ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

最も映画的ではない顔の大泉洋が主演なので期待せず観たら以外に面白かった「室町無頼」

2025年01月27日 | 映画
どう見ても時代劇映画の主役向きではない俳優が図々しく主演など演じているので、よもや観ることなどあるまいと思っていたのだが、東映京都で撮影しているし、入江悠監督が東映京都のスタッフにリスペクトしている発言を読んで、ほかにこれといって観たい番組もなかったので所沢の映画館に出かけてみた次第。

すると思いのほか面白く、時代劇の要である殺陣をカット割りでごまかさずワンシーンで収めているところがよく、迫力ある活劇になっていた。クライマックスの一揆のシーンの集団の描き方も京都の狭い路地を埋め尽くすことで増量感を演出、何よりも松明の光の使い方が秀逸だと感じた。

暗い森の山が鳴動しその奥に灯がぽつぽつとともり始めたかと思うとそれが次第に増えて、一気に光の列となって動き出すという一揆の始まりのシーンは、クライマックスへの導入として見ごたえがあった。惜しむらくはフィニッシュが長すぎたかな。
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まるでトランプ復権を称賛するかのような映画「グラディエーターⅡ」

2024年11月27日 | 映画
土曜日に所沢駅前にできた商業施設エミテラスにあるシネコン「グランエミオ」で「グラディエーターⅡ」を観た。午後の時間帯で適当な映画がなかったのだが、ビートたけしが「面白い」とCMで宣伝していたので観てみたのだった。
監督は今や巨匠のリドリー・スコット。莫大な製作費と物量をかけたことは想像できるし、VFXを多用した古代ローマの街並みの再現や戦闘シーン、全編に流れる感情を高ぶらせるような音楽は、戦闘ものゲームなどが好きな方にはたまらないかもしれない。
ストーリーは奴隷に身をやつした前皇帝の息子が、グラディエーターとして戦いながら、暴君とその側近を倒しローマ帝国のかつての栄光を取り戻そうという、いわば復讐ものなのだが、そもそも美しい日本をとりもどすとか、強いアメリカを取り戻すといったノスタルジックな言説が、いかに今日の分断や差別を生んできたことか。
社会派と言われ権力批判的な視点で映画を作る監督と言われもしたリドリー・スコットだが、この映画の栄光のローマをとりもどす、という主調音は、まさに今日のトランプ復権のスローガンに重なるではないか。
そもそもリドリー・スコットは、弟ですでに亡くなった監督トニー・スコットに比べて映画的な主題には無頓着な監督だ。トニーが遺作の「アンストッパブル」で走る列車をいかに止めるかという、リュミエール以来の映画的主題に挑んで、アクション映画の傑作を、「グラディエーター」に比べれば遙かに低予算で軽々と撮ってしまったのに比べ、兄のリドリーは、コロッセオという円形の競技場を円環運動ではなく単に直線運動にだけで終わらせるというセンスのなさを露呈させた。同じ物量でも60年前の作品、アンソニー・マン監督「ローマ帝国の滅亡」のCGなどに頼らぬ本物の物量で描く、兵士の行進や入城、戦闘シーンに見られる奥行のある画面に比べ、宮殿や地形の高低を生かせない構図のため、奥行きを感じない平坦な画面にみえてしまうのだった。
そんなわけで、「グラディエーターⅡ」は、音楽がうるさいだけの印象しか残らない、残念な映画だった。

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小田香監督「Undergroundアンダーグラウンド」は暗闇と水のゆらぎの映画だった

2024年11月08日 | 映画
東京国際映画祭の正式作品として丸の内ピカデリーで上映された小田香監督のドキュメンタリー「Underground  アンダーグラウンド」を鑑賞。地下空間にこだわったドキュメンタリー映画を制作してきた小田監督が日本の地下空間に取材し16ミリで撮影した作品だ。

アンダーグラウンドというと私の世代は60年代のアングラという言葉が浮かぶ。映画、音楽、演劇、詩など新しい息吹はまさにアンダーグラウンドから生まれた時代があった。作品を観るために暗闇を必要とする映画は、アングラの記憶を今も残すメディアかもしれない。

