来した683年が生まれた年とされていて、即位した697年には既に白髭をたくわえた老人だったと言う。

 

白髭神社では猿田彦を祭っているが、

又の名を比良明神、白髭明神、

と言い、

「白髭さま」と言う別の呼び名で文武天皇を密かに祭っていた様だ。

 

全国に300社あると言う白髭神社だが、

天武天皇の子・文武天皇がこの様に祭られているならば、

天武天皇も御名を明かさずぬまま全国に祭られている可能性がある。

だとすれば、それは何処の神社なのか?

 

、、、続く🐤

 

 

🙄

以前スサノオⅠの投稿でガッツリ書かせて貰ってますが😅次はコンパクトにまとめたいと思います、、


謎の【天武天皇】Ⅰ.祭る神社は何故少ないのか

2024-10-27 | 古代ミステリー

【清見原神社】

大阪府大阪市生野区小路2丁目24−35

 


今回はパワースポットの紹介でなく、古代ミステリーの投稿です。

YouTube版『聖なる国 日本』のショート動画(古事記と日本誕生)でも天武天皇を投稿していますが、

興味のある方はご覧下さい。


浄御原の幻想✨

「浄御原=きよみはら」 飛鳥時代

近江(滋賀県)の大津宮から遷都し、

飛鳥(奈良県)の浄御原に都を戻した
天武天皇の事を、

『飛鳥浄御原』と呼ぶ。


あえて幻想と書いてみたのは、(長岡風)天武天皇を祭る神社が、極めて少ないからだ。

 

天武天皇(飛鳥浄御原様)を祭る神社は

⛩️三栖神社(京都)、

⛩️天武天皇社(三重)、

⛩️桜木神社(奈良)、

⛩️浄見原神社(奈良)

⛩️清見原神社(大阪)、

など全国で五社ほどしかない。そのうち、

後から合祀した神社以外で、最初から天武天皇を祀っている神社は


⛩️清見原神社(大阪)と、

⛩️浄見原神社(奈良)


ニ社のみ。


「天武天皇を祭る清見原神社」


奈良の浄見原神社は、天武天皇の吉野入りで国栖が協力したと言う伝承を由緒とし、


こちら大阪の『清見原神社』は、
天武天皇が、難波宮へ向かう時の行宮跡地に祭られたと言う。

天武天皇の崩御の後、大伴氏が
『天武天皇宮』として建立した。



 

明治時代の宗教政策により

天武天皇宮から『清見原神社』に改称され、スサノオ様など近隣で祭られていた神々が合祀された。

官社(官幣社)となり、

⛩️『清見原神宮』になっていた可能性もあったと言う。

 

何故、天武天皇を祭る神社が少ない事が謎(ミステリー)なのか?

それは、天武天皇こそが日本国の建国者だからだ。


和国時代の部族連合国を終わらせて

天皇を頂点とした日本国建国へと導いた天皇が、崩御後

二社しか祭られなかったのは何故だったのか?

 

 

【天武天皇の日本建国】

日本建国前夜


「天武天皇」

建国と、日本の基底文化に影響を与えた天武天皇は、律令と軍事だけでは国は治められず、宗教政策が必要であることを知っていた。


天武天皇(大海人皇子)は「壬申の乱」で、まだあまり知られていなかった天照大神や神武天皇の東征神話を持ち出して、自軍を鼓舞し勝利した。

そして、

政権に着くと、

一時は仏教の布教を禁じ、

伊勢神宮の社格を日本一に押し上げて、

天照大神を天皇家の始祖神とし

『古事記』『日本書紀』の編纂を命じた。

 

 

律令政策では、

『天皇』という王号と『日本』という国号を使い、天皇を頂点とし、

従来の「臣」「連」等の官位の上に、
新たに朝臣、真人など上級位階を作り、

元有力部族(氏族)らを律令官人制に導入する為の身分を明らかにした。


私有地・私有民化を阻止して、

公地公民制を盤石にし、

東日本の蝦夷族の酋長200人を来朝させ
朝廷に帰属させて、

統一国家への礎を築き上げた。そして、

道教・陰陽道、肉食の禁止など、日本の基底文化に影響を与える新たな
導入を次々と行った。

天武天皇の政策は、妻・持統天皇、子・文武天皇、に受け継がれ、

 

ついには『日本国』の国号で遣唐使を送り、


の中国皇帝に、

『もう 倭国という国はないのでその名での呼んではいけない。皆、日本国と呼ぶように』

と言わしめた。


そして、

大宝律令、和銅開珎、藤原京、

古事記、日本書紀が完成し、


通貨、法律、聖典、国記、首都、外交が整備された日本国は名実ともに建国された。

 

和国の部族連合国時代を終わらせた

日本国建国の立役者が、

何故これほど脚光を浴びることもなく、

ひっそりとしているのだろう??

天武天皇の功罪は、功より罪の方が深刻だったと言う事だろうか?

 

唐の都「中国大明宮遺跡」
日本政府からの援助(ユネスコ信託金)で修復された事もあってか、

『日本国』と言わしめた時の、遣唐使謁見の様子が展示されている。



【日本建国の後の衰退】
倭国の大王の時代は終わり

天武天皇系によって

天皇を頂点とした日本国が誕生したが、

建国後は残念な事に時代が下る毎に

仏教勢力  
貴族勢力
武家勢力、と天皇家の権力は
奪われていってしまう。

当時は、日本政府の最大派閥だった

亡命百済人勢力と仏教勢力の前に、
天皇側は追い詰められていき、

「天皇は仏教の下僕である」

とまで宣言させられ、仏教の法王は

神道の天皇より位が上とされた🥲


そして、遂には

「天皇の位を譲れ」と、仏教側から譲位を迫られる。


かつて蘇我氏が推古天皇に対し

「蘇我家の女と言え」
「天皇領をよこせ!」

と迫った事はあるが、天皇に対して

これほどまで堂々と、王権譲渡を迫った記録は無い。


とても、天武天皇を祀れるような世の中ではなかったのかもしれない。


奈良県葛城市當真にある

当麻寺(當真寺)は、天武天皇の時代

役行者が最初に修業した土地を、万蔵院に寄進した事によって建立された。         

その当麻寺にある仏像は、
天武天皇がモデルと言われている。

 


用明天皇の子孫である当麻公も天武天皇から最高位の『真人』の位を与えられ、
当麻真人となったが、
やはり当麻寺の建立には関わっていた様だ。

その後、当麻真人は
天武天皇、妻・持統天皇、子・文武天皇、と三代に渡り天皇家に仕えた。

 

飛鳥時代に山岳仏教を開いた

『役行者』が東国に追いやられ、

飛鳥仏教勢力は衰退していき、

百済系の奈良仏教勢力が席巻した時代


堂々と、天武天皇を祭ることはなくとも

当麻寺の仏像の様に、

御名を伏せ、別の御神名で影祀りして、

密かに祀った事はあったのかもしれない。


✨✨✨✨✨✨✨続く

 

