「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

80年代の韓国歩紀~ソウル駅

2024-04-29 00:46:29 | 日記
 韓国の首都ソウルの玄関口である「ソウル駅」です。韓国の地名は原則すべて漢字に変換できるのですが「ソウル」だけは韓国語で「都」「首都」を表す固有語であり漢字はありません。日本の植民地時代、韓国の首都であった「漢城(ハンソン)」は「京城(けいじょう=キョンソン)」と改称され、大正14(1925)年9月「京城駅」として竣工されたそうです。


 その後、昭和25年に勃発した朝鮮戦争により損傷したものの改修され、長らくソウル駅舎として利用されてきました。現在では駅としての役目は終え、日本植民地支配の象徴として韓国の史跡に指定されており、さまざまな文化イベント等に利用されているそうです。当時の日本では「東京駅」に次ぐ規模だったそうですよ。
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琵琶湖一周歩紀2~「楽浪(さざなみ)の志賀」を歩く~

2024-04-21 02:36:08 | 日記
訪問日:令和6年4月20日(土)
出 発:JR「堅田駅」
到 着:JR「近江高島駅」

 今回もほぼ「街道をゆく」第一巻「湖西のみち」に沿って歩きます。第一回でも述べたようにこの辺りは「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれ、司馬遼太郎はここに古代朝鮮半島へと繋がる日本人のルーツを見いだしているようです。湖岸沿いの道を歩きますが、時にはアスファルト道路から離れ砂浜も歩きたいと思います。ところどころ自販機があるので給水には困りませんが、トイレ・食事はマップ情報を確かめながら歩きましょう。


 前回のゴールであるJR「堅田駅」を背に午前8時43分、今日も元気に出発です。駅構内のほか駅前広場にもトイレがあります。JR「大阪駅」から約50分(1170円)で着きますが、私は今日も阪急電車に乗り「高槻駅」経由で来ました。ただ、この乗り換え結構ハードです。「超高速歩紀」の私ですが、ホームに着くと同時に電車が入ってきました。


 「堅田駅前交差点」を左折。500mほど歩いて「今堅田交差点」を右折し「堅田郵便局」前を進みます。


 この道は「中部北陸自然歩道」って言うんだ。


 しばらく進めば前回歩いた「堅田内湖」の北端が右に見えてきます。


 信号を越え、次の四つ辻を左に入れば鳥居が見えます。「伊豆神田神社」で今日一日の安全を祈願しましょう。


 神社を左に見ながら真っ直ぐ進み小さな橋を渡れば二又に出ます。「この先通れません」と書かれていますが歩行者は大丈夫です。右へ入りアンダーパスで前方に見える「琵琶湖大橋」をくぐりましょう。


 琵琶湖大橋をくぐれば道の駅「びわ湖大橋米プラザ」の駐車場。午前9時からオープンしていました。入ってみましょう。(午前9時3分)


 「道の駅」の裏側は琵琶湖に面しています。2階は展望デッキのようになっていました。琵琶湖大橋は後日歩いて渡ることになるので今日はスルーします。


 「道の駅」前のロータリーを過ぎ、EV充電スタンドのある第2駐車場の奥から外に出ることができます。そのまま進み「真野川」に突き当り、左に見える橋で真野川を渡れば正面に「真野浜水泳場」。琵琶湖は海ではないので海水浴場とは言わず「水泳場」と呼びます。


 しばらく砂浜を歩いてみましょう。この後、奥琵琶湖まで40数kmにわたって「さざなみ」が打ち寄せる海岸いや「湖岸」が延々と続きます。時々、湖岸を離れて集落や県道に沿って風景を変えながら歩こうと思います。


 フェンスに突き当たり道に戻って進んで行けば右に小さな「船溜まり」が。


 突き当りを左に曲がり集落を抜ければ「県道558号線」に出るので右へ進みます。しばらくすればファミマやスーパーマーケットなどの間を抜けます。私はあえて砂浜や集落を歩くので、ここが前半最後の給水・トイレポイントです。(午前9時36分)


