「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

神戸9区を歩く~梅香る歴史の町「東灘区」

2022-02-26 13:04:39 | 日記
訪問日:令和4年2月26日(土)
出 発:阪急電車「岡本駅」
到 着:阪急電車「御影駅」

 神戸市の東端。つまり最も大阪府寄りに位置する「東灘区」。かつて「梅は岡本、桜は吉野」と唄われたという梅の名所でもある。山手にある梅林2ヶ所を訪ねた後、海に向かい、その後「西国街道」に沿って歩く。国道43号線から南は、以前「呑み歩紀2~灘五郷」で訪ねたので今回は歩かない。


 今日のスタートは阪急電車「岡本駅」。大阪梅田駅から約20分(280円)。近いな。小さな駅だが特急も止まる。そしてさすが神戸。駅前にはベーカリーショップやカフェが並ぶ。今日は前半よく歩くので、ちょっと早めの午前9時にスタートする。


 駅東の踏切を渡りすぐに左折。線路沿いに進んで「北改札口」前を通る。南側のホームとは地下連絡通路で結ばれている。


 北改札口を過ぎて次の辻を左に曲がり、狭い路地を進んで行けば線路脇に出る。そのまま進めば突き当たりのようになるが、線路横の階段を下りれば「天上川」という小さな川に突き当たるので右に曲がる。


 1つ目か2つ目の橋で川を渡り、右岸の上り坂を山に向かって進んで行く。


 坂道が続く。


 坂を上って行けば正面に「岡本八幡神社」。(午前9時14分)


 もちろん御祭神は「応神天皇」。由緒の詳細は不明だが、鎌倉の時代から祀られていたという。今日一日の安全を祈願しよう。


 拝殿に向かって左側の建物横から外に出て左に曲がり、すぐに小さな路地を右に入る。


住宅街を抜け、階段の途中に「岡本梅林公園」の出入口がある。イノシシが入らないよう門は閉められているので手で開けて入る。必ず門を閉めよう。(午前9時20分)。


 神戸一の梅の名所と言われ、約130本の梅の木が植えられている。


 2月下旬から3月上旬ころまで梅まつりが開催される。


 見頃にはちょっと早いかも知れないな。


 これから歩く東灘区も一望できる。


 公園の南口から出て左(東)へ。天上川に突き当たるので左に曲がれば、先ほどお参りした岡本八幡神社前に戻るので、すぐ右に見える「禊橋」という橋を渡る。


 橋を渡ればすぐ左に「天上川公園」への階段があるので入って行こう。


 公園の奥には「保久良神社・梅林」への案内板。「ほくら」と読む。


 コンクリートの坂道を上って行く。


 7~8分で分岐点。案内表示に従って左へ。(午前9時39分)


 さらに先に進むと、木の根が張った山道になる。


 そして4分ほどで「保久良梅林」。トイレがある。(午前9時43分)


 紅梅、白梅など約250本の梅の木が植えられているそうだ。


 岡本梅林公園より100mほど標高が高いので開花時期も若干遅いらしい。


 梅林から散策道を進んで行けば「保久良神社」の鳥居前に出る。鳥居の横には御祭神の1柱である、神武東征で船団を先導したという「椎根津彦(シイネツヒコ)」の石像。(午前9時49分)


 その前には立派な石灯籠。ここからの眺めも最高だな。今日も「海が見えるぞ」


 そしてこの石灯籠は「灘の一つ火」と言われ、灯籠の明かりは大阪湾を往き来する舟からも見え、明治時代まで灯台の役目をしたという。阪神淡路大震災では倒壊し、下の道まで転げ落ちたそうだ。


 鳥居をくぐってお参りしよう。御祭神は先ほどの「椎根津彦」ほか「須佐之男命(スサノオノミコト)」など4柱を祀る。その他、古代神社に見られる「磐座」などもある。


 鳥居脇の藪の中には、阪神淡路大震災で倒壊した鳥居の足が「震災モニュメント」として保存されている。震災当時、早朝登山のため境内で休憩していた4名の方が倒壊した休憩所の下敷きとなり亡くなったそうだ。
 

参拝を終え、これから山を下りて「町歩紀」だ。鳥居前から左に下って行こうと思ったら目の前をイノシシが悠然と横断して行った。横には「イノシシ注意」の看板。


 イノシシが山の中に消えたのを確認し、いくつかのヘアピンカーブを過ぎれば「保久良神社参道口」に出る。(午前10時10分)


 坂道を真っ直ぐ下って行くと左に浄土宗「西光寺」というお寺。(午前10時13分)