△▼△▼△▼△▼△
影祀り※
世上を憚り御名を伏せ、表向き別の御神名で祀るケースは少なく無い。

新しい所では
加賀藩前田利家公とお松の方を祭っている石川県の尾山神社は、

当時、豊臣方だった前田利家を祭る神社を堂々と建立する事が徳川家の存在により憚られた為、
表向きは⛩️八幡宮を造営し、前田利家公を密かに合祀し祀った。

古くは
ヤマトタケルに成敗されたイソタケルの部族らは、表向きは⛩️姫神社としてイソタケルの妻を祭り、密かにイソタケルを祭っていた。

⛩️神社巡りをされてる方で、

「女神を祭っている神社のはずなのに、とても荒々しい雰囲気を感じた」と言う事は無いだろうか、、

本来、本殿の屋根を見ると祀られているのが女神か男神かが分かり、

基本的には

千木の形は 
垂直カット(男神)、水平カット(女神)

鰹木の数は
奇数(男神)偶数(女神)

と、されている。

しかし実際は、
女神の千木に、男神の鰹木など、
ちぐはぐな場合があり、

諸説あるが、一説にこれは

表向き女神を祀っているが
実は男神が主祭神である事を密かに表していると言う。

 

△御神名が詳らかな場合▼

天之水分神(男神)
水波能女神(女神)が祭られている社。

千木は垂直(男神)
鰹木は偶数(女神)の組み合わせだった。

 

✨✨✨✨✨✨✨✨✨🙏

最後までご覧下さりありがとうございました。


茨城県【御岩神社】と【薩都神社】と立速日命✨

2024-10-12 | 古代ミステリー

『清らかな山 かびれの高峰に、天つ神鎮まる』とされ、

御岩山には古くから神が坐されていた。

 

御岩神社は、国常立神、イザナギ、イザナミ、をはじめ188柱の神々を祭っていて

その奥にある『かびれ神宮』までは、

30分前後の山道。

多少汗をかくが、是非行ってみたい所だ。

 

茨城のパワースポット⛩️御岩神社の御岩山にまつわる

🙏古代ミステリーの投稿。そこそこ長文です。

 

 

【賀毘礼神宮】

かびれ神宮

 

タチハヤヒ(立速日男命)又の名を

ハヤフワケ(速経和氣命)が祭らている。

 

 

御岩神社の拝殿の左側(表参道)と右側(裏参道)から御岩山を上がっていく。

左は勾配がある分早く行ける。

 

この立速日が、

天つ神であると伝えられ、

御岩神社から車で15分程度の里宮

⛩️『薩都神社』にも祭られている。

 

【薩都神社】
茨城県常陸太田市里野宮町1052

ご祭神
立速日男命(速経和氣命)

奈良時代の終わり、常陸国風土記によると
厳格な神であり里(常陸太田市瑞龍町)の人々への祟りが多かった為、朝廷より片岡大連が使わされ人里離れた賀毘礼(かびれ)の峰=現在の御岩山に移されたと言う。

 

しかし参拝に困難であり再び里に移された。(現在の常陸太田市里野宮町)

 

平安時代になり、804年富士山の噴火、864富士山史上最大の噴火など、天変地異と地震が続いていて、日本は御霊信仰(災いを祟りとして呪いを封じる宗教政策)が盛んになった。

 


⛩️薩都神社は嵯峨上皇崩御(842年)の後、従五位、正五位、従四位と、急に位階の勅受が続いた。

立速日に突然の様に次々と神位が追贈されたのは、やはり祟りを封じる為なのだろうか?

 

 

御岩神社の後ろにそびえる御岩山(かびれ峰)には、

⛩️薩都神社中宮、⛩️賀毘礼神宮に、

立速日が祭られていて、

御岩神社で参拝し御岩山コースを周る方も多い、小一時間ほどで参拝できる。

『薩都神社中宮』

 

かびれの峰の頂きまで、登ると

かびれ神宮の奥宮、少し奥まった下の方に小さな祠と不思議な石柱が祭らていた。

 

 


ミステリアスな神・立速日を巡る巡礼ツアー✨✨✨🌿

 

 

【御岩神社】
188柱の神を祭るが、神道の神だけでなく仏教神も祭っている。

御岩神社は神道の聖地と言うより、神仏習合の時代の影響が色濃く残っている寺院でもあり、仏教が神道を支配していた時代観が偲ばれる。

 

出羽三山(密教)より、初代水戸徳川家が勧請した。

元は弥生時代を遡る古祭祀場があり、

天つ神である立速日様が坐される古来からの聖地だったが、千年以上経って仏教がマウンティングされた様だ。

 

【立速日男命】
天つ神とされる立速日(タチハヤヒ)は、常陸国風土記にのみ登場する神。
如何なる神様なのだろう?


かつてこの里は『国栖』と言い『土雲』がいて、「兎上命」に攻め滅ぼされた。

たくさん殺害したので佐都(サツ)と名付け、薩都と言う地名の語源でもある様だ。

 

その後、時代が下り立速日の祟りを鎮める為、片岡大連が朝廷より遣わされてきて、かびれ宮に祭った。

 

『国栖』『土雲』と言えば日本書紀で、

ヤマト王朝を開いた神武天皇の東征時、

奈良入りの時に登場した

『国栖』のイヒカ、
『葛城』の土蜘蛛(ツチグモ)など、

ヤマトの先住部族との関係が感じられる。

 

そして
『ニギハヤヒ』は、奈良の在地勢力の中ではヤマト朝廷側で有名な存在だが

『タチハヤヒ』と聞けば、

ミカハヤヒ、ヒハヤヒなどハヤヒ系の神々の中では、真っ先にこの

『ニギハヤヒ』を思い浮かべる人も多いかもしれない。

(🙄ハヤヒ多い💦)

 

 

【日本書紀・ハヤヒの物語】 
ニギハヤヒの

『ハヤ』とは、

ハヤスサノオ命
ハヤ経和氣命
ハヤ玉男命など

早くから日本列島に居た(着いた)
先住者を指している様だ、、 

『ニギ』とは、

和魂(ニギミタマ)の様に、柔らぐと言う意味の素語だ。

『タチ』とは、
旅にでる、立ち去る、と言う意味だが、

国常立の神の様に、国を立てると言う意味でもある。

タチハヤヒとは、立ち去った先住の神と言う意味にも取れる。

奈良にいた古い神は、茨城に移られ
国を建てられたのだろうか、、

そして、
ニギハヤヒと対を成す存在と言えば

『アラハバキ』(ナガスネヒコ)

である。※長い脛にハバキを巻いていた。

(出自はおそらくアラハバキは北方渡来の騎馬民族系でニギハヤヒは南方渡来の製鉄民族系)

