聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

縄文の道『アインシュタインの宇宙と縄文人』

2022-12-08 | 縄文の道

縄文人と呼ばれた古代日本人は、
漁・農・猟とバランスのとれた食文化を持つ人々だった。

農耕は弥生人へ
狩猟はアイヌ人へと

彼らの文化と遺伝子は枝分かれしていき同化され、独立した種族としての存在もやがて撹拌され、それぞれの遺伝子プールの中へと埋没していった。

その失われた縄文人の世界について

前回は、農耕について書いたが
今回は、狩猟について🏹😌

スポットの紹介ではなく、
一万年前の縄文意識と現代物理学の視点で長々書いてます🙃


【アインシュタインの予言】

アインシュタインは半世紀以上前の物理学者で、

素粒子は波動、ゼロポイントエネルギー
相対性理論では三次元に時間軸を加え過去現在未来は同時に存在するという四次元モデルが有名だ。(ノーベル賞の光電効果はあまり有名でない🙃)

 

「科学と宗教はやがて同一のものとなるだろう」という予測をし

そして、人類が生き延びられない可能性も示唆した。😮

 

『人間は宇宙の一部である。しかし、他者と切り離された存在であるという一種の錯覚に陥っていて、魂の牢獄に閉じ込められている状態と言える。〜

魂の牢獄から自らを解放するためには共感の輪を自然全体に広げていき実質的に新しい思考の形を身につけなければ、

人類は生き延びることが出来ないだろう』

という予言を残した。

 

アインシュタインが錯覚と言う

「人間が、自然や宇宙と切り離されてしまった状態」とは?

そして、
「人間が魂の牢獄から解放され、自然や宇宙と切り離されていない状態」とは?

今回は説域を広げ、それらから

宇宙の根源と繋がる様な縄文人の
意識を考えてみる難しい試み。


長文ですが、興味のある方はご覧下さい🙏✨

 

【自然崇拝と言う噓】
『先祖崇拝と自然崇拝』の投稿でも詳しく書いたが、日本には本来自然崇拝という信仰は無かった。

そもそも「自然」という言葉さえ無かったのだ。

だが「日本人は自然崇拝」という刷り込まれてしまった既成概念は無くならないので、
自然という言葉を持っていなかった古代日本人を理解する為に
一度これを取り除きたい。

昔の日本人は、

先祖や祖神が宿る依り代の
木や岩、埋葬した山に祖霊(神)を祭っていただけで

何も『木や岩、自然全てに神が宿る』と信じていた訳ではない。


自然を敬うのは当り前の事だが、

自然崇拝とはイギリス人のタイラーさんという学者が思いついた『アニミズム』という考え方で、私達日本人の先祖を敬うという信仰からはだいぶ外れてしまった。

西洋一神教では『先祖崇拝』が禁じられていて、特に敬虔なキリスト教徒は
死後の世界観も含めて2000年近く禁じられてきたので、

先祖崇拝が理解できず、

日本の八百万の神々も自然崇拝から生まれた宗教だと勘違いしたのかもしれない。

「全治全能の唯一神ヲシンジサーイ」的な一神教にとって、

人々が過去に実在したであろうご先祖様や始祖を崇めることは極めて危険で
祖先崇拝はあってはならなかった。

西洋の一神教と違い、先祖を大切にした日本人にとっての神とは、

人として生きていた部族の始祖を、子孫や影響を受けた後世の人々が神として祭った存在だ。

「神サマなのに人間っぽいじゃん?おかしくね?」と、西洋人が考えた神のイメージをそのまま信じている方もいるだろうが、元々は人間だ。

⛩️伊勢神宮の宮司の吉川滝美さんと言う方は、

「お参りはおばあちゃんに会いゆくつもりで」
と言ってますが、まさしく⛩️

「神様エライデスアガメナサーイ」的
な存在ではないので、

子供がプラスチックのなんとか剣で、叩く様なお参りでも


スーツを来て礼儀正しくご無沙汰してますというお参りでも

おばあちゃんは

「よく来たね」

と、温かい😢✨⛩️

(おじいちゃんはー厳しめ🤔)

亡くなった人を神葬し、後世の人々が神として祭ることによって神と言う存在になるのが日本の伝統であり

日本人ならば苗字や家紋から遡れば、必ず八百万の神々の何れかに辿りつく。

 

【西洋と東洋の信仰の違い】

タイラー氏の「日本人自然崇拝」説が提唱された半世紀前頃は、

折しも日本では『天照大神』を唯一の始祖として、他を日本の歴史から切り捨てていた明治時代の方針に回帰しようとする風潮があった為か、

「八百万の氏族から八百万の神が生まれた」というよりも

「自然全てに神が宿ると信じ八百万の神が生まれた」とした方が、都合良かったのかもしれない🤔。

日本でもこの説は歓迎され

「日本人は自然を敬い全てに神が宿ると信じた」と言う美々しい言葉の響きと共に広がり、今では枕言葉の様になってしまっている。😔

では、

太古の人々は自然崇拝でないのなら何を崇拝していたのか?

何も、崇拝していない。

死生観(サナトロジー)というパラダイムを持ち、

ただ森羅万象の中に生きていた。

 

 

 

死生観は太古の人々独自の

パラダイム(=ものの見方や考え)
であって

レリジョン(=宗教)
ではないので信仰や崇拝もない。

西洋人の学者によれば😔

「日本人の自然崇拝は木や岩に神が宿ると信じていて、これは子供が人形に話しかけるのと同じ幼稚な行為である」と言う事らしい😅

何も西洋人の自然説を受け入れる必要など無い。😑古代人は、

人も自然の一部である事が当たり前だった。日本人は森羅万象に生き、

わざわざ西洋人の様に

人と切り離した「自然」という対象を考えて、その上で崇拝するなどと言う発想は無かった。

英語文化が入ってきた時に、仕方なく仏教用語「法爾自然」から自然と言う字をとりネイチャーの対訳に当てた西洋言語だ。

西洋人が自然から切り離された存在になってしまったのは、宗教政策による影響もあると思われるが、

宗教観を持たない太古の人々の
『死生観』とはどの様なものだったのか?

 

 

【太古の世界観と現代量子物理学】

『この世界は粒子の波動で出来ていて、ひとつである』

なので何億光年離れているかに関わらず、量子のもつれ状態の粒子は同時に反応する。

そして、この世界の現象を決定づけるのは観測者の意識だ。

観測者も宇宙の一部であり、観測する意識の影響で結果が生成される。

物質とは固い物ではなく、細かくみていけば粒子や波動ととしてか存在していない。

物質とは、その位置にそれがあるという確率にすぎず、その場に固定されたものではなく、それを決定しているのはやはり観測者である人間の意識だ。

この摩訶不思議な性質は量子コンピューターの速さになっている様だが😅難し🤔


太古の人々は、こうした物理学の波動関数も光のスリット実験も知らなかったが

この世界が物質化の世界であるという事を知っていて、

非物質の世界に対して、人間の住む現象世界から物質化のコントロールをしていたのかもしれない。

宗教ではなく、今風に言うならば

「引き寄せの法則」だろうか?

アインシュタインが言っていた
「他者と切り離された存在ではなく自然の一部である」という

切り離されてない状態とは

どんな状態か?

縄文民族や狩猟民族など、古代人の世界観を知るにつれ

縄文人の宇宙の根源と繋がる様な、

生命の円環の中で存在していた様子が

朧げながら伺えてくる。

 


【二つの異世界を繋ぐ意識】

原始〜現代まで、世界観は全て

生=人間が知覚できる現象界
死=人間が知覚できない非物質世界

という二元論から成り立ってきた事に大差はない。

死生観とは宗教だけのものではなく、哲学・社会・医学にまたがる価値観で人間が生きることで持っている当たり前の感覚だ。

太古の人々の死生観は

「現象界」と
「非物質界」

この二つの異世界を繋ぐ意識によって生命は行き来するという、命の円環の中で生きているという感覚だった。

 

 

 

 

3000年ほど前、

この二元論の非物質界の世界観を封印した「宗教」というものが発明された。

宗教観が生まれた事によって

天国や地獄、全能全能の神が生まれ

西洋人は二元的だった世界を一元的なものにしてしまい、非物質界も含む世界との繋がりから外れてしまった。

魂という非物質界と行き来する存在も否定し、

まさに魂を牢獄に閉じ込めたといえる。

 



生も死後も『宗教』しかないという世界が全てで、

死んだら神の元へいくとだけ教えられて他の世界観を受け入れなくなった。

非物質界と物質の現象界を

「唯一の神」で一元化し、

生きては「神ヲシンジナサーイ」
死んだら「神ノモトヘイクノデス」

と、二元的な世界を唯一の神一色のヘンテコな世界へと変えてしまったのだ。

 

多くの人がこれを信じている。


ビフォア


          ↓↓


アフター

 

一神教にとって、死後の世界には

亡くなったご先祖様や始祖神さまが
そこにいて崇める等という事はあってはならない。

しかし、

 

唯一なのは

たぶん神ではなく、

 

本来はきっと

『意識』だけが一元的なのだ。

日本人が神として祭った八百万の祖神さまも、

そうした意識の中のひとつだ。

 

意識は非物質界と現象界、
二つの世界に存在するため

意識だけが影響を及ぼすことが出来、

意識の乗り物である魂は二つの異世界を行き来する。

この意識への回帰の事を
「一元意識への回帰」という。

 


現代物理学では、

通常の物質世界には時空が存在し、
時間は、過去・現在・未来に分けられ
空間は、距離によって分けられている
が、

素粒子の量子世界では時間と空間による分離がない事が確証されている。

そして、意識の世界も量子的であることから

意識は死生学(サナトロジー)的な対象としても研究される様になってきた。

 

 

 

全ては波動であると言う現代物理学風(青)に古代中国の死生観モデルを書き込んでみた。

全ての世界は波動からなる。そして

波動が塊になると、物質という固さや重さなどに制限される固定された形となる。

 

2500年前の中国の孔子という人は、鬼の道に詳しかった。

日本の鬼とは異なり、中国の「鬼」とは亡くなった方の霊の事であり、非魂魄と言って、人な亡くなると物質界の『魂』になり、『魄』は弔わなければ、地に還らず現象界にとどまる浮遊霊ともなる。この浮遊霊の事を鬼という。


