訪問日:平成27年12月12日(土)
出 発:神姫グリーンバス「福住」バス停
到 着:神姫グリーンバス「篠山本町」バス停
篠山藩と京を結ぶ「西京街道」の宿場町として栄え、江戸時代後期から明治時代に建てられた妻入民家を中心とする町並みが続く「福住宿」。「篠山城」を中心に栄えた「篠山(ささやま)市」。そして、この2つの町を結ぶ「デカンショ街道」。いずれも見所は多い。晩秋から初冬へと移る丹波路を歩く。結構、コンビニやスーパーもあり給水・トイレには困らない。
午前5時過ぎに自宅を出て「JR篠山口駅」へ。大阪駅からだと約1時間10分(1140円)だ。駅西口から1日4本しかないバスに乗り「福住」を目指す。
午前7時20分発の始発バスに乗り約50分(700円)で本日のスタート地点である神姫グリーンバス「福住」バス停に到着。ここは兵庫県篠山市福住。「ふくすみ」と読む。午前8時10分出発。
バス停の奥には「国鉄福住駅跡」。昭和19年、軍需鉄道として開通した旧国鉄篠山線。戦後も貨客線として運行されたが、旅客数・貨物数とも減少し、昭和47年2月廃線。ここに終着駅の「福住駅」があったという。
農協倉庫前には、かつてのホーム跡がトラックの車寄せとして残っている。
バス停は「福住宿」の西端にある。ここには、市役所支所や駐車場、公衆トイレなどがあり「福住宿」散策の出発地点なのだが、一番東の「西野々」から歩こうと思うので一旦宿場町の東端へと向かうことにする。
その前にバス停近くにある「地主稲荷神社」で、いつものとおり今日一日の安全を祈願する。
「福住宿」のすぐ北側を流れる籾井(もみい)川に沿って「西京街道」の新道として開通した国道372号線が走るので、この道で宿場の東端へ向かう。
国道の左に横たわる山地には「籾井城」「安口西砦」「安口城」など中世の城跡が残る。
右側に、この後歩く「福住宿」の町並みを背後から望む。
約40分で「西野々交差点」。ここを右に折れる。
ここが「福住宿」の東端にあたる「西野々(にしのの)」だ。宿場町は「西野々」「安口」「川原」「福住」の4つの地区に分かれる。
「西野々」地区の町並みは、妻入民家と平入民家が混在する。これは、平入民家。
江戸時代後期から明治にかけて建てられた民家が10軒ほど残る。
10分ほどで「安口」地区へ。「はだかす」と読むそうだ。珍名だな。これは、妻入民家。
公民館にはトイレ(休日のみ利用可)。
「安口」地区は、大火がなかったことから茅葺きの民家が多く残る。
途中、何やら茅葺き屋根の工事をしていた。トタン葺きの下は、こうなっているのか。
立派な茅葺きだな。
「西京街道」を進む。
地区内は、地元の方々の生活の場である。静かにマナーを守って見学しよう。
東西約3.3kmにわたる宿場町のおよそ半分を過ぎれば「川原(かわら)」地区に。
ここは、所々、田畑が広がり農村地帯と宿場町が混在する景観を見せる。
どんどん進もう。
トタンの下から茅葺きをのぞく。
「住吉神社」。永保元(1081)年、大坂・住吉大社から分霊されたと伝わる。
かつての神宮寺の裏には「住之江の庭」。
境内には鐘楼もあり、神仏習合の色が残る。
参拝を終え、小さな川を渡ったところ辺りから「福住」地区に入る。妻入民家を中心にした町並みが続く。
山車庫と民家。
道ばたには「一里松」。
農家が旅籠を兼ねたり、一般民家にも旅人を泊めることがあったそうだ。
平入民家。
やがて右に「篠山市役所多紀支所」。
かつての「本陣」は、「市立福住小学校」になっている。今日は、記念のマラソン大会があるようだ。
先導は、この白バイがするらしい。
まだまだ町並みは続く。
かつて「脇本陣」があったところは市営団地に。しかし、団地も町の景観に配慮されている。
朝、バスが到着した所を過ぎれば宿場町は終わる。「福住宿」は、平成24年12月、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。ただ、交通の便も悪いことから、あまり観光化はされていない。その方が良いな。
宿場町を抜ければ国道372号線が大阪府池田市方面から来た国道173号線と合流する。その手前に「ローソン」。