 

△▼日本書紀△▼△

天つ神(天孫族)であるニギハヤヒは、
神武天皇に、先がけてヤマト(奈良)へ入った。

ニギハヤヒは、当時の奈良盆地の勢力・先住部族であったアラハバキ(ナガスネヒコ)の妹と婚姻し、天つ神の神宝を携えて結ぶ事で奈良を懐柔した。

ナガスネヒコは天つ神(天孫族)と、
婚姻合併し共同統治していたつもりでいたが、

神武天皇が侵攻してくると、事態は急変する。

ナガスネヒコは既に天孫族と合併している事を主張し証拠として神宝まで見せたが、

神武側は「確かに神宝だ」と認めながらもナガスネヒコを撃ち、

娘婿のニギハヤヒ(おそらく当時のヤマトの王)もナガスネヒコを裏切り、神武側についた。

アラハバキ(ナガスネヒコ)は、ニギハヤヒの裏切りにより討たれたとされているが、東日本に逃げたとの説もあり、東北にはアラハバキを祭る神社が多い。

 

アラハバキか、或いはアラハバキを盟主として仰いでいた奈良の残党らは、
(土蜘蛛や葛城氏も含む)

この里にやってきて、天つ神の神宝と共にアラハバキを祭ったのかもしれない。

 

御岩山(かびれの峰)には、十種の宝の様に多くの宝が納められた様だ。

 

 

明治時代の宗教政策の神仏分離では、

神道の神と、仏教の神が分けられ、
神々は厳しく選別されたがその時

アラハバキ(ナガスネヒコ)の様な東国の古い神々の多くは、国常立神などに変えられてしまったらしい。

かびれの峰に坐し、

神宝と共にある立速日様こそが、

アラハバキその人なのかもしれない。


紛れもない天つ神の神宝は、今も人知れず御岩山に眠っている。


封鎖され、行くことは出来ないが、

いつかまた悲運の天つ神を意識して御岩山(かびれの峰)を登ってみたい。


『賀毘礼の峰に登り給う、その社は石をもって垣とし、中に種属いと多し。種々の宝、弓、矛、釜、器物、皆、石となりて残れり。』


道祖神、月の夜に 石になりけり

✨✨✨✨✨✨✨✨
最後まで御覧頂きありがとうございました。

 

Other

私はなんだか山頂のこの岩が、

社に二人の神様が仲良く並んでらっしゃる様にみえてしまう✨😌

自然の道祖神の様🙏✨


月刊誌『厶ー』に載っていました。

2024-09-08 | 古代ミステリー

久しぶりの書籍版『聖なる国✨日本』の投稿です。

ナント!精神世界・ミステリーの老舗

月刊誌『厶ー』2024年2月号に、

 

『聖なる国 日本』が新刊書籍情報で掲載されていました。✨😳

 

WEB版のムーでも紹介されていて、それで初めて見つけたのですが

書籍版『聖なる国日本』は、パワースポットの紹介というより、ジャンルとしては古代ミステリーロマン風に書かれているので、

ミステリーの老舗である『ムー』に掲載されたことは筆者としては、嬉しい限りです。

しかも、1ページも使って頂き✨🙏

当ブログも紹介して頂きまして✨✨🙏

 

 

書評は、すごくよく書かれていて見事だなと感じました。表現や抽出も素晴らしいと思い一部抜粋させて頂きます↓↓↓

 

(引用)
https://web-mu.jp/column/33454/

日本古代史を自由に語るエッセイ集「聖なる国 日本」/ムー民のためのブックガイドコラム・インタビュー2024.01.14
文=星野太朗


「ムー」本誌の隠れ人気記事、ブックインフォメーションをウェブで公開。編集部が選定した新刊書籍情報をお届けします。

聖なる国 日本

ジェロニモ 著

教科書では教えない、ダイナミックかつ深遠な日本の歴史

 標題を一見すると、何やら右翼的な内容を想像するが、実際に本書に目を通してみると、右だ左だという政治的観点が、いかに狭小なものであるかが痛感される。

 本書において展開されるのは、教科書では教えない、ダイナミックかつ深遠な日本の歴史である。
 何しろ本書によれば、この日本という国は古代以来、西アジアから中国大陸に至る広大な領域の、さまざまな国の王族たちの、最後の亡命地であったのだ。
 そんなわけで、古代史の偉人たちは、本書によると、ほとんどが海外からの渡来組ということになる。たとえば、聖徳太子は元来は西突厥の大王だった人物だし、天智天皇は百済の王子キョギで、継体天皇はエフタル族の男大迹王であるという。また邪馬台国の卑弥呼の一族も、「中国江南の巫術者である許氏の一族の出自」であるらしい。

 本書は、このようなまったく新しい観点から、日本の古代史にまつわる多彩な謎を、自由闊達に語るエッセイ集である。
 話は古代の母系社会から、宗教の本質、『古事記』成立の裏話、卑弥呼の正体から日猶同祖論、北方からの渡来人であるスサノオの真実、「出雲連邦王国」と諏訪学、徐福伝説から日本のピラミッドまで、実に広範囲に及び、最終的には縄文の「文化」に辿り着く。
 著者によれば「文明とは、繁栄と滅亡を繰り返すもので縄文文化の様に長く続いたものが無い」。ではなぜ、縄文文化は1万年以上にわたって持続し得たのか? その理由は、ぜひ本書で感得していただきたい。

 著者のジェロニモ氏は、精神保健福祉士/ヒプノセラピスト。古い歴史や神社が好きで、好奇心の赴くまま全国各地を巡りながら、「聖なる国 日本」というブログを書き綴ってきた。本書は、このブログの書籍化である。
 元はブログであったということで、各章はそれぞれ独立した内容になっており、順序など気にすることなく、どこからでも読める。

✨✨🙏✨✨✨✨✨✨

筆者も驚いた本書の姿😳その

読後感が伝わってくる様で、、響きました。

こちらの書評を以て完結された気がします

🙏ありがとうございました。

 


福井県⛩️【三國神社】古代と近代の顔

2024-07-07 | 古代ミステリー

⛩️三國神社

北陸地方、福井県と石川県の県境にある。

久しぶりの古代ミステリーの投稿です。
(画像は以前のもの😌)

九頭竜川沿い、下流に鎮座されてる神社。

 


江戸時代から明治時代、大阪から北海道まで日本海側のルートをいく廻船を
北前船と言い、北前船の寄港地の三国港の繁栄と共に三國神社も栄えてきた。



越前三大祭りのひとつ「三国祭り」

(三國祭り 巨大人形の山車)

 

 