中国人は五行論をベースに現象界から非物質界に送り出す死生学の研究をまじめに続けてきたが、二つの異世界のコヒーレント意識を大切にしていた。

なので人を殺すことよりも、人を殺して弔わないことの方がもっと悪いこととされていた。


物質を形づくる波動の塊の「塊」という字にも「鬼」と言う字があり土ヘンが着いてるのが奇妙な符丁に感じる😮

波動の塊(=mass、クラスター)が物質ならば

「鬼」はやはり意識の波動で、土塊となったものが物質という意味にもとれる、、🤔

人は死ぬと、

土塊(死体)、魄(現象界の霊)、魂(非物質界にいった不変の意識)

三つの相に分かれ転位する。

これを「鬼」の道という。

(※卑弥呼は鬼道に仕えたとはこの「弔い方」を知っていたという意味です😌🙏)

この中国人の死生観は亡くなった方を悼む意識を大切にする考え方だ。

日本ではこの塊魂魄という鬼道の考えは定着しなかったが、現代でも香典袋は亡くなったばかりは『御霊前』、
法事は『御仏前』と書かれてるとおり、
人は死後、遺骨、霊、仏と、三つの相に転位するというのは共通している。

しかし、コンビニで普通に売ってる香典袋を普通に使っているだけで、私達は何もそれを信じているとか信仰してる訳では無い。☝️

ただの、パラダイム(捉え方)や習慣として持っているだけで、

「日本人は節操がない」という人もいるが、

この日本人の非宗教性の感覚は、むしろ正常なバランス感覚をもたらしていく上で今後は重要になると思う。


『宗教を精神的な拠り所としなければなら無い。宗教を持たない日本人はおかしい』という謎の西洋人的な宗教優位主義もおかしいし、対して

「目に見えない世界を信じるなんて愚かな事だ」という宗教否定的な反発も極端だ。

宗教者・無神論者、どちらもの信者にもならず普通に死生観を持っている方がより人間的だし霊的に健康だと思う。

一神教宗教の影響が強い西洋人では、
こうした事が理解出来るのは物理学者だけなのかもしれない。

私達、日本人は学者でなくとも西洋人のバイアスがかった影響を取り払い、古代日本人の叡智を思い出し、非物質的な意識の世界を理解することは出来るだろうか、、🙃

 


【狩猟】

縄文人は狩猟も行なっていた。

氷河期の旧石器人の様に落とし穴を仕掛ける時代が終わり、狩り出かける様になって収穫エリアは広がった。


狩りに出る時は何日か出かけるが、その移動範囲は100㌔〜200㌔圏内で、
諏訪の八ヶ岳から山を越え、浅間山から群馬の榛名山まで行ってくるなど狩場は広い。

猟師という職業では無いので、狩りの為に移動するだけでなく、黒曜石や塩などの必需品も周辺の縄文コロニーに運ぶ。

現代の様に一次産業二次産業と階層分別されてるのでなく、一元産業体でありその方が効率が良かった。

 

狩猟は、獲物との遭遇を求めてやみくもに山の中を歩き回る訳ではない。

山から山への移動は同じ標高のトレイルを行く。

動物達にも同じ様に、テリトリー内を移動する「獣道」という独特のルートがある。

獣道は、親から子へ受け継がれずっと同じルートが使われ、変わるということが無い。エサを探索する時の基点となる大切なルートだ。

人間が侵入してきてリスクが生じても回避ルートをつくることは滅多になく、どんな動物でも先祖代々同じ獣道を使う。

例え高速道路が出来ても同じルートを通るので、「動物危険」の看板が立てられる。

氷河期の旧石器時代は、この獣道に落とし穴を仕掛けて獲物を獲っていたが、周辺に何世紀にも渡って落とし穴が作られた跡が発見されているので、落とし穴猟が行なわれても獣道ルート自体は変更される事はなく使われてた様子が伺える。

狩りとは、この獣道ルート上で待ち伏せをして矢を射る事だ。

獣道は変わらないので、やみくもに獣道を探す事もなく、やはり先祖代々より教えられてきた獣道の場所に出かけ待ち伏せをする。

問題はいつ獣がそこを通るかだけだ。

 

RPGで「○○へ行けば○○というモンスターが出る」という様に、遭遇が繰り返される設定になっている。

捕り過ぎれば遭遇が無くなり、また時間を空けていけば再生し出現する様になるというのもまるでゲームの様だ。

太古のモンスターハンター達は、
自分達のトレイル上にある小中規模コロニーを拠点としながら、獣道エリアにアクセスし、待ち伏せをした。

待ち伏せ地点に獣が現れ矢を射る時

 

「当たれ」と、

獣を射ようと狙うのでなく

 

『招待する』という意識で、

矢を放つ。結果、

放った場所に

獲物が召喚されて射られる。

獲物が与えられた後には感謝の儀式を行い、 

人間の住む『現象界』で確かに受け取った事を『非物質の世界』の存在へと報告する。

すると非物質界からまた、現象世界へ命がおくられてくる。

この「現象界」と「異世界」の命の円環の法則の中で生きてきたのが彼らだ。

引き寄せの法則の様な話しだが、

一万年以上も続いたサステイナブルな方法であり

彼らの持つ法則性の原理は決して
不確かな迷信や宗教の類ではなく、

現実にこれで一万年以上生き延びてきたと言う実質的なエビデンスがある。

 

これは、非物質界からの獲物の召喚を、現象世界にいながら意識的に使いこなしていた証ではないだろうか。

(😅)

 

現代物理学では

意識そのものは量子的であり=

量子世界には時間や空間は無い。

しかし、

3次元で生きている私達の意識には

肉体的な制限を受ける意識状態と

量子的で時空の制限がない意識状態が有り、

意識を変える(トランスする)事で、

量子的で非物質界的な意識状態になると、

非物質界にもアクセスできる様になる。

 

 

人間と違い

動物は本能的な肉体意識と、

非物質界の集合意識との隙間が無く

エゴ(=自我意識)が強く存在している隙間がないので、

人間の様にトランスしなくても

非物質界の集合意識からの影響を受けやすい。

『招待』というポジティブな意識を非物質界に送ると

反応して召喚されてくる。

「当たれ!」は人間エゴの意識で殺意が乗っているので、

動物も本能的な肉体意識の方で反応してしまい反射的に逃げるが、

非物質界からの招待には無意識に招かれる。

 

 

 

物理学的な考え方では、地上界・天上界という上下はなく、

量子世界はこの様に宇宙の根源に

『包み込まれた秩序』であり

現象世界は『はじきだされた秩序』と言い

縄文人は理論も根拠もないが、

この包みこまれた秩序の世界に意識を繋げる事でこの

「招待」↔「召喚」という反応を利用し狩りしていたのではないだろうか🤔

 

(🙄むしろ理論などより実践の方が凄い💦)

 

そして、

命の恵みとなり量子的な非物質界にいった動物の意識に対しても、ポジティブな意識を送っていた。

貝塚も、縄文人達にとってはゴミ捨て場ではなく「ものおくり」の場で、

少なくとも神という窓口担当が存在して、祈りに応え命の転送業務を行なっていたという信仰は無かったと思う。

 

 

 

 

縄文人は

この命の円環の世界で自らを知り、

途切れることなく

一万年生き延びてきた。

 

現代人の私達も、今こそそれを思い出す時が来てる様だ。✨

 

大変長いお話しを最後まで読んで下さって、ありがとうございました🙏

 

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨


縄文の道.鹿児島【知らされざる縄文農耕】縄文封印の謎その②

2022-12-02 | 縄文の道

鹿児島霧島市【上野原遺跡】

鹿児島県、霧島市に上野原遺跡という最大最古級の遺跡がある。

一万年前〜弥生時代、古墳時代、
そして江戸時代まで時代を超えた遺物が発掘された、言わばアカシック・タイムレコーダーの様な場所だ。

厳しい氷河期の後、私達の祖先は土器や漆塗りを発明し、食糧の備蓄や調理法の範囲を広げていた。

世界では『新石器時代』と呼ばれるが、日本では縄文時代という。

(約一万6000千年前〜2300年前)

青森県大平山遺跡で16500年前の世界最古の土器が発見されたが(欠片は中国が最古🙃)、

縄文人は石器だけでなく、早い段階から氷河期文化を抜け出し土器を使う生活をしていた。

縄文漆塗土器(※漆も日本が最古🙃)


南九州の縄文遺跡群は草創期〜早期にかけて、約1万年前〜6500年前の縄文遺跡が多い。旧石器時代4万年前からの遺跡も連続し、先月も馬毛島で4万年前の遺跡が発掘されたばかりだ。


《夫婦土器》

日本で初めてとなる7500年前の土器が完全な形で見つかった。

一つは円形、もう一つは方形の口をしていて並べて埋められていた。


上野原台地の祭祀場と思われるエリアの台地の中心に埋設され、それを囲む様に周囲には土器と土器片が埋められていた。

口の広い「鉢」だけでなく、首のある「壺」=水や醸した液体を保存する器も発見されている。

6500年前の早期になると、鬼界カルデラ海底火山の壊滅的な噴火があり暫く人が住めない時期がやってきた。

縄文早期・草創記(一万3千年~6000年前)は縄文遺跡は九州に多く、海底火山噴火後、

縄文中期は、(5000年前)
日本アルプスの火山周辺の高原が中心地帯となり、

縄文中期〜後期は(4000〜3000年前)
東北の十和田湖カルデラや岩木山火山周辺に遺跡が集中する様になり、

次第に東日本へ縄文の中心地が移っていった様子だが、

縄文晩期になると、

また九州に縄文文化が登場する。

😮それにしても何故、火山周辺を選ぶのか?

