東京の田舎から

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ローマ教皇の来日を考える

2019-12-03 00:22:19 | 時事問題

本稿について、誤解を与えたくないので、最初に断っておく。

 すなわち、筆者はキリスト教を否定するものではなく、また、これを侮辱する意図はない。信仰は、誰にとっても大切にしたいものであり、また、何を信仰するかは自由であり、筆者ごときがとやかく言えるものではない。すなわち、信仰と、今回の教皇とは別物として論じている。

 

 過日、ローマ教皇(前は「法王」といっていた)が来日して、大歓迎されていた。しかし、「大歓迎」されるべき来日であったのであろうか? 筆者は、来日と、その発したメッセージに多大なる違和感を感じた。

 

 すなわち、ローマ教皇に言われるまでもなく、平和は大切である。しかし、日本のように、米国に守ってもらって、誤魔化しの平和にドップリと浸かって、それが「見かけだけの平和」であることさえ「忘れている」日本人が多いのである。ローマ教皇のメッセージは、これに付け込んで、世界の実情を無視して、平和の大切さを説いているように思えてしまう。教皇の言う通りに、米国の核の傘を捨てれば、日本はたちまちにして、チャイナに占領されてしまう可能性も高いのである。そのとき、教皇は何もしてくれないであろう。否、できないであろう。

 

 ローマ教皇は、来日して、長崎、広島を訪問して、平和を説き、核兵器の禁止を強調していた。そして、日本が米国の核の傘に守られていることまでを批判していた。しかし、日本の周辺は、チャイナ、北朝鮮が核兵器を保持している。北朝鮮は、花火大会の如く、何かというとミサイルを発射している。このミサイルに核爆弾を搭載して、日本に向けて来る可能性もゼロではない状況にある。日本は、今、核の脅威に曝されているのである。ところで、日本は、米国の核の傘を頼りにしていて安心している。しかし、米国は、自国が核によって被害を受ける可能性が生じれば、日本のために核兵器を使用することは躊躇するであろう。これは当然の論理である。そうなったとき、米国の核の傘は「案山子」である。それでも日本はこれを頼るしかないのが実情である。この状況から脱するには、日本として、独自に核武装するしかないのである。

 

 したがって、核兵器を禁止したいのであれば、ローマ教皇は、核兵器の保有国に行って、平和と核廃絶を説くべきである。日本で核利用や、核兵器の禁止を説くのはお門違いではなかろうか?

 

 今の日本の状況に当てはめて、判りやすく書くと、

日ノ本さんは、飛び道具を持った暴漢に襲われそうになっている。しかし、日ノ本さんは平和主義者であり、「無防備こそ、安全の要である」として、何も対処していない。しかし、暴漢は、論理ではない。「無防備なら攻撃してしまえ」と考えられても不思議ではない。暴漢側から見れば、無防備は「アホ」である。

 この「アホ」を「アホ」なまま存続させたいので、そのためにローマ教皇は来日したのではないかと勘繰ってしまう。

 しかも、長崎、広島は史上初めての原爆の被害を受けた。この原爆を落としたのは、米国であり、キリスト教徒が多数派の国である。まともに考えれば「アンタに言われたくない」と考えるべきなのではないだろうか? この原爆投下について、キリスト教徒が多数派の米国は、反省も謝罪していないどころか、「原爆の投下で戦争が早く終わった」とか、「戦争被害を少なくできた」などと核兵器の使用を肯定しているのである。

 そして、日本の隣にあるチャイナ、北朝鮮の核のこと、また、チャイナのチベット、ウイグルの人権侵害のこと、香港の混乱については言及さえしなかった。二本に対しては、これだけ理想論的なメッセージを発していることと対比すると、何か釈然としないのである。

 

 こうしたことを考えれば、ローマ教皇のいう、平和は、日本に核武装をさせないための戦略と疑ってしまうのである。

 加えて、教皇は、日本は「難民をもっと受け入れるべき」とも言っていたが、そもそも、難民は、キリスト教徒が多数派である欧米が、例えばアフリカ大陸を植民地化して、その国境線を勝手に変更して引いたところから、多くの民族紛争が起きているのである。アフリカの諸国の国境線が「直線」であるのは、この結果である。欧米がしたことが原因の全てとは言わないが、その傾向にあることは否定できない。そのために、今に至るも紛争が絶えず、難民が生まれているのである。その責任は、日本にはない。日本は難民を受け入れる責任はない。

嫌味として言えば、そんなに難民のことを心配しているのであれば、バチカンが受け入れてからであろう。

そのようなことで、ローマ教皇の言っていることは、きわめて勝手な言い分のように思えてしまうのである。

 さらに、帰国のときに、日本の原子力発電についても言及していたとのことである。まさに、世界での原発の稼働数を無視して、日本が原発を止めれば、日本は弱体化してしまう。ここでも教皇のいう事は釈然としないのである。 

 

 その昔、豊臣秀吉、徳川家康・徳川幕府はキリスト教を禁止していた。その理由は、日本の平和を維持している体制を脅かす脅威と受け取ったからである。

 例えば世界史の流れを見れば、その当時、キリスト教の布教を受け入れた国の多くが、植民地にされてしまった。その当時のキリスト教の宣教師は、当該国の民衆をキリスト教にして、白人の自由にできる国にして、その後に侵略軍が侵攻した。すなわち、キリスト教の宣教師は、侵略の先兵の役割も果たしていたという歴史もあったのである。

 このような歴史を考えると、今回の来日を素直に喜んで、拍手喝采して有り難がっていることに疑問と違和感を感じるのである。

  ローマ教皇は確かに大変な権威とされている。しかし、それは、時として、他国を弱体化させて侵略するために使われる権威でもあるように思われる。勿論、現在のキリスト教が、昔のように侵略の道具として使われているとは思いたくないし、また、教皇がそのようなことを意識して来日したかは覗いしれない。しかし、そのような見方もできることを忘れてはならないのではなかろうか?

 了