「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

3つの「柏原」を訪ねる3 近江柏原 ~中山道。柏原宿から鳥居本宿を経て彦根まで~

2013-05-10 23:59:53 | 日記
訪問日:平成25年8月17日(土)
出 発:JR「柏原駅」
到 着:JR「彦根駅」

 JRには、全国に3つの「柏原駅」があり、いずれも近畿地方に在る。兵庫県丹波市の丹波「柏原」、大阪府柏原市の河内「柏原」に続いて3つ目の「柏原」、滋賀県米原市の近江「柏原」を訪ねる。
 
 柏原は、中山(仙)道が美濃國から国境を越え、近江國に入って最初の宿場町である。中山道60番目の宿場町「柏原宿」から「醒井宿」「番場宿」「鳥居本宿」までを歩く。見所の多い素晴らしいコースだと思う。多少の起伏はあるが、概ね緩やかな下り坂で、番場宿から鳥居本宿までは大きく高度を下げる。宿場町に立ち寄りながら歩くので、昔の旅人同様、給水・トイレには困らない。


 朝6時前に自宅を出て、JR大阪駅で東海道線「柏原駅」までの切符(2210円)を購入し、午前7時15分発の米原行き新快速に乗車。米原駅で大垣行き普通列車に乗り換え、午前8時59分、JR「柏原駅」に着く。「柏原」と書いて「かしわばら」と読む。
 

 無人駅。乗り越しは自己申告。日本ならではの風景だろうか。
 

 ローカル線らしい駅前。何もない。
 

 駅前広場には観光案内地図が。ここは中山道「柏原宿」。
 

 柏原駅は、柏原宿の中間にあるため、駅から一旦国道21号線に出る。途中「柏原大師堂」に立ち寄り、今日一日の無事を祈願する。
 

 そして国道を600mほど東(美濃國側)に戻り、途中、ローソンで給水し、宿場の入口へ向かう。遠くに見えるのは伊吹山(1377m)。伊吹山は、さほど高い山ではないが、昭和2年2月、世界山岳気象観測史上第1位、11.82mの積雪が観測され、麓の関ヶ原とともに日本有数の豪雪地帯として知られる。
 

 柏原東交差を左折。東海道線の踏切と交わるところから宿場が始まる。入口に立つ「柏原宿」碑。
 

 旧中山道は、国道21号線の1つ北の筋を走っている。
 

 途中、右側に「照手姫笠掛地蔵」。照手姫とは、説教節と呼ばれる芸能に登場する「小栗判官」に付き添って旅した女性。その照手姫が笠を掛けたと伝わるお地蔵さんだが、小栗判官も照手姫も物語上の架空の人物。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「浜寺から「『織物の町』『小栗街道』を経て『信太の森』へ」参照)
 

 雪深い地方なのだろう。道路には融雪用の散水孔が。
 

 宿場の東口に残る「東見附」跡。見附とは、宿場の入口に建つ番所で、お城の城門のような役割をしたとか。赤坂見附の「見附」と同じだろう。
 

 宿場らし古い街並みが残る。
 

 八幡神社。
 

 境内には「芭蕉句碑」。松尾芭蕉は、元禄2(1689)年、この道を歩いたと言われる。「其ままよ 月もたのまし 伊吹山」。
 
 

 街道は、案内表示が整備されている。
 

 ただ、かつての家屋は、すでに代が代わって個人宅になったり取り壊されたりしており、当時の建物名が表示されている。
 

 

 しかし、古い街並みは比較的良く残されている。
 

 ここは、かつての「京丸屋五兵衛」という旅籠だったようだ。
 

 「本陣」も今は案内板が残るだけ。
 

 幕府のお触れ書きが掲出された「高札場」の跡。浮世絵などには高札場前に群がる町人らが描かれており、かつての町人の識字率は高かったといわれる。
 

 高札場跡横には「市場橋」という小さな橋が架かるが、柏原出身の映画監督「吉村公三郎」の若き日の想い出の橋で、別名「初恋橋」と呼ばれる。
 

 まだまだ古い街並みは続く。
 

 ここは、かつて「巌佐九兵衛」という造り酒屋であったようだ。
 

 「伊吹堂」と書かれた看板が掲げられた旧家。柏原は、灸の艾(もぐさ)が有名であったらしく、ここは艾屋。
 
 
 旧柏原村役場跡。トイレがある。
 

 消防団の車庫も蔵風に作られている。
 

 この旧家は「柏原歴史館」として利用されており、観光案内所や喫茶店がある。
 

 日枝神社。
 

 神社は、木々に囲まれているだけでなく、神々しさからか涼しさ感じる。
 

 「薬師堂道標」。最澄が創立したと伝わる「明星山明星輪寺」への道しるべ。
 

 「御茶屋御殿」跡。ここから、1.2kmほど入ったところに京極家の墓所である「徳源院」という寺院がある。ちょっと道から外れるが、足が軽いうちに脇道へ進むことにする。
 

 徳源院を目指す。熊が出るのか。最近の熊や猪は人を恐れない。わが家の近くでも鹿がよく現れるが、臆病な鹿でさえ車のヘッドライトを浴びながら草を食んでいる。
 

 一応、熊除け鈴と警笛を持ってきたが、相手が逃げなければ、こちらが逃げるしかない。
 
 

 田んぼの真ん中にも芭蕉句碑が。「折り折りに 伊吹を見ては 冬籠り」。遠方が伊吹山。
 

 消防団庫がある「清滝大松明資料館」という建物が見えれば左折。この辺りは「清滝」という地区のようだ。
 

 200mほど参道が続く。「清瀧寺徳源院」。鎌倉時代から北近江を支配した佐々木京極氏の菩提寺だ。京極家は、宇多源氏の流れを組む鎌倉時代以前から近江に発した武家で、いくつか系譜はあるようだが、以前、放映されたNHKの特集では、足利尊氏から織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康と常に時の権力者に仕え、最終的には香川丸亀藩主として明治を迎えたとか。
 