【種子島】

鹿児島県の東側・大隅半島の南にある種子島は

標高282mのゆるやかな台地の島で黒潮海流の中に位置し、鉄砲だけでなく

米伝来の地だ。白米を北端でウガヤフキアエズが、赤米を南端で玉依姫が撒いた伝承が残っている。(初代神武天皇の父母神)

赤米は、陸稲としても育てられる貴重なお米で、ジャパニカ米に近いという。

白米は、今の私達が食べている水稲で「ジャポニカ米」という。

興味深い事に、種子島では弥生式の土葬から、縄文人の特徴である抜歯の跡がある身長153㌢という低身長の遺骨が発見されたらしい。🤔

縄文晩期=2400前〜3000年前から弥生時代2300年〜にかけて
縄文人と弥生人の同化の時代があったと思われる。

種子島には、ともかく古い遺跡が多く密度が高い。


縄文時代より前の、35000年前の遺跡『立切遺跡』と『横峯遺跡』もあり

最古級の落とし穴(獣道に仕掛ける)
肉の燻製工房と石蒸し調理施設の跡も見つかった。

出土品も豊富なせいか中種子歴史民俗資料館では、

ナント😮

触っても良い👌黒曜石や土器片、石器がある

《縄文サラダバー》(上野原縄文の森)

ここから先は、「縄文農耕の謎」について

↓↓

長文ですが興味のある方はご覧ください。🙏✨

何故、縄文人は火山近くの高原に住むのかも

後で詳しく


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【消された一万年前の稲作の謎】

「縄文人は狩猟採集民・獣を獲り栗を拾って食べていた」

といった決まり文句のイメージが定着して久しい🤔

この半世紀、次々に新しい発見があったのにも関わらず、

相変わらず縄文人を狩猟採集民族と言うときの

【枕言葉】の様に使われている。

稲作どころか、農耕さえもなかったと信じてる方もまだ多いだろう、、🤔

種子島は9000年前(縄文時代早期)の遺跡が多く、三本松遺跡の土器からからは約一万年前の世界最古級のコクゾウムシが見つかっている。

画像CT

コクゾウムシは、別名「米食虫」と言い🌾米を主食とする虫で、稲作はそれまでコクゾウムシが発見された縄文晩期(2500年前)からという認識を覆す大発見だった。

古いと食材そのものは見つけ難く、こうした痕跡で見つけるしか手段がない。

しかし、何故かこのコクゾウムシは栗を食べていたことになっている😅

明確な根拠は、、ない。

謎だ。


【500匹のコクゾウムシの謎】

北海道で500匹のコクゾウムシを練り込んだ縄文土器が発見された。

《米を食べ繁殖するコクゾウムシさん》

素直に考えれば、
(コクゾウムシ=)米食虫が大量に発見されたという事は、
主食である米があったのだろうとなるが、やはり縄文の稲作はとことん否定され半世紀前の「栗拾い獲物捕り」説に寄せているせいか

『これは栗を食べたコクゾウムシで、栗を入れる土器を守るため呪術的な意味で土器にコクゾウムシ練り込んだ』

とされている。

😅まじか、


栗には『栗シギゾウムシ』というコクゾウムシの何倍もある大きい害虫がいて栗を主食としているので、栗を守る意味ならクリシギゾウムシを塗り込むべきと思うが、、😅

《栗を食べるクリシギゾウムシ》さん、、

は付け難い😅

幼虫はたまに甘栗で当たるとトラウマになる、、😭

米びつで出会うコクゾウムシより

栗を守るならまずこっちを封じ込めたい!!

ゼッタイこっちやろ〜😖

栗を守るならクリシギゾウムシを封じこめ

米を守るならコクゾウムシを封じこめだ。

そもそも、このゾウムシ業界のボス

クリシギゾウムシを、小さいコクゾウムシさんが駆逐して栗を主食としていたというのもマユ唾ものだ。

そして、、土器に塗り込んだのも呪術的な意味ではないかもしれない。

虫は死ぬと『死の匂い』といわれる脂肪酸の匂いを残し、触角があり嗅覚が非常に優れている虫達はゼッタイこの匂いに近づかなくなる。

この習性を活かし、米を入れる土器に米食虫の防虫用にコクゾウムシを塗り込んだのかもしれない🤔

何れにしろ、コクゾウムシも栗は食べるとしても

コクゾウムシの🌰栗主食説までは流石に

『獲物捕り・栗拾いのイメージどおりにしなければ』という

意識が強すぎの様に感じる。
😅

では、実際の

縄文農耕のイメージはどうなのか?


◇◆◇◆◇◆◇◆◇

【縄文のシラス台地農耕】
縄文人は火山の周囲に祭った聖都を中心に住んでいた『火山の民』高原文化の民族だ。

(テフラ大地・シラス台地=火山灰の地)

『九州』鹿児島の桜島の上野原

『日本アルプス』八ヶ岳の諏訪盆地

『東北』岩木山、十和田・八甲田山など火山周辺の台地に中心集落を造り、
小中規模コロニーを各地へ展開していたと思われる。

諏訪では、世界最古の神殿といわれるトルコの古代遺跡「キョべクリ・テペ」の様に高地に聖都となる中心祭祀場を設け、連なる山々にも同じ標高に拠点を造ってトレイルを形成する。

生産と拡散は重要な位置づけで、その集達エリアは広範囲に及び、各地集落の総和により巨大な共同体を形成していた。

衛星的な各コロニーを回遊する男達は黒曜石、塩、食糧などを運び、黒曜石の流通は1000㌔圏に及ぶ広さを持っている。


縄文時代の稲作は、水稲でなく陸稲であり、粟稗キビなどの雑穀類と一緒に稲も撒かれて収穫される。

縄文晩期の水稲と違い、陸稲は雑穀類の中のひとつでしかなかった。

現代では、縄文土器と共に縄文時代の稲作も発見されている。

しかし、稲作=弥生時代と言いかえられるせいか?弥生時代がどんどん昔に伸びていってる気もしなくもない😅かつて2300年前と言われた弥生時代の始まりは、今は3000年前と言われているが、縄文後期・縄文晩期とも言われ明確な区分もないまま渾沌として、
「諸説あります」状態が続いてる。


縄文人は、狩猟だけでなく農業やパンを作ったり等いくつもの食源を効率良く管理していた食彩豊かな人々だった。

縄文時代の鋤・鍬など農具

縄文人たちが時代を超えて火山地帯の辺縁のシラス台地(火山灰土壌の台地)を中心に、集落を作っていたのは農耕目的の為と思われる。

火山土壌は粒子の大きな堆積物で水ハケがよく、粘土が必要な水稲には不向きだが、巨大な桜島ダイコンで知られる様に水ハケの良さと通気性を好む農作物には適している。

特に稲科の粟、ヒエ、キビ陸稲など縄文人が食べていた雑穀類などは湿気を嫌う為、水捌けの良い土地に適していてしかも年に二度も収穫てきる。

まさに五穀豊穣の地だった。

《火山灰台地の桜島ダイコン》

火山は

山の中腹より高いほど雨が降り、溶岩に吸水された地下水や湧水が豊富となり

山自体が天然の巨大貯水タンクで浄化槽のようなもので、

雨が頼りの(天水型)農業と違い、水源に困るという事がない。

山の斜面などでは、地下を流れる水だけで耕作が可能で、水撒きなどの手間も掛からない。 

噴火のデメリットはあるにせよ、平地の水稲栽培の日照り旱魃リスクに比べれば遙かにリスクが少なかったのではないだろうか。

水稲が主食の農耕民族に侵略される事がないと言うメリットもあったかもしれない、、🤔

調理場や🍪クッキーやパン状のものを練って焼いた跡も見つかっていて、上野原遺跡以外でも南九州では掃除山遺跡・栫ノ原遺跡などで1万年ほど前の調理施設が確認されている。

連穴土坑内からは狩猟獣であるシカ・イノシシに由来する残留脂肪酸が検出され、食料の保存加工のための燻製施設とみられ住居跡が桜島火山灰で埋まっていたことから、これらは約9500年前の縄文時代早期に存在していたことが確認された。貝塚など海の幸もあり

漁・農・猟とバランスのとれた食生活だった事が伺える。

人間は雑食性だが、本来私達の歯は草食でも肉食動物の歯でもなく

「果実食」動物の歯で、

分解酵素も機能もその方が負担なく消化される様になっていると言われている。

堅果類、種子や雑穀類などの消化に向いている歯だそうだ。

縄文人の食生活は肉も食べるが、バランス的にも理にかなってると思われ

もしかしたら縄文人が犬歯を抜く謎の習慣は、

単なる通過儀礼だけではなく

氷河期にマンモスばかり食べていた獲得形質を除く意味もあったのかもしれない🤔

(😅ちょっと飛躍しすぎでわ)


最後に、

15,000平方メートルの遺跡で暮らす彼らの胃袋を満たした、

漁・農・猟による食材を
実際に縄文土器に盛り付けしたメニューが、上野原縄文の森で展示されていたので紹介したい。

縄文の水差しと、

ベンガラや漆で着色された朱色は縄文ならではの粋だ。

貝とイノシシの縄文鍋 

縄文団子 縄文クッキー

まるで居酒屋メニューか
懐石料理のメニューの様😮、、

しかし、考えてみれば縄文人達が

普通に食べていた物だ、

マンモスで飢えをしのぐしか無かった氷河期時代ならいざしらず、

「とったどー 」等とよゐこの無人島生活の様なサバイバル生活で、
人類が一万年も生き延びられる訳が無い。😌そして、

一万年も、獣を獲って栗を拾い続けるなんてとっても退屈すぎる生活だ。

材質こそ鉄やプラスチックは無いけれど、子供に作ってあげた

おままごとセットやオモチャの意匠からも、

私達と同じ愛情が伝わってくる様だ。


ファニー❣️なご先祖さま✨

終わりに、、😌

なんとなく浮き彫りになってきた縄文間違えイメージをざっくりと振り返ると
、、😌☝️


①文明とは=農耕と定住であることが必須条件だが、イノシシを獲っていたという事だけで縄文は「狩猟民族」とされてしまった。

②狩猟民族は農耕と違い定住性が無いので=文明ではない=原始的な人々ととして弥生人の稲作文化より劣ってるという偏見が生まれた。

③後々の発見により、縄文の農耕は濃厚になったが「獲物を獲って栗を拾ってた」という定説を今さら変えることが出来ず、

④稲🌾を神聖視する日本人独特の信仰や国史観も相まって、
縄文農耕=特に稲作は徹底的に否定され続け

⑤ピラミッドより古い世界的にも貴重だと思われる遺跡群も、日本では全くパッとしない😔、、


⑥氷河期明け、16000年前〜6000年前の日本の縄文は当時のユーラシア大陸の遺跡文化とも共通することが見受けられる、世界的にも貴重な財産の様だ

⑦縄文は、農耕だけに頼らず、

漁・猟・農とバランスよく食糧を管理した民族で、

政治的な意味でも食糧バランスがよく

農耕民族の様に剰余生産による価値を生み、奪い合いや貧富の差、身分の階層性を生み出すこともなく

シェアリング能力に優れたサステイナブルな文化を持った人々だった。



約5000年前〜
中心地にストーンサークルを造りサークルを囲む様に住居や工房、集会場、納骨地を配する都市デザイン形が主流となり、

800年で800棟の住居が造られた跡も見つかっている。(定住性あるやん😅)