そして、その前には「安田の大杉」。推定樹齢7~800年。樹高33m、幹周り8.4mの巨木だ。
案内板によると、この木1本で先ほど参拝した「住吉神社」の末社貴船大明神の境内を覆ったそうだ。別名「甚七の森」と呼ばれる。丹波地方最大の杉の木である。
すぐ北の「小野新交差点」で国道372号線は、国道173号線と別れ西へ。国道372号線方向に進む。
300mほどで「山陰道小野駅跡」。山陰道の駅馬として小野駅が置かれていたそうだ。国道372号線は、京都亀岡から姫路を結ぶのだが「山陰道」でもあるんだな。
また、別名「デカンショ街道」と呼ばれる。「デカンショ」とは、「どっこいしょ」が変化したものとか、杜氏として全国を巡る「丹波杜氏」の「出稼ぎしよう」が訛ったものと諸説あるが、「エッサッサ」「サノヨイヨイ」などのような単なる囃子言葉に過ぎないとの説もある。
小野の集落。トタンに覆われているが茅葺き民家が並ぶ。
「福住小野バス停」を越えたところで右に入ると「龍野新宮神社」。
大宝2(702)年、熊野から勧請されたと伝わる古社。
「デカンショ街道」に戻る。ちょっとした山越えとなる。
たいした交通量ではないが、車道と歩道の区別がないので気をつけよう。
山を抜けると田園地帯が広がる。この辺りは「辻」という集落のようだ。
ここから国道372号線は、「日置バイパス」となり、「デカンショ街道」を縫うように走る。左の旧道を歩くこととする。
この道は、朝バスで走った道だ。バスは、バイパスではなく集落内を走る。
途中で二手に分かれるが、100mほど先で合流するので、どちらを進んでも良い。
左手の道を選べば、このような風景が見られる。
「辻交差点」を渡りバイパスの北側を歩く。
ここでも二手に分かれるが200mほど先で合流する。左の狭い道に入る。
「辻川」という川に沿って街道は進む。
200mほどで「波々伯部神社」。「ほほかべ(ほうかべ)」と読むそうだ。
白鳳9(680)年、牛頭天王を祀り、神仏分離後、素戔嗚尊を祀る。
境内には、4本の大杉が並ぶ。
最も大きいものは、樹高45mに達する。
元の道に戻り右(西)へ。
300mほど進むと左に橋が見えてくるので左に曲がり「畑市橋」で「辻川」を渡りすぐ右へ。しばし「辻川」に沿って歩こう。
次の橋で元の道に戻る。
途中、上宿公民館の前に「血寄(ちよせ)地蔵」。第四代篠山藩主、松平康信の甥で又四郎という者が不出来であったことから、康信は家臣に命じ、この付近で又四郎を惨殺させたという。その死を哀れんだ村人らによって建てられたと伝わる。
「上宿」という交差点でバイパスを渡る。バイパスの南側を歩くことになる。
「デカンショ街道」をさらに西へ。
ここは「六本柳」というらしい。
「曽地川」という小さな川を渡れば右に「日置大師堂」。子授けの仏様らしい。もう、子どもはいらないが、先月嫁入りした娘に元気な子ども(孫)が授かるようお祈りをした。
古い町並みを過ぎていく。ここは、古民家を利用した和食レストラン。
「磯宮八幡神社」の看板に従い左へ。公民館の前には「日置村道路元標」と刻まれた石柱と古い消防団のポンプが。
「磯宮八幡神社」。承平3(933)年、京都・石清水八幡宮から勧請されたと伝わる。
裏から入ったようだ。境内には、仏堂もあり神仏習合の色が残る。
「デカンショ街道」に戻る。「伊能忠敬笹山領測量の道」と刻まれた石柱。
「サンセブン」という大きなスーパーが。
笛と太鼓の音が聞こえたので見ると「獅子舞」。
消防団庫が建つ二又に出れば左へ。
古民家というより農家の大きな屋敷が並ぶ。
途中、小さな四つ辻に出る。右をのぞくと「ミニストップ」がある。
「ミニストップ」と反対に進めば、200mほどで浄土真宗「金剛寺」。
四つ辻まで戻り西へ進めば「弓月神社」。
さらに街道を進めむ。この山腹には、「石心寺」「阿弥陀寺」「東陽寺」「十念寺」と寺院が並ぶが参拝はしない。街道を進もう。
この民家は立派だな。
しばらく進めば「一里塚跡」。
そして左に消防ホースの格納庫が見えれば「春日神社」と「八上城跡」の案内碑。
