「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

運動会

2024-10-30 21:16:52 | 日記
 先日、以前勤務していた小学校から招待状をいただき「元教職員」という立場で運動会の見学に行ってきました。前日まで雨風が強く開催が危ぶまれましたが、当日はちょっと風が強かったものの晴天に恵まれ青空のもと無事に開催されました。

 運動会に行くとよく「昭和生まれ」の人たちから「ワシらの時代は弁当持って一日中したもんや」という声が聞かれます。そうでしたね。ただ今はどこの学校も運動会は午前中に終わります。午前9時前ころから始まり正午前にはすべて終ります。
 理由はいくつかあります。家族と一緒に弁当を食べられる家庭環境にない児童への配慮。少子化による児童数の減少。今は本当に子どもが少なく団体演技でも個人競技でもひとつの学年ではチーム編成ができず、通常、低学年、中学年、高学年の3組に分けて行われます。つまりプログラム数がほぼ半減しているのです。また毎年続く「酷暑」。直射日光を遮るものがない運動場で丸一日競技を行うのは不可能です。どれも本当の理由だと思います。
 そして一番の理由は見学者の高齢化ではないでしょうか。保護者席の半分くらいが私たちのような「じいじ」「ばあば」で占められています。こんな老人を炎天下にさらせば干からびてしまいますよ。そう思うようになってからは私は「ワシらの時代は弁当持って一日中したもんや」という言葉は言わないようにしています。

 さて競技が始まりました。まだ転勤して2年ほどしか経っていないので、ほとんどの児童の顔は覚えています。3年間勤務したので一番手がかかった1、2年生だった子どもたちが5、6年生になっていました。みんな上級生らしく元気に走り、踊っていました。一番前で踊っている女の子。彼女はホルモンの関係で体がとても小さな子どもでした。ランドセルの底が地面に着きそうです。入学当時「せんせ~い」と言いながら駆け寄ってきて転倒、ヘッドスライディングして泣きながら抱きついてきた子です。今は5年生になり知能や運動神経には問題がないので上手にダンスを踊っています。とても「美人」な子です。ただ5年生とは思えないほど小さな体です。3年生くらいの体で一生懸命踊っていました。ちょっと何か涙腺が崩壊してしまいました。
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80年代の韓国歩紀~「高速バス」で釜山へ

2024-10-27 08:50:31 | 日記
 今回から舞台はソウルから釜山へと変わります。ソウル~釜山は現在であれば航空機の国内線か韓国の新幹線にあたる「KTX」で移動するのでしょう。当時でも韓国の二大都市を結ぶ「京釜線」という日本でいえば東海道本線にあたる鉄道に「セマウル号」という特急列車が走っていました。しかし私は「高速バス」を利用して釜山へ向かいました。写真はバスチケットの半券です。漢江の南側にあった「高速バスターミナル(コソクポストミノル)」からバスに乗りました。覚えていませんでしたが半券を見ると441.4kmの旅。料金は5780ウォンだったんですね。当時の日本円で1000円以下です。安いですね。


 また私は車内で軍服を着た同年代の男性と知り合いになりました。日本人であるにもかかわらず韓国語が喋れた私に興味を持ったようです。当時の韓国では私のように怪しげな韓国語を話す日本人はまず「キョッポ(僑胞)ヤ?」と聞かれます。「僑胞」とは彼らから見た「在日韓国人」のことです。適当に「ネ(はい)」と答えればそれで済むことも多いのですが「アニ。イルボンサラミヤ(いや日本人だよ)」と答えると急に親近感を持って話しかけてきます。そんな時代でした。

 彼は釜山の出身でしたがソウルの「建国大学校」に進学。その後、休学し兵役に就いているそうです。「下士(伍長=三曹)」の階級章を付けていました。どこの部隊にいるのかは「軍の秘密」と言って教えてくれませんでしたが、夏季休暇を利用して帰省する途中だったようです。ただ兵役中に実家が引越したため新しい家に帰ったことがなく、釜山に到着後私と二人で住所を頼りに彼の実家を捜し歩きました。スマホのない時代です。その日は釜山の居酒屋で酒を飲みました。将来の夢は建築家になることだそうです。
 彼と住所の交換をしたのですが、その後、お互い住所が変わったため音信不通です。
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朝の通勤電車内にて

2024-10-24 07:09:28 | 日記
 昨日のことです。

 私は毎朝「阪急電車」で通勤しています。ゆっくりと座って行きたいのでちょっと早めに家を出て、1本遅らせてその駅が始発の電車に乗っています。通常より7~8分到着が遅れますが、十分余裕を見ているのでまったく問題はありません。無人の車両に乗車すれば、次の駅で座席が埋まり徐々に混雑していくという感じの混み具合です。

 私は座席シートの2番目に座りました。右端にはイヤホーンを着けた20歳過ぎの女性が座りその隣が私です。私の左にはビシッとはしていませんが、一応スーツ姿の30歳代くらいの男性。スマホを見ています。その隣にはタブレットに夢中の男子高校生が。8人掛けでしたのでその先にも4人くらい座っていたと思います。そして電車は出発。
 私は眠ってはいませんが目を閉じて静かに座っていました。ところがいくつか駅を過ぎた頃、私の肩を誰かがポンポンと叩くのです。私が目を開けると隣の女性の向かいつまり私の右斜め前に立っていた私服姿ですが高校生と思われる女子が辛そうな顔をして「スミマセン。しんどいので座らせてもらえませんか?」と言うのです。私は「良いよ」と言ってすぐに席を立ち、「いつか良いことがあるだろう」「両親が授けてくれた頑健な体に感謝」などと考えながら快く席を譲ってあげました。それだけのことです。

