「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

関西5珍名山を歩く5~奇勝「屯鶴峯」と「最古の官道」「戦争遺産」を訪ねる

2023-12-28 01:47:52 | 日記
訪問日:令和5年12月27日(水)
出 発:近鉄電車「古市駅」
到 着:JR「三郷駅」

 「5珍名山」最終歩紀。そして本年の「歩紀納め」は奈良県香芝市にある「屯鶴峯」です。「どんづるぼう」と読みます。「づ(ず)る」という言葉を聞くと、何か肌や地面が露出しているような状態を想像してしまいますね。例えば「禿げ頭」のことを「ずるむけ頭」などと言います(私だけかな?)。風化・浸食によってできた白い岩肌を遠くから眺めると「屯(た)むろする鶴」に見えたことから屯鶴峯と呼ばれるようになったと言われています。ただ行ってみると白い岩肌が露出した「ずるむけ山」に違いありません。日本最古の官道「竹内街道」を歩き「戦争遺産」、最後は「大風の神様」を訪ねます。山と言ってもほとんどが「町歩紀」ですので給水・トイレの心配はありません。今日は平日ですが、実は私は先週の土曜日から17連休の年末年始休暇に突入しているのです。申し訳ありません。


 今日のスタートは近鉄南大阪線「古市駅」です。近鉄「大阪阿部野橋駅」から約20分(490円)で着きます。駅の西側は世界遺産に登録されている「古市古墳群」です。今日は最後の珍名山を目指して駅の東側に進みます。午前9時、今日も元気に出発です。


 昨日までの寒さと打って変わって今日はポカポカ。ここでダウンを脱ぎ袋に収納しました。


 駅東口にあるちょっとした広場には「羽曳野観光案内所」があります(まだ開いていません)。ここは大阪府羽曳野市。「たかが大阪」とお思いかも知れませんが、日本の歴史上すごいところです。


 目の前の何でもないこの道は、日本最古の官道「竹内街道」です。


 そのまま東に進めば「古市蓑の辻」碑。竹内街道と東高野街道との交差点です。この碑自体は後年(と言っても1800年代)に建立されたものですが、この辻はいつからあったのでしょうね。


 左に曲がり東高野街道を北に進みます。


 そこには「白鳥神社」の鳥居。白鳥とは「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」が白鳥に姿を変えて飛び立ったという伝説にちなむものです。


 今日一日の安全を祈願しましょう。なお、ここは出発した古市駅東口のすぐ裏です。正面からお参りするため、わざわざ遠回りしたのです。(午前9時8分)


 鳥居まで戻り右に曲がって元の方向へ。1つ目の筋を左に入れば「西琳寺」。以前にも来ましたね。


 境内にはウーパールーパーのような「塔礎石」。飛鳥時代のお話です。


 その奥には「高屋宝生院の五輪塔」。


 山門を出て左へ。「古市ポケットパーク」の前を通り過ぎます。


 竹内街道に戻り「古市東町地車倉庫」前を通過します。(午前9時17分)


 石川の堤防に突き当たれば左へ。その先の「臥龍橋」で石川を渡ります。


 石川を渡って右へ。2~3分で「川向の道標」。道標に従い堤防から離れ国道166号線(竹内街道)に進みましょう。(午前9時24分)


 右に近鉄電車が見えてくれば、左に飛鳥建築を再現した「万葉の山門」が立つ「であいのみち公園」が見えてきます。トイレがあります。


 その先の「逢坂橋」で「飛鳥川」を渡って右折。竹内街道は地蔵堂がある二又を左です。(午前9時35分)


 いい雰囲気ですね。


 以前にも来た「月読橋」で再度、飛鳥川を渡ります。橋の両詰に石灯籠が立ちます。


 「八丁地蔵尊」を右に見ながら竹内街道を進んで行きます。(午前9時44分)


 近鉄線を右に見ながら「八丁橋」で飛鳥川を渡ります。ブドウ畑の向こうには「二上山」が頭を見せています。


 街道らしい雰囲気ですね。


 消防団「頑張れっ!」


 以前も来ましたが、何度来ても良いですね。


 以前「二上山」を訪れた際、竹内街道の奈良県側を歩きましたが、大阪府側も素晴らしいですよ。


 やがて右に近鉄「上ノ太子駅」。北口は木造の小さな駅舎です。(午前9時58分)