 山門をくぐった右側にちょっと変わった形の石灯籠が立つ。


 「キリシタン灯篭」というそうだ。


 西光寺前をどんどん下って行き、神戸で最も山の手を走る「阪急電車」の踏切を渡る。


 続いて「山手幹線」という大きな通りを渡ろう。


 そして阪急電車と阪神電車の間を走る「JR東海道線」のガードをくぐる。さすが「国鉄」年季が入っているな。


 ガードをくぐってすぐに左折。線路に沿って歩けば150mほどで右に「中野北公園」という児童公園。(午前10時22分)


 公園の中にある本山中町会館の南側には阪神淡路大震災の「慰霊碑」。この地区だけで75名の方が亡くなったという。


 公園南側の道を西に向かって進む。


 JR「摂津本山駅」前を過ぎれば「米田橋」という橋で天上川を渡り、すぐ左に見える公園に向かう。


 「中之町公園」という小さな児童公園だ。(午前10時32分)


 遊具の横に「慰霊碑」が建つ。この地区で146名の方が亡くなったそうだ。


 公園南の道を西に進み、突き当たりを左に曲がってすぐに幼稚園と医院の間を入れば、この道は「西国街道」。どこもそうだが西国街道は、結構、家の建て替えが進み、あまり街道の面影は残っていない。狭い道筋だけが当時を偲ばせる。


 右に本山南中学校を見ながら4~5分進んだ四つ角に何と大きな「顔」が。「花松くび地蔵(通称くび地蔵)」といい、西国街道を往来した人たちから、首から上の病気にご利益があると崇められていたそうだ。このお地蔵様も震災で倒壊したが再建されている。(午前10時42分)


 四つ辻を渡り、突き当たりを道なりに進めば「国道2号線」に出るので右折。その先には「住吉橋」というレトロな橋が現れる。


 昭和25年3月の竣功。下を流れるのは「住吉川」。


 住吉橋を渡れば右に消防署と合同庁舎になった「東灘区役所」。東灘区は、人口約21万人で「垂水区」「北区」と第2位を争う。人口、面積ともに大きいこともあるが、阪神淡路大震災では、9区中最も多い1471名の方が亡くなっている。(午前10時47分)


 国道2号線を南に横断してから住吉橋を渡って元に戻り、すぐに右に曲がって住吉川左岸を60mほど進み左に曲がる。そこには「灘高等学校・中学校」の正門。そう、かつて東京大学合格者全国一を誇った「超」進学校である。昭和2年、灘の酒造業者であった嘉納治郎右衛門らによって設立され、本館は国の登録有形文化財に登録されているそうだ。酒屋さんが作ったんだな。


 灘高前を通り過ぎ灘高グランドに突き当たれば左折。正面の国道2号線はアンダーパスになっており曲がれないので、灘高グランド北側の路地に入り、その先を左折。国道2号線を右に曲がる。


 5分ほどで右に商店街が現れる。東灘区唯一のアーケード商店街である「甲南本通商店街」だ。(午前10時56分)


 市場というよりショッピングセンターという感じだな。


 200mほどのアーケードを抜けて左に曲がる。


 「福井池公園」を右に見ながら進んでいく。


 そして福池小学校を過ぎれば右に「小寄(こより)公園」。明石市に移転するまで、ここに運転免許試験場があったそうだ。トイレ休憩をする。(午前11時6分)


 公園の片隅には神戸市電の車両や


 八幡製鉄で使われていた蒸気機関車が展示されている。桜の名所でもある。


 さらに東へ進み、川を越えれば「中野南公園」という児童公園。


 公園入口に「命」と刻まれた「慰霊碑」が。ここでは避難所に入れなかった約100名の方たちが、テント村で身を寄せ合っていたそうだ。(午前11時17分)


 中野南公園の南角にある信号を右折し、南に進む。信号を1つ渡って進んで行けば、江戸時代からあると言われる「本庄墓地」に出る。

 
 阪神電車に突き当たって左折すれば墓地の休憩所がある。その前にも「慰霊碑」。この地区では、330余名の方が亡くなった。(午前11時22分)


 慰霊碑の隣には「神戸空襲犠牲者慰霊碑」と「忠魂碑」が並ぶ。第二次世界大戦では神戸市も米軍の空襲により、多くの市民が命を落としているのだ。


 本庄墓地から阪神電車に沿って東へ進む。「阪神電車」が鉄道3社で最も海側を走る。


 「深江駅」前を通り過ぎる。


 東灘小学校を過ぎれば「宝島池(ほうとういけ)公園」。江戸時代に造られた農業用のため池だったといわれる。(午前11時35分)


