訪問日:令和2年9月6日(日)
出 発:阪急電車「北千里駅」
到 着:阪急電車「相川駅」
大阪府北部「北摂」を拠点とする私は、池田市、箕面市、豊中市、摂津市、茨木市、高槻市、豊能郡、三島郡と歩いてきた。さてさて「吹田市」は?確かに以前訪れた「万博記念公園」は吹田市だ。しかし、区切られた一画である。「まだ、吹田の町歩きはしていなかったな」ということで、今回「吹田」の町を歩くことにした。大阪府北部のなだらかな丘陵地帯である「千里丘陵」。その大部分は、現在の吹田市である。千里丘陵を削る「山田川」から、北摂の流れを集めて大阪湾に注ぐ「安威川」まで吹田の町を歩こう。市街地を歩くので、給水・トイレの心配は、まったくない。
今日のスタートは、阪急千里線「北千里駅」。阪急「大阪梅田駅」から約30分(270円)。大阪メトロ堺筋線が乗り入れている。駅の西側は、ロータリーになっており、バスターミナル、スーパーや商業ビル、銀行などが並ぶ。
しかし、今日は西口からではなく、東口から午前9時40分スタートする。ひっそりとした出口だが、こちら側にもスーパー(午前9時30分から営業)やコンビニがあるので給水は可能だ。
東口の目の前は、「千里ニュータウン藤白台」。昭和30年代の高度成長期に開発された大規模ニュータウンである。豊中市と吹田市にまたがる「千里ニュータウン」は、豊中市側が「〇〇町」、吹田市側が「〇〇台」という地名になっている。
陸橋で「千里けやき通り」と呼ばれる府道に下りる。
かつて千里丘陵を削り、安威川と合流して最終的に大阪湾に注いだ「山田川」は、この辺りを水源とするが、今では宅地造成のため当時の姿は見られない。おそらくこの流れが「山田川」の名残だろう。
「山田川」に沿って南へ歩く。
川面を見ていると「あっ、カワセミだ」。望遠レンズを持っていなかったので、デジカメソフトのトリミング機能で拡大して見た。私は、あまり鳥の名前は知らないが、おそらくカワセミだろう。
「北消防署前交差」で一旦、「山田川」と別れる。ちょっと複雑な交差点だが、次の「万博公園西交差」で前方に見える「コーナン」を目指し、「コーナン」の前を南に進む。そう、この左(東)側は、以前訪れた「万博記念公園」なのだ。
しばらく歩くと、目の前を「大阪中央環状線」「中国自動車道」「大阪モノレール」が高架で走るので、その下をくぐろう。
高架をくぐれば「三ツ辻」という交差点で「旧大阪中央環状線」の府道2号線と交わる。そのまま進み小さな川を渡れば右に「JA北大阪」があるので、その前の信号で左の狭い道へと進む。
2つ目の路地を左に入り、小さな橋で先ほど越えた川を渡る。この川が「山田川」である。「山田川」は、千里丘陵を削り、河岸段丘というのだろうか細長い緩やかな平野部を形成して「安威川」と合流する。
橋を渡り、少し歩けば右に小さな地蔵堂。ネットで検索すると「放牛地蔵」と言うらしい。「放牛」とは、肥後国出身の高僧で、「放牛」が建立したお地蔵様や石仏を「放牛地蔵」「放牛石仏」と言うらしい。熊本県内に100を超える「放牛地蔵・石仏」があり、それぞれに番号が振られているそうだが、このお地蔵様も何かいわれがあるのだろうか。
その先を右に曲がり、これより「山田川」に沿って開けた「山田集落」を歩く。
浄土真宗本願寺派「正業寺」と「宗名寺」の間を進む。
三叉路に突き当たれば右に曲がり、再度「山田川」を渡る。この集落は、「万博記念公園」と「千里ニュータウン」に挟まれているが、結構、当時の面影を残しているな。遠くにエキスポシティの観覧車が頭をのぞかせる。
道はクネクネと曲がるが、道なりに進んで行こう。
右に「山田上街道ふれあい公園」が現れ、井戸の手動ポンプ越しに何やら石碑が。
かつての「三島郡山田村」の村長「津中作治」という人の邸宅があったようだ。
古い街道に沿って進む。
旧道と合流して「山田川」を渡れば、左に「松竹堂」。
明治22年創業の古い和菓子屋さんである。
旧道を進んで行けば、正面に交番がある「山田宮之前交差」に突き当たる。
