訪問日:平成25年4月27日(土)
今回から3回に分けて3つの「柏原」を訪ねる。第1回目は、丹波「柏原」。JR福知山線の川西池田駅から綾部駅までの乗車券を購入。営業距離は、107.8km。JRは、大都市近郊区間内のみでなければ営業距離が100kmを越えると途中下車が可能だ。この1枚の切符を握って川西池田駅を出発、JR福知山線「柏原駅」で途中下車。織田家ゆかりの地「柏原」を歩いた後、「福知山」「綾部」を歩く。町歩きなので給水、トイレには困らない。
出 発:JR「川西池田駅」
到 着:JR「柏原駅」
自宅から通勤定期で能勢電車「川西能勢口駅」へ。そこから連絡通路を歩いてJR「川西池田駅」へ向かう。駅前広場には、川西市ゆかりの「源満仲」の像が建つ。
川西池田駅で綾部駅までの切符を購入。1,890円。午前8時13分発の「丹波路快速」に乗車。
午前9時2分、終点の「篠山口駅」に到着。この後、午前9時27分発の福知山行き普通電車に乗り換える。
篠山口駅から先は、ローカル路線。ワンマン運行のため無人駅で下車する際は、先頭車両の運転室横ドアしか開かず運転手さんに切符を提示する。有人駅の場合もドアは自動では開かないのでボタンを押して自分の手で。
午前9時57分、JR「柏原駅」に到着。兵庫県丹波市柏原。「かいばら」と読む。柏原は、織田家十代の城下町で「柏原藩陣屋跡」「織田神社」など織田家ゆかりの史跡が残り、町中も散策コースが整備されている。
駅舎は、平成2年、大阪の鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会(花博)」のドリームエキスプレス「山の駅」を移転したものらしい。山小屋風のお洒落な駅である。
駅の中には、売店のほか観光案内所を兼ねた小さなお土産屋さんと喫茶レストランがある。
駅前を走る「国道176号線」を渡り右へ。100メートルほどで左に小さな公園が現れる。ここは「やぐら公園」と呼ばれ、後ほど訪れる「太鼓やぐら」を模した時報台とトイレが設けられている。櫓の一番上では、侍姿のハイテクロボットが太鼓を叩いて時を告げる。
国道から1本町中に入った「やぐら公園」北側の路地を国道に沿って東へ進むと、400メートルほどで広い道に突き当たり、そこに石の灯籠が立つ。「新町高灯籠」と呼ばれ、天保7(1836)年、民衆の寄進により、伊勢神宮遙拝献灯のため建立されたものだ。高さ5.3メートルで市内最大の石造建造物として市の指定文化財となっている。ここは、城下町の東端にあたり「京口」と呼ばれていたそうだ。
高灯籠からこの広い道を北に進む。100メートルほど歩くと右に「柏原納税協会」というちょっとレトロな建物が、さらに150メートルほどで右に「市立崇広幼稚園」が見えてくる。
幼稚園前の路地を左折し、西に進むと小さな稲荷社が見えてきた。最初の神社で今日一日の安全を祈願する。
所々、古い家が見られるが、特に伝統的な住宅の街並みが残っているというほどではない。
しかし、街並みはきれいに整備されており「地方の小さな町」という良い雰囲気が漂う。
町中のメインストリートとも言える道に出れば右折。すぐに一旦右折して、元来た方向に戻ろう。しばらく歩くと左に神社が見えてくる。「建勲神社」といい、柏原藩主織田家の先祖である「織田信長」を祀る神社で、全国的には、ここと京都市そして山形県天童市にしかないと言われる。境内からの眺め。
神社を後にさらに東へ進むと高灯籠から続く広い道に出る。「柏原藩主織田家旧邸長屋門」に突き当たるが、入場券を購入するため右折し、すぐ右にある「柏原歴史民俗資料館」(午前9時~午後5時、月曜日休館)へ向かう。陣屋跡との共通入場券(200円)を求め館内へ。
ここは、柏原藩に関する資料のほか、柏原で生まれた俳人「田ステ女」の記念館も併設されており、田家伝来の資料等も展示されている。
資料館横の小さな庭には「ステ女」の石像が建つ。
道を挟んで真ん前には「柏原藩主織田家旧邸長屋門」。正徳4(1714)年の創建で兵庫県指定文化財に指定されている。正面左が「番所」、右が「馬見所」「砲庫」。
長屋門をくぐると「柏原藩陣屋跡」だ。柏原藩は、織田信長の弟、織田信包が藩主を務めたが、三代目藩主織田信勝の代で跡継ぎがなく途絶えた。これが「前期柏原藩」といわれる。その後、元禄8(1695)年、織田信長の次男、信雄の玄孫(やしゃご=孫の孫)織田信休が大和松山藩から国替えとなり、以後、十代にわたって明治の廃藩置県まで続いた。この「後期柏原藩」の中心がこの陣屋跡である。
今は「表御殿」しか残っていないが、唐破風と千鳥破風桧皮葺きの正面玄関は、文政元(1818)年火災に遭い、その後再建されたものだが、国の指定史跡である。
内部も公開されており、無人であるが中に進めば自動で点灯され音声ガイドが流れる仕組みになっている。
一部とはいえ中はかなり広い。なお、陣屋跡の後ろに建つ「市立崇広小学校」は、藩校「崇広館」から引き継がれ、明治6年に開校した歴史ある小学校だ。