 県道は「小野駅」の裏を通ります。


「小野交差点」を真っ直ぐ進み、ソーラー発電所やボート置き場を過ぎれば右に脇道が見えてくるので入ります。


 水田の間を抜けて行けば小さな地蔵堂が。後ろの比良山系には何という気象現象でしょうか、麓に白い「筋雲」が走っています。


 集落を抜けます。良い雰囲気ですね。


 そのまま進めば左に「下今宿公民館」。


 その先で「和邇(わに)川」を小さな橋で渡ります。堤防の小さな四つ角を過ぎ、次の三叉路を右へ。そのまま進めば「和邇浜水泳場」に出ます。(午前10時10分)


 一番湖岸寄りの小さな道を北に進み、道なりに直角にカーブすれば小さな四つ辻に出るので右へ。和邇の集落を歩きます。


 さらに直角にカーブするので道なりに進み、すぐ先の三叉路を右に入りましょう。お寺や神社の間を抜けて行きます。


 田んぼや集落の間を進み、右に琵琶湖が見えてくればこんな案内板がありました。古老の話によると明治時代に大きな水害があったんですね。


 堰堤として造られた石垣が残っています。


 その先に「地蔵堂」がある三叉路が見えてきました。このまま真っ直ぐ進むと県道558号線と合流するのですが、どうしても必要であればこの三叉路を左折すると5分ほどで県道沿いに「平和堂」という大きなスーパーがあります。


 私はスーパーに用事がないので、琵琶湖を右に見ながら真っ直ぐ進みます。


「中浜交差点」で県道と合流する手前に右へ入る小さなカーブがあるので入って行きましょう。「和邇漁港」という小さな船溜まりがあります。


 和邇漁港を過ぎてゲートボール場の先を右に入り、車止めを過ぎれば右にベンチが見えます。「そのベンチ」というそうです。後日「あのベンチ」を訪れます。(午前10時32分)


 その先で小さな川を渡れば右に砂浜が。「和邇浜」です。


 ちょっと進み地図を頼りに三叉路で左折。「北浜交差点」の押しボタン式信号で県道558号線を渡ります。細い道を抜ければ角に立派なお堂が。「千手院」というそうです。


 お堂の先を右に曲がり、しばらく田んぼを左に見ながら進みます。遠くには「比良連山」。


 突き当りを鋭角に右折すれば「天台宗真光寺」前で県道558号線と合流するので左へ。しばらく県道に沿って歩きます。


 右にはヨットのマストが林立します。私が小さいころの記憶では、小型の水上飛行機が並んでいたと思うのですが。かつては湖上を滑走路として水上飛行機による遊覧飛行ができました。


 JR湖西線のガードをくぐれば左に「八所神社」。その前の「南船路交差点」を右に曲がり再度ガードをくぐります。(午前10時59分)


 なお、すぐ先には「蓬莱駅」があり、改札の外にトイレがあります。必要な方はどうぞ。私はそのまま右に曲がり琵琶湖に突き当たって左へ。そこには「白髭大明神」と刻まれた常夜灯風の道標がありました。「白髭神社」への道標でいくつか残っているそうです。側面の刻字を見ると天保7(1836)年に建てられたようです。


 琵琶湖を歩いていると時々沖合にこんなものが見られます。これは魚が障害物にぶつかると、それに沿って進むという習性を利用した「えり」と呼ばれる琵琶湖独特の漁法だそうです。


 帰路。高台を走る湖西線の車窓からは、沖に向かって「矢印(→)」のように延びる全景が望めますよ。


 ♪ 海は広いな 大きいな… ♪


 ここは砂浜ではなくゴロタ石ですが、結構水はきれいですよ。


 小さな川を渡れば「県営都市公園木戸湖岸緑地」。公衆トイレがあります。


 そのまま進めば湖西線のガードと合流。ガードに沿って進めば「志賀駅」です。ガードをくぐった駅前駐車場に公衆トイレがあります。もちろん自動販売機もありますよ。(午前11時35分)


 湖岸に戻ります。「そうですね。」


 ここは「松の浦水泳場」です。


 少し景色を変えましょう。この狭い路地を入ります。


 正面に湖西線のガードが見えるので突き当たって右折。次のガード下を左折して山に向かって歩きます。


 突き当りは県道558号線。「ローソン」があります。ここを右へ。当分、県道に沿って歩きましょう。(午前11時47分)


