聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

卑弥呼の故郷【奄美諸島】保食神社の謎

2021-11-28 | 古代ミステリー

奄美大島の向かいにある【喜界島】

古代ミステリーロマン系のお話しです。長文です🙏

福岡が卑弥呼の終焉の地だとすれば、

『奄美大島』は卑弥呼の故郷。そんな視点から書いてます。

 

奄美大島では、最上位の巫女は

【大巫女】といい『フミコ』と発音するらしいですが、とりあえず日巫女、又はヒミコと書きます。

今よりもっと天と地が、巫女に依って繋がれていた時代。

日をみる巫女は島の高台より日をみて、

種蒔から収穫の時期までを決め、

暦をつくり、

人々はそれに従って農作物を作りました。

 

その食物を得る為の信仰のせいか喜界島には食べ物の神様【保食神社】と、

水の神様【水神社】が沢山祭られています。

 

【保食神社】荒木

 

奄美大島は『月に33日雨が降る』と言われるほど雨の多い島です。

古代では太陽や夜空の月や星の運行をみて暦を作りましたが、雨が多くいつも日や月を見ることが難しい奄美大島では、向い側に比較的雨が少ない喜界島が無ければ、的確な暦を作ることは出来ませでした。

暦を作るだけでなく、雨乞い晴れ乞いを天に祈る日巫女は

食物を得る為の身近な存在でした。

 

 

【保食神社】嘉鈍

 

島内48社の神社のうち、

20社が保食神社

10社が水天宮や水神社など水の神様。

それぞれの集落や聖地に必ず一社はあります。本土で言えばお稲荷さんの様な存在⛩️

奄美大島東岸(光が神々しい✨)

 

奄美大島のヒミコは、向かい側の島の喜界島に渡り、日の見方を人々に伝えました。

喜界島の百ノ台の辺りです。

喜界島の人々は、奄美大島の部族とは違いましたが人々は皆、ヒミコとヒミコのよみに従いました。

喜界島のいたる所にある水神様と食の神様の信仰は、その頃の原初の

「民と巫女は同じ天を見て食を得ていた」意識の名残りが微かに感じられます。

訪れる人は、どこか懐かしい風が海を渡る様な心地よさを感じるかもしれません✨

 

【水神社】西目

 

【水神社】滝川

島内の神社は、社殿はなく鳥居と石碑だけの小さな神社が殆どです。

 

【水神社】島中

小さいですが、凛とした静けさに包まれています。

 

 

保食神社の食物の神様は、伊勢神宮に祭らている【豊受姫大神】

神仏習合の時代に「食物の神は馬頭観音の化身である」とされた為、島ではずっと馬頭観音を祭ってましたが、明治の神仏分離によって馬頭観音から【豊受姫大神】に戻りました。

 

【保食神社】島中

社殿の無い石碑だけの神社。

ご祭神 豊受姫大神

日巫女が見る『日』は太陽そのものであり、暦でもあります。

稲は、元々は南方産。

東南アジアの稲作文化はの日を読む巫女に従うという習慣があり、

巫女は稲作とともに徐々に日本列島まで北上してきました。

魏志倭人伝では「卑弥呼は鬼道に仕え人々を惑わした」と書かれてますが、

これはあくまでも中国人の感想で、ここ喜界島に来るとそんなことは微塵も感じられず、当時の中国人の否定的な見方だったのかもしれない、、という気がします。

ちなみに中国人の言う「鬼」とは、亡くなられた方の魂のことなので、

鬼道に仕えるとは「あの世とこの世」繋ぐ橋渡しの様な役割りだったかと思いす。

 

今で言うお坊さんでしょうか?仏教で言えば浄土に往生させる役割りです。

(🙄そう言えば魂には『鬼』という字が、、)

しかし、昔はお釈迦様もその弟子も中国の僧も、日本の南都北嶺の寺院の僧も、現在の様に葬儀は行いませんでした。

お寺は民衆にはほど遠い国立大学の様な権威の存在で、いかなる門跡の僧であっても、死者の弔い方さえ知らないという時代が15世紀ごろまで続きます。

それまでは、民衆には僧とは別に「鬼」に対して弔いの役割りを担う存在達がいました。

民にとって身近な巫女(巫術師)の様な存在です。

 

また「和国の者はいくら教えても教化が進まない」と中国の史書に記されてましたが、

中国人の武力や法律の支配文化が飢から救ってくれない事を、

民は皆知っていました。

 

支配や命令によって従うのではなく、 

 

ただただ

農作物を得るために

日巫女の暦に従って生きていた。

 

「暦を制する者が国を制する」と、云われていた時代です。

日本列島に大陸人の流入が増えてくると、争いが広がり中国式の稲作文化の様な支配が強まりますが、

まだその様になる前の、島国ならではの稲作文化(畑作)の時代、、😌

どこか縄文意識にも通じる様な、遥か昔しの共同体意識を感じる島です。

 


高い場所にある島の聖地

 

 

【百之台展望台】
島で最も高い場所で標高211m、七島鼻から展望台まで百之台と言われるエリアから島の方々を見渡せる。

 

 

 

 

次は、卑弥呼終焉の地 

福岡県へ向かいます・・・

 

 

が、その前に

 

 

✨古代ミステリーロマン✨

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

🌅食物の神【保食の神】の謎🌌

ここから先は、【保食の神】の謎について、

大陸と島国の文化の違いから書いていきます。

『大宜都比売命はヒミコだった!?』

🙏長文です。

ヒミコは古事記・日本書記には一切登場しないので、素直に考えれば大和王朝の日本統一以前の事ですので、別の王朝の話しの様です。

通常、邪馬台国のヒミコと大和王朝を結びつけて考える時は、神功皇后や天照大神などがヒミコと結びつけられ、天照大神の別称【大日霊貴】がヒミコとされたりしてますが、大宜都比売命というのはあまり聞いたことがありません。😌

マイノリティー説ですが、食の神様から考えてみます。

 

 

食べ物の神である【保食の神】三神

◆大宜都比売命(イザナキ・イザナミの子)保食神社など

◆豊受姫大神(イザナキの孫・和久産巣日の子)伊勢神宮など

◆宇迦ノ御魂神(イザナミの孫・スサノオの子)稲荷神社など

 

 