陣屋跡を出て北へ歩く。すぐ右手にレトロな建物が現れる。門柱には「大手会館」との看板が掲げられているが、今は使われていないようだ。
これは「旧氷上郡各町村組合立高等小学校校舎」として明治18年に建てられたもので、市指定文化財に指定されている。
続いて「織田家廟所」へ向かう。村はずれの山手にあるが、案内板が整備されているので迷うことはない。
途中、「県立柏原高等学校」の前を通るが、高校の敷地内にも古い木造建造物が残る。「柏原高等学校柏陵館」。明治30年に「柏原尋常中学校本館」として建築された。
敷地内だが、裏門を入ったところすぐにあり、校内に入らなくても外観が望める。
柏原高校から200メートルほどで「織田家廟所」に着く。元々は、織田家の菩提寺があったといわれる。
後期柏原藩の初代藩主織田信休以降、明治まで続いた織田家歴代藩主とその家族が眠る。「歩紀」をしていると「織田信長が焼き討ちにした後、豊臣、徳川の代で再興された」という史跡をよく目にし、信長は「破壊者」というイメージがあるが、信長の子孫たちは、城も持たず2万石という小さな藩で、明治の時代まで細々と暮らしていたのですね。
来た道を「旧氷上郡各町村組合立高等小学校校舎」まで戻り、前の道を西へ進む。
200メートルほどで川に出るが、そこには赤い橋が架かる。橋のすぐ横に立つ樹齢1000年と言われる大ケヤキの根が対岸まで10メートルほど伸び、自然の橋を形成していることから「木の根橋」と呼ばれ、県の天然記念物に指定されている。
木の根橋の真ん前には「織田神社」。前期柏原藩三代目藩主で、嗣子がなく28歳の若さで亡くなった織田信勝を祀る。
木の根橋の横にもレトロな木造建築が残る。
「旧柏原町役場」で現在は「丹波市柏原支所」として使われているようだ。
また、近くには「柏原町観光案内所」があり、観光情報のほかお土産も扱っている。
観光案内所の前には「八幡神社」の鳥居が立つ。
木陰の階段をゆっくりと上って行く。
万寿元(1024)年、京都の石清水八幡宮別院として創建されたそうだ。社殿は、天正13(1585)年の建造で国の重要文化財に指定されている。
社殿の後ろには「三重塔」があるが、神社で塔があるのは珍しい。丁度、「お初詣り」で赤ちゃんを抱いた家族がお参りをしており、神主さん自らが「さあ、記念撮影をしましょう。」と言ってシャッターを切っていた。神道は、おおらかな宗教だな。
参道を戻る。先ほどくぐった鳥居の向こうには、公民館と消防団の車庫が。平和な風景だなあと思った。
木の根橋を渡り、一つ目の路地を右に。
ちょっとした商店街に出るので左へ。すぐに駐車スペースとベンチがあり、その奥に神社とやぐらが見える。神社は「大歳神社」といい年神様をお祀りするのだろう。
神社の横にそびえる建物が「太鼓やぐら」で、柏原のシンボルになっている。江戸時代には大手門の隣にあり、三層の最上部には「つつじ太鼓」という太鼓が吊され、時報や藩主が参勤交代から戻ってきた時の合図として叩かれたという。明治時代になって現在の場所に移されたそうだが、太鼓の内側には寛文8(1668)年の銘が残っており、織田信休の国替え前から使用されていたものである。
電車の出発時間が迫ってきた。地方都市らしい雰囲気の商店街を通り抜け駅に向かう。
発車まで20分しかないので、駅の中の喫茶レストランで「天ぷらうどん」を注文した。太い、腰のしっかりとしたうどんで美味しかった。
午前11時56分発の電車で福知山へ向かう。ここでの歩紀「8178歩」(7.03km)。
出 発:JR「柏原駅」
到 着:JR「福知山駅」
「柏原駅」から27分。午後0時23分、福知山駅に着く。ここは、京都府だ。福知山線の終点であるとともに、山陰本線との乗り継ぎ点でもある。また、丹後「天橋立」方面へと続く「北近畿タンゴ鉄道(KTR)」の起点でもある。写真は、KTRの車両。
駅の北口から出てすぐ右側に観光案内所があるので、地図などをもらうと良い。次の電車まで約2時間20分の滞在。
駅前には「お城通り」という大きな通りが走っているが1本南側の路地を東に進む。コーナンを過ぎて突き当たりを右に、途中路地を左に折れて山陰本線の高架を右に見ながら東へと進む。突き当たりに「内記稲荷神社」。安全祈願をする。
神社の前には「市立惇明(じゅんめい)小学校」。かつての藩校「惇明館」からの歴史を受け継ぎ、明治6年に創立された古い小学校だ。
福知山市は、京都府北部(旧丹波國)に位置し、この地を支配していた「塩見氏」を織田信長の家臣・明智光秀が倒し、天正8(1580)年、初代城主となった福知山城を中心として栄えた城下町である。丹波地方でも古くから栄えた都市だ。
慶長5(1600)年、藩が置かれ、福知山3万2千石として明治の廃藩置県まで続く。その城跡には天守閣がそびえ、現在も行政の中心となっている。(右は、福知山市役所庁舎)
