:昨年代々木公園デング熱媒介蚊騒動⇒殺虫剤散布 ⇔『コバルト60』⇒照射⇒生殖能力消滅加工させた成蚊放流!?
その行く手に、とんでもない壁が立ちはだかった。それは、沖縄★在留アメリカ軍基地。「★内なる国境」だった。
しぶといデング熱『蚊』11月まで活動―殺虫剤散布や池の水抜き ...
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プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 8ミリの悪魔VS特命班/最強の害虫・野菜が危ない
天敵のいない沖縄の島々で、ウリミバエは大繁殖。次第に北上した。もし、本土に上陸すれば、日本の野菜全体が壊滅的な被害を受ける。日本政府は「植物防疫法」により、沖縄県からの野菜の持ち出しを厳禁した。
「沖縄全域からウリミバエを根絶しよう」沖縄県農業試験場の研究者を中心に、プロジェクトチームが結成された。リーダーは与儀嘉雄。農家の息子の植物防疫官だった。農家の苦しみを目の当たりにしてきた男の、必死の根絶作戦が始まった。しかし、農薬を持ってしても根絶出来ない最強の害虫を前に、プロジェクトは行き詰まった。ウリミバエは沖縄本島を席巻し、九州上陸は時間の問題となった。
「沖縄でウリミバエをくい止めろ」政府は、ウリミバエ根絶のため、思いも寄らぬ方法を沖縄県に提案した。それは、★放射線「コバルト★60」をハエに照射して、★生殖細胞を★破壊。★繁殖力を失ったハエを増殖させることで、何十年もかけて撲滅するという、気の遠くなるような作戦だった。
全てが手探りの中、沖縄の男たちと虫との壮絶な戦いが始まった。作戦が始まって一年、二年と過ぎる中、ハエが減り始めた。「これで、ついに撲滅出来る」プロジェクトが、そう確信した時、その行く手に、とんでもない壁が立ちはだかった。それは、沖縄在留アメリカ軍基地。「★内なる国境」だった。
★21年に渡る闘いの末、ウリミバエの根絶に成功。日本の食糧を守り抜いた沖縄の男たちのドラマを描く。
目次
二 沖縄本島上陸! プロジェクト結成へ
三 命運を託された害虫飼育工場
四 立ちはだかった米軍基地、そして本島決戦へ
抄録
異様な建物の正体
青い空と海が広がる沖縄。その玄関口、那覇空港から車で三〇分、道路がすべて古い石畳となっている美しい町がある。沖縄県那覇市金城町。四〇〇年前に栄えた琉球王国の町並みが、ところどころ当時のままに残っている町である。どこまでも続く白い石畳。両脇には、赤い瓦で屋根を葺(ふ)いた沖縄独特の民家が立ち並ぶ。琉球王朝時代に建てられた建物もあるという。
カツーン、カツーン、カツーン。石畳は歩くと心地よい音を響かせた。
「数百年前の琉球人も、同じ靴音をたてて歩いていたに違いない」
そんな感慨に浸りながら歩みを進めていると、突然、巨大な建物が目に飛び込んできた。それは、周囲ののどかな風景から完全に浮き上がっていた。縦横数百メートル。壁は一面のクリーム色。できた当初住民が、「政府の秘密基地ではないか」と大騒ぎしたのもうなずけるほどの異様さだ。しかし、これこそがいまから二九年前、日本を揺るがした恐るべき悪魔との闘いの前線基地となった建物だった。
悪魔の名前は「ウリミバエ」。世界最強、最悪の害虫だった。えじきとなる野菜はじつに二〇〇種。世界中で被害をもたらしていたものの、有効な退治方法はないといわれていた怪物だった。
未曾有の惨事発生
その悪魔は、沖縄が本土復帰を果たした★昭和四七(一九七二)年、突如海を越え沖縄の地に飛来した。そして、瞬く間に数を増やし、島が育む豊かな野菜を食いつくした。
キュウリ、トマト、ナス、カボチャ。さらには、トウガンやゴーヤー(ニガウリ)などの沖縄野菜も次々とえじきとなった。その結果、沖縄野菜の収穫量はウリミバエ上陸前に比べて激減してしまう。沖縄にとって未曾有の惨事となった。