しかし、創建の由緒は繁栄より古く1500年は遡ると思われる。


御祭神⛩️ 継体天皇 大山咋神

継体天皇は、大和王朝の王統が途絶えて王になるものが居なくなってしまい、大伴金村に請われて王権を継いだ天皇で直系ではない為、謎が深い。

1500年前の巷説の世界を少し覗いてみる。

興味のある方はご覧下さい😊

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

継体天皇は、

正史の世界では応神天皇の五世孫とされるが、五代も遡れば確かさは定かでなくこれは寧ろ別の王統である場合に用いられる表現と考えられている。

巷説の世界では、古代最大の渡来部族・エフタル族の王とされるが、
アカデミズムからも「別の王朝では?」との声があがる程、継体天皇は天皇の系譜の中では異質な存在だ。

 


蒙古鉢形甲
(この時代に突然大陸の兜が登場する)

 

渡来人王朝のせいか、日本を統一した王朝にしては継体天皇を祭る神社は少なく影が薄い。

 

継体天皇を祭る神社は、何かしら直接的な御由緒がある神社のみだ。

 

継体天皇の故郷、福井県坂井市高向神社の看板。

 

もう一人のご祭神大山咋の神は、天台宗の守護神や秦氏が祭る松尾大社に祭られる山の神様だが、

しばしば同じく山の神様である大山津神さまと混同される。

 

(大山咋をお酒の神様として祭る松尾大社)

 

マイノリティだが、継体天皇に王位継承を願った大伴金村の子に「大伴咋」と言う者がいて、どちらかと言えば

三国神社の大山咋=大伴咋説を支持してみたい。

 

大伴咋は、聖徳太子の命令で、
倭国、百済、高句麗による対新羅
「三国同盟」を結んだ使臣だ。

高句麗と百済が敵対していた為、同盟は困難であり、三国を結んだ功績は当に

三国神社と名乗るに相応しい。

 

 

エフタル族は、西アジアで勢力を誇った遊牧民族だが、ペルシア、突厥に挟撃され
民族の大移動を敢行し、まだ大国の少なかった東アジアへと逃亡してきた。

 

これほどの大部族がやってきた事はかつてなく、6世紀の朝鮮半島と日本列島は大混乱の時代を迎える。

 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

当時 ヤマトの王だった武烈天皇は驚き新羅に逃亡してしまい、
その後エフタルを恐れて王位を継ごうとするものが誰もいなかった為、

仕方なく大伴金村・物部麁鹿火が、ヤマトの王位を継いで下さる様にと頼んだ。

継体天皇(男大迹王)は河内で即位したが、朝鮮半島への進出をひかえ草深いヤマトに引っ込んでいる場合ではなかった。

河内から新羅に侵攻し王座を奪い、智証麻立カーンとして即位し国制を改革した。

百済へも圧力をかけ皇太子を廃嫡させ倭国に送り、自分の息子を百済皇太子にし任那四県を割譲して付けた。

そして新羅に逃げていた武烈天皇が帰順してきた為、継体天皇は朴妃を嫁して武烈に王位を譲り、自分はその上皇(葛文王)となって、倭国に戻った。

 

継体天皇はようやくヤマト入りして玉座に座った。

即位からヤマト入りまで20年も歳月が過ぎていて、正史の世界では
『 継体天皇はヤマトの豪族を恐れて、なかなか大和に入ることができなかった』とされている。

もしも本当にそうならば、ヤマトの豪族らは、恐れてヤマト入り出来ない王など敢えて擁立せず、他の王を立てていた事だろう。

何もせず 20年も大人しく待っていたことからも、恐れていたのはヤマトの豪族側だったと思われる。


継体天皇がヤマト入りし、ヤマトは九州勢力との頂上決戦で勝利して、東の蝦夷を残し関東から九州までほぼ日本列島を統一した。

朝鮮半島から日本列島にかけてエフタル族の支配政権は半世紀ほど続いたが、
戦乱の末、新羅を残してほぼ駆逐された。

そして朝鮮半島や 日本列島の歴史からはエフタルの名は封印され、それぞれ 新しい国へと生まれ変わていった。


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

三国神社は、

かつて存在した短命王朝や三国同盟など、知られざる歴史を微かに密やかに偲ぶスポットでした✨

 

最後までご覧頂きありがとうございました✨✨✨✨✨✨

 

 

【追記】

新羅の武烈王と、倭国の武烈天皇

新羅の文武王と、日本の文武天皇

何故、同じ様な時代に同じ名の王がいるのか?(三国史記・日本書紀)

気になっている方も多いと思うが、

 

正史の世界では、「漢風諡号」と言って使って良い漢字が限定されている諡なので、同じ組み合わせになるのは珍しいことではないとされている。

 

しかし、新羅との戦争、任那領有権の争い、王族の暗殺や裏切り、大化の改新や白村江の戦いなど、最も半島と列島で往き来があった大乱の時代に、新羅王と同じ名の天皇が2人もいるのだ。

 

「単なる偶然」で済ませてしまうのは

探究心が無さすぎる。

 

現在の国境に合わせて歴史を考えるのでなく、任那が存在していた当時、

日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった時代に頭を切り替えて考えてみた方が、まだリアリティがあると感じる。


八百万の神々の起源

2024-06-10 | 古代ミステリー

最近、聖なる国 日本のYouTubeで、

ショート動画をあげるようになった。

古代ミステリー系の投稿はブログで書くと長くなりすぎるので、音声 画像 文字、3つのツールで表現できるYouTube の方が散らからずコンパクトに収まる。

ショート動画は1分間だから、さすがに再生回数も全然違う。

そうなるとイイネだけでなく、

初の🎉アンチコメントらしきものもちらほら😂

これはあまりいい気分はしないものかと思っていたが、訴求対象がイメージでき発信の絞り込みができるので、

かえって勉強になった。

 

ショート動画『八百万の神々の起源 』

https://youtube.com/shorts/ckfD1kGrcpY?si=j__HhIKlvfgJE543

 

画像は16世紀の哲学者デカルト。 

「我思う故に我あり」

人間と自然を分離した分離主義者で、

自然を、

崇拝したり

収奪したり

コントロールしたりする 

対象物にしてしまった。 

 

(自然と見なした対象にはデカルトは容赦がなく、奥さんの愛犬まで解剖してしまった事でも知られる)

 

日本人はもともと森羅万象に生き、こうした分離主義はなく、西洋人が考えるような自然崇拝もなかった。

自然と言う言葉さえなかったのだ。

その、漠茫然とした意識を表現するのは難しいが、

昨今の、

気候変動による危機で、

人間本位の分離主義は限界を超えてしまった為、YouTubeの投稿ではその古来日本人の感覚を発信してゆけたらと思う。

 

ジオエンジニアリングなど、無謀とも思える暴走の対岸にある意識だ。

 

ブログでは、聖地・パワースポットの紹介を続けていくが、

 

