ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

よろめき、姦通、不倫、一番いけないのは?

2005年11月09日 | 
 今年は三島由紀夫が自刃して35年だという。年がばれるけれどあのときぼくはセブンティーン。大江健三郎の「セブンティーン」を読んでいる高校生だった。
 翌日の朝日新聞朝刊1面に載ったテーブルの上に置かれた三島と森田の生首が写った自決現場の写真は衝撃的だった。その日の国語の授業で、三島を敬愛していた国語教師が、開口一番「三島が死にましたな」と落胆した表情でつぶやき、生徒にその感想を聞いたので、ぼくは「文学的な死だと思います」みたいなことを言ったと記憶している。たいした意味はなくいったはずだ。その頃三島の政治的発言にはまったく興味がなかったし、三島のスキャンダラスな振る舞いにも豪華な装丁で出版された「豊饒の海」シリーズも、気にはなったけれどほとんど付き合う気にはなれなかったのだ。三島由紀夫って何者なんだろう、という思いのほうが強かった。

 当時「金閣寺」以外、たぶん三島の作品は読んでいなかったが、三島作品との最初の出会いは中学生の時だった。それは、図書館の自習の時間で手に取った日本文学全集のなかに収められていた小説の1シーンである。男女が裸で食事をしている場面の描写だった。覗き見したようないけない高揚があったはずだ。いま思えば、それは「美徳のよろめき」の1シーンで、不倫旅行にでかけた人妻節子が土屋という男と関係を結んだ翌朝、お互い裸で朝食をとるというこの小説でも重要な場面のひとつだ。

 中学生の時、なぜ三島を選び、しかもなぜこのシーンを開いてしまったのかは分からないが、日本文学全集になぜこんないやらしいことが描かれた小説が収められているのか不思議だったし、三島という作家はなんて助平な人なんだろうと思ったのだった。

 この小説は1957年の発表で、当時はこうした人妻の浮気みたいなのを不倫とはいわず、この小説以来「よろめき」「よろめき族」などといったらしい。もともと「よろめく」も「不倫」も男女の関係を表すことばではなく、不義の男女関係を表す言葉は姦通である。これはだから姦通小説なのだが、まことに登場人物たちの実体に乏しい、容姿だとか服装だとか、その他諸々に具体性が欠けた小説なのである。
 人妻節子の容姿は色が白く足が日本人には珍しくまっすぐ伸びてきれいであまり豊満ではないといくらい。そう、唯一具体的な記述は、常用している香水がジャン・パトゥのジョイということだ。夫に至っては、太り気味というくらいで後はいつも眠っているだけ、不倫相手の土屋にしても具体的な像はあまり描かれない。
 たぶん三島は人間そのものには興味がないのだ。節子は簡単に3度も堕胎する。死へと高まる至福の生を獲得するためには実に肉体を切り刻む苦痛を伴うという後の切腹への傾斜とこれは同じではないか。

 で、最近「美徳のよろめき」を読み直してみると、文体は官能的だが書かれていることは官能的ではない。小説の世界ではとってもいやらしいことをしているけれど、ちっともいやらしくない。何か顔の見えない交合した肉体だけを写した白黒のポルノ写真という感じがするのだ。

 ところで節子という名の人はこの小説を読むとどんな感想をもつのだろうか。ジャン・パトゥのジョイをつけた人妻節子に会ってみたいもんだ。
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