 ちょっと違う雰囲気が味わえます。琵琶湖があるので何だか海辺に広がる平野のように感じますが、滋賀県は日本のど真ん中にある「内陸部」です。


 途中「荒川」という交差点の角には「蓮如上人御旧跡」の碑。側面には「西へ百五十米」と彫られているので新しい物でしょうか。だって「米(メートル)法」で表示されていますから。


 さらに10分ほど歩けば、ここにも「白髭大明神」と刻まれた常夜灯風の道標。半分地面に埋まっていますが「左 是より三里・・」と読めます。あと12kmあるのか。


 これも天保7年に立てられたようです。


 右の側道には進まずまっすぐ県道を歩きます。3~4分歩けば「大物交差点」角の旧家脇に髭文字で「南無妙法蓮華経」と彫られた小さな題目石碑。


 県道からはこんな感じで琵琶湖が望めます。


 さらに県道を歩き特に標識はありませんが、この交差点に出れば右へ曲がります。(午後0時7分)


 琵琶湖一周はどうしても湖岸に沿って進みますが、山から湖に向かって歩けば比良山系から流れる湧き水で潤わされた水田が広がります。


 また民家の軒先には比良山系からの恵みの水が流れます。


 生活用水として利用していたのでしょうか、小さな石段が組まれています。


 集落を抜け保育園を過ぎれば「南比良農村広場」というグランドがありました。「時間は」。グランドにはトイレと水飲み場(手洗い)、ベンチがあったので、ここで昼食としましょう。


 琵琶湖は日本有数の観光地なのですが、やはりシーズンは「夏」。ネットで検索しても適当な飲食店情報がなかったので、最初に立ち寄った道の駅で「いなり三昧」(税込470円)を買っておきました。


 雄大な比良山を眺めながらの食事です。


 午後0時30分、食事を終え正面に見える湖西線のガードをくぐり湖岸に戻りましょう。突き当りまで行くと道が終わりますので、手前を左に曲がり「真宗大谷派本立寺」というお寺の前を通り過ぎます。


 道なりにカーブすれば琵琶湖に突き当たるので左へ。湖岸を歩きます。


 道と湖岸との間にある空き地は、ほとんどが地区の共有財産や国・自治体の管理地になっているようですが、一部は私有地やプライベートビーチになっているので、そういう場所には入らないようにしましょう。


 そのまま進めば右に鳥居が立ちます。ここもプライベートビーチのようです。


 鳥居の向かいには「天満宮御旅所」の石柱が立つ立派なお堂が建ちます。(午後0時43分)


 御旅所を左に見ながら集落に進んで行きます。広場(公園?)を過ぎれば左に「浄土真宗福田寺」というお寺が見えるので入って見ます。


 福田寺の境内には「北比良城址」の碑がありました。天正年間の小さな城址のようですが詳細はわからないそうです。


 元の道に戻り「浄土真宗西福寺」を左に見ながら進みます。


 良い雰囲気ですね。


 さらに進み突き当たれば右へ。琵琶湖に突き当たれば左へ。集落を抜ければ琵琶湖に出るので湖岸を歩きます。


 前回歩いた琵琶湖大橋から南の「南湖」は琵琶湖全体の約10%。あとの90%は「北湖」です。やっぱり「北湖」は広いな。


 道なりに進めば湖岸の道は県道と並走し、小さな川を越えたところ辺りからモーターボートの係留(陸揚)施設などが並び観光地らしくなってきました。


 そしてその先には広い松林が。ここは「近江舞子」という湖西でも有数の観光地です。ただ今はひっそりとしています。


 西側には「近江舞子内湖」という大きな内湖が。駐車場には公衆トイレがあります。(午後1時6分)


 砂浜を歩いてみましょう。


 夏には砂浜にビーチパラソルや「海(湖)の家」が並び、まさに「海水浴場」のような風景が広がります。


 内湖と琵琶湖を隔てるように延びる「洲」には松林が続き、宿泊施設やカフェなどが並びますが、やはり閉まっています。ほとんどの店がゴールデンウィーク以降から営業するようです。