さて、本作の地下とは主に札幌の地下街の地下世界で撮影したらしいが、冒頭その雨水トンネルに懐中電灯のような光をあてるショットから始まり、一転暗闇に蛍が湧き上がるような映像に変わる。それは、洞窟の貯水池のような暗闇で水面に映像を反射させていて、幻想的な映像がつぎつぎと映し出される。
ドキュメンタリーなのだが、地下世界への案内役としての影を演じる女性(吉開菜央)が登場する。その影とともに私たちは地下世界とそこに染み付いた歴史の記憶を辿ることになる。札幌地下鉄の線路脇の暗闇、巨木の下の防空壕のような地下、石仏が並ぶ洞窟など。戦争中防空壕代わりになった沖縄の鍾乳洞では語り部が戦時中の記憶を語り、土中から人骨を拾う。もちろんその展開は劇映画の語り口とは全く違うので、観客はむしろ提示される暗闇とそこに映し出される映像と強烈なウーファー音に身を浸すことになるだろう。

最後に影はダム湖に沈んだ街へ観客を導く。水が干上がって水中にあった住居の痕跡が現れ、ひび割れて苔がこびりついた地底が露出する。ここもかつては水底にあったという意味でアンダーグラウンドなのだ。

地下水を吸って樹木が育ち汲み上げた水を利用して生活をする私たち。映画は地下と地上を往来しながら、地下世界に堆積する歴史の記憶へ見るものを誘っているように思える。来年2月から全国公開される予定だが、小劇場での上映になるだろう。そうした意味で丸の内の大スクリーンで鑑賞できたことは、特別な映画体験となったが、公開時にはぜひ観ていただきたい作品だ。



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風太郎先生が泣いているぞ! 「八犬伝」の退屈な2時間半

2024年11月01日 | 映画
「八犬伝」は山田風太郎晩年の傑作小説で、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」誕生秘話を馬琴と葛飾北斎の交流を通じて、物語の虚と現世の実の世界を往来しながら、人生の虚実を絡ませて軽妙な風太郎節が展開される。それが映画化されたと聞けば見ないわけにはいかない。

馬琴に役所広司、北斎に内野聖陽、馬琴の妻に寺島しのぶと実の部分を担うキャストは実力者揃い。一方、虚の八犬伝の役者は若手揃いだが、伏姫の土屋太鳳、浜路には、いま引っ張りだこの河合優美、悪役玉梓が栗山千明と女優人もなかなかのもの(なんでも河合優美を使えばいいってもんじゃなかろうよ)。とはいえ八犬士の若手俳優は誰がどれだか分からぬ始末。監督は曽利文彦。小説と同じく実の馬琴、北斎のやりとりと虚の八犬伝の物語が交互に展開する構成だが、2時間半という上映時間はいかにも長すぎる。むしろ馬琴と北斎の交流の実の部分に絞って構成したほうがおもしろいものができたんじゃないだろうか。

八犬伝のパートはVFX多用のアクションシーンが中心で演技も含めいかにも作り物めいている。剣術ものなのだからダイナミックな殺陣が見られるのかと思いきや、細かいカットのつなぎでスピード感を演出する最近の手法は、アクションなきアクションで、殺陣の醍醐味を台無しにする。

一方、馬琴と北斎の実生活のパートは密室の語りが中心で、もっぱら退屈な切り返しショットの連続でおよそ工夫は感じられない。おそらく演技巧者二人の演技を見せたいのだろうが、お粗末なセットでカメラワークは限定されるためメリハリのないものになった。北斎が馬琴の背中を借りて絵を描くシーンは、唯一アクションが生かされたが、何より、折角馬琴の仕事場が二階なのに、予算をケチって二階建てのセットを組まないから階段が出てこない。例えば階段から誰かが転げ落ちるとか、トントントンと駆け上がるとか、最も映画的な上下運動のアクションががあれば、実の部分のシーンはもっと魅力的になっただろう。

レビューでは結構評価は高く、面白いという人には反感を買うだろうが、豪華俳優陣の出演料とVFXに金を使っただけの残念な映画と言ってよく、これが現在の邦画大作の標準形だとすると暗澹たる気持ちになってくるのだった。風太郎先生が泣いている。


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ちょっと期待外れのフュリオサ

2024年09月19日 | アフター・アワーズ
ジョージ•ミラー監督「マッドマックス フュリオサ」は、前作の「怒りのデスロード」が傑作だっただけにかなり期待したのだが、前作の実写にこだわった破天荒なカーアクションとひたすら移動という単純な行為に徹した映像に比べると、CGの作りものの多用やフュリオサの成長物語としての無駄な説明が多くなった分、退屈で2時間半は長かった。手の内はデスロードで出尽くした感じではあった。
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蛇の道はヘビー