明治31年に入り、日清・日露に従軍、後にフィリピン・レイテ島で玉砕した陸軍歩兵第20連隊が大阪から移転し、軍都としても栄えた。現在も市南部に陸上自衛隊第7普通科連隊が駐屯し、福知山といえば自衛隊というイメージがある。
市役所前を通過して福知山城公園に向かう。途中、道をそれ路地から石垣を見上げる。
公園入口の横には「佐藤太清記念美術館」。
立派な石垣を右に眺めながら進んで行く。
大天守を望む。昭和60年再建だが大小2つの天守を備えた堂々たる天守閣だ。
城の防御設備である「石落とし」。石垣は「野面積み」と呼ばれ、自然石をそのまま積み上げる技法だ。
そして、福知山城の特徴としてあげられるのが「転用石」。転用石とは、石垣の石材として石臼などのほか五輪塔や宝篋印塔、灯籠、石仏までも利用するというものである。
梵字が彫られた石垣も。
転用石の使用例は、大和郡山城でも見られ同城では石地蔵まで転用したことから「逆さ地蔵の祟り」という言葉まである。福知山城では、再建時の発掘調査で500個余りの転用石が確認されており、古いものでは延文4(1359)年の銘文が刻まれた五輪塔が発見されているとか。転用石の数々。
天守閣に登る。天守閣の中は、どこの天守閣でもそうであるように埋蔵文化財や武具などの展示施設となっており、写真撮影が禁じられている。入館料は310円。火曜日が休館日である。
天守閣展望台からの眺め(西方向)。市役所やデパートなど地方の主要都市という感じがする。
北方向を望むと由良川。正面の藪は「明智藪」と呼ばれている。
城を出て陸橋を渡り由良川方面に歩く。道沿いには「消防団庫」。私の「歩紀」には、よく消防団庫が現れる。消防団とは、自治体消防を補完するため地域住民により編制された非常備の消防組織である。特に、東日本大震災以降は、地域防災の中核として注目されている。しかし、元々は村人の集まりだ。「俺たちの村は、俺たちの手で守る。」という気概の象徴だ。そのため「消防団庫」は、日本の原風景には欠かせないものだと私は思っている。
途中、なにやら古い建物が。(株)松村組の創設者である松村勇吉氏の旧邸で和風の町家と洋館が並ぶ。かつて水害に見舞われた福知山で、由良川改修に関わった松村組が、改修工事の完成度をアピールするため、あえて堤防の下に邸宅を構えたと言われている。
今は「仏蘭西焼菓子調進所足立音衛門」という洋菓子屋さんの本店として利用されている
由良川に架かる音無瀬橋から先ほど天守閣から眺めた「明智藪」を望む。「明智藪」とは、堤防の強度を高めるため明智光秀が植林した竹藪と言われる。明智光秀も水害と闘っていたのだ。右遠方に天守閣。
由良川の流れ。京都・滋賀・福井の3府県境にそびえる三国岳(775.9m)付近に源を発し、京都府北部を流れて若狭湾で日本海に注ぐ大河で、平成の最近に至るまで流域を水害で悩ませている。
堤防から町中に下り、川に沿って歩く。
福知山市治水記念館。明治13年建築の元呉服商を利用した施設である。
古い町家の中では時節柄「端午の節句」に因み武者人形や鯉のぼりなどが展示されていたが、その名前からもわかるとおり、水害の歴史を語り継ぎ、治水・水防のあり方を考えていくための施設である。
寺町・下柳町・鋳物師町と呼ばれるこの界隈には古い街並みや寺社が残されている。
稲荷社。前には手動ポンプ式の井戸があった。
今も現役のようでガラス戸越しに見た店内には「稲藁」が積まれていた。その他、針金やガラスも取り扱っているようだ。
「厄除神社」あたりで古い街並みは終わる。
神社前には「京・大坂」を示す道標が残る。多くの人たちが往来したのだろう。
町内を元に戻り、市街地の中央に鎮座する「御霊神社」へと向かう。大きな神社だ。
主祭神は、五穀・食の神様である「宇賀御霊大神」であるが、明智光秀も合祀されている。
神社前の公園には、昭和28年の水害における浸水位が表示されていた。市内の大部分が水没したようだ。そのため境内には、堤防を御祭神とする「堤防神社」というお社も祀られている。
かつての門前町、城下町としての名残だろうか、今も境内周辺には旅館や料亭、飲食店などが並ぶ。
ここは、雰囲気からしてかつての「花街」だろう。
「広小路商店街」と呼ばれる東西250メートルほどのメインストリートには映画館や飲食店が並び、商工会議所前には「福知山音頭」の等身大像が立ち、人々を迎える。福知山音頭とは、明智光秀の築城の際、領下の人たちが「ドッコイセ」のかけ声とともに歌い、踊り出したもので400年以上の歴史だとか。
何やら催し物をしているようで出店などが並び、多くの人が繰り出していた。
途中から右折して「新町商店街」というアーケード街に入る。どこの商店街もそうだが、人通りは少なくシャッターの店もある。
古い酒屋などもあるので、かつては賑わっていたのだろう。
ぼとぼち電車の時間が近づいてきた。路地を抜けて駅に向かう。途中、小さな稲荷社にお参りする。
古い個人病院。地方都市でこのような風景に出会うのが楽しみだ。苗字からすると明智光秀に滅ぼされた豪族の子孫か?