 墓所は上下2段に分かれ、上段には始祖「氏信」から18代「高吉」までの墓が並ぶ。
 

 下段には19代「高次」から25代「高中」までの墓と分家した多度津藩主の塔などが安置されている。
 

 「御茶屋御殿」跡まで戻り、さらに中山道を進む。
 

 宿場の外れの田んぼの中に「柏原一里塚」が復元されている。
 

 一里塚から少し歩くと「柏原宿」碑。ここで宿場を離れる。
 

 途中、「明星山」への道標。
  

 私は、概ねグッズは「mont-bell」で揃えているが、帽子だけはミリタリーグッズの通販「シーザム」で買い求めた米軍仕様の「ブーニーハット」を愛用している。
 

 日除けのほか、ちょっとした雨なら防げるし、折りたたむとタケノコ状になり、ザックのサイドポケットに収納するのに丁度良い。
 

 しばらく進むと中山道の新旧道の分かれ道になり「小川の関」と書かれた碑が立つ。
 

 右の旧道に進む。
 

 旧道の右側は鬱蒼とした森になっている。
 

 大きな石碑が立つところで、国道21号線と名神高速が併走する「梓河内」に出る。
 

 国道より一本入った旧道を進む。
 

 インターチェンジ近くの国道沿いにあるいわゆる「ファッションホテル」に突き当たると国道21号線と合流するが「左中山道」に従い左に入る。
 

 右側に八幡神社。
 

 すぐに「一里塚の跡」。柏原宿の一里塚跡から4kmの地点。碑の横には水道があり、顔を洗いタオルを濡らす。「あ~生き返った。」
 
 
 名神高速に沿って歩き、右に国道21号線と東海道線が現れた所に「佛心水」。旅人の喉を潤すとともに御仏の慈悲により安全を祈願した井戸の跡だ。
 

 そのすぐ隣の高速道路の土手沿いに「鶯ケ端」跡の表示。ここは、かつて西方の展望が開け、京都の空が望めたということから、旅人たちが足を止め休息したとか。
 

 そして坂を下れば旧家前の道がクランク状になっている。「枡形」といい敵の進む勢いを鈍らせるための防衛上の構造であり、ここに東の見附(番所)が置かれていた。ここから西の見附までの八町二間(約875m)が「醒井(さめがい)宿」である。
 

 クランクの角に「醒井宿」碑が立つ。
 

 中山道61番目の宿場町「醒井宿」。
 

 柏原宿と異なり多くの町家が観光客相手の店となっている。
 

 すぐ左側に「加茂神社」が現れる。
 

 古事記によると「ヤマトタケルノミコト(倭武命=日本書紀では日本武尊)」が伊吹山の神を討ちに行ったところ、山の神の祟りを受け病となり、命からがら山を下りて「居寤(いさめ)の清泉」で喉を潤したところ正気を取り戻したという。いくつかある「居寤清泉」の伝説地のひとつが、ここ醒井宿の「居醒(いさめ)の清水」である。
 

 急な階段を上りお参りする。
 

 本殿横から「醒井宿」を望む。
 

 石段を下り街道へ。ヤマトタケルノミコトが座ったという「腰掛石」。
 

 消火栓も町の景観に配意されている。
 

 醒井宿の中央を流れる「地蔵川」は、日本でも有数の梅花藻の群生地で何カ所かの群生ポイントがある。
 

 梅花藻(ばいかも)。キンポウゲ科の水生植物で、水温が年間14℃前後の清流にしか生息しない。
 

 6~8月頃にかけて清流の中で、梅の花そっくりな白い花が咲き乱れる。
 

 地蔵川の流れを取り入れ、冷蔵庫代わりに。それほど清らかで冷たい水が流れているということだ。
 

 梅花藻には、「ハリヨ」という絶滅危惧種の魚が棲む。
  

 米原市の観光パンフを接写。
 

 醒井公会堂。昭和11年の建築。
 

 醒井宿問屋場(旧川口家住宅)。17世紀中頃の建築で、米原市指定文化財に指定されている。「問屋」とは、街道の運送業者のことで、公用の荷物や幕府の御用状の両隣宿までの取り次ぎや宿屋の斡旋などをしたいう。
 

 「本陣跡」は案内表示が残るだけ。
 

 ヤマキ醤油屋。
 

 明治天皇御駐輩所跡。奥は無料駐車場になっている。
 

 地蔵川の流れ。
 

 

 「十王水」。天台宗の高僧・浄蔵法師が開いたといわれる水源。
 

 地蔵川に架かる「醒井大橋(といっても小さな橋)」から「居醒橋」を望む。
 

 分かれ道を左に入ると「西行水」。
 

 奥の岩から清水がこんこんと湧く。
 

 居醒橋まで戻り、先ほどの道を右へ。すぐ右に「旧醒井郵便局」。大正時代の建築。
 

 現在は、資料館として使用されている。
  

 斜め前には「松尾寺政所」。明治26年に建てられた醒井尋常高等小学校の玄関を移築したもの。
 

 しばらく歩くとJR醒ヶ井駅前。時間は、午後0時10分。予定通り「昼時」だ。
 

 
 醒井宿には、旧家を利用した料亭風からcafe風の店など7軒ほどの飲食店がある。私は、醒ヶ井駅近くにある「かなやkitchin」に入ることにした。
 

 そばとマスの押寿司セット(800円)を注文。
 

 醒ヶ井駅前には「醒井水の宿駅」という施設があり、地元の野菜や特産物が売られ喫茶・レストランもある。
 

 施設内には湧き水(飲用可)が。
 

 ここから醒井宿を後に国道21号線に沿って歩く。国道沿いと言っても茅葺きの家が。
 

 途中「一類狐魂等衆」の碑。江戸時代、ひとりの旅の老人が「母の乳を飲みたい・・・」とつぶやいて石垣にもたれかかっていたところ、たまたま通りかかった乳飲み子を抱いた母が乳を飲ませた。老人は礼を述べたあと大金を残して往生したが、母親は「お金はもらえない」と、この碑を残して供養したという。
 