住居や集会場も3回は建直しがあったとみられ、定住性のあるサステイナブルな民族だが、千㌔圏という広い流通範囲の中で、千年スパンでの中心の移動が行なわれた。

点在する日本列島各地の遺跡を周り、

縄文とは文明の条件である=農耕や定住はなく『獲物を追い栗を拾って食べていた人々』という誤ったイメージは完全に払拭された。

あちこち周って見て良かった。


次は、スポットの紹介はせず

縄文人の『死生観』について綴ってみたい。

宗教観が発生する前の

宇宙の根源に繋がる様な生き方だ。✨

🌌
『アインシュタインの宇宙と縄文人』

興味のある方はご覧下さい👉👉


縄文の道.東北【知られざるストーンサークル】と縄文封印の謎

2022-11-29 | 縄文の道

【知られざるストーンサークル】

11月19.20と、東北の縄文遺跡弾丸ツアーに行ってみた。片道9時間😅🚙

主に『世界遺産』となった、四千年ほど前のストーンサークル遺跡群を中心に、岩手、秋田、青森を周った。

 

青森県【大森勝山ストーンサークル】

岩木山を臨む台地にあり、冬至の日に岩木山頂に陽が沈む場所に造られた。

 

【岩手県】 
御所野遺跡

【秋田県】 
大湯ストーンサークル
伊勢堂岱遺跡

【青森県】
亀ヶ岡遺跡
大森勝山遺跡
小牧野遺跡

どこも😅世界遺産?!
と思われぬほど閑散としていて、ゆっくり静かに遺跡を感じる事が出来た。

しかも、半分くらいは早くも冬季閉鎖となりブルーシートが被せられ休業していたが、博物館や資料館がやっていたのは良かった。

ブルーシートで冬仕度の小牧野遺跡


ストーンサークル=環状列石と言い、環状に石を配列したもので、日時計または祭祀場として考えられ、埋葬を伴う場合もある。

四~五千年ほど前、イギリスと日本、そして中国黄河上流(斉家文化)に存在していた。エジプトのピラミッドより古い。

「妖精の輪」と云われるイギリスのストーンサークルと

中国のストーンサークルから出土の土器。

🙄日本のものと見分けがつきにくい、、

画像だけだと「縄文の、」と言われても区別がつかないかもしれない🤔

 

【秋田県】大湯ストーンサークル

 

 

ストーンサークルに使う石は、伊勢堂岱遺跡では夥しい数の石が、ソリの様なもので5Km下の河川から運ばれたと考えられている。

 

岩手県【御所野遺跡ストーンサークル】

 

遺跡によって石の色の組合わせが違う。石を焼いて赤くした石を使う。

20種類以上の石が使われ、遺跡によって色合いが違うらしい。

大湯ストーンサークルでは緑色の石が多く使われていた。

 


ユーラシア大陸の西と東、文字文化を持たないケルト人と縄文人が何故同じ様にストーンサークルを作っていたかは謎だが、弥生時代になり日本には弥生人が、イギリスにはビーカー人が渡来してきて、やはり同じ様な時期にどちらも姿を消していった。

 

青森県【小牧野遺跡ストーンサークル】

あまり知られて無いようだが、

全国に178ヶ所あるというストーンサークルの大半は東北にあり、

4000〜3000年ほど前の遺跡が多い。(縄文中期→後期)

2021年、『北海道・北東北の縄文遺跡群』として世界遺産に登録された。

 

秋田【伊勢堂岱遺跡ストーンサークル】

200000平方メートルの遺跡の中心に4つのストーンサークルが配されていた。

中央には立石があった。

 

 

忍路ストーンサークル(北海道)

 

 

音江ストーンサークル(北海道)

 

日本のストーンサークルは比較的小さく直系30〜50m程度が殆どだが、

諏訪盆地にある『阿久遺跡』では、イギリスの世界最大のストーンサークルに次ぐ、直系120メートルものストーンサークルが高速道路工事に先がけ発掘調査された。

時代も、

縄文前期=6500年〜5000年前の遺跡で

世界最古級のストーンサークルだ。

使われた石は、10万個とも30万個とも言われる。

 

結局また諏訪の話しになるが、🙏😅

『知られざるストーンサークル』とは

この最大最古級ストーンサークルの事だ。

ストーンサークルがあった「阿久遺跡」は、中央高速道路の下にそのまま埋め戻して埋没させる方法で保存したそうだ。

※埋没を保存と言ってよいのだろうか?むしろ封印されてしまった感じが😅

 

【阿久遺跡】跡地

 


考古学、縄文観を覆した大発見であり世界有数の貴重な遺跡だった様だが、

発見された時代が違えば『世界遺産』となり高速道路下に埋めずに保存された可能性もあったかもしれない🤔

東京ドーム一個分の大規模な遺跡は、国史跡として半永久的に高速道路の下に埋もれたままなのだろうか、、

(埋蔵文化財は貴重な国民の共有財産なので大切に保存するとともに,できるだけ公開するなど活用に努める、、らしいです😑)

世界遺産となった
東北のストーンサークル群と違い、
諏訪のストーンサークルは埋められた存在であることさえ知られてない。

ただでさえあまり知られてない日本のストーンサークルだが、

せめてレプリカ展示や復元であっても120メートルのストーンサークルを見てみたいという気持ちになった。


(看板のみ😅)

 

 

【ストーンサークルの謎】

ストーンサークルの謎の一つで、伊勢堂岱遺跡では、200年かけて10世代以上に渡り作り続けられ、しかも未完成なまま終わっているという事がある。


『円環を大事にしていたから』と考えられているらしい。

埋葬を伴う場合もあり命の円環の意味もあるかもしれないが、200年もかけずに作ることが出来たであろうストーンサークルを未完成のままにしているのは、
月の死と再生のイメージや「月は満ちれば欠る」の諺どおり、完成させない事が欠ていかないこととした等、月の由来で考えられている。

しかし、センターの石柱は日時計の役割と考えられたりするので、周囲のサークルはマヤや中国の様に円形カレンダーの役割もあるかもしれない。

200年かけて未完成にしているという事は謎すぎるので、まず月のイメージを外して考えてみる。

200 年という長い歳月は、

観測や記録の結果では無いかと思う。

(十和田、八甲田、岩木山火山)

縄文遺跡の中心集落は火山の周りに造られた為、

毎年、火山に噴火が無かった事を記しその時の状態を石文字によって記録する。配石の形や石色でコード化され、安全な状態である200年もの観測結果が伝えられ、もしも、噴火があれば最後の欄に書きこむ事になっていた。

伊勢堂岱遺跡が望む白神山地は、海底火山が隆起してできた山岳地帯で17世紀までは活火山だった。

カレンダーであると共に、安全な生活の記録版でもあったのかもしれない。

ランドスケープとしての機能は確かな様で、小牧野遺跡ではサークル中心から見て八甲田山の登頂に冬至に陽が登り、遺跡内の馬頭観音碑の方角に夏至の陽が登り、岩木山も20mほどの櫓でなら視認できるという。

(※馬頭観音はもともとあった立石に江戸時代書き込まれた)

 

これで、ブログを終わります🙏

長い話しを読んで下さってありがとうございました。

 

次は、ブログのスピンオフ作品🥸

『縄文人封印の謎』について↓

 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△△▼△

ここから先は、長文の加筆です😌🙏

縄文人の封印について

興味のある方だけご覧下さい。✨✨

(🙄今までも長文でしたが、🙏😅)

 

↓↓↓↓↓

 

【封印され続ける縄文人の謎】その①

『縄文』は、

明治時代の影響が残るせいか封印される傾向が強い。

信じられない事だが平成の時代になっても、

教科書から縄文時代が消されてしまった事があったという、、😮


😳古代ミステリーというより、現代も続いている縄文人封印のミステリーについて触れてみたい。

『何故、縄文人は消されるのか?』

宗教政策史の視点からも考えてみる🤔

縄文の過去は1万数千年と長いが、
歴史は短い。

明治10年に研究の為にアメリカから来日したモース博士が、東京の大森で縄文時代の貝塚を発見したのがきっかけで、日本の考古学・人類学が始まった。縄を模様にした土器の特徴から「縄文」とよばれる様になった。

しかし、明治時代の教科書には縄文人の事は何も書かれてなく

「日本人とは関係がない、蝦夷や土蜘蛛など野蛮人がいた時代」と教えられていたという。


そして、古事記・日本書紀に記されている神話は全て史実であり、日本は天照大神を始祖とする神国であるという宗教政策的な国史教育が戦前まで続いてきた。


アイヌや沖縄だけでなく本土日本人にも縄文人のDNAが残されていて、

分子人類学では、

「日本人の祖先は縄文人と弥生人の二重構造」
とされているらしいが、

「日本の歴史は天照大神を始祖として天孫族によって2600年前から始まった」という戦前の信念は今も残り、

縄文の存在は認知されながらも、歴史時代からは除く姿勢が影を落としている様だ。

戦前ならいざしらず、未だに古事記・日本書紀を本気で信じている人はいないと思うが、

神社などでもよく耳にするのは
「一応、そういう事になってます」と、😅
やんわりと明言を避ける言い方が多い。

2600年より前のことは、なんとなくタブーなのだ。

そもそも、
古事記・日本書紀は1300年ほど前の天武天皇の宗教政策から始まったもので、
1400年〜16000年前の世界はこの時点で封印されたといっても過言ではない。

私は歴史好きなのだが、隣の韓国には2000年前の歴史ドラマなどザラにあるのに、日本の歴史ドラマといえば戦国や維新などいわゆるチョンマゲ時代の新しいものばかりで、こうした歴史の薄っぺらさに少し寂しさを感じていた😢(古い時代はやはりタブーなのか?)

 

【天武時代の歴史政策と日本】🎌

1300年ほど前のこと。🌌

天武天皇こと大海人皇子は、皇位争いとなった壬申の乱の出征時に、

それまでクローズアップされてこなかった『天照大神』の存在や、神武天皇の東征を持出して自軍を鼓舞し、勝利へと導いた。

律令化による日本建国の時代の強力な実行者が天武天皇で、日本の基底文化に多大な影響を与えた。

宗教政策では、古事記・日本書紀の編纂を命じ、伊勢神宮の社格を日本一に押し上げ一時は仏教の布教も禁じた。

律令政策では、部族連合国の和国の旧習を払拭し朝廷での位階氏姓を整備し、公地公民と徴税・徴兵、東北〜九州までを統べ蝦夷族の酋長200人を大和朝廷に来朝させ冠位弓矢も与えた。

天武天皇の政策は、持統天皇、文武天皇そして藤原不比等へと受け継がれ、

遂には「日本国」の国号で遣唐使を送り、時の中国皇帝・武則天に

「もう和国という国は無いのでその名で読んではいけない。日本国と呼ぶように」と言わしめた。

そして、
大宝律令、古事記・日本書紀、和同開珎、
藤原宮が完成し、

『日本国』は名実ともに建国された。

と、、😑ここまで、強力に完成されるともはや

縄文人の歴史など(どこいった?)