そちらへ行くと春日神社の鳥居。
境内の手前に「八上城跡」がある「高城山(340m)」までの登山道が。頂上まで約45分、もちろん登らない。
「デカンショ街道」に戻る。
「春日神社」を過ぎれば「デカンショ街道」は右に90度カーブする。突き当たりには、立派な民家。参勤交代の大名や一般旅人が休泊所として利用した「重兵衛茶屋」。
バイパスを越えれば、今度は左に90度カーブする。つまりバイパスの北側に戻るのだ。小さな川を渡ってさらに旧道を進む。
もし、給水等の必要があれば、バイパスを越えずに左折すれば「ローソン」がある。
振り向くと。多分あの山が「高城山」だな。
旧道を進めば市道と合流する。「デカンショ街道」は、先ほどの「ローソン」の出前で左に大きく曲がり姫路へと向かうので、この道は「デカンショ街道」ではない。
途中で二手に分かれる。この道も合流するのでどちらに進んでも良い。そして道が合流したところの左に「市立八上小学校」。
昭和12年築の木造校舎である。
良い雰囲気だな。
小学校の向かいには「糯ケ坪稲荷神社」。「もちがつぼ」と読む。
境内にある公民館も良い雰囲気だ。
参拝を終え、西へ。「糯ケ坪交差点」に出れば、一番右の道に進み「自動車教習所」の前を過ぎる。
途中、地方都市らしいお店が並ぶ。
「何でも屋さん」。ここは、おもちゃも売っているようだ。
しばらく歩けば「京口橋」という橋で「篠山川」を渡る。人道橋は、上流側に架かる。
「京口」。そう、ここは篠山の城下町から見れば「都」からの入り口にあたる。これより「篠山城下」に入る。
すぐに立派な商家が並ぶ一角に出る。「河原町妻入商家群」だ。
「うだつ」や「虫籠窓」が残る妻入商家が続く。
「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
町屋を利用した店も多い。
さらに歩く。
時間は、午後0時40分。道筋にある「丹波そばきり花格子」で食事にしよう。商家を利用したお蕎麦屋さんだ。
「季節の御蕎麦膳」(1730円)を注文する。地元「デカンショ葱」のかき揚げ蕎麦と季節の炊き込みご飯。
食事を終え西へ。路地をのぞくとこんな感じ。
後しばらく町並みは続く。
そして「河原町」という交差点に出る。観光案内所や駐車場・トイレがある。
駐車料金は「自己申告制」だ。日本らしい風景だな。
そのまま真っ直ぐ進めば200mほどで「篠山城」の壕に突き当たるので右に折れ「東外濠」に沿って歩く。「東外濠」の北端は「東馬出」となっている。「馬出(うまだし)」とは、出陣する「騎馬兵」の待機場所のことらしい。今は公園になっている。
そのすぐ北東には「丹波杜氏酒造記念館」。古くから丹波篠山地方は酒造りの町として栄え、最盛期には5000人余りの杜氏が全国に出向いたといわれる。酒に関する用具や資料が展示されている(入館料100円)。ただし、12月~3月の土日祝日は休館。
そのまま道なりに東へ進み、川を渡って1つ目の四つ辻を左(北)へ。
「ぼたん鍋(猪鍋)」は、丹波篠山の名物だ。「秘法?」。
200mちょっとで右に「尊寶寺」。真宗本願寺派の寺院であるが、篠山城下は、宗派に関係なく軍事拠点として寺院を配していた。
「尊寶寺」前の道を西へ。すぐ右(北)にも「浄土宗来迎寺」という寺院。
この東西の道が城下のメイン通りだろうか。古い商家やお土産屋さんが並ぶ。
「ほろ酔い城下蔵」。鳳鳴酒造の主屋である。
兵庫県の有形文化財に指定されている。
さらに西へ。右に立派な建物が見えてくる。
「市立歴史美術館」。明治24年に裁判所として建てられたもので城下にまつわる美術品や埋蔵文化財を展示する(入館料300円)。「歴史美術館」「篠山城大書院」「武家屋敷安間家史料館」「青山歴史村」の4館共通入館券なら600円。
そのすぐ北側には「特産館ささやま」。
駐車場やトイレのほかレストラン、お土産屋さんがある。市北部の観光拠点だろう。
ここで晩酌用の地酒(300ml、490円)を買う。
西の辻に入ると「春日神社」。
貞観18(876)年、奈良春日大社から篠山城跡に勧請され、築城に際して当地に遷座された。