 ただあの女子はなぜ私に声をかけたのでしょうか。私は65歳を過ぎ優先席に座っていてもいい年。あの4人の中では一番高齢者だったのですが。

 実は私は町でよく人から道を尋ねられます。別に地元の住民でもなく単なる通行人なのですが…。それも「何回か」ではなく「何回も」です。ある時は韓国人のおばさんからハングルで書かれたメモを見せられ道を聞かれたこともあります。私が韓国語を話せることなどわからないはずなのに。それどころか韓国旅行に行った際、ソウル市内で韓国人から道を尋ねられたことも。「あの私。日本から来た旅行者なんですけど……」。それ以外にも突然呼び止められ「今何時ですか?」と時間を聞かれたり、列車トラブルのため遅れた電車で到着し、駅を出たところで家族を迎えに来ていたと思われる奥さんから「事故か何かあったんですか?」と尋ねられたこともあります。他にいっぱい人がいるのに。おそらく私からは人が声をかけやすいオーラが放出されているのでしょうね。「キャッチセールスに引っかからないように気をつけよっと」
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80年代の韓国歩紀~板門店

2024-10-21 12:01:59 | 日記
 南北軍事境界線(北緯38度)にある「板門店(パンムンジョム)」。今回の旅行で最も行きたかった場所です。ここは単なる観光地ではありません。前日までに「韓国観光公社」というところで申請をしなければなりません。ソウル中心にある当時では最高級であった「ロッテホテル」に公社の窓口があったので入国当日に申請しました。

 その際、パスポートを提示し「生命の保障はしません」という書類にサインします。また軍事的緊張や急な会談などが入ればツアーは中止されます。8月18日分のチケットをゲットしました。

 バスはソウル市内を出発しますが一部の観光施設を除いて写真撮影は禁止されていました。これは「フィリピン軍参戦記念碑」です。板門店が近づくにつれ戦車阻止用の巨大なコンクリート塊が設置されていたり、まるで路上駐車するかのように道端に装甲車が止まっていたりと緊張感が増してきます。


 途中、バスは何度か検問所を通過するのですが、その際拳銃を吊った「国連軍兵士」が乗ってきて全員のパスポートを確認しました。これは当時板門店には韓国人は行けなかったことから「外国人」という確認です。当然ですが私はここでは外国人なのです。そして日本でも上海事変当時、破壊筒を抱えて鉄条網に突入し突破口を開いた「肉弾三勇士」という軍神がいますが、朝鮮戦争当時の韓国軍による軍神「肉弾十勇士」。その忠勇塔で見学休憩です。


 最後のゲートを通過すれば「共同警備区域」に入ります。映画にもなりましたね。この区域だけは写真撮影が自由でしたが北朝鮮兵に手を振ったり挑発的な行動を取らないようにと注意がありました。また服装もGパンや女性のミニスカートは禁止でした。説明は英語と日本語でされます。ここは韓国でありながら韓国人はいないのですから(兵士や従業員はいます)。これは「自由の家」と呼ばれる国連軍側の施設です。良い天気でしょ。旅行中の1週間ずっと快晴でした。ちょっと暑かったですが。


 そして軍事境界線を挟んで向かいには北朝鮮側の「板門閣」。中から北朝鮮の兵士がずっと双眼鏡でこちらを監視していました。


 本来であれば「本会議場」に入り会議用のマイクケーブルが境界となっている軍事境界線を越えて北朝鮮側に足を踏み入れることができるのですが、この日は写真のとおり工事中で残念ながら見学することはできませんでした。建物の中央を通るコンクリートの小さな段差が軍事境界線です。警備をしているのは国連軍の黒人兵士です。


 北朝鮮側にあるこの村は夜になっても明かりは灯されず、煙突からは煙も出ないことから「宣伝村」と呼ばれています。高さだけは東京タワーやエッフェル塔に匹敵するそうですが「見栄」や「はったり」で建てた安物の鉄塔がそびえます。


 「帰らざる橋」です。昭和51年の今日。ここで監視の障害となっていたポプラの枝を剪定していたアメリカ兵や韓国兵、韓国人作業員が斧を持った北朝鮮兵に突如襲われ、アメリカ兵2名が殺害されるという「ポプラ事件」が発生しました。当時共同警備区域内に境界線は設定されておらず「南北」入り混じって警備していたそうです。この後、アメリカ軍は威信をかけ空母、爆撃機など陸海空全軍を動員して、この小さな1本のポプラの木を伐採したそうです。ちょうど7年後の当日、その切株がまだ残っていました。


 この後、将校クラブでコーヒーを飲んだ後、ツアーは帰路につきます。
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阪急電車が「トムとジェリー」とコラボ

2024-10-16 22:17:48 | 日記
 ♪ トムとジェリー 仲良く喧嘩しな… ♪

 1940年。アメリカで制作されたアニメです。ドジな飼いネコ「トム」とずる賢いネズミ「ジェリー」との間で繰り広げられるドタバタアニメ劇。日本でも昭和40年代に放映されたことから「昭和世代」にとっては懐かしいアニメドラマのひとつです。私もそのひとりです。