消防団も頑張っているな。
午後2時45分、JR福知山駅に到着。ここにも福知山音頭の像が。ここでの歩紀「12015歩」(10.33km)。
出 発:JR「福知山駅」
到 着:JR「綾部駅」
午後2時55分発の電車で綾部に向かう。ここからは山陰本線だ。
午後3時7分、JR綾部駅に着。建て替えられて間がないのだろう、きれいな駅舎だ。滞在時間は約1時間40分。
ただ、こういう風景を見ると地方のローカル駅という雰囲気があり、それが心地よい。
駅(南口)を出て、すぐ右側に観光案内所がある。この裏には日帰り湯(500円)が併設されているようだ。
明治16年、和歌山県西牟婁郡で生まれた植芝盛平という人物は柔術に励み、その後、綾部に移り住み「植芝塾」を開設。そこで合気道の前身である「合気武術」を生み出したことから、綾部と合気道は関連があるらしい。
駅前から東におよそ100メートルのところに「綾部天満宮」。安全祈願をのため参拝する。
小さなお社だが、地元の人々がきれいにお世話しているようだ。
西方向に戻り、駅前の商店街を抜ける。ここも地方都市の良い雰囲気が出ている。
これより「綾部八幡宮」へと向かうが、途中の公園から市内を望む。明治以前は、綾部藩という藩があったようだが、その後、明治、大正、第二次世界大戦を経て、昭和25年に市制。山に囲まれた人口3万5千人の小さな「市」である。
綾部八幡宮。「八幡」さんということは「応神天皇」を祀るのだろう。
境内の脇には、ご神木であろうと思われる杉の木。
神輿庫があり、毎年秋には大祭が行われ、市中を神輿が練り歩く。
山に沿って歩く。途中、公民館。「火の見櫓」「二宮金次郎像」「時計台」と村の「公」の中心地だ。昔は、各村にこういうエリアがあった。私もそういう中で育った。今は「個人情報、個人情報」といって自分を隠すが、当時は、こういう場で個人をさらけ出していた。良い時代だった。
ハイキングコースが設定されているようだ。私が歩いている道もそのコースに含まれている。
ずっと町中を歩いてきたが、突然、100メートルほどの区間だけ舗道がきれいに整備されている。
「なぜ、こんなところに?」という感じで居酒屋やスナック、ラウンジなどが並ぶ。ここは、昔のいわゆる「色街」だったのだろうか。
道なりに進んで行く。前方に赤い橋が見え、そのまま進むと「若宮神社」の前に出る。山の中に佇む神々しい神社だ。
結構、長い石段を登ると神殿に。仁徳天皇を勧進したとのことであるが、天孫「瓊々杵尊(ニニギノミコト)」とも関係の深い古い神社のようだ。
山手の若宮神社から下って行く。綾部市の大きな特徴は「大本(おほもと)」という宗教法人の本部つまり「聖地」ということだ。
俗に「大本教」とも呼ばれるが、正式には「大本」。明治25年、開祖・出口なおが神憑って発祥した神道系の宗教法人である。
「長生殿」と呼ばれる神殿は、20世紀最大の木造建築といわれ、信者だけではなく多くの観光客も訪れる。
奈良県の天理市ほどではないが、少なからず宗教の影響と恩恵を受けているようだ。
市の官庁街を抜け北へ進む。途中、JR山陰本線の旧鉄橋の橋脚が残っていた。
真新しい新興住宅街を抜けるが、突然、こんな古い住宅が現れたりもする。
綾部市のもう一つの特徴は、紳士用肌着でお馴染みの「グンゼ」発祥の地であることだ。
本社機能は、大阪市内に置くが、本店は綾部市に置く。
綾部市の前身である「京都府何鹿郡」が養蚕業の地であり、大正期に郡の方針つまり郡是(グンゼ)を繊維業とし「郡是製絲株式会社」が創業されたのが始まりとか。
大正6年築のグンゼ本社正門や昭和8年築の本社。
大正6年築の旧本社社屋である「グンゼ記念館」。
創業初期の繭蔵である「グンゼ博物苑」などなど大正から昭和初期にかけた歴史的建造物が並ぶ。
その他市内に点在する社宅などの関連施設やバス停など正に「グンゼ王国」である。
綾部駅北側の大部分がグンゼの敷地である。グンゼ研究所という大きな建物を過ぎれば今回の最終ゴールであるJR綾部駅(北口)だ。ここからは午後4時51発の山陰本線で福知山へ、午後5時7分発の「丹波路快速」に乗り換えれば約2時間15分で大阪へ着く。ここでの歩紀「9159歩」(7.87km)。トータル「29352歩」(25.23km)。
最後に、新しい旅の友を紹介します。「Nikon COOLPIX L26」。これまで使っていた「Nikon COOLPIX S620 」の調子が悪かったので買い換えました。旧モデルの廉価機種だが「歩紀」の友としては十分な機能だ。特に、電源が単3電池なのが良い。
今回から3回に分けて3つの「柏原」を訪ねる。第1回目は、丹波「柏原」。JR福知山線の川西池田駅から綾部駅までの乗車券を購入。営業距離は、107.8km。JRは、大都市近郊区間内のみでなければ営業距離が100kmを越えると途中下車が可能だ。この1枚の切符を握って川西池田駅を出発、JR福知山線「柏原駅」で途中下車。織田家ゆかりの地「柏原」を歩いた後、「福知山」「綾部」を歩く。町歩きなので給水、トイレには困らない。
