のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ドイツ語とドイツ人気質』2

2006-02-17 | 
今朝ラジオをつけますと
トリノオリンピック 男子フィギュアスケートの模様を中継しておりました。
カナダの選手がクラシックの楽曲をバックに演技しております。

耳をすませば おお、この曲は 
サン・サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』より、ヒロイン・デリラの唄うアリア
「あなたの声に私の心は開く」ではございませんか。

つまりその クラウス・ノミの十八番の曲ではございませんか。
いつもライヴの最後に歌っていたという、『ノミ・ソング』でも映像が使われていた、あの曲ではございませんか!
グッドタイミング、のろ!
そう、これを歌っているときの、ヤツの顔といったら!

Ah! reponds a ma tendresse!
Verse-moi,verse-moi l'ivresse!
Reponds a ma tendre~sse~~! (歓声)のーみー!(歓声)


・・・・・・・・・

>>>>>修理中<<<<<<



失礼いたしました。
暴走いたしました。
そうではないのです本題は。

昨日ご紹介した『ドイツ語とドイツ人気質』
本当に面白く興味深く読ませて頂いたのですが
一点だけ、のろとしては、異を唱えたい点がございました。

即ち、筆者が、日本人が何かにつけ「ごめんなさい、すみません」と言うことを指して
「日本人的な心のやさしさ」と言い、また
「ドイツ人ばかりでなく、欧米人一般にこういうやさしい心はないと思う」とも言っておられる
この点については、のろは首を傾げざるを得ないのでございます。

「ごめんなさい」を言う、言わない は、優しい、優しくない という問題ではなく
社会生活を円滑に営んでいくための、慣習の違い に過ぎぬのではないかと
のろは思うのでございます。

日本では、「まずは謝る」ということが当事者同士の関係を良くし、ひいてはものごとの解決に資する、
という枠組みがあるのに対して
欧米では、「まず互いの正当性/非正当性を明らかにする」ということが、互いの関係とものごとのスムーズな解決に資する、
という、異なった枠組みがある、というだけのことであって
謝らない=優しくないということではないのではないかと。

そも
日本人が一日に幾度となく口にする「すみません、ごめんなさい、失礼します」といった言葉のうち
本当に心から、相手のことをおもんぱかって、つまり「優しい心」で発せられるものが
一体いかほどあるというのでしょう。
ほとんど皆無ではないだろうかとのろは思うのですが
それはのろの邪悪な心を他人様に敷衍しすぎでありましょうか


欧米文化圏の人から見たらば、このような日本の慣行は
ちっともすまぬと思っていないのに「すまない」を連発し、それでもってものごとを
なんとなく解決してしまおうとする不誠実な態度とも思えるのではないでしょうか。
(↑別に 断罪しているわけではございませんで、こういう見方も し得るよ、ということを申したいのでございますよ)

鄭重/礼譲 ということについて
スピノザが 例の如く この上なく冷徹に 定義をなさっているので、ちとご紹介いたしますと。

鄭重あるいは礼譲とは、人々に気に入ることをなし、
人々に気に入られぬことを控えようとする欲望である
(エチカ第3部 定義43)

ああ さすがはお師匠様。抜けば玉散る氷の刃。取り付くシマもございません。

スピノザの言う 欲望 とは、すべてのものに備わっている、自己保存を指向する衝動 が意識化したもの の意です。

繰り返しになりますが
鄭重/礼譲とは、自己保存に資するからこそ、とられる態度であります。
ある文化圏の人々が「すみません」を頻繁に口にする ということは
「謝ることが、謝った当人の自己保存に資する、という文化的土壌がある」
ということを示しているに過ぎないのであって
「謝る」イコール その人々が優しい心の持ち主である、ということを
示しているわけではないのであります。
スピノザスタンスで言えば、ですよ。そしてのろはスピノザスタンスで言っております。

そういうわけで
ことあるごとに「すみません」と言うことを、
「日本人的な心のやさしさ」と評される筆者のご意見には
のろは どうも承服しかねるのでございました。