YouTubeでは、どんどん脱線して

『人新世の資本論』についても挙げてみたい。

日本人の太古の叡智は、世界を救う

✨✨🙃✨🙃🙃✨✨✨✨


奈良県【高鴨神社】⛩️出雲王朝の界隈

2024-03-24 | 古代ミステリー

【高鴨神社】

奈良県御所市鴨神1110



全国の賀茂氏(鴨一族)の神社の総社⛩️

(※御所市=「ごせ市」と読む)

⛩️御祭神
阿遅志貴高日子根命
(あぢしきたかひこね)
またの名を
迦毛之大御神(かものおおみかみ)

妹の👰下照姫も祭られている。

 


鉱脈の上にある神社で、多くの気が出ていることで知られる。

 

 

神社の案内によれば、
『夏場に参詣されますと、涼しく感じられるのはその為です。「気」は身体にたいへん良く、ぜひ神域を巡られて神様の「気」をお受けになられ、心身共によみがえられることをお祈り申し上げます。』

とのことだったが、確かに
リトリート感のある神社だった。✨✨

 

 

そして、境内にたくさんの神々が祭られていたことも心やすけた。

 

 

 

 

鴨一族の始祖『アジスキタカ彦根』は

大和に繋がる古い神様だが、

大和より古い出雲に繋がりあった神様で、

出雲の大国主命多紀理姫の子。

農業の神様として祭られている。

 

 

 

創建不明だがこちらへ祭られたのは、
出雲の国譲り後かもしれない。


上鴨社⛩️高鴨神社

中鴨社⛩️御歳神社

下鴨社⛩️鴨都波神社

と、三社を呼ぶように、この地域は古くから鴨一族が拓いた農地だった様だ。

 

 

大和王朝にも繋がりが浅からずとしても

それより古い、

葛城王朝とも繋がりがあったと思われる。

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

古事記では、

高天原から「出雲を譲れ」と派遣されたアメノワカヒコにそっくりだったと言うエピソードが記されている。

 

✨✨✨📖

高天原より国譲りの為に派遣されたアメノワカヒコは、出雲にやって来ると

アジスキタカネ彦根の妹💖下照姫と結婚して出雲側についてしまい、高天原陣営から殺されてしまった。しかし、

アメノワカヒコの葬儀に、
アジシキタカ彦根が現れると、

そっくりだった為に「生きていた!」
と驚かれる。

アジシキタカ彦根は、

「自分はアメノワカヒコでは無い」

と怒り、

下照姫もアメノワカヒコではないと否定する歌を詠んだ。

アメノワカヒコは、高天原を捨て出雲に亡命し

出雲の神アジシキタカとなったことを物語る様なエピソードであり、

当時は高天原より出雲の方が勢いがあったであろう事が覗える。

この後、高天原からの

三回目の遠征で出雲はとうとう

高天原側に王権を譲り渡し消滅する。

 

『アジシキタカヒコネ』を始祖とする鴨一族は

王朝を超えて在り続けてきた由緒のある氏族だったのだろう。

 

最後までご覧頂き、ありがとうございました🙏

✨✨✨✨✨✨✨

 

 

 


出雲大社の界隈⛩️Ⅲ

2024-03-19 | 古代ミステリー

今回はパワースポットではなく、

古代ミステリーの投稿です。

 

【スサノオの墓】
出雲大社から車で30分ほど。稲佐浜から海岸線を北上する。


日御崎神社方面、隠れが丘と言う地にひっそりとある。

鳥居をくぐり、暫し緑の参道をゆく。

 

 

スサノオ様の神魂がいつき祀られるところ。

 

 

もともと、美佐伎神社と言い日御碕神社と合わせ

⛩️『日御碕大神宮』と称せられていたのが、

明治時代に日御碕神社に改名されたらしい、、

 

 

【日御碕神社】

 

 

スサノオの墓については奈良説もあるが、出雲ではまずこちらが候補にあがる。


日本神話ではスサノオは、
高天原(新羅)を追放され出雲にやってきて、ヤマタノオロチに差し出されそうになっていた櫛稲田姫(稲田姫)と出会った。

 

【稲田神社】

稲田姫の生誕の地に祭られている。

島根県仁多郡奥出雲町稲原2128-1

 

スサノオはヤマタノオロチを退治して姫を守り、二人は結ばれてスサノオは出雲の王となった。

⛩️出雲大社も、スサノオに命じられた大国主が建てた宮であり、古代出雲の起源はスサノオ無しでは語れない。

 


【八重垣神社】
スサノオが櫛稲田姫をかくまった場所に祭られる

 

 

【須我神社】
スサノオと妻・稲田姫と結ばれた神社

〒699-1205 島根県雲南市大東町須賀260

日本の宮

 

スサノオが稲田姫に詠った

日本の和歌。

 

古事記では、スサノオは出雲の王になったと記されるが、

通説では、スサノオは初代『大国主』になったとされている。

出雲は、
方々の国々と婚姻合併を繰り返し連邦王国となって勢力を拡大した国であり、

出雲連邦王国の盟主の事を

『大国主』と言う。

 

 



四方を海に囲まれた日本列島では、

『海峡を制する者が日本列島を制する』

と言われた程で、

日本海の制海権を持てるかどうかが、
地上の支配にも大きく影響していた為、

日本海側にこうした連邦国ができるのは当然の成り行きだった。

 

朝鮮半島から日本列島へ向かう船は、
リマン海流で南下し対馬海流と合流すると、海流に乗って日本海沿岸の何れかに到着する事になる。

 

この日本海沿岸ラインの国々が、大国主により結ばれて連邦国となったお陰で、着岸地である出雲や越の国の人々は、大陸側半島からの最新式の武器や技術を手に入れられる恩恵を授かっていた。

出雲はその日本海勢力の中心国だった。

大国主(出雲連邦の盟主)と
 
九州の多紀理姫と湍津姫、

新潟の奴奈川姫、

東西との婚姻による大型合併がかなった事で、

九州→朝鮮半島

朝鮮半島→日本海沿岸の

海上ルートは、確実で強固なものになった。

 

 

 

八千矛神、大己貴命、大穴牟遅、宇都志国玉、葦原醜男、など

大国主命には沢山の名がある。

これは大国主命とは一人の人物の固有名詞ではなく連邦の盟主をさして言う王号であり、初代大国主のスサノオの様に、幾人かの王たちの呼び名ではないかとみられている。

大国主命には70人以上の兄弟と、150人にも及ぶ息子がいることからも、
一人の人物ではなく、歴代の人物と思われる。


最後の大国主命が、
天孫族に対して出雲を譲ったと言う
『国譲り』の場所。


出雲大社の西、稲佐浜の近くにひっそりとある。

 

出雲連邦王国は大和王朝に先駆けた前王朝である為、

大和王朝の歴史書である日本書紀には記されず、

古事記の神話の中に描かれている。

 

その描き出しは、征服王朝らしい正当性で勇ましい書き方をしているが、

出雲から大和へと、政権が譲られた

「出雲の国譲り」とは、実際は、

同族・同盟の中のお家騒動であり、嫡系争いによるクーデターの様なものだったようだ。

 