【保食の神】(大宜都比売命)は、古事記・日本書記によれば、

けっこうエグい書かれ方をしてますが、、😔食を求めたスサノオ命、または月読命に対して、口から吐き出したものを食べ物として出した為に「不潔である!」と怒りをかって斬り殺されたという。

 

食の神様は【保食の神】が一番古く、

大宜都比売命(オオゲツヒメ)

豊受姫大神(トヨウケヒメ)

宇迦之御魂神(ウカノミタマ)が最も新しいと思われます。

 

大宜都比売命・豊受大神・宇迦之御魂

この三神を食べ物の神【保食の神】と言い同じ神様として祭られたり、または大宜都比売命(オオゲツヒメ)が【保食の神】と言われたりしますが、

概ね、稲荷神社、保食神社、伊勢神宮ともに豊受姫大神さまが祭られてます。

 

(神様、漢字多くて疲れますね😌)

ちなみに、秦氏が氏神として崇める【稲荷神社】宇迦之御魂神は南方系で

死肉を喰らうというインドの「ダーキニー」天のこと(ヒンズー教の最高神シバの妃の侍女である夜叉姫)、

屍肉を喰らうジャッカルに例えられたが、日本にはジャッカルがいなかった為にキツネに置き替えられたという。

(なんともBlackな話に聞こえますが、仏教・ヒンズー教に影響を与えたゾロアスター教では火や土が穢れるので火葬や土葬は行わず、鳥葬の様に死体を動物に食べさせる習慣があったそうです、、😳もしやこの人間達は、食物連鎖の頂点に君臨しつつ屍肉を食べる動物に限り循環させている?!😅)

伊勢神宮外宮に祭られている

豊受妃大神のトヨウケヒメの【ウケ】は食物のことで【ヒ】は御魂、

気比神社のケヒも同じ意味合いで、それぞれ食物の神を祭る。

ウケ・ウカは同様に食物そのものを指します。

(一説にウカノミタマは「多くの御魂」という意味アリ)

 

しかし保食神社の

保食=

つまり【保存食】は、

南国系と北方系で、保存法に大きな違いがあった。

 

今でこそ私たちは、クサヤやナンプラーなど魚の発酵食品をスーパーで買うことができるが、

当時、保存食と言えば【干物】しか知らない人々にとって

南国の魚の発酵食品の製法、特に内臓や腸など体の中から出てきた汚らしいと感じるものを原料にして作っている魚醤などは衝撃的だった。 

しかも『米噛み酒』で知られる様に、

南国の発酵食品は、一度、口で噛み唾液でデンプンを糖化させて吐き出し放置し、自然の菌によって発酵させ

【納豆】や【お酒】が出来上がる。

北方の『干物』保食法しか知らない人々には、唾液で分解するという行為も穢らわしく感じられた。

南国でも干物を作ったりしているが、

魚の発酵食品ナンプラーなどの魚醤はやはり南国が圧倒的に多い

高温多湿の南国では干物は作りにくく逆に腐ってしまうので、発酵食品の保存食が北よりも発達した。

(何故か女性の唾液の方が発酵しやすいそうです🙄タイの様にわざわざ美人に噛んで貰う国もあり😮)

小氷期が開けて暖かくなって、干物しか保存法を知らない人々も、南国の発酵保存食の方法を知る必要があったのかもしれない。

斯くして、天照大神の兄弟神らは食料難に備え(或いは食料難があり)南国の保存食を知る機会を得る。

納豆や口噛み酒は中国南部の雲南省が起源と言われ、東南アジア、沖縄、奄美諸島など温暖な地域では広く作られていたが、

魚はワタ抜きした干物しか知らない北の人々にとって、

一度口に入れたものを吐き出して作ったり、魚の腸や肛門まで食材として使うなど😱理解を超える不潔さだ。

 

 

通常の保存食は「干す」が基本で

乾物、干物、の食文化。

たくあん、切り干し大根、アジの干物、煮干し、馴染みの深い日本食ばかりだ。

 

古事記・日本書記でスサノオや月読命が不潔である【保食の神】を殺したという話しは、

朝鮮半島系、日本列島系の神が、

保存食文化の違う

南国系の神を殺したというエピソードです。

 

日本神話に登場する三貴神

天照大神

スサノオ命

月読命、、

スサノオ命が海原を治め、

月読命が『夜の食の国』は、夜の世界を治める国として読む。

これは、例えば太陰暦と太陽暦の暦の違いの様なものか🤔

 

🌘夜の世界で、

月を読むことと星座の運行によって、

『月の暦を作る文化』

☀️南国では太陽を見る日巫女によって『日の暦を作る文化』

 

(暦という字には日があって月ではない様に元々は日の暦だった?🙄)

 

暦を作り、種まきから収穫の時期までを決めて作物の神に祈るという基本的な部分は同じかもしれないが、

 

 

【暦の作り方】と【食料の保存法】が、北と南ではこのようにまるで違っていた。

 

 

暦を制する者が国を制すると言われた時代、、

喜界島の貝の装飾品が、中国の宮廷文化を飾るために輸出されたり、

中国式の支配文化が大勢の渡来人たちによって持ち込まれるよりずっと以前。

神と王や巫女はもっと共同体的であり支配的ではなかった。

 

人々は日巫女の言うことに従うが、

それは日巫女が権力者だからではなく、農作物の収穫のために日巫女の収穫の暦のルールに従う訳で、

王も日巫女自身も農作物を得るための天のルールに従っていた。

 

我々が普通に考える支配者や権力者の王や巫女とは、全く次元の違う原初的な存在だった。

祭政一致していたまだ未分化の時代。

祭りごとと、政りごとに分離する以前の民衆は、

中国式の政治=

いわゆる武力や律令、道徳など中国人の常識が飢えから救ってくれないことを、皆分かっていた。

 

逆に大陸側の特徴である中国式の稲作文化の強大な支配的スタイルは、武力や律令によって定めるところである。

稲作によって食料の備蓄が始まり、

備蓄によって支配者と被支配者が生まれたという説は

【メイド・イン・チャイナ】を指して言う説だ。

 

島国の稲作文化は大陸とは全く違う。

 