 「河南」という集落から国道を外れ右へ。
 

 無人となった旧家を町が買い取り、憩いの場として提供されている。
 

 

 樋口交差で国道と交わり、左に茅葺きの家が見えれば、名神高速「米原IC口」。信号を渡る。
 

 忠太郎食堂という店が立つ交差点を越えれば国道の右側に「番場忠太郎」の像が建つ。これより「番場宿」へ向かう。
 

 交差点を左折し、高速に沿って歩く。米原JCTの手前で高速をくぐれば「久禮の一里塚」前に出る。
 

 一里塚の右から旧道に入る。建物の木造部分や屋根瓦がレンガ色に施されているのを「ベンガラ塗り」というらしく、今回のコースでよく目にする。
 

 しばらく歩くと「番場宿」碑。62番目の宿場。
 

 米原道道標。明治に入って立てられたものだ。
 

 ここもある程度古い街並みは残っているが、当時の建物の多くは案内表示が残るのみ。
 

 

 

 間もなく浄土宗本山「蓮華寺」の入口に出る。
 

 名神高速の高架をくぐれば「勅使門」の前に。
 

 門の左から境内へ進む。拝観料300円を箱に入れて境内に入る。庭園は花と紅葉の時期が素晴らしいらしい。
 

 斎藤茂吉は、当寺の49代隆応法主と師弟関係であったことから、幾度か当寺を訪れ、境内には斎藤茂吉の歌碑が立つ。
 

 本堂。本尊である「阿弥陀如来立像」と「釈迦如来立像」を祀る。
 

 また、当寺は「番場忠太郎」ゆかりの地でもあるらしい。「番場忠太郎(ばんばのちゅうたろう)」。戯曲「瞼の母」の主人公で映画化もされている。私は見たことはないが名前ぐらいは知っている。忠太郎の生国が「番場」であることから「番場忠太郎」と呼ばれ、ここが「忠太郎の里」とされている。本堂裏には「番場忠太郎地蔵尊」が立つ。
 

 架空の人物であるが「忠太郎の墓(五輪塔)」まである。
 

 五輪塔を囲む石柱には往年のスターの名が。やはり、街道筋には遊郭や賭場などが置かれ、それらを縄張りとした親分衆や旅のやくざ者を主題とした物語や映画が多く作られたのだろう。
 

 五輪塔横には、樹齢700年と言われる巨木「一向杉」。一向上人に因んでの古木だろう。高さ30m、周囲5m。抱擁されそうだ。
 

 また、ここは南北朝の古戦場でもある。元弘3(1333)年5月、京都合戦に敗れた六波羅探題北條仲時公は、北朝の天子光厳天皇を奉じて番場宿に逃れたが、足利尊氏に攻められ当寺境内で家臣432名とともに自刃。深く同情した3代住職同阿上人が過去帳に記し、432名の墓碑を建立した。
 

 さらに中山道を進むが、ここから鳥居本駅まで自販機がないうえ峠越えとなるので、蓮華寺前の自販機で余裕を持って水分補給をしておくこと。
 

 番場宿を後にする。
 

 ここから名神高速沿いに小磨針峠までダラダラ坂が続く。
  

 少し色付いた田んぼ越しに伊吹山を望む。
 

 小磨針峠付近で名神高速はトンネルに入る。
 

 特に表示はなかったが、小磨針峠付近に地蔵尊。すぐ横に湧き水が引かれていたが、飲めそうになかったのでタオルを浸す。
 

 高速道路の標識を見ると彦根市に入ったようだ。
 

 しばらく歩くと分かれ道に出るが道標に従って右へ。
 

 すぐに集落が見えてくる。
 

 ちょうど時期的に行く先々で地蔵盆が見られた。
  

 坂を登り切ると左に鳥居が見えてくる。磨針(すりはり)峠だ。昔、青年僧が修行に挫折しかけてこの峠にさしかかった。老婆が砥石で鎌を研ぐ姿を見て問うたところ「たった1本の針が折れたので、鎌を磨いて針を作っている」と聞き、自分の未熟を恥じ、さらに修行に励んだ。それが後の弘法大師だと伝わる。
 

 鳥居の奥には「神明宮」。
 

 境内の展望台からは、遠くに琵琶湖が見える。ここから一気に高度を下げる。
 

 ヘアピンカーブの道を下る。
 

 途中で一直線に旧中山道が貫くが、こんな道。
 

 蛇と獣が出そうだったのでアスファルト道を進む。
 

 国道8号線と合流する。今来た道を振り返る。ガードレールの右が今歩いた道。左が旧道。
 

 しばらく国道を歩き左へ。「おいでやす彦根市へ」の像。
 

 63番目の宿場「鳥居本宿」。
 
 
 虫籠窓の旧家が続く。
 

 茅葺きの旧家も。
 

 クランクを曲がると、一際立派な旧家が現れる。 
 

 赤玉神教丸本舗。今も薬屋さんのようだ。
 

 ここも「枡形」になっている。宿場の入口なのだろう。
 

 赤玉神教丸本舗横の路地を抜け、一旦国道8号線を渡ったところに「上品寺梵鐘」。
 

 再度、中山道に戻る。立派な旧家。今はデイケアセンターになっているようだ。
 

 ここも「本陣」「脇本陣」は、案内板が残るだけだ。
 

 

 本陣、脇本陣跡前の路地を右に入り、国道8号線を渡ったところに近江鉄道「鳥居本駅」が建つ。
 

 昭和6年開業当時の姿に再建されているレトロな駅舎である。駅前の案内板には、連続184時間のピアノコンサートが開催されギネスブックに認定されたとの説明がある。
 

 近江鉄道は、滋賀県東部を走る私鉄である。ローカル線だが、彦根や多賀大社、近江八幡など超一級の名所を結ぶ観光鉄道だ。
 

 ホーム側から駅舎背面を望む。
 

 中山道に戻る。
 

 鳥居本宿は、雨合羽の製造地であったらしく、当時の看板を掲げた旧家も残る。
 

 静かな街道筋。
 

 専宗寺が見えれば宿場町の終わりも近い。聖徳太子開祖と伝わる真宗本願寺派の古寺。
 

 民家の玄関先には現役の井戸。
 

 途中、三叉路の角に文政10(1827)年に建てられたという「彦根道道標」が立つ。中山道の脇街道として整備された彦根まで続く道であるが、かつて朝鮮通信使が通ったことから「朝鮮人街道」とも呼ばれている。
 

