あめつちの便り「土の音」🌺
【ひとつぶの種から】
わずか一年の凶作が米(こめ)大騒動を生んだ。 緊急に東南アジアの貧農から奪うように米を輸入。
思い余った都会の主婦が自分で米を作ろうと自信満々耕地に白米をまいた。それを聞いた東北の農民女性が号泣したという。
彼女はもみ殻つきの玄米でなければ 芽が出ないことを知らなかった。
毎日食べる米がどこから来たのか、生かされる起源が西欧的肉食造病生活と機械文明の中で見失っていたのである。
玄米や玄麦、芋類や粟(アワ)、稗(ヒエ)、黍(キビ)などの雑穀を主食とする私は、鳥を飼っているのかと訝(いぶか)られることがある。
雑穀類は救荒食として古来重宝で栄養価も高い。日本人が米一辺倒になったのはつい最近だ。
米偏に白いと書いて「粕(カス)」、健康の元は「糠(ヌカ)」、玄米から「糠」や「胚芽」を除いた "カス" が白米だ。
有効成分を除いた白砂糖や精白塩と合わせて「三白(さんぱく)の害毒」を食し、医療費のために狂奔する文明人はお気の毒だ。
農薬無縁の自然農法で仲間と作った農作物や、野草などふる里の森からの恵みは甚大だ。
大量に産した一部を利用し残りを捨てるのでなく、虫が巣くうほどうまいものを残さず戴く「一物体食」は当然のこと。
仏典の「五観の偈(げ)」には、食事は食わんがためでなく真(まこと)の道を成さんがためで、食を受ける己の資格を省みてその源を知り良薬を服するが如く感謝せよ、との意が込められている。
先ごろ国内外の農を愛する人々が、いのちを守る「農民連合」を結成。
地域の風土に産するものと一体となる「身土不二」(しんどふじ)で自立する民が結集し、「ひとつぶの種」から "いのちの世界観" を広め、草の根自治で連帯する。
「自然保護」が美辞麗句として企業に利用される昨今、スリランカから世界各地に伝わり人間の普遍的価値に目覚めんとするサルボダヤ運動と並ぶ歴史的快挙だ。
今や自称文明人が自然と共に生きる人々に指導的立場をとれるはずはなく、できることがあるとすれば文明の失敗経験を伝え、彼らの死生観を自ら学び、自己を変革する以外に何があるだろうか。
開発援助の美名のもとに地球破壊の手法を輪出する前に、救われるべきは自称先進国側である。
コンティキ号の航海で民族移動説に新風を醸し出したトール・ヘイエルダールは、「楽園への切符は買うことはできない」と著している。
宝物は私たち自身にある。 自己の良心の発掘と実践は、文明人にとって大洋に船出しようとする小舟にも似ている。
孤独な大都会にはありえないダイナミックかつ繊細に移り変わるにぎやかな自然の営みを実感できる生活は、人間社会のみの狭く虚像的なストレスに対し、嵐や凪、闇(やみ)や星の動き、 潮騒(しおさい)や風の音や匂い、野生動植物との対話など、尾を引くことのない豊かなストレスが自己の生命にプラスの刺激を与えてくれる。
それらのつながりを自己の中に見つける時、手が合わさるのに気づく。
多様な生物種が共に活かし合い大自然の恵みに感謝する喜びが持続する社会は、自然体験を通じた自己把握とともに自然調和への進化を目指す自己への大航海に勇気の帆あげ「ひとつぶの種」をまくことに始まるはずだ。
(日曜エッセー「道標」北陸中日新聞1994.5.29)