【知られざるストーンサークル】
11月19.20と、東北の縄文遺跡弾丸ツアーに行ってみた。片道9時間😅🚙
主に『世界遺産』となった、四千年ほど前のストーンサークル遺跡群を中心に、岩手、秋田、青森を周った。
青森県【大森勝山ストーンサークル】
岩木山を臨む台地にあり、冬至の日に岩木山頂に陽が沈む場所に造られた。
【岩手県】
御所野遺跡
【秋田県】
大湯ストーンサークル
伊勢堂岱遺跡
【青森県】
亀ヶ岡遺跡
大森勝山遺跡
小牧野遺跡
どこも😅世界遺産?!
と思われぬほど閑散としていて、ゆっくり静かに遺跡を感じる事が出来た。
しかも、半分くらいは早くも冬季閉鎖となりブルーシートが被せられ休業していたが、博物館や資料館がやっていたのは良かった。
ブルーシートで冬仕度の小牧野遺跡
ストーンサークル=環状列石と言い、環状に石を配列したもので、日時計または祭祀場として考えられ、埋葬を伴う場合もある。
四~五千年ほど前、イギリスと日本、そして中国黄河上流(斉家文化)に存在していた。エジプトのピラミッドより古い。
「妖精の輪」と云われるイギリスのストーンサークルと
中国のストーンサークルから出土の土器。
🙄日本のものと見分けがつきにくい、、
画像だけだと「縄文の、」と言われても区別がつかないかもしれない🤔
【秋田県】大湯ストーンサークル
ストーンサークルに使う石は、伊勢堂岱遺跡では夥しい数の石が、ソリの様なもので5Km下の河川から運ばれたと考えられている。
岩手県【御所野遺跡ストーンサークル】
遺跡によって石の色の組合わせが違う。石を焼いて赤くした石を使う。
20種類以上の石が使われ、遺跡によって色合いが違うらしい。
大湯ストーンサークルでは緑色の石が多く使われていた。
ユーラシア大陸の西と東、文字文化を持たないケルト人と縄文人が何故同じ様にストーンサークルを作っていたかは謎だが、弥生時代になり日本には弥生人が、イギリスにはビーカー人が渡来してきて、やはり同じ様な時期にどちらも姿を消していった。
青森県【小牧野遺跡ストーンサークル】
あまり知られて無いようだが、
全国に178ヶ所あるというストーンサークルの大半は東北にあり、
4000〜3000年ほど前の遺跡が多い。(縄文中期→後期)
2021年、『北海道・北東北の縄文遺跡群』として世界遺産に登録された。
秋田【伊勢堂岱遺跡ストーンサークル】
200000平方メートルの遺跡の中心に4つのストーンサークルが配されていた。
中央には立石があった。
忍路ストーンサークル(北海道)
音江ストーンサークル(北海道)
日本のストーンサークルは比較的小さく直系30〜50m程度が殆どだが、
諏訪盆地にある『阿久遺跡』では、イギリスの世界最大のストーンサークルに次ぐ、直系120メートルものストーンサークルが高速道路工事に先がけ発掘調査された。
時代も、
縄文前期=6500年〜5000年前の遺跡で
世界最古級のストーンサークルだ。
使われた石は、10万個とも30万個とも言われる。
結局また諏訪の話しになるが、🙏😅
『知られざるストーンサークル』とは
この最大最古級ストーンサークルの事だ。
ストーンサークルがあった「阿久遺跡」は、中央高速道路の下にそのまま埋め戻して埋没させる方法で保存したそうだ。
※埋没を保存と言ってよいのだろうか?むしろ封印されてしまった感じが😅
【阿久遺跡】跡地
考古学、縄文観を覆した大発見であり世界有数の貴重な遺跡だった様だが、
発見された時代が違えば『世界遺産』となり高速道路下に埋めずに保存された可能性もあったかもしれない🤔
東京ドーム一個分の大規模な遺跡は、国史跡として半永久的に高速道路の下に埋もれたままなのだろうか、、
(埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産なので大切に保存するとともに,できるだけ公開するなど活用に努める、、らしいです😑)
世界遺産となった
東北のストーンサークル群と違い、
諏訪のストーンサークルは埋められた存在であることさえ知られてない。
ただでさえあまり知られてない日本のストーンサークルだが、
せめてレプリカ展示や復元であっても120メートルのストーンサークルを見てみたいという気持ちになった。
(看板のみ😅)
【ストーンサークルの謎】
ストーンサークルの謎の一つで、伊勢堂岱遺跡では、200年かけて10世代以上に渡り作り続けられ、しかも未完成なまま終わっているという事がある。
