奄美大島の向かいにある【喜界島】
古代ミステリーロマン系のお話しです。長文です🙏
福岡が卑弥呼の終焉の地だとすれば、
『奄美大島』は卑弥呼の故郷。そんな視点から書いてます。
奄美大島では、最上位の巫女は
【大巫女】といい『フミコ』と発音するらしいですが、とりあえず日巫女、又はヒミコと書きます。
今よりもっと天と地が、巫女に依って繋がれていた時代。
日をみる巫女は島の高台より日をみて、
種蒔から収穫の時期までを決め、
暦をつくり、
人々はそれに従って農作物を作りました。
その食物を得る為の信仰のせいか喜界島には食べ物の神様【保食神社】と、
水の神様【水神社】が沢山祭られています。
【保食神社】荒木
奄美大島は『月に33日雨が降る』と言われるほど雨の多い島です。
古代では太陽や夜空の月や星の運行をみて暦を作りましたが、雨が多くいつも日や月を見ることが難しい奄美大島では、向い側に比較的雨が少ない喜界島が無ければ、的確な暦を作ることは出来ませでした。
暦を作るだけでなく、雨乞い晴れ乞いを天に祈る日巫女は
食物を得る為の身近な存在でした。
【保食神社】嘉鈍
島内48社の神社のうち、
20社が保食神社
10社が水天宮や水神社など水の神様。
それぞれの集落や聖地に必ず一社はあります。本土で言えばお稲荷さんの様な存在⛩️
奄美大島東岸(光が神々しい✨)
奄美大島のヒミコは、向かい側の島の喜界島に渡り、日の見方を人々に伝えました。
喜界島の百ノ台の辺りです。
喜界島の人々は、奄美大島の部族とは違いましたが人々は皆、ヒミコとヒミコのよみに従いました。
喜界島のいたる所にある水神様と食の神様の信仰は、その頃の原初の
「民と巫女は同じ天を見て食を得ていた」意識の名残りが微かに感じられます。
訪れる人は、どこか懐かしい風が海を渡る様な心地よさを感じるかもしれません✨
【水神社】西目
【水神社】滝川
島内の神社は、社殿はなく鳥居と石碑だけの小さな神社が殆どです。
【水神社】島中
小さいですが、凛とした静けさに包まれています。
保食神社の食物の神様は、伊勢神宮に祭らている【豊受姫大神】
神仏習合の時代に「食物の神は馬頭観音の化身である」とされた為、島ではずっと馬頭観音を祭ってましたが、明治の神仏分離によって馬頭観音から【豊受姫大神】に戻りました。
【保食神社】島中
社殿の無い石碑だけの神社。
ご祭神 豊受姫大神
日巫女が見る『日』は太陽そのものであり、暦でもあります。
稲は、元々は南方産。
東南アジアの稲作文化はの日を読む巫女に従うという習慣があり、
巫女は稲作とともに徐々に日本列島まで北上してきました。
魏志倭人伝では「卑弥呼は鬼道に仕え人々を惑わした」と書かれてますが、
これはあくまでも中国人の感想で、ここ喜界島に来るとそんなことは微塵も感じられず、当時の中国人の否定的な見方だったのかもしれない、、という気がします。
ちなみに中国人の言う「鬼」とは、亡くなられた方の魂のことなので、
鬼道に仕えるとは「あの世とこの世」繋ぐ橋渡しの様な役割りだったかと思いす。
今で言うお坊さんでしょうか?仏教で言えば浄土に往生させる役割りです。
(🙄そう言えば魂には『鬼』という字が、、)
しかし、昔はお釈迦様もその弟子も中国の僧も、日本の南都北嶺の寺院の僧も、現在の様に葬儀は行いませんでした。
お寺は民衆にはほど遠い国立大学の様な権威の存在で、いかなる門跡の僧であっても、死者の弔い方さえ知らないという時代が15世紀ごろまで続きます。
それまでは、民衆には僧とは別に「鬼」に対して弔いの役割りを担う存在達がいました。
民にとって身近な巫女(巫術師)の様な存在です。