となる。

明治時代は、
この天武天皇の強力な時代観のいわば復刻版だ。

現代でも考古学的な新たな発見や科学的な解明が進んでいく中でも、古事記に記された天照大神の始祖を脅かす様な事柄は封じられる傾向がまだ残ってるのではないだろうか🤔

天照大神が始祖であることは変わらない。

平安時代に嵯峨天皇が天照大神ではなく

「スサノオこそが皇国の本主である」
と詔りし、

歴代天皇によるスサノオキャンペーンともとれる熊野詣が続いたが、

天照大神の存在は不動だった。

神社の祝詞でとなえられる「吾が皇孫命は」とはスサノオのことだ。

しかし

始祖神であることは変わらないにしても、それが=

それまでの歴史が封印される事と同じになってしまっては残念だと思う😔

国の始祖より私達の先祖は古いのだ、、

「始祖を祭り先祖を敬う」といった精神性で、始祖以前の時代観との両立は出来ないものだろうか?という気にもなってくる、、😅

 

【迷走する縄文時代の扱い】💫

戦後、天皇陛下が
「神ではなく人です」というカミングアウトをされて、教科書が黒塗りされた後に、GHQの政策による国定教科書が出来上がり、

初めて日本の歴史の1頁目に天照大神ではなく、

「縄文人」が登場した。

それまで史実として教えられてきた神話が考古学的な事実にとって代わられてしまった事は、当時の日本人にとっては大きなパラダイムショックだった事だろう。

それまでは、日本は神が作った神国で世界に比類なき天皇中心の皇国であると教えられてきたのが、史実ではないと覆されたのだ。

私の父は戦中派で、教育勅語で育てられた世代だが、敗戦の喪失感は今も心の底に存在している様だった。

一度、勇気を出して父に聞いてみたことがあった。

 

「日本が戦争に負けたのは(当時小学生だった)自分が頑張らなかったせいで天皇陛下に申し分ない。」

と、もしかして今でもそう思っているのかと?

父の顔は曇り、暫し押黙ったあと

「そうだ、、」

と呟いた。


終戦で時が止まったままの子供時代の自分が、心の底で自らをずっとせめ続けているらしい。


時間薬が効かない事を心的外傷後ストレスと言うが、癒える事のない抑圧が残っている日本人は多いのではないだろうか?

神話主義は国民の義務であるかの如く存在していたものだ。

ある方の話しでは、そう教えられた世代が次の世代にもそう教え続け、世代連鎖してしまっているのが現代にも影響を与えているのだという。

考古学の世界でさえ、5000年前まで遡れる炭素14年代測定法の批判から始まった。2600年以前の事はタブーとする反応も否めない、、

しかし、それでも

「神話は史実ではない」という歴史観にとって代わられ戦後束の間、

考古学や民俗学・人類学などの新たな学術分野から歴史が見直されるかにみえた。


学者指導要領は

「神話より考古学的な成果を大切にする」となったが、

20年も経つとまた
「神話や古事記・日本書紀を大切にする」

という考古学軽視が始まって😅

「考古学的興味に児童を深入りさせるな」という指導に代わり、近代・現代史に力を入れる様に強調されたらしい。

縄文時代の記述は徐々に教科書から削られていき、遂に平成時代にはまた縄文人が姿を消してしまった。

流石にこれは考古学界からも反対声明があり、再び縄文時代は教科書に登場するが今度は

世界五大文明説?😅を背景に

『縄文は他の四代文明とは違う世界最古の文明』

「外洋航海も盛んで、食物栽培が行なわれ都市が造られ神殿があった。」

等と、逆に盛り過ぎな展開になった😮

※確かに😅縄文時代の黒曜石の流通は太平洋側は伊豆諸島、日本海側は沿海州(ロシアウラジオストク側)まで渡海していたが、、🤔

何れにせよ考古学とは乖離した何かしらのパワーを感じる。

考古学者の戸沢充則氏は
「やはり日本を特別な国としてみなそうとする優勢思想が背景にある」と警鐘を鳴らしていた。

もっと遡れば昭和初期にも考古学者の藤森栄一さんは
「歴史が真理の為に存在するのでなく、民族生活の為に存在することが常識になってしまった。」と嘆いていた。

唯物主義の考古学者にとって、
唯心的な歴史主義は泣かされてきたのだろう。

考古学には先史時代というものが無い。

歴史学者の様に
「文字文化が無いので歴史時代とは言えない」などと先史時代の事としてスポイルする事は出来ず、

例えどんなに古くても出土した物がある以上、考古学者は一切の偏見を捨てて真摯に向かい合わなければならないのだ。

かつて、人々が存在した

地面から下の世界と、

地面から上の人々が住む世界の事情は全く様相が異なる。


その何かしらの影響のせいか、私達は何の疑いもなくずっと

『縄文人は狩猟採集民族で、暗い竪穴式住居で神に恵みを祈り、不安定でひもじい生活をしていた。」

というイメージを信じ込んでいた。


このイメージを抽出した考古学者の戸沢充則氏は、栄養不良がみられる骨が見つかった事と、グロテスクな土偶の画像だけが強調された印象操作の影響だという。

 

😳☝️そう、おどろおどろしいイメージなのだ、、

そう言えば何故か、アフリカのホッテントット族の事も合わせて教えられた気がする、🤔

完全に「アダモちゃん」的な原住民イメージが出来上がってたかもしれない😅

日本には「三つ子の魂100までも」という

言葉があり3歳児までのすり込みは百歳まで影響が残ると言う意味だが、

心理学では5歳くらいまで、
成功哲学では7歳くらいまで、
言語習得では2〜12歳までが臨界期であると言われ、
子供の頃の獲得は先々まで残る、😑

『縄文人は狩猟採集』という言葉も、今ではまるで枕言葉の様に定着してしまっていて、縄文の農耕に触れる事までタブーになってしまってる気がする、、、😑

 

実際の縄文人は農耕も行い、春に草を摘み、夏に漁を行い、秋に実りを収穫し、冬には狩りも行う、食糧源を効率よく管理してきた民族なのだそうだ。

厳しかった氷河期の後、人類の文化は一気に開花した🌸

日本では世界最古の漆塗りや世界最古の土器が発明され、

文化的に多彩な豊かさを持つ人々が縄文人だった。

しかし、その縄文世界の素晴らしさを知らなかった子供の頃の私は、💦

縄文人とは、氷河期にマンモスをとっていた原始人と同じイメージだった😳

 

『縄文時代の漆塗り』

 

『縄文時代の土器』

芸術性、意匠性にも優れ

神や宗教観を持たない、独特な『死生観』を持っていた人々だ。

 

『太陽の塔』を作った

芸術家の岡本太郎さんも縄文から影響を受けた一人で、関わりのあったピカソも岡本太郎さんだけは自室に招き入れたと云う。

シュールリアリズムの世界観も何処となく通じてる気がする、、🙃

 

次は、九州の鹿児島県


上野原遺跡と種子島🌴へ行ってみる🚀

 

12000〜6500年頃の縄文遺跡が多く残される縄文の創世期の世界。✨

私の縄文人に対するイメージもまた大きく変わるかもしれない、、🤔

 

縄文封印その②に続く、、👉



 


縄文の道・縄文【尖石遺跡】と弥生【登呂遺跡】

2022-09-04 | 縄文の道

日本の中の二つの故郷

◇五千年前の
縄文時代『尖石遺跡』(長野県)と

◆二千年前の
弥生時代『登呂遺跡』(静岡県)の投稿です。画像多め…😌

 

登呂遺跡(静岡市駿河区登呂5-10-5)

 

考古学の考え方では、文明とは「農耕と定住』が必須要件である様で、狩猟民族や遊牧民族の文化は文明ではなく劣るものとして格付けされてる様だ。

 

「はたして弥生時代に稲作はあったか?」🤔という議論が昔はあった。

 

【登呂遺跡】

 

しかし昭和初期、こちらの登呂遺跡が発見され、日本で初めて水田遺構が確認された。

これにより、弥生=稲作のイメージは定着し、


日本考古学協会発足の契機ともなった。

 

 

復刻水田と復刻住居により当時の村の様子が再現されている。

 

 

 

【登呂遺跡の復刻水田】

 

 

弥生集落は、


大規模な水田と住居、高床式の食糧貯蔵庫からなる。

 

 

 

登呂遺跡は安部川と藁科川に挟まれた扇状地で約2000年前の弥生時代後期から古墳時代(1500年前頃)まで存在していた。その間に2回の壊滅的な洪水があり、

復元されているのは1回目の洪水前の最盛期の集落とのこと。

 

駿河湾を望む静岡平野は、安部川と藁科川下流に作られた堆積平野で、

登呂遺跡もかつては海だった場所。入江の中にあった。

ちなみに、日本神話の「出雲の国ゆずり」では、大国主は天孫族へ国をゆずり船で居なくなったとされているが、静岡には大国主と美穂津姫が降臨したという伝承がありお二人は美穂神社に祭られている。

(静岡の伊豆も出雲が語源という🤔)登呂遺跡など、

静岡へ弥生式※の稲作文化をもたらした弥生人が流入したのと、大国主と美穂津姫が静岡へやってきたのもほぼ時期的にも重なる。

(※縄文時代にも稲作はありました😌)

 

 

【尖石遺跡】長野県茅野市豊平4737-132

縄文中期・約五千年~四千年前の遺跡✨

 

尖石遺跡の前にある尖石縄文考古館では、出土品である

国宝の【縄文のビーナス】と【仮面の女神】が展示されている。

 

『仮面の女神』

縄文のビーナスも、どちらも妊娠している女性のイメージらしい。

 

縄文時代の住居

(井戸尻遺跡)

縄文住居のタイプは見た目には、弥生時代とそう変わりはない。

五千年前の縄文住居は竪穴を掘り屋根を被せるが、ニ千年前の弥生時代のものは、外構や地面上げと土留など土工部がハイグレードとなっている。

 

尖石遺跡跡地

 

しかし、縄文集落は、都市デザイン化のごとく

住居エリア、大規模な公衆施設、
「石柱石壇」の祭祀棟
「土偶」を扱う祭祀棟
「石棒」を使う祭祀棟

異なる複数の祭祀配置を持つ複合型施設の集落だった様だ。😮

 

