ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

石垣島の闘牛お盆特別興行

2007年08月28日 | アフター・アワーズ
石垣島で闘牛お盆特別興行を観た。プロレス興行よろしく、市内をけたたましい音声で宣伝カーが走っていて、血が騒いだのだ。

闘牛場は郊外の畑の中にあって、円形の闘牛場をコンクリートのだんだんの観客席がぐるりと囲む粗末なものだ。試合開始まで、親子三人の民謡バンドのライブ演奏が会場を盛り上げる。試合は簡単で、2頭の牛が角を突き合わせて闘い、背中を見せて逃げたほうが負け。牛の名前が秀逸で、戦闘パンダは人気大関、タリバンなんてーのもいる。牛の引き手の手綱さばきも試合を左右するようだが、口から白い唾液をたらし、猛々しく目をむいた牛はなかなかの迫力。勝った牛は化粧まわしを着けて場内一周。このときとばかり親子三人民謡バンドが囃し立て、応援団の子供たちが抜群の乗りで島の踊りを踊り、紙吹雪きを散らす。観光客は沖縄らしいこのエネルギーに圧倒され拍手喝采だが、観客席の上段に椅子を並べて陣取った、いかにも地元の濃い顔立ちの男たちは、試合ごと携帯で連絡を取っているようで、観光客とは違った佇まい。なんでも試合ごとに大金が動くのだそうだ。

スケジュールの都合で前半戦だけしか見られなかったが、場外では試合で負けた牛の引き手の青年と胴元らしい男が言い争っていて、いまにも取っ組みあいが始まらんばかりで騒然としていたが、二人が喋っている言葉は島の言葉なので全く分からなかった。

いやはや、場内も場外も熱く燃えた石垣の夜なのだった。
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馬ホルモンな熊本の夜

2007年08月25日 | アフター・アワーズ
昨夜は熊本で馬刺し、たてがみなどの馬ホルモン刺し、さらに馬ホルモンのニンニク炒めを、島美人などやりながら喰いまくり、やはり締めはラーメンというわけで、今朝はいささか胃が疲れ気味。それでも朝飯をしっかりつめこんだせいか体の動きが鈍い。

昼は軽く温かいうどん一杯で済ませ、熊本から福岡空港行きの高速バスに乗る前に、熊本市現代美術館でアティテュード2007・人間の家という美術展を観た。極限における人間の生への態度がテーマらしい。アラーキーの写真、阿部薫の音楽、埴谷雄高の死霊草稿、ハンセン病療養所入所者の作品に海外アーティストの作品などさまざま。舞踏家土方巽のデスフット、ポーランドの作家のレゴで作った強制収容所、辻綾子の大量のほたて貝の殻で作ったオブジェは圧巻。埴谷雄高の本名が般若豊であること、風貌が三遊亭円生そっくりであること、が面白かった。

そんなわけで、いまは熊本から福岡空港行きのバスの中なのであります。今夜は那覇、明日に備えて内臓を休ませよう。
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なんかおかしい、でも、そんなの

2007年08月23日 | アフター・アワーズ
夏の甲子園、ノーアウト三塁だと、なんでみんなスクイズ? なんかへん。24時間テレビでゴールしたキンチャンに、ボケられなかったタカ&トシ、なんかへん。新宿でくそ暑いさなかトレンチコートでたたずんでいた男。なんかへん。白のブラウスに黒の下着まる透けで歩く女、なんかへん。でも、でも、でも、そんなのかんけーねー。
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日展100年展と黒川の建築

2007年08月22日 | 絵画
 六本木の国立新美術館で開催されている「日展100年展」に行ってきた。最近ますますセレブなトリックスターと化している黒川紀章設計の美術館の建物は、写真で見るより小ぶりに見えるが、バブル時代を髣髴させる壮大な無駄施設という印象だ。美術館というよりイベント施設、体育館の佇まいだが、内部から見ると、平面の連なりが曲面を形成するということが実感できる建物ではある。それと、1階のカフェは生ビールが飲めるのはうれしいが、700円、サンドイッチも650円とちょっとお高い。田舎モン丸出しで言わせてもらえば、国立の施設ならもっと安くしろよ、といいたい。

 展示は、文展、帝展を経て日展に至る日本の美術の100年が概観できるという点では楽しめるものだった。とりわけ明治期の画家たちが驚くべきスピードで西洋絵画を吸収しながら独自性を発揮したこと、洋画の影響受けながら100年で変化してきた日本画の変貌ぶりが堪能できておもしろい。鏑木清方「三遊亭円朝像」のオーラ、無を描く日本画の空間表現はあらためてすごいと思う。瓦だけを描いた福田平八郎「雨」、電信柱と空に凶暴な夏を感じる山崎覚太郎「漆器 空 小屏風」など、はじめて見る作品だが、日本画の多様性に触れることができた。

 ちなみに、和田三造の代表作「南風」は、四人の漁師を描いたといわれるが、画面右側に麦藁帽を被り弱弱しく座っている人物は、ある画家らしい。その方の孫から聞いた話として知人が教えてくれた。確かに、他の三人に比べると佇まいが違うのだった。
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西班牙市場で満腹

2007年08月20日 | アフター・アワーズ
 ときどき行く店に川越の「西班牙市場」というスペイン料理屋がある。お盆の仕舞いの日に食事に行ったらいつになく空いていて、つい身動きできなくなるほど、がつがつ食いまくってしまった。

 店は、関越自動車道の川越インターを降りて川越市街方面へ向かい、脇田新町の信号を左折、今成交差点を過ぎてすぐ右側(徒歩ならJR川越線の西川越の駅から歩いて7、8分らしい)。表に大きなパエリヤのフライパンがディスプレイされているが、実際に営業しているかどうかは外観からではよく分からない。

 でっかい倉庫のような佇まいだが中に入るとびっくりで、2階吹き抜けの店内は、ステンドグラスやスペインタイルで飾られた壁面、スペインの民芸調の椅子やテーブル、陶器で装飾された柱、帆立貝の殻で一面飾られた壁など、ほとんどが手づくりらしいが、それがいかにもスペインらしい雰囲気を作り出している。中央にガウディのサグラダファミリアの模型が鎮座していて、2階は回廊になったカフェ&バー、食後のデザートはこちらへ案内される趣向だが、2階からの眺めもなかなかよい。

 料理は、本場バレンシアのパエリヤ大会で優勝経験のあるオーナーが作るパエリヤが有名だが、モツのピリ辛煮込み、イカの墨煮、オムレツ、生ハム、タコやイワシなどの魚介、肉となんでもおいしくて、オーブンで蒸かしたパンが料理にとても合ってうまい。酒は、サングリヤもいいがシェリー酒がいける。

 インテリアは手づくり感いっぱいだが、店の隣に作業場があり、帰り際に見ると男二人がなにやら丸い大きなテーブルのようなものを作っている。その内の一人が「ありがとうございました」と声をかけるので振り返ると、先ほどまで店内で料理を運んでいたウエイターのお兄さんだった。
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谷中で円朝の幽霊画コレクションを観る

2007年08月20日 | 絵画
 お盆のさなか谷中の全生庵へ三遊亭円朝の幽霊画コレクションの展示を観にいってきた。行きは地下鉄「千駄木」駅から、帰りは谷中銀座を抜けて「日暮里」駅に出た。ゆうやけだんだんから振り返ってみる谷中商店街の風景は東京には少なくなった景観だ。お盆休みなのか店は閉まっていたが、ジャズ喫茶「シャルマン」の看板がなつかしかった。

 さて、この展示は円朝のコレクション50幅が虫干しを兼ねて、本堂横の展示室で公開されるもので、すべて幽霊画というのはなかなか圧巻だ。全生庵は臨済宗の寺で、明治16年に山岡鉄舟によって創建された。円朝は鉄舟と交流があった縁で全生庵に墓所があり、またその幽霊画コレクションも、この寺に引き取られたということのようだ。ほとんどは女性の幽霊で、思いを遂げられず死んだり、非業の死に至ったのは女性のほうが多いということか。それとも、どうせ化けて出るなら女のほうがいいということなのか。応挙の幽霊など、クールな美人だもの。

 作者も円山応挙を筆頭に、飯島光峨、伊藤春雨、月岡芳年、高橋由一、川端玉章など有名無名を問わずバラエティがあっておもしろい。怨めしい顔の怖さでは、応岱の「夫婦幽霊」、伊藤春雨の「怪談乳房榎図」が双璧かもしれない。柳の下に幽霊は定番だが、行灯や蚊帳の陰、香炉の煙にまぎれて立ち上るなど、登場の仕方にもさまざま、幽霊はどんなところからも出てくるものなんですね。暗いところでは振り返ってはいけません。
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古いiPodが使えるFMトランスミッターは

2007年08月10日 | アフター・アワーズ
 お盆になると海も山もどことなく夏の終わりの気配が漂ってくる。山なら日が陰るのが早くなり、朝晩の空気や川の水が冷たくなる。海ならクラゲが多くなるとか、気配が変わってくるものだ。唇を紫色にして川から上がり天を仰ぐと、蜩が鳴いていて、太陽は山に隠れ始めている。熱くなった川原の岩に冷たくなった体を横たえる。太陽をいっぱいに吸った岩の熱が気持ちいい。だが、夏の終わりの気配は、いつもさみしいものだ。さて、これから逝く夏に遊ぼうか。

 そんなわけで、iPodに入れた音楽を車で聴きたいといろいろ検討した結果、ロジテック社のFMトランスミッター「LAT-FM110U」を購入した。ヨドバシで4,980円。1年ほど前、オーディオテクニカの「AT-FMT5」を買ったが、車ではまったく使い物にならなかった。そのためFMトランスミッターについてはその性能に懐疑的だった。雑誌のレポートなどを読んでも出力が小さいとか、ノイズが多いとか満足したとの声は少なかった。

 我が家の車のカーステレオはMD専用、カーナビはHDDタイプだが、SDカード経由でHDDにコピーするタイプ。いずれも手続きが面倒くさい。だから車内の音楽環境を変えるには、豊富な楽曲を収納してあるiPodを使用するのがベストなのだ。だが、使用中のiPodは4つボタンの第3世代タイプ。ドックコネクタが旧タイプなので、ドックコネクタから送信・充電する現在のトランスミッターの主流タイプで使えるものはかなり限られてくる。なにせ、ネットで見ても、ことこのFMトランスミッターに関しては評価が定まらないから、再びだめだったことを考えると、出費は5,000、6,000円程度でとどめたい。

 そんなわけで、いろいろ検討し、結局、iPodとトランスミッターはステレオミニプラグでつなぎ、電源はシガーソケットからとれるもの、さらに使用しながら充電が可能なもので、トランスミッター用LSIとして性能が評価されているローム社製LSI「BH1417F」を搭載しているものということで、ロジテックのものになった。送信周波数は88.3MHzから4段階限定だが、iPod本体の充電はトランスミッターのUSBコネクタが使えるというのが決めてだった。ミニプラグで接続するタイプは、ドックコネクタを使うタイプと違い、本体の充電ができないものがほとんどなのだ。

 で、実際に使ってみると、「AT-FMT5」とは格段の違いで音質・音量がよくなっていた。しかも、ミニプラグ接続だとiPodサイドで音量調節ができるのもよい。ただ、アルバムによって出力する音量にかなり差があり、その理由はよく分からない。とりあえず、FMラジオ程度の音質は得られるので、一応満足のいく結果が得られたのだった。
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60年代ロンドンのファッションがかっこいい『欲望』

2007年08月09日 | 映画
 ミケランジェロ・アントニオーニ『欲望』をDVDで観る。

 ハービー・ハンコックのファンキーなジャズ・ロック、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックを擁したヤードバーズのライヴ、ジェーン・バーキンのモッズファッションと60年代のロンドンのモード満載で、その色彩がすばらしい。とりわけ夜の公園の前で黒い車を止めたカメラマンが漆黒の闇の中に現れるときの艶やかな黒、街頭に照らされた後方の店の赤とその赤が映りこんだ黒の車体をとらえたショットは官能的だ。

 カメラで撮影した現実の断片には公園での男女の逢引の光景が写っている。それは、幸福の風景にも見えるし、ある女優の密会をとらえた写真だともいえる。だが、引き伸ばされた(原題のBLOW-UPは写真の引き伸ばしのこと)写真は粒子が粗くなり抽象化される一方、ある思惑が働くことによって、白と黒の模様でしかない画像は、繁みの影のピストルやら死体に見えてきて、それは殺人の現場写真になってしまう。あたかも現実を切り取ったかのようなリアルな写真では見えないが、拡大され、抽象化された模様の中に真実が浮き出てくるというイロニーで、写真や映画が映し出すと信じられている安易なリアリズムの批判を試みているのだろうか。だが、実際にあった死体が消えていることによって、実は何も起きてはいなかった、カメラは光と影しか写さないのだといっているのかもしれない。

 カメラマンは、モード写真家として人気ものらしいが、モデルを使ったファッション写真には気乗りがしない。下層労働者の生活に自ら潜入しその実態をカメラに収め、あたかも社会派のリアリストであるふりをするのだが、実は彼は現実と交わることはない。下層労働者に成りすまして写真は撮るが、実際にはベントレーのコンバーチブルでロンドンの街を疾駆する金持ちで、モデルにニコンを向けて擬似セックスをしたり、モデル志望の女とスタジオで戯れたりするが実際にはセックスはしない。友人の男女が交わっているのを眺めてはいても。

 フィルムを取り返しに来た公園の女、バネッサ・レッドグレーブが簡単にブラウスを脱ぎ、寝室まで入りかけるのだが、骨董屋から荷物が届いて中断するように、ここでも現実と交わることはない。虚構を生業とする映画監督やカメラマンとは何者なのか、そして、いまあなたが観ている映像にあなたは何を観ているのか、とアントニオーニは問いかける。それにしてもレッドグレーブがクールで、素敵だ。モニカ・ヴィッティもそうだがアントニオーニはこの手の顔が好きなのだ。ただ、バーキンが胸も晒すのに、レッドグレーブは、ブラウスは脱いでも胸は隠し続ける。出し惜しみをしてはいけない。

 ピエロのメイクをした若者のパフォーマンス集団が冒頭とラストに登場する。それは、あたかもこれから始まるお話は、本当か嘘か、現実なのか幻なのかという口上で始まり、最後はさてさてご覧いただいたお話、あなたは何を見たのですかと、観客に見えないボールをアントニオーニが投げ返して終わる、かのようなのだった。
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J.P.マンシェット『殺戮の天使』のエメに惚れる

2007年08月06日 | 
 図書館できれいな本を借りるには、当たり前だがほとんど借りられないで書架に眠っている本を探すことだ。手垢で汚れているのは致し方ないにしても、本をひろげていると、ときどきクッキーのくずかすだとか、なんだか分からない黄色いシミに出くわすと、本を投げ出したくなることがある。だが、面白い本はいつでも書架で静かに選ばれることを待っているものだ。とりわけフランスの現代小説などは、ほとんど手垢のつかない状態でその内容の凶暴さを隠してたたずんでいる。

 ジャン・エシュノーズの近くにあったジャン・パトリック・マンシェット『殺戮の天使』(野崎歓:訳・学習研究社)もそんな1冊だ。こんなところに凶暴な天使がいたとは。

 休日の朝の“明烏読書”で一気読み。明けの烏がカーと鳴いて東の空がしらみ始める頃、一度トイレに立ち、寝床に戻って始める読書を“明烏読書”。開いたのがこの本というわけ。

『殺戮~』はいわゆるセリ・ノワールといわれる暗黒小説で、原題は「fatale」(ファタル)。エメという美人殺し屋が主人公。映画の脚本のような乾いた文体、場面や舞台装置は描写されるが、心理は語られない。冒頭いきなりロングコートで猟銃をぶっ放して仕事を終えるエメ(お前はアントニオ・ダス・モルテスか)。その大胆で簡潔な仕事振りが披露され、読者はいとも簡単にハードボイルドにしてノワールの世界に踏み込んでしまう。そして舞台は、列車で次の仕事場の港町プレヴィルへ。

 エメは、トラブルのにおいを嗅ぎつけると、そこで細工をして対立をけしかけ、紛争に乗じて殺しを請け負い、金をまきあげてトンズラするという一匹狼の殺し屋。生きている価値のないバカは夫といえども殺してしまう。これまで殺したのは7人。列車の個室コンパートメントで、汗と涙を、飯をがつがつ食ってついた口元のシュークルートのソースを、まきあげた札でぬぐい、逗留するホテルで筋トレをし、風呂で汗を流してマスターベーションもする。個室に一人いるときのエメの殺し屋としての孤独感の出し方がなかなか秀逸だ。そして、エメのこのかっこよさに惚れてしまうのだが、街での移動はなぜか自転車。トレーニングの一環なのか、ひたすら自転車で街を走り回る。美人の殺し屋が自転車で息を弾ませながら坂を登る、こういう禁欲的なところに可愛らしさがある。

 缶詰工場の事件をきっかけに利権を貪る街の有力者、警察、マスコミから金を巻き上げて、彼らの目の上のたんこぶである男爵を殺してあげるのだが、本当に街を浄化するならこの有力者たちをやらねばと義侠の人になって、港でみんなまとめて殺してしまおうという展開。まさに殺戮の天使と化すのだが、最後は反撃にあって、自らも傷つくラストシーン。なぜか急に一人称になって、作者が「私は見た」と登場する荒唐無稽さは、まるでジム・トンプスンではないか。私は何を見たのか。朝日と血に染まった赤いイブニングドレスに身を包んで荒野を歩くエメを。

 というわけで、「ニキータ」とか、「キル・ビル」のユマ・サーマン演じるブライドなどの女殺し屋のモデルはエメじゃないかと思えるほどなのだが、金持ちを手玉に取る美貌とか機能性だけではないファッションセンスが必要なところがちょっとちがう。30代のハードボイルドないい女ができる女優って誰かなー。と思いをめぐらす月曜日なのであった。
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ゆもじにおめもじ、しゃもじのあもじ

2007年08月01日 | 
「めもじ」とか「ゆもじ」など、ちょっと意味不明な文字詞というのがある。比較的まだ聞かれるのは、お目にかかるを意味する「おめもじ」。これは女性言葉。で、「もじ」というのは、どーも、ものごとをはっきりいわず「アレ」などと恥じらいをもっていうときに使う隠語のようなものらしい。「かもじ」は、髷につけ足す付け髪、いまでいうウィッグとかエクステンションみたいなもの。「髪に付ける、ほらアレよ。かみもじ、かもじ!」というわけで「かもじ」。スプーンのことを「しゃもじ」というが、これは杓子から来ている。

 なぜ、文字詞が気になったかというと、坂東眞砂子の『岐かれ路』『月待ちの恋』(新潮文庫)という26編の短編集に、「女は湯文字一枚」で、とか「湯文字がめくれて」など、「湯文字」という言葉が頻繁に出てきたからだった。無知を曝け出すようだが、僕はこの「湯文字」が何のことか知らなかった。まあ、腰巻のようなものだろうとは思ったのだが、着物の下に付ける単衣の下着、男なら褌、いわば今日のパンティにあたる女性の下着のことなのだった。いまでも着物を着られる女性には、パンティではなく湯文字を身に付ける方も少なくないらしい。いわゆる柳腰にみえるのだという。昔の女性は湯屋に入るときも着けたりしたらしく、それで「ゆもじ=湯文字」というわけなのだった。

 なぜ、この短編集に湯文字が頻繁に出てくるかといえば、春話26夜と銘打ったこの短編集は、江戸時代の春画に触発されて書かれた官能小説集だから。春画26枚の一つひとつのシーンを題材として、春画に描かれた江戸の大らかで、奔放な性が、想像力を膨らませ、26編の男女の睦ごとの話として匂いたつような筆致で展開される。もちろん無修正の春画がそれぞれの物語の巻頭を飾る。そんなわけで、着物など身につけていないシーンが多いので、必然的に「湯文字」が多くなるというわけ。

 それにしても最初、僕は「湯文字」のことを女性のあそこのことを表す隠語ではないかと思った。なぜかというと「ゆ」という文字が、昔男の子がよく書いた二重丸に縦線の記号に似ているからだった。それにしても歌麿の一重の目のつるりとした顔の姉さん、北斎の構図のすばらしさと顔と見まごう巨大な一物表現など、この時代の日本の絵画の到達点はやはりすばらしい。

 イタリアの監督ミケランジェロ・アントニオーニが亡くなった。94歳。この監督もまた撮れない時代が多かった。合掌。

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