 「イヌ派」「ネコ派」。私は「イヌ派」なので、実物でもイラストでもキャラクターでもネコを見て「かわいー」という感情はあまりないのですが、ドジで間抜けなトムだけは別です。「かわいい」ですね。
 そして令和6年8月23日から阪急電車と系列会社である能勢電車が「トムとジェリー」とコラボ。色んなイベントを開催しています。


 阪急電車の主要路線である「神戸線」「宝塚線」「京都線」の一部車両で「トムとジェリー」のラッピング列車が運行されいます。




 ヘッドマークも。運転席にはトムとジェリーのぬいぐるみが。阪急電車はこれまでも「すみっコぐらし」や「ちいかわ」などともコラボし、その度にラッピング列車が運行されていました。


 能勢電車でも3つの種類のヘッドマークを付けた車両が運行されています。


 車内にはたくさんのポスターも。キャンペーンは令和7年3月27日まで。その他にもスタンプラリーや関連グッズの販売も行っています。詳しくは阪急電車のホームページで。


 その他「SDGs」や「関西万博」などのいろんなラッピング列車が走っていますよ。
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ワークライフバランス

2024-10-13 21:49:17 | 日記
 高度成長期もバブル景気も終りました。もう個人や私生活を犠牲にして働く時期は過ぎました。そして働き方改革が進む中「ワークライフバランス」という言葉が生まれました。業種や会社の規模によって違うと思いますが、要は仕事一辺倒ではなく仕事と私生活のバランスを取りながら働きましょうということだと思います。ただ一定の定義があるわけではなく「肯定派vs否定派」「積極派vs消極派」「ポジティブ派vsネガティブ派」の中、どちらでも主体として存在できる極めてあいまいな耳障りが良いだけの言葉です。

 以前の職場で上司が言った言葉です。「なぜワークライフバランスというかわかるか。ワーク(仕事)が先でライフ(生活)が後。つまり仕事第一ということだ」。おそらく人の上に立つべき人ではないと思いますが、実際にはこのような人が上に立っています。

 このような人が淘汰されたときワークライフバランスが実現できるのでしょうね。
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80年代の韓国歩紀~ウォンデゥマック

2024-10-10 17:36:36 | 日記
 写真の櫓は日本語で表記するのは難しいのですが、あえてカタカナ表記すれば「ウォンデゥマック(ハングルでは3文字で表記できます)」という瓜やスイカ、いわゆる「瓜畑」で見られる番小屋です。民俗村にありました。授業で習い知っていましたので写真を撮りました。上で寝転がっている男性は見張り役を演じている民俗村の従業員です。良い仕事ですね。


 以前、東京に住んでいるとき韓国ラウンジに行ったことがあるのですが、その店の名前が「ウォンデゥマック」でした。私が店の女の子に「ああ、ウォンデゥマックって瓜畑の見張り小屋のことですよね」と言うと「そんな韓国語まで知っているんですか」と驚かれたことがあります。

 この後、昔の牢獄を見に行ったのですが、途中すれ違った男性たちが「暇な大学生のアルバイトに良いね」としゃべっていました。何を言ってるのかなと思いながら牢獄に行くと囚人役の人形が座っていました。韓国語を習い始めて1年半も経っていませんが、その程度の韓国語は聞き取れるようになっていました。
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琵琶湖一周歩紀6~秋風を受けながら「湖北」から「湖東」へ~

2024-10-07 02:57:43 | 日記
訪問日:令和6年10月6日(日)
出 発:JR「長浜駅」
到 着:JR「彦根駅」

 まだまだ暑い日は続きますが、朝夕はめっきり秋めいてきましたね。琵琶湖一周歩紀も折り返しです。クマとの遭遇と殺人的な猛暑を避けるため3カ月パスしましたが、今回は「羽柴(豊臣)秀吉」ゆかりの地「長浜」から琵琶湖東岸のさざなみ街道を「彦根」までつまり「湖北」から「湖東」へと歩きます。単調な湖岸を直線的に歩きますがコンビニや道の駅もあり、緑地公園も多いので給水・トイレには困りません。


 前回「ドライブ歩紀」のゴール「長浜駅」。大阪駅から約2時間(1980円)。前回は西口に到着しましたが、今日は表玄関である東口に降り立ちました。ちょっとお洒落な駅ですね。朝4時に起きて最寄りの始発に乗り、午前8時23分、今日もニコニコ出発です。ここは滋賀県長浜市。そしてこの駅は「北陸本線」。


 駅の東口から出て北方向へ進みます。「長浜駅前交差点」の角というか駅前広場の端というか。駅のすぐ前には「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」が立ちます。長浜城主となった「羽柴(豊臣)秀吉」が鷹狩の途中に立ち寄った「法華寺」で小姓をしていた後の石田三成と出会い、三成が三杯の茶を献上したという話に因み立てられたそうです。


 そのまま駅前交差を渡りアンダーパスへの道を左に見ながら真っ直ぐ進めば右に「長濱の地名起源歌碑」。案内文によると秀吉が長浜城を築城する際、当時「今浜」と呼ばれた当地を「長浜」と改めたそうです。横には「長浜城家臣団屋敷跡」碑が立ちます。そして沖縄料理店の駐車場看板も。