 

 

 

 

 

 


皆神神社の界隈と「不思議な松」

2024-02-22 | 古代ミステリー

皆神山ピラミッドの投稿で紹介して以来、10年ぶりになる。

長野県の皆神神社と、その周辺の投稿。

 

雰囲気もなんとなく変わった。皆神神社を囲い込む様にあったゴルフ場はなくなった様だ。

 

⛩️侍従神社  

 

 

⛩️少彦名命

 

預言の的中が未だ有名な近代の宗教家・出口王仁三郎(大本教)の印象が強く残るあやしい感じはなく、小綺麗な石碑がさりげなく整備されていた。

 

 

開放されて広々とした、空気感が清々しい。

 

 

以前はゴルフ場だったので、裏手から観ることは出来なかったが、

木花咲耶姫が祭られている奥宮は、小さな古墳の様にもみえる。

 

 

 

 

ご祭神 木花咲耶姫を祭る⛩️浅間神社

鳥居の神額には「三国第一」と書いてある。

 

木花咲耶姫は山の神「大山祇神」の娘で富士山の神様。

山梨県の富士新倉浅間神社からの勧請だろうか。

 

「三国第一」をかかげる

富士新倉浅間神社

 

 

【小丸山古墳】

 

頂上の皆神神社から少し下ったところにある。

古墳時代中期の古墳で、このあたりの王の古墳と目されている。

古墳の上には、

大山祇神がひっそりと祭られていた。

 

 

 

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飛鳥時代、西暦645年の大化の改新で、蘇我氏の蘇我入鹿・蘇我蝦夷が倒された後、蘇我派であった古人王(古人大兄皇子)は、身の危険を感じ、

半島への亡命を試み、長野方面から日本海側へ抜ける拠点があった善光寺を目指して逃げた。しかし道半ばで落命し、皆神山付近のどこかへ埋葬されたのではないかという説がある。

一般的には小丸山古墳が『古人王墓』とする説が通説だが、

小丸山古墳は古墳時代中期(約千五百年前)の古墳とされているので、

飛鳥時代(1350年前)の古人王の時代とは違う可能性もあり、古人を祭っている⛩️皆神神社の方が有力なのかもしれない。

 

 

皆神神社の他に、古人大兄皇子を祭る神社は寡聞にして知らない。

 

蘇我氏の甥にあたる古人大兄皇子は、王には即位してなかったとされるが、後に中大兄皇子(天智天皇)が古人大兄皇子の娘・倭姫を皇后にしていることなどから実際は王だったのではないかと云われている。

娘の倭姫に後を任せて出家までして逃げ様としていた事からも、倭姫は姫ではなく王女(皇太女)だった様子もうかがえる。

 

 

なんとなく古墳の様にも見えなくはない。

 

 

小丸山古墳の大山祇神と、

娘の木花咲耶姫を祭る皆神神社

父娘の祭祀は、古人王と娘の倭姫の存在を想起させられる。

 

 

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最後に…。

他に古人王が坐される処は無いのだろうかと皆神山の中を探し、何となく辿り着いた場所。と、『不思議な松』

 

 

なんとなく、、というよりも普通は辿り着かないと思われる場所。

 

 

地域の方が大切にしている聖地というか墓所の様なところだ。

不思議な松、

 

何が不思議かと言うと、

とある石塔を覆う様に斜めに伸びている。

周りの松の木と比べ、斜めに生えているが、

あり得ない角度で横向きに立っている。

 

 

一見して倒木の様にも見えるが、ちゃんと立っている。しかも、

先端は別段他の木に支えられていると言う程でも無い様だ。

何故、倒れないのだろう?

 

根に他の木の根が絡み支えになっているのだろか?

それにしても曲り方がおかしい🤔

 

通常、神木はあり得ない様な伸び方をする事は多い。

木の下には然るべき存在が眠られているのかもしれない。

しかし、大抵は支柱に支えられていて

支えもなく、自重で折れることもなく、

成長を続けている木は見た事がない。😳

不思議な松だった。

 


弥生時代の【金印】の謎

2024-01-31 | 古代ミステリー

【古代ミステリーシリーズ】

久しぶりの聖なる国 日本のユーチューブ配信です。

「金印」について。

約二千年前の弥生時代、日本は中国から金印を二回も授かっていますが、

これらの事は古事記・日本書紀など日本の史書には一切記されてはなく、

何故贈られたのか?? 詳しい事はよく分かっていません。

「日本がそれだけ認められていた国だから」では根拠がなく、

日本の何がそんなに凄かったのだろう?と疑問に思う方もいるかもしれません。

「国」とは言えないほどの村の様な小さな国の、竪穴式住居に住む人々に、

中国の皇帝が金印を送るほどの理由があったのでしょうか?

 

書籍版「聖なる国 日本」の方でも書いていますが、

九州の志賀島で発見された【漢委奴国】の金印は何故、

日本に贈られたのか??

可能性のある根拠について、探っています。視聴時間9.46分

興味のある方はご覧ください。

 

https://youtu.be/160smwMULk4?si=KxvIRXDIttMAyfOJ

 

〜 今回は、BGMを入れてみました。無料で使える著作権フリーのユーチューブ・ミュージックライブラリからのセレクトです。

単発の効果音と違って、音量のバランス決めるのが難しかったです。トークのボリューム10に対して、BGMは1/10ぐらいの音量にしてみました。

正解はあるのかな?

 


聖なる【朱の起源】時代と人種を超える施朱とは?

2023-12-01 | 古代ミステリー

最近、フォトショットのスポット投稿が続いていましたが、久しぶりの古代ミステリーの投稿です。

「朱」の謎を解く、そこそこ長文ですが、興味がある方はご覧ください。

 

の起源】

人類が最初に出会った顔料は朱(赤)だ。原始人の残した洞窟の壁画などに使用されている。

赤は冴えが強く発色が良い。隠ぺい力にも優れ、色の中ではとてもパワフルな色で、文字どおり「朱に交われば赤くなる」というほどの最強色だ。

 

赤い顔料には、主に3種類あり最もメジャーなものが「ベンガラ」=赤鉄鉱

最も貴重なものが、「朱」=水銀朱を含む辰砂という鉱石で、

鉛を焼いて赤くした赤鉛を「丹」という。

 

日本では、赤い顔料を総称して「丹生」と言い神社の朱塗などに使われていた。

 

「丹生都姫神社」

古代より丹生を産出するエリアには、丹生都姫、にほつ姫などが祭られている。

 

日本人に赤は相性が良いらしく、紅白や日本国旗、巫女さんの緋袴など白と対比させて好んで用いられてきた。

因みに、ちょっとややこしいが本来「朱」とは赤色の事をいい、朱(赤)の補修材に安価な代用品として使われていたのが現代の私達が言う朱色の顔料だった。

 