右に「伊射奈岐(いざなぎ)神社」の鳥居が立つので境内に進もう。雄略天皇23年に祀られたという古社である。
鳥居をくぐり「山田川」を渡れば、右に鳥居の上部が埋め込まれている。これは、慶安3(1650)年に造立され参道入口に建っていたものが、平成30年6月18日の「大阪府北部を震源とする地震」で被害を受け、その上部をここに移転したそうだ。平成30年と言えば、つい2年前のことだ。私もあの地震を体験したが、阪神大震災にも耐えた鳥居が、あの地震で倒壊したんだな。
当社は、当てられている漢字は違うが、その名から「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」を祀るのかと思ったが、妻の「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」等を祀るのだという。今日一日の安全を祈願する(参拝されている方は、私ではありません)。
参拝を終え、先ほどの「山田宮之前交差」まで戻り、交番を過ぎて次の次の辻(ダイハツの看板がある)を右へ曲がる。道は、すぐに二手に分かれるのでさらに右へ進む。
建て替えられた家も多いが、狭い道はかつての雰囲気を残している。
狭い道をそのまま進んでいくと、再度「山田川」を渡る。
目の前には「山田名神下交差」。上を走るのは、日本の大動脈「名神高速道路」だ。
「名神高速道路」をくぐる。やがて右折するので、機を見て道路の右側に渡っておこう。
前方に「イズミヤ」が見えてくるので、その手前「山田市場南交差」を右に曲がる。ここで「山田川」と分かれるが「山田川」は、ここから摂津市を横切り、約2.8km下流で「安威川」と合流する。
ここは、摂津市との市境。「イズミヤ」の向こう(南)側は、以前、「摂津市」を歩いた時の「市場池」である。様子を見ながら道の左側に渡っておこう(「『新幹線のまち』摂津市」参照)。
「正雀川」を渡り府道135号線と交わる「山田南交差」を越えれば、左に「吉志部瓦窯跡(工房跡)遺跡」が現れる。「きしべ」と読む。
延暦13(794)年、桓武天皇の平安遷都に際し、宮殿の瓦を生産した窯跡だという。
少し進み、次の信号に出れば右に「吉志部神社」の鳥居が見える。あまりにも古く由緒はわからないという。先ほどの「吉志部瓦窯」から考えると平安時代以前からあったのだろうか。
この辺りは、現在「岸辺(きしべ)」と呼ばれるが、先ほどの「伊射奈岐」のように同じ言葉に異なった漢字が当てられている例は多い。これは、漢字が伝わる前から存在し、その後に漢字が当てられたからだと言われる。それだけ古い土地と言うことだろう。
神社周辺は「紫金山公園」として市民に開放されている。
公園内にも「吉志部瓦窯跡」など多くの遺跡が残る。以前、高槻市を歩いた時、真の「継体天皇陵」と言われる「今城塚古墳」の埴輪を焼いたという「ハニワ工場公園」を訪れたが、この地域にも瓦や埴輪を焼く窯(工場)が多く存在したのだろうか。
公園を「名神高速道路」が横切るので、「市立博物館」前で「名神高速」をくぐる。
「佐井寺中学校」「消防署」を過ぎれば左へ。この道は「せせらぎの道」と呼ばれる。結構、起伏があるな。
「市立総合運動場」を左に見ながらどんどん進んで行こう。
あれ?「せせらぎ」は流れてないな。
道がカーブすると右に「洋麺屋五右衛門」「星乃珈琲」が見えるが、この辺りから「せせらぎ」が流れ始めた。
カーブを曲がれば、左に「佐井寺南が丘公園」。
広くきれいな公園で木陰やベンチ、清潔なトイレもある。時間は、午前11時50分。ここで「昼休み」としよう。
公園を横断し、南西角から2~3分歩けば「ガルル珈琲」(地図を参照してください)。今日は「歩紀」の途中に電話注文しておいたサンドウィッチをテイクアウト。
「佐井寺南が丘公園」まで戻れば正午過ぎ。今日も腹時計は正確だ。
公園の東屋で「手作りロースかつサンド(980円)」+缶コーヒーで昼食としよう。結構、ボリュームがあるな。
