くもり のち あめ

うしろ向き、うしろ向き、たまに、まえ向き。

見えない

2008-09-22 16:01:59 | 日記
南国の静かなビーチでぼんやりと過ごしたいなと、
たまに思ったりする。

それでは、住むところも、食事もすべて面倒をみますから、
一生その南国のビーチで生活してください、といわれたらどうだろう。

最高の海と、死ぬまで平穏でいられる時間を手に入れたのはいいが、
はたしてその時間の流れに耐えられるだろうか。

一週間だな。
自分の場合、一週間経ったらきっと飽きてしまうだろう。

日々の生活の中に、
ときどき南国のビーチが現れるから魅力的なのであって、
毎日南国のビーチにいたら、
高層ビルと雑踏が魅力的に見えるのかもしれない。

常にない物ねだりなのだ。
だから永遠に満たされない。

仏教などではそういう考えに対する
答えなどは出ているのだろうか。

平和を願う一方で、
どこか破壊的衝動というか、
混乱を期待している自分がいるのに気がつくときがある。

根本的に人間はそういう性質を持っているから、
だからニュースは悲しいものや残酷なもの、
ミスや事故ばかりがたくさん流されて、
微笑ましい平和な報せや、
誰かが頑張っている姿はあまり流されないのだろうか。

何かのシステム障害や、医療事故が発生した時は
大々的に取り上げるけれど、
毎日死に物狂いで頑張っているエンジニアや医師、
また、その他職業の大勢の人達の姿は
ほとんど取り上げられない。
過労死するとたまに取り上げられる。

いま子供達の目に入るのは、
そんな悲しいニュースばかりなのではないだろうか。

ニュース番組も同じ時間帯に見たら、
どの局もほとんど同じ内容だ。

どこか1つの放送局でも、
いいニュースや明るいニュースしか流さない
ところがあってもいいのに。

そんなの誰も見ない。
数字が取れない。
お金を出すスポンサーもつかない。

今の世の中じゃ無理なのかな。

そんなこといっても自分が子供の時だって
同じような状況だったのだから、
関係ないといえば関係ないのか・・・。

ひたすらに利益を追求する社会で、
そのおかげで自分も生きられているわけで、
恩恵もかなり受けているのだろう。

だけどひたすらに利益を追求するということは、
例えば家を造って売る場合、
そこに住む人たちの顔を思い浮かべて、
職人がひとつひとつ思いを込めて作るというのでは
手間も時間もかかって仕方ないだろう。
だから企業は安くたくさん作って、いかに高く売り利益を生み出すか。
その人のためではなく、利益を上げるために仕事をする。

かなり極端な例だけれど、
そういうことのような気がする。

心じゃなくてお金優先。

でもここまで成長した社会というのは、
もう、いまさらどうしようもないし、
自分もその歯車の一つなわけで、
否定することもできないなと思ってしまう。

おまけに結局答えは出ないし、
ただの愚痴になっている。

不平不満を見つけても、
で、どうすればいいのよ?
と自問自答してもその先は見えない始末。