大きな違いは、

大陸式稲作文化の基本は不作や飢饉にでもなれば、他国に攻め入り奪ったり奪われたりという攻防があり、常に軍隊や支配に従う必要があった。

逆に、

島国式稲作文化では容易に海を渡り遠い他国に攻め入って奪うこともできず、

大陸文化のように大軍を起こすことも大船団を作ることもままならならず、

肥沃で広大な土地を奪い合うこともなかった。

攻め入られたところで大した備蓄もなかった為に、島の中で皆が自給自足の稲作ルールに従うのが常であり、

狭い島の中で、限りある資源の中で、人々が生きてくためには協力し合い、

島のルール、島の作物ルールに皆が従わなければ、王も巫女も民も生きてくことはできなかった。

例えば沖縄の離島などでは、島で人口が増えすぎて生存可能人口を超えてしまった場合、何人かに崖から飛んでもらっていたという悲しい歴史がある。

 

島で生きる為にはそのような厳しいルールも存在していたが、そうして先祖代々、命が受け継がれてきたのが島国のルールで生存ルールである。

大陸式稲作文化の生存ルールとは違う厳しさがあった。

生きてくことも死ぬこともみんなで協力し合うのが島国式文化のルールだ。

ヒミコよりも、もっともっと古い時代の巫女や王は、干魃など起きれば

柴を積まれて焼かれていた。😱

 

貝の腕輪をつけ、子供は生贄に天に捧げられる事もあった。

権力者になり支配や栄耀栄華を体験する為に生まれてきたのではなく、

王も巫女も、食が絶えぬ様に民の為に生まれてきた魂なのだ。

そして

島には今でも、島の外から渡って来た人は尊敬の念で迎えなさいという教えがある。

戦わず受容する、

支配せず共動するという姿勢が島人の心得で、大陸式の支配と戦いの覇権文化からは想像しがたいが、その方が生存戦略として現実的な時代もあった。

歴史モノというと、映画、漫画、ゲームでも全て戦いや権力闘争を描いた物ばかりで、私達もその覇権文化の偏りに慣れすぎ当たり前になってしまってるので、理解し難いと思う。

 

※話しはそれますが、ちなみに最も理解し難いのは南方稲作文化の子づくり子育てかもしれません。

男性のもとへ嫁入する結婚制度はなく、妻のもとへ夫が通う『通い婚』制度、

多婦多夫制とも言えるおおらかな子づくり(誰が父親か分からなくて良い)

通っていた男達の中から、女性が「この人!」と指名した者が夫となる。

里(コミュニティ)での子育て、

女性コミュニティでの生活の場、

など、😳まるで縄文やレムリアを彷彿させる共同体文化。

太古の生存戦略では、

現代人の様に、交際を重ねお互いをよく知ってゴールインなどしてたら、寿命が尽きてしまう。

生存人口=寿命の長さ=交際の長さ
は、微妙に関係し

意地をはったり執着したりしてるうちに人生は終わる。

点と点で支えるツガイ戦略よりも、面で繁殖を支持する方が有利な時代もあったのかもしれない。

社会扶養、社会責任が発達し、現代の様な個人扶養、個人責任のない世界。

原始的だか、シングルマザーが苦労することもない、、🤔

理解は及ばずとも、短くも広く豊かに分かち合う人生を生きた時代の、人々の意識を感じてみたい。

(レムリア=太平洋に沈んだという伝説のムー大陸にあった国。ラ・ムー・リア=神の大陸の国)

 

中国式の

「貞婦二夫にまみえず」などと一人の男性のもとに女性をしばりつけ離婚を悪とし、貞操を強要し、行き過ぎた男尊女卑など、男権的で支配的な文化とは真逆の文化だろう、、

中国人的な常識が定着する以前の古代日本は母系で、

母戸主・里戸主と言ってリーダーは必ず女性がなっていた。

今でも母国と言い、父国とは言わないのもその女性コミュニティスタイルの名残りかもしれない。

琉球は早くから中国王朝の配下となり大陸式の支配体制は強くなり、

本土でも中国北東部や朝鮮半島から大陸式の支配文化が次々と流入してきて

奄美大島と日巫女はその時代と文化が移り変わっていく節目にあった。

そして南西諸島を北上して来る勢力に押され、次第に北へと逃げていき南国系の文化を持つ集団は九州までたどり着いたが、

しかし同時に中国北東部より高句麗・朝鮮半島を南下してきた支配文化を持つ人たちとそこで鉢合わせになり、

古代原初の共同体的な稲作文化は、ここ日本で幕を閉じ、アジアから消えさった。

祭政一致の文化の終焉。

倒されてしまった保食の神。

食の保存だけでなく、収穫という食の確保も司どる巫女だとすれば、

 

何代目の卑弥呼かは分からないが、

ヒミコそのものが食の神として、

或いは雨をコントロールする水の神として祭られていたのかもしれない。

 

島の人々は、「馬頭観音だ」と言われれば馬頭観音を祭り、

「豊受大神」だと言われれば豊受大神を祭り、

名前よりも、その場所と信仰を大切に今も守り続けている。

 

 

【邪馬台国】奄美大島説について、、

魏志倭人伝の九州の地名比定どおりに、

伊都国=糸島、

投馬国=妻(ツマ)として、

そこから南に水行10日で、

奄美大島に着き

港から女王の都まで陸行1ヶ月としてます。

奄美大島は日本で2番目に大きい島ですが、陸行1ヶ月で内陸の都のある台地に辿り着けるかは分かりません、😔

陸地は毒蛇ハブが支配する、相当ディープなジャングルです。

トンネルが出来るまで島の人も船を使っていた程、歩くのは困難で、

歩くとすれば草地には入らず海岸線をいくのが安全ですが、入江が長細くしかも複雑に入り組んでいて相当な距離になります。🤔

日本列島への渡来には、北ルート南ルートがありますが、古代以前は南から南西諸島を北上してくる渡来人が多かった。

日巫女の一族も、中国江南地方からやってきたという説があります。

許氏という巫術を司る一族は、中国の支配に抵抗しましたが、呉国から排除され海を渡って逃げてきました。奄美大島に着き、喜界島の部族は習俗は違いましたが、日巫女の暦に従いました。

ゆく先々で出会う民達も、日巫女の暦に従って農作物を得る様になり日本列島の九州に伝播していきます。

武力や律令を、布武・宣撫する支配文化ではなく、

あくまでも暦を民に伝え食を保つ為の文化ですので、

従う国々は沢山ありました。

宮はあっても宮廷は持たない、

影響力はあっても支配者ではない、

暦で民を従える存在でした。

(九州の「一大率」の様に将軍や司令官の様な存在は別にいた。ヒミコの一族は九州に上陸した後は、和国の大乱によって女王に擁立された為、伊都国の合流により二重構造か傀儡政権の様になってしまっていた様です。ヒミコ女王とは別に伊都国には王がいて祭政は分離していた。)