このとき、沖縄の人々が受けた衝撃は察するにあまりある。沖縄には古来から、盆に沖縄野菜を供えて、先祖の霊を供養する習慣がある。沖縄野菜は、沖縄の人々にとって「魂の野菜」なのだ。
ウリミバエによって畑の★ゴーヤーが全滅した農家の人が語ってくれたそのときの様子は、まさに地獄絵図だった。
「朝起きると、まず畑に飛び出して、できたばかりのゴーヤーの実を割ってみるんです。すると、なかからうようよとウリミバエの幼虫が出てくるんですよ。もちろん、実のなかは幼虫に食い荒らされて、ぐちゃぐちゃです。その幼虫が、目の前で実を食いつづけるんです。『わが物顔で』という表現がぴったりでした。それを見ていると、悔しくて、憎くて、卒倒しそうでした。そんなことが毎日続きました。結局、その年、うちの畑のゴーヤーは全滅しました。ご先祖様に顔向けができない、と妻と泣き暮らしました」
日本中の野菜に迫る危機
しかし、ウリミバエの問題は沖縄だけに留まらなかった。沖縄中の野菜を食いつくすと、悪魔は不気味に北上を始めたのである。島づたいに九州、そして本州へと上陸する可能性が出てきた。そのときまでに増殖したウリミバエの数は、何と三億匹。日本中の野菜に壊滅の危機が迫った。
昭和四六(一九七一)年、切迫した命令が、農林省(現・農林水産省)から沖縄に発せられた。
「何としても沖縄でウリミバエの北上を食い止めてほしい。そして、日本の農業を守ってほしい」
この瞬間、日本中の野菜の命運が、沖縄での闘いの帰趨に託された。そしてまもなく、沖縄で悪魔と闘う特命プロジェクトチームが結成された。
プロジェクトのトップには、日本を代表する昆虫学者が派遣された。その下に、沖縄で生まれ育った男たちが集まった。
そのうちの一人、与儀喜雄(よぎよしお)は、プロジェクトに参加したときの身震いする感覚をいまも忘れられないと言う。
「よく、『武者震いじゃなかったのか?』と言われます。しかし違うんです。恐怖感でした。ウリミバエは、防疫に携わるものであれば、誰でも知っている悪魔です。その悪魔と、日本の農業の命運を背負って闘うわけです。勝ち目のない戦争に、一人打って出るような気分でした」
特命チームは、沖縄本島に闘いの前線基地をつくった。その基地こそが、冒頭で紹介した謎の建物である。そしてプロジェクトメンバーは、とんでもない退治方法で、悪魔との不眠不休の闘いに乗り出した。
その闘いの日々は、いまだに沖縄の人々の間で「第二の沖縄戦」と語り継がれる、壮絶なものとなったのである。
本土復帰前の期待
物語の始まりは、昭和四五(一九七〇)年にさかのぼる。
当時沖縄は、琉球政府と呼ばれていた。人々が話す言葉は、日本語。しかし、通貨はドルで、走る車は右側通行。戦後のアメリカ統治が続いていた。
この年、沖縄は沸きに沸いていた。前年一一月にワシントンで行われた日米首脳会談で、二年後の昭和四七(一九七二)年、本土に復帰することが正式に決まったからである。
沖縄の人々は、本土復帰を長く切望していた。それは、「復帰によって、沖縄と本土の経済格差を埋めたい」という切実な思いからだった。
当時、沖縄の平均所得は、本土の三分の二に過ぎなかった。沖縄がアメリカに占領されていた一九六〇年代、本土だけが未曾有の経済成長を遂げていた。
「復帰したからといって、とてもその差はすぐには埋まらない」
当時、本土の人間の多くはそう考えた。しかし、沖縄には切り札があった。
温暖な沖縄では、一年を通して野菜が取れた。キュウリ、キャベツ、カボチャ、ピーマン。本土では珍しいゴーヤーやトウガンなどの沖縄野菜もあった。沖縄野菜は、本土の野菜に比べ気候条件などに恵まれているため、桁違いにビタミンが豊富だった。しかもいくらでも取れた。
「沖縄野菜は、間違いなく新しい産業に育つ」 県民の期待は膨らむ一方だった。