 その先には「豊国(ほうこく)神社」。大阪城内にもありますが秀吉を祀る神社です。(午前8時28分)


 秀吉に因み「出世」のご利益がありますが、私にとって出世はもう関係ありません。今日一日の安全を祈願します。


 また境内には「加藤清正公像」。


 正面から撮影すると「電気いす」状態になりますよ。


 東側の鳥居をくぐりすぐ右の交差点を左に曲がります。次の交差点角には「長浜城大手門跡」碑が立ちます。そしてこの前の道は「外堀くすのき通り」と呼ばれ、ここに長浜城の外堀があったようです。


 長浜城は後ほど訪れます。信号を渡りましょう。良い雰囲気になってきました。正面には商店街のアーケードが見えます。


 アーケードの手前には「黒壁スクエア」というレトロな建物。ガラス工房になっています。そしてこの前を南北に走る道が「北国街道」です。左に曲がりましょう。(午前8時34分)


 観光地として街並みが整備されていますが、当時の建物が並び良い雰囲気ですね。


 まだ朝早いので人も少ないですね。街並みを楽しむにはその方が良いです。


 次の四つ辻には「旧中魚屋町通り」の碑がありました。真っ直ぐ進みます。


 このあたりは「武者隠れ道」と呼ばれ、各屋敷が不規則に出たり入ったりしており、戦の際はその陰に武者が身を隠したそうです。攻撃側の足を止めますね。


 右に「真宗大谷派願養寺」を見ながら進みます。


 次の四つ辻を左折します。ここにも古い屋敷がありました。「今重屋敷能舞館」というそうです。


 というか付近にはたくさんの旧家が残されています。


 再度「外堀くすのき通り」を渡ります。少し進めば「従是東長濱領」碑が立ちます。


 そして二つ目の四つ辻から右を覗き込めば「本願寺長浜別院」の山門が見えます。山門を背に左へ曲がりましょう。


 次の四つ辻で右に裁判所や検察庁が見えれば左折し、再び「外堀くすのき通り」を渡ります。角には背の高い蔵が。長浜では毎年4月9日から17日まで「長浜曳山祭り」が行われ町内を曳山が巡ります。そのひとつ「鳳凰山曳山蔵」です。(午前8時44分)


 真っ直ぐ進み先ほど「旧中魚屋町通り」の碑が立っていた四つ辻を直進。正面にアーケードが見えてきます。「ゆう壱番街祝い町通り」というようです。入って行きましょう。


 交差する筋も趣きがありますね。




 アーケードを抜けて真っ直ぐ進めば左に「諌皷山曳山蔵」。


 川を越えそのまま進み左に赤十字病院がある交差点に出れば右折。消防団庫の前を過ぎれば左に「長濱八幡宮一の鳥居」。お参りしましょう。右に見えるのは「高砂山曳山蔵」。


 駐車場を左に見ながら進めば手水舎があるので、その先の鳥居をくぐります。延久元(1069)年、京都の石清水八幡宮から勧請されたそうです。(午前8時59分)


 神社横の街並み。良い雰囲気ですね。


 参拝を終え一の鳥居前を真っ直ぐ進み「金屋町」の石碑が立つ小さな公園に出れば左へ。


 すぐにアーケードがあるので入りましょう。このアーケードは先ほど黒壁スクエアから見えたアーケードで「長浜大手門大通り商店街」といいます。すぐに川が流れておりそこには「大手橋」。何かイベントが行われるようです。あちこちで出店の準備をしていました。


 アーケードの下ですが良い雰囲気ですね。


 次の四つ辻を右に曲がればすぐ右に「曳山博物館」。(午前9時7分)


 左隣に建つ旧家は「旧四居家住宅」。中は「湖北観光情報センター」という観光案内所になっています。キッチンカーなども出ていましたよ。


 曳山博物館は午前9時開館のようです。入館料600円。


 JAF会員割引だと480円です。


 曳山祭りは先ほどお参りした「長濱天満宮」の祭礼として、天正年間(1570年ころ)城主秀吉により始められたそうですよ。


 13基の曳山が巡行するそうですが、ここには4基の曳山が展示されています。昭和54年、国の重要無形民俗文化財に指定され、その後平成28年には「ユネスコ無形文化遺産」に登録されたそうです。


 「無形」ということはこの曳山ではなくお祭り自体が登録されたんですね。すごいですね。


 見学を終え「長浜大手門通り商店街」を越えて真っ直ぐ進みます。その先の「元浜町交差点」の信号も渡りまっすぐ進みます。角には「開知学校跡」碑。(午前9時20分)


 そしてその先、川沿いには「孔雀山曳山蔵」。


 「堅ボーロ」って何。木の看板には「陸軍御用達」って書かれてますよ。日露戦争時に軍医薬品として開発された「征露丸」が今では「正露丸」と表記されているように「ボーロ」というお菓子も戦場での非常食として使用され「亡露」と表記されたこともあるそうです。あの国と仲良くなるにはもう少し時間がかかりそうですね。