出 発:JR「川西池田駅」
到 着:JR「柏原駅」
自宅から通勤定期で能勢電車「川西能勢口駅」へ。そこから連絡通路を歩いてJR「川西池田駅」へ向かう。駅前広場には、川西市ゆかりの「源満仲」の像が建つ。
川西池田駅で綾部駅までの切符を購入。1,890円。午前8時13分発の「丹波路快速」に乗車。
午前9時2分、終点の「篠山口駅」に到着。この後、午前9時27分発の福知山行き普通電車に乗り換える。
篠山口駅から先は、ローカル路線。ワンマン運行のため無人駅で下車する際は、先頭車両の運転室横ドアしか開かず運転手さんに切符を提示する。有人駅の場合もドアは自動では開かないのでボタンを押して自分の手で。
午前9時57分、JR「柏原駅」に到着。兵庫県丹波市柏原。「かいばら」と読む。柏原は、織田家十代の城下町で「柏原藩陣屋跡」「織田神社」など織田家ゆかりの史跡が残り、町中も散策コースが整備されている。
駅舎は、平成2年、大阪の鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会(花博)」のドリームエキスプレス「山の駅」を移転したものらしい。山小屋風のお洒落な駅である。
駅の中には、売店のほか観光案内所を兼ねた小さなお土産屋さんと喫茶レストランがある。
駅前を走る「国道176号線」を渡り右へ。100メートルほどで左に小さな公園が現れる。ここは「やぐら公園」と呼ばれ、後ほど訪れる「太鼓やぐら」を模した時報台とトイレが設けられている。櫓の一番上では、侍姿のハイテクロボットが太鼓を叩いて時を告げる。
国道から1本町中に入った「やぐら公園」北側の路地を国道に沿って東へ進むと、400メートルほどで広い道に突き当たり、そこに石の灯籠が立つ。「新町高灯籠」と呼ばれ、天保7(1836)年、民衆の寄進により、伊勢神宮遙拝献灯のため建立されたものだ。高さ5.3メートルで市内最大の石造建造物として市の指定文化財となっている。ここは、城下町の東端にあたり「京口」と呼ばれていたそうだ。
高灯籠からこの広い道を北に進む。100メートルほど歩くと右に「柏原納税協会」というちょっとレトロな建物が、さらに150メートルほどで右に「市立崇広幼稚園」が見えてくる。
幼稚園前の路地を左折し、西に進むと小さな稲荷社が見えてきた。最初の神社で今日一日の安全を祈願する。
所々、古い家が見られるが、特に伝統的な住宅の街並みが残っているというほどではない。
しかし、街並みはきれいに整備されており「地方の小さな町」という良い雰囲気が漂う。
町中のメインストリートとも言える道に出れば右折。すぐに一旦右折して、元来た方向に戻ろう。しばらく歩くと左に神社が見えてくる。「建勲神社」といい、柏原藩主織田家の先祖である「織田信長」を祀る神社で、全国的には、ここと京都市そして山形県天童市にしかないと言われる。境内からの眺め。
神社を後にさらに東へ進むと高灯籠から続く広い道に出る。「柏原藩主織田家旧邸長屋門」に突き当たるが、入場券を購入するため右折し、すぐ右にある「柏原歴史民俗資料館」(午前9時~午後5時、月曜日休館)へ向かう。陣屋跡との共通入場券(200円)を求め館内へ。
ここは、柏原藩に関する資料のほか、柏原で生まれた俳人「田ステ女」の記念館も併設されており、田家伝来の資料等も展示されている。
資料館横の小さな庭には「ステ女」の石像が建つ。
道を挟んで真ん前には「柏原藩主織田家旧邸長屋門」。正徳4(1714)年の創建で兵庫県指定文化財に指定されている。正面左が「番所」、右が「馬見所」「砲庫」。
長屋門をくぐると「柏原藩陣屋跡」だ。柏原藩は、織田信長の弟、織田信包が藩主を務めたが、三代目藩主織田信勝の代で跡継ぎがなく途絶えた。これが「前期柏原藩」といわれる。その後、元禄8(1695)年、織田信長の次男、信雄の玄孫(やしゃご=孫の孫)織田信休が大和松山藩から国替えとなり、以後、十代にわたって明治の廃藩置県まで続いた。この「後期柏原藩」の中心がこの陣屋跡である。
今は「表御殿」しか残っていないが、唐破風と千鳥破風桧皮葺きの正面玄関は、文政元(1818)年火災に遭い、その後再建されたものだが、国の指定史跡である。
内部も公開されており、無人であるが中に進めば自動で点灯され音声ガイドが流れる仕組みになっている。
一部とはいえ中はかなり広い。なお、陣屋跡の後ろに建つ「市立崇広小学校」は、藩校「崇広館」から引き継がれ、明治6年に開校した歴史ある小学校だ。
陣屋跡を出て北へ歩く。すぐ右手にレトロな建物が現れる。門柱には「大手会館」との看板が掲げられているが、今は使われていないようだ。