食事を終えさらに進み「関西スーパー」を過ぎれば右に曲がる。大阪では「千里」と言えば「高級住宅街」のイメージがある。お洒落なカフェやイタリアンレストラン、ベーカリーショップ、高級回転寿司店などが駅前でもなく、ショッピングモールでもなく、幹線道路沿いでもない「住宅街の真ん中」にあるというところが「千里」なんだな。「片山坂」と呼ばれる坂道を少し上り一つ目の信号を左折。
次の信号を過ぎればさらに左折。「高級住宅街」を進む。
住宅街のため目印がないので、地図で阪急「千里山駅」を目指して歩いてください。口(文)ではなかなか説明できません。
「千里丘陵」は、吹田市、豊中市、箕面市、茨木市、摂津市にまたがり、それぞれ「千里」が付く地名や施設がみられるのだが、豊中はともかく箕面、茨木、摂津は、「北摂」であっても「千里」ではない。「大阪人」的には。1970(昭和45)年、「日本万国博覧会」が、吹田市の「千里丘陵」を開拓して開催されたということから「千里=吹田」という印象が強いのだろうか。
角に「スギ薬局」がある突き当りを左に曲がれば、やがて阪急千里線「千里山駅」に出る。駅前には「大阪府吹田警察署千里山交番」。令和元年6月の早朝、この交番で勤務する警察官が刃物を持った男に襲われ、拳銃が奪われるという事件が起きた。犯人は捕まり、重傷だった元ラガーマンの警察官も順調に回復しているそうだが、こんな閑静な町であんな凶悪事件が起きたんだな。
交番の前を進み、踏切は渡らず「北おおさか信用金庫(工事中)」前の一方通行出口を入り川沿いを進む。
10分ほど歩けば右に踏切。その前に飲食店などが並ぶ賑やかな通りがあるので左に曲がってみよう。
突き当たりには「関西大学」。明治19(1886)年に創設された「関西法律学校」を前身とする関西でも有名なマンモス総合大学である。大正11年、大阪市内から移ってきたそうだ。さっきの通りは、「学生街」だったんだな。
「学生街」を元の道に戻り、踏切を渡らずに左折。「名神高速」の高架下に阪急千里線「関大前駅」。駅名にもなっているんだ。
駅前をそのまま進んで行こう。系列の高校や幼稚園を過ぎれば、ここにも「関大」の門。
ここで踏切を渡り、左折して小さな川に沿って府道を歩く。
「垂水上池公園」を過ぎれば二手に分かれるが、左の線路沿いに進む。
「豊津交番前交差」に出れば左折。阪急千里線「豊津駅」前の踏切を渡って府道を進む。吹田市の大部分は「旧三島郡」であるが、「旧豊津村」は、「旧豊嶋郡」である。「豊」の字もその名残だろう。
府道をカーブしながら進んで行く。
左に「カトリック吹田教会」という立派な教会が見えてくるので教会の手前を左に曲がろう。
左に公共施設を見ながら進めば「片山公園」。
丘陵を利用した市民公園である。
公園の北側には「大和(やまと)大学」。平成26年、開学された新しい大学だ。吹田市には、この他にも「大阪大学吹田キャンパス」「大阪学院大学」「千里金蘭大学」がある。
公園に隣接する「片山神社」に参拝。
参拝を終え、片山神社の鳥居を出れば府道を挟んで正面に大きな工場が。「アサヒビール吹田工場」。明治22(1899)年、「大阪麦酒会社」として設立されたそうだ。
右に曲がり「片山公園」の一角には、「アサヒグループ迎賓館」。ここは、外からの見学。
右に「旭神社」。呑兵衛としては、お参りしておかなければ。
迎賓館の奥には「先人の碑」。アサヒビール関連の物故者をお祀りするそうだ。
桜や紅葉が美しい庭園とともに一般公開(無料)されている。
向かいの「アサヒビール吹田工場」は、無料で試飲付きの工場見学ができるのだが、休業日以外の2人以上でなければならない。そして、本日現在、新型コロナのため見学は中止されているそうだ。工場の外から創業当時からあるという「煉瓦造り」の工場を撮影する。「あー。ビールが飲みたいなぁ」
ビール工場を左に見ながら進んでいくと「泉殿宮(いづどのぐう)」。
貞観11(869)年、「スサノオノミコト」を勧請して祀られたと伝わる。
明治時代、本殿横に湧き出る「泉殿霊泉」をドイツに送ったところ、ビール醸造に最適と評価され、アサヒビール(大阪麦酒会社)が進出したと言う逸話がある。