 そのまま進めば竹内街道は近鉄南大阪線を渡ります。ちょっと寄り道して南口へ。そこには「聖徳太子像」。以前来たときにはなかったですね。令和3年11月に建立されたそうです。


 竹内街道に戻り、西名阪自動車道をくぐってどんどん進みます。「南河内郡太子町」に入りました。


 スクランブル横断歩道のある「春日西交差点」。角には竹内街道の石標が立ちます。ここで竹内街道とは「さようなら」。左に曲がります(実は私は間違って直進してしまい10分ほど時間をロスしました。毎回こんなミスをします)。


 「春日北交差点」に出れば「香芝(かしば)」方向に左折します。角にブドウの出荷所があります。付近はブドウ畑です。(午前10時20分)


 しばらくすると歩車道の区別がなくなりますが、あまり交通量は多くなく道幅も広いので端を歩けば大丈夫でしょう。ここからずっと緩い上り坂が続きます。


 西名阪自動車道をくぐれば歩道が現れます。近鉄南大阪線を左に見ながら進んで行きましょう。


 途中でまた歩道がなくなりました。左の路側帯が広いので左に移動します。


 「穴虫峠」で大阪府から奈良県に入りました。府道から県道に変わります。(午前10時45分)


 峠の下をトンネルで近鉄が走っており、ここで近鉄線が右に移ります。


 県道を2~3分歩けば左に「奇勝どんづる峯」の看板と階段が見えてきました。階段を上りましょう。(午前10時49分)


 階段を上ればベンチのある広場に出ます。案内板なども立っています。案内板に向かって右側に階段があるので上って行きましょう。


 こちら側は、白い岩肌が剥き出しです。(午前10時52分)


 これは千数百年前、二上山が活火山であった頃、噴出した火山岩屑が水底に沈積し、凝灰岩なったものが隆起した後に風化・水蝕により奇勝となったそうです。(奈良県教育委員会案内板より)


 こちらはハイキングコースではなく、剥き出しの岩場を歩きます。道も案内板もありませんので迷わないように。


 私はYAMAPをダウンロードしてきました。


 岩肌は脆く滑りやすいと聞いていましたが、結構表面はしっかりしており突起もあるので滑るような危険性は感じませんでした。ただ足元は悪いので注意して歩きましょう。転落すれば大怪我をすると思いますよ。「猿の惑星」のような風景が広がります。


 YAMAPを頼りに先ほどのベンチ広場に戻り、今度は向かって左の山道に入ります。こちら側はハイキングコースになっており、案内標識や木にくくりつけられたリボンを頼りに進んで行きます。(午前11時8分)


 こちらにも奇勝が広がります。




 そして山道を上っていけば鉄塔が現れました。この辺りが山頂です。


 鉄塔の向こう側に立つ木の柱が最高峰のようです。といっても154mですが。最後の珍名山制覇です。「バンザ~イ」(午前11時12分)


 すぐ近くに住宅地が見えますよ。


 奈良県は「戦艦大和」に代表されるように古代から続く日本を象徴する地なのですが、自衛隊施設には縁がなく航空自衛隊の幹部候補生学校があるくらいで、基地・駐屯地がない唯一の空白県です。そんな地に終戦間際、巨大な軍事施設が造られました。「旧陸軍地下壕」です。地下に戦闘司令所などを建設していたそうですが、完成前に終戦を迎えたそうです。山頂には「西地下壕」への案内表示がありました。ただ、柱に「ここは危険なので先の道に進むこと」との注意書きがありましたので先に進みます。


 確かにしっかりした道がありました。


 赤いリボンに沿って進みます。


 分岐点に出ました。「西地下壕」方向に進みます。(午前11時15分)


 結構険しい道を下って行きます。


 分岐点に出ました。西地下壕方向に左折します(写真は振り返って撮影していますので右を指しています)。


さらに進んで行くと案内表示がありました。


 そちらへ進むと右に洞穴が現れました。(午前11時20分)


 さらに奥には二つの洞穴が。


 洞穴の奥には出口が見えるので通り抜けられるようですが、真っ暗なうえ水が溜まっています。


 こちら側も真っ暗で水が溜まっています。史跡・観光的な保存はされておらず、深い水溜まりもあるようなので注意して見学しましょう。


 手前の洞穴も向こうに出口が見えます。人工的な建造物が残っており、朝鮮人労働者らが動員されたとの話もあります。戦争という「負の遺跡」ですね。


 通り抜けるのは危険ですので元に戻りましょう。手前に「西峰山頂」への案内板がありましたので入って行きます。(午前11時24分)