 「雄松崎湖岸」と言うんですね。


 砂浜を抜け「南小松港」という船溜まりの先に見える湖西線のガードをくぐりましょう。


ガードの手前を右に曲がれば「近江舞子駅」。大阪でJRに乗っていると時々「近江舞子」行きの電車が走っていますが、寝過ごすとここまで連れて来られるんだな。「危ねえ!」ただ今日乗ってきた電車は「敦賀行き」だったな。(午後1時20分)


 駅を過ぎてすぐ右に曲がります。湖岸に出て右を眺めれば「雄松崎」。琵琶湖周航の歌にも出てきます。


 そして左に建つ「ホテル琵琶レイクオーツカ」というホテルの前に琵琶湖周航の歌「2番」の歌碑があります。
  ♪ 松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 赤い椿の
       森陰に はかない恋に 泣くとかや ♪(2番)


 そのすぐ先のペンション前には「月見浜」の碑。月がきれいなのでしょうか。


 道なりに進み湖西線ガードに突き当たれば右へ。しばらくは湖西線に沿って歩きます。角に公衆トイレがありました。


 湖西線と分かれ道は右へカーブします。青いペイントは「ビワイチ」サイクリングロードです。


 10分ほど歩けば橋で川を渡りすぐ右へ。管理事務所を過ぎれば琵琶湖に突き当たるので左に曲がります。事務所横には公衆トイレがあります。


 この砂浜は「北小松水泳場」です。(午後1時43分)


 何か楽しそうだな。


 キャンプもしているようです。


 左の駐在所を過ぎ、湖岸を歩きます。


 あれは「水平線」か。今日は天気は良いのですが、ちょっと霞が出ており見通しが悪いようですね。ただ、南北に長い琵琶湖は十分に水平線が見える大きさです。


 湖岸の道は自然と「北小松」の集落に入ります。


 「近江湖の辺の道」という案内標識があれば右へ。


 集落を抜けて行きます。比良山系から流れ出る水路がいくつか見られます。


 ここも良い雰囲気ですね。


 やがて小さな漁港に出ました。「北小松漁港」です。(午後1時55分)


 司馬遼太郎は「小松」は「高麗津」が転じたものと述べています。百済滅亡後、同盟国であった天智政権の都である近江の奥地に「百済亡命政権」が存在したのでしょうか。


 北小松漁港を過ぎれば大きな道と合流します。この道は国道161号線。「琵琶湖西縦貫道路」と呼ばれています。横断歩道を渡って右に曲がりましょう。結構交通量は多いですよ(写真は横断してから撮影しています)。


 しばらく歩けば左に「岩除地蔵尊」。比良山系が琵琶湖にせり出すこの付近では、かつて落石が多かったことから建てられたそうです。


 右には琵琶湖が広がります。まるで伊豆か南紀の海岸線を歩いているような錯覚に陥りますね。


 「高島市」に入りました。ここまでずっと「大津市」だったんですね。もう結構な距離を歩いていますよ。(午後2時19分)


 左に農産物の直売所が見えてくれば国道の向こう側に髭文字の題目石塔が。その左にある小さな社は「白髭神社御旅所」のようです。


 左に蕎麦屋やカフェ、セブンイレブン、ガソリンスタンドなどが見えてました。そして湖面には「鳥居」も。


 「白髭神社」に到着です。神社のホームページによると2000年ほど前「垂仁天皇」の時代に創建されたという近江最古の大社だそうです。(午後2時40分)


 御祭神は天孫「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」が降臨された際に先頭を務めた「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」で「導き・道開き」の神として知られています。「琵琶湖一周歩紀」の無事を祈ってお参りします。本殿は国の重要文化財に指定されています。


 境内には「芭蕉句碑」や「紫式部歌碑」などが建ちます。景色が素晴らしい所なんでしょうね。


 そして何よりも有名なのが「湖中大鳥居」です。「安芸の宮島」のように琵琶湖上に朱色の大鳥居が立ちます。室町、江戸時代の屏風や絵巻にも描かれているらしいですが、この大鳥居自体は昭和12年に寄進されたものを昭和56年改修したものだそうですよ。