2024年09月19日 | アフター・アワーズ
ゆるい坂道をはさんで両脇にアパルトマンが立ち並び、道路脇に車が無造作に駐車されている。そのシンメトリーの道路の真ん中に背を向けてたたずむ一人の女(柴崎コウ)を俯瞰で捉えたカメラがゆっくりと下降していくと、女は反転してカメラの方に歩いて来る。バストショットくらいまでに近づいたとき、カメラは停止し、女はこちら側にいる誰かに「やるのかやらないのか」と強く問う。
黒沢清監督「蛇の道」のファーストシーンは、この滑らかなクレーン撮影で始まり、ここでようやくカメラが切り替わり横向きの男(ダミアン・ボナール)をとらえる。次のショットで再び女の顔に切り替わるのだが、2人の視線の一致は感じられない。ようやく車を間にして2人が向き合っているショットになり、ここではじめてこの男女が向き合って話していたことが分かる。まるでブレッソンのようなカットワークにこの2人が決して相容れないが、何かを企んでいる関係であることを暗示させる見事な冒頭シーンだと言える。この冒頭シーンだけでも今年の日本映画(かどうかわわからないが)ベスト5に入ると思う。
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ミッレミリアのレースシーンがすごいフェラーリ

2024年09月19日 | 映画
フェラーリ社が倒産の危機にあった1957年、起死回生の大博打としてイタリア縦断レースミッレミリアに参戦し、見事に優勝した時の実話を元に、フェラーリの創業者エンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)の経営者、技術者、夫、愛人を持つ男としての多面性を、マイケル・マン監督「フェラーリ」は、マン監督お得意の複数ドラマの同時進行という手法で描く。とりわけ愛人の存在が発覚し、妻ラウラ(ペネロぺ・クルス)に詰問されるシーンは、手前にエンツォ、奥にラウラの2人の顔をとらえ、それぞれ話をする方へピントを合わせることで、2人の断絶の深さを表現し、その後ミッレミリア参戦を決め経営の挽回を図ることに共同経営者の妻が同意したときは、2人が向かい合って話すショットで表すなど粋な演出をする。フェラーリやマセラティ、フォード、ベンツなど当時のレース車を再現し、実際にイタリアの街中を走らせるレースシーンは圧巻で、スピード感とホンモノ感がすごい。さすがマン監督である。車好きは必見。間違いなく今年の洋画ベスト5に入ると断言しておこう。
それにしてもアダム・ドライバーは、ジム・ジャームシュ、デビッド・ロウリーといったインデペンデント系からもマイケル・マンやコッポラといった巨匠にまで寵愛されるのがすごい。グッチもフェラーリも演じているし変幻自在な俳優である。
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新宿七景

2024年08月07日 | 俳句
大鼠轢死伊勢丹裏片蔭に

定刻のごみ収集車七変化

蝮碾く漢方薬局夕薄暑

夕焼けて帝都炎熱地獄かな

寝釈迦棲むガード下こそ夏館

薔薇繚乱「新宿泥棒日記」観つ

夏満月紅天幕なき花園社
(篠209号より)



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予め観ることの不自由さを強いられる映画「関心領域」

2024年06月05日 | 映画

ナチスのアウシュビッツ強制収容所に塀一枚隔てた隣接地に、百花咲き乱れる庭園をもつ邸宅。収容所長のルドルフ・ヘスの一家が住むいわば豪華な官舎だ。カメラは庭全体或いは邸宅全体が見渡せる視線よりやや高い位置に固定され、ヘス一家の日常生活を平坦に映し出す。塀のすぐそこに収容所施設の屋根が見え、さらに奥には焼却炉の煙突が見え灰色の煙を上げ、時には赤々とした炎を伴った煙が立ち昇る。さらに、部屋の中にいても昼夜問わず銃声や人間の悲鳴が聞こえ、ボイラーを炊く低いうなりのような音が通奏低音のように聞こえてくる。



「アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた」
ジョナサン・グレーザー監督「関心領域」のプロモーションの惹句である。興味深い設定だけれど、これでは観る前にネタバレしていることになる。この映画は、予め流通する情報によって私たちに強制収容所隣で暮らす家族の物語として観ることを強いる。映像には映らない(映さない)が観客は強制収容所内で行われている行為を知っている、ということが前提だ。だから、草花に溢れた平和な庭に違和感を覚え、あんな残酷なことが行われている隣でよく平気で暮らせているなと思うはずだ。