また「和国の者はいくら教えても教化が進まない」と中国の史書に記されてましたが、
中国人の武力や法律の支配文化が飢から救ってくれない事を、
民は皆知っていました。
支配や命令によって従うのではなく、
ただただ
農作物を得るために
日巫女の暦に従って生きていた。
「暦を制する者が国を制する」と、云われていた時代です。
日本列島に大陸人の流入が増えてくると、争いが広がり中国式の稲作文化の様な支配が強まりますが、
まだその様になる前の、島国ならではの稲作文化(畑作)の時代、、😌
どこか縄文意識にも通じる様な、遥か昔しの共同体意識を感じる島です。
高い場所にある島の聖地
【百之台展望台】
島で最も高い場所で標高211m、七島鼻から展望台まで百之台と言われるエリアから島の方々を見渡せる。
次は、卑弥呼終焉の地
福岡県へ向かいます・・・
が、その前に
✨古代ミステリーロマン✨
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🌅食物の神【保食の神】の謎🌌
ここから先は、【保食の神】の謎について、
大陸と島国の文化の違いから書いていきます。
『大宜都比売命はヒミコだった!?』
🙏長文です。
ヒミコは古事記・日本書記には一切登場しないので、素直に考えれば大和王朝の日本統一以前の事ですので、別の王朝の話しの様です。
通常、邪馬台国のヒミコと大和王朝を結びつけて考える時は、神功皇后や天照大神などがヒミコと結びつけられ、天照大神の別称【大日霊貴】がヒミコとされたりしてますが、大宜都比売命というのはあまり聞いたことがありません。😌
マイノリティー説ですが、食の神様から考えてみます。
食べ物の神である【保食の神】三神
◆大宜都比売命(イザナキ・イザナミの子)保食神社など
◆豊受姫大神(イザナキの孫・和久産巣日の子)伊勢神宮など
◆宇迦ノ御魂神(イザナミの孫・スサノオの子)稲荷神社など
【保食の神】(大宜都比売命)は、古事記・日本書記によれば、
けっこうエグい書かれ方をしてますが、、😔食を求めたスサノオ命、または月読命に対して、口から吐き出したものを食べ物として出した為に「不潔である!」と怒りをかって斬り殺されたという。
食の神様は【保食の神】が一番古く、
大宜都比売命(オオゲツヒメ)
豊受姫大神(トヨウケヒメ)
宇迦之御魂神(ウカノミタマ)が最も新しいと思われます。
大宜都比売命・豊受大神・宇迦之御魂
この三神を食べ物の神【保食の神】と言い同じ神様として祭られたり、または大宜都比売命(オオゲツヒメ)が【保食の神】と言われたりしますが、
概ね、稲荷神社、保食神社、伊勢神宮ともに豊受姫大神さまが祭られてます。
(神様、漢字多くて疲れますね😌)
ちなみに、秦氏が氏神として崇める【稲荷神社】宇迦之御魂神は南方系で
死肉を喰らうというインドの「ダーキニー」天のこと(ヒンズー教の最高神シバの妃の侍女である夜叉姫)、
屍肉を喰らうジャッカルに例えられたが、日本にはジャッカルがいなかった為にキツネに置き替えられたという。
(なんともBlackな話に聞こえますが、仏教・ヒンズー教に影響を与えたゾロアスター教では火や土が穢れるので火葬や土葬は行わず、鳥葬の様に死体を動物に食べさせる習慣があったそうです、、😳もしやこの人間達は、食物連鎖の頂点に君臨しつつ屍肉を食べる動物に限り循環させている?!😅)
伊勢神宮外宮に祭られている
豊受妃大神のトヨウケヒメの【ウケ】は食物のことで【ヒ】は御魂、
気比神社のケヒも同じ意味合いで、それぞれ食物の神を祭る。
ウケ・ウカは同様に食物そのものを指します。
(一説にウカノミタマは「多くの御魂」という意味アリ)
しかし保食神社の
保食=
つまり【保存食】は、