 

朱は無機水銀であり有毒な有機水銀と違い、「丹」と言った様な薬にも使われていた原料で、古代のみならず最近まで消毒や殺菌にも使われていた。但し如何なる成分でも過剰に摂取すれば腎機能に障害を起こす様に、朱もこの限りではなく同様に害となる。金メッキのメッキ材料にも使われる為、金の様に或いはそれ以上に貴重な材料だった。大仏の金メッキでは、気化させるにあたり大量吸引による被害があったらしい。

 

魏志倭人伝に登場するヒミコも、魏国への貢ぎ物に「朱」辰砂を献上しながらも、魏国からは「丹」=赤鉛を望んだというほど赤い顔料は必要とされていた様だ。

丹生は縄文早期(約1万年前)の縄文土器の着色から、銅鐸、ハニワ、装飾具などあらゆる製品に着色されてきた。

 

 

【死者への施朱】

古代日本には「施朱」という習慣があった。遺体の頭部や胸を中心に赤い顔料を塗って葬るという習慣だが、古墳時代の終わりに消滅した。赤い骨が発見された当時は、生者のものか?死者のものか?がまず考えられたという。入墨に使った顔料が死後に骨と共に残ったとも考えられる。

古墳時代の施朱は消滅手前で最盛となり、亡骸だけでなく墓室の地面に散布されたり天井や壁も全て赤くして、何層にも塗布したり、顔料も朱とベンガラを使い分けたりなど施朱には様々な方法があった。

 

これは、「殯」もがりの習慣と結びつけて考えられ、死霊の呪いを封じるといった呪術的なものだと信じられている。

しかし、こうした呪術的信仰は一時期中世の日本で盛んだっただけで、何千年、何万年と伝統的に続いてきたものでは無く、時代を越えた根拠があるものでは無い。

 

古墳時代だけでなく、弥生時代、縄文時代にも施朱が行われていた事が発見されていて、日本列島の先住民族と渡来人、文化の違う民族、文化の違う時代まで同様な「死霊の呪い封じ」で行われていたという事は考えにくい。宗教や信仰は、民族や時代によっても異なるものではないだろうか。

そして、縄文時代・弥生時代、古墳時代まで共通した文化というのは他に類例がなく、驚くべきことだが、何故ここまでいくつもの時代を超えて続いてきたのかはよく解っていない。

 

施朱が行われるのは、祟りを恐れた呪い封じではなく、もっと違う理由があるのかを考えてみたい。

 

 

【即、鎮圧的手段】

施朱の研究者によれば、古代人の風習に対して、即「悪霊の鎮圧的な手段である」として安易に結論付けてしまうのは理論的な裏付けに欠けていて、説得力が無いという。

しかし、日本人のオカルト好みもあってか実しやかに「祟りを恐れ呪いを封じた」などと呪術的心理と結びつけられる方が多い。むしろ無難に置きにいく感じで、呪い封じは枕詞の様に受け入れられる様だ。

特に祟りを恐れたというのならば、菅原道真や平将門など無念に亡くなられた方の弔いには、朱塗りが多く施され調伏されていたなどと、濃淡がエビデンスとしてもっと存在していてもよさそうなものだが、実際全てに根拠がある訳ではない様だが只「赤は魔封じの色」に使われたと信じられている。

しかし、現代の私達が日の丸や紅白を見て、「呪い封じだ」とは思わない様に、古代人も同様に、赤は呪い封じとだと即は思わないのではないだろうか。

 

「呪い封じ」の呪術的な信仰が生まれる以前から、赤は馴染みの深い色であり、呪術信仰の象徴としてどこまでも時代を遡っても良いという初歩的なミスを犯すわけにはいかない。

そして現代人は古代人に対して、必ずといってよいほど

「テクノロジーは劣っている」

「原始的・土俗的な呪術信仰」である

と結論付けるバイアスが強く働き、滅多にこの域を出ることが無い。劣ったものとして見下す姿勢はバイアスというより、もはや信仰に近い。

 

施朱に関してはどうだろうか?

 

施朱は日本の古代遺跡だけでなく、汎世界的な風習で人類共通の習慣であり、すくなくとも3500年前はエジプト、中国、日本で施朱が行われていた。

時代を越え、文明を超え全ての人々は「死霊の祟りを恐れ封じ込めた」と断言するには、少し無理がある様に思える。

古典的な信仰心とは別に、文明、国、民族に限定されない「人類に共通する何か別の由来があるのでは、」と、探求してみたくなるところだ。

 

しかも、施朱の習慣は人類だけではない。起源はもっと古く3万年前・旧石器時代の原始人から、30万年前~ネアンデルタール人、50万年前~北京原人に至るまで、人類のみならず、旧人、原人の時代からあった習慣だという。

この、言語さえ未発達な時代から既に宗教や呪術が存在していたとも思えず、火、道具、そして宗教以外の何か、もっと太古からあるホモ属共通の習性があったとまずは考えてみても良いかもしれない。

そして、その元々あった習性が宗教発生後に埋葬儀礼に変化していったのではないだろうか。

 

「呪い封じだった。」を除外してみて、原初からある習性として考えた場合、どの様な可能性が考えられるだろう…

 

 

【魂魄の幽冥道】

中国の鬼とは、日本の鬼とは違い亡くなった方の霊のことだ。

 

「魂魄」と言い、人は亡くなると魂は天にあがるが、魄は弔わなければ地に還らず、地上を彷徨う浮遊霊となる。この浮遊霊のことを鬼と言い、鬼の道とはこの幽冥道のことを言う。

なので、人を殺すことよりも人を殺して弔わない事の方がもっと悪いこととされていた。

呪い恐れて封じるというよりは、人の道として弔う。

(魂=ソウル、魄=スピリット、鬼=ゴーストと言った感じだろうか)

そして、火葬、土葬、鳥葬、風葬など弔い方は文化や宗教によって違いはあれど、

故人を還してあげることは、生あるものとしての節理だ。

 

地に還すという点においては、赤色を亡骸に塗布しておくことは理に適っているのかもしれない。赤については「赤の魔除けの力を信じた。」と想像し、それが説明の根拠になっていることが多いが、ここでこの手法から一歩外に出てみて「赤」の特質を考えてみる。

 

赤の顔料はマイナスの電荷であり、人の皮膚の表面荷電はマイナスなので、塗布した場合は斥力の働きが生じるのだろうか?  (化学は苦手だが…)もう少し進めてみる。

 

若いころ、調色の仕事をしていたことがあった。(調色=顔料を配合し色を作りだす)

 

当時はコンピューター等より人間の目の方が正確で、機械では色差6までしか読み取れなかったものを、調色職人は肉眼で色差0.2まで判別しなければならなかった時代だ。特に「赤」の調色は人体への影響が強いため、赤の調色を長時間続ける事の危険性などを指導されていた。壁床全面を赤く塗った部屋に三日間いると人は精神に異常をきたすと教えられた。

「赤」を見続ける事は本当は疲れた。波長が長い為、その分トーンパリエーションが豊富なので沢山見なければならないのだが、あまりに刺激が強い為に口紅の調色をする職人さんは一日4時間くらいしか働けないそうだ。

宇宙観測に無くてはならない「赤方偏移」という現象(地球から遠い星ほど波長が伸び可視光は赤に偏る)で知られる様に、宇宙一波長の長い色である「赤」を目に照射し続けることはリスクが大きいのだと思うが、逆に、色指圧に使うには(カラーパンクチャー=色を皮膚に当てる刺激法)最強な色である事は間違いないだろう。

 

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では、生身の人間でなかったらどうなのだろうか?