これは「旧氷上郡各町村組合立高等小学校校舎」として明治18年に建てられたもので、市指定文化財に指定されている。
続いて「織田家廟所」へ向かう。村はずれの山手にあるが、案内板が整備されているので迷うことはない。
途中、「県立柏原高等学校」の前を通るが、高校の敷地内にも古い木造建造物が残る。「柏原高等学校柏陵館」。明治30年に「柏原尋常中学校本館」として建築された。
敷地内だが、裏門を入ったところすぐにあり、校内に入らなくても外観が望める。
柏原高校から200メートルほどで「織田家廟所」に着く。元々は、織田家の菩提寺があったといわれる。
後期柏原藩の初代藩主織田信休以降、明治まで続いた織田家歴代藩主とその家族が眠る。「歩紀」をしていると「織田信長が焼き討ちにした後、豊臣、徳川の代で再興された」という史跡をよく目にし、信長は「破壊者」というイメージがあるが、信長の子孫たちは、城も持たず2万石という小さな藩で、明治の時代まで細々と暮らしていたのですね。
来た道を「旧氷上郡各町村組合立高等小学校校舎」まで戻り、前の道を西へ進む。
200メートルほどで川に出るが、そこには赤い橋が架かる。橋のすぐ横に立つ樹齢1000年と言われる大ケヤキの根が対岸まで10メートルほど伸び、自然の橋を形成していることから「木の根橋」と呼ばれ、県の天然記念物に指定されている。
木の根橋の真ん前には「織田神社」。前期柏原藩三代目藩主で、嗣子がなく28歳の若さで亡くなった織田信勝を祀る。
木の根橋の横にもレトロな木造建築が残る。
「旧柏原町役場」で現在は「丹波市柏原支所」として使われているようだ。
また、近くには「柏原町観光案内所」があり、観光情報のほかお土産も扱っている。
観光案内所の前には「八幡神社」の鳥居が立つ。
木陰の階段をゆっくりと上って行く。
万寿元(1024)年、京都の石清水八幡宮別院として創建されたそうだ。社殿は、天正13(1585)年の建造で国の重要文化財に指定されている。
社殿の後ろには「三重塔」があるが、神社で塔があるのは珍しい。丁度、「お初詣り」で赤ちゃんを抱いた家族がお参りをしており、神主さん自らが「さあ、記念撮影をしましょう。」と言ってシャッターを切っていた。神道は、おおらかな宗教だな。
参道を戻る。先ほどくぐった鳥居の向こうには、公民館と消防団の車庫が。平和な風景だなあと思った。
木の根橋を渡り、一つ目の路地を右に。
ちょっとした商店街に出るので左へ。すぐに駐車スペースとベンチがあり、その奥に神社とやぐらが見える。神社は「大歳神社」といい年神様をお祀りするのだろう。
神社の横にそびえる建物が「太鼓やぐら」で、柏原のシンボルになっている。江戸時代には大手門の隣にあり、三層の最上部には「つつじ太鼓」という太鼓が吊され、時報や藩主が参勤交代から戻ってきた時の合図として叩かれたという。明治時代になって現在の場所に移されたそうだが、太鼓の内側には寛文8(1668)年の銘が残っており、織田信休の国替え前から使用されていたものである。
電車の出発時間が迫ってきた。地方都市らしい雰囲気の商店街を通り抜け駅に向かう。
発車まで20分しかないので、駅の中の喫茶レストランで「天ぷらうどん」を注文した。太い、腰のしっかりとしたうどんで美味しかった。
午前11時56分発の電車で福知山へ向かう。ここでの歩紀「8178歩」(7.03km)。
出 発:JR「柏原駅」
到 着:JR「福知山駅」
「柏原駅」から27分。午後0時23分、福知山駅に着く。ここは、京都府だ。福知山線の終点であるとともに、山陰本線との乗り継ぎ点でもある。また、丹後「天橋立」方面へと続く「北近畿タンゴ鉄道(KTR)」の起点でもある。写真は、KTRの車両。
駅の北口から出てすぐ右側に観光案内所があるので、地図などをもらうと良い。次の電車まで約2時間20分の滞在。
駅前には「お城通り」という大きな通りが走っているが1本南側の路地を東に進む。コーナンを過ぎて突き当たりを右に、途中路地を左に折れて山陰本線の高架を右に見ながら東へと進む。突き当たりに「内記稲荷神社」。安全祈願をする。
神社の前には「市立惇明(じゅんめい)小学校」。かつての藩校「惇明館」からの歴史を受け継ぎ、明治6年に創立された古い小学校だ。
福知山市は、京都府北部(旧丹波國)に位置し、この地を支配していた「塩見氏」を織田信長の家臣・明智光秀が倒し、天正8(1580)年、初代城主となった福知山城を中心として栄えた城下町である。丹波地方でも古くから栄えた都市だ。
慶長5(1600)年、藩が置かれ、福知山3万2千石として明治の廃藩置県まで続く。その城跡には天守閣がそびえ、現在も行政の中心となっている。(右は、福知山市役所庁舎)
明治31年に入り、日清・日露に従軍、後にフィリピン・レイテ島で玉砕した陸軍歩兵第20連隊が大阪から移転し、軍都としても栄えた。現在も市南部に陸上自衛隊第7普通科連隊が駐屯し、福知山といえば自衛隊というイメージがある。