南国系と北方系で、保存法に大きな違いがあった。
今でこそ私たちは、クサヤやナンプラーなど魚の発酵食品をスーパーで買うことができるが、
当時、保存食と言えば【干物】しか知らない人々にとって
南国の魚の発酵食品の製法、特に内臓や腸など体の中から出てきた汚らしいと感じるものを原料にして作っている魚醤などは衝撃的だった。
しかも『米噛み酒』で知られる様に、
南国の発酵食品は、一度、口で噛み唾液でデンプンを糖化させて吐き出し放置し、自然の菌によって発酵させ
【納豆】や【お酒】が出来上がる。
北方の『干物』保食法しか知らない人々には、唾液で分解するという行為も穢らわしく感じられた。
南国でも干物を作ったりしているが、
魚の発酵食品ナンプラーなどの魚醤はやはり南国が圧倒的に多い
高温多湿の南国では干物は作りにくく逆に腐ってしまうので、発酵食品の保存食が北よりも発達した。
(何故か女性の唾液の方が発酵しやすいそうです🙄タイの様にわざわざ美人に噛んで貰う国もあり😮)
小氷期が開けて暖かくなって、干物しか保存法を知らない人々も、南国の発酵保存食の方法を知る必要があったのかもしれない。
斯くして、天照大神の兄弟神らは食料難に備え(或いは食料難があり)南国の保存食を知る機会を得る。
納豆や口噛み酒は中国南部の雲南省が起源と言われ、東南アジア、沖縄、奄美諸島など温暖な地域では広く作られていたが、
魚はワタ抜きした干物しか知らない北の人々にとって、
一度口に入れたものを吐き出して作ったり、魚の腸や肛門まで食材として使うなど😱理解を超える不潔さだ。
通常の保存食は「干す」が基本で
乾物、干物、の食文化。
たくあん、切り干し大根、アジの干物、煮干し、馴染みの深い日本食ばかりだ。
古事記・日本書記でスサノオや月読命が不潔である【保食の神】を殺したという話しは、
朝鮮半島系、日本列島系の神が、
保存食文化の違う
南国系の神を殺したというエピソードです。
日本神話に登場する三貴神
天照大神
スサノオ命
月読命、、
スサノオ命が海原を治め、
月読命が『夜の食の国』は、夜の世界を治める国として読む。
これは、例えば太陰暦と太陽暦の暦の違いの様なものか🤔
🌘夜の世界で、
月を読むことと星座の運行によって、
『月の暦を作る文化』
☀️南国では太陽を見る日巫女によって『日の暦を作る文化』
(暦という字には日があって月ではない様に元々は日の暦だった?🙄)
暦を作り、種まきから収穫の時期までを決めて作物の神に祈るという基本的な部分は同じかもしれないが、
【暦の作り方】と【食料の保存法】が、北と南ではこのようにまるで違っていた。
暦を制する者が国を制すると言われた時代、、
喜界島の貝の装飾品が、中国の宮廷文化を飾るために輸出されたり、
中国式の支配文化が大勢の渡来人たちによって持ち込まれるよりずっと以前。
神と王や巫女はもっと共同体的であり支配的ではなかった。
人々は日巫女の言うことに従うが、
それは日巫女が権力者だからではなく、農作物の収穫のために日巫女の収穫の暦のルールに従う訳で、
王も日巫女自身も農作物を得るための天のルールに従っていた。
我々が普通に考える支配者や権力者の王や巫女とは、全く次元の違う原初的な存在だった。
祭政一致していたまだ未分化の時代。
祭りごとと、政りごとに分離する以前の民衆は、
中国式の政治=
いわゆる武力や律令、道徳など中国人の常識が飢えから救ってくれないことを、皆分かっていた。
逆に大陸側の特徴である中国式の稲作文化の強大な支配的スタイルは、武力や律令によって定めるところである。
稲作によって食料の備蓄が始まり、
備蓄によって支配者と被支配者が生まれたという説は