 公園の中央には「慰霊碑」。地区の8割以上が全半壊(焼)し、97名の方が犠牲になったそうだ。


目の前のガード下は工事中なので、元の道を戻り次の角を左折して阪神電車のガードをくぐり、2つ目の四つ辻を右へ。住宅地を抜ければ「栄公園」という児童公園に突き当たる。(午前11時42分)


 そして公園南側の狭い道は「西国浜街道」という、西国街道から1つ海寄りを走る街道筋である。


 西に進んで行けばやがて右に「大日霊女(おおひるめ)神社」が現れる。(午前11時47分)


 かつて「大日如来」をご本尊としていたお寺が改宗したことから、村人が大日如来様を引き取ってお祀りし、明治時代の神仏分離令により神社になったそうだ。神仏習合による本地垂迹説では「大日如来」は「天照大神」の本地。そして「大日霊女」とは「天照大神」のこと。大日如来様をお祀りしていたお寺が、天照大神様をお祀りする神社になったということかな。


 大日霊女神社前の信号を左折し、国道43号線の「深江交差点」を歩道橋で越え、真っ直ぐ進んで行けば「深江大橋」で海を渡り、埋め立て地へと続く。「海に着いたぞ」


 そして、その先には「神戸市東部中央卸売市場」。


 もう競りは終わっている。


 時間は午後0時8分。今日も良い感じの時間だ。飯にしよう。


 今日の昼食は東部市場内にある「丸吉食堂」(他に洋食屋さんやお寿司屋さんもあるのでお好みによりご利用ください)。


 どういう料金体系になっているのかわからないが、大皿の料理を好きなだけ小鉢に盛り、ご飯(小)とお味噌汁を注文して550円。右端のキャベツは、店のお婆ちゃんが「もっと野菜食べ」といって出してくれたもの。


 食事を終え、午後0時30分東部市場を出発。深江大橋で「陸地」に戻り、先ほどの「深江交差点」で国道43号線を左折。2つ目の歩道橋の前には「神戸大学海事科学部」。国立大学統合により神戸大学になったが、かつての「神戸商船大学」だ。午前中に訪れた「灘の一つ火」が震災により倒壊した際、「海の男」である商船大の卒業生たちも修復に尽力したそうだ。(午後0時45分)


 旧神戸商船大学前の歩道橋で国道43号線を渡り、少し東に戻って1つ目の辻を左へ。国道の1本北側の道が西国浜街道である。左に曲がり本庄小学校の前を西へ歩く。小学校の角には「浜街道・なごりの松」。(午後0時49分)


 本庄小学校グランドの向かい側に「旧本庄村役場跡之碑」。どんどん西へ進む。


 隣接する本庄中学校を過ぎれば右に「本庄中央公園」。


 信号を渡り、公園が途切れた所の四つ角を左に曲がる。国道手前の地蔵堂とガソリンスタンドがある交差点を右に曲がり、次の「青木文化センター」の角を左に入る。


 そこには「八坂神社」。そして神社境内の隅に「本庄村道路元標」が立つ。(午後0時58分)


 青木文化センターまで戻って左折。真っ直ぐ進むと阪神電車「青木駅」の前に出る。


 駅を過ぎて突き当たりを右に曲がり、ガードで阪神電車をくぐろう。


 「北青木会館」の角を左に曲がって「本町橋」で天上川を渡り、突き当たりの「藤田外科」というお医者さんの角を右に曲がって次の角を左に曲がる。


 そのまま進んでいけば右に「魚崎猿田彦神社」「横尾八幡神社」と2つの神社が並ぶ。




 魚崎小学校を過ぎれば「反高橋」で住吉川を渡る。「たんたか橋」と読む。上を走るのは、JR住吉駅から「六甲アイランド」という埋め立て地を結ぶ「六甲ライナー」だ。


 橋を渡ってすぐ右に曲がれば、左に何やら古い和風家屋が建つ。作家「谷崎潤一郎」の旧邸で「倚松庵(きしょうあん)」と呼ばれる。毎週土・日曜日に無料で一般公開されているので中に入ってみよう。(午後1時22分)


 当時の家具なども並び資料館のようになっている。


 谷崎潤一郎は、昭和11年11月から昭和18年11月まで、この家で暮らした。


 小説「細雪」のモデルにもなったそうだ。


 見学を終え反高橋方向に戻り、真っ直ぐ歩いて行けば六甲ライナー「魚崎駅」。


駅前の広場には、明治14年3月と刻まれた旧住吉村と旧魚崎村の「村界の碑」が立つ。


 かつて両村で境界争いがあり、和解成立の際に建てられたそうだ。


 魚崎駅を背に西へ進んでいけば「求女塚(もとめづか)東公園」という公園に突き当たる。(午後1時38分)