市役所前を通過して福知山城公園に向かう。途中、道をそれ路地から石垣を見上げる。
公園入口の横には「佐藤太清記念美術館」。
立派な石垣を右に眺めながら進んで行く。
大天守を望む。昭和60年再建だが大小2つの天守を備えた堂々たる天守閣だ。
城の防御設備である「石落とし」。石垣は「野面積み」と呼ばれ、自然石をそのまま積み上げる技法だ。
そして、福知山城の特徴としてあげられるのが「転用石」。転用石とは、石垣の石材として石臼などのほか五輪塔や宝篋印塔、灯籠、石仏までも利用するというものである。
梵字が彫られた石垣も。
転用石の使用例は、大和郡山城でも見られ同城では石地蔵まで転用したことから「逆さ地蔵の祟り」という言葉まである。福知山城では、再建時の発掘調査で500個余りの転用石が確認されており、古いものでは延文4(1359)年の銘文が刻まれた五輪塔が発見されているとか。転用石の数々。
天守閣に登る。天守閣の中は、どこの天守閣でもそうであるように埋蔵文化財や武具などの展示施設となっており、写真撮影が禁じられている。入館料は310円。火曜日が休館日である。
天守閣展望台からの眺め(西方向)。市役所やデパートなど地方の主要都市という感じがする。
北方向を望むと由良川。正面の藪は「明智藪」と呼ばれている。
城を出て陸橋を渡り由良川方面に歩く。道沿いには「消防団庫」。私の「歩紀」には、よく消防団庫が現れる。消防団とは、自治体消防を補完するため地域住民により編制された非常備の消防組織である。特に、東日本大震災以降は、地域防災の中核として注目されている。しかし、元々は村人の集まりだ。「俺たちの村は、俺たちの手で守る。」という気概の象徴だ。そのため「消防団庫」は、日本の原風景には欠かせないものだと私は思っている。
途中、なにやら古い建物が。(株)松村組の創設者である松村勇吉氏の旧邸で和風の町家と洋館が並ぶ。かつて水害に見舞われた福知山で、由良川改修に関わった松村組が、改修工事の完成度をアピールするため、あえて堤防の下に邸宅を構えたと言われている。
今は「仏蘭西焼菓子調進所足立音衛門」という洋菓子屋さんの本店として利用されている
由良川に架かる音無瀬橋から先ほど天守閣から眺めた「明智藪」を望む。「明智藪」とは、堤防の強度を高めるため明智光秀が植林した竹藪と言われる。明智光秀も水害と闘っていたのだ。右遠方に天守閣。
由良川の流れ。京都・滋賀・福井の3府県境にそびえる三国岳(775.9m)付近に源を発し、京都府北部を流れて若狭湾で日本海に注ぐ大河で、平成の最近に至るまで流域を水害で悩ませている。
堤防から町中に下り、川に沿って歩く。
福知山市治水記念館。明治13年建築の元呉服商を利用した施設である。
古い町家の中では時節柄「端午の節句」に因み武者人形や鯉のぼりなどが展示されていたが、その名前からもわかるとおり、水害の歴史を語り継ぎ、治水・水防のあり方を考えていくための施設である。
寺町・下柳町・鋳物師町と呼ばれるこの界隈には古い街並みや寺社が残されている。
稲荷社。前には手動ポンプ式の井戸があった。
今も現役のようでガラス戸越しに見た店内には「稲藁」が積まれていた。その他、針金やガラスも取り扱っているようだ。
「厄除神社」あたりで古い街並みは終わる。
神社前には「京・大坂」を示す道標が残る。多くの人たちが往来したのだろう。
町内を元に戻り、市街地の中央に鎮座する「御霊神社」へと向かう。大きな神社だ。
主祭神は、五穀・食の神様である「宇賀御霊大神」であるが、明智光秀も合祀されている。
神社前の公園には、昭和28年の水害における浸水位が表示されていた。市内の大部分が水没したようだ。そのため境内には、堤防を御祭神とする「堤防神社」というお社も祀られている。
かつての門前町、城下町としての名残だろうか、今も境内周辺には旅館や料亭、飲食店などが並ぶ。
ここは、雰囲気からしてかつての「花街」だろう。
「広小路商店街」と呼ばれる東西250メートルほどのメインストリートには映画館や飲食店が並び、商工会議所前には「福知山音頭」の等身大像が立ち、人々を迎える。福知山音頭とは、明智光秀の築城の際、領下の人たちが「ドッコイセ」のかけ声とともに歌い、踊り出したもので400年以上の歴史だとか。
何やら催し物をしているようで出店などが並び、多くの人が繰り出していた。
途中から右折して「新町商店街」というアーケード街に入る。どこの商店街もそうだが、人通りは少なくシャッターの店もある。
古い酒屋などもあるので、かつては賑わっていたのだろう。
ぼとぼち電車の時間が近づいてきた。路地を抜けて駅に向かう。途中、小さな稲荷社にお参りする。
古い個人病院。地方都市でこのような風景に出会うのが楽しみだ。苗字からすると明智光秀に滅ぼされた豪族の子孫か?