境内には立派な「能楽殿」があり、元旦や春には能が舞われる。
境内を後にし南へ。先ほどのメイン通りに出て右折する。
今日は「せいもん払い」という催しがあり、歩行者天国になっていた。
ぼたん鍋屋さんの看板。「道頓堀」並ですな。ご立派。
「ホコ天」を進む。
「魚屋町」という交差点で一旦左折して、金光教の教会が建つ四つ辻で左に曲がる。つまり、元の方向に戻るのだ。
しばらくすれば郵便局のある交差点に。角には観光案内所。
そして、その前には「大正ロマン館」。篠山市の中心部だろう。
大正12年4月に落成したモダンな洋風建築物。
元は「篠山町役場」だったそうだ。
喫茶室やお土産屋さん、休憩所などとして使われている。
そのまま南に進むと「北外濠」に突き当たる。壕を渡って「篠山城」跡へと進む。左(東)には、「たんば田園交響ホール」と「篠山市役所」が並ぶ。
「三の丸広場」を過ぎれば「内濠」。ここから「本丸」に入る。
「篠山城」は、徳川家康が西国大名に睨みを効かせるため実子松平康重を丹波「八上城」に移し、直ちに築城を命じ、わずか半年後の慶長14(1609)年に完成した。
天守は建造されることはなく、巨大な木造建築物である「大書院」が建設された。
「篠山城大書院」。大きな木造平屋建ての建物である。明治4年、廃城となり城内の建物の大部分は取り壊されたが、この「大書院」は、解体費に莫大な費用がかかることから存続された。
しかし、昭和19年、火災により焼失。その後、平成12年、当時の姿で復元された(入館料400円)。
「大書院」の南側には「二の丸御殿跡」。
遺構には、当時の部屋名などが記されている。
その東側に建つ「青山神社」。城主である「青山忠俊」らを祭神として、明治15年に創建された。
ここに「天守台」があった。
「天守台」からの眺め。すぐ東には「市立篠山小学校」。古い校舎だな。
非常時には埋めて遮断されたという「埋門」から出て「内濠」を渡る。
「南外濠」を渡る。
そこには「南馬出」。土塁の馬出としては全国唯一らしい。
濠越しに「南馬出」を望む。
そして「西外濠」に沿って「武家屋敷」跡が続く。
「御徒町」と呼ばれる。
中でも一際立派な屋敷が「安間(あんま)家屋敷」。
史料館として公開されている(入館料200円)。
その他にも武家屋敷が続き、表札を見ると今でもその子孫の方々が住んでおられるようだ。
ただ、一般公開はされていない。
藩主を警護した「お徒士衆」の家屋が続き、土塀に囲まれた静かなたたずまいは、江戸時代の雰囲気を残している。
「武家屋敷」跡を抜け、突き当たりを左折し、すぐに右へ。真っ直ぐ進めば「魚屋町」でメイン通りに交わる。左に曲がればすぐ右に「誓願寺」。すぐ前には、本日のゴール「篠山本町」バス停があるが、まだ時間があるのですぐ西の「乾新町交差点」から北西に伸びる道へ進む。
道は、15分ほどで「篠山警察署」前に突き当たる。ここには、かつて「陸軍歩兵第70聯隊」が置かれていた。戦後は、県立篠山農業高校(現産業高校)や県立農科学校(現神戸大学農学部)の敷地となったが、産業高校前の道路に面して煉瓦積みの古ぼけた営門が当時を偲ばせる。
その奥には「記念碑」が建つ。明治40年9月、大阪で編成され同41年3月、この地に移転。中国大陸を転戦した後、本土防衛のため九州に移動し、終戦を迎えたという(記念碑にはハローワークの敷地から自由に入れる)。
記念碑の左右には「歩兵第168聯隊発祥之地」と「第31航空通信聯隊」の記念碑。それぞれゆかりがあるのだろう。
道路を挟んで南側の広大な「練兵場」跡は、県の総合庁舎や公園となっている。
来た道を戻り、先ほど通り過ぎた「誓願寺」へ。今日最後の訪問地だ。城の北西を固める拠点で立派な山門がある。
境内も素晴らしい。
そして「誓願寺」前の神姫グリーンバス「篠山本町」バス停へ。午後3時25分着。ここから約15分(290円)で今朝出発した「JR篠山口駅」だ。本日の歩紀「37228歩」(32.01km)。2つの「重要伝統的建造物群保存地区」とのどかな田園風景、そして城下町。秋の一日を満喫したなぁ。