 彦根道には進まず中山道を行く。この辺りも雪が多いのだろう民家の軒は深い。
 

 一旦、集落を抜け、右に東海道新幹線、左に名神高速を見ながら進むと「小野」という集落に出る。
 

 ここもかつては宿場町であったようだ。
 

 「小野こまち会館」。そうここは、小野小町ゆかりの地なのだ。「小野小町」六歌仙のひとり、平安時代の女流作家で絶世の美女といわれる。出羽國の生まれと言われるが、恋多き美女故、多くの伝説があるらしく、ここ小野町では、小町の父とされる人物が小野宿に宿泊した際に迎えた養女が出羽で成長したとの伝説があるらしい。
 

 中山道を進む。この集落は、外便所が川沿いに設置されているらしく、このような便所がいくつか見られた。ゴミステーション名として「○○○○宅便所前」と表示されていた。
 

 そう言えば何となく懐かしい「香り」が漂っている。いくつか「便所跡」と思われる更地もあった。
 

 小野集落を抜けると「八幡神社」参道への石灯籠が並んで立つ。鳥居は、新幹線のガードをくぐる。「八幡神社」が多い。八幡信仰が広まったのだろう。
 

 新幹線の車窓から何回か眺めた「気になっていた」神社だ。
 

 早速、鳥居をくぐる。立派なお社が鎮座していた。
 

 神様も毎日新幹線を眺めているのだろう。
 

 お参りを終え中山道に戻る。新幹線と名神高速が合流する手前の左側。ちょうど高速道路の土手下に地蔵尊。15世紀ころに建立された地蔵尊で小町地蔵と呼ばれ「小野小町塚」として信仰されているそうだ。
 

 中山道が新幹線をくぐる(というより新幹線が中山道を跨ぐ)。
 

 途中「原八幡神社」に出れば彦根方面に進路を取り中山道と分かれる。何やら鳥居にかかるしめ縄が低い。中では地蔵祭りが行われていたが、何か謂われでもるのだろうか。鳥居をくぐってはいけないということだろうか。
 

 彦根インターチェンジ横を抜ける。
 

 インターチェンジから彦根市内を結ぶ国道306号線沿いに進み、外町交差点で国道8号線に右折してゴール目指す。
 

 午後4時35分、JR彦根駅(東口)にゴール。本日の歩紀「36774歩」(31.62km)。午後4時53分発、播州赤穂行き新快速に乗車。大阪駅まで1時間20分(1890円)。
 

 ここは、近江鉄道との共同駅舎となっており連絡通路上から近江鉄道の車庫が望める。
 

  

 
 
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3つの「柏原」を訪ねる2 河内柏原 ~高安山麓を東高野街道に沿って~

2013-05-04 23:52:27 | 日記
訪問日:平成25年6月8日(土)
出 発:近鉄電車「道明寺駅」
到 着:近鉄電車「服部川駅」

 旧河内國。現在の大阪府東部で古代から物部氏の勢力が強かったといわれ「北河内」「中河内」「南河内」に分かれる。東部に連なる生駒・葛城・金剛山系は、河内平野が内海であったころから人の営みが行われていたところで、読み方にも窮するような古い神社が点在する。前回の丹波「柏原」に続き2つ目の「柏原」、中河内南端に位置する大阪府柏原市を訪ねる。

 後に開かれた東高野街道(旧国道170号線)に沿って北に向かい「八尾市」まで歩くが、車を避け、山沿いの集落を歩くため意外と距離が伸び、起伏もある。特に古社・古刹は山中にあるので、急な坂道や石段は覚悟しておくこと。コンビニ・自販機は適度にあるが、トイレは寺社の参拝客用トイレがあるくらいだ。


 JR「柏原駅」。天王寺から約15分(210円)。「かしわら」と読む。
 

 JR大和路線の途中駅であるが、近鉄道明寺線の始発駅でもある。左のグリーンの車両がJR、右が近鉄電車。今日は、この駅がスタートではなく、近鉄電車で道明寺駅まで向かう。
 

 柏原駅から2つ目、約5分(150円)で終点「道明寺駅」に着く。営業距離2.2kmの支線で南大阪線とつながる。ここは大阪府羽曳野市。この駅をスタートとしたのは「玉手山公園」を訪ねるためだ。
 

 駅南側の踏切を越え、真ん前の石川堤防に。すぐ右前方に吊り橋が見えてくる。玉手山遊園地(当時)への通行路として昭和3年、石川に架けられた全長150m、歩行者・自転車専用の吊り橋だ。
 

 子どもたちの夢を運んだこの橋は、平成13年、吊り橋としては全国初の国の登録有形文化財に登録された。橋の真ん中が羽曳野市と柏原市の市境になっている。柏原市は、昭和33年に市制が施行された人口約7万3千人の街で、歴史は古く3万年ほど前の旧石器時代にまでさかのぼる。ここから柏原市を歩く。
 

 橋を渡って右へ、しばらく石川の河川敷を南に歩く。グランドでは、少年たちが野球やサッカーを楽しんでいた。
 

 前方には西名阪自動車道の橋が見える。500mほど歩けば河川敷から堤防上に上がるスロープがあるので堤防に上る。横断歩道で道路を渡り南に歩くとすぐに信号のある交差点に出る。玉手山公園駐車場への看板があるその交差点を左折、真っ直ぐに進んでいく。次の信号で右に上る道と分かれるが、そのまま真っ直ぐ細街路に入る。すぐ正面に鳥居が見えてくる。
 

 伯太姫神社。「はかたひめ」神社と読み、創建は不詳であるが百済系渡来人の田辺氏の祖神といわれる伯太姫命を祀る。天安2(858)年の「文徳天皇実録」に記載されている古社で今日一日の無事を祈願する。
 