 しっかりした山道です。


 やがて「西峰」に到着しました。屯鶴峯は東西ふたつの頂上があるのですね。向こうには二上山が見えます。(午前11時27分)


 西峰の後ろにしっかりとした山道がありましたので進んで行きます。


 YAMAPもベンチ広場に導いてくれているようです。


 リボンに沿って進みます。


 ベンチ広場に戻りました。時間は。ちょっと早いですが、地図で見る限り当分弁当スポットがないようなので、ここで昼食にします。


 今日の昼食は、阪急からJRへの連絡通路途中にあるGOZENの「25品目の豆腐ハンバーグ」(税込み495円)です。


 食事を終え、午前11時48分出発です。県道への階段を下りれば「ダイヤモンドトレール」の銘板が埋め込まれていました。屯鶴峯は金剛・葛城山系の稜線を縦走するダイヤモンドトレール(約45km)の出発点のようです。そう言えば先ほど弁当を食べているとき、2人の若者が走って行きました。


 県道に出て左折すれば、すぐ右に駐車場と公衆トイレがあります。


 駐車場前を東に向かって進みます。


 途中左に「地蔵磨崖仏」があるようですが、藪に覆われ見えません。


 「穴虫南(穴虫)交差点」でぐるっとUターンします。Uターンすれば左に「万葉歌碑」。(午後0時3分)


 この道は国道165号線なのですが、途中から歩道がなくなり非常に危険なので次の「穴虫西交差点」を過ぎて「香芝晴美台」方向に右折しましょう。


 特に目印はありませんのでグーグルマップを添付しておきます。


 関屋駅への案内表示に沿って次の三叉路を左折します。ここは先ほど屯鶴峯頂上から見えていた住宅地のようです。


 近鉄大阪線の踏切を渡り左に曲がれば近鉄「関屋駅」です。(午後0時22分)


 そのまま線路沿いに進んで行きます。途中から線路と離れますがどんどん進んで行きましょう。


 道が狭くなればフェンスに突き当たり、その手前に「従是東奈良縣管轄」と刻まれた「国界碑」がひっそりと立ちます。河内と大和の国境です。大正9年3月建立のようです。(午後0時35分)


 同じ道を関屋駅まで戻ります。ここからは「龍田大社」をめざして歩きますが、何でもない住宅街や集落を黙々と歩くことになりますのでグーグルマップを添付しておきますね。午後0時55分、関屋駅前を出発します。約2時間の道のりです。


 道すがら立ち寄ったところを紹介しておきます。土蔵や虫籠窓のある旧家が続きます。


 「下池南の追分道標」が見えれば左へ曲がります。(午後1時1分)


 池の畔にあるお地蔵さんの先にある二又を右へ下りましょう。


 最近、どこにでも出るな。


 何かあるんでしょうね。


 「竹藪でーす」


 左に「志都美(しずみ)神社」。(午後1時27分)


 特に文化財等はありませんが、式内社なので1000年以上の歴史がある古社です。天児屋根命などを御祭神とします。


 神社の前には「井上酒造」という蔵元がありました。


 「東の鳥居」を左に見ながら進みます。


 郵便局を過ぎれば左に鳥居が見えてきました。入って行きましょう。


 ここは第25代武烈天皇の「傍丘磐坏丘北陵」です。妊婦の腹を割くなど暴君と言われた謎の多い天皇で、明治になってから陵墓として治定されたそうです。そうか。それで宮内庁の看板が立っていたんだ。(午後1時35分)


 この道は「近畿自然歩道」のようです。


 「太子道」って言うんですね。


 最初、縦に読んでいると何のことかわかりませんでした。横に読むんですね。昔、聖徳太子が通った道のようです。


 50mほど堤防の地道を歩きました。足が楽です。ずっと舗装道を歩いていると結構足にきますね。


 集落を抜けると「尼寺廃寺跡史跡公園」。7世紀後半に造営された寺院の遺跡公園です。学習館(月曜日定休)にはトイレがあります。(午後1時57分)