 

 

三国志の時代、この巫女集団の存在は中国に知られていて、

魏国はヒミコに金印を贈り、使者ナシメには魏の軍旗と銀印を与え

呉国は南西諸島に向けて船を出し兵一万を派兵しました。

しかし、南ルートからの渡来文化はこれから少なくなり

古代以降は、

朝鮮半島やロシア沿海州方面からの北ルートの渡来人文化が

日本列島の主力となります。

 

(日巫女=卑弥呼)

※中国人は周囲の国々を蔑んでいて

【卑字】と言って必ず卑しい漢字を当て字し直します。

和国=倭国(萎える国)

日巫女(太陽神に仕える女) 

卑弥呼(卑しさをあまねく呼ぶ)ひどい😂

 

 

ヒミコの一族は喜界島に渡り長くは留まりませんでした。

 

 

次は、

卑弥呼終焉の地、

福岡県でまた色いろ考えてみたいと思います😌👋

 

長い話を読んでくださって、

 

ありがとうございました🙏

 


癒やしの島【喜界島】✨

2021-11-24 | パワースポット

【空港前 スギラビーチ】

南西諸島、

沖縄から北に330 km、本土から南に380キロのところに奄美大島がある。

琉球王朝、中国王朝、大和王朝ともやや違う独特の歴史を感じる島。

その奄美大島の向かいにある周囲48 km の小さな島が喜界島。
(奄美空港から15分ほど)

48の神社が祭られている。


喜界島は、沖縄の宮古島と同じ様にサンゴ礁が隆起してできた島、

優しく精妙なオーラに包まれてる様な島で、奄美大島とは更に雰囲気が違います。

 

【八幡神社】

 

【保食神社】

 

こうした、内地にある様な鳥居と社殿がある神社は喜界島では珍しく、殆どは社殿の無い神社で、墓石くらいの大きさの石碑の前に鳥居を立てただけの簡素な神社が島のあちこちにある。

 

【保食神社】

島には保食神社が多く、豊受妃大神が祭られている。

島内48社のうち20社が保食神社だ。

 

 

鳥居は新しいものが多く、石碑だけの神社だったかもしれない。

明治以前の神仏習合の時代は、保食神社ではなく『馬頭観音』として祭られていた。

(神仏習合=神道の神様とは、仏教の神であるとされ、中世〜江戸時代までは仏教の神様に置き換えられていた)

 

【松尾神社】

日本一小さな松尾神社かもしれないですが、信仰の息吹きを感じます。

 

 

【末吉神社】
御祭神 綿津見神 独特の低い鳥居が目印

肥前鳥居より引い。

奇跡の様な絡まり方の木🌴

杉などの大木はないが、神がかっている。

 

 

 

 

【金毘羅神社】
この場所は御殿の鼻といい、全島の巫女ノロが集まり祈りを捧げてた聖地。中世、琉球王朝がここへ攻めいり本陣を構え島は降伏したそうです。

 

 

【高千穂神社】

鳥居も社殿もコンクリート製

 

 

【平氏上陸地】
壇ノ浦の戦いで敗れた平家の平資盛はここ喜界島まで逃げてきて、無事を祈りこちらに天満宮を祭りました。

 

平資盛らが上陸すると、逃げずに迎えた島の娘がいた。

娘は、平資盛の名をいい当てたので何故知っているかと尋ねると、

「夢のお告げで既に知らされていた」と答えたという伝承がある。

 

上陸後の平資盛は源氏の襲来に怯え続け

3年ほど滞在し、本隊は奄美大島の方へ移って行った。

 

境内で、タイミングによっては蝶の群れに出会えます。

1000km も2000 km も海を渡って飛んできたアゲハ蝶たち

 

ちなみに平家の紋章は【蝶】🦋だ。

 

 

『平家は喜界島に上陸しなかった』という説もあるらしいが、

こちらへ2度参拝し、2回とも蝶の群れに出会い🦋🦋🦋🦋

『平家ここにあり』、、と言わんばかりにヒラヒラと舞う蝶達を見てると、

そんな説など微塵にも感じない。

蝶蝶園でも、こんな蝶の群れは見た事がなかった😳

ともかく、驚いたことに、

蝶を紋章とした平家が創建したこの神社だけ、

蝶の群れが舞っています。

 

 

【クッピー神社】

クッピーは沖縄の神様

もはや神社とゆ〜より、どちらかのお宅の通用口の様😌

 

 

【雁股の泉】
保元の乱の後、伊豆大島に島流しになった源為朝が、島を脱出し琉球を目指したがこちらに着いたとのこと。

源為朝が、時化に遭い船上から雁矢を射たところこちらに突き刺さり、

引き抜くと泉が涌いたという伝承が語源である。

 

 


宮原山【出口王仁三郎碑】

宮原山という地名はなく『鳥の山』


この場所は、坂嶺の【保食神社】の上にあり奥宮の様にも感じました。

 

 

 

【厳島神社】

 

【住吉神社】

島だけに、海の神様が沢山祭られています。

 

 

【魔法の木】
石と木が融合した不思議な木。

 

 

【ヤギ】

平家上陸地の方にいくと放し飼いで、車が来ても普通に道路に座ってる

クラクションを鳴らしてやっと仕方なさそうにどいてくれた😅

 

 

 


△▼△▼△▼△▼△▼△

喜界島のお話し😌☝️

『喜界島』と『鬼界ヶ島』は名前は似てますが違う島、、

喜界島は沖縄の宮古島と同じ様にサンゴ礁が隆起して出来た島で火山どころか山も無いよーな島ですが、

『鬼界ヶ島』はいつも硫黄の臭いがする噴煙がもうもうとした島で、喜界島から300㌔ほど北へ行った鬼界カルデラ海底火山方面の島だった様です。

 

喜界島には、7000年前縄文時代初期から人々が住んでいて遺跡も沢山発見されていますが、使われてた石器は全て喜界島の外から持ち込まれたものでした。

(弥生時代の甕棺も少いが発見されている)