 さらに進んで行けば右に「萬歳楼曳山蔵」。


 二つ目の四つ辻を右に曲がれば「月宮殿曳山蔵」と曳山蔵が続きます。


 この曳山蔵前の路地を入れば「従是北西長濱領」碑。これについては後でお話しします。


 狭い道を進んで行けば橋の手前に何やら蔵が。


 「長濱浪漫ビール」の蒸留所のようです。前回はお世話になりました。中はビアレストランになっているようです。そして石柱は背面なので見えませんが「長浜城外堀跡」と刻まれています。


 「朝日橋」で外堀跡を渡り北陸本線の踏切の手前に古い酒屋さん。酒屋には「造る酒屋」「売る酒屋」「飲ませる酒屋」がありますが、私は全部好きです。ここは「売る酒屋」です。


 踏切を渡れば右に「長浜鉄道スクエア」。(午前9時32分)


 建物は「旧長浜駅舎」。明治15年に完成した現存する日本最古の駅舎だそうですよ。


 鉄道ファンでなくとも一見の価値ありです。特に私のような「レトロ」ファンにとっては。


 奥には実物の蒸気機関車(D51)と電気機関車が展示されています。10分ほど見学して出発です。入場料は300円(JAF割引240円)です。


 その真ん前には「慶雲館」。明治天皇ご夫妻が京都行幸啓の際、大津港から長浜港まで船に乗り琵琶湖をご視察。長浜駅での乗り換えの際にご休憩場所がないということで、地元の実業家である浅見又蔵が私財を投じて3カ月の突貫工事で完成させたそうです。立派な迎賓館と日本庭園があります。明治天皇ご夫妻は45分間の滞在で列車に乗り名古屋へ向かわれたそうです。先ほど通った「開知学校」も浅見又蔵が設立したそうですよ。立派な方ですね。私は以前、職場の慰安旅行で「鴨鍋」を食べに来た時、毎年ここで開催される「長浜盆梅展」を見に来たことがありますので今日は先に進みます。


 慶雲館の端っこには「旧長浜港跡」碑。


 その先で大きな通り(さざなみ街道)に出るので歩道橋を渡ってから右折しましょう。道なりに進めば左には「豊公園」。これより「長浜城跡」を歩きます。(午前9時46分)


 長浜城は秀吉が浅井長政を破った功績により織田信長から領地を与えられ「小谷城」の城主に。しかし小谷城が山間の厳寒地であったことから湖岸の長浜城を築城。秀吉が初の城主となったお城です。


 階段を上れば広場になっており、その片隅に「旧長浜領境界碑」が立ちます。長浜は秀吉により年貢が免除されたことから、その境界を明らかにするため30数本が建てられました。今では10本余りとなり元の場所にあるのは数本だけだそうです。これも別の場所から移されたものです。ここに来るまでもいくつか復元された「境界碑」がありましたね。


 広場の真ん中にある2つの石の横には「長浜城石垣根石」と刻まれた石柱。


 広場の奥に天守閣が建ちます。といっても模擬天守です。しかし全国で現存天守は12カ所のみ。それ以外はすべて再建。同じ場所や古図を元に再建されているものもあれば、単に想像図で造られた天守閣風の建物もあります。ここも元の天守台は少し西側の林の中にあるそうです。


 この天守閣は市民の熱望により昭和58年に再建されました。全国各地に多数の天守閣が再建されているということは、地元の人たちにとってお城は「誇り」なのでしょうね。


 「長浜城歴史博物館」という博物館になっています。長浜城自体は廃城となり資材の大半は彦根城の築城に使用されました。入館料は410円(JAF割引330円)です。


 2階では明治・大正の文人画家「富岡鉄斎」の没後100年を記念して特別展が開催されていました。3階は湖北地方の歴史や文化、秀吉の活躍などを紹介する展示室になっていますが何れも写真撮影は禁止です。そして最上階は展望台になっています。長浜市内が一望できます。


 西側には琵琶湖が広がります。


 東側には山上は雲が被っていますが「伊吹山」。その右遠方に「関ケ原」があります。城主と同じ目線で城下を眺められる。このような博物館や展望施設は他の国にはないんじゃないでしょうか。


 見学を終え、先ほどの石段を下りてトイレ前を過ぎれば「長浜城本丸跡」の碑。今でも会社で「本丸が落とされた」といえば「本社」がやられたという意味です。それほど重要な意味を持ちます。そしてそれまでの城は「軍司令部」的な存在でしたが、秀吉にとっては「行政府」的な存在だったのでしょうね。その頃から秀吉の頭には「天下統一」があったのでしょうか。


 本丸跡を背に真っ直ぐ進んで行きます。「豊公園」はサクラの名所でもあります。


 円形の噴水池に出れば左へ。長浜城を後に駐車場方向に進みます。(午前10時8分)


 駐車場を抜ければ左に鳥居が見えてきますが神社ではありません。


 「明治山旌忠(せいちゅう)塔」という戦没者の慰霊碑だそうです。彼岸花がきれいでした。「合掌」


 明治山旌忠塔の向かいの道を入れば「長浜港」。ヨットハーバーや竹生島への定期便。「花見」「雪見」クルーズなどがある結構大きな港です。


 元の道に戻りその先の「港町交差点」でさざなみ街道と合流するので右折します。


 琵琶湖を右に「彦根」に向かって歩きます。この道は「ビワイチサイクリングロード」でもあります。


 かなり前から目に入っていたのですが左には大きな仏様。阿弥陀如来で「長浜びわこ大仏」と呼ばれています。新しい大仏かなと思っていましたが戦前からある仏様で2代目だそうです。後ろ姿だけを拝んで失礼します。(午前10時29分)