出 発:神姫グリーンバス「福住」バス停
到 着:神姫グリーンバス「篠山本町」バス停
篠山藩と京を結ぶ「西京街道」の宿場町として栄え、江戸時代後期から明治時代に建てられた妻入民家を中心とする町並みが続く「福住宿」。「篠山城」を中心に栄えた「篠山(ささやま)市」。そして、この2つの町を結ぶ「デカンショ街道」。いずれも見所は多い。晩秋から初冬へと移る丹波路を歩く。結構、コンビニやスーパーもあり給水・トイレには困らない。
午前5時過ぎに自宅を出て「JR篠山口駅」へ。大阪駅からだと約1時間10分(1140円)だ。駅西口から1日4本しかないバスに乗り「福住」を目指す。
午前7時20分発の始発バスに乗り約50分(700円)で本日のスタート地点である神姫グリーンバス「福住」バス停に到着。ここは兵庫県篠山市福住。「ふくすみ」と読む。午前8時10分出発。
バス停の奥には「国鉄福住駅跡」。昭和19年、軍需鉄道として開通した旧国鉄篠山線。戦後も貨客線として運行されたが、旅客数・貨物数とも減少し、昭和47年2月廃線。ここに終着駅の「福住駅」があったという。
農協倉庫前には、かつてのホーム跡がトラックの車寄せとして残っている。
バス停は「福住宿」の西端にある。ここには、市役所支所や駐車場、公衆トイレなどがあり「福住宿」散策の出発地点なのだが、一番東の「西野々」から歩こうと思うので一旦宿場町の東端へと向かうことにする。
その前にバス停近くにある「地主稲荷神社」で、いつものとおり今日一日の安全を祈願する。
「福住宿」のすぐ北側を流れる籾井(もみい)川に沿って「西京街道」の新道として開通した国道372号線が走るので、この道で宿場の東端へ向かう。
国道の左に横たわる山地には「籾井城」「安口西砦」「安口城」など中世の城跡が残る。
右側に、この後歩く「福住宿」の町並みを背後から望む。
約40分で「西野々交差点」。ここを右に折れる。
ここが「福住宿」の東端にあたる「西野々(にしのの)」だ。宿場町は「西野々」「安口」「川原」「福住」の4つの地区に分かれる。
「西野々」地区の町並みは、妻入民家と平入民家が混在する。これは、平入民家。
江戸時代後期から明治にかけて建てられた民家が10軒ほど残る。
10分ほどで「安口」地区へ。「はだかす」と読むそうだ。珍名だな。これは、妻入民家。
公民館にはトイレ(休日のみ利用可)。
「安口」地区は、大火がなかったことから茅葺きの民家が多く残る。
途中、何やら茅葺き屋根の工事をしていた。トタン葺きの下は、こうなっているのか。
立派な茅葺きだな。
「西京街道」を進む。
地区内は、地元の方々の生活の場である。静かにマナーを守って見学しよう。
東西約3.3kmにわたる宿場町のおよそ半分を過ぎれば「川原(かわら)」地区に。
ここは、所々、田畑が広がり農村地帯と宿場町が混在する景観を見せる。
どんどん進もう。
トタンの下から茅葺きをのぞく。
「住吉神社」。永保元(1081)年、大坂・住吉大社から分霊されたと伝わる。
かつての神宮寺の裏には「住之江の庭」。
境内には鐘楼もあり、神仏習合の色が残る。
参拝を終え、小さな川を渡ったところ辺りから「福住」地区に入る。妻入民家を中心にした町並みが続く。
山車庫と民家。
道ばたには「一里松」。
農家が旅籠を兼ねたり、一般民家にも旅人を泊めることがあったそうだ。
平入民家。
やがて右に「篠山市役所多紀支所」。
かつての「本陣」は、「市立福住小学校」になっている。今日は、記念のマラソン大会があるようだ。
先導は、この白バイがするらしい。
まだまだ町並みは続く。
かつて「脇本陣」があったところは市営団地に。しかし、団地も町の景観に配慮されている。
朝、バスが到着した所を過ぎれば宿場町は終わる。「福住宿」は、平成24年12月、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。ただ、交通の便も悪いことから、あまり観光化はされていない。その方が良いな。
宿場町を抜ければ国道372号線が大阪府池田市方面から来た国道173号線と合流する。その手前に「ローソン」。