中世になると青磁器という、
王族が使うような高級な陶器が5世紀ぐらいにわたって発見されています。

「雲破れるところの空の青」といわれ、中国の秘法の青の上薬を使い作られる『磁器』は世界中の王族が好んで使いましたが、

ヨーロッパではどうしても同じものを作ることができず、当時は大変貴重なものでした。

ヨーロッパでは何百年もかけて東洋の磁器が研究され18世紀になりようやく


『マイセン』が磁器を作ることに成功しました。


このような貴重な青磁器が、何世紀にもわたってこの小さな島で発見されるのは珍しいことです。

歴史的に見ても、

大和王朝と琉球王朝(中国王朝)、

それぞれの影響は薄っすらありましたが島独特の雰囲気は唯一のものでした。

琉球は遠い本州と違い、台湾の先にあった為、大和王朝より中国王朝の支配の方が続いていた。

大和王朝が初めて遣隋使を送った頃に、既に隋は琉球を攻めてましたので、
中国王朝に替わって大和王朝が南西諸島の全てを支配できるようになるのはその約1000年後のことになります。

大和王朝と琉球王朝の間の歴史を踏む奄美大島、

奄美大島と同様に観光を興してこなかった(大人の事情😔)島なので、アクティビティもあまり無いですが、自然の景観と純朴さが残されてます。

奄美大島ともちょっと違う独特の魅力がある島で、優しく穏やかな雰囲気の小さな島でした。

宮古島と同様に🐍ハブはいません

 

いるだけで癒やされる不思議な島✨

 

ヒーリングアイランド喜界島

 

 

 


神仏習合の起源【丹生都姫神社】和歌山県 紀の国一ノ宮

2021-11-10 | スピリチュアル

【丹生都比売神社】にうつひめ神社  

和歌山県かつらぎ町上天野230

【御祭神】 稚日女命
【創 建】 1700年以上前

和歌山県の奈良県との県境近く、紀の川沿いにある標高450mの紀伊山地に鎮座する。

丹生の『丹』とは、朱色の鉄鉱石の『朱』のこと。

鉄の鉱脈のある所には丹生の地名と神社が祀られていて、丹生都比売神社は全国180社ある丹生神社の総本社。紀の国一ノ宮でもある。(一ノ宮=そのエリアで一番の社格の神社)

弘法大師【空海】が真言密教の根本道場を探していたところ、こちらの御祭神である稚日女命の息子が犬に化身して空海を高野山に導いたと言う。

空海は丹生都比売神社の神領であった高野山を借り受けて、高野山真言宗を開山した。

高野山表参道の二つ鳥居が神社境内の入口であり、中世ではこちらの神社にお参りしてから高野山に登ったという。

この丹生都比売神社と仏教の関係のエピソードは、中世の神仏習合の始まりであると云われ、

『神道と仏教が融合した景観』で丹生都比売神社は世界遺産に登録されている。

(神仏習合=神道の神様は仏教の守護神の化身であるとされ、中世〜江戸時代までは仏教の神様に置き換えられていた。※豊受大神→馬頭観音、天照大神→大日如来など)

最初に稚日女命が祭られ、後から他の神々が勧請され社殿は四社ある。(北条政子寄進)

一 稚日女命 機織、農業の神
ニ 高野御子 空海を高野山に導いた神
三 大食都姫 食べ物の神(気比神宮から)
四 市杵島姫 財運と水の神(厳島神社から)

【若宮】 高野山の僧 行勝上人を祭る

【佐波神社】 境内にある地域の神社を合祀した宮

稚日女命は、天照大神の妹で、天照大神の岩戸隠れの原因となったスサノオの乱入に巻き込まれ亡くなった機織りの神様でもある。

(亡くなったのは下照姫では?など…諸説アリ)

何故、こちらでは丹生都姫というのかは不明😔


【稚日女命】は名前が多く、

天照大神の幼名とも、結婚後に

「下照姫」と名乗ったとも云われ

また天照大神の別称とされる『大日靈』(オオヒルメ)であるとも云われます。

(※オオヒルメは、卑弥呼説もあり)

🙄ようするに稚日女命は天照大神に近しい人物ということか、、🤔

鉄鉱の神であり、機織りの神でもあるというのはイメージしにくいが、

鍛冶や機織りなどの殖産を全国に広げた秦氏が崇めている【宇佐八幡宮】に祭られてる神功皇后を

稚日女命が助けたという説話があるので、何か関係があるのかもしれない、、🤔



神功皇后が祭られる壱岐の島に行って以来、このところ神功皇后の由縁の神社に導かれることが多い。

宇佐神宮に行ってからは『姫神』の存在に触れ、

次は、卑弥呼の故郷と云われる

奄美大島へ向かいたいと思います。

あまみきよ~

そしていずれは、

【卑弥呼の終焉の地】

平原遺跡へ、、✈️


百十五社参り【ダイジェスト版】

2021-11-09 | スピリチュアル

【串本奇岩】和歌山県串本 

本州最南端の朝日

 

ここ1〜2年巡った神社が100社を超え、のんびりブログに上げるのが追いつかず「まとめ」て書いてます。

コロナ反動もありGOTOトラベル期に沢山周り、忘れそうなので一度全てリストアップしてみました。😌ブログというよりフォトチャンネルみたいですが、今回は取りあえずダイジェスト版でこれから上げていく神社などの画像を一部ピックアップしてます、、

 

 

【北海道比布神社】

 

【北海道音江環状列石】

 

《北海道》12

  1. 星置神社 
  2. 出雲大社分院 
  3. 阿寒湖アイヌコタン 
  4. カムイコタン神社  
  5. 金吾龍神社
  6. 比布神社  
  7. 伏古神社 
  8. 千歳神社 
  9. 木魂神社 
  10. 白石神社 
  11. 音江環状列石
  12. 大雪山旭岳

 

 

【明治神宮】東京

 

【箱根元宮】神奈川

 