 元の道に戻り、途中右折して神社の北側に回り込み、府営住宅を右に見ながら進んでくと「玉手山公園」の駐車場と南入口の前に出る。
 

 柏原市南部の標高100mほどの丘陵に、明治41年、西日本で最も古い遊園地として「玉手山遊園地」が開園。遊具や昆虫館、小動物園などを備え、近隣の幼稚園や小学校の遠足、家族連れなどで賑わったが、絶叫マシーンを備えた大規模遊園地やテーマパークに押され、平成10年5月に閉園、1年の準備期間を経て、平成11年3月、柏原市立玉手山公園「ふれあいパーク」として開園、無料開放(午前9時~午後5時、水曜日休園)されている。
 

 この辺りは「玉手山古墳群」と呼ばれ、古墳時代前期に築造された前方後円墳や円墳、横穴墓など多くの古墳が発見されており、公園内にも石室が保存、展示されている。
 

 また、一帯は、慶長20(1615)年に勃発した「大坂夏の陣」の古戦場でもあり、玉手山公園付近では徳川、豊臣の両陣営が激しく激突した。
 

 「歴史の丘」と呼ばれるこのエリアには、豊臣家の先陣となって奮戦、重傷を負ったのち自害した「後藤又兵衛基次の碑」など両陣営の慰霊碑、墓碑などが多く残されている。
 

  「コミュニティ広場」へ。昔のままの「野外劇場」。ぬいぐるみショーやマジックショーなどが行われていたのだろう。今は誰もいない。
 

 弁財天、大黒天、毘沙門天を祀った「三天堂」。後方には、「おもちゃ館」と「昆虫館」。
 

 全国のおもちゃや化石、昆虫標本などが並べられいる。
 
 
 涼しげな林間の小径を歩き「メイン広場」へ向かう。
 

 かつては、メリーゴーランドや小さな観覧車があったが、今は「ミニSL」があるくらいだ。
 

 昭和30年代に大阪で生まれ育った人なら一度は遠足や家族連れで訪れた記憶があるだろう。(幼稚園のアルバムから。昭和40年頃の玉手山遊園地)
 

 遠足の記念撮影をしたのは、この場所に間違いないだろう。「おたしみ館(ゲームセンター)」として使われていた催し物館も今は使われていない。
 

 公園正面の中央入口から公園を後にする。
 

 住宅地を抜け公園北側へ。正面には「安福寺」の門が見えてくるが、その手前右側に鳥居が立つ。「伯太彦神社」だ。安福寺の境内からも神社に行けるが、正面から参拝するため、まず鳥居をくぐる。
 

 伯太彦(はかたひこ)神社。伯太姫神社のご祭神とは夫婦神である伯太彦命を祀るが、詳しい由緒はわからない。「彦」は男、「姫」は女を表す。
 

 神社の境内を抜けると安福寺の山門前に出る。
 

 山門くぐり進んで行くと右側には、かつて寺の手洗い石として使われていたと言われる「割竹形石棺蓋」。竹を割ったような形からこう呼ばれており、後に訪れる古墳時代前期の玉手山3号墳から出土されたものと伝わる。
 

 浄土宗知恩院派の寺院で、寺伝によれば奈良時代、行基によって開基されたとか。
 

 山門より下って行くが途中、左右に横穴が。安福寺横穴群と呼ばれ合計32基の横穴が発見されている。石棺や陶器、騎馬人物像などの壁画も発見されおり、古墳時代の横穴墓と見られる。 
 

 大阪府下において横穴墓は、この後訪れる「高井田横穴群」とともに、ここ柏原市でしか発見されていない。「高井田横穴群」は、すべて入口が柵等で塞がれているが、ここ安福寺横穴群は内部に入ることができる。「墓」であるので私は入らなかったが、重要な史跡なので荒らすことのないように。
 

 横穴群を抜けると、先ほどの伯太彦神社鳥居横の門に出る。門の前には、薬師堂と「右あんぷくぢ道」と彫られた約300年前の道標と村の若衆が力比べに使ったと言われる「力石」が置かれている。
 

 200mほどニュータウン内を歩く。
 

 住宅街を抜けると右に古墳が見えてくる。「玉手山3号墳」と呼ばれる全長107mの前方後円墳で、採掘された埴輪片などから古墳時代前期に築造されたものと思われるが、大坂夏の陣で戦場となったうえ、現在は市立の福祉センターが建っているため全容は不明。
 

 3号墳を抜けると右に一般の墓地が見えてくる。「玉手山2号墳」と呼ばれる全長70mほどの前方後円墳だが墓地になっているため発掘調査は行われていない。墓地を抜けると左手の体育館敷地脇に「大坂夏之陣小松山古戦場跡碑」が立つ。左に見える墓地が玉手山2号墳。一般墓地なので写真撮影は控えたが、墓地は円形と方形の段状に造成されており、一目で前方後円墳跡であることがわかる。これだけの墓が建つところに、たった一人のためだけに古墳が造られたのだから、当時の権力者の力はすごかったのだろう。
 

 すぐ目の前に見えるのが「玉手山1号墳」。全長110~120mの前方後円墳で、比較的全容が保存されいる。
 

 後円部頂上には、大坂夏の陣で討ち死にした徳川方の武将、奥田忠次の墓が建つ。
 

 1号墳東側の狭い急な階段を下り、原川という小さな川を越えて左へ。「原川橋」という交差点に出るが、この交差点を右折すると道がカーブして河内国分駅前に出てしまうので、信号を渡って突き当たりを右に進む。途中、近鉄大阪線の踏切を越えると「国豊橋南詰交差」に出るので信号を渡って左折。「国豊橋(国道25号線)」で大和川を渡る。
 