そして、その前には「安田の大杉」。推定樹齢7~800年。樹高33m、幹周り8.4mの巨木だ。
案内板によると、この木1本で先ほど参拝した「住吉神社」の末社貴船大明神の境内を覆ったそうだ。別名「甚七の森」と呼ばれる。丹波地方最大の杉の木である。
すぐ北の「小野新交差点」で国道372号線は、国道173号線と別れ西へ。国道372号線方向に進む。
300mほどで「山陰道小野駅跡」。山陰道の駅馬として小野駅が置かれていたそうだ。国道372号線は、京都亀岡から姫路を結ぶのだが「山陰道」でもあるんだな。
また、別名「デカンショ街道」と呼ばれる。「デカンショ」とは、「どっこいしょ」が変化したものとか、杜氏として全国を巡る「丹波杜氏」の「出稼ぎしよう」が訛ったものと諸説あるが、「エッサッサ」「サノヨイヨイ」などのような単なる囃子言葉に過ぎないとの説もある。
小野の集落。トタンに覆われているが茅葺き民家が並ぶ。
「福住小野バス停」を越えたところで右に入ると「龍野新宮神社」。
大宝2(702)年、熊野から勧請されたと伝わる古社。
「デカンショ街道」に戻る。ちょっとした山越えとなる。
たいした交通量ではないが、車道と歩道の区別がないので気をつけよう。
山を抜けると田園地帯が広がる。この辺りは「辻」という集落のようだ。
ここから国道372号線は、「日置バイパス」となり、「デカンショ街道」を縫うように走る。左の旧道を歩くこととする。
この道は、朝バスで走った道だ。バスは、バイパスではなく集落内を走る。
途中で二手に分かれるが、100mほど先で合流するので、どちらを進んでも良い。
左手の道を選べば、このような風景が見られる。
「辻交差点」を渡りバイパスの北側を歩く。
ここでも二手に分かれるが200mほど先で合流する。左の狭い道に入る。
「辻川」という川に沿って街道は進む。
200mほどで「波々伯部神社」。「ほほかべ(ほうかべ)」と読むそうだ。
白鳳9(680)年、牛頭天王を祀り、神仏分離後、素戔嗚尊を祀る。
境内には、4本の大杉が並ぶ。
最も大きいものは、樹高45mに達する。
元の道に戻り右(西)へ。
300mほど進むと左に橋が見えてくるので左に曲がり「畑市橋」で「辻川」を渡りすぐ右へ。しばし「辻川」に沿って歩こう。
次の橋で元の道に戻る。
途中、上宿公民館の前に「血寄(ちよせ)地蔵」。第四代篠山藩主、松平康信の甥で又四郎という者が不出来であったことから、康信は家臣に命じ、この付近で又四郎を惨殺させたという。その死を哀れんだ村人らによって建てられたと伝わる。
「上宿」という交差点でバイパスを渡る。バイパスの南側を歩くことになる。
「デカンショ街道」をさらに西へ。
ここは「六本柳」というらしい。
「曽地川」という小さな川を渡れば右に「日置大師堂」。子授けの仏様らしい。もう、子どもはいらないが、先月嫁入りした娘に元気な子ども(孫)が授かるようお祈りをした。
古い町並みを過ぎていく。ここは、古民家を利用した和食レストラン。
「磯宮八幡神社」の看板に従い左へ。公民館の前には「日置村道路元標」と刻まれた石柱と古い消防団のポンプが。
「磯宮八幡神社」。承平3(933)年、京都・石清水八幡宮から勧請されたと伝わる。
裏から入ったようだ。境内には、仏堂もあり神仏習合の色が残る。
「デカンショ街道」に戻る。「伊能忠敬笹山領測量の道」と刻まれた石柱。
「サンセブン」という大きなスーパーが。
笛と太鼓の音が聞こえたので見ると「獅子舞」。
消防団庫が建つ二又に出れば左へ。
古民家というより農家の大きな屋敷が並ぶ。
途中、小さな四つ辻に出る。右をのぞくと「ミニストップ」がある。
「ミニストップ」と反対に進めば、200mほどで浄土真宗「金剛寺」。
四つ辻まで戻り西へ進めば「弓月神社」。
さらに街道を進めむ。この山腹には、「石心寺」「阿弥陀寺」「東陽寺」「十念寺」と寺院が並ぶが参拝はしない。街道を進もう。
この民家は立派だな。
しばらく進めば「一里塚跡」。
そして左に消防ホースの格納庫が見えれば「春日神社」と「八上城跡」の案内碑。