《東日本》36

  1. 岩手県【平泉義経堂】
  2. 福島県【宇奈己呂和気神社】
  3. 福島県【黒沼神社】 
  4. 福島県【青柳神社】 
  5. 宮城県【塩竈神社】
  6. 宮城県【多賀城神社】 
  7. 宮城県【荒脛巾神社】 
  8. 宮城県【陸奥總社奥宮】 
  9. 茨城県【大洗磯前神社】 
  10. 茨城県【息栖神社】
  11. 千葉県【青木八坂神社】 
  12. 東京都【等々力不動】 
  13. 東京都【深川不動】 
  14. 東京都【国立谷保天満宮】 
  15. 東京都【府中小野神社】 
  16. 神奈川【月読神社】 
  17. 神奈川【出雲大社分祀】
  18. 東京都【金吾龍神社】
  19. 神奈川【大綱金毘羅神社】
  20. 東京都【須賀神社】 
  21. 東京都【玉川神社】 
  22. 東京都【明治神宮】
  23. 東京都【田無神社】
  24. 東京都【白山神社】 
  25. 埼玉県【玉敷神社】
  26. 埼玉県【氷川神社】
  27. 埼玉県【星宮神社】 
  28. 神奈川【橘樹神社】
  29. 神奈川【諏訪明神】
  30. 神奈川【寒川神社】
  31. 神奈川【長谷寺】
  32. 神奈川【江ノ島神社】
  33. 神奈川【諏訪神社】
  34. 神奈川【箱根元宮】 
  35. 神奈川【素鵞神社】
  36. 東京都【穴守稲荷】 

【穴守稲荷】東京

 

《中部地方》20 

  1. 無戸室胎内浅間神社
  2. 御室浅間神社
  3. 御室浅間神社奥宮
  4. 小室浅間神社
  5. 新倉浅間神社
  6. 河口浅間神社
  7. 北口浅間神社
  8. 白山奥宮 
  9. 駒ヶ岳神社奥宮 
  10. 駒ヶ岳神社 
  11. 久志日沼前大神宮  
  12. 神神社 
  13. 来宮神社 
  14. 氣田神社 
  15. 気田神社 
  16. 白山比売神社 
  17. 大湊神社 
  18. 三國神社 
  19. 神武天皇神社
  20. 高向神社

 

【河口浅間神社】山梨

 

【新倉浅間神社】山梨

 

【冨士御室浅間神社】山梨

 

【来宮神社】静岡

 

【三國神社】福井県

 

 

《関西地方》20

  1. 丹生都比売神社 
  2. 高鴨神社 
  3. 葛城坐一言主神社 
  4. 高天彦神社 
  5. 名柄神社 
  6. 丹生川上神社上社・中社・下社
  7. 蛭子神社 
  8. 潮御崎神社 
  9. 星田妙見宮
  10. 西宮神社
  11. 廣田神社
  12. 大阪清明神社
  13. 貴船神社
  14. 天河弁財天
  15. 玉置神社
  16. 熊野本宮大社
  17. 熊野那智大社
  18. 那智大滝
  19. 熊野速玉大社
  20. 高倉神社

 

【那智大滝】和歌山県

 

【熊野速玉大社】和歌山県

 

【熊野那智大社】和歌山県

 

 

【丹生川上神社】奈良

 

【丹生川上神社上社】奈良

 

【星田妙見】大阪

 

 

【丹生都姫神社】和歌山

 

奈良県【龍鎮神社】

 

和歌山県【高倉神社】

 

《九州地方》33

  1. 宮地嶽神社  
  2. 大神神社 
  3. 篠栗南蔵院 
  4. 貴船神社 
  5. 八剱神社 
  6. 桜井神社岩戸宮 
  7. 二見ケ浦 
  8. 若宮神社 
  9. 香椎宮 
  10. 箱崎宮 
  11. 警固神社 
  12. 上色見熊野坐神社 
  13. 幣立神宮 
  14. 白川吉見神社 
  15. 三日恵比寿神社 
  16. 志賀神社 
  17. 住吉大社 
  18. 竈門神社 
  19. 太宰府天満宮 
  20. 玉垂命神社 
  21. 玉垂神社 
  22. 水田天満宮(恋木神社)
  23. 月読神社
  24. 岩戸山古墳 
  25. 大神宮 
  26. 新田神社 
  27. 龍宮神社 
  28. 野間神社 
  29. 笠沙宮  
  30. 竹屋神社
  31. 押戸岩
  32. 三女神社
  33. 妻垣神社

 

福岡県【住吉神社】 

 

 

福岡県【宮地獄神社】

 

福岡県糸島【浦姫宮】

 

 

鹿児島【新田神社】

 

鹿児島【龍宮神社】

 

福岡【大神神社】

 

福岡【志賀海神社若宮】

 

福岡県【恋木神社】 日本でただ一つの恋の神社

 

熊本【押戸石】縄文のパワースポット

 

今月は、奄美大島へ。まだまだ紹介しきれない所が沢山ある

聖なる国 日本✨

 

 

本州最南端の夕陽 

和歌山県串本潮岬


ヤマトタケル【草薙神社】〜【加佐登神社】

2021-11-09 | パワースポット

日本武尊(ヤマトタケル)東征の足跡を辿る。

このところ仲哀天皇の妃『神功皇后』とその息子『応神天皇』のゆかりの記事が続いてましたが、今度は更に一代遡って仲哀天皇の父『ヤマトタケル』日本武尊ゆかりの神社を巡りました。

ヤマトタケル火難の逸話の伝承がある

【焼津神社】【玉取神社】【草薙神社】【久佐奈岐神社】と、

ヤマトタケルが亡くなったという

『加佐登神社』へ。

【加佐登神社】 

三重県鈴鹿市の加佐登(能ぼ野)はヤマトタケルの本拠地。

 

日本武尊『ヤマトタケル』は古代3世紀から4世紀頃の英雄で、九州・出雲への征西、静岡・関東への東征を行い日本各地を巡り服属させた。

東征を終え美濃・尾張から戻ったがここ加佐登神社のある場所で亡くなったという。

 

ヤマトタケルの最後は『白鳥』になって飛び去ったという伝説もあり。

(マムシに咬まれた、伊吹山の戦いでの負傷がもと、何処へと去った、諸説あります)

 

目標物もなく少し分かりにくかったですが、

白鳥陵というヤマトタケルの古墳?を目指して。

 

見逃しそうな加佐登神社の入り口😅⛩️

 

参道

 

ヤマトタケル像

何故か?ヤマトタケルを祭る神社では像が多いですが、屋内型の木造は珍しい。インパクトが凄い。

 

 

日本武尊(ヤマトタケル)

 

【焼津神社】

 静岡県焼津市焼津2−7−2

 御祭神 ヤマトタケル 市杵島姫

 

景行天皇の命令で、日本武尊(ヤマトタケル)は東日本へと出征した。

ヤマトタケルは東征の前に、伊勢に立ち寄り斎宮をしていた伯母・倭姫より王家の神剣【天叢雲剣】を授かる。

 