 以前は国道を渡って湖岸に下り大鳥居を眺められましたが、国道の交通量は多く死亡事故も発生したことから現在は横断禁止になっています。マナーを守りましょう(この写真は昭和58年に訪れた時のものです。もう面影がないうえサングラスをかけているので画像処理はしていません。ピンボケだし)。


 その代わり境内には「藍湖白鬚台」という展望台が設けられているので、そこから眺めましょう。大鳥居越しの日の出が美しいそうです。司馬遼太郎は「白髭=新羅」と読んでいるようです。「新羅・高句麗・百済」朝鮮半島での三国時代ですが、当時の日本にも影響があったのは事実でしょうね。


 参拝を終え午後2時49分出発。山塊が琵琶湖に沈み込んでいます。国道に入ってからずっと自衛隊の車両が南へ走って行きます。最終的には50台以上とすれ違ったでしょうか。土曜日なのにご苦労様です。


 ゴールが見えてきました。変わった救急車ですね。


琵琶湖にせり出した山塊をぐるっと回ると脇道が見えてきます。「勝野交番」という標識に従って脇道に入ります。自衛隊まだ走っています。


 「乙女ヶ池」への案内板を過ぎれば左に「日吉神社」。今日最後の神社です。参拝しましょう。


 参拝を終え石段を下ります。鳥居方向には行かず左に曲がります。「真宗大谷派最勝寺」というお寺の裏に真っ直ぐな道が見えてきました。


 やがて三叉路に出ますが、ここは滋賀県(近江)から福井県(若狭)を結ぶ計画で滋賀県側の鉄道が開通した後、湖西線建設決定などにより昭和44年廃線となった「江若(こうじゃく)鉄道」の築堤跡です。向こうに湖西線が見えます。(午後3時11分)


 築堤跡前の三叉路を右へ。集落に入ります。良い感じです。


 集落を抜ければ突き当りを左へ。国道の1つ内側の道を進みます。国道には自衛隊のトラックが走っていました。


 2~3分で左の児童公園内に小さなお社が。「日吉神社御旅所」です。左側の道を進みましょう。


 御旅所を抜けると、そこには「乙女ヶ池」と書かれた橋が。


 池の上には回廊が架けられいるので渡りましょう。ここは琵琶湖の内湖のひとつ「乙女ヶ池」です。


 橋を渡って右に進めば「万葉歌碑」が立ちます。他にもいくつか万葉歌碑が残るそうです。ここも景色が良かったのでしょうね。


 実は今日、道の駅で「近江牛弁当」を買いたかったのですが、開店直後に入店したためまだ配達されていませんでした。その代わり「近江牛焼カレーパン」(税込350円)を買いました。湖畔の石段に腰かけて食べます。


 そのまま池の畔を進めば「高島市民病院」に突き当たるので左に回り、湖西線に沿って進めば本日のゴールであるJR「近江高島駅」。駅前ロータリーには大きな「ガリバー像」と「時計台」が立ちます。午後3時37分到着。ここから大阪駅まで約1時間10分(1520円)です。


 本日の歩紀「42502歩」(28.90km)。結構な距離を歩きましたが、湖岸沿いの道をほぼ直線的に歩いたので歩速が進み、何とか時間内にゴールできました。ただ、絶対マネしないでくださいね。普通の歩速では無理です。ここは「大溝城」の城下町。次回はこの小さな城下町からスタートです。


 今日も自宅近くの「かめたに」でひとり打ち上げ。キンキンの生中(税込580円)で「乾杯~」。その後は「おすすめ洋定食」(税込1500円)で夕食です。町から送られてきたお買い物クーポンの利用期限が4月末まででしたので1000円分使いました。


 道の駅で弁当とカレーパンを買ったついでに大津の地酒「平井酒造」のワンカップ純米酒「浅茅生(アサヂオ)」(税込370円)を買い、チビチビやりながらブログの編集です。
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80年代の韓国歩紀~「大韓航空機」でいざ出発