そちらへ行くと春日神社の鳥居。
境内の手前に「八上城跡」がある「高城山(340m)」までの登山道が。頂上まで約45分、もちろん登らない。
「デカンショ街道」に戻る。
「春日神社」を過ぎれば「デカンショ街道」は右に90度カーブする。突き当たりには、立派な民家。参勤交代の大名や一般旅人が休泊所として利用した「重兵衛茶屋」。
バイパスを越えれば、今度は左に90度カーブする。つまりバイパスの北側に戻るのだ。小さな川を渡ってさらに旧道を進む。
もし、給水等の必要があれば、バイパスを越えずに左折すれば「ローソン」がある。
振り向くと。多分あの山が「高城山」だな。
旧道を進めば市道と合流する。「デカンショ街道」は、先ほどの「ローソン」の出前で左に大きく曲がり姫路へと向かうので、この道は「デカンショ街道」ではない。
途中で二手に分かれる。この道も合流するのでどちらに進んでも良い。そして道が合流したところの左に「市立八上小学校」。
昭和12年築の木造校舎である。
良い雰囲気だな。
小学校の向かいには「糯ケ坪稲荷神社」。「もちがつぼ」と読む。
境内にある公民館も良い雰囲気だ。
参拝を終え、西へ。「糯ケ坪交差点」に出れば、一番右の道に進み「自動車教習所」の前を過ぎる。
途中、地方都市らしいお店が並ぶ。
「何でも屋さん」。ここは、おもちゃも売っているようだ。
しばらく歩けば「京口橋」という橋で「篠山川」を渡る。人道橋は、上流側に架かる。
「京口」。そう、ここは篠山の城下町から見れば「都」からの入り口にあたる。これより「篠山城下」に入る。
すぐに立派な商家が並ぶ一角に出る。「河原町妻入商家群」だ。
「うだつ」や「虫籠窓」が残る妻入商家が続く。
「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
町屋を利用した店も多い。
さらに歩く。
時間は、午後0時40分。道筋にある「丹波そばきり花格子」で食事にしよう。商家を利用したお蕎麦屋さんだ。
「季節の御蕎麦膳」(1730円)を注文する。地元「デカンショ葱」のかき揚げ蕎麦と季節の炊き込みご飯。
食事を終え西へ。路地をのぞくとこんな感じ。
後しばらく町並みは続く。
そして「河原町」という交差点に出る。観光案内所や駐車場・トイレがある。
駐車料金は「自己申告制」だ。日本らしい風景だな。
そのまま真っ直ぐ進めば200mほどで「篠山城」の壕に突き当たるので右に折れ「東外濠」に沿って歩く。「東外濠」の北端は「東馬出」となっている。「馬出(うまだし)」とは、出陣する「騎馬兵」の待機場所のことらしい。今は公園になっている。
そのすぐ北東には「丹波杜氏酒造記念館」。古くから丹波篠山地方は酒造りの町として栄え、最盛期には5000人余りの杜氏が全国に出向いたといわれる。酒に関する用具や資料が展示されている(入館料100円)。ただし、12月~3月の土日祝日は休館。
そのまま道なりに東へ進み、川を渡って1つ目の四つ辻を左(北)へ。
「ぼたん鍋(猪鍋)」は、丹波篠山の名物だ。「秘法?」。
200mちょっとで右に「尊寶寺」。真宗本願寺派の寺院であるが、篠山城下は、宗派に関係なく軍事拠点として寺院を配していた。
「尊寶寺」前の道を西へ。すぐ右(北)にも「浄土宗来迎寺」という寺院。
この東西の道が城下のメイン通りだろうか。古い商家やお土産屋さんが並ぶ。
「ほろ酔い城下蔵」。鳳鳴酒造の主屋である。
兵庫県の有形文化財に指定されている。
さらに西へ。右に立派な建物が見えてくる。
「市立歴史美術館」。明治24年に裁判所として建てられたもので城下にまつわる美術品や埋蔵文化財を展示する(入館料300円)。「歴史美術館」「篠山城大書院」「武家屋敷安間家史料館」「青山歴史村」の4館共通入館券なら600円。
そのすぐ北側には「特産館ささやま」。
駐車場やトイレのほかレストラン、お土産屋さんがある。市北部の観光拠点だろう。
ここで晩酌用の地酒(300ml、490円)を買う。
西の辻に入ると「春日神社」。
貞観18(876)年、奈良春日大社から篠山城跡に勧請され、築城に際して当地に遷座された。