映画を観ることの不自由さは、例えば画面の細部やショットのすべてを観客は観ることができないというだけでも不自由だが、この映画ではスクリーンに映る物が、それはアウシュビッツ強制収容所の屋根や煙突ですと予め知らされてしまうことの不自由さを味わうことになる。

私たち観客は、庭や家の全景をとらえる固定カメラのこちら側にいることで否応なく傍観者の位置に置かれることになる。しかし、徹底して傍観者の位置にいることができるかというと、そうではない。ヘス所長は効率よく囚人を焼却する新しい焼却炉を構想し、やがてハンガリーのユダヤ人70万人を収容する計画へつながる場面に立ち会い、ヘスの妻は収容されたユダヤ人から没収した毛皮やアクセサリーを身に付け、子供は人の入れ歯をおもちゃにして遊び、庭師は花壇の土に収容所の焼却炉灰を撒いて花を育てていることを知る。ヘスは所長室にユダヤ人の女を呼びまぐわい、その後、収容所と直結する地下通路で自宅に戻り、地下の作業場の流しで下腹部を洗って寝室に戻ることさえ覗き見てしまう。こうしたエピソードが、家族の日常として次々と挿入されることで、観客は傍観者から共犯者としてこの家族に加担してしまうのである。つまり塀の外を見せない手法を使いながら塀のこちら側で起きていることが塀の外=収容所で起きていることを全て説明しているのである。



塀の向こうの屋根や煙突は本当に収容所なのだろうか、庭に巻かれる灰は焼却炉の灰なのだろうか、ヘスがテーブルに広げて見ているのはユダヤ人を焼却する炉釜の設計図なのだろうか、妻が羽織る毛皮コートは没収したユダヤ人のものなのだろうか。あるいは川遊びをするヘスと子供が人骨のようなものを拾い、慌てて子供たちを川から引き揚げる場面。あれは人骨と灰なのだろうか。いずれのエピソードも「そうだ」とは説明されないが、実は「見せない」ことの説明になっている。「そうだ」と観客に思わせるのは、予めこれがアウシュビッツ強制収容所の隣に住む家族の映画だということを前提にしているからに他ならない。そういう意味でこの映画は観客の視線を予め奪ってしまう極めて不自由な映画なのである。あの煙突は風呂屋の煙突ではなく人間を焼く焼却炉の煙突とほぼ強制的に帰着させられるのである。だから驚きも意外性もサスペンスもない。冒頭の暗闇の画面から一転、明るい川べりのピクニックのシーンにチェンジした時のまぶしさが唯一の驚きだった。



この映画の後味の悪さは、全て観ることの不自由さの強要に起因しているだろう。100分ちょっとの映画の中で、ずっと鳴り続けているように感じるブオーンというボイラーが燃えているような音響に気持ち悪さを感じるのは私だけではないだろう。
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フライシャー監督「ソイレント・グリーン」は人間がいっぱい。

2024年06月04日 | 映画
リチャード・フライシャー監督「ソイレント・グリーン」をシネマート新宿で。1973年の作品で、温暖化と砂漠化、人口爆発で食糧危機の2022年のニューヨークが舞台。ソイレントグリーンとは政府が配給する究極の合成食品。50年後を予測したSFだが、その50年をリアルに生きてきた身としては、これをディストピアと笑えないぞと思いつつも、こんなある意味大テーマをいともB級風味で90分余りにまとめてしまうフライシャー監督の手腕に脱帽してしまう。

もちろんCGなどなかった時代に画面に溢れんばかりの群衆を人力で配し、ブルトーザーですくい上げてみたり、アパートの階段や教会に本当に足の踏み場もないほど人を寝かせてみたり、低予算で最大限効果を発揮できるよう画面に収めてしまう職人技は称賛するほかはない。もちろんセットなど組めないから、ソイレントグリーンの製造工場も既存の複数の工場の内部をつなぎ合わせてSFめいた世界に仕立て上げるあたりは痛快でさえある。

この映画完成の2週間後に亡くなるエドワード・Gロビンソン、名優ジョセフ・コットン、そしてライフルマンのチャック・コナーズが殺し屋で登場して脇を固める。主演のチャールトン・ヘストンも含めこれだけのキャストの誰もが特別な存在に見えないところが、この映画のすごいところかもしれない。
映画館でソイレントグリーンのレプリカ、持ってきちゃって良かったのかは不明。食べられません。


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