「泉殿宮」を出て左に進めば阪急千里線「吹田駅」への地下連絡道が見え、道は高架道路に沿ってカーブする。
高架道路の向こうには「吹田市役所」。吹田市は、大都会ではないが住宅地であるため人口約38万人を擁する大阪府下でも大きな衛星都市だ。そして、大阪の人は、何の抵抗もなく「すいた」と呼んでいるだろう。しかし、「吸(す)う」ではなく、「吹(ふ)く」である。普通は「ふいた」(熊本県には「吹田(ふけた)」という地名があるそうだが)だろう。地名の由来には諸説あるそうだが、大阪では当たり前のように「すいた」と呼んでいる。
高架道路と交われば正面のJR京都線の高架をくぐり左折しよう。
JR沿いに歩き、次の信号で右折。「天照皇大神宮」という小さなお社を左に見ながら進んで行く。
200mほどで左に高野山真言宗「常光円満寺」。「仁王門」と呼ばれる山門をくぐる。
「西国三十三ケ所」「摂津国八十八ケ所」の1つである御本尊の「聖観世音菩薩」にお参りする。手水舎の水は止められ、消毒スプレーが置かれていた。
天平7(735)年、行基によって開かれた古刹で、足利家の菩提寺として栄えたが、応仁の乱(1467年)により焼失。寺領荘園のすべてを失い、その後、寛文11(1671)年、教範和尚により再建されたという。
「仁王門」から境内を後にし、すぐ左の狭い一方通行路を曲がる。
3~400mほどでJR「吹田駅」。駅前は、バスターミナルになっており、スーパーや大手銀行の支店などが並ぶが、電車は「各停」しか停まらない。
JR「吹田駅」前には、7つの商店街があるそうだが、道路両端の歩道が有蓋となった開放的な商店街が多い。その一つ「旭通商店街」を進んで行く。
「ジャンボカラオケ」を過ぎて右を覗き込めば「新旭町通商店街」。
この商店街だけが、いわゆる「アーケード商店街」である。
ところどころ「シャッター街」化しているところもある。
婦人衣料品店が多いようだな。「大阪のおば様たち」の需要が多いのだろうか?
途中、道路を横断して一旦途切れるがすぐにアーケード。こちらはいろいろな店があるが、営業時間は過ぎているようだ。
アーケードを出て大通りへ。U字カーブした大きな交差点に出る。その北側に「高濱神社」が鎮座する。
「吹田」の起こりとなった(諸説あり)豪族「次田連(スキタムラジ)」一族の氏神として5世紀頃に創建された古い神社だそうだ。
参拝を終え、神社前の横断歩道を渡り「宮の前通り」という道を南に進めば、左に「浜屋敷」という案内板。ここは「西門」のようだ。
次の路地を左に入り正面へ。この立派な旧家は、「吹田歴史文化まちづくりセンター・浜屋敷」。
江戸時代末期の庄屋屋敷を復元したもので、平成12年、所有者から寄付を受け、歴史・文化のまちづくり拠点やイベント施設として利用されているそうだ。
「浜屋敷」の板塀を過ぎ、次の辻を右に曲がって旧家の間を抜けて行く。
突き当たりは「安威川」の堤防。左を見れば「吹田の渡し跡」の案内板。
かつて大坂と北摂を結んだ渡し船で、今より数100m下流の「神崎川」を行き来していたそうだ。
左に見える人道橋の向かいに左斜めに入る辻があるので入って行こう。このお屋敷の向こうを右折する。
建て替えの進んだ路地を抜ければ、先ほど参拝した「高濱神社御旅所」に突き当たる。
今日の吹田市の最高気温は33度。熱中症にもかからず無事に歩き終えた。最後にお参りをしておこう。
御旅所の境内右を抜ければ府道に出るので「新京阪橋」という橋で「安威川」を渡る。橋を渡れば「大阪市東淀川区」だ。
橋を渡り少し進めば正面に本日のゴール阪急京都線「相川駅」の西口。午後2時50分着。本日の歩紀「24956歩」(16.97km)。「大阪24区~東淀川区編」や「警ら連絡所訪問編」で訪れた駅だ。「千里(約4000km)」にはほど遠いが、久しぶりによく歩いたな。スポーツドリンク1.5リットル、ミネラルウォーター1.5リットルで給水。ここから阪急「大阪梅田駅」まで約30分(230円)。