 公園には「東求女塚古墳」という4世紀後半に築造された全長80mほどの前方後円墳の後円部が残る。


 「菟原処女(うないおとめ)伝説」という伝説の地らしいが、被葬者などの詳細はわからないそうだ。この辺りは明治時代まで「菟原郡」と呼ばれていた。


 大正4年11月と刻まれた碑が建つ。なんて書いてあるのかわからない。


 そしてこの公園にも「慰霊碑」。地区の半分以上の家が倒壊し、裏には40名の犠牲者の名前が刻まれている。


 公園の南側を西に進み阪神電車をくぐり、阪神電車「住吉駅」を右に見ながら進んで行く。


 なんかレトロチックな駅だな。


 次の「御影駅」手前に「御影道標」が立つ。大正2年2月に設置された御影町の道路元標らしい。


 道標が立つ広場の先を右に曲がれば阪神電車「御影駅」。(午後1時52分)


 駅に向かって左に進むと高架駅下には「澤の井」。


 澄んだ地下水が滾々(こんこん)と湧き出ている。神功皇后が三韓征伐から凱旋した際、この澄んだ井戸水に顔を写してお化粧をされたことから、この地が「御影」と呼ばれるようになったそうだ。


 駅西側の通りを左(南)に曲がり「上中交差点」を過ぎて「エディオン」がある交差点を右に曲がると、予防医学協会と浜御影保育所の間に「旧御影町役場跡」のプレート。大正13年、ここに御影町役場が建築され、その後、跡地に保育所と予防医学協会が建てられたそうだ。(午後1時59分)


 保育所の斜め向かいには、駐車場になってしまっているが、最後に訪れる「弓弦羽神社」の御旅所跡。


 その先の辻を左に曲がれば、角に浄土真宗本願寺派「西方寺」。何かこの辺りは西国浜街道の雰囲気が残るな。


 西方寺の角を右に曲がり西へ。突き当たりを左に曲がる。角には「御影西町会館」という建物。西国浜街道は、大名行列が通る西国街道のバイパスとして、庶民や旅人が行き交うために作られたそうだ。


 国道43号線を右に曲がる。150mほどで右に「網敷天満神社御旅所」。(午後2時6分)


 祠の後ろにある松の木は、菅原道真が太宰府左遷の際、船を繋いだとの言い伝えがあり「菅公船繋ぎの松」と呼ばれている。この松の木は2代目らしい。この辺りまで海だったんだな。


 さらに250mほど進めば国道沿いに「東明(とうみょう)八幡宮」。金色の鳥居が立つ。


 そして神社の西隣には「処女塚(おとめづか)古墳」。全長70mの前方後方墳で国の史跡に指定され「処女塚公園」として整備されている。(午後2時16分)


 4世紀前半ころの築造といわれ、被葬者等は不明であるが、史実とは別に先ほど訪ねた「東求女塚古墳」と「灘区」にある「西求女塚古墳」とともに「菟原処女伝説」の舞台となっている。なお、「東明八幡宮」と「処女塚古墳」は、以前「灘五郷」を歩いた際にも訪ねている。


 処女塚公園北側の道を東に戻る。250mほどで石屋川に出るので左折。目の前の阪神電車「石屋川駅」前のガードをくぐり、すぐに右折する。


 高野山真言宗「理性院」の前を線路に沿って東へ進む。


 しばらくすれば左に御影小学校が見えてくる。明治6年に開校し、明治42年に現在地に建築された歴史ある学校のようだ。校舎は建て替えられているが古い門が残る。(午後2時25分)


 さらに進んでいけば左角に「富主稲荷社」というお社があるので左に曲がる。右に見えるのは御影中学校。


 御影中学校の通用門前には「西国街道の松」。


 その向かいの角には「旧西国街道の石碑」。ここは旧西国街道のようだ。


 石碑の立つ角を西に進み、御影小学校と御影幼稚園の間を抜ければ、先ほどの石屋川に突き当たるので右に曲がる。


 その先は国道2号線。「石屋川橋」というレトロな橋が架かる。


 大正15年6月竣功と刻まれている。


 そして向かいには「御影公会堂」という、これまたレトロなビルが建つ。(午後2時38分)