『円環を大事にしていたから』と考えられているらしい。
埋葬を伴う場合もあり命の円環の意味もあるかもしれないが、200年もかけずに作ることが出来たであろうストーンサークルを未完成のままにしているのは、
月の死と再生のイメージや「月は満ちれば欠る」の諺どおり、完成させない事が欠ていかないこととした等、月の由来で考えられている。
しかし、センターの石柱は日時計の役割と考えられたりするので、周囲のサークルはマヤや中国の様に円形カレンダーの役割もあるかもしれない。
200年かけて未完成にしているという事は謎すぎるので、まず月のイメージを外して考えてみる。
200 年という長い歳月は、
観測や記録の結果では無いかと思う。
(十和田、八甲田、岩木山火山)
縄文遺跡の中心集落は火山の周りに造られた為、
毎年、火山に噴火が無かった事を記しその時の状態を石文字によって記録する。配石の形や石色でコード化され、安全な状態である200年もの観測結果が伝えられ、もしも、噴火があれば最後の欄に書きこむ事になっていた。
伊勢堂岱遺跡が望む白神山地は、海底火山が隆起してできた山岳地帯で17世紀までは活火山だった。
カレンダーであると共に、安全な生活の記録版でもあったのかもしれない。
ランドスケープとしての機能は確かな様で、小牧野遺跡ではサークル中心から見て八甲田山の登頂に冬至に陽が登り、遺跡内の馬頭観音碑の方角に夏至の陽が登り、岩木山も20mほどの櫓でなら視認できるという。
(※馬頭観音はもともとあった立石に江戸時代書き込まれた)
これで、ブログを終わります🙏
長い話しを読んで下さってありがとうございました。
次は、ブログのスピンオフ作品🥸
『縄文人封印の謎』について↓
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ここから先は、長文の加筆です😌🙏
縄文人の封印について
興味のある方だけご覧下さい。✨✨
(🙄今までも長文でしたが、🙏😅)
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【封印され続ける縄文人の謎】その①
『縄文』は、
明治時代の影響が残るせいか封印される傾向が強い。
信じられない事だが平成の時代になっても、
教科書から縄文時代が消されてしまった事があったという、、😮
😳古代ミステリーというより、現代も続いている縄文人封印のミステリーについて触れてみたい。
『何故、縄文人は消されるのか?』
宗教政策史の視点からも考えてみる🤔
縄文の過去は1万数千年と長いが、
歴史は短い。
明治10年に研究の為にアメリカから来日したモース博士が、東京の大森で縄文時代の貝塚を発見したのがきっかけで、日本の考古学・人類学が始まった。縄を模様にした土器の特徴から「縄文」とよばれる様になった。
しかし、明治時代の教科書には縄文人の事は何も書かれてなく
「日本人とは関係がない、蝦夷や土蜘蛛など野蛮人がいた時代」と教えられていたという。
そして、古事記・日本書紀に記されている神話は全て史実であり、日本は天照大神を始祖とする神国であるという宗教政策的な国史教育が戦前まで続いてきた。
アイヌや沖縄だけでなく本土日本人にも縄文人のDNAが残されていて、
分子人類学では、
「日本人の祖先は縄文人と弥生人の二重構造」
とされているらしいが、
「日本の歴史は天照大神を始祖として天孫族によって2600年前から始まった」という戦前の信念は今も残り、
縄文の存在は認知されながらも、歴史時代からは除く姿勢が影を落としている様だ。
戦前ならいざしらず、未だに古事記・日本書紀を本気で信じている人はいないと思うが、
神社などでもよく耳にするのは
「一応、そういう事になってます」と、😅
やんわりと明言を避ける言い方が多い。
2600年より前のことは、なんとなくタブーなのだ。
そもそも、
古事記・日本書紀は1300年ほど前の天武天皇の宗教政策から始まったもので、
1400年〜16000年前の世界はこの時点で封印されたといっても過言ではない。
私は歴史好きなのだが、隣の韓国には2000年前の歴史ドラマなどザラにあるのに、日本の歴史ドラマといえば戦国や維新などいわゆるチョンマゲ時代の新しいものばかりで、こうした歴史の薄っぺらさに少し寂しさを感じていた😢(古い時代はやはりタブーなのか?)