 国道25号線を越え、堤防下に下りて右折すると「JR高井田駅」前に出るので踏切を渡る。
 

 すぐに「史跡高井田横穴公園」の入口がある。
 

 ここは、先ほど訪れた「安福寺横穴群」同様、古墳時代の横穴墓群だが、規模が大きく150基以上の横穴が確認されている。その山全体が史跡公園となっている。
 

 6世紀中頃から7世紀初めにかけて築造されたと見られ、人物や馬、鳥、魚などの線刻壁画も発見されている。「安福寺横穴群」と異なり、入口は柵等で塞がれているが、重要な文化財を守るためにはやむを得ないだろう。
 

 柵の隙間からカメラを差し入れ、横穴内部を撮影。
 

 横穴群を抜け、案内に従い「高井田山古墳」へ向かう。小山の頂上にある「高井田山古墳」は、5世紀終わりころに造られたと考えられ、薄い板石を積み上げた横穴式石室を持つ。石室上部を透明プラスチック製の上屋で覆い、内部が見学できるようになっている。
 

 上屋の隙間から石室内部を撮影。石室内には、鏡・甲・鎧・剣や古代のアイロンである火熨斗(ひのし)の模造品などが並べられている。火熨斗の発見は、国内では2例しかないという。
 

 途中、立ち寄ったトイレ横の注意書き。最近は、どこにでも出るな。
 

 遊歩道の横には、発見された線刻壁画のレプリカが飾られていた。
 

 北側にある「古代へのいざなぎ広場」から公園を後にする。さすがゴミ入れも円筒埴輪を模したものだ。
 

 公園を出て水路沿いに下り、近鉄大阪線の高架をくぐったJR踏切の手前右に「天湯川田神社」への石段が見える。
 

 飛鳥時代からの古社で、鳥取氏の祖「天湯河桁命」を祀るが詳しい由緒は不詳。
 

 JR踏切の向こうには、何やら古い木造の建物が。
 

 踏切を渡り、信号で国道25号線を渡ると大和川堤防に上る階段があるので堤防上に。自転車道を川下に向かって歩く。大和川は、奈良県桜井市の北東部、貝ケ平山(822m)を水源とし、奈良盆地の佐保川、竜田川などの水を集め、生駒山系と葛城山系の間、「亀の瀬」で大阪平野に出、石川と交わり堺市で大阪湾に注ぐ。全長68km、大阪第二の大河で、かつては水質ワースト2の「どぶ川」であったが、現在は改善され環境省の水質基準も満たしている。
 

 右に柏原市の官庁街が現れた辺りで左岸から石川が合流する。石川は、昔から鮎が遡上する清流だ。
 

 大和川が西に曲がるところで国道25号線と旧170号線が分岐する。この「安堂交差」の北側に「大和川治水記念公園」。そこには「中甚兵衛翁像」が立つ。
 

 古代大和川は、ここで大きく北にカーブして河内湖に注いだ。その後、土砂が堆積して河内平野を形成するが、昔から河内の国に大きな水害をもたらしてきた。江戸時代に入り、河内國今米村(現東大阪市)の庄屋「中甚兵衛(なかじんべえ)」という人物が幕府に対して大和川の付け替えを嘆願、ついには自ら陣頭指揮を執り、50年以上の歳月をかけて西方向に開削、宝永元(1705)年、現在の大和川となる。公園内には多くの治水関係碑が並ぶ。人々は、長らく水害と戦ってきたのだろう。
 

 ここから旧国道170号線は、ほぼ一直線に北へ進む。この道は、京・八幡から「北河内」「中河内」を縦断。「南河内」で西高野街道と合流し、聖地「高野山」へと向かう東高野街道だ。その道を高野山とは逆の北に向かって進むのだが、旧国道170号線は、交通量が多いうえ、場所によっては歩道はおろかセンターラインもない旧道である。車を避けて山沿いの集落を歩くため「安堂北交差」を右折して山手に向かう。
 

 近鉄「安堂駅」前の踏切を渡ったところにコンビニがあったので昼食を調達する。そして駅前から5分も歩けば、このような風景に出会うことができる。「真宗大谷派正休寺」前を進む。
 

 地図では分かれ道が分かりづらかったが、このような案内が立っていた。この道は「業平道」というらしい。智識寺、石神社方向へ進む。
 

 この道は、石神社の境内へと続くが、正面からお参りするため一旦境内を抜け正面に回る。樹齢800年と推定される大クスノキは、周囲6m、高さ16mで大阪府指定天然記念物となっている。
 

 境内に入ってすぐ右に「知識寺東塔刹柱礎石」と呼ばれる石が置かれている。智(知)識寺とは、奈良・平安時代の河内を代表する大寺院で、東西二塔を有する大伽藍であったと言われる。
 

 石神社と書いて「いわ」神社と読む。由緒の詳細は不明であるが、宣化天皇の皇女、石姫皇女らを祀る式内社だ。式内社とは、延長5(927)年に編纂された延喜式の神名帳と呼ばれる巻9と巻10に記載された1000年以上の歴史を有する2861の神社をいう。
 

 お参りの後、神社横が「歴史の丘展望台公園」という公園になっていたので、先ほどコンビニで調達した昼食を食べる。今日のメニューは、おにぎり2つとソーセージ+お茶だ。
 

 神社の前には古い街並みが残り、観光案内板が立てられている。
 

 太平寺地区の街並み。
 

 この筋を通り抜け、左に曲がると「智識寺址」の石碑が立つ。智識寺の伽藍は、現在見ることはできないが、付近では多くの遺跡や所蔵物が発見されている。先ほどの礎石もこの辺りの民家土蔵付近から発見されたことから、ここが寺址とされているのだろうが、付近一帯が寺域であったと見られる。
 

 河内地方は、古くからワイン造りが盛んであり「河内ワイン」として売り出されている。石碑の前には「3大醸造所」のひとつで、大正3(1914)年から100年の歴史を持つ「カタシモワインフーズ」。カタシモ(堅下)とは、ぶどう栽培が盛んなこの辺りの地名である。(
野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ コラム「河内音頭」「河内ワイン」参照)
 

