日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

自殺統計

2014年06月03日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

自殺者の統計が発表された。

年間自殺者が3万人を2年連続で切って、

ようやく増加傾向に歯止めがかかってきた。

 

そんな中での注目点は、15才から39才の若年層の自殺が

先進7カ国中トップという事だった。

 

名誉な事ではない。

が、それはその世代の生存競争が激しい事の証明でもある。

彼ら世代の事をくだらない根性論や精神論で語るのは

何の意味も救いもないので、

私なりの解釈と勝手な意見を書かせてもらう。

 

今の若い世代は、私やもっと前の世代よりは

能力やアイテムが少ない状態で、我々が向かいあっていたわかりやすい世界より

よりレベルが深くわかり難い、

あいまいな世界に立ち向かって足掻いているのだと思う。

 

それゆえにこういう結果が出安いのではないか。

彼ら世代は全体として、

理解が難しい問題を解く為に生まれてきたのだと。

 

例えはよくないが、あるいみ難易度の高いゲームをやる為に生まれてきた

チャレンジャ-たちと言える。

(運命論者の私の勝手な電波な意見だ。

そういうブログなのでご容赦頂きたい。)

 

人は、その人生を選んで生まれてくるようだから。

私が良い時代を選んで生まれてきたように、

彼らは、生きる事がむつかしい時代を選んできたのだ。

今の時代、日本に生まれた事は地球全体から考えれば、

ひじょうに幸運ではあるが。

この世界この時代の日本しか知らない彼らには、

いとも簡単に、くもの巣にかかるような

簡単に見えて、罠の多い世界に思える事だろう。

 

そんな彼らが、自殺者が多いのはある意味仕方のない事だと思う。

冷酷ではあるが、彼らはリスクを覚悟で生まれてきているのだから。

(本人たちはもちろん自覚はないだろうし、冗談じゃないという

方々がほとんどであろうが、もともと科学的な事を言うつもりないので、

ご容赦を。)

 

こんな私が自殺したい方々にせめてものアドバイスを書かせてもらう。

 

私が覗いてきた世界に照らしてみて言える事は、

肉体的な死は、意識の終わりではないという事だけだ。

残念ながらその先があるのだ。

自殺という形で辛い現世の人生を降りるのも選択肢のひとつではあるが、

肉体がなくなったらなくなるはずの意識がなくならないなら、

自殺を考える時に、

少しは今までとは、考える選択肢が増えるのではないだろうか。

 

別に罰があるわけではない。 意識が残るのだ。

 

だからこそあえて死に急ぐ事はない。

人には寿命があっていずれは肉体死は訪れるのだから。

 

苦しい時をわざわざ選んで肉体を殺すのは

その先の事を思うと得策ではない。

 

死ぬ事で安息を得られるなら良いのだが、

残念ながら、その保障はない。これは科学でも未だ証明できないだろう。

ようは、私の話も科学的な証明はできないが、

体験者が語る的に言える事は、死後世界らしきものの経験を語る人々は、

歴史的にもたくさんいるという事実だけだ。

 

まあ、だったらどちらもソース不明なら、

証言者が多いほうを判断の基準に選んだほうが得ではないだろうか。

 

私は経験的に、死後の意識有り派でかつ寿命運命論者なので、

死ぬまで生きようと思う。

 

何で死ぬかわからないしいつ死ぬかもわからないが、

死を幸、不幸や、善悪、で捕らえるのはやめようと思う。

人は生まれたら死ぬのが当たり前。

 

確かに、不慮の事故や犯罪、過酷な宿命と呼べるような病や戦争で死ぬのは、

悲しみに満ちてはいる。

しかしそういう事を全て含めて人間が生まれてきてこの方、ずっと繰り返しこれからも

繰り返す事なのだから。    生まれるという事は死ぬ事と同じ。最初から決まっている事。

そこに悲や喜を持ち込んでいるのは、人間なのだから。

 

見方を変えれば、生物として情とは関係のない当たり前の事に

肉体を持つ事でよりリアルにそうした感情の体験の色ずけをして

わざわざ悲や喜を意識で体験しているのかもしれない。

 

私の母は子供に先立たれた。

その悲しみや、運命を呪うさまは、子供もとしても

また自分もまた子を持つ身となり、その刹那さや

やり切れなさはいかばかりかであったかと思う。

 

また、中年期に私も中間管理職で自身の能力の限界から

思考停止に陥り、駅のホームで電車に吸い込まれそうになった事もあった。

あの時の感覚は飛び込むのではなく、楽になりたくて吸い込まれそうになったというのが、

近い気がする。

今思えば、そこから先の人生のあると無しを比較はできる。

 

死なかった結果として、その先にまた山有り谷有りの人生が続く事が確認ができた。

ただそれだけではあるが、その事は声を大にして伝えたい。

 

死ななければ、良い事があるとは言わない。

ただ、山有り谷有りの当たり前の人生が続いてゆくだけだ。

でも何かが違うのは、少しは、その景色を楽しもうと思うようにはなれるという事だ。

楽しむと決めれるのは、自分しかいないのだから。

 

命を運ぶ事が運命なら、命を無事寿命どうり運びきって

ゴールのテープを切りたいものだ。