ちゅう年マンデーフライデー

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目玉、玉子、キャン玉イメージの奔流「目玉の話」

2006年09月20日 | 
 ジョルジュ・バタイユ著(中条省平訳)「マダム・エドワルダ/目玉の話」(光文社文庫)を読む。

 光文社文庫が外国文学の名作を新訳で出版するという近頃珍しい快挙(暴挙?)に出た。その中の1冊だ。ドストエフスキー、トゥルゲーネフ、ケストナー、カント、サン・テグジュペリなどの名前が並ぶラインナップにバタイユが初回から入ってくるあたり、光文社の意気込みが感じられる。

「マダム・エドワルダ」や「眼球譚」として知っている「目玉の話」は、生田耕作の名訳が定番のように流通しているだけに、翻訳者自身も大きな挑戦であったはずだ。とりわけ「目玉の話」は、古くは二見書房の「バタイユ著作集」の黒い箱の白い背に「眼球譚」と黒文字で記された悪魔的な装丁のイメージが強かったので、「目玉の話」というタイトルの軽さに、むしろ翻訳者の強いメッセージがうかがえるのだった。

 この小説の主題的イメージであるフランス語の目玉と玉子と睾丸の音は似ており、これを日本語に訳すとき「眼球」ではその相似性が表現できないので、「目玉」として「玉子」と「キャン玉」との文字と音の関連性を表現したのだという。それゆえ「目玉の話」とタイトルすることで原書の持つ佇まいに近づけたという翻訳者の解説に、「なーるほど」と思わず膝を叩いたのだった。

「目玉」と「玉子」と「キャン玉」の、その形状の相似から来るイメージの連鎖は、小説の中で洪水のように繰り返されるが、最後に司祭の刳り貫かれた目玉がシモーヌの股の間に収まることでこの「目玉の話」はひとまず終わる。目玉は世界を見る理性の、玉子は生と死の、キャン玉は性(と死)のそれぞれの象徴であるとすれば、バタイユが少年時代に体験した、梅毒がもとで盲目になった父親が椅子に座ったまま放尿するときに見せる玉子のような「白目」、そのイメージが、エロチシズムを発動させることによって、この醜悪にして美しい虚無の小説を生み出すことになったのだろう。改めて新訳で読んで、この美と表裏一体の醜悪さ、アナーキズムは三島由紀夫の「豊饒の海」とりわけ「天人五衰」に連なると思うのだった。

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