 ここの貯蔵庫は、大正時代に建てられたもので、平成17年、国の登録有形文化財に登録されたそうだ。当日は、休業なのか店は閉められていた。
 

 太平寺の古い街並みを抜ける。
 

 結構、急な坂道であるが、どんどん歩いて行こう。
 

 

 坂道を上りつめたところに「曹洞宗観音寺」。本堂は、長い石段の上。
 

 河内西国9番札所。正式名を「天冠山智識寺中門観音寺」といい、智識寺のものであったとされる経机が所蔵されている。
 

 また、ぜんそくに効くと言われる「へちま祈願」が有名であるとか。
 

 観音寺境内から大阪平野を望む。
 

 観音寺前には、ぶどう畑が広がる。
 

 ここでは、河内ワインを特に「柏原ワイン」と名乗っているようだ。
 

 大阪府は、全国7位のブドウ収穫高を誇ることはあまり知られていない。特に「種なしブドウ」と呼ばれる小粒のデラウェア種は、全国3位の収穫高だ。ブドウ狩りには、まだちょっと早いようだ。 
 

 住宅地の間にもブドウ畑は広がる。
 

 途中、児童公園の脇に立てられた「業平道」の碑。業平とは、平安時代の詩人、六歌仙のひとり「在原業平(ありわらのなりひら)」のことで、「業平道」とは、業平が大和國から河内國を行き来したときに通ったとされる道。いくつかの説があるが、その内のひとつがこことされているらしい。はっきりとした道筋はわからないそうだが、業平は、河内國神立村(現八尾市神立)の娘・梅野に恋して、八百夜通いつめたと言うのだから多くの道筋があったのだろう。
 

 一旦、旧国道170号線に出る。現在の国道170号線は、大阪外環状線のこと。ここは、旧道であるが、センターラインが引かれている。
 

 JA横には、付近のぶどう狩り園の案内板が。
 

 そしてすぐ北側の旧国道170号線沿いに「鐸比古鐸比賣神社」の鳥居が立つ。別社であった「鐸比古神社」と「鐸比賣神社」が合祀されたものらしい。鳥居の扁額には「鐸比古鐸比賣神社」と書かれているが、向かって左側の古い社号石碑には「鐸比古神社」と刻まれている。
 

 鳥居をくぐり、途中「地蔵堂」を左に見ながら山手へ進む。この石段の上にお社が鎮座する。
 

 由緒は不詳であるが、和気清麻呂の遠祖とされる「鐸比古命」を祀る古社で「ぬでひこぬでひめ」神社と呼ぶ。「比古」=「彦」、「比賣」=「姫」で男女(夫婦)を表す。
 

 参拝を終え坂を下っていく。途中の「地蔵堂」は、水子地蔵のようだ。
 

 この地蔵堂脇の道を北に入る。
 

 平野地区を抜ける。
 

 狭い道を抜け出ると「若倭彦神社」に突き当たる。「わかやまとひこ」神社といい、物部氏系の氏族「若倭部連」の祖神を祀ると推察されるが詳細は不明。
 

 古い街並みの中でも宅地開発が進んでいる。
 

 「山ノ井」という地区に入る。山の手に向かって進んで行くと「融通念仏宗山井寺」。融通念仏宗とは、大阪市平野区の大念仏寺を総本山とする浄土教の一宗派。第7世法明が河内地方に6つの講集団である「六別時」制度を置き、そのひとつ「高安別時」が高安山麓に置かれたため、この辺りには融通念仏宗の寺院が多い。
 

 山井寺を抜け石段を上がると小さなお堂があり、3体の石仏が安置されていた。案内板には、中央の石仏が「如来形坐像」で、その左の首が欠損した石仏が「菩薩形立像」である旨が記されていたが、右端の双体仏に関する説明書きはなかった。
 

 このお堂の上に「曹洞宗瑠璃光寺」という禅寺が建つ。
 

 そのすぐ前に「若倭姫神社」の鳥居。
 

 由緒は不明だが、先ほど訪れた「若倭彦神社」と一対を成す夫婦神だろう。神殿は、裏の岩を拝むような形で建てられていた。
 

 給水のため一旦、旧国道170号線に出てコンビニに立ち寄る。ここからは「八尾市」を歩く。八尾市は、人口約27万人の比較的大きな市で、市西部の平地は「萱振・八尾・久宝寺」の3つの寺内町として栄えたが、市東部は山間部で柏原市同様、古い寺社や遺跡が多く残る。(野里町歩紀~摂河泉をゆく~三つの御坊を訪ねる「萱振」「八尾」「久宝寺」参照)
 八尾市と言えば、訪問当時、橋下大阪市長による「オスプレイ受け入れ」発言で揺れていた。そう言えば柏原に入って以来、上空には自衛隊のヘリコプターが何機も飛んでいる。
 