出 発:阪急電車「北千里駅」
到 着:阪急電車「相川駅」
大阪府北部「北摂」を拠点とする私は、池田市、箕面市、豊中市、摂津市、茨木市、高槻市、豊能郡、三島郡と歩いてきた。さてさて「吹田市」は?確かに以前訪れた「万博記念公園」は吹田市だ。しかし、区切られた一画である。「まだ、吹田の町歩きはしていなかったな」ということで、今回「吹田」の町を歩くことにした。大阪府北部のなだらかな丘陵地帯である「千里丘陵」。その大部分は、現在の吹田市である。千里丘陵を削る「山田川」から、北摂の流れを集めて大阪湾に注ぐ「安威川」まで吹田の町を歩こう。市街地を歩くので、給水・トイレの心配は、まったくない。
今日のスタートは、阪急千里線「北千里駅」。阪急「大阪梅田駅」から約30分(270円)。大阪メトロ堺筋線が乗り入れている。駅の西側は、ロータリーになっており、バスターミナル、スーパーや商業ビル、銀行などが並ぶ。
しかし、今日は西口からではなく、東口から午前9時40分スタートする。ひっそりとした出口だが、こちら側にもスーパー(午前9時30分から営業)やコンビニがあるので給水は可能だ。
東口の目の前は、「千里ニュータウン藤白台」。昭和30年代の高度成長期に開発された大規模ニュータウンである。豊中市と吹田市にまたがる「千里ニュータウン」は、豊中市側が「〇〇町」、吹田市側が「〇〇台」という地名になっている。
陸橋で「千里けやき通り」と呼ばれる府道に下りる。
かつて千里丘陵を削り、安威川と合流して最終的に大阪湾に注いだ「山田川」は、この辺りを水源とするが、今では宅地造成のため当時の姿は見られない。おそらくこの流れが「山田川」の名残だろう。
「山田川」に沿って南へ歩く。
川面を見ていると「あっ、カワセミだ」。望遠レンズを持っていなかったので、デジカメソフトのトリミング機能で拡大して見た。私は、あまり鳥の名前は知らないが、おそらくカワセミだろう。
「北消防署前交差」で一旦、「山田川」と別れる。ちょっと複雑な交差点だが、次の「万博公園西交差」で前方に見える「コーナン」を目指し、「コーナン」の前を南に進む。そう、この左(東)側は、以前訪れた「万博記念公園」なのだ。
しばらく歩くと、目の前を「大阪中央環状線」「中国自動車道」「大阪モノレール」が高架で走るので、その下をくぐろう。
高架をくぐれば「三ツ辻」という交差点で「旧大阪中央環状線」の府道2号線と交わる。そのまま進み小さな川を渡れば右に「JA北大阪」があるので、その前の信号で左の狭い道へと進む。
2つ目の路地を左に入り、小さな橋で先ほど越えた川を渡る。この川が「山田川」である。「山田川」は、千里丘陵を削り、河岸段丘というのだろうか細長い緩やかな平野部を形成して「安威川」と合流する。
橋を渡り、少し歩けば右に小さな地蔵堂。ネットで検索すると「放牛地蔵」と言うらしい。「放牛」とは、肥後国出身の高僧で、「放牛」が建立したお地蔵様や石仏を「放牛地蔵」「放牛石仏」と言うらしい。熊本県内に100を超える「放牛地蔵・石仏」があり、それぞれに番号が振られているそうだが、このお地蔵様も何かいわれがあるのだろうか。
その先を右に曲がり、これより「山田川」に沿って開けた「山田集落」を歩く。
浄土真宗本願寺派「正業寺」と「宗名寺」の間を進む。
三叉路に突き当たれば右に曲がり、再度「山田川」を渡る。この集落は、「万博記念公園」と「千里ニュータウン」に挟まれているが、結構、当時の面影を残しているな。遠くにエキスポシティの観覧車が頭をのぞかせる。
道はクネクネと曲がるが、道なりに進んで行こう。
右に「山田上街道ふれあい公園」が現れ、井戸の手動ポンプ越しに何やら石碑が。
かつての「三島郡山田村」の村長「津中作治」という人の邸宅があったようだ。
古い街道に沿って進む。
旧道と合流して「山田川」を渡れば、左に「松竹堂」。
明治22年創業の古い和菓子屋さんである。
旧道を進んで行けば、正面に交番がある「山田宮之前交差」に突き当たる。