 

かつては石器時代(=縄文時代)と呼ばれ、

縄文土器の種類や貝塚などだけが研究対象でしかなかった縄文だが、

この尖石遺跡の発見後、昭和初期からの本格的な発掘により

日本で初めて、縄文人の集落や暮らしのスタイルの全貌が発見され

縄文考古学の契機となった。

石皿など食器や調理器具から、食生活が割だされ当時はまだ画期的だった

『縄文農耕論』が藤森栄一氏によって初めて語られた。

 

現在では粟稗だけでなく稲も発見され、縄文人が狩猟民族だとされることはなくなったが、流石に今さら農耕とも言えず『園耕』民族という聴き慣れない呼ばれ方をしている。

農耕だけに頼らず、現代人の様な「農・畜・魚」とバランスのとれた食生活をしていた為、農耕だけの民族ではないので園耕ということらしい🤔

 

尖石縄文考古館では、「となりのトトロ」が吹いていた土笛作り体験ができる。

オカリナの起源は土笛で、マヤ文明と縄文まで遡る。

信州は、縄文文化の中心地であり石器の刃物となる「黒曜石」がこちらで産出され東日本に広がっていった。

尖石という黒曜石を研磨したような跡がある岩が見つかったので、

尖石遺跡という。

 

【尖石】

 

しかし、この岩の祭り方は・・・😑

 

 

諏訪地方を中心にひろがる、洩矢氏の古代信仰である

『ミシャグチ』の祭り方では・・・?😳

 

ミシャグチについてもまた、詳しく別の機会に投稿したい。

(多分、長くなりそうですし)

 

今回は

弥生時代・縄文時代を知る契機となった二つの遺跡の紹介で終わります。

 

読んで下さってありがとうございました。

 

 


縄文の道【アイヌ人と縄文人】洞爺湖

2022-08-21 | 縄文の道

【日本のエンシェント 縄文人】

一万年以上前から日本列島に住んでいた、日本の先先住民族である縄文人。

渡来してきた弥生人達と入れ替る様に約2500年前(±200〜)に姿を消した。

※諸説500年以上差があるので取り敢えず2500年で書きます🙏

今回は、北海道の洞爺湖にある島と、縄文人について書いてます。

(画像少なめ😌加筆文凄い長めです、😅🙏)

北海道のアイヌ人は最も縄文人に近く、

50%近く縄文の遺伝子を受けついでいるらしい。

北海道函館の縄文遺跡群より北に100㌔弱、洞爺湖の中に浮かぶ島のひとつに

縄文とアイヌを繋ぐ子供達が隠れ住んでいた様だ。

縄文人とアイヌ人を繋ぐ子供達が隠れていたと思われる場所。

逃げた末の隠れ里だったが、敵に攻められ最後の場所となったようだ。


港から山にいく途中、結界が張られている様な不思議な場所に遭遇した。足を踏み入れると明らかに異様な違いを感じる。

中国の三国志に登場する諸葛孔明が、『石兵八陣』という石を積み上げただけの迷路の様なトラップで、敵を心胆寒からしめたが、或はこの様なものだったろうかと思う。

港から侵入した敵を山に近づけない様に惑わしたのかもしれない。


しかし、敵は港のある正面からでなく島の裏側から上陸し、子供達が集められた隠れ里を急襲した様だ。


今は住んでる人もなく、白鳥がのんびり暮らしていた。


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

ブログタイトルとは全く関係ありませんが、

縄文人と、弥生人の列島進出について、、少し綴ります、、😔

(少しでなく結構な長文🙏)

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

『消えた縄文人の謎』

【スピーシーズ】
近頃では、DNA解析により人類の起源を分析する『分子人類学』の進歩によって、日本人の起源も次第に解き明かされる様になってきた。

今のところ🤔日本人の起源は、先先住民の『縄文人』と先住民の『弥生人』の二重構造といわれている。

一万数千年ほど前、

200万年前から続いた旧石器時代が終わり新石器時代となり、原人・旧人は消滅し今の人類の時代になった後。

氷河期も終わり、温暖になった日本列島には縄文人が住んでいた。

数千年後、、

東北・北海道の縄文人らは

イギリス、中国遼西文明と同様の、
ストーンサークルを配し、

青森県縄文遺跡【大湯ストーンサークル】


日時計とし祭祀を行ない、サークルを中心にした集落を作って平和に生活していた。

今の人類の起源は200万年前のアフリカに生まれた。そしてその人類の祖先らは約七万年ほど前にアフリカを出た。

出アフリカ後は、暫く西アジアにいたがやがて大陸の果て西ユーラシアと東ユーラシアまで広がっていった。

東の果て、旧人の石器人が住む日本列島に縄文人がやってきたのは16500年程前から。

数年前は北ルート説が強かった様だが最近(2022.10)では南ルート説の方が解析され南アジア(ネパール)から日本人の祖先となる縄文人がやってきて、系統樹ではアメリカ先住民に枝分かれした。

日本人というより東アジア人の祖先となる様な相当古いエンシェントだ。


【縄文人消滅の謎】

今から2500年ほど前〜、縄文人は渡来してきた弥生人と入れ替わるように姿を消した。しかし、縄文人のゲノム(遺伝情報)は一度激減した後、弥生時代に向けて増加している🤔😵‍💫

分子人類学では、父系(y染色体)と母系(ミトコンドリア)

両方(核DNA)の何れかで解析するらしい。

激減と増加は父系データだが😑、、「母系も同じなはずである」と考えられているようだ。集団サイズの推定方法は分からないが、

しかし、同化政策や支配技術のひとつには、男性と女子供を別々に捕囚するという形もあり必ずしも同じとは言えない事もあるだろう🤔 

まずそのあたりをヒントに考えてみたいと思う、、。

何故、縄文人の文化が一気に消滅したのか?😵‍💫


【弥生人の渡来】

2500年前(紀元前5〜6世紀)は、寒冷化が起きた頃であり中国は戦乱の時代で、民族の移動や日本列島へ逃げる人々が爆発的に増えたと云われている。

中国では、春秋・戦国時代。呉と越の戦で呉が滅ぼされ、和国へ亡命したと史書に記されている。

また、この頃の弥生人の事を『プロパーコリアン』ともいい、かつての朝鮮半島の先住民が日本列島に逃げてきたという説がある。

特に漢の武帝が古朝鮮を滅ぼした時代に下ると、朝鮮半島への支配が最長に及び、多くの半島人は列島にも逃げてきたと思われる。


1/4世紀ほど、日本の隣国が中国となり

🙄高句麗へ逃げるより海を渡った流民も多かったろう、、

高句麗は古朝鮮の流民を吸収して建国されたばかりで、まだ暫くは漢に攻められていた。

私達(本土日本人)の直近の祖先である弥生人は、縄文人の消滅となんらかの関わりがあると考えられている。

寒冷化による自然滅亡説もあるが、縄文時代は一万年の間に何度も寒冷化と温暖化が繰り返しあり、寒冷化だけで全滅したとは考え難い。

逆に温暖化の時期には青森でも稲作が可能となったため、弥生人の北上が原因であるかもしれない。

大量虐殺説は弱く、

弥生人が持ち込んだ伝染病説

(縄文人には伝染病がなく免疫がなかった為、結核などで滅んだ)

弥生人と同化した説など様々な憶測があるが、どれもがあったとしても不思議はない。

私達にも12%縄文人のゲノム(遺伝情報)があるらしいので、同化・混血はあったのだろう。

同化でも、平和的な婚姻合併策と
支配的な吸収合併があるが、兵力・支配力に差があれば後者となる。

皆殺しにするより、同じ頃に西アジアで起きたバビロン捕囚の様に、捕囚・俘囚として隷属させ使役させる方が弥生時代は常だった。

それらは

後々、部民・奴婢と呼ばれ、部族が所有する私有民となる。


狩猟民族の女子供を人質にとり、男性を兵役・労役に駆り出し使役させる方法は後世の大和王朝の時代にもあった。

大和王朝の佐伯氏は大伴氏に属する部族だが、佐伯とは元々、異民族をさしていう言葉で蝦夷族を率いたのが佐伯氏だ。

7世紀の大和朝廷は蝦夷族の酋長200人を上京させ、冠位を与え弓刀を賜るなど正式な服属儀礼を行ったが、

紀元前5世紀では、縄文人に対しどの様な同化支配が行われたのだろうか?


【弥生人と同化する縄文人】

平均寿命14歳の縄文人。

30歳で高齢者となり、35歳まで生きられれば「長寿最高齢」となる。

(今でいう100歳くらい?🙄)

首長となる長老やリーダー、長老会議は存在していても身分などは発生する隙間も無かった。

生き延びた者が次世代に繋ぎ、そしてまた生き延びた者が次世代に繋ぐという命のリレーにより存在してるコミュニティは、戦争や支配など無縁の世界で、

時には、17歳くらいの最高齢の女性が部族を率いてる事もあった。

(※2008年〜縄文人寿命46歳となってますが子供の生存率は除いてるらしく平均は分かりませんので、とりあえずこのまま書き進めます😌🙏)

支配階級や既得権さえも発生する間もなく、寿命が終わっていく。

生き延びた者が、次世代を支え命のリレーを繋いでいく世界。(リアル😅俺屍)

そこへ武器を携えた、寿命も長く身分や階級が維持出来るほどの生存率を有する『弥生人』達が乗り込んできた。

弥生人と稲は、どちらもDNA解析によると中国の南を流れる長江を下って、河口の上海から日本列島に伝わってきた。

日本列島まで来たからといって戦国時代や漫画やゲームの様な、大量虐殺はない。

基本的に、職業軍人は将軍だけで兵士という職業はなく、部族民が戦士となり戦うのが殆どだった。戦さに勝ったところで、戦争の後は農民に戻るので武力支配を継続する事が出来ない。

そのため、和合する同化政策をとった。

相手を武力破壊せず従わせるのに軍事力・支配力に差が無ければ、弥生人達は婚姻合併による平和的な和合を行う。

互いの王子と姫を結婚させ生まれた子を王とする。

軍事力・支配力に差があれば、女子供を人質にとり隷属させる。

戦いというと命を奪うことや土地を奪うもの、王を倒すというイメージが強いが、小部族が多かった時代では『子供を取る』のが戦いだった。

その部族にとって未来に繋がる存在であり子供はとても大切にしていたし、
逆に子供をとられる事は、その部族の未来を奪われたも同然だ。

(土偶も女と子供だけだし🤔特別な存在だったのだろう✨)