境内には立派な「能楽殿」があり、元旦や春には能が舞われる。
境内を後にし南へ。先ほどのメイン通りに出て右折する。
今日は「せいもん払い」という催しがあり、歩行者天国になっていた。
ぼたん鍋屋さんの看板。「道頓堀」並ですな。ご立派。
「ホコ天」を進む。
「魚屋町」という交差点で一旦左折して、金光教の教会が建つ四つ辻で左に曲がる。つまり、元の方向に戻るのだ。
しばらくすれば郵便局のある交差点に。角には観光案内所。
そして、その前には「大正ロマン館」。篠山市の中心部だろう。
大正12年4月に落成したモダンな洋風建築物。
元は「篠山町役場」だったそうだ。
喫茶室やお土産屋さん、休憩所などとして使われている。
そのまま南に進むと「北外濠」に突き当たる。壕を渡って「篠山城」跡へと進む。左(東)には、「たんば田園交響ホール」と「篠山市役所」が並ぶ。
「三の丸広場」を過ぎれば「内濠」。ここから「本丸」に入る。
「篠山城」は、徳川家康が西国大名に睨みを効かせるため実子松平康重を丹波「八上城」に移し、直ちに築城を命じ、わずか半年後の慶長14(1609)年に完成した。
天守は建造されることはなく、巨大な木造建築物である「大書院」が建設された。
「篠山城大書院」。大きな木造平屋建ての建物である。明治4年、廃城となり城内の建物の大部分は取り壊されたが、この「大書院」は、解体費に莫大な費用がかかることから存続された。
しかし、昭和19年、火災により焼失。その後、平成12年、当時の姿で復元された(入館料400円)。
「大書院」の南側には「二の丸御殿跡」。
遺構には、当時の部屋名などが記されている。
その東側に建つ「青山神社」。城主である「青山忠俊」らを祭神として、明治15年に創建された。
ここに「天守台」があった。
「天守台」からの眺め。すぐ東には「市立篠山小学校」。古い校舎だな。
非常時には埋めて遮断されたという「埋門」から出て「内濠」を渡る。
「南外濠」を渡る。
そこには「南馬出」。土塁の馬出としては全国唯一らしい。
濠越しに「南馬出」を望む。
そして「西外濠」に沿って「武家屋敷」跡が続く。
「御徒町」と呼ばれる。
中でも一際立派な屋敷が「安間(あんま)家屋敷」。
史料館として公開されている(入館料200円)。
その他にも武家屋敷が続き、表札を見ると今でもその子孫の方々が住んでおられるようだ。
ただ、一般公開はされていない。
藩主を警護した「お徒士衆」の家屋が続き、土塀に囲まれた静かなたたずまいは、江戸時代の雰囲気を残している。
「武家屋敷」跡を抜け、突き当たりを左折し、すぐに右へ。真っ直ぐ進めば「魚屋町」でメイン通りに交わる。左に曲がればすぐ右に「誓願寺」。すぐ前には、本日のゴール「篠山本町」バス停があるが、まだ時間があるのですぐ西の「乾新町交差点」から北西に伸びる道へ進む。
道は、15分ほどで「篠山警察署」前に突き当たる。ここには、かつて「陸軍歩兵第70聯隊」が置かれていた。戦後は、県立篠山農業高校(現産業高校)や県立農科学校(現神戸大学農学部)の敷地となったが、産業高校前の道路に面して煉瓦積みの古ぼけた営門が当時を偲ばせる。
その奥には「記念碑」が建つ。明治40年9月、大阪で編成され同41年3月、この地に移転。中国大陸を転戦した後、本土防衛のため九州に移動し、終戦を迎えたという(記念碑にはハローワークの敷地から自由に入れる)。
記念碑の左右には「歩兵第168聯隊発祥之地」と「第31航空通信聯隊」の記念碑。それぞれゆかりがあるのだろう。
道路を挟んで南側の広大な「練兵場」跡は、県の総合庁舎や公園となっている。
来た道を戻り、先ほど通り過ぎた「誓願寺」へ。今日最後の訪問地だ。城の北西を固める拠点で立派な山門がある。
境内も素晴らしい。
そして「誓願寺」前の神姫グリーンバス「篠山本町」バス停へ。午後3時25分着。ここから約15分(290円)で今朝出発した「JR篠山口駅」だ。本日の歩紀「37228歩」(32.01km)。2つの「重要伝統的建造物群保存地区」とのどかな田園風景、そして城下町。秋の一日を満喫したなぁ。