右に「伊射奈岐(いざなぎ)神社」の鳥居が立つので境内に進もう。雄略天皇23年に祀られたという古社である。
鳥居をくぐり「山田川」を渡れば、右に鳥居の上部が埋め込まれている。これは、慶安3(1650)年に造立され参道入口に建っていたものが、平成30年6月18日の「大阪府北部を震源とする地震」で被害を受け、その上部をここに移転したそうだ。平成30年と言えば、つい2年前のことだ。私もあの地震を体験したが、阪神大震災にも耐えた鳥居が、あの地震で倒壊したんだな。
当社は、当てられている漢字は違うが、その名から「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」を祀るのかと思ったが、妻の「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」等を祀るのだという。今日一日の安全を祈願する(参拝されている方は、私ではありません)。
参拝を終え、先ほどの「山田宮之前交差」まで戻り、交番を過ぎて次の次の辻(ダイハツの看板がある)を右へ曲がる。道は、すぐに二手に分かれるのでさらに右へ進む。
建て替えられた家も多いが、狭い道はかつての雰囲気を残している。
狭い道をそのまま進んでいくと、再度「山田川」を渡る。
目の前には「山田名神下交差」。上を走るのは、日本の大動脈「名神高速道路」だ。
「名神高速道路」をくぐる。やがて右折するので、機を見て道路の右側に渡っておこう。
前方に「イズミヤ」が見えてくるので、その手前「山田市場南交差」を右に曲がる。ここで「山田川」と分かれるが「山田川」は、ここから摂津市を横切り、約2.8km下流で「安威川」と合流する。
ここは、摂津市との市境。「イズミヤ」の向こう(南)側は、以前、「摂津市」を歩いた時の「市場池」である。様子を見ながら道の左側に渡っておこう(「『新幹線のまち』摂津市」参照)。
「正雀川」を渡り府道135号線と交わる「山田南交差」を越えれば、左に「吉志部瓦窯跡(工房跡)遺跡」が現れる。「きしべ」と読む。
延暦13(794)年、桓武天皇の平安遷都に際し、宮殿の瓦を生産した窯跡だという。
少し進み、次の信号に出れば右に「吉志部神社」の鳥居が見える。あまりにも古く由緒はわからないという。先ほどの「吉志部瓦窯」から考えると平安時代以前からあったのだろうか。
この辺りは、現在「岸辺(きしべ)」と呼ばれるが、先ほどの「伊射奈岐」のように同じ言葉に異なった漢字が当てられている例は多い。これは、漢字が伝わる前から存在し、その後に漢字が当てられたからだと言われる。それだけ古い土地と言うことだろう。
神社周辺は「紫金山公園」として市民に開放されている。
公園内にも「吉志部瓦窯跡」など多くの遺跡が残る。以前、高槻市を歩いた時、真の「継体天皇陵」と言われる「今城塚古墳」の埴輪を焼いたという「ハニワ工場公園」を訪れたが、この地域にも瓦や埴輪を焼く窯(工場)が多く存在したのだろうか。
公園を「名神高速道路」が横切るので、「市立博物館」前で「名神高速」をくぐる。
「佐井寺中学校」「消防署」を過ぎれば左へ。この道は「せせらぎの道」と呼ばれる。結構、起伏があるな。
「市立総合運動場」を左に見ながらどんどん進んで行こう。
あれ?「せせらぎ」は流れてないな。
道がカーブすると右に「洋麺屋五右衛門」「星乃珈琲」が見えるが、この辺りから「せせらぎ」が流れ始めた。
カーブを曲がれば、左に「佐井寺南が丘公園」。
広くきれいな公園で木陰やベンチ、清潔なトイレもある。時間は、午前11時50分。ここで「昼休み」としよう。
公園を横断し、南西角から2~3分歩けば「ガルル珈琲」(地図を参照してください)。今日は「歩紀」の途中に電話注文しておいたサンドウィッチをテイクアウト。
「佐井寺南が丘公園」まで戻れば正午過ぎ。今日も腹時計は正確だ。
公園の東屋で「手作りロースかつサンド(980円)」+缶コーヒーで昼食としよう。結構、ボリュームがあるな。