子供を人質にとり、男は奴隷となり女は犯され奴隷となる子を生んでいく。

「相手を皆殺しにする様な武力破壊をせず隷属させる」縄文人狩りによる同化政策も行われたかもしれない。

残酷な事の様に思われるが、こうした同化政策は紀元7世紀頃までアジアには存在していた。

縄文時代の中国人は、逃亡を防ぐのに奴隷の目を潰したり手枷足枷をはめたりしてたらしいが、(或は手に穴を穿って繋がれたり、、)東アジアの奴隷制でそこまでしていたかは分からない。

古朝鮮を滅ぼした時も数万人が捕囚として中国に連行されていったが、世界は奴隷制による生産性・国力向上の時代だった。何も稲作だけで向上した訳では無い。

『稲作によって食糧が豊富になり、貧富の差が生まれ支配階級や身分が発達した』

、、という語りも枕言葉の様に定着してしまっているが、

稲作社会の中だけで身分が生まれたのではなく、異民族への捕囚や俘囚、奴隷狩りによって支配者と被支配者という身分が生まれたのだ。

「稲作によって食糧が豊かになり、、」等とあまりに卒なく美々しく纏めてしまうと、犠牲になった方々も浮かばれまい😢

(よく知られる『幸せ』という字は「奴隷文化」の代表例。手錠の形を表していて語源は手錠をはめられてるだけなら幸せだと言う意味だそうです🥺)

農耕民族の集団サイズのジャンプは、異民族の捕囚・奴婢という下層身分を生みだした事は否めない。

「稲作によって労働力が必要となり、異民族への奴隷狩りにより捕囚俘囚・奴婢という下層身分が生まれて、生産性が向上し支配者は豊かになり貧富の差が生まれた。」と、

逆説的に説明した方がより歴史的なリアルティがある。

農耕民族のバビロニアはユダヤ人、
中国は古朝鮮人の捕囚化・下層民化に成功して、集団サイズの拡張と農耕サイズの拡張によって豊かになったのだ。

ちなみに身分が発生するには、ある程度の寿命と生存率が必要だが、それでも支配階級の世襲も発生当初は末子相続でなければ維持できず、私達が知る長子相続が可能になるのには、更なる寿命と生存率の向上を待たなければならなかった。

縄文時代から千年も経つと、流石に生産性は向上しかつての俘囚・奴婢も小作人レベルへと向上した。

日本では7〜8世紀の律令制の時代には国家体制が強まり、奴婢・部民などの奴隷民・私有民を認めずに全てを国民としたが、

(リンカーンの奴隷解放より千年以上早い😑)

江戸時代になっても、商人がアイヌ人に対して行なっていた酷いことを考えれば、異民族への接し方は紀元前でも想像にかたくない。

何故、この様な想像をするかというと縄文人が弥生人と入れ替わる様に姿を消した事が『一気に全滅した』とは考え難いからだ。

ただ、時代を画して縄文土器も姿を消し弥生土器にとって替わっているので、縄文人の文化の途絶は確かな様だ。

絶滅はしなかったが、縄文人の文化を自ら残せない様なかたちで生き延び、私達に遺伝子だけを残していったというイメージで、考えてみる。


【縄文土器を残せない捕囚】

稲作の出来ない北海道で、弥生人が縄文人の消滅に関わったとは考え難いが、子供を人質にし「バビロン捕囚」の様に、労働力の捕囚として縄文人狩りを行い、連れさられていった可能性は考えられる。

更に北にいた縄文人はアイヌ人に50%血をひかせ、捕囚となった縄文人は本土日本人に12%、南へ逃げた縄文人は沖縄人(ウチナンチュ)に20〜30%の遺伝を残した。


相手を皆殺しにしない限り、勝者と敗者の混血によって遺伝子が残されてきたのが歴史の常だ。

子孫を残さず寒冷化や伝染病で全滅したのなら、私達に12%も縄文人のゲノムは残されない。

縄文文化を残さず、遺伝情報だけを残した混血期の時代が、ある程度長く続いたであろうことが伺える。

弥生人達のエリート・ドミナンス効果が(支配者の言語・文化・宗教に置き換えられ浸透していく)混血の進行と共に広がっていったのだ。

縄文人の滅亡説が、3000〜2300年前と諸説に幅があるのは、渡来してきた弥生人との同化が始まり、縄文人の血統が混血によって弥生人の遺伝の中に完全に埋没するまで数百年かかったという事かもしれない🤔いずれは父系母系、両方の遺伝子を調べていけばこうした混血の歴史のストーリーが浮かび上がるのだろうか、、

(あまり、詳しくはないので後からまた加筆・訂正をするかもしれません。😔)

女子供を人質にとられ別々に捕囚された縄文人は直系の子孫や文化を残せず、

別の場所に逃げた縄文人は直系の子孫を残したが、伝染病で滅び


混血した縄文人は伝染病を生き延びたが文化を残せなかった、、

と、まずざっくりと多様に考えておくことにしよう、、🤔


一様に、縄文文化は弥生人文化にとって代わられてしまったが、混血期に併存していた時代は、もっと多様性があったとしても然るべきだ。

沖縄ではグスク時代の支配が始まる(12世紀頃)まで縄文土器(火炎土器)は作られていたらしいので、本土日本人とはまた違う長い平和的な同化の歴史があったのかもしれないし、

勿論、平和的に共存していた地域や時代もあっただろう。

中国地方の弥生遺跡から、他に類例がない分銅型の土器が発見されているらしいが、これが縄文時代晩期の土印の形に通じる感じもする。

縄文時代から弥生時代への連続性を示す貴重な遺物であり、縄文人から弥生人へ意匠を継承すること自体、平和的な同化があったことを示すものかもしれない。

そして、

縄文人には自ら文化を捨てて封印し、寧ろ弥生人から隠さなければならない

大切な何かがあったのかもしれない。


【縄文人はフリーセックスだった!?】

話しはそれるが縄文のコミュニティについて少し語る、
(少しじゃないと思う😅)

「縄文人はフリーセックスだった」
「いや、違う」という議論が予てあったが、

他の哺乳類と比べて『発情期が異常に長い』といわれる現代人の性感覚からでは、発情期が長いというほど寿命が長くもない縄文人の繁殖行為は到底考えることは出来ない。

エンシェントの縄文人より寿命が長い分だけ発情期も長く生存率も高いモダンな現代人の生殖活動は、決して同じではない。

集団での子育て、集団での繁殖は、生存戦略としては正しく、現代人の様な(=ここ数千年のモダン)カップルでの子づくり子育てはをしていては生存戦略としては怠けている状態であり、一万年どころか僅か数世代で絶滅してしまうだろう。

フリーセックスといっても現代人が考える様な、セックスを愉しむ目的の乱交パーティではないのだ。

平均寿命14歳、30歳で高齢者となる縄文人のコミュニティは、現代人と比べて社会扶養、社会連帯、社会責任が非常に発達していた。

『皆なで子づくり皆なで子育て』

そこには身分や階級、法律、宗教もなく、人間としての大道を生きていたコミュニティだ。

「縄文時代は身分の差は殆ど無かった」との考えもある様だが、

身分を考える事自体ナンセンスで、ただ、長く生きた人とそうでない人、時系列的な前後の差こそあれ、上下はない。

制度としての結婚も、そもそも為政者が市民を支配しやすくする為に単体化させたもので、元々人間の女性は生涯で三人ほどの男性の子を産むものだった。

こうした『縄文コミュニティ』のような集団での子育て子づくりの文化は中国や東南アジアでの稲作文化でも存在していたが、国家制度や身分制度が強まると共に排除されていった。

逆説的だが身分や国家が成熟する為には当然、寿命や生存率・食料の増加と人口の増加が背景になけれならない。

縄文人が姿を消した頃、中国では『孔子』という偉人が社会構成の変化に対して法治国家化への警鐘を鳴らしていた。孔子によれば、

『法治国家』は最も次元の低い国家で、法を定めては人々は法の抜け道をみつけて悪い事をするのが無くならないという。

(↑性悪説により法の支配が必要との事がかえって悪事を助長してしまう社会😔確かに未だに脱法行為や合法化は存在する)


『徳治国家』は次に次元の高い国家で法律はなく、道徳や為政者の思いやりなど人々の常識や良識によって社会が構成されている状態。今でいうソーシャルグッドビジネス、ウェルビーイングだけで存在している上善社会だろうか🤔

(↑性善説だが、現代人でもいちいち法律刑罰を知って従っている訳ではなく、実際は殆どの市民は良識や常識だけで生活している。法律ではどうなの?と弁護士に相談しなければ分からないほど法治は行き渡ってはいない?!😳)

行政手続きなどを除けば一般市民はほとんど法律とは縁がなく、良識だけでモラルのある生活をしているので、割と徳治に寄っているのかもしれない。 

孔子の言うとおりかも、、😅

『道治国家』が一番高い次元とされ、
法も徳もなく治まっている社会。人々はあるがままの大道を生きて成立っている。王がいたとしても王の存在さえ忘れるくらい平和な状態を上善とする。

大道(タオ)=タオイズムというが、

縄文人はタオであり、

身分や法律、アニミズムや宗教など、

現代人が考えるような社会性や精神性は存在してなかった。

(非常識な社会だ🙄☝️)


うちの子⇔皆なの子

親の責任⇔皆なの責任

家族扶養⇔社会扶養、、

一万年というサステイナブルな文化の継続は

生存戦略としては正しかったと言う他ない。

(渡来人による食料と人口の増加さえ無ければ、、😑)


😔孔子の警鐘も虚しく、

世界は法治国家となり、縄文人のコミュニティの様な道治国家は存在し得なくなった。

最後に、、


【尚も残る縄文人の謎】

九州と東北に縄文人の遺伝子は色濃く残り、近畿や関東では薄いという濃淡があるが、弥生人の上陸地である九州に色濃く残っているのが謎とされている。

弥生人の流入だけでなく噴火によって人が住めなくなった頃もあり、むしろ古い遺伝子は薄くなって当然だ。

弥生人が圧倒して混血はせず、まず植民支配した、、🤔縄文人に稲作をさせ文化を取り上げ隷属させていたという事なのだろうか?