2024-04-15 06:56:40 | 日記
 私は以前「放送大学キャンパスライフ」で韓国語を勉強したという話をしました。時期的には80年代半ばの2年間です。その頃、韓国語修行と観光を兼ねて1週間「韓国ひとり旅」をしました。行程はソウル4日間、釜山3日間です。当時の写真を数枚ずつアップしながら「歩紀」の合間につぶやいていきたいと思います。

 かつての日本が第1回東京オリンピック(昭和39年)を境に高度成長していったように、韓国も昭和63(1988)年に開催された「88(パルパル)オリンピック」と呼ばれる「ソウルオリンピック」を契機に飛躍的に発展しました。つまり40年以上前の韓国というよりもオリンピック前の韓国という観点でご覧になっていたただければ見方も違ってくると思います。

 なお写真は当時私が撮影したものを画像取り込みしました。また文中の情勢は当時のものであり、私見がほとんどですので勘違いや間違いがあるかも知れません。また4回の渡航歴の記憶がごちゃ混ぜになっているかも知れません。ご容赦ください。そして気楽にご覧ください。

 韓流ブームはもちろんオリンピックもワールドカップもなく、韓国旅行といえばいわゆる「妓生(キーセン)旅行」と呼ばれる怪しげなツアーしかなかった時代。ビザ申請(当時は査免国ではありませんでした)から航空券の手配、入国審査に必要だったので入国初日の宿泊先予約など渡航手続きはすべて自分でしました。

 当時韓国に航空会社は「大韓航空」1社しかありませんでした。「KOREAN AIR LINES」通称「KAL」721便で韓国の金浦(キムポ)国際空港に向け大阪国際空港を定刻出発です。なお当時の面影はもうありませんが一応「肖像」ですので画像処理させていただきました。


 半官半民のような会社で「都市伝説」風に韓国のパイロットは大韓航空に就職する前、空軍パイロットとして兵役に服さなければならないのでやたら腕が良く、少々の悪天候や不整備の滑走路でも離着陸すると言われていました。

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ひとり花見をしました

2024-04-07 17:51:27 | 日記
 自宅のすぐ近くに公園があります(歩いて数十歩)。子どもの遊具がある小さな児童公園ですが、サクラの木が10本ほど植わっており満開です。ベンチもあるので「ひとり花見」をしました。住宅街の小さな公園なので放歌高吟はできません。焼酎ハイボール(350ml)と「いか姿フライ」(99円)を片手にささやかな花見です。しかし、とても豊かな気分になりました。


 私は鳥の名前はあまり知らないのですが、その姿を見れば「メジロ」でしょうか(間違っていたら教えてください)?一生懸命、花の蜜を吸っていました。その他にもヒヨドリでしょうかちょっと大きな青い鳥と、名前はわかりませんが「シャチ」のような白黒の小さな鳥も一緒に花見をしました。名前がわかる方は教えてくださいね。平和な一日でした。
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爪切り

2024-04-02 20:53:49 | 日記
 小さいころ「夜、爪を切ると親の死に目にあえない」と言われました。理由は今のような爪切りがなく小刀で爪を切っていた時代、夜は暗くて誤って指を切ってしまう恐れがあったことから夜の爪切りを戒めるために言われたなど諸説あるようです。いずれも合理的な理由はあったようですが、科学的な根拠はないようです。しかし、私は子どもながら親の死に目にあえないのは嫌だと思い、夜に爪を切ったことはありませんでした。

 父。危篤状態に陥り何とか間に合い病院に到着。しかし、その日私は胃カメラの予約をしていました。主治医に相談したところ「今日明日は大丈夫」と言われましたが、胃カメラを飲んで病院に戻った時には父は亡くなっていました。

 そして母。末期ガンで寝たきりでした。娘や孫を連れ面会に行きましたが、容態を取り戻したため一旦帰宅。翌早朝、姉から容体急変の連絡を受けましたが間に合いませんでした。

 私に「夜、爪を切ると親の死に目にあえない」と言っていた当の本人は二人とも私がいないときに亡くなりました。あれほど言いつけを守っていたのに。

 今、私は誰に気兼ねするともなく夜、爪を切っています。「パッチン、パッチン」
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