 山が迫っていた湖西と異なり湖東は広い平野が広がります。伊吹山の頂上も顔を現したようです。


 川を越えてしばらく進むと左に「セブンイレブン長浜バイオ大学前店」。(午前10時49分)

 
 途中何カ所か湖岸緑地がありましたが、この店の前にも駐車スペースがあり湖岸に下りることができます。


 眺めも素晴らしいですよ。このあたりが琵琶湖の東西では最も広いところではないでしょうか。


 さっきから気になっていたのですが「長浜ドーム」というようです。


 ドームを過ぎたあたりから「米原市」に入ります。


 彼岸花がきれいですね。


 「土川」を越えれば「道の駅近江母の郷」。「サービスエリア」は車でないと行けませんが「道の駅」は歩紀ニストにとって楽しみのひとつ。そして重要な「オアシス」です。


 小さな噴水のようなものがありました。何か錆びているようですね。これについては後でお話しします。


 時間は。ちょっと早いですが、今日は朝が早かったので昼食にしましょう。


 「皿そば泉希」に入ります。この店は伊吹そばが有名だそうです。ただ営業時間が午前11時から午後2時までなのでご注意を。


 名物の「皿そばセット小盛釜揚げしらす飯」(税込1460円)を注文しました。以前食べた「出石そば」のように小さな皿に盛られたそばが5皿とミニしらす丼が出てきます。それぞれ薬味を使い分けて5つの味を楽しめるのですが、私は「とろろ」がアレルギーのため食べられないので、とろろのみキャンセルしました。しらす飯も美味しかったですよ。


 昼食を終え午前11時45分出発。琵琶湖を右に見ながら歩きます。


 すぐに左に集落が現れます。「世継(よつぎ)」という集落のようです。湖岸への階段がある三叉路を左に入りましょう。


 ひとつ目の四つ辻角に何やら湧き水が。


 これは「かなぼう」といい、水が湧き出ているところや洗い場という意味だそうです。伊吹山系を水源とする湧き水で温泉成分が含まれているそうですよ。道の駅にあった噴水のようなものは「かなぼう」と同じ水源の湧き水だそうです。


 よく中高年のカメラマンやハイカーのマナー違反が指摘されていますが、地元の人と会えばニッコリ笑って「こんにちは」と挨拶をしましょう。挨拶それは魔法の言葉です。


 この四つ辻を右に曲がり少し進めばそこにも「かなぼう」。水温は年中を通して18度だそうです。そのため温泉ではなく「冷鉱泉」に分類されます。


 この横の路地を入って行き左に折れるとそこにもありました。鉄分でしょうか樋が茶色に変色しています。


 元の道に戻りさらに進んで行きます。左には「春日神社」。さらに道なりに狭い道を進んで行きます。


 突き当りを右に曲がり次の四つ辻を左折すれば「真宗大谷派浄念寺」。湖東地方には広い田園地帯の中に無数の小さな集落があります。そしてそれらは浄土真宗のお寺を中心に構成されており「中世湖東の寺院集落」と呼ばれるそうです。この「世継」もそうです。


 お寺の先の小さな路地を左に曲がり突き当りを右へ。ここにも「かなぼう」がありました。


 そのまま真っ直ぐ進み小さな四つ辻を左に折れれば、ここにも小さな神社が。


 その先にも鳥居があったのでくぐると「蛭子神社」でした。私のブログに何度も出てきますが「蛭子」は「海」「航海」の神様です。そして「恵比須様」「戎様」「えべっさん」へと続きます。湖国にも蛭子が祀られているのですね。


 鳥居をくぐれば世継集落のマップがありました。アップで撮影しておきますね。


 そして鳥居を左に見て真っ直ぐ進みます。県道を渡って3~40mほど進めば田んぼの中にも「かなぼう」がありました。温泉成分がありますが飲用には向かないそうです。村の人たちは野菜の洗浄などに使っているそうです。決して足湯はしないでください。遠くには伊吹山。


 県道に戻り左に進めばさざなみ街道に突き当たるので左に進みましょう。(午後0時17分)


 曲がればすぐに「天野川」を渡ります。結構大きな川ですね。


 橋を渡って少し歩けば右に「朝妻湊跡」の碑。このあたりは奈良時代から江戸時代にかけて港町として栄えました(案内文より)。


 さざなみ街道を進みます。湖岸側の歩道は「ビワイチサイクリングロード」になっているようなので、次の押しボタン式信号で反対側の歩道に渡ります。


 入江橋という橋の手前をちょっと左に曲がりましょう。「琵琶湖干拓資料館」という看板。向こうに見える建物がそうです。


 このあたりは「入江内湖」を干拓して開かれたそうです。


 橋を渡れば「米原排水機場」。


 元のさざなみ街道に戻り「筑摩神社」の前を過ぎます。神社を過ぎれば横断歩道があるので湖岸側に渡りましょう。


 遠くに「沖島」。淡水湖に浮かぶ日本唯一の有人島です。


 その先には「磯の東屋」。夕陽がきれいだそうですよ。そうか湖東は「サンセット」が見られるんですね。(午後0時48分)