静岡まで来た際、この地の国造がヤマトタケルに計略を謀り、野に火をかけて焼き殺そうとした。ここ【焼津】という地名の語源となっている。

ヤマトタケルは天叢雲剣で草を薙ぎ払い、倭姫より渡されていた「火石」(火打石)で火をつけ向え火を放って難を逃れた。

天叢雲剣(アマノモラクモのツルギ)は以来「草薙剣」と呼ばれる様になった。

 

 

ヤマトタケル像

 

【玉取神社】

焼津神社から朝比奈川の上流へ20 km ほど行ったところにある。

ヤマトタケルが焼津に来た時、

市杵島姫の宝玉という石を二つ「火石」と「水石」を携えてきていて焼津の地に奉じたという。

しかしその後、津波があり二つの宝玉は焼津から朝比奈川の上流にうつされたが、その後もそのままらしく【玉取】の名の由来となり、ここの神明社に祭られたという言い伝えがある。

 

 

【草薙神社】静岡県静岡市清水区草薙349

御祭神 ヤマトタケル

創 建 景行天皇

ヤマトタケルが野火の火難に遭ったのは、焼津ではなくこちらであるとの説があり、

後にヤマトタケルが亡くなった後で父・景行天皇がこの地を訪れここにヤマトタケル(日本武尊)を祭り神剣・草薙剣を収めたのが起源とされる。

(草薙剣は三百年後に天武天皇の命令によって熱田神宮に遷された)

 

参道

 

摂社

この社の前で祈りを終えると、5 kg ほどありそうな折れた枝が落ちてきた。

ドンッ! びっくり(*_*; なにかの合図か?🙏

 

比較的、小さな古墳の様にも見える草薙神社の杜。

 

【久佐奈岐神社】静岡市清水区山切

こちらもクサナギ神社だか、元々は98000社と言われ、この地より

ヤマトタケルが98000人の兵を率いて東へ出征していたことからそのように呼ばれたらしい。

 

 

 

住宅地の中に溶け込んでいる比較的小さな神社。

ひっそりとしている。

 

 

 

 

 

9万8千人の出兵の面影はなく、今は静かに鎮座している。

静岡の神社はどこも氏子さん達と神社の関係が密で、永く地域に根付いていた繋がりを感じる。

かつて、北条早雲が領主となる今川氏親(今川義元の父)を後見していた頃、

「国人・地侍を大切にするように」と子供の頃から泥田に足を浸して百姓の仕事を手伝わせ育てた地域密着型の家風によって、神社氏子の間にも吸収され地域に受け継がれてきたのではないだろか、、?

 

特に、焼津神社は地域の方達の御霊が祀られ、戦没者慰霊御霊社また海難事故で亡くなったかたの慰霊碑は私が今まで見てきた全国の神社の中でも大きいかもしれない。日本最大級

最近は、何故か寒々しい感じもするが、😔

 

日本列島を東西に征覇した英雄ヤマトタケルだが、今はひっそりと鎮座されていた。

ヤマトタケル(和武建・日本武尊)も、

祭られている神社はそう多くはない。

 

 

加佐登神社と同じ鈴鹿市内にある

伊勢の国一之宮『椿大社』にも摂社に祭られていた。

 

 

ヤマトタケル風😂モードで行ってみた、、

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

胡服(=遊牧騎馬民族が着ていた服)

ズボンの裾、膝下あたりを紐で縛る『足結』は胡服の特徴。

足下がヒラヒラとした感じになるのが、なんとも古風で好きだ。

この時代の約千年後には、所謂「チョンマゲ&和服」の日本独自のファッションになってしまうが、古いもの好きの私は千年、二千年前の上古のスタイルがたまらない。

胡服は馬に乗る為に、胡人が着ていた。

中国の優雅な漢服と違って機動力に優れ、騎兵戦に適している。

胡人が着るので胡服と言われたが、胡人とは中国の周りにいた鮮卑、匈奴、烏桓、契丹、突厥などの遊牧騎馬民族の総称で、イラン系のソグド人、ペルシアまで胡人という場合もありかなり幅広く、時代の流行でも胡服は幾つかあり足に脚絆を巻く場合もある。

しかし、人馬一体だった遊牧騎馬民族にとっては、馬上から弓を射るには、手綱ではなく馬腹と足先だけが馬との唯一のコミュニケーションとなるので、脚絆よりもフワッと布で足を包んでいた方が、馬腹を蹴る足の体感の機微が好まれたことだろう。

 

日本に馬を飼う『兵馬』と言う文化が渡来してきたのも4世紀頃、

ヤマトタケルの時代以降の古墳時代からで、馬具や馬の埴輪が登場するようになる。

古代、、日本列島に

後からやってくる渡来部族らは新しい文化や強力な戦法を携えて上陸し、

日本先住の在来部族らを征覇していった。

 

ヤマトタケルは日本武尊または倭武建とも書く。

景行天皇の王子だが、王として即位してたとの説もあり、東国にはヤマトタケルを「倭武天皇」とする伝承もある。(常陸の国風土記)

伊勢神宮の斎宮である伯母・倭姫より神剣『天叢雲剣』を授けられたのが即位の礼であり、東征には王として出征したという。

ヤマトタケルが妃の弟橘媛命を伴い出征していることからもそれが伺える。

古代の遊牧騎馬民族の特徴は、

王は皇妃を伴い出征し、王にもしもの事があれば、
王に代わって皇妃が軍を指揮するのが常で、
王子ならば妃を伴う必要はない。

関東には弟橘媛命を祭る神社もあり、また何れ改めて廻ってみたい。

 

 


神々の島【壱岐島】Ⅴ.古えの神々

2021-11-02 | スピリチュアル

【壱岐の島】

壱岐島の古代の神々を祭る神社をいくつか紹介します。

壱岐島で一番高い岳ノ辻展望台より

【素盞鳴神社】

【水神社】

【比売神社】

【熊野神社】

【韓神神社】

【伊志路神社】

壱岐の島シリーズ6回目の投稿になりますが、一旦これで終わりにしようかと思いまとめて書いてます。

古事記の国生み神話では、イザナミとイザナギが天の沼矛で生み出した8つの島【大八島】が日本列島の始まりとされ、そのうち5番目に誕生したのが伊伎島(壱岐島)であり、

別名を「天比登都柱」アメのヒトツバシラと言う

=「天地を結ぶ路」という意味で、神代からの由縁がある島。

 

