ちゅう年マンデーフライデー

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不思議な漱石の磁力、「行人」の海の存在感

2006年03月29日 | 
 漱石「行人」を読み終える。
 登場人物の名前は作品ごとに簡略化していく。「行人」では、登場人物は一郎、二郎、直、貞、Hとどんどん記号化しているようだ。

そもそも漱石は名前とかタイトルに結構無頓着な人だったのではないか。長女は妻が悪筆なので、筆子としたとか、6番目の伸六さんは申年生まれなので人になるようにんべんをつけて伸、6番目なので合わせて伸六だとか、「それから」の書生与次郎は落語の与太郎のもじりだろうとか、凝っているとも結構いい加減ともいえるが、やっぱりなんか適当な感じがして、そういうところが漱石はいいと思う。

 ほぼ3分の2は主人公二郎が一人称「自分」で語る物語で、後半は、Hさんが二郎に宛てた一郎との旅行の報告をつづった手紙形式になる。手紙の終わりが、この小説のエンディングになっているが、こんなに長い手紙は、いくら細かい字で封書にしてもさぞかしボリュームがあろう。当時の郵便料金は結構したという話だから、Hの手紙ほどの分量だと相当な金額だったのではないかと思ってしまう。

「彼岸過迄」「行人」「こころ」は、○○の話とか○○の手紙といった形式で物語の核心が告白される。とりわけ「行人」では、Hによって一郎の思想、不安定な精神の根拠がつづられるのだが、一郎の存在の不安は漱石自身の不安の告白でもある。しばしば漱石の理想の女性のようにいわれる、「坊ちゃん」の清やこの小説ならば貞は、頭と行動が一致した自然な存在として漱石の対極にある。考えなくもよいことを考えなくてはならない存在であること、文明の転換期における知識人の不安に漱石は何故それほどこだわったのだろうか。しかも男女の物語として。

 海が大きな役割を演じている。ことさら海に記号的な意味が付与されているわけではないが、海の場面を映像としてイメージするとき、その海の存在感は圧倒的である。

「彼岸過迄」にしても「行人」にしても、当時の読者はこれをどう受け止めたのだろう。とても前衛的な小説ではないだろうか。「それから」「門」までの物語としてのスタイルを逸脱しているし、何も解決されはしないのだから、読者の読後感は決して爽快ではあるまい。毎日毎日、Hの手紙が続く連載新聞小説というのはなんとも不思議な感じがする。なぜ、大しておもしろくもないこの物語にひきつけられるように読んでしまうのだろう。この漱石の磁力はなんなのだろう。

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