 そして東屋の先から砂浜が続きます。


 先は突き当りになっているようなので元の道に戻り、さざなみ街道と分かれてビワイチサイクリングロードのペイントに沿って歩きます。


 そのまま進んで行くと「磯橋」という橋の右側は小さな船溜まりになっており、奥の堤防上には古い石垣がありました。


 その先左側には古い消防団庫。これまでもお話ししてきましたが私は「消防団庫」が大好きです。「俺たちの村は俺たちの手で守る」という日本の原風景だからです。


 右側には新しい消防団庫。隣は磯崎神社の御旅所のようです。(午後0時59分)


 琵琶湖を右に見ながら進みます。


 左の集落も「正行寺」「上妙寺」「喜光寺」というお寺を中心にした寺院集落のようです。


 ちょっと湖岸に下りてみましょう。さざなみが打ち寄せています。「海」でしょ。


 しばらく歩けばさざなみ街道と合流。その先には先ほどの御旅所の本宮である「磯崎神社」が。


 その向かいには ♪…烏帽子岩が 近くに見える…♪


 彦根市に入ったようです。


 烏帽子岩を過ぎ航空写真で見ればここは埋立地なのでしょうか。リゾート施設や海外大学の分校がある一画を進みます。


 そして松原湖橋で「矢倉川」を渡れば右に砂浜が見えてくるので入って行きましょう。(午後1時23分)


 この1kmほどの砂浜は「松原水泳場」。公衆トイレがあります。


 「潮風?」を浴びながら砂浜を歩きましょう。しかし先ほどから「潮の香り」がします。前回もお話ししましたが、私たちが「潮」と思っている香りは、実は膨大な量の「エイチ・ツー・オー(水)」と水草(海草)の臭いではないのでしょうか。


 「ウィンドサーフィン?」でしょうか。私はマリンレジャーについてはあまり詳しくありません。


 沖には「多景島」。竹生島のように全島が寺院の境内である多景島は島の中央に仏塔が立ち、それがマストのようで明治時代の軍艦のように見えます。


 ホテルに突き当たれば左に折れ、ビワイチサイクリングロードに戻ります。左には何やらこんもりとした森が。ここは「松原城(磯崎城とも)」と呼ばれる城跡で江戸時代には旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)として使用され当時の建物や庭園などが残るそうです。春と秋だけ無料で一般公開されますが、秋は11月に公開されるそうです。


 さらに進んで行けば右に「彦根港」への入口。角に公衆トイレがあります。入って行きましょう。

 
 ここは「竹生島」を訪ねた時に観光船に乗った「オーミマリン」の船着場です。


 その先にある緑地の中には「琵琶湖周航の歌」歌碑。(午後1時40分)


     ♪ 矢の根は深く 埋もれて 夏草茂き 堀のあと 古城にひとり
          佇めば 比良も伊吹も 夢のごと ♪(5番)

 結構大きな船も停泊しています。


 「多景島」への観光船も発着します。実は私が小学生のころ両親に連れられて多景島に行ったことがあります。無人島ですが竹生島のように「見塔寺」というお寺の境内になっています。これはその当時の写真です。昭和45年ころでしょうか。


 兵頭さんの「今昔さんぽ」のように同じ場所から写真を撮ってみました。「はいチーズ」「カシャ」


 さあ。ここからは以前と同じルートで彦根市街に向かいます。今回は「松原交差点」を渡り右側を歩きましょう。


 水路の向こうには滋賀大学や市営のグランドがあります。


 ふたつの艇庫が並びます。「滋大」「東高」。滋賀大学と彦根東高校の漕艇部艇庫です。


 現在も工事中のスポーツ公園へと続く橋(歩道橋)がありましたが、まだ渡れないようです。歩道もここで行止まりです。「もう。それなら看板立ててよ(怒)」。仕方ありません松原交差点まで戻り横断歩道を渡ります。10分近く時間をロスしました。


 そして道路向かいの階段は上ることができました。「何でやねん(怒)」。この水路は彦根城の外堀かと思っていましたが、この辺りはかつて「松原内湖」という内湖だったんですね。彦根城の外堀というよりも琵琶湖そのものだったようです。


 サッカー場やテニスコートを右に見ながら水路に沿って進みます。


 この道も行止まりになりますが、市立図書館前を抜ければ「旧彦根港」に出ることができます。


 彦根城は前回訪れました。お城の南側には江戸時代の町並みを再現した「夢京橋キャッスルロード」やいくつかの屋敷も残るようです。次回「第7回」で歩きましょう。と言うことで今日は前回スルーした彦根城から彦根駅までのちょっと裏道を歩きます。「船町交差点」を渡りましょう。正面には「石川千代松像」。琵琶湖の「小鮎」はアユの別種ではないということを実証した人です。そのため川に放流すれば立派に成長することから全国で放流されているアユのほとんどは琵琶湖生まれの小鮎だそうですよ。


 彦根市は前回もお話ししたように結構市街地化が進んでいます。街並みというほどではありませんが所々古い建物が残ります。石川千代松像の右にある路地に入り、ひとつ目の四つ辻を右折。最初の四つ辻角に「絹屋半兵衛屋敷」。