食事を終えさらに進み「関西スーパー」を過ぎれば右に曲がる。大阪では「千里」と言えば「高級住宅街」のイメージがある。お洒落なカフェやイタリアンレストラン、ベーカリーショップ、高級回転寿司店などが駅前でもなく、ショッピングモールでもなく、幹線道路沿いでもない「住宅街の真ん中」にあるというところが「千里」なんだな。「片山坂」と呼ばれる坂道を少し上り一つ目の信号を左折。
次の信号を過ぎればさらに左折。「高級住宅街」を進む。
住宅街のため目印がないので、地図で阪急「千里山駅」を目指して歩いてください。口(文)ではなかなか説明できません。
「千里丘陵」は、吹田市、豊中市、箕面市、茨木市、摂津市にまたがり、それぞれ「千里」が付く地名や施設がみられるのだが、豊中はともかく箕面、茨木、摂津は、「北摂」であっても「千里」ではない。「大阪人」的には。1970(昭和45)年、「日本万国博覧会」が、吹田市の「千里丘陵」を開拓して開催されたということから「千里=吹田」という印象が強いのだろうか。
角に「スギ薬局」がある突き当りを左に曲がれば、やがて阪急千里線「千里山駅」に出る。駅前には「大阪府吹田警察署千里山交番」。令和元年6月の早朝、この交番で勤務する警察官が刃物を持った男に襲われ、拳銃が奪われるという事件が起きた。犯人は捕まり、重傷だった元ラガーマンの警察官も順調に回復しているそうだが、こんな閑静な町であんな凶悪事件が起きたんだな。
交番の前を進み、踏切は渡らず「北おおさか信用金庫(工事中)」前の一方通行出口を入り川沿いを進む。
10分ほど歩けば右に踏切。その前に飲食店などが並ぶ賑やかな通りがあるので左に曲がってみよう。
突き当たりには「関西大学」。明治19(1886)年に創設された「関西法律学校」を前身とする関西でも有名なマンモス総合大学である。大正11年、大阪市内から移ってきたそうだ。さっきの通りは、「学生街」だったんだな。
「学生街」を元の道に戻り、踏切を渡らずに左折。「名神高速」の高架下に阪急千里線「関大前駅」。駅名にもなっているんだ。
駅前をそのまま進んで行こう。系列の高校や幼稚園を過ぎれば、ここにも「関大」の門。
ここで踏切を渡り、左折して小さな川に沿って府道を歩く。
「垂水上池公園」を過ぎれば二手に分かれるが、左の線路沿いに進む。
「豊津交番前交差」に出れば左折。阪急千里線「豊津駅」前の踏切を渡って府道を進む。吹田市の大部分は「旧三島郡」であるが、「旧豊津村」は、「旧豊嶋郡」である。「豊」の字もその名残だろう。
府道をカーブしながら進んで行く。
左に「カトリック吹田教会」という立派な教会が見えてくるので教会の手前を左に曲がろう。
左に公共施設を見ながら進めば「片山公園」。
丘陵を利用した市民公園である。
公園の北側には「大和(やまと)大学」。平成26年、開学された新しい大学だ。吹田市には、この他にも「大阪大学吹田キャンパス」「大阪学院大学」「千里金蘭大学」がある。
公園に隣接する「片山神社」に参拝。
参拝を終え、片山神社の鳥居を出れば府道を挟んで正面に大きな工場が。「アサヒビール吹田工場」。明治22(1899)年、「大阪麦酒会社」として設立されたそうだ。
右に曲がり「片山公園」の一角には、「アサヒグループ迎賓館」。ここは、外からの見学。
右に「旭神社」。呑兵衛としては、お参りしておかなければ。
迎賓館の奥には「先人の碑」。アサヒビール関連の物故者をお祀りするそうだ。
桜や紅葉が美しい庭園とともに一般公開(無料)されている。
向かいの「アサヒビール吹田工場」は、無料で試飲付きの工場見学ができるのだが、休業日以外の2人以上でなければならない。そして、本日現在、新型コロナのため見学は中止されているそうだ。工場の外から創業当時からあるという「煉瓦造り」の工場を撮影する。「あー。ビールが飲みたいなぁ」
ビール工場を左に見ながら進んでいくと「泉殿宮(いづどのぐう)」。
貞観11(869)年、「スサノオノミコト」を勧請して祀られたと伝わる。
明治時代、本殿横に湧き出る「泉殿霊泉」をドイツに送ったところ、ビール醸造に最適と評価され、アサヒビール(大阪麦酒会社)が進出したと言う逸話がある。
