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怖くて美しい溝口健二の『山椒大夫』

2006年09月22日 | 映画
 今年は溝口健二没後50年ということで、BSでの特集や恵比寿での連続上映があった。BS録画で久しぶりに「山椒大夫」を観た。久しぶりというのは、おそらく小学校のとき東映動画の「安寿と厨子王」と併映で溝口の「山椒大夫」を観た記憶があるからだ。もちろんその頃は溝口の名前など知らなかったが。当時は人口5万人程度の田舎町にも会社別で上映館があり、東映専門館、大映専門館、東宝・松竹専門館、外国映画専門館と4館もあった。東映専門館で観たので、大映作品がなぜ併映されたかは定かではないが、今思えばかなりしびれる2本立てであった。

 鮮やかな色彩のアニメ「安寿と厨子王」に比べ、溝口の「山椒大夫」はとにかく怖かった。山椒大夫役の進藤英太郎は当時最高のヒール役者だから、その憎々しさは出色だし、母と兄妹が別れ別れになる船のシーン、脱走者を捕らえて額に焼き鏝をあてるシーン、安寿の入水シーン、みんな怖かった。その記憶がずっとあって、改めて観てみると、やはり怖い。それは、リアリストとしての溝口が、森鴎外の原作「山椒大夫」がもつ幻想性を廃し、徹底的にこの兄妹と母を不幸に陥れる悲劇的ストーリーに組み立てなおしているからであり、それを独特の長まわしが画面に緊張感と官能をもたらし、サスペンスを生み出しているからだった。

 森鴎外の『山椒大夫』(ちくま日本文学全集)も改めて読んでみた。映画の印象が強かったので、「えっ、こんなお話だったっけ」というのが率直な感想だ。小説では安寿は姉、厨子王は弟という設定。西国へ左遷され帰らない父を探しに母と姉弟と召使が旅を続ける場面から始まるのだが、悪い人買いに母と離れ離れにさせられた姉弟の悲劇というより、仏による救済、人としての善や徳を貫くとき仏法の力や仏の加護が運命を開くという道徳的なテーマが扱われている。安寿が母から授かった小さな仏像の力が、常に苦難から厨子王を救うという民話的な設定になっていて、国守となった厨子王が人身売買を廃止すると、やがて山椒大夫の管理する荘園も繁栄するなど、厨子王の徳が強調されている展開なのだった。

 映画では、山椒大夫のもとでとして苦役を強いられる厨子王が、父から授かったこの仏像を「神も仏も役に立たないと」と投げつけるシーンがあるように、小説の民話的な幻想性や仏の力などは排除されている。後半では成人して国守となった厨子王が、山椒大夫一族を捕獲し、解放されたによって屋敷は焼き払われるという、まるで積年の私怨をはらすような展開で、ラストの母との再会で観る者のカタルシスは最高潮となる。

 記憶に残っていた舟の別れのシーンの長いカメラの横移動はやはりすばらしい。安寿の入水はオフィーリアを想起させもして美しい。抱き合う母子のアップからひいて背景の湾と海を捉えて終わるラストショットの美しさに瞳がうるむ。改めてもっと溝口を観なければいけないと思うのだった。

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