 さすが古都奈良。何でもないところにすごい遺跡がありますね。


 塔礎石から金堂跡を望みます。足の裏が痛いので5分ほど休憩しました。


 公園の脇から出て「畠田」の集落を抜けます。


 何やら石標がありました。真っ直ぐ進みましょう。


 これは個人で立てた道標のようです。


 「神前橋」で大和川を渡ります。間もなくゴールです。(午後2時40分)


 橋を渡ったところには立派な寺院が。「真宗称名寺」と言うそうです。


 目的地である「龍田大社」に着きました。道に迷いながらもグーグルマップの計測どおり約2時間で到着です。(午後2時58分)


 約2100年前、崇神天皇の時代に創建されたという古社です。主祭神は「天御柱大神」「国御柱大神」で大気を司る「風の神様」として信仰を集めています。毎年7月「風鎮大祭」という祭礼が行われているそうですが、地球温暖化の影響により毎年台風が大型化しているのでお参りしておきました。


 さあ参拝を終え帰路に。この道は「龍田古道」と言うようですね。いつか歩きたいと思います。


 やがて本日のゴールであるJR「三郷駅」に着きました。時間は午後3時10分。本日の歩紀「37548歩」(25.53km)。よく歩いたな。YAMAPを見ると今回も普通の人の150~170%で歩いていたようです。ここから「天王寺駅」まで約25分(410円)。「5珍名山」楽しんでいただけましたでしょうか?野里町歩紀は概ね3年くらい先までコースが決まっているので引き続きお楽しみください。私の体がもてばの話ですが。


 今日は阪急電車ではなく天王寺駅から大阪メトロ(&北大阪急行)で「千里中央駅」まで行き阪急バスで帰ります。自宅直近のバス停まで乗り換えなしで帰られます。と言うことで本日のひとり打ち上げは、千里中央駅改札前の「とんかつ梅八」です。


 「生ビールセット(ロース)」(税込1800円)。5珍名山踏破を祝して「乾杯~」。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 放送大学 」キャンパスライフ6

2023-12-21 23:43:52 | 日記
 「放送大学」ってどんな大学なのでしょう。

 海外にも同様の大学があり、主に「公開大学(Open University)」と呼ばれているようです。偏差値や入学試験がないので誰でも入れるというのではなく、誰にでも公開されている(門戸が開かれている)という意味です。韓国では日本の影響でしょうか?漢字で「韓国放送通信大学」と呼ばれています。ほとんどの国では国立大学のようですね。

 日本では、学校教育法を見る限り国立大学ではありません。学歴区分では私立大学に分類されるようですが厳密に言えば「特殊法人立大学」でしょうか。特殊法人「放送大学学園」により昭和58年4月、設置されました。千葉市に大学本部と放送局があり、全都道府県に学習センター(ビデオ学習センター→地域学習センター→学習センター)があります。一応、千葉県に本部を置いたのは「東京一極集中」の誹りを避けるためでしょうか。

 予算は国が支出しているようです。国の所管は文部省(現文部科学省)と郵政省(現総務省)。これは開学当初、国の電波監理行政は郵政省が担当していたからでしょう。NHK(日本放送協会)が国営放送ではないように「公共の媒体である電波を国家が独占しない」との考えから法人を設立したようです。つまり国が経営する大学なのでしょうね。ただ行政改革以降、国立大学は「国立大学法人」となり民営化されましたが、そのモデルにもなったようです。

 大学案内やパンフレットを見ると「放送大学は正規の大学です」ということを強調しているように感じます。おそらく知名度が低い(特に首都圏以外)ことと、やはり「偏差値がない大学なんて大学じゃない」という考えが一定数を占めているからなんでしょうか。




 ある人が知り合いに「放送大学に行く(入学する)」と言ったところ「あなたアナウンサーにでもなるの?」と言われたそうです。  つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 放送大学 」キャンパスライフ5

2023-12-13 23:46:53 | 日記
 放送大学は教養学部のみの単科大学です。ところで「教養学部」って何でしょうか?