 給水後、コンビニ北側に位置する「八王子神社」に立ち寄る。この神社は、延喜式神明帳「常世岐姫(つねよき)神社」に比定される古社らしい。
 

 クスノキだろうか、ご神木の脇にはいくつかの末社が鎮座する。
 

 神宮寺の古い街並みを抜ける。この辺りは「史跡の道」として案内板や道標も整備されている。
 

 神宮寺から恩智南町へ抜ける。子どもであれば十数mのこの竹藪を抜けるだけでも「命がけ」だっただろう。
 

 史跡の道の道標。恩智城址方向へ進む。
 

 恩智城。中世の豪族「恩智左近満一」の居城として建武年間(1334~1338年)に築城されたといわれる。今は、碑が残るのみだ。
 

 明治に入り小学校が建てられたことから、比較的当時の城郭が残されている。
 

 かつての「一の丸跡」は「第一万葉植物園」として、
 

 「二の丸跡」は、桜や紅葉がきれいな公園となっている。
 

 城址碑の前には、当時の南高安小学校(旧恩智小学校)のレンガ造りの門柱が残る。
 

 城址公園前の「下るシュミィ地蔵」の道標に従い、目の前の急坂を下る。
 

 坂の下に「シュミィ地蔵」。名前の由来はわからないが、村人らによって建立されたもので、像には「天文13(1544)年」の銘文が読み取れる。
 

 旧国道170号線に出るが、歩道もセンターラインもない。
 

 シュミィ地蔵のすぐ北側に、恩智城主「恩智左近之旧跡」の石碑が。
 

 石碑横の小さな坂道を上ると、市指定のクスノキの脇に「恩智左近満一」の墓がある。
 

 旧国道170号線沿いの立派な旧家。
  

 そのすぐ北側に「恩智神社」の一の鳥居が立つ。木製の立派な鳥居だ。
 

 鳥居をくぐったすぐ左側に「融通念仏宗來恩寺」。
 

 その向かいに「恩智会館」と掲げられたレトロな建物が。
 

 だらだらした坂道を上る。
 
 
 恩智神社。天照大神の食を司る伊勢神宮外宮の祭神「豊受姫大神」と同神といわれる「大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)」と「大御食津姫命」を祀る。ここから、かなり長い石段を登らなければならない。
  

 神の遣いとされる「神兎」にちなみ、御手洗舎も「うさぎ」だ。
 

 元は、藤原家の祖先「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」を祭神として雄略天皇期(470年頃)に創建されたといわれる古社。
 

 神殿前には、真新しいが「神兎」の像が立つ。
 

 また、境内には、雨の前日には濁った水が湧くと伝わる「閼伽井戸」が。確かに茶色い水が流れた跡が残る。
 

 参拝を終え、先ほどの「來恩寺」まで戻り右へ。恩智中町地区の筋を抜ける。
 

 旧国道170号線に出ると角にはちょっとレトロな建物が。JAの支店だ。
 

 ここからしばらくダラダラした坂道を15分ほど歩く。大窪寺霊園への道を過ぎた辺りで右を見ると鳥居が見える。石柱には「天照大神社」と刻まれている。
 

 ここからしばらく急な坂道を上る。振り返れば彼方に大阪平野が見える。かなりの標高だろう。
 

 左に石段が見えればもうすぐだ。何だか神々しい雰囲気になってきたぞ。
 

 まず手前に「岩戸神社」。古事記の「天の岩戸」と関係があるのか思ったが、御祭神は「市杵島姫命」だ。
 

 拝殿は、裏の岩山を拝むようになっている。
 

 「歩紀」には、多くの神社が登場する。私は、今の「古事記ブーム」が訪れる前の平成17年頃から古事記を読むようになった。原文・口語対訳本、口語訳本、子ども向け、漫画など数種類の古事記に関する本を読んだ。それは「神道」というものに興味をもったからだが、おかげで歩紀で訪れる神社の由緒や登場する神々に対して概ね理解することができるようになった。岩戸神社の境内を抜けると「高御座(たかみくら)神社」。正式には「天照大神高座(あまてらすおおみかみたかくら)神社」といい、その名のとおり「天照大神」をお祀りする。
 

 雄略天皇23(479)年に遷座したといわれるが由緒の詳細は不明。岩盤の上に本殿が鎮座しているが、拝殿はその岩盤を拝むように造られている。
 

 元来た坂道を下る。鳥居をくぐって一旦左に戻り、大窪寺霊園への道前にある階段を下りる。住宅を抜けると「融通念仏宗善光寺」へ。境内のクスノキは、幹周り6.3m、高さ25mの大木だ。
 

 旧国道170号線に戻り北へ。JA高安北支店前に「垣内村一里塚、西塚」の碑。今は「法華塔」が建つ。
 

 そして旧国道から東に入ったところに「垣内村一里塚、東塚」。東高野街道で残る一里塚は、ここ垣内と富田林錦織だけだとか。「垣内」と書いて「かいち」と読む。
 

 一里塚を過ぎ「教興寺」の集落に入る。「三和地区集会所」と書かれた古い木造の建物。
 

 集落名の由来となった「真言律宗教興寺」。聖徳太子が戦勝を祈願して崇峻天皇元(588)年に創建したと伝わる。
 

 南北に長く連なる高安連山。多くの神々が坐すのだろう。
 

 山手に進んで行くと「信貴山口駅」。近鉄の支線、信貴線の終点であり、西信貴ケーブルの始発駅でもある。「西信貴ケーブル」。正式名を西信貴鋼索線といい、高安・信貴山方面への足として昭和5年に開業した。山上の「高安山駅」まで高度差354m、1.3kmを約7分(片道540円)で結ぶ。
 

 私は、基本的に山には入らない。雨の日は歩かないし、昼食も現地調達だ。そのため 本格的な装備やウェアは必要なく、「歩紀」を始めた当初は、ユニクロのカジュアル系やホームセンターの作業着系、通販のミリタリー系等で代用していた。しかし、ある頃から何やら冷たい視線を感じるようになった。路地から路地、軒下から軒下へと歩き回り、おまけにやたら写真撮影をする。どうも「不審者」か物件を物色中の「業界筋の人」と間違われていたようだ。そのため今では「mont-bell」のグッズやウェアで固めている。また、たいした荷物はないがザックを背負って歩いている。それにより「ハイカイシャ(徘徊者)」から「ハイカー」の地位を得、不名誉な視線は感じられなくなった。
 

 服部川地区の集落を抜ける。
 

 「佐麻多度神社」。「さまだど」神社と読む。大和時代の創建と言われるが由緒やご祭神の詳細は不明。
 

 境内には、昔、村の若衆が力比べに用いたという「力石」4個が置かれている。重さは100kg以上あると言われる。
 

 まだ、あと3~40分あるのだが、この先、近鉄瓢箪山駅まで鉄道駅がない。時間が足りないので、今日はこれで終わり、ここから細い道を抜け、近鉄服部川駅に向かう。
 

 午後4時30分、近鉄電車「服部川駅」に着く。先ほど訪れた「信貴山口駅」を出発した電車に乗り、「河内山本駅」「鶴橋駅」で乗り換え、「大阪難波駅」まで約30分(340円)。本日の歩紀「30281歩」(20.04km)。
 

 
  

 

 
 
   
 

 

 
   
 

 

 

  
 
 
 
 

 
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