消防団も頑張っているな。
午後2時45分、JR福知山駅に到着。ここにも福知山音頭の像が。ここでの歩紀「12015歩」(10.33km)。
出 発:JR「福知山駅」
到 着:JR「綾部駅」
午後2時55分発の電車で綾部に向かう。ここからは山陰本線だ。
午後3時7分、JR綾部駅に着。建て替えられて間がないのだろう、きれいな駅舎だ。滞在時間は約1時間40分。
ただ、こういう風景を見ると地方のローカル駅という雰囲気があり、それが心地よい。
駅(南口)を出て、すぐ右側に観光案内所がある。この裏には日帰り湯(500円)が併設されているようだ。
明治16年、和歌山県西牟婁郡で生まれた植芝盛平という人物は柔術に励み、その後、綾部に移り住み「植芝塾」を開設。そこで合気道の前身である「合気武術」を生み出したことから、綾部と合気道は関連があるらしい。
駅前から東におよそ100メートルのところに「綾部天満宮」。安全祈願をのため参拝する。
小さなお社だが、地元の人々がきれいにお世話しているようだ。
西方向に戻り、駅前の商店街を抜ける。ここも地方都市の良い雰囲気が出ている。
これより「綾部八幡宮」へと向かうが、途中の公園から市内を望む。明治以前は、綾部藩という藩があったようだが、その後、明治、大正、第二次世界大戦を経て、昭和25年に市制。山に囲まれた人口3万5千人の小さな「市」である。
綾部八幡宮。「八幡」さんということは「応神天皇」を祀るのだろう。
境内の脇には、ご神木であろうと思われる杉の木。
神輿庫があり、毎年秋には大祭が行われ、市中を神輿が練り歩く。
山に沿って歩く。途中、公民館。「火の見櫓」「二宮金次郎像」「時計台」と村の「公」の中心地だ。昔は、各村にこういうエリアがあった。私もそういう中で育った。今は「個人情報、個人情報」といって自分を隠すが、当時は、こういう場で個人をさらけ出していた。良い時代だった。
ハイキングコースが設定されているようだ。私が歩いている道もそのコースに含まれている。
ずっと町中を歩いてきたが、突然、100メートルほどの区間だけ舗道がきれいに整備されている。
「なぜ、こんなところに?」という感じで居酒屋やスナック、ラウンジなどが並ぶ。ここは、昔のいわゆる「色街」だったのだろうか。
道なりに進んで行く。前方に赤い橋が見え、そのまま進むと「若宮神社」の前に出る。山の中に佇む神々しい神社だ。
結構、長い石段を登ると神殿に。仁徳天皇を勧進したとのことであるが、天孫「瓊々杵尊(ニニギノミコト)」とも関係の深い古い神社のようだ。
山手の若宮神社から下って行く。綾部市の大きな特徴は「大本(おほもと)」という宗教法人の本部つまり「聖地」ということだ。
俗に「大本教」とも呼ばれるが、正式には「大本」。明治25年、開祖・出口なおが神憑って発祥した神道系の宗教法人である。
「長生殿」と呼ばれる神殿は、20世紀最大の木造建築といわれ、信者だけではなく多くの観光客も訪れる。
奈良県の天理市ほどではないが、少なからず宗教の影響と恩恵を受けているようだ。
市の官庁街を抜け北へ進む。途中、JR山陰本線の旧鉄橋の橋脚が残っていた。
真新しい新興住宅街を抜けるが、突然、こんな古い住宅が現れたりもする。
綾部市のもう一つの特徴は、紳士用肌着でお馴染みの「グンゼ」発祥の地であることだ。
本社機能は、大阪市内に置くが、本店は綾部市に置く。
綾部市の前身である「京都府何鹿郡」が養蚕業の地であり、大正期に郡の方針つまり郡是(グンゼ)を繊維業とし「郡是製絲株式会社」が創業されたのが始まりとか。
大正6年築のグンゼ本社正門や昭和8年築の本社。
大正6年築の旧本社社屋である「グンゼ記念館」。
創業初期の繭蔵である「グンゼ博物苑」などなど大正から昭和初期にかけた歴史的建造物が並ぶ。
その他市内に点在する社宅などの関連施設やバス停など正に「グンゼ王国」である。
綾部駅北側の大部分がグンゼの敷地である。グンゼ研究所という大きな建物を過ぎれば今回の最終ゴールであるJR綾部駅(北口)だ。ここからは午後4時51発の山陰本線で福知山へ、午後5時7分発の「丹波路快速」に乗り換えれば約2時間15分で大阪へ着く。ここでの歩紀「9159歩」(7.87km)。トータル「29352歩」(25.23km)。
最後に、新しい旅の友を紹介します。「Nikon COOLPIX L26」。これまで使っていた「Nikon COOLPIX S620 」の調子が悪かったので買い換えました。旧モデルの廉価機種だが「歩紀」の友としては十分な機能だ。特に、電源が単3電池なのが良い。