【メイド・イン・チャイナ】を指して言う説だ。
島国の稲作文化は大陸とは全く違う。
大きな違いは、
大陸式稲作文化の基本は不作や飢饉にでもなれば、他国に攻め入り奪ったり奪われたりという攻防があり、常に軍隊や支配に従う必要があった。
逆に、
島国式稲作文化では容易に海を渡り遠い他国に攻め入って奪うこともできず、
大陸文化のように大軍を起こすことも大船団を作ることもままならならず、
肥沃で広大な土地を奪い合うこともなかった。
攻め入られたところで大した備蓄もなかった為に、島の中で皆が自給自足の稲作ルールに従うのが常であり、
狭い島の中で、限りある資源の中で、人々が生きてくためには協力し合い、
島のルール、島の作物ルールに皆が従わなければ、王も巫女も民も生きてくことはできなかった。
例えば沖縄の離島などでは、島で人口が増えすぎて生存可能人口を超えてしまった場合、何人かに崖から飛んでもらっていたという悲しい歴史がある。
島で生きる為にはそのような厳しいルールも存在していたが、そうして先祖代々、命が受け継がれてきたのが島国のルールで生存ルールである。
大陸式稲作文化の生存ルールとは違う厳しさがあった。
生きてくことも死ぬこともみんなで協力し合うのが島国式文化のルールだ。
ヒミコよりも、もっともっと古い時代の巫女や王は、干魃など起きれば
柴を積まれて焼かれていた。😱
貝の腕輪をつけ、子供は生贄に天に捧げられる事もあった。
権力者になり支配や栄耀栄華を体験する為に生まれてきたのではなく、
王も巫女も、食が絶えぬ様に民の為に生まれてきた魂なのだ。
そして
島には今でも、島の外から渡って来た人は尊敬の念で迎えなさいという教えがある。
戦わず受容する、
支配せず共動するという姿勢が島人の心得で、大陸式の支配と戦いの覇権文化からは想像しがたいが、その方が生存戦略として現実的な時代もあった。
歴史モノというと、映画、漫画、ゲームでも全て戦いや権力闘争を描いた物ばかりで、私達もその覇権文化の偏りに慣れすぎ当たり前になってしまってるので、理解し難いと思う。
※話しはそれますが、ちなみに最も理解し難いのは南方稲作文化の子づくり子育てかもしれません。
男性のもとへ嫁入する結婚制度はなく、妻のもとへ夫が通う『通い婚』制度、
多婦多夫制とも言えるおおらかな子づくり(誰が父親か分からなくて良い)
通っていた男達の中から、女性が「この人!」と指名した者が夫となる。
里(コミュニティ)での子育て、
女性コミュニティでの生活の場、
など、😳まるで縄文やレムリアを彷彿させる共同体文化。
太古の生存戦略では、
現代人の様に、交際を重ねお互いをよく知ってゴールインなどしてたら、寿命が尽きてしまう。
生存人口=寿命の長さ=交際の長さ
は、微妙に関係し
意地をはったり執着したりしてるうちに人生は終わる。
点と点で支えるツガイ戦略よりも、面で繁殖を支持する方が有利な時代もあったのかもしれない。
社会扶養、社会責任が発達し、現代の様な個人扶養、個人責任のない世界。
原始的だか、シングルマザーが苦労することもない、、🤔
理解は及ばずとも、短くも広く豊かに分かち合う人生を生きた時代の、人々の意識を感じてみたい。
(レムリア=太平洋に沈んだという伝説のムー大陸にあった国。ラ・ムー・リア=神の大陸の国)
中国式の
「貞婦二夫にまみえず」などと一人の男性のもとに女性をしばりつけ離婚を悪とし、貞操を強要し、行き過ぎた男尊女卑など、男権的で支配的な文化とは真逆の文化だろう、、
中国人的な常識が定着する以前の古代日本は母系で、
母戸主・里戸主と言ってリーダーは必ず女性がなっていた。
今でも母国と言い、父国とは言わないのもその女性コミュニティスタイルの名残りかもしれない。