【天武時代の歴史政策と日本】🎌
1300年ほど前のこと。🌌
天武天皇こと大海人皇子は、皇位争いとなった壬申の乱の出征時に、
それまでクローズアップされてこなかった『天照大神』の存在や、神武天皇の東征を持出して自軍を鼓舞し、勝利へと導いた。
律令化による日本建国の時代の強力な実行者が天武天皇で、日本の基底文化に多大な影響を与えた。
宗教政策では、古事記・日本書紀の編纂を命じ、伊勢神宮の社格を日本一に押し上げ一時は仏教の布教も禁じた。
律令政策では、部族連合国の和国の旧習を払拭し朝廷での位階氏姓を整備し、公地公民と徴税・徴兵、東北〜九州までを統べ蝦夷族の酋長200人を大和朝廷に来朝させ冠位弓矢も与えた。
天武天皇の政策は、持統天皇、文武天皇そして藤原不比等へと受け継がれ、
遂には「日本国」の国号で遣唐使を送り、時の中国皇帝・武則天に
「もう和国という国は無いのでその名で読んではいけない。日本国と呼ぶように」と言わしめた。
そして、
大宝律令、古事記・日本書紀、和同開珎、
藤原宮が完成し、
『日本国』は名実ともに建国された。
と、、😑ここまで、強力に完成されるともはや
縄文人の歴史など(どこいった?)
となる。
明治時代は、
この天武天皇の強力な時代観のいわば復刻版だ。
現代でも考古学的な新たな発見や科学的な解明が進んでいく中でも、古事記に記された天照大神の始祖を脅かす様な事柄は封じられる傾向がまだ残ってるのではないだろうか🤔
天照大神が始祖であることは変わらない。
平安時代に嵯峨天皇が天照大神ではなく
「スサノオこそが皇国の本主である」
と詔りし、
歴代天皇によるスサノオキャンペーンともとれる熊野詣が続いたが、
天照大神の存在は不動だった。
神社の祝詞でとなえられる「吾が皇孫命は」とはスサノオのことだ。
しかし
始祖神であることは変わらないにしても、それが=
それまでの歴史が封印される事と同じになってしまっては残念だと思う😔
国の始祖より私達の先祖は古いのだ、、
「始祖を祭り先祖を敬う」といった精神性で、始祖以前の時代観との両立は出来ないものだろうか?という気にもなってくる、、😅
【迷走する縄文時代の扱い】💫
戦後、天皇陛下が
「神ではなく人です」というカミングアウトをされて、教科書が黒塗りされた後に、GHQの政策による国定教科書が出来上がり、
初めて日本の歴史の1頁目に天照大神ではなく、
「縄文人」が登場した。
それまで史実として教えられてきた神話が考古学的な事実にとって代わられてしまった事は、当時の日本人にとっては大きなパラダイムショックだった事だろう。
それまでは、日本は神が作った神国で世界に比類なき天皇中心の皇国であると教えられてきたのが、史実ではないと覆されたのだ。
私の父は戦中派で、教育勅語で育てられた世代だが、敗戦の喪失感は今も心の底に存在している様だった。
一度、勇気を出して父に聞いてみたことがあった。
「日本が戦争に負けたのは(当時小学生だった)自分が頑張らなかったせいで天皇陛下に申し分ない。」
と、もしかして今でもそう思っているのかと?
父の顔は曇り、暫し押黙ったあと
「そうだ、、」
と呟いた。
終戦で時が止まったままの子供時代の自分が、心の底で自らをずっとせめ続けているらしい。
時間薬が効かない事を心的外傷後ストレスと言うが、癒える事のない抑圧が残っている日本人は多いのではないだろうか?