この場合は、仮死状態の人だとする。

古代では、脳死判定などなくショック状態や仮死状態でも死亡している状態と認識された。

その為、埋葬後に生きを吹き返したりする事もしばしばあり、確実に再生が不可能と認識されるまで、安置する期間、いわゆる「もがり」殯が行われた。故人に対する思いや人々の再生への願いが強いほど、期間は長くなる。

 

キャノンは、星の出ていない暗闇でも撮影できるカメラを開発したそうだが、肉眼で暗闇であっても僅かな光(光子)は存在していて物質は反射して色は存在しているらしい。

 

紫は波長が短く散乱しやすく届きにくい色だが、紫外線などに至っては健康な人体の表面だけで被害を及ぼす。

逆に赤は人体の中にまで深く入る色で、波長が長いことにより、電子レベルでは色の中では最も人体に入る色(波長)であり、僅かだが細胞分子を励起させる可能性もあるのではないだろか。そして、健康な人体でない場合は、この暗闇レベルの微弱なエネルギーでも反って良いのかもしれない。

 

こうした皮膚表面へのマイクロカレント(微弱電流)による刺激は、最近のエステでもフェイスローラーをはじめマイナスイオン効果を狙ったものが多くなってきている。

 

意識があれば薬草を煎じ、意識がなければ針やお灸で人体に刺激を与え反応を引き出す。

 

これが私達がイメージする古代の医学の限界だと思うが、更にもう一つ、

 

意識も生体反応も無くなった人へ、

 

蘇生術的な最終手段として施す、

 

「施朱」=赤顔料の塗布という施術があったのではないだろうか。

 

勿論、そこには科学的根拠もなければ、宗教や信仰もない。

 

頭部や胸を中心に、赤の顔料を塗布し、

 

ただ、そうすることで生き返らなければ、死んでいる状態と認識されるだけだ。

 

ホモ属(原人・旧人・現人類)の習性として、それが備わっていたのではないかと思う。

 

習慣と言うよりも、もっとバイオミメティクス※的なデフォルトの習性なのかもしれない。(※工学的にも応用可能な生物機能・習性)

 

アリやハチは社会性のある生物だが、ハキリアリは集団で農業を行う。葉を切り出して、巣に運び湿度や温度を最適にした環境の中で、葉にアリ茸というキノコを植え付けてそれ育て食料としている。不要となった葉や、亡くなったアリは同じ場所へ運ばれていき塚を形成する。

 

法律も信仰も、科学的知識も存在しているとは思えないが、テクノロジーとしては成功している。この様な、知識も呪術的な信仰もなく、原初のホモ属が自然と持ち得ていた習性と考えてみることは出来ないだろうか。

 

活性化を起こす入射は、顔料の粒子の大きさによっても違うと思われ、何層にも塗布したり顔料や顔料の粒子を使い分けたりなど、多様な仕様が遺跡から発見されているのはその為なのかもしれない。

 

長くなったが、「祟りを恐れた呪い封じ」という施朱の考え方に対し、他の考え方はできないだろうか?との思いで書き綴ってきた。

 

それはこれらの事が、呪いを封じる手段とは到底思えないからだ。

 

私には、目にいっぱいの涙を浮かべ、ボロボロと大粒の涙を溢れさせながら、

悲しみを堪えて懸命に朱を施している人々の姿が、思い浮かぶ。

悲しみの涙もまた、ホモ属共通の特質だ、

愛する人、大切な家族や友人を失った人々が、

子を亡くした親が、親を亡くした子が、

祟りを恐れ呪いを封じをしている様には思えない。

 

結果として埋葬儀礼となる前は、脳死判定ならぬ施朱判定ともいう様な、最後の施術として朱を施したことがあったのではないだろうか。

 

亡くなられた方への思いは、今も昔も変わるものではないと思う。

 

故人への思いは、宗教や儀礼を超えた思いがあり、呪い封じの様な考えにだけ留めることは、その心を損なってしまっている気がしてならない。

 

ご先祖様や亡くなった方を大切に思う気持ちは、人は、恐れより愛情の方が強いだろうとの思いから、施朱についての「呪い封じ」否定論を拙いながらも書いてみた。

 

 

最後まで御覧頂きありがとうございました。✨✨✨✨✨🙏

 

※参考文献

朱の考古学 市毛勲著 雄山閣考古学選書

古代の朱 松田濤男 ちくま学芸文庫

 

 

『Bonus shot』

広島の爾保姫神社から、和歌山の丹生都姫神社に向かう途中、

雲が割れ、矢印の様に空が一直線に丹生都姫神社の方角を指していた。

 

 

近づくと、ゴールはこの辺りですと言わんばかりに空に円ができてきた。

 

 

 

不思議な天空ショーを見られたおかげで、運転もさほど疲れを感じることなく和歌山へ到着。

 

和歌山県「丹生都姫神社」

 

 

 

広島県「爾保姫神社」

辰砂(朱水銀)が採れたという黄金山に鎮座する。神功皇后による由緒。

爾保姫=爾保津姫(にほつ姫)は、丹生都姫(にうつ姫)と同じ神様と考えられている。

神功皇后と関わりのある神社は、「丹」ではなく「爾(に)」が比較的使われている気がする。

 

ちなみに、こちらの爾保姫神社は原爆でも倒壊を免れた。倒壊しなかった被爆建物として登録されていたが、2007年に不審火で焼失。

氏子さん達は、数億円を集めて新しい拝殿を再建されたという。

それでも資金は足らず、神殿などは再建する事ができなかったが、

2013年、伊勢神宮の遷宮により、旧社殿のヒノキ材を譲り受け再建された。

地域の氏子さん達と神様の関係がとても良く、

巨大なパワーストーンの様な黄金山のエネルギーと、爾保姫さまが人々を守り続けている様な気がする。

氏子さんの中には、爾保姫さまのご子孫の方もいらっしゃるのではないかと思う。

生ある者と、御先祖様とはこの様なものかと、仏教伝来以前から続く古来日本のあり樣を感じた。