琉球は早くから中国王朝の配下となり大陸式の支配体制は強くなり、
本土でも中国北東部や朝鮮半島から大陸式の支配文化が次々と流入してきて
奄美大島と日巫女はその時代と文化が移り変わっていく節目にあった。
そして南西諸島を北上して来る勢力に押され、次第に北へと逃げていき南国系の文化を持つ集団は九州までたどり着いたが、
しかし同時に中国北東部より高句麗・朝鮮半島を南下してきた支配文化を持つ人たちとそこで鉢合わせになり、
古代原初の共同体的な稲作文化は、ここ日本で幕を閉じ、アジアから消えさった。
祭政一致の文化の終焉。
倒されてしまった保食の神。
食の保存だけでなく、収穫という食の確保も司どる巫女だとすれば、
何代目の卑弥呼かは分からないが、
ヒミコそのものが食の神として、
或いは雨をコントロールする水の神として祭られていたのかもしれない。
島の人々は、「馬頭観音だ」と言われれば馬頭観音を祭り、
「豊受大神」だと言われれば豊受大神を祭り、
名前よりも、その場所と信仰を大切に今も守り続けている。
【邪馬台国】奄美大島説について、、
魏志倭人伝の九州の地名比定どおりに、
伊都国=糸島、
投馬国=妻(ツマ)として、
そこから南に水行10日で、
奄美大島に着き
港から女王の都まで陸行1ヶ月としてます。
奄美大島は日本で2番目に大きい島ですが、陸行1ヶ月で内陸の都のある台地に辿り着けるかは分かりません、😔
陸地は毒蛇ハブが支配する、相当ディープなジャングルです。
トンネルが出来るまで島の人も船を使っていた程、歩くのは困難で、
歩くとすれば草地には入らず海岸線をいくのが安全ですが、入江が長細くしかも複雑に入り組んでいて相当な距離になります。🤔
日本列島への渡来には、北ルート南ルートがありますが、古代以前は南から南西諸島を北上してくる渡来人が多かった。
日巫女の一族も、中国江南地方からやってきたという説があります。
許氏という巫術を司る一族は、中国の支配に抵抗しましたが、呉国から排除され海を渡って逃げてきました。奄美大島に着き、喜界島の部族は習俗は違いましたが、日巫女の暦に従いました。
ゆく先々で出会う民達も、日巫女の暦に従って農作物を得る様になり日本列島の九州に伝播していきます。
武力や律令を、布武・宣撫する支配文化ではなく、
あくまでも暦を民に伝え食を保つ為の文化ですので、
従う国々は沢山ありました。
宮はあっても宮廷は持たない、
影響力はあっても支配者ではない、
暦で民を従える存在でした。
(九州の「一大率」の様に将軍や司令官の様な存在は別にいた。ヒミコの一族は九州に上陸した後は、和国の大乱によって女王に擁立された為、伊都国の合流により二重構造か傀儡政権の様になってしまっていた様です。ヒミコ女王とは別に伊都国には王がいて祭政は分離していた。)
三国志の時代、この巫女集団の存在は中国に知られていて、
魏国はヒミコに金印を贈り、使者ナシメには魏の軍旗と銀印を与え
呉国は南西諸島に向けて船を出し兵一万を派兵しました。
しかし、南ルートからの渡来文化はこれから少なくなり
古代以降は、
朝鮮半島やロシア沿海州方面からの北ルートの渡来人文化が
日本列島の主力となります。
(日巫女=卑弥呼)
※中国人は周囲の国々を蔑んでいて
【卑字】と言って必ず卑しい漢字を当て字し直します。
和国=倭国(萎える国)
日巫女(太陽神に仕える女)
=
卑弥呼(卑しさをあまねく呼ぶ)ひどい😂
ヒミコの一族は喜界島に渡り長くは留まりませんでした。
次は、
卑弥呼終焉の地、
福岡県でまた色いろ考えてみたいと思います😌👋
長い話を読んでくださって、
ありがとうございました🙏