 日本の大学には多くの学部・学科があります。「法学部」「経済学部」「商学部」「文学部」「理工学部」「農学部」「医学部」「薬学部」「外国語学部」「体育学部」………。今では「情報〇〇学部」「国際〇〇学部」「福祉〇〇学部」などなど。これらの学部・学科で専門的な学問を学ぶのですが、その前段として1、2年生(大阪では1、2回生)の2年間で一般的な教養を身に付けます。しかしその一般教養課程でもないようです。

 日本では東京大学と国際基督教大学に教養学部があるようですが、一体何なんでしょうか?英語では「リベラルアーツ(Liberal Arts)」と訳されるようです。それをまた日本語に訳せば「自由学芸」。かつて教員を養成する「教育大学」を「学芸大学」と呼びましたが「教育学部」や教員養成系でもないようです。つまりは専門教養の前段という扱いではなく、ひとつの教養いわゆる国や経済発展のため職業人や職業的専門知識を養成・修得することを目的とするのではない純粋な教養を身に付けるための学問のようです。すでに職を得ていた私にとっては「就職」や「学歴」を目的としないので、ちょうど良い学問でした。

 私が入学した当時の放送大学には教養学部の下に「生活科学」「産業社会」「人文自然」の3つのコースがあり、それぞれに2つずつ合わせて6つの専攻がありました。私は「生活科学」コースの「発達と教育」を専攻しました。動物としての人間は誰もが平等に「成長」しますが、いかに「発達」するかは人それぞれであり、その糧となるものが「教育」。教育の重要性を追求する学問だったと思います。

 このコースを専攻した理由は「教育」「学校」というものに興味があったからです。そのきっかけとなったのは「米百俵」という映画でした。小泉純一郎元総理が所信表明演説で引用したことから有名になった映画です。大雑把な内容は河井継之助率いる長岡藩が北越戦争に敗れ窮地に陥った際、盟藩から米百俵の支援を得たものの、時の藩大参事であった小林虎三郎が「目先の困難を凌ぐためではなく、将来の人材を育成する」という考えからその米を元に藩校を設立。当初、飢えに苦しむ藩士らからは反発を受けましたが、次第に藩士たちも教育の重要性を認識し「学校じゃ。学校じゃ。学校を作るのじゃ」と奔走する。「教育が人を作り、人が国を作る」そんな話でした。今の政治家にも通ずることですね。  つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 放送大学 」キャンパスライフ4

2023-12-10 21:24:58 | 日記
 2度の「挫折」により放送大学への入学が決心できないまま時間が過ぎました。しかし、転機がやってきたのです。

 私は新聞が好きで、毎日「株式欄」を除くすべてのページを隅から隅まで読むのですが、それは小さな記事でした。「可決法案一覧」という小さな欄に国会で可決された法案名がずらっと並んでおり、その中に「放送大学全国化法案」の文字を見つけたのです。首都圏に限られていた全科履修生の受け入れが全国化されるのです。早速案内書類を取り寄せました。それまで東京タワーからの電波が届く範囲であったところ、平成10年から「スカパー」で受信できるようになるため「全国化」が実現したようです。

 スカパーと契約し受信装置・アンテナを購入する必要はありますが、とにかく「地方の人間」でも放送大学に受け入れてもらえることになったのです。そしてさらに幸運が訪れました。私は平成9年春から3年間という期間限定ですが、東京にある本社の出先機関へ出向を命ぜられたのです。とにかく3年間は東京タワーの電波が届く範囲に住居を構えることができるのです。その後のことは、その後に考えよう。迷わず入学手続きをしました。

 学生はいずれかの学習センターに所属しなければなりません。私が住むことになった社宅は東京武蔵野の片田舎でしたが、最も近かったのが地下鉄丸の内線「茗荷谷駅」前の「筑波大学キャンパス」内にあった「東京第二学習センター」でした。そしてそこに籍を置く「大学生」になったのです。平成9年4月のことです。


 現在は「東京文京学習センター」と名前は変わりましたが、当時、東京には3つの学習センターがありました。今は4つあるようです。さすが「大東京」ですね。まあ東京の場合、自宅のテレビ・ラジオで受信できるので学習センターに通う必要はなかったのですが…。  つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 放送大学 」キャンパスライフ3

2023-12-07 20:31:58 | 日記
 郵送されてきた大学案内を読むと「放送大学」は、
  学校教育法を法的根拠として設置されていること
  大学設置基準同様、4年以上在学し124単位以上取得しなければならないこと
  卒業すれば学士(教養)の学位が取得できること
などまぎれもない「大学」であるということがわかりました。

 学習システムは、印刷教材をもとにテレビ・ラジオで講義が行われる「放送授業」と担当教員から直接授業を受ける「面接授業」いわゆるスクーリングに分かれます。一般の通信制大学では124単位のうち30単位以上を面接授業で取得しなければなりませんが、放送大学では
  双方向ではないものの対面(メディア)による授業が行われること
  一般放送局(主にNHK)ではなく専用の放送局を有していること
などから、面接授業による単位取得は20単位で良いなど働きながら学ぶ者にとっては非常に学習しやすいシステムでした。