神話主義は国民の義務であるかの如く存在していたものだ。
ある方の話しでは、そう教えられた世代が次の世代にもそう教え続け、世代連鎖してしまっているのが現代にも影響を与えているのだという。
考古学の世界でさえ、5000年前まで遡れる炭素14年代測定法の批判から始まった。2600年以前の事はタブーとする反応も否めない、、
しかし、それでも
「神話は史実ではない」という歴史観にとって代わられ戦後束の間、
考古学や民俗学・人類学などの新たな学術分野から歴史が見直されるかにみえた。
学者指導要領は
「神話より考古学的な成果を大切にする」となったが、
20年も経つとまた
「神話や古事記・日本書紀を大切にする」
という考古学軽視が始まって😅
「考古学的興味に児童を深入りさせるな」という指導に代わり、近代・現代史に力を入れる様に強調されたらしい。
縄文時代の記述は徐々に教科書から削られていき、遂に平成時代にはまた縄文人が姿を消してしまった。
流石にこれは考古学界からも反対声明があり、再び縄文時代は教科書に登場するが今度は
世界五大文明説?😅を背景に
『縄文は他の四代文明とは違う世界最古の文明』
「外洋航海も盛んで、食物栽培が行なわれ都市が造られ神殿があった。」
等と、逆に盛り過ぎな展開になった😮
※確かに😅縄文時代の黒曜石の流通は太平洋側は伊豆諸島、日本海側は沿海州(ロシアウラジオストク側)まで渡海していたが、、🤔
何れにせよ考古学とは乖離した何かしらのパワーを感じる。
考古学者の戸沢充則氏は
「やはり日本を特別な国としてみなそうとする優勢思想が背景にある」と警鐘を鳴らしていた。
もっと遡れば昭和初期にも考古学者の藤森栄一さんは
「歴史が真理の為に存在するのでなく、民族生活の為に存在することが常識になってしまった。」と嘆いていた。
唯物主義の考古学者にとって、
唯心的な歴史主義は泣かされてきたのだろう。
考古学には先史時代というものが無い。
歴史学者の様に
「文字文化が無いので歴史時代とは言えない」などと先史時代の事としてスポイルする事は出来ず、
例えどんなに古くても出土した物がある以上、考古学者は一切の偏見を捨てて真摯に向かい合わなければならないのだ。
かつて、人々が存在した
地面から下の世界と、
地面から上の人々が住む世界の事情は全く様相が異なる。
その何かしらの影響のせいか、私達は何の疑いもなくずっと
『縄文人は狩猟採集民族で、暗い竪穴式住居で神に恵みを祈り、不安定でひもじい生活をしていた。」
というイメージを信じ込んでいた。
このイメージを抽出した考古学者の戸沢充則氏は、栄養不良がみられる骨が見つかった事と、グロテスクな土偶の画像だけが強調された印象操作の影響だという。
😳☝️そう、おどろおどろしいイメージなのだ、、
そう言えば何故か、アフリカのホッテントット族の事も合わせて教えられた気がする、🤔
完全に「アダモちゃん」的な原住民イメージが出来上がってたかもしれない😅
日本には「三つ子の魂100までも」という
言葉があり3歳児までのすり込みは百歳まで影響が残ると言う意味だが、
心理学では5歳くらいまで、
成功哲学では7歳くらいまで、
言語習得では2〜12歳までが臨界期であると言われ、
子供の頃の獲得は先々まで残る、😑
『縄文人は狩猟採集』という言葉も、今ではまるで枕言葉の様に定着してしまっていて、縄文の農耕に触れる事までタブーになってしまってる気がする、、、😑
実際の縄文人は農耕も行い、春に草を摘み、夏に漁を行い、秋に実りを収穫し、冬には狩りも行う、食糧源を効率よく管理してきた民族なのだそうだ。
厳しかった氷河期の後、人類の文化は一気に開花した🌸
日本では世界最古の漆塗りや世界最古の土器が発明され、
文化的に多彩な豊かさを持つ人々が縄文人だった。
しかし、その縄文世界の素晴らしさを知らなかった子供の頃の私は、💦
縄文人とは、氷河期にマンモスをとっていた原始人と同じイメージだった😳
『縄文時代の漆塗り』
『縄文時代の土器』
芸術性、意匠性にも優れ
神や宗教観を持たない、独特な『死生観』を持っていた人々だ。
『太陽の塔』を作った
芸術家の岡本太郎さんも縄文から影響を受けた一人で、関わりのあったピカソも岡本太郎さんだけは自室に招き入れたと云う。
シュールリアリズムの世界観も何処となく通じてる気がする、、🙃
次は、九州の鹿児島県
上野原遺跡と種子島🌴へ行ってみる🚀
12000〜6500年頃の縄文遺跡が多く残される縄文の創世期の世界。✨
私の縄文人に対するイメージもまた大きく変わるかもしれない、、🤔
縄文封印その②に続く、、👉