 集会施設として昭和8年5月に建てられ、国の登録有形文化財に登録されている。


 震災でもほとんど被害を受けず、避難所として使用されたそうだ。




 地下の食堂は老舗洋食店として、オムライスやハヤシライスが有名だ(営業時間は午前11時から午後2時)。


 公会堂の裏は「石屋川公園」という緑地になっている。裏側も良い雰囲気だな。


 石屋川が区境になっており、川の向こう側は「灘区」。公園を北に進む。


 JRガードの手前に「旧石屋川隧道」の案内板が立つ。現在、JRは写真のように高架で石屋川を跨いでいるが、開通当初は天井川であった石屋川の下をトンネルでくぐっていたそうだ。


 日本で最初の鉄道トンネルとして明治4年に完成したという。


JR高架下の土手のり面に「旧石屋川隧道跡」の石碑が立つ。


 JRのガードをくぐれば「網敷天満神社」の横に出る。ここの梅は満開だな。


 お参りをする。先ほど訪ねた御旅所の本宮だ。(午後2時56分)


 鳥居横には、震災で倒壊した旧鳥居の「扁額」がモニュメントとして保存されている。


 お参りをした後、線路北側の道に下りよう。正面に見える橋のようなものが石屋川。今はこの道路が石屋川の下をくぐっている。左の土手に先ほどの石碑が見える。


 JR沿いに東へ進み、すぐ1つ目のガードをくぐって南側に出る。その後、ずっとJRに沿って東へ歩く。


 高架であったJR線が目の高さぐらいになり、アンダーパス前にこの建物が見えれば右へ曲がろう。


 そして国道2号線に出れば左折。そこには「本住吉(もとすみよし)神社」。(午後3時20分)


 境内に入ってすぐの灯篭前に「住吉村道路元標」が立つ。


 「住吉三神」と神功皇后を御祭神とする。創建は神功皇后の三韓征伐に由来するらしいが、延喜式神名帳には記載されていないそうだ。


 お参りを終え境内を後にする。国道2号線は西国街道に比定されている。


 そして神社の角を左へ。この道は有馬温泉に続く「有馬道」らしい。


 すぐ先のJRをガードでくぐれば右にJR「住吉駅」。ガードをくぐって、すぐ左に曲がり線路に沿って西へ進む。


 道が柵に突き当たるので右に曲がる。


 そのまま進んでいけば、甲南大学セミナーハウスが建つ「新堂交差点」に出るので左に曲がろう。


 次の信号の前に「水神社」という小さな社がある。「弓弦羽神社参道口」だ。(午後3時38分)


 ここにも「慰霊之碑」が。108名の方の名前が刻まれている。


 前方に見える神社に向かって参道を進む。


 「弓弦羽(ゆづるは)神社」。嘉祥2(849)年創建と伝わる古社。(午後3時42分)


 「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」ら三柱を主祭神とし、神功皇后が戦勝祈願した「熊野三山」と関連があることから「八咫烏(やたがらす)」をシンボルとしている。


 日本サッカー協会も八咫烏をシンボルとしていることから、境内には御影石製のサッカーボールのオブジェが飾られている。なお、神社の東側には「香雪美術館」という美術館があるが、今回は訪れない。


 末社である「松尾社(まつのおしゃ)」前の裏参道から境内を後にする。「お酒の神様」なのでお参りしておかなければ。


 突き当たりを右に進み、阪急電車のガードをくぐれば本日のゴールである「御影駅」北口なのだが、一旦、駅舎前を通り過ぎる。


 駅前の西端には「御影城(平野城)跡碑」。南北朝時代に築かれた城らしいが遺構もなく、詳しい所在地などもわからないそうだ。


 駅北側にある「深田池公園」の池が堀の名残といわれている。


 そして本日のゴールである阪急電車「御影駅」まで戻る。時間は午後4時5分。本日の歩紀「36601歩」(24.88km)。朝出発した岡本駅の1つ次の駅だ。前半だけでなく、後半もよく歩いたな。大阪梅田駅まで途中で特急に乗り換えて約30分(280円)。東灘区は大阪にも近く都市化・宅地化が進んでいるが、結構、遺跡や伝承地が残る「歴史の町」だった。そしてあの震災で多くの方々が亡くなった被災地でもある。慰霊碑も市や区ではなく自治会単位で建立されている。「合掌」


追:昨日の関テレ系「兵頭大樹の今昔さんぽ」で兵頭さんは、私が昨年11月歩いた兵庫区の「新開地」と「湊川隧道」、先月歩いた長田区の「天長地久」を歩いていた。ねっ、かぶるでしょ。次は「東灘区」を歩くのかな。
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