【素盞鳴神社】

長崎県壱岐市勝本町布気字明神433

スサノオ神社。創建は不明

水神社の直ぐ近く、山の登頂に祭られている小さな神社。

場所が分かりにくくカーナビではたどり着けなかったが、たまたま現れたご近所の方に道を尋ねたら親切に教えてくれた。神の導き🙏✨

「左に廃屋を見たら右に曲がり急な坂道を上る」という、

説明してもらった通り崩れかかった家があったので目印に曲がり上がる。

山の上と聞いてなかったら、上がるのにちょっとビビるぐらいの道。

 

車で2〜3分道なりにあがった奥に静かに鎮座されていた。

 

 

 

【水神社】

長崎県壱岐市勝本町布気触432


創 建 1200年以上前
ご祭神 早秋津日ノ神(ハヤアキツヒのカミ)

壱岐風土記の丘古墳館の手前で曲がる、素盞鳴神社も水神社方面から上がることができるらしい、、。


 
歴代の天皇や藩主からの崇敬を受けてきた由緒ある神社。

 

 

 

 

 

【比賣神社】

長崎県壱岐市芦辺町中野郷東触277

ご祭神 

栲幡千々姫命(トヨアキツヒメ)=豊玉姫

豊玉姫は海神「綿津見」(ワタツミ)の娘で、海の宮にやってきた天孫ニニギの子である「山幸彦」と結ばれて、ウガヤフキアエズを生んだが三年後に離れた。

『浦島太郎』伝説のモデル。

 

登比川神社と並び祭られている。

比賣神社の方が古く、山頂に合ったものが戦時中にこちらへ移されたらしい

ご祭神

カムヤマトイワレビコ(神武天皇)他三神

ご祭神の【その他三神】は調べても分からない。通常ヒメ神というと=海の女神が祭られていて

綿津見(ワタツミ)の娘「豊玉姫」「玉依姫」か、

宗像三女神の「多紀理比賣」「湍津姫命」「市杵島姫」などが祭られているが、名前は伏せて『三女神』『姫神』として祭られていることが多い。

隣が豊玉姫なので、こちらは三女神かもしれない。

或いは古事記・日本書記には登場しない三女神、

『トヨ姫』『タマ姫』『ヨド姫』が祭られているかもしれない。

 

 

【熊野神社】

長崎県壱岐市勝本町立石南触583-4

ご祭神 イザナギイザナミ

スサノオ尊

事解ノ男 (速玉男命)

 

 

 

公民館の駐車場から入る。静かな雰囲気でとても落ち着いた神社⛩️

 

共に祀られている事解ノ男(事海の男?)は、浦島太郎エピソードにある

失くした釣り針を探しに海宮へ行った山幸彦のことでもあると。

 

 

 

和歌山県の世界遺産【熊野古道】で知られる熊野本宮大社からの分祠のようだが、神仏習合の時代より以前の事のようで?仏教っぽさは無く本来の熊野が感じられます。✨⛩️出雲にある熊野神社と空気感が通じてる。

 

(熊野本宮は神仏習合の時代「インドの仏教の寺院【祇園精舎】の守護をしていた牛頭天王が、スサノオの化身である☝️」とされ、熊野の神スサノオは仏教の守護神牛王に変えられてしまい現在もまだちょっと仏教っぽさが漂っています。🙏😔)

 

 

 

【韓神神社】

加羅国は神功皇后側の国

カラカミ遺跡付近に祭られる韓神神社(😔画像無し)

こちらの遺跡は、国内最古の地上熔鉱炉が発見され、2000年前の製鉄文化がある。

 

韓の神とは、朝鮮半島南端の『加羅』の神のことらしい。

かつて、九州北部から朝鮮半島にかけて海峡文化で栄えた製鉄の民がいた。

2000年前は日本列島と朝鮮半島の間には、明確な国境がなかった

鉄の王キム・スロ(韓国の歴史ドラマ)の時代、、製鉄で海峡文化が栄えた当時の様子が偲ばれる。

 

【伊志路神社】

長崎県壱岐市勝本町立石西触727

道路はたに忽然とある小さな神社です。出雲とも繋がりがあるらしい、

ご祭神

スサノオ命 大己貴命、ツマツ姫 オオヤツ姫 五十鈴依姫

 

 

 

【爾示神社】

長崎県壱岐市郷ノ浦町有安触979

2回目の登場です😌

 

爾示神社に祭られる東風石(こちんだ石)

神功皇后の東風祈願により割れたとされる。

東風と書いて『こちんだ』という読むのは、沖縄独特の読み方。

 

 

 

壱岐の島には新しい神社も増えましたが、古くからの神社も残っていて

時代を超え歴史を感じるスポットです✨⛩️

 

ちなみに、壱岐の島独特の住所表記『○○触』

というのが珍しく最初は違和感がありましたが、

これは室町時代の名残りではないかと思います。室町時代は「触れ頭」という立場の人がいて、中央からの御達示を皆に触れてまわりました。

各触れ頭が伝える、集落エリアをさして「田中触」とか「○○触」とか

呼ばれていたのではないでしょうか😌

 

 

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

沢山全国の神社を巡っているのに、神社密度日本一と言われる壱岐の島は不思議と足が向くことがなかった。

今年の夏至を過ぎたぐらいから急に、

「壱岐の島に行く」という話が上がり、方方の人から

「壱岐の島の神が呼んでいるよ」というメッセージを受けていた。

「来なければ迎えに来る」とまで。😅どんなチャネリングすか?

 

しかし残念なことに、8月に予定していた壱岐の島行きがなくなってしまった。

しばらく落ち込んでいると、突然

「壱岐の島に行きませんか?」というリトリートツアーの誘いがあり

 

「迎えに来るってこういうこと?😳」と思い、二つ返事で OK!

 

その時、そのメンバーと行くというのもタイミングが決まっていたのだろう。

導かれるかのように行った。特に小島神社は印象的だった。

一緒に行った人、島で出会った人、

干潮で潮が引いてる時にしか渡ることができない小さな島での、一期一会の不思議なタイミング。

壱岐の島は、福岡港からジェットフォイルで1時間ほどの島で

そう遠くはないけれど、呼ばれる人しか行けない島。

そんな印象もありました。