「泉殿宮」を出て左に進めば阪急千里線「吹田駅」への地下連絡道が見え、道は高架道路に沿ってカーブする。
高架道路の向こうには「吹田市役所」。吹田市は、大都会ではないが住宅地であるため人口約38万人を擁する大阪府下でも大きな衛星都市だ。そして、大阪の人は、何の抵抗もなく「すいた」と呼んでいるだろう。しかし、「吸(す)う」ではなく、「吹(ふ)く」である。普通は「ふいた」(熊本県には「吹田(ふけた)」という地名があるそうだが)だろう。地名の由来には諸説あるそうだが、大阪では当たり前のように「すいた」と呼んでいる。
高架道路と交われば正面のJR京都線の高架をくぐり左折しよう。
JR沿いに歩き、次の信号で右折。「天照皇大神宮」という小さなお社を左に見ながら進んで行く。
200mほどで左に高野山真言宗「常光円満寺」。「仁王門」と呼ばれる山門をくぐる。
「西国三十三ケ所」「摂津国八十八ケ所」の1つである御本尊の「聖観世音菩薩」にお参りする。手水舎の水は止められ、消毒スプレーが置かれていた。
天平7(735)年、行基によって開かれた古刹で、足利家の菩提寺として栄えたが、応仁の乱(1467年)により焼失。寺領荘園のすべてを失い、その後、寛文11(1671)年、教範和尚により再建されたという。
「仁王門」から境内を後にし、すぐ左の狭い一方通行路を曲がる。
3~400mほどでJR「吹田駅」。駅前は、バスターミナルになっており、スーパーや大手銀行の支店などが並ぶが、電車は「各停」しか停まらない。
JR「吹田駅」前には、7つの商店街があるそうだが、道路両端の歩道が有蓋となった開放的な商店街が多い。その一つ「旭通商店街」を進んで行く。
「ジャンボカラオケ」を過ぎて右を覗き込めば「新旭町通商店街」。
この商店街だけが、いわゆる「アーケード商店街」である。
ところどころ「シャッター街」化しているところもある。
婦人衣料品店が多いようだな。「大阪のおば様たち」の需要が多いのだろうか?
途中、道路を横断して一旦途切れるがすぐにアーケード。こちらはいろいろな店があるが、営業時間は過ぎているようだ。
アーケードを出て大通りへ。U字カーブした大きな交差点に出る。その北側に「高濱神社」が鎮座する。
「吹田」の起こりとなった(諸説あり)豪族「次田連(スキタムラジ)」一族の氏神として5世紀頃に創建された古い神社だそうだ。
参拝を終え、神社前の横断歩道を渡り「宮の前通り」という道を南に進めば、左に「浜屋敷」という案内板。ここは「西門」のようだ。
次の路地を左に入り正面へ。この立派な旧家は、「吹田歴史文化まちづくりセンター・浜屋敷」。
江戸時代末期の庄屋屋敷を復元したもので、平成12年、所有者から寄付を受け、歴史・文化のまちづくり拠点やイベント施設として利用されているそうだ。
「浜屋敷」の板塀を過ぎ、次の辻を右に曲がって旧家の間を抜けて行く。
突き当たりは「安威川」の堤防。左を見れば「吹田の渡し跡」の案内板。
かつて大坂と北摂を結んだ渡し船で、今より数100m下流の「神崎川」を行き来していたそうだ。
左に見える人道橋の向かいに左斜めに入る辻があるので入って行こう。このお屋敷の向こうを右折する。
建て替えの進んだ路地を抜ければ、先ほど参拝した「高濱神社御旅所」に突き当たる。
今日の吹田市の最高気温は33度。熱中症にもかからず無事に歩き終えた。最後にお参りをしておこう。
御旅所の境内右を抜ければ府道に出るので「新京阪橋」という橋で「安威川」を渡る。橋を渡れば「大阪市東淀川区」だ。
橋を渡り少し進めば正面に本日のゴール阪急京都線「相川駅」の西口。午後2時50分着。本日の歩紀「24956歩」(16.97km)。「大阪24区~東淀川区編」や「警ら連絡所訪問編」で訪れた駅だ。「千里(約4000km)」にはほど遠いが、久しぶりによく歩いたな。スポーツドリンク1.5リットル、ミネラルウォーター1.5リットルで給水。ここから阪急「大阪梅田駅」まで約30分(230円)。