 伊万里から職人を呼び寄せ「湖東焼」という窯を創始したそうです。虫籠窓や土蔵が残る立派な旧家です。


 この四つ辻を左へ。ここにも虫籠窓やうだつが残る旧家が。


 その先に「酒舗まえたに」。この店も良い感じですね。入りましょう。ところが日曜日は定休日でした。「残念」


 さらに進めば駐車場に突き当たる三叉路に出ます。右の一方通行路に入りましょう。


 虫籠窓やうだつが残る旧家を見ながら200mほど進めば右に「中村商家保存館」。間もなくゴールです。


 今の時期、内部が公開されているようです。彦根城が完成したころに建てられた商家で国の登録有形文化財に登録されています。ところが「臨時休館」でした。仕方ありませんね。


 その先の大きな通りは前回歩いた「駅前お城通り」。左に見える「旭町西交差点」で渡ります。「佐和町商店街」と言うようです。いくつか酒屋さんがありましたが全て閉まっていました。最初の四つ辻を右に曲がります。100mほど歩けば左に「大村家」という旧彦根藩の武家屋敷跡。今は別の方が住まわれているようです。


 さあゴールに向かいましょう。佐和町商店街の一つ手前の路地を左に曲がります。そこには「真言宗大師寺」。日本唯一の「寝弘法さん」だそうです。


 お堂の中では「お大師様」が横になっていました。「南無大師遍照金剛」


 さあ「駅前お城通り」まで戻り右へ。午後2時32分、本日のゴール「彦根駅」に到着しました。「井伊直政公」がお出迎えです。久しぶりの「フル歩紀」。結構な距離を歩いたので「足腰に来るかな」と危惧していましたが、気候が良いせいでしょうか全然疲れませんでした。足腰も大丈夫です。ここから大阪駅まで約1時間20分(1980円)。午後2時55分発の新快速に乗ります。


 ちょっと見辛いですが本日の歩紀「30919歩」(21.02km)。実はこれまで愛用していたキャノンのデジカメが不動状態に。まあ10年以上経ちますし、特に夏場は炎天下にさらしていましたから仕方ないですね。ということで今回はすべてスマホで撮影しました。ただスマホだとすべてスマホ上でモザイクやトリミング処理ができますし、撮影時間なども人差し指ひとつで確認できます。自分のブログにログインすればそのまま画像取込も。結構便利ですね。


 駅構内に入れば隣に近江鉄道車庫。ホームに立っていると一匹のスズメバチが列車待ちの男性を威嚇していました。私が「お兄さん、ハチ危ないですよ」と声をかけると、男性は逃げましたがスズメバチはずっと後を追います。オーデコロンかヘアトニックに反応しているのでしょうか。


 今日のひとり打ち上げ。朝が早かったのでブログ編集中に寝てしまいそうです。生ビール小(税込500円)で我慢して「かんぱ~い」。その後は「生姜焼きセット」(税込1300円)で夕食です。


 ちゃっかり長浜鉄道スクエア手前の酒屋さんで地酒を買っています。今日の地酒は、滋賀県東近江市の蔵元「喜多酒造」さんの上撰酒「喜楽長」(税込300円)です。日本全国いろんな名産品がありますが、酒呑みにとって一番の名産品は地酒ですね。地域がはっきりしているしハズレがありません。チビチビやりながらブログの編集です。
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80年代の韓国歩紀~民俗村

2024-10-03 20:58:11 | 日記
 ソウル市の南方に「水原(スウォン)」という都市があります。そこに「民俗村(ミンソックチョン)」という現代風に言えば「歴史テーマパーク」がありましたので行ってきました。通常であれば観光バスで行くのでしょうが、ソウルと釜山を結ぶ「京釜線」という鉄道の途中駅でしたので私は列車で行きました。あの頃から結構歩いていますね。私は当時から「歩紀ニスト」だったようです。


 「京城」は「日帝の残渣」ですので「京釜線」の「京」はソウル地方を含む「京畿道(キョンギド)」の「京」なんでしょうね。「セマウル号」というソウル・釜山を結ぶ特急列車で行ったのですが、京釜線は全線電化されていなかったのでディーゼル機関車でした。「広軌」というんですか。車内が広いなと感じました。かつての民俗文化を展示する屋外施設です。結構大きな施設でしたよ。今は行政区画変更で「龍仁市」になっているそうです。


 「農楽隊(ノンアックテ)」という韓国の伝統舞踊です。


 韓国人は何かいつも険しい顔つきで、しゃべり方も喧嘩腰に感じるのですが、そんな中「農楽隊」の若者たちの笑顔が印象的でした。


 結構本格的な公園です。アトラクション的に催されているのではなく園内で普通に展示公演されていました。




 鍛冶屋なども当時の姿で再現されており完成品はお土産として売られています。つまり観光客相手ではなく、ここで昔の生活を送りそれを観光化しているという感じでした。


 この日はとても暑い日でした。韓国では絶対に「生水」を飲んではいけないと言われていました。これは非衛生的というよりも硬水なのでお腹を壊すのです。まだミネラルウォーターが一般的でなかった時代です。街角では自転車の荷台に「麦茶(ポリチャ)」を入れた大きなガラス瓶を積み、底についているチューブからまるで「洗濯機の排水ホース」のように出てくる麦茶を売っていました。10ウォンでコップ2杯です。麦茶は沸かしているのでしょうが、あの大きな氷はどうなんでしょう?コップは洗っているのでしょうか?しかし滞在中一度もお腹を壊すことはありませんでした。
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