 ところが、ところがです。その放送授業は、テレビは当時のUHF局、ラジオはFM局で放送されており、電波は東京タワーから発信されていたため受信できる範囲は東京(首都圏)に限られていたのです。それでは電波の届かない地方の人間はどうすれば良いのか。それは学籍のみを首都圏の学習センターに置き、授業は各都道府県に設置されていた「ビデオ学習センター」というところに行き、ビデオテープ・カセットテープで視聴しなければならなかったのです(今の若い人はビデオとかカセットって知っていますか?)。1科目15回で2単位を取得する放送授業を視聴するためには、ビデオ学習センターにかなりの日数通わなければならないのです。これってほぼ夜間(Ⅱ部)大学です。日本国憲法で保障された「法の下の平等」も首都圏に限られていました。2度目の「挫折」です。  つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 放送大学 」キャンパスライフ2

2023-12-04 10:03:52 | 日記
 新聞4コマ漫画下の小さな広告を見つけ早速資料請求をしました。平成6~7年。今のようにインターネットが一般的な時代ではありません。郵送です。

 当時の学校教育法によると
   第2条 学校は、国、地方公共団体及び私立学校法第3条に規定する学校法人のみが、これを設置することができる。
      第2項 この法律で、国立学校とは、国の設置する学校を、公立学校とは、地方公共団体の設置する学校を、私立学校とは
         学校法人の設置する学校をいう。
      第3項 第1項の規定にかかわらず、放送大学学園は大学を設置することができる。
と規定されており、日本には「国立大学」「公立大学」「私立大学」「放送大学」の4つの大学が設置されている。だから放送大学は「正規の大学」だということがわかりました。放送大学は一般名詞でもあり固有名詞でもあるのですね。

 つまり「市民大学」や「農業大学」などのように地方自治体などが「生涯教育」の一環として運営しているものや、「税務大学校」「警察大学校」「消防大学校」などのように学校教育法を根拠とせず、官公庁がそれぞれの法律を根拠として幹部職員(公務員)に対して高度な業務教育を行っている教育機関などとは異なり、国公立大学、私立大学と並ぶ一般大学であるということです(防衛大学校、防衛医科大学校、海上保安大学校などは一般の大学に準ずるようですが)。ということで「放送大学」に絞りました。  つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 放送大学 」キャンパスライフ1

2023-12-02 21:49:11 | 日記
 母を亡くし「四十九日忌」が終わるまで休足していた時、いろいろとつぶやいてブログを繋いできましたが、その際私が「放送大学」を卒業したということをお話ししたと思います。今回から歩紀と歩紀の合間を利用し、5年間の学生生活についてつぶやこうと思います。

 まず最初にお詫びしなければなりません。以前のブログで私が「大学に行きたい」と思い始めたのは「40才を過ぎてから」とお話ししましたが「30才」の間違いでした。歳を経ると本当に自分の年齢を間違いますね。遠い昔のことですから。申し訳ありませんでした。

動機について
 そんなに大した動機ではないのですが、まだ上手くまとめきれていないので今回はお話ししません。

放送大学との出会い
 「大学に行こう」と決意したものの働き盛りの30代ではどうしても時間が取れず「夜間(Ⅱ部)大学」は選択外としました。そのころ私はまだ放送大学の存在は知りませんでした。そして通信教育を行っているいくつかの大学に足を運んだり、資料を取り寄せて見たのですが、講義は通信で受講できるものの単位認定試験は試験会場に足を運ばなければなりません。そして例えばある私立大学の法学部では、土日に単位認定試験がある「刑法」を履修したくとも、その前提として「法学入門」という科目の単位を修得していなければ受講できず、その科目は平日にしか単位認定試験がないなどの理由により、通信制とは言えなかなか具体的な計画は進められませんでした。他の大学もほぼ同じような状況です。最初の「挫折」です。

 そんな時、新聞の4コマ漫画の下にある小さなスペースに「放送大学は正規の大学です」という広告を見つけたのです。4コマ漫画の2コマほどの本当に小さな広告でした。それが放送大学との出会いというか「発見」でした。  つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする