ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

成瀬巳喜男松竹時代のサイレント映画を観る

2022年06月28日 | 映画

松竹時代の成瀬巳喜男監督1933(昭和8)年のサイレント映画「夜ごとの夢」(64分)「君と別れて」(72分)を、池袋の新文芸坐で観る。「夜ごと~」は港町のカフェで働くシングルマザーが、息子を育てながら自立して生きていく困難さを描いたドラマ。「君と~」は、家族を養うため芸妓になった若い女性と先輩芸者の一人息子との恋と苦悩を描いたもの。

成瀬監督3年目の作品だが、すでに30本近い作品を撮っていて、「夜ごと~」では当時のトップ女優である栗島すみ子が主演を務めている。また、「君と~」の若い芸妓を演じた水久保澄子は、若いころの浅丘ルリ子を思わせるかわいらしさで、すっかりファンになってしまった。

両作品で成瀬監督は、様々な撮影技法を試しているかのようで、そのショットが何か生々しい高揚感をもって観るもの刺激してくるのである。「夜ごと~」の父親役斎藤達夫の強盗、逃亡から始まる後半のスピード感のある目まぐるしいカット割り、鏡、橋、水、階段といった成瀬的な主題の展開。「君と~」の電車内の座席に並んだ男女二人を正面からとらえたショットと、その二人を車外からとらえる切り返しの見事さ。光と影のドイツ表現主義的な使い方などなど、2本で2時間ちょっと。最近の映画は2時間を退屈に過ごすことも少なくないが、充実した映画体験だった。

今回の上映は、澤登翠、片岡一郎が弁士。また「夜ごと~」は古賀政男作曲「ほんとうにそうなら」が主題歌になっている。これは赤坂小梅のデビュー曲で、古賀初の三味線歌謡だった。もちろんサイレントなので実際に音は出ないわけだが、おそらく松竹とコロンビアのタイアップ企画だったのだろう。今回の上映では、タイトルのバックミュージックとしてこの歌が使われていたが、歌詞の内容も曲調も映画の内容には全く合わなかった。また、明治製菓もタイアップしているらしく「夜ごと~」では無職の父親の靴底の穴を子供が明治キャラメルの箱で繕う場面や、「君と~」では、電車の中で芸妓の娘と学生が明治チョコレートを分け合う場面があって、かなり露骨なプロモーションが展開されているのがおかしかった。(お菓子だけに)

サイレント映画に弁士がつくというのは日本の独特の文化で、今回は弁士50年のベテラン澤登翠と弟子の片岡が演じた。弁士もいわば伝統話芸として継承していくことはよいことだが、僕はサイレント映画を観るためには、むしろ不要という立場だ。

当日は、中央の席はほぼ満席で、年配の方が多かった。恐らく弁士の話芸を楽しみにしてきた方も多いだろう。しかし、どうしても弁士の口上に引っ張られるし、強制されるのが煩わしいとも感じた。無声で観たかったかな。

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小津安二郎の展示を観に深川へ

2022年06月12日 | アフター・アワーズ

常設なのでいつ行ってもいいのだが、無性に行ってみたくなって、土曜日にいそいそと深川まで出かけた。正確には江東区古石場、江戸時代の埋立地だが、その2丁目にある古石場文化センターの小津安二郎紹介展示コーナーへ行った。小津監督は現在の深川1丁目生まれ。生家付近の清澄通りの歩道橋横には記念碑も立っている。展示は1階の小さなスペースだが、少年時代の写真や作文、習字、江東区とゆかりある作品の紹介、愛用の茶碗や直筆の扇面、色紙、着用していたスーツ、コートなど、いずれも初めて見るものばかりで小津愛に溢れる展示だった。
帰りはセンター横の古石場川にかかる小津橋を渡り、牡丹町の町中華でタンメンをいただく。お不動さんと閻魔堂をお参りし、生家記念碑、小津少年が通った明治小学校などを見て、小津詣を終了したのだった。深川は昼から飲める店も少なくないが、一滴も飲まず伊勢屋のきんつばも買わずに帰ってきた。🤣

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時雨より

2022年06月08日 | 俳句

ふくみ笑ひ                    

 

トルソーの大胸筋や風光る 

朧夜を蹴り上げ踊るタンゴかな

花曇身の上話とめどなく

阿部定のふくみ笑ひや心太

夏の蝶水の匂ひのただ中に

蚊遣火の向かふ三軒一斉に

ステテコに黒革靴で回覧板

秋の蚊や往生際に妻を刺す

裏返すジャズのレコード秋の風

頬杖の石の菩薩や秋の声

言の葉の満つる白露のインク壷

よろめきと不倫のあはひ憂国忌

漱石忌湯船の妻はオフィーリア

雪原を踏むバルザックバルザック

冬椿心字の池に迷ひゐる

(「俳句大学」2号/2016年掲載)

 

福耳

                     

江戸文字のはためいてをり寒四郎

咆哮の舌に溶けゆく六花

戦ふな抱き合へそこに置炬燵

春立ちぬシュークリームをはんぶんこ

在りし日へあとずさりせり春嵐

料峭の夜はG線上にをり

口笛は夜にひよろろと啄木忌

福耳の女のつがふ月朧

夏蝶を追へばニライカナイヘと

戦ありし夏野を鳥はピースピース

風死すや二重らせんの交はらず

白桃の傷つかぬうち手紙書く

西瓜切るための包丁研がれをり

もういいかい風の花野に隠れたる

秋愁のティッシュペーパーへなへなと

(「俳句大学」3号/2017年掲載)

 

霧深し

 

墓守と名に負ふ枝垂桜かな

花の雨ひとつずらしてミサの席

いま生きてゐれば二十歳か鳥帰る

字幕長きゴダール映画亀鳴けり

すめろぎのろくよん分けや聖五月

堅魚木を腹光らせて夏燕

榕樹の月の重さや夏岬  ※榕樹=ガジュマル

鳳梨の熟れて島唄爪弾けり  ※鳳梨=あななす 

目打ちまでうの字うの字の鰻かな

ぐわんぐわんと非常階段雁渡る

秋天へ飛び出してゆく握り飯

霧深し電信柱ぬうと立ち

常念岳の尾根より晴れて根深汁

着膨れて昭和の夜を恋しがり

薬喰して月光を浴びにゆく

(「俳句大学」4号/2020年掲載)

 

 

時雨より

 

時雨より棒のやうなるをとこ来る

温燗といへば熱燗置かれをり

落ちかかる月の遠さよ薄氷  

青狼の声か木霊か冴返る

花の雨ラヂオに雨のやうな音

深呼吸みな青になる聖五月

ががんぼやびんずるさまの膝撫でて

キュクロプスの眼球落ちて昼寝覚

雛罌粟酒場にルドンの眼球かな  ※雛罌粟=アマポーラ

群衆の次第に解けて送舟

野分来て電信柱といふ孤独

磨かれて林檎一つの影もてり  

鶏頭花微熱の残る硝子窓

無花果を割る腑分するやうに割る

はららごを抜かれし腹の赤くあり

(「俳句大学」5号/2020年掲載)

 

裏声のアリア

      

はやぶさの棲まう森へと青田波

神といふ文字を紙魚の喰ひ散らし

蛍狩デウスを祀る村と聞く

金盥尻から沈む蕃茄かな

おいしいつくだにおいしいと蝉鳴けり

脱衣婆が胸をはだけて神の留守     

マスクして姿勢正しく泣いてをり 

大蒜を叩きつぶして虎落笛   

裏声のアリア駆けゆく冬銀河

生憎と妻は留守です竃猫  

転生の世界はからつぽ憂国忌 

寄鍋の進化論めく大家族  

凍月の魚吐く泥のあぶくかな  

花街のいしぶみ牡嵩かな

ピアニスト死す二ン月の空真青

(「俳句大学」6号/2021年掲載)

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谷原恵理子句集『冬の舟』を読む

2022年06月08日 | 俳句

谷原恵理子句集『冬の舟』を読む

 ~揺蕩いのある時空へのまなざし

 

 ◆事の始まりと終わりを詠む

 まず、映画好きの私が気になった次の句から鑑賞してみたいと思う。

  春昼のざらりと映画館の壁

 どこか春昼となじめない不協和音のようなものを、「ざらり」が醸し出す。映画(館)句というものがあるとすれば、掲句はその中でも秀句に入るのではないだろうか。

上映中の映画館(おそらく名画座だろう)に入った作者は、目が慣れるまで手探りで壁伝いに席を探している。春の光に満ちた快活だが気だるくもある屋外に比べ、暗闇でスクリーンの光を頼りに壁にへばりついている私のどこか滑稽な姿。そんな安穏と不安の揺蕩いが、句跨りの「ざらりと映画/館の壁」というリズムの外し方に表れている。

 掲句では、春昼と映画館の暗闇が対比されていて、作者はその闇の中にいる。本来映画館とは映画を「観る」ための場所だが、作者は「観る」のではなく「触る」ことで、自己確認している。「ざらり」という皮膚感覚は、春昼の明るさになじめない作者の心象の表現だろう。光にあふれた春の日の下ではなく映画館の暗闇にいることで、自己の存在確認をしているのである。岩淵喜代子代表は『冬の舟』序文の中で掲句について「どこか揺蕩いのある時空」と述べられているが、暗闇に対比されることで春昼の「揺蕩い」のようなものが増幅され、主体は映画館にありながら春昼という季語が輝きを増すのである。作者も句の主体も季語に対比される側に置くことで、季語を生かす手法は恵理子さんの作句の特徴の一つである。季感の押し付けがないのである。それが、クールで都会的な空気感につながっているように思う。

 次に紹介する句も、季語と他の措辞が対比される取り合わせの構造になっているが、いずれの句もクライマックスや熱狂から外れた時間を詠んでいるのが特徴だ。事の始まりと終わりの静謐だが気だるいひと時。それは熱狂から覚めて自己を見つめる時間でもあるだろう。作者が、事の始まりと終わりの時間を好んで詠むのは、そこが自分のいる時間、自己確認できる時間だからだろう。そして読み手もまた、そうした「揺蕩い」の時間に自己を見出すことが少なくない。恵理子さんの句が私たちをひきつける一つの理由ではないか。この「揺蕩い」こそ恵理子さんの句のキーワードではないかと思うのである。

 

  トランプと籠とサンダル夏館

  閉店といふ帽子屋の夏帽子

  梅雨の雷ホテル小箱のやうに揺れ

  天使の羽ちよつと直してクリスマス

  シュレッダーの飲み込む文字や小鳥来る

  水澄むやもうペディキュアを落とすころ

  囀りや扉を抜けてジャズの店

 

 夏館の句は、接続助詞「と」でつないだ無造作に置かれたトランプ、籠、サンダルの並列が避暑地での遊びを終えた午睡の時間を思わせる。誰にも買われなかった夏帽子、ホテルの一室で聞く雷の後の一瞬の静けさ、これら二句も避暑地の出来事だろうか。

 クリスマスの飾りをパーティの前に直す幸福感。昭和のテレビで観たアメリカのホームドラマのようだ。小鳥来る明るさに対比される言葉を飲み込むシュレッダーの紙を切り裂く音と静寂、ハレの時間の終わりを告げるペディキュア落とし、ジャズ喫茶の音の洪水の前の一瞬の静けさ、いずれもが事の前か後、クライマックスをはずした時間が詠まれている。それは次のような句に際立ってくる。

  セーター脱ぐライブの光落ちる時

 ライブの熱狂の後の虚脱、ライブが終わりステージの光は落ちて暗くなる。その一方で、作者は祭のあとの虚脱から脱皮するようにセーターを脱ぐ。照明の落ちた会場の中で、静かに決意するかのようにセーターを脱ぐのである。これもまた、自己確認の行為に他ならない。「セーター」という冬の季語は、寒い冬の身体を温める衣服としての機能を放棄しながら、「脱がれる」ことで、自己確認を喚起し季語の本位を取り戻すのである。

  黒セーターレノンの歌は雨のやう

 雨のようなジョン・レノンの歌とはどんな曲だろう。「イマジン」だろうか。あるいはジョンの遺作となったアルバム「ダブル・ファンタジー」に収められた「ウーマン」だろうか。黒セーターに身を包んだ作者は、冬の雨のように歌うレノンの声の中に身を潜ませ、揺蕩うているようだ。つまり、季語「セーター」は、作者が暗闇と雨のようなレノンの歌声と同化するためのコスチュームであって、季語の本位を相対化しているかに見える。作者はセーターそのものよりもレノンの歌に温もりを感じている。しかし、そこに同化するためには、赤や青のセーターではなく黒いセーターこそ、自らの存在確認に必要なアイテムなのである。

  蓮根の穴よりパリの灯が見えて

 蓮根とパリの灯の焦点移動が見事な句である。ここでも蓮根は、冬の季語「蓮根(掘る)」の季感を逸脱し、パリの灯をのぞくエトランゼの「レンコンを通してのぞいてもパリはパリなのね」というような幸福感を醸す補助装置となっている。それでも、覗いているパリの灯が澄み切った冬の夜であることを感じさせてくれる。その幸福感と自己確認の装置として、蓮根は機能しているのである。

 ここまで取り上げた句は、奇しくもカタカナ言葉を使った句ばかりになってしまった。作者は都市生活者(避暑は都市生活者のバカンス)で、その現場を生きて自己を見つめ、俳句という形で表出する。自ずとカタカナで表記される事物が素材対象になってくるだろう。季語を他のフレーズとの対比によって相対化する手法も、感動の押し付けがなくクールな都会性につながっている。

 俳句は「いま・ここ・われ」を詠むことだとは、俳句入門の作法としてよく言われることである。しかしそれは作句の作法ではなく、メタ認識を通じていまをよく生きる、その自己表現の一つとして俳句があるということだろう。そうした意味で、恵理子さんの俳句は「いま・ここ・われ」を生きる「人」の自己認識の表現なのである。

 

 ◆サウダーヂ――常ならざるものと永遠の狭間で

 さて、『冬の舟』には、これまで紹介してきたような都会テイストをもった句と対照的に、伝統句を学ぶことから出発した作家らしい、造形力に優れた骨太な自然詠の作品が少なくない。むしろそれが作者の本流だろうか。例えば、

  椿落つ大地に伝ふ波の音

まるで水原秋櫻子の「滝落ちて群青世界轟けり」を彷彿とさせて、読み手を唸らせる。

 

  糸とんぼ生者も死者も好む水

  風やめば水遅れたる蓮の池

  生きてゐる井戸きいきいと冬の寺

 

 いずれも水を主題に生と死、過去と現在へと変わりゆくもの、常ならざるものをとらえようとする作者のまなざしがある。自己確認し生きることをみつめれば、常ならざるものへ引き寄せられていく。それは永遠への憧れと表裏一体だ。常ならざるものと永遠との狭間に揺蕩う存在、それが人間であって、恵理子さんは、その揺蕩いを紡ぎ出す詩人ではないだろうか。それが昇華したのが次の句である。

  眉にふれ淡海にふれ春の雪

掲句は、琵琶湖にいて春の雪に遭遇した情景を詠んだものだろう。眉というクローズアップと淡海の遠景の対比、「ふれ」のリフレーンの調べが降っては溶けてゆく春の雪を私たちに体感させる。眉、淡海という儚いモノクロームの世界を提示しながら、下五で「春の雪」と春の一字を置く転調で、単色の世界に淡い春の色が広がるのである。

 春の雪は淡雪である。だが、掲句は「淡雪」とは言わず、「淡海」という言葉にその儚さを託した。そこが作者の巧みさだ。降っては淡海の水と化していく雪は、戻すことのできない時間の象徴でもある。すなわち、常ならざるものと永遠の狭間に揺蕩う世界である。

 私たちは、ある景色や出来事に遭遇すると、そこに眠っていた記憶が懐かしさを伴って溢れ出ることがある。恵理子さんの句に私は、そんな場面に立ち会った時の郷愁を感じるのである。それは、ポルトガル語でいうサウダーヂ(saudade)のようなものである。

 サウダーヂとは、郷愁、憧れ、思慕、切なさなどを意味するといわれる。取り戻せない時間にであったり、叶わぬかもしれぬ夢や憧れなど、今いる場所からは手の届かぬ距離や時間への思いといえるだろうか。ポルトガルの大衆音楽ファドやブラジルのボサノヴァの主調音こそ、このサウダーヂである。いずれにしろ人が人であるために抱えている切なさや悲しみをサウダーヂという。

 以上見てきたように、都会生活から生まれた句であろうと、自然詠であろうと恵理子さんの句は、冒頭で引用した岩淵代表の言う「揺蕩いのある時空」を詠んでいるように思える。常ならざるものの中で生きる私たちは、どこか永遠を求めて彷徨う船の乗客のようである。恵理子さんの句は、そうした世界へ読む者を誘うからこそ、サウダーヂを感じるのではないかと思う。

(「ににん」2021年夏号掲載)

 

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辻村麻乃第二句集『るん』を読む

2022年06月08日 | 俳句

辻村麻乃第二句集『るん』を読む

 

 本句集には、日常を詠んだ秀句が少なくない。

  珈琲粉膨らむまで の春愁

  母留守の家に麦茶を作り置く

  「追ひ焚きをします」と声する夕月夜

  ポインセチア抱へ飛び込む終列車

  初冠雪二円切手の見つからぬ

 しかし、辻村麻乃という俳人の作家性が現れているのは、句集タイトルになっている「るん」を詠んだ、次のような句ではないだろうか。

  鳩吹きて柞の森にるんの吹く

「鳩吹く」「柞」「るん」の三つの言葉の響きは、懐かしい匂いを纏って、読む者をどこか謎めいた世界へ誘う。

「ハメルンの笛吹男」でも「魔笛」でもよいが、笛は古今の物語において、しばしばあるパワーを呼び覚ます装置として機能する。鳩吹くは秋の季語だが、窄めた両手を合わせ、親指と親指の隙間から息を吹き込んで鳩の鳴き声に似せた音を出すことで、凡そ昭和の子供たちなら経験している遊びだろう。古くは猟師が仲間同士の合図や獲物をおびき寄せるために使ったという。

 掲句は、鳩の笛を吹いたところ柞の森に風が吹くのを感じた、と読める。しかもそれは、チベット語で風を意味する「るん」だという。「るん」は、寂しい秋風でも、木々を激しく揺らすような風でもない。人の体内の気脈にも通じる自然界の「気」の流れに近いものだろう。

 柞(ハハソ)はブナやナラといった落葉広葉樹の総称で、柞の森は、縄文以来の日本の森の姿を伝える空間であり、気を貯める神聖な場でもあった。実際には、作者がたびたび訪ねる埼玉県秩父市の秩父神社にある柞の森と呼ばれる鎮守の森のことだろう。このいわゆるパワースポットで、森に満ちた気を感じながら、「ぽー、ぽー」と鳩の笛を吹いたのだ。すると森の気が動き出し、柞の森と身体が一体になるような神秘的な体験をしたのだろう。「るん」と表現したことで、句そのものが、寂し気な秋の森の景ではなく、人と自然とが交わる生の称揚へと高められているのである。

 本句集には、こうしたスピリチュアルな体験や異界との交信、あるいは日常にある異なった位相の存在を感じさせる句が少なくない。日常の中に異界を見つけ、虚実を織り交ぜながら独自の抒情性を描き出す。作者はそこに、言葉を自由にはばたかせ、自らも自由になろうとしているのだ。

  春嶺や深き森から海の音

  姫蛍祠に海の匂ひして

  夏の雨耳石の破片漂うて

 姫蛍は、水辺に生息する源氏蛍などと異なり鬱蒼とした森や山深い草地などで見られる。山の祠を囲む斜面に広がる蛍の光はさながら夜の海だろう。その地は太古では海だったかも知れない。作者は確かに地層が記憶する海の音を聞いたのだ。耳石の破片が漂う感覚とはめまいに似たトランス状態を思わせる。かつて見た魚の美しい耳石のイメージが、夏の雨のザザーという耳鳴りのような音に導かれ、かつて人類が魚類であった時代の記憶へワープしていったのだ。

 作者は、日常生活でも吸い寄せられるようにして欠損したもの、過剰や虚空に引かれていく。

  周波数合はぬラヂオや春埃

  雛の目の片方だけが抉れゐて

  引鶴の白吸はれゆく空の孔

  電線の多きこの町蝶生まる

  方角の定まらぬまま実梅落つ

  髭男ざらりと話す夜店かな

 二句一章であろうと一句一章であろうと、ここでは見慣れた風景を少しずらすことで作者独自の世界を創り出している。周波数の合わぬラヂオ、片目の抉れ、電線の多き街、方角も定まらずに落ちる梅の実などなど、見慣れた不調和の風景は、シュルレアリストたちが試みた無意識の作品化を思わせる。シュルレアリスムの画家たちが、細密なリアリズムの技法を駆使して夢や無意識を描いたように、写生という方法で、日常の中にある孔や不調和を描き出す。それは作者の無意識の表出に他ならないのだが、いずれの句も言葉を俳句のフレームに閉じ込めることなく、読むものをフレームの外の世界へとおびき出す。そして、いよいよ我々を異界へと誘うのである。

  あはあはと人込みに消ゆ狐の子

  走り梅雨何処かで妖狐に呼ばれたり

 こうした作者が好むファンタジーに、次のような句を並べてみると、日常の可愛らしい姉妹のふるまいも、まるでスタンリー・キューブリクの映画「シャイニング」の双子の少女のように思えてこないだろうか。

  アネモネや姉妹同時に物を言ふ

 

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ゆすらうめ

2022年06月07日 | 俳句

ゆすらうめ

 

白塗りのちんどんや来る街薄暑

そら豆のつもる話に殻積もる

胸襟を開かぬ猫や吊忍

コンセントに生かされてゐる熱帯魚

すがたよき薔薇の名前はピカソとや

夕焼に付すハッシュタグ異邦人

湯をならす脛に菖蒲のこそばゆし

ががんぼのすがる欄間の昏さかな

生垣をのぞきたくなるゆすらうめ

潮騒を向かうに回し夕端居

「篠」201号より


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春遅々と

2022年06月07日 | 俳句

春遅々と

 

青空と麦の二色旗春遅々と

辺境の名を負ふ国や凍返る

つなぐ手と離るる指と春北風

オデッサの階段のぼる石鹸玉

キャタピラの轍幾重に花菫

匍匐して照準の先ひこばゆる

鳥籠を開け北窓を開け放つ

おろしやの火酒割りたる雪解水

春帽子祈りの時は胸にあて

青き踏む風にいちまい鳩の羽

「篠」200号(2022年3月発行)掲載

中村宏「基地」

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