山手線は正式には”やまのてせん” といい、語呂的に”やまてせん”と呼ばれることもあるようです。
正確に言うとやまのてせんだった時代もあり、やまてせんになった頃もあり、やまのてせんに戻ったということのようです。
路線的には・・ 運行系統としては・・ などムズイこともあるようですが、素人には東京主要駅を巡る緑色の環状線との理解でまったく困らないですね(*´Д`)
ただ、これも歴史的経緯でいうと後先逆のようです。
山手線が主要駅を廻ったのではなく、山手線に接する地にターミナルが形成された・・が正しいようです。
”東京15区は東京市電のエリアにつき私鉄の乗り入れまかりならん。ただし、地下をもぐってくるのは許す。”
ということらしいです。
そのため無理に中に入り込むより山手線の乗り継げるところにと、一極集中を避けて大きな街が形成されたんですね。
それが東京の発展に直接つながったんでしょう。何が幸いするかわかりません。
そもそもの発祥はというと貿易港横浜から内陸諸都市に物資を運ぶための貨物線だったようです。
もちろん環状運転ではないです。
いろいろな変遷を経て、現在都下を運行する環状動脈に発展しました。
巣鴨駅付近を見ると一段低い地を走ります。
池袋方面を望む
上野方面を望む
勾配を抑えるため台地部分を掘り下げたんでしょうね。
大土木工事です。
貨物併設の複々線で、現在は湘南新宿ラインの運行もあります。
また、これだけの幅の言わば”空堀”の新設で大きな通りは架橋したでしょうが、切断された里道も多かったことと思います。
平地と同じ高さの部分には平面交差である踏切も残ります。
内外回りの山手線の隙を突いて通過するって大変なような・・('ω')
(上)うまく写せません。”とまれ”と”進入禁止”標識間の写ってない部分が踏切です。
(下)同じ踏切です。(第二中里踏切)
そしてその昔、山手線の巣鴨界隈設置が決定した頃、騒ぎを嫌って脱出した・・もっと厳しい言葉でいうと”逃げ出した”大物要人が巣鴨に住んでいたんですね・・つづく