九州は稲作が広がっていた為、より多くの異民族の俘囚や奴婢を集める必要性があり、結果的に混血は濃くなったのかもしれない。

逆に縄文の聖地だった長野県の尖石遺跡では、縄文土器だけを残し、

人々が突然いなくなったのが「謎」とされてきた。

しかし、縄文人のゲノムは東北と九州に色濃く遺伝を残しているので

弥生人の侵略により東北に逃げたか、九州に連れ去られたのだろう。

(縄文人が突然、教科書から姿を消したのも謎だ😂復刻しても考古学協会から改善声明がでるほど影が薄い、、😅)

弥生時代になると農具も鉄器が登場するが、縄文時代はまだ貧弱でどちらかというと旧石器時代に近い農具もあり、貧弱さを補うだけの奴婢の労働力が必要だった。

また弥生人の開拓時代に大勢の奴婢の必要性があったのは、稲作そのものでなく、開墾、治水事業等の土木工事だ。石垣の石を運び、道を拓き、堤を造り、水路を引き、畦道を作り等、インフラ整備は、渡来してきた弥生人達だけではとても出来なかったかもしれない。

いずれにしろ、労働力、物資、食料の調達は敵地調達が兵法の極意とされていた様な時代であり、

奴隷商人による奴隷狩りも需要があったことだろう、😔

奴婢や生口(=中国へ献じたという奴隷)は、奴隷とは違うという考えもあるが、奴婢は卑弥呼の埋葬でも100人が殉殺され、人命の代わりに『埴輪』が使われる様になるまではずっと殉殺されていたので、支配者に所属して自由はなく生殺与奪権を強力に握られていた下層身分である事は間違いない。

私達はよく、ピラミッドや古墳など立体的な大きな構造物をみると、

「人々を使役する強力な支配者がいたに違いない」と、

初歩的な考え方をするが、必ずしも巨大建造物=強力な支配ではなく

水田の様な平面遺跡だからといって強力な支配が無かった訳ではない。

いずれにしろ人間は、支配による使役よりも、主体的な共同創造の方が遥かに高度な創造力を発揮するものだ。

北海道(キウス遺跡)の縄文人達は、支配者の為でなく自分達の為に古墳クラスの、周堤墓墓の造営を行なっていた。

容易に伺い知りえる事ではないが、いつか分子人類学的なストーリーが浮かび上がってくるのを待ちたい。


縄文文化は広範囲の流通のネットワークがあり、ゲノム(遺伝情報)を残しつつも一様に日本列島から縄文文化が姿を消したのは、各地の集落のみで存在していた訳ではなく、このネットワークによって存在していた理由があったのかもしれない。

西アジアのバビロン捕囚の場合、

農耕文化を持つバビロニア人が侵攻してきて、ユダヤ人の聖地エルサレムを奪いユダヤ人は捕囚となりバビロニアに連れ去られた。聖地を失ったユダヤ民族は教義経典を拠り所とするしかなく、一神教となって『神と宗教』を強め民族としての結束を強めた。

これによって、同化や混血が進んでもユダヤ人としての独自性や文化を維持しつづけた。

一方、宗教を持たず宇宙の根源と繋がるようなパラダイムを持っていた縄文人は聖地を失うと共に、文化を失った。

文明とは、農耕・人口集中・組織化、などを基本とした呼び方だが、

生産性の向上や物理的な技術に着目されがちである。

そして、生産性の向上と継続性は必ずしも比例しないので、

文明の繁栄と滅亡は繰り返えされてきた。

(※農耕民族の様に特化した作物を文明と言い、縄文人の様に様々な栽培管理を行なうのを文化と言いらしい、😳)

文明は優れていて、文化は文明とまで言えない劣ったイメージがあるが、

文明=滅びるもの

文化=サステナブルな継続性のあるもの

華やかに咲き散っていく文明が、優れているとも言えない。😔

一万年以上の継続性がある縄文文化を

文化でなくあえて『縄文文明』と言い変えてみるならば、

縄文人にとっては、継続性や人口密度(集団サイズ)や食糧調達などそれぞれの臨界点を理解した上での広範囲に渡る人口拡散こそが、彼らの文明であり、

農耕だけに依存しないエコサイクルに適った食糧調達・適度な人口拡散・組織化に頼らない社会連帯、など、
原始的な環境や気候変動に対応したサステナブルな、寧ろ高度な文明だったと言える。

各地に散らばる小集落同士が、黒曜石や土器の交易を行なっていたのではなく、小規模拡散型の一つの大きな文明の中で流通していたのだ。

男性集団が女性コロニーを回遊していたかもしれない。😌

いったり来たりの交流よりも回遊性のある方が、近親交配リスクを減らし遺伝子劣性を抑える。

その上で、現代人がフリーセックスと呼ぶ様な集団繁殖を行ってこなければ、小コロニーの中だけでは、逆に生殖能力すら失われていた可能性もあっただろう。

遺伝子プールの撹拌は縄文人全体の課題で、こうした交配戦略によって縄文人はゆっくりと少しづつ寿命を伸ばしてきたのかもしれない。

塩の流通にしても然りで、日本海側の縄文コロニーから、信州の聖都がある縄文コロニーに回送が続けられた。

(上杉謙信が敵である武田信玄に塩を送ったのも、縄文の血がなせる技かもしれない🤔)

タオイズムを無理やり信仰という言葉にあてはめるなら、生と死の円環に対する信仰とでも言うのだろうか?🤔

しかし信仰や宗教ではない。

独自のパラダイムと死生観(サナトロジー)を持つ、不思議な集団だ。

寿命が短いことも幸いしたのだろうが、

都市化→荒廃→滅亡、

生産性向上→戦争と奪い合い→滅亡、

という負のサイクルを知っていなければ、

一万年というサステナブルな繁栄はあり得なかったかもしれない。

縄文の文化は歴史の遥か彼方に封印されたままで、

ストーンサークルと土器、遺伝情報を通してしか伺い知ることは出来ず、

私達現代人の浅薄な価値観では到底、彼らの世界には及ばない。

小規模集落拡散型の文明は、都市化・中央集権化の弊害を防ぐだけでなく他にも様々な利点もあったのだろう。

高度に進化した世界では、
大都市は無くなり人が集中してたくさん住んでいる場所も無ければ、
全く人が住んでいないと言う場所もないという。

均質化され、貧富の差や格差社会の濃淡もなくなるらしい。


何をもって豊かさとするかによるが、

格差の隙間を埋めてしまうほどの
『溢れるばかりの豊かさ』があるのだろう。

一万年という日本列島に住む人々のサスティナブルな進化の歴史を考える時、

現代人の私達もまだまだ進化の過程にあり、豊かに拓けていく未来が進化の道に続いているだろう事を感じずにはいられない。

「宇宙の根源と繋がるとは何だ?」

という事については、また別の投稿で書いてみたいと思います。

話しが長くなり散漫になってきましたので、今回はこれで終わります🙏

取りとめのない長い話しを読んで下さって、ありがとうございました。

来週末は、

『ジブリの故郷』
長野県富士見市の縄文の聖地と

山形県の三大縄文遺跡

中川代遺跡 (中国製石斧)
三崎山遺跡 (青銅製刀)
押出遺跡  (漆塗り)

にいってみようかと思います😌🚗

聖なる国 日本✨☝️歴史が長い🙃

#縄文の遺伝子 
#日本人男性が持つヤップ遺伝子
#Y染色体ハプログループD1b


北海道積丹半島【縄文遺跡】ストーンサークル

2019-11-14 | 縄文の道

【縄文の世界】
積丹半島のストーンサークル(環状列石群)








3500年前の縄文後期の遺跡。 

青森の大湯環状列石(ストーンサークル)ほど大きくはなく

小さなサークルがひっそりと点在している。



遠い昔、私たちが今よりもっとスピリチュアルに生きていた時代を

思い起こさせてくれる場所。





まず、小樽にある金吾龍神社にお参りをしてから向かう。

アラハバキ神社。最古の龍を祭るが、女性の神様が顕れた。

三拝三拍手でお参りする古い神社だ。

11月上旬、まだ雪に覆われてはなかった。





【縄文の祭事場】 
縄文集落の聖地。この辺りに点在するストーンサークルの中で、
最も神聖な神事を行なう場所。




ここで、人々がストーンサークルを輪になって囲み、

盆お取りの様にぐるぐる周って神事を行っていた。





中央のストーンサークルを囲むと光の柱が立った。





宇宙と繋がる神聖な場所。

天と地の聖地




【誕生の場】
ここは日常的な生活の場で、

何かを作ったり、人々が集う場所



子供が生まれると、方型の溝には水が張られ、

宇宙から頂いた新しい命の誕生をここで祝う。





生の聖地



【眠りの場】


お墓。

亡くなられた方が、静かに安らかに眠っている場所。

お墓と言っても現代のものとは全く違う。

あたたかな場所。

悲しみや冷たさはなく、


とても穏やかで優しい雰囲気に包まれている。







人の死が悲しいものではなく、とても安らかで温かいものであったと

感じさせて貰える。



偉い人も皆、立場に関係なく向かい合い、

静かに眠っている。








本来、人の死はこのようにあるべき

と思うほど

優しく、、

静かに、

安らかに、

眠っている。





千と千尋の神隠しの

【いつも何度でも】

さよならの時の静かな胸

ゼロになる体が、耳をすませる

生きていく不思議、

死んでいく不思議、

花も風も、街も、皆、同じ、、
、、

という歌そのものの様な、

静かで安らかで、

穏やかさと

優しさに包まれた場所。

感謝とあたたかさを

静かに感じる

死の聖地





#私たちは、

いつもおだやかで、

豊かなままです


積丹岬
積丹ブルー


青森【三内丸山遺跡】まほろば

2019-10-24 | 縄文の道

青森県青森市【三内丸山遺跡】
青森県青森市三内字丸山305



今から約6000年前~4000年前まで栄えた巨大な縄文遺跡。江戸時代から知られ、現在は青森から函館にかけての遺跡群として世界遺産への登録を進めてるらしい。



東北道青森IC近く 青森駅~車15分。









まほろば(=住みやすい場所)、


と云われるだけあって素晴らしい風景。

不思議と、ほっとする。




青森県の遺跡群は白神山地など15000年前の石器時代からの出土もあり人が住み続けてきた歴史が深い。大型建物なども復元されていて、縄文時代のムラをそのまま体験できる。




板状の土偶は、縄文前期の特徴。


栗の栽培で栄えた三内丸山の大集落は2000年近く続き、縄文文化の中心地で、縄文文化圏の流通が行われていた。

北は北海道の日高山脈の黒曜石、南は新潟県の糸魚川の翡翠が流通していた。















頭は空っぽにして、

只々